聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問50-51「神の右の座への即位」使徒二32-33

2017-01-29 16:34:23 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/29 ハイデルベルグ信仰問答50-51「神の右の座への即位」使徒二32-33

 牧師になって、初めて教会に来て信仰に関心を持つ方からよく聞かされたのが、

「神の右」って何のことですか?

という質問です。礼拝の使徒信条でも毎回言いますね。

「主は…天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」

 でも、神の右ってどこなのでしょう。左もあるのでしょうか。あるならそこには誰がいるのでしょう。そんな質問に答えてくれるのが、今日のハイデルベルグ問50です。

問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。

答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになるためであり、この方によって御父は万物を統治なさるからです。

 ここでは、神の右が

「教会のかしらであることをお示しになる」

場だとあります。神は霊ですから、右も左もありません。「イエスが神の右におられるなら、神はイエスの左におられる」-そういうことではなく、「右の座」とは神から権威を委ねられて、神の支配権を委ねられた、ということです。皆さんの中に左利きの人もいるでしょうか。左手を自由に動かせる人はすごいなぁと思います。左は苦手で、右手の方が動かしやすいという人が多いですね。ですから、右と言えば、力や権威、正しさ、真実などを表すのです。神の右の座とは、神の栄光や支配を任される位です。王の世継ぎ、皇太子が座るのが右の座です。イエスが神の右の座に着かれたとは、イエスが神の御子として、神の権威を与えられて、すべてのものを治めておられることを指しています。

エペソ一20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 ここに特に「教会にお与えになりました」というのが先ほどの

答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになるためであり…

とある事と繋がっています。キリストが神の右に座しておられることは、特に、教会のかしらとして、万物を治めておられる、というのです。それがこう続きます。

問51 わたしたちの頭(かしら)であるキリストのこの栄光は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方がその聖なる御霊によって、御自身の部分であるわたしたちの中に天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そして次に、わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる、ということです。

 ここで大事なのは、イエスが神の右の座に着かれたことは、私たちから遠く離れた、天のどこかで座ってしまわれた、というのではないのです。イエスが神の右に座しておられることは、私たちを治めておられること。私たちに天からの賜物(恵み)を豊かに注ぎ込んでくださっているし、また私たちをすべての敵から守り支えてくださる。そういうことなのだ、と言うのですね。先ほど読んだ使徒の働きでペテロは言いました。

使徒二32神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 このペテロは少し前には臆病で、大きな失敗をしてしまった人でしたが、ここでは大胆に大きな声でイエスの証しをしています。それは、ペテロ自身が、神の右に上げられたイエスに聖霊を注いで戴いて、力をもらっていたからです。もう一つ、使徒の働きの七章では、ステパノがイエスを証しして、殺される出来事があります。その時、殺されようとしていたステパノは、天を見上げてこう言いました。

使徒の働き七56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 ここでイエスは、人の子が神の右に「座って」ではなく

「立っておられる」

のを見たのですね。

イエスは、神の右に座って、ステパノが殺されようとしているのも構わずに、のんびりゆっくりしておられたのではないのです。ステパノを見て立ち上がっておられました。今も私たちを、身を乗り出しておられ、私たちのために執り成して働いておられるのです。それほど強い繋がりがあるからこそ、私たちはイエスが「神の右に座しておられる」と告白するのですね。それは私たちにとっての慰めであり、希望です。

 この強い繋がりをここではイエスが私たちの

「かしら」

であり、私たちはその

「部分」

と言って表現しています。これは「頭」と手や足や身体の諸部分のことです。英語ではメンバー、日本語では「器官」とか「肢体」という言葉がありますが、ちょっとピンと来ません。頭と手や足や目や鼻などのように、ひとつのからだになっていることです。聖書はこの繋がりを色々な表現で伝えています。羊飼いと羊もそうです。イエスは私たちを養い、私たちを守ってくださいます。水や牧草を与え、狼や泥棒は追い払ってくださいます。またぶどうの木とその枝というのも、そうです。私たちはぶどうの枝が幹につながるように、イエスに結びつけられ、養分を戴いています。枯れているように見える枝も、水を吸い上げて、ゆっくりと葉を茂らせ、時が来ると実を結ぶのです。イエスが教会のかしらであり、私たちがその部分として、一人一人に命や賜物を豊かに恵まれている…それは、そのように豊かなことです。イエスが神の右に座して、私たちを治めておられるとは、体や羊飼いやぶどうの木や、様々なイメージで豊かに伝えられるほど、本当に生き生きとしたことです。

一つ二つの例えでは言い尽くせないほど、私たちが教会の一員とされて、ここにいることはかけがえのない事実なのです。私たちは、神の右に座するイエス・キリストをかしらとする教会のメンバー。そう告白しましょう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「詩篇 心から神に歌う」詩篇一一一篇

