聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二二章21~23節「裏切る者をさえ」

2015-05-31 22:01:32 | ルカ

2015/05/31 ルカの福音書二二章21~23節「裏切る者をさえ」

 

 私は小説や映画が好きで、結構色々なジャンルのものでも好きです。もちろん、苦手な話もあります。特に、悪者の所に、刑事が身分を偽って潜入する話とか、嘘をついてしまう話はダメです。いつバレるんだろう、と心配になって苦しくなってしまうのです。必ずそういう化けの皮は剥がれて、「裏切り者」は大変なことになるのですね。バレたら困る事実があるのは、たとえ映画でも落ち着かなくてイケマセン。今日の箇所でもイエス様がこう言われました。

21しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。

22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

 こういう言葉を読むと、その時テーブルで、あのユダはビクッと震えたんじゃないか、必至で頭の中で何かを考えたんじゃないだろうか、とドキッとしてしまうのです。けれども、

23そこで[他の]弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

とあります。それでユダはますます焦ったのでしょう。バレたら血祭りですよね。しかし、

24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

と話題が変わってホッとしたのかなぁ、と思ったりするわけです。

 けれども、そんなふうに話題が変わった事自体、実はイエス様の真意から離れた聴き方だったのではないでしょうか。そんなすぐに聞き流して良いような話をなさったのでしょうか。もっとそれは真剣に耳を留めるべき言葉だったのだと思います。

 実は、マタイとマルコの福音書では、イエス様が裏切り者の存在について教えられたのは、パンと杯をご自身のからだと血だと仰って、分けてお渡しになる、後ではなくて、前なのですね[1]。そして、ヨハネの福音書を見ると、その後、ユダは出て行ったとあります[2]。ですから、ユダ抜きで、イエス様はパンと杯を渡されたのでしょう。けれどもルカでは、イエス様がパンと杯を配られた後に、この言葉が来ます。そして、それを聞いても、弟子たちは軽く聞き流してしまうのです[3]。ユダはどんな思いをしたか、いいえ、ユダがいたかさえ問題にしません。これは、弟子たちに向けられた言葉でした。そうです。これは、私たちが聞き続ける言葉です。

21…見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。

22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

 さて、思い出してください。イエス様はすでに、最後の晩餐をなさいました。ご自分が肉を裂かれ、血を流されて、弟子たちの代わりに神にご自身を捧げ、新しい契約をお立てになると宣言されました。その食事をされた上で、そこに裏切る者の手があると仰ったのです。「そういう者は、わたしの契約には与れない」とは言われませんでした。また、「わたしの契約に与っていながら、裏切るような者はただではおかない」と脅されもしませんでした。すべてを見通している眼差しで、裏切る者の存在を指摘されたのです。また、22節の「わざわいです」も、何か「わざわいがあれ、呪われてしまえ」というような、冷たい言葉のように響きますが、強く深い悲しみの感嘆詞なのですね。イエス様は裏切り者のことを、怒ったり、突き放されたりされたのではありません。むしろ、深い悲しみをもって嘆いておられるのです。

 この最後の晩餐の席で、イエス様はご自分の十字架の苦しみを前に、その十字架の犠牲によって、新しい契約を完成して、弟子たちのために新しい時代を宣言されます。しかし、その弟子たちの中にある裏切りの可能性をイエス様は見据えておられます。その裏切りでイエス様が去って行くことも、神様が定めておられたことです。けれども、その裏切りを働いた本人は、自分の身に苦難を招きます。蒔いた種を刈り取ることは誰も逃れられません[4]。そもそもイエス様から溢れる恵みを戴きながら、そのイエス様を裏切る、そういう生き方自体がその人の問題、悲惨さを物語っています。イエス様は、そうした本人の抱えている闇、苦しみを想い、深く、激しく悲しみ、嘆かれます。冷たく突き放すどころか、篤く思いを寄せられるのです。