2017-01-29 16:22:35 | 聖書

2017/1/29 「詩篇 心から神に歌う」詩篇一一一篇

 毎月一回、聖書の六六巻から一つの書をお話ししています。今月は、聖書同盟の聖書通読表で詩篇一一一篇が今日の箇所になっていますので「詩篇」を取り上げましょう。聖書をパッと広げると真ん中にあるのが詩篇です。一五〇篇もある長い本ですので、開きやすいでしょう。この詩篇の素晴らしさを改めて知って、是非皆さんの毎日に詩篇を親しく読んでほしいのです。

1.詩篇一一一篇 ハレルヤの詩篇

 今日の詩篇一一一篇をじっくりと読むと、ここでは主への感謝と、主の御業への賛美が力強く歌われています。また、過去の歴史において実際になされた出来事を思い起こして、主に信頼することの確かさを歌い上げています。とても楽観的で、信頼に満ち、敬虔で、神への疑いは全くありません。曇りなく、神への賛美を歌い上げています。最後の、

10主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。

は、詩篇でありながら、次の「箴言」のようにさえ思える格言的な響きがあります[1]。この詩篇一一一篇から一一八篇までは「ハレルヤ詩篇」と呼ばれるひとまとまりで「ハレルヤ」(主(ヤハ)を誉め称えよ)という言葉が特徴になります。主を誉め称え、その御業を賛美する色彩が強い詩が続いて並べられていくのです。主の御名を賛美するようにと呼びかける詩。それも詩の形で、イメージ豊かに、リズミカルに、私たちの心を目覚めさせるような言葉遣いでです。これもまた詩篇に特徴的な素晴らしさです。詩篇の中には、このような美しい詩が沢山あります。また、詩篇には私たちの信仰を励まし、慰めてくれるような美しい言葉が沢山あります。皆さんも詩篇に愛唱している言葉があるという方がいらっしゃるでしょう。また、礼拝においても、招詞や交読で、詩篇の言葉を使うことは、教会の初期から始まっていた大事な伝統です。詩篇がキリスト教会を育ててきた、と言っても過言ではありません[2]

 しかし、かといって、詩篇にはそのような恵みや明るい言葉ばかりがあるわけではありません。むしろ、こういう確信や勝利感に満ちた詩は要所要所で柱をなしつつ、それ以外の詩が多いのです。詩篇を読み進めるならば、このような神への純粋な賛美の言葉に励まされ、慰められ、教えられる事もある一方、ドキッとするような毒々しい言葉も出て来ますね。この前にある一〇九篇はどうでしょう。

 どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる物が彼の右に立つようにしてください。

 7彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。

 8彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、

 9その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

と以下続いていくのです。こういう「呪い」の詩篇[3]や「嘆き」の詩篇[4]もあります。むしろ、感謝や賛美や嘆きや知恵と分類していくと、詩篇に一番多いのは「嘆き」の詩篇だそうです[5]

2.嘆き、復讐、呪いも赤裸々に

 詩篇には、明るく美しい信仰の言葉ばかりではなく、涙や悲しみ、不安や恐れなど様々な感情が出て来ます[6]。私たちの心に浮かぶ赤裸々な心情が出て来ます。人生に起こり得る不条理や闘いなど様々な出来事が想定されているのです。私たちが読んで戸惑い、目を背けて素通りして、綺麗な言葉だけにして済ませたい。そういう言葉の方が詩篇には多いのです。詩篇そのものが私たちにとってのチャレンジです。私たちの信仰理解を、斬新な形で改めてくれます。

 勿論、詩篇の激しい呪いの言葉は、私たちに人を呪うことを勧めているわけはなく、私たちのうちにある復讐心を正当化するわけではありません[7]。しかし、聖書はそういう復讐を求めずにはおれないような出来事がないとか、そんな出来事が起こっても絶対怒ったりせず平安で賛美をして相手を赦しなさい、とも言いません。神を信じる者にも、ひどい出来事は降りかかるし、心を打ちのめされて、嘆いたり叫んだりせずにはおれない出来事も起きる、ということです。私たちは、神を信じていれば、神が健康や幸せや生活を守り、願いを叶えてくださると思いたいのです。信仰があれば、貧乏や裏切りや災害に遭わず、病気や笑いものになることもない。そう思っているつもりはなくても、どこかでそう思っています。そして、そういう時に引き起こされる自分の中の怒りや被害者意識、不公平感、妬みや孤独といった「負の感情」も見つめたくないし、認めたくないのです。そんな恥ずかしい思いには蓋をして、明るく信仰的に振る舞って、神も音便に事を運んでくださればいいのに。そんなぐらいに思うのです。[8]

 しかし、詩篇は嘆きや呪いや怒りを祈ります。それも、実に強烈に、遠慮なく、神にぶちまけています。負の感情に蓋をして腐らせて、心が全部臭くなって爆発する前に、自分自身を神に差し出しているのです[9]。詩篇の詩人は、神の前で「敬虔な信仰者」であろうとはしませんし、自分の負の感情を「罪」として悔い改めることで解決しようともしません。そうした感情をあるがままに正直に神に差し出しています。詩篇は神を信じる人にも、病気や災難、暴力や恥がふりかかる事実を示しますし、その時に人の中に沸き起こる負の感情があることもストレートに伝えています。そして、そのような思いをありのままに祈り、神に訴えて祈ることが出来る事にこそ、神の民のユニークさがあると気づかせてくれるのです。

3.「心を尽くして」

 イエス・キリストご自身、詩篇を歌われ引用されましたが、ルカ二四44でこう言われます。

…わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する…

 詩篇にはイエスのことが書いてあって、それが全部成就したというのです。詩篇とイエスは結びついています。詩篇を読めば、イエスがもっと分かるのです。率直な所、今日の詩篇一一一篇のような力強い詩と、一〇九篇のような呪いの詩が隣り合わせにあることに私たちは戸惑わないでしょうか。この当惑は私たちの人生そのものが、単純に割り切れないもの、当惑と確信とが入り混じっている事実に通じています。詩篇は、主の御業の偉大さやその憐れみ深さも、実際にこの世界に働いていることを知っています。だからこそ、世界で悪がはびこっている現状を赤裸々に嘆いています。イエスの十字架の死は、まさにそのような賛美と嘆きでした。イエスは十字架の上でも、詩篇の言葉で祈られましたが[10]、私たちにも本当に深く、心からの神への叫びや、真実な祈りを捧げる関係をそこで下さいました。今日の詩篇一一一篇にも、

 1ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

 2主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。[11]

とあります。口先での感謝や祈りや賛美から、心を尽くして主に感謝するようにと詩篇は私たちを招いてくれます。主の御業がどれほど偉大で、喜ばしいか。その事実を生き生きと教えてくれもします。同時に、それとは全く違う真っ暗な現実と、そこからの嘆きも聞こえます[12]。こういう詩篇を、主は私たちに与えてくださいました。主が、私たちに祈りを下さるのです。詩篇は、祈りは主が下さることと、それがどれほど豊かな心からの交わりであるかの証しです。

 考えてみて下さい。主は祈りを詩の形で下さいました。堅苦しい挨拶文でもなく、仰々しく美辞麗句を連ねる畏まった賛辞でもありません。主は、川辺の果樹や羊の群れや大空や涙など、身近なイメージを用いた歌を下さいました。主は、聖書に詩篇という素晴らしい詩集を入れてくださいました。イエスは詩篇が描く豊かな信仰を、ご自身の生涯において、豊かに示されました。そして、そのような涙と希望の混じった信仰を私たちにも下さり、更に加えて

「主の祈り」

まで下さいました。私たちは詩篇を字面通りなぞるだけではなく、心から神に祈る者とされるのです。詩篇を読み、それが私たちの祈りであって、私たちの嘆きも喜びも願いもそこにあることに気づき、神に結ばれた心を新しく豊かにされる。詩篇にはその恵みがあります。[13]

「主よ。詩篇を通して、あなた様が私たちに見せてくださる信仰の世界が豊かで、命に満ちたものであり、あなたがどれほど私たちを知っておられるかを教えられます。小さく冷えた、貧しい祈りを、いいえ、どう祈れば良いか自体分からずに戸惑う私たちを、主が下さった詩篇の贈り物によって広くし熱く燃やして、あなた様の恵みを、正義を、御業を求めさせてください」



[1] この一一一篇と一一二篇は対になっており、どちらも「アルファベット詩」の構造を取っています。

[2] マルチン・ルターは詩篇を「小聖書」と呼びました。

[3] 呪いの詩篇はこの他に、三五篇など。

[4] 有名な嘆きの詩篇は、八八篇。

[5] 「人間としての極限状況で起こる出来事は、わたしたちに都合のよい平静な状態を脅かし崩壊させるものですが、それこそがわたしたちの中に激しい感情を満たし、力強い言葉を生み出すものであることが、多様な方法で示されています。このように、詩編は殆どの場合、わたしたちが生活の中で経験したことに強いられて、情熱を込めて力強く聖なる方へと語りかけるようになったという出来事を、反映しているのです。」W・ブルッゲマン『詩篇を祈る』(日本キリスト教団出版局、吉村和雄訳、2015年)二八-二九ページ。