 聖書が描く人間の歴史全体が、神の御真実に対する人間の裏切りの物語です。溢れる恵みを戴いても、いつの間にか、あるいはひょんなきっかけで、神から離れ、罪を重ねてしまう。それに気づいて砕かれて、赦されて、感謝して、また違う形で神に背き、契約を踏みにじる。そして、それにやっと気づいて、懺悔して、赦されて、でもそのうち思い上がり、という繰り返しです。旧約だけではありません。初代教会の歩みでもそうです。「使徒の働き」でも、献金を胡麻化したアナニヤ夫妻も出ましたし、パウロはエペソの長老たちに、

使徒二〇30「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分たちのほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」

と言い切りましたね。私たちは「自分は大丈夫、自分はもう裏切ったりしない」と自惚れる事は出来ません。むしろ、主の聖晩餐の度に、「自分自身を吟味しなさい」と勧められるように、自分の危うさに気づかせていただくのです。自分を吟味して大丈夫だから、パンと杯をいただける、のではないのです。自分のどうしようもない危うさ、叩けば埃ばかり出るような私のためにこそ、イエス様が十字架にかかり、その私だと知った上で、ご自分の体を裂かれ、血を流してくださったことを覚えるのです。私も同じ過ちがある。裏切るかも知れない。罪を犯すかも知れない。人を傷つけ、後悔してもしきれない事をしてしまう。誰をも裁けない自分である。まだまだ失敗をしながら、痛みをもってようやく変えて戴くしかない。でも、甚だしい失敗をしても、その事にこそ、憐れみ深い主が働いて、恵みを現し、回復してくださるのだ。そういう謙虚な自己吟味こそが、主の聖晩餐に与る私たちが繰り返して立つべき態度なのですね。

 主は、裏切り者をさえ愛してくださいます。そして、愛するからこそ、その裏切りを大目に見たり許容したりはなさいません。裏切りがもたらす禍や裏切りをもたらす心の闇を深く憐れみ、強く嘆かれます。バレたら困る行動を取ったり、関係を壊してしまうような過ちを、私たちはどうしてやってしまうのでしょうか。主イエスがその私たちの所に来てくださって、私たちを新しくするために、語りかけています。私たちが自己過信を捨てて、自分の危うさに気づき、本当に謙れるように願いましょう。間違った意味で「自分は大丈夫」と思おうとするのは最大の誘惑の一つですね。嘘や間違った方法を頼ろうとしても、祝福はないのだと肝に銘じましょう。また、イエス様は、裏切られても、そこでなお神様の定めが妨げられることはないと信じました。でも、その裏切りを強く嘆かれ警告なさり、そういう彼らが、変えられ、回復されることを篤く願われました。私たちが、イエス様の福音の素晴らしさによって変えられて行くとき、私たちの人に対する思いもそのようなイエスに倣う心へ変えられていくのです。

 

「私たちの心を知り尽くしておられる主が、禍から幸いへと導いてくださることを感謝します。今ここにある私たちの手を調べてください。隠しているものを明るみに出してください。自分を過信する自惚れを捨てて、あなたの厳しくも暖かな光の中に、歩ませてください。私たちを癒やし、人の裏切りや罪よりも強く聖いあなたを信じる喜びを求める者とならせてください」



[1] マタイ二六20~29、マルコ十四18~25、参照。

[2] ヨハネ十三21~30。

[3] これは、この後の、31~34節でのペテロの試練についてのやり取り、35~38節の危機の時代への準備の言葉も、同様に、トンチンカンなすれ違いで応えられていることにも通じていく、この部分でのパターンです。

[4] 実際、ユダは自分の裏切りに耐えられず、自殺してしまいました。

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問51「へんな礼拝」 Ⅱテモテ四章1~4節

2015-05-24 20:17:31 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/24 ウェストミンスター小教理問答51「へんな礼拝」 Ⅱテモテ四章1~4節

 

 パウロは今こう言っていましたね。

Ⅱテモテ四3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

 4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 ここで肝心な言葉は、「自分に都合の良いことを言ってもらうために」という言葉ではないでしょうか。これは、教会の中の