[6] 「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常として来た。なぜならば、あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念は、ひとつも存在しないからである。さらに言うならば、そこにおいて聖霊はあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、疑い、望み、慰め、惑い、そればかりか、人間の魂を常に揺り動かす気持の乱れを生々と描き出している。聖書のほかの部分に含まれているのは、神がそのしもべらに命じて、われわれに宣べ伝えせしめられたもろもろの教えである。しかし、ここにおいて預言者たちは神に語りかけつつ、その内的心情のすべてを打ち明け、その限りにおいて、われわれひとりびとりに自分自身を反映するようにと呼びかける。あるいはむしろ、そのように導く〔という方がよいかも知れない。〕それはわれわれにつきものの弱さ、また、われわれのうちに満ち溢れているもろもろの悪徳が、ひとつとして隠れたままで残ることのないためである。」カルヴァン『詩篇注解1』六-七ページ。

[7] まして、教会やキリスト者が他のグループや敵を呪って罰する事が正義だと考えるのではありません。

[8] 祈りは「神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」(ウェストミンスター小教理問答98)です。願いを神の間に置いてしまうのです。願ってもいないことを並べ立てることでもなければ、願っていることは自分の願いとして握りしめていることでもない。詩編の赤裸々な祈りはそれを示してくれる。

[9] 怒りも表出されている。怒っても罪を犯してはならないし、怒りは罪に根ざし、罪を産むことは多い。しかし、怒りを抑え込み、憎しみがないふりをしても、何の解決にもならない。怒りを祈りの中に持ち込むことで、彼らは憤怒や憎悪をコントロールし、神の前に生きることが出来る。神を忘れた故に怒り、神のようにふるまうのではなく、神を神とし、自分は神ではないことを弁えつつ、自分の中にある怒りを神にぶつけて、謙っているのである。カインの轍を踏まないのである。

[10] 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、詩篇22篇1節の引用です。ただし、そのままの引用ではなく、イエスの状況によって、新しく言い換えられています。

[11] 「この二節の主題が、英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ記念研究所の玄関に彫り込まれていると聞きます。幾つもの科学的発見を世界に発表した同研究所のモットーと。」小畑進『詩篇講録(下)』(いのちのことば社、2007年)六七九ページ。

[12] ブルッゲマン「詩編はわたしたちに対して、次のことを断言しています。つまり、わたしたちが祈り、礼拝する時、自分自身の人生の旅路の持つ深みを悪く考えたり否定したりはしないようにと、期待されているのだということを。むしろわたしたちは、それを隠し立てせず、信頼をもって差し出すことを期待されているのであって、それ故にそれは聖なる方に向かって力強い言葉で情熱的に語りかけられるものとなり得るのです。もしわたしたちが、この、語られていることと人生との経験との間の結びつきに、真実に注意深くあるならば、自分とはまったく違う状況の中にいる兄弟や姉妹と一緒に、ひとつの祈りを祈っている自分自身を見出すでしょう。これらの他の人たちの言葉はわたしたちのものとは少し違うニュアンスを持っているかもしれませんが、しかし彼らもまた自分の人生の中で、逆境で方向を見失い、新境地でそれを再び見出すという生々しい体験をしているのです。それ故に彼らも、元気さを取り戻して聖なる方に語りかけられるこの声に、自分たちの声を合わせるのです。」、四五ページ。

[13] 「イスラエルの共同体が集まって祈りをささげる時に、その言葉、その声、その原動力を与えたのは詩編そのものだったのであり、詩編こそが預言者たち、「知恵文学」の人々、歴史書の著者たちを生み出し、それらを形作ったのである。まず詩編が最初に存在したのであって、預言者たちはそのあとに続いたのである。祈りという内面的な行為が宣教という外的行為に先行するのである。」ユージーン・ピーターソン『牧会者の神学』五五ページ。彼の力強い「詩編論」は、同書四九-五七、六八-八三ページを参照。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問49「もろもろの天よりも高く」エペソ四1-10

2017-01-22 16:52:52 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/22 ハイデルベルグ信仰問答49「もろもろの天よりも高く」エペソ四1-10

 今読んだ言葉は、イエスが十字架死の前日に、弟子たちに仰った言葉です。御自身が十字架にかかり、復活した後、天に昇られることを予告しつつ、約束されたのです。

ヨハネ十四2…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 あなたがたのために、場所を備えに行く。これはイエスが天に行かれた大きな目的の一つです。これは本当に尊いお約束です。それはイエスが大工になって家を作ってくださるとか、ブルドーザーで開墾して、これから場所を作る、という意味ではないのでしょう。むしろ、大事なのは、私たちがイエスとともにいさせていただけることです。ではイエスが天に昇られたことを、もう少し詳しく、どんな恵みか見てみましょう。

問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方が天において御父の面前でわたしたちのとりなし手となってくださる、ということ。第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭(かしら)であるキリストがその部分であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる、一つの確かな保証であるということです。第三に、この方がその保証の担保として御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなくキリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。

 ここでは三つのことが言われています。第一に「執り成し手」であること、私たちのことを天の父なる神様に届けて、間を取り持ってくださることですね。先程のイエスの「あなたがたのために場所を備えに行く」という言葉でも、イエスは「場所を備えに行ってあげるから、あなたがたは一生懸命良いことをしなさい」とか「罪を犯さず頑張りなさい」とは仰いませんでした。私たちは、罪や間違いを離れるよう成長したいものですが、たくさんの間違いや失敗もするのです。完璧に生きる事は出来ません。

Ⅰヨハネ一10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
二1…私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。

 イエスは私たちの弁護士になってくださいます。映画や現実では、弁護士と言えば、お金のために旨い言葉で法廷を丸め込んで悪人も無罪にしてしまう、ブラックな弁護士も想像できますが、イエスは違います。罪は罪とするのです。私たちが悪くないとかばうのではありません。イエス御自身が私たちの罪の供え物となってくださったから、私たちは赦しに与れるのです。イエスは天に昇られて、神の御前で私たちの執り成し手となり、天に受け入れてくださいます。
 第二に、キリストは私たちの「かしら」ですから、キリストが天に行かれたことは私たちも今、天に属しているのです。
 そして、第三に、聖霊が私たちに送られていて、その聖霊のお働きによって私たちは今、地上の事ではなく、天上の事を求めるようにされている、と言います。この二つについては、

コロサイ三1こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

 2あなたがたは、地上のことを思わず、天にあるものを思いなさい。

 3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

 私たちは実はもう天にいのちと身体を持っている。イエスが私たちのために死んでよみがえり、天に昇られたとはそれぐらいの事なのだ、というのですね。そしてそれ故に、今私たちは、この地上の事しか考えない生き方ではなく、天にあるものを思いながら生きなさい。いつかは終わり、いつなくなるか分からない人生が全てであるかのように生きないで、天の住まいを待ち望みながら、楽しみにしながら生きなさい、と言われるのです。そして、天上の事を私たちが求めるようになるために、イエスは天から聖霊を送って下さり、私たちの心を天に向けて開いてくださったのだ、というのです。今ここにいる私たちのために、キリストが天で執り成しをしておられます。また、私たちの身体は今、天にあるとまで言えます。そこから送られた聖霊が、私たちの心を天に向けて、高い志を下さいます。まるでキリストが天に行かれたことで、私たちと天とが結ばれたような、そんな繋がりが感じられます。イエスは、本当に私たちと天との結び目となってくださいました。橋渡しをしてくださいました。私たちと同じ人となったイエスが天に上げられたのは、私たちに対するそういう生き生きとした保証だというのです。

 キリストが昇天された時、天を見上げている弟子たちの所に、二人の御使いが来て、

使徒一11…「なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

と言いました。キリストは天に上られましたが、私たちはボーッと天を見上げるのではなく、天を見上げつつ、自分の生活を張り合いをもって生きるのです。

これは、私の父の世界。
私が決して忘れないようにしてください。
どんなに悪が強く見えても神が支配者であられるということを。
これは、私の父の世界。
闘いはまだ終わっていないが死を味わったイエスが満足なさる時が来る。
天と地の一つになる時が。

(マルトビー・D・バブコック)『わが故郷、天にあらず』(p.8)

 天を見つめて生きるとは、この世界を嫌ったりいい加減にすることではありません。キリストは私たちのために天に上られたのです。今私たちは天のイエスを頭として、この世界で生きていくのです。イエスが天におられることを思い出しましょう。

ですから、広い空を見上げましょう。徳島の広い空を見上げて、心も広くしていただきましょう。そして、イエスが今も私たちを支えて、やがておいでになる日のことを思いましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「礼拝⑩ 天にいます私たちの父」マタイ3章13-17節

2017-01-22 16:36:45 | シリーズ礼拝

2017/1/22 「礼拝⑩ 天にいます私たちの父」マタイ3章13-17節

 今日も「主の祈り」を祈りました。ウィークディの集会でも最後に「主の祈り」を祈ります。イエスは私たちに祈りの手本として主の祈りを下さいましたので、私たちはいつでもこれを手本に祈れば良いのです。今日から改めてこの祈りの素晴らしさに教えられたいと思います。

1.福音のエッセンスのエッセンス

 ある方は「主の祈り」を

「福音のエッセンス(凝縮)」

だと言い、更にその冒頭の

「天にいます私たちの父よ」

という呼びかけを

「福音のエッセンスの中のエッセンス」

と言ったのだそうです[1]。私たちが神に向かって、

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかける、その事がまさに「福音」の本質をギュッと詰め込んだことだ、というこの言葉は、私にとっては忘れがたいものとなっています。

「天にいます私たちの父」

 神をそうお呼びできるとは何と幸せな事でしょうか。特に日本人として、それが本当に恐れ多いことを忘れずにいたいと思うのです。

 日本人や多くの文化では、神を自分たちと同じような、世界の中にある存在として考えます。ですから、神を父と呼ぶことにあまり違和感も有り難みも持ちません。同時に、その関係そのものも曖昧で、そのうち何かあればまた親子の縁を切られて、終わってしまうかもしれない。そういうものとして受け止めるのではないでしょうか。これとは反対に、聖書の示す神は自分たちとは絶対的に違う、世界の創造主であり、永遠で、正しく聖なる存在なのです。その絶対的な違いを弁えずに神に軽々しく近づこうとしたり、神を引き下ろして卑しめたりすることは大変な冒涜なのです。聖書の回りの世界では、神や王を「父」と呼ぶことは普通になされていました。しかし、聖書の前半、旧約聖書の時代には、大いなる神を父と呼ぶことは慎まれています。聖なる聖なる聖なる神を、親しく「父」と呼ぶなんて、滅相もないことだったのです。

 この事にはもう一つの面があります。聖書の周囲の世界で神を「父」と呼んだ背景には、父という権威が、暴力的で、恩着せがましいものだった事があります。多くの家庭で父親が、自分の罪や不安の問題を解決できないまま、権威を振るう現実は当時からありました。宗教が神を「父」と呼び、王が自ら国民の「父」を名乗り、押しつけがましく権威を振るうのも、そういう「家父長制」の延長です。聖書は、神が自らを「父」として、民に押しつけることはしませんでした。皆さんにも「父」との問題で苦しんだ方はおられるでしょう。神を「天の父」と呼ぶことが「福音のエッセンス」どころか、そう聴いただけで嫌悪感を覚える方もおられるかも知れません。神は、そのような人間的な歪んだ、暴力的で怒らせると怖い、あるいは家庭を養う責任を放棄する「父」とは違うお方です。その事を踏まえた上でおいでになったイエスは、驚くべき事に神を

「天にいます私たちの父」

と呼ばれました。人間的な父親とは全く違う、

「天にいます私たちの父」

としてくださったのです。[2]

2.「あなたはわたしの愛する子」

 「主の祈り」の前後の「山上の説教」で、イエスは

「天にいますあなたがたの父」

という呼びかけを唐突に与えられました。これは本当に聖書の世界では、冒涜とも取られかねない、驚くべき大胆な宣言でした。イエスの回りに集まった、まだ自分の罪も福音も何も分かっていない人々に、神を

「天にいますあなたがたの父」

と呼ばれ、その子どもとしてのあり方を示してくださったのです。イエスの教えは、神の家の「家訓」です。でもそれを守れば神が天の父となってくださる、という「条件」でもありませんし、それを守らなければ神の家から追い出されて、私たちに神を父と呼ぶ資格は剥奪される、というのでもないのですね[3]。なぜなら、そのような条件や資格に縛られた限界ある関係は、本当の「親子関係」ではないからです。

 マタイの福音書では、イエスが神を「天にいますあなたがたの父」と呼ばれる以前に、イエス御自身が神の子、神との親子関係におられたことが確認されています。今日読みました、三章の洗礼、イエスがメシヤとしての公の働きにデビューされる最初の場面でも、イエスは、

三17…天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 神が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とイエスを宣言されました。しかし、次の四章の「荒野の誘惑」ではサタンが

「もしあなたが神の子なら」

とその事実に揺さぶりをかけて来ます[4]。十字架の上でも、イエスは道行く人々に

「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」

と嘲られました[5]。こういう誘惑や挑発に流されることなく、イエスは最初の

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」

との言葉から離れませんでした。天の父が自分を喜び、愛しておられる事実は変わることがないと信じ続けました。神が自分を我が子として愛し、喜んでいてくださる。そういう確信をイエスは持たれました。そして、神の深く揺るがないそういう父の愛を信じるイエスが、集まった群衆たちにも、

「天にいますあなたがたの父」

と仰り、

「天にいます私たちの父よ」

と祈るよう仰ったのです。イエスと神との関係が土台となって、私たちもその深く揺るがなく、人間の親子関係よりも遙かに素晴らしい神との親子関係を戴いたのです。今、私たちも、

「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」

と言われています。人が「もし神の子なら…」と疑い証明を求めても、ひるむ必要はないのです。[6]

3.「神の子」だけが残る

 神が私たちの天の父となってくださった事は、そういう確かで永遠の約束です。

エペソ一5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 神のご計画は、私たちをイエス・キリストによってご自分の子としてくださることでした。神は私たちの父として、私たちを養って、教え、模範を示し、成長させてくださるのです。私たちが祈るのは、神の子どもとされる御心のゆえに

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかける祈りですし、そう呼びかけることを通して、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

として知らされていくのです。だから、私たちが

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかけなければいけないとか、調子に乗って馴れ馴れしすぎると逆鱗に触れるとかいうことではないのです。

 主イエスは、小さな子どもだけが使う

「アバ」(父ちゃん、パパ)

という特別親しい言い方で、天の父に呼びかけられました[7]。使徒パウロは私たちも御霊によって「アバ、父」と呼びかけるのだと言いました[8]。幼子のような親しさと、全幅の信頼を込めて、私たちは「天の父」と呼びかけるのです。時代劇なら「有り難きお言葉、勿体のう御座います」とますます平身低頭する話でしょう。額面通りに自分は将軍の家族だなんて図に乗ったら、首をはねられますが、クリスチャンは額面通り、神を私たちの父と呼ぶのです。神こそは本当の私たちの父だと全面的に信頼するのです。なぜなら、神のひとり子イエス・キリストがその関係の中に私たちを招いてくださったのだからです。私たちが、神の子どもとなり、神に似た者として成長していくことこそ、神の永遠からのご計画なのです。確かに私たちには、今、神の子らしからぬ罪や問題があります。でもそのような私たちの生き方のせいで、神が私たちの父であることを嫌がったり距離を置いたりはなさらないのです。神が私たちをご自分の子にしようと定められたのだからです。不完全な父親の問題も、天の父に解決して戴くのです。やがて罪や問題はすべて取り扱われて、私たちが神の子どもである、という事実だけが永遠に残る時が来るのです[9]

 イエスは私たちに「天にいます私たちの父」と呼びかける恵みを下さいました。礼拝や祈りでそう呼ぶことで、私たちは自分が今この父と御子、そして聖霊の交わりにもう入れられている恵みを噛みしめ、それを喜び、御名を崇めるのです。「主の祈り」は本当に私たちの祈りなのです。毎日、主の祈りを祈りましょう。神を父と呼ぶ幸いを、戴いていきましょう。

「天のお父様。そう親しく呼べる幸いを御子イエスが届けてくださいました。その恵みさえ小さく貧しく歪めて考えてしまう私たちですが、その貧しさよりも遙かに大きな、あなた様の交わりの中に入れられた恵みを感謝します。天にいます私たちの父、としつこい程にお呼びして、神の子どもとしての誇りに心を高く上げ、あなたの子として生きる使命を全うさせてください」



[1] 確か、宗教改革の口火を切ったマルチン・ルターの言葉として紹介されたと記憶していますが、今回、確認が出来ませんでした。ルターは、主の祈りについても多くの注解と名言を残しています。“All teachers of Scripture conclude that the essence of prayer is simply the lifting up of the heart to God. But if this is so, it follows that everything else that doesn’t lift up the heart to God is not prayer. Therefore, singing, talking, and whistling without this lifting up of your heart to God are as much like prayer as scarecrows in the garden are like people. The name and appearance might be there, but the essence is missing.” ― Martin Luther, Faith Alone: A Daily Devotional

[2] 詳しくは、ジェームズ・フーストン『神との友情』の「第八章 父と子の友情を深める」を参照。「父親不在の社会における父なる神」と題して展開される記述は圧巻です。178ページ以下。

[3] しかし、私たちの中にはそういう限界を思い込んでいるところがないでしょうか。ルカ15章の「放蕩息子」の例えで、弟息子が「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと考えたと同じような、父の愛を限定的に考え、かえって、父の愛を冒涜するような、人間的な発想が、私たちの中にもないでしょうか。

[4] 四3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」、6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

[5] 二七40-44「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

[6] マタイ十一27には「父のほかには子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」とも言われています。

[7] マルコの福音書十四36「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」

[8] ローマ八15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」

[9] 「「完成された栄光の神の国」においては、もはや罪も汚れもない。何が残るのであろうか。御子の姿に似たものとされた「神の子たち」が残るのである。」牧田吉和『改革派教義学5 救済論』(一麦出版社、2016年)、173ページ。同書では、第十章で「子とすること」の教理を扱いますが、その最初に「子とすること」の教理が「義認」や「聖化」と比べて貧弱な取り扱いを受けてきた面についても論じています。そして同章を、「ここに究極的目的の実現がある。この意味において「神の子性」は神の救済計画の中核をなしている。したがって、キリスト教神学は「子とすることの教理」にこれまで以上に大きな位置を与えるべきであると考える。」(174ページ)と結んでいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問46-48「主は今どこに?」ローマ8章31-37節

2017-01-15 15:41:30 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/15 ハイデルベルグ信仰問答46-48「主は今どこに?」ローマ8章31-37節

 前回はキリストの復活についてお話しをしました。イエスの十字架と復活が、教会の福音の中心であることを確認することが出来ました。本当にイエスはよみがえられて、私たちとともにおられる。それが、私たちの信仰告白の最も大事な部分なのです。

 ではよみがえられたキリストは、その後どうされたのでしょうか。使徒信条では

「天にのぼり」

と言われています。今日からこの主イエスの「昇天」を二回お話しします。

問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。

答 キリストは弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とをさばかれるために再臨される時までわたしたちのためにそこにいてくださる、ということです。

 使徒の働き一章では、主イエスは復活されてから、四十日の間、弟子たちとともにおられ、それから天に昇られたとあります。■

使徒の働き一9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなった。

 イエスは本当にお生まれになり、十字架に死なれ、本当によみがえられたように、地上から天に上げられた、と言います。勿論それは、肉眼で観察して追跡していれば、そのまま大気圏を突き抜けて上昇し続け、宇宙旅行を続けたのか、ということではありません。「天」とは「宇宙」のことではなく、神がおられる栄光の場所を表現するものです。でもそれを私たちがイメージするには、高い天をイメージするのがやっぱり相応しいのでしょう。大いなる神を思うのに分かりやすいのは、天におられるお姿です。イエスがよみがえられてから、神のもとに帰られたという時にも、天に昇る形で見えなくなるのが、一番相応しいことだったのです。そしてイエスは、もう一度おいでになって、生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。それまでは、その天の神の御座の右におられる、と教会は信じてきたのです。

 ところで、この後、ハイデルベルグ信仰問答では、こんな二つの問いを挟みます。

問47 それでは、キリストは約束なさったとおり、世の終わりまでわたしたちと共におられる、というわけではないのですか。

答 キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としてのご性質によるなら今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊によるなら片時もわたしたちから離れておられることはないのです。

問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、というわけではないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。

答 決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、確かにそれが取った人間性の外にもあれば同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合しているのです。

 ちょっと回りくどいですね。キリストは私たちとともにおられる、というのに、天におられる、というのはどっちなのですか。人としては地上におられないし、神としてはどこにでもおられるのだ。いやそれなら、キリストが神であり人であるというのも、結局別々のこともある、ということではないのですか? そういう細かい事を論っているように思えます。面倒くさいなぁ、ということで読み飛ばしても良い気もします。

 けれども、この言葉の裏には、本当に大きな問題がありました。とても大切な問いがありました。今はその問題にはあえて触れません。それでも覚えておいていただきたいし、それはただの雑学ではなくて、私たちを励まし、支えてくれる知識になるのかも知れません。端的に言ってしまえば、それは

「イエスは今どこにおられるのか」

という問いです。皆さんはどうでしょうか。イエスは今、どこにおられるのですか、と問われたらなんと答えるでしょうか。「そうだなぁ、イエス様はともにおられるというのだから、私たちのそばに、かな?」「いいや、もう一度、この世界に戻ってこられて、新しい世界を始められるのだから、今は天におられるはずだけどなぁ?」どちらでしょう?

 ある人たちは、イエスは人だけれども神でもあるのだから、イエスは人としても特別な人であって、今も私たちとともにおられるのだ、と言いました。天におられつつ、同時に、この世界にもおることが出来る、特別な方なのだ。だから、聖餐式のパンと葡萄酒は、本当にイエスの肉となり血となるのだ、とも言ったのです。これに対してハイデルベルグ信仰問答を書いた改革主義の人たちは、そうではない、と言ったのです。

 イエスは本当に人となられたのだ。本当の人である以上、どこにもかしこにもおられることが出来はしないのだ。もしそれが出来る、特別な人間だったとしたら、イエスは本当の人となられたとは言えなくなるではないか。イエスが、本当に私たちと同じ人間になってくださった。この慰めを踏みにじることになってしまう。そうではないのだ。そういう事から、わざわざこの二つの問答を挟んだのです。

 イエスは神であるゆえに、いつもどこにでもおられるお方です。けれども、そのイエスが私たちと同じように人間になられ、この世に来て生きてくださいました。そのお方は十字架の苦しみも、人としてのあらゆる苦しみや喜びをご存じです。そうであるなら、今は天におられます。私たちが今、イエスがどこにおられるのかと言われても、簡単に「ともにおられます」とは言い切れないもどかしさも十分味わっておられます。なぜならイエスは今、天におられるのですから。離れている今も、聖霊を遣わして私たちとともにおられますが、それだけではありません。今はともにいない寂しさもご存じであるに違いありません。だからこそ、イエスはやがて再びおいでになって、私たちとともにいる日を楽しみに待っておられる、とも確信できるのです。イエスは言われました。

マタイ二六29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

 イエスは今も聖霊を通してともにおられます。でもまだ昔のように、また将来のように、触れ合える形ではともにおられません。それは心細い事です。そしてイエスもそのように思い、今は断酒して、私たちとともに食卓を囲む日を楽しみにしておられるのです。イエスは今、人としては天におられ、私たちはやがての再会を待っているのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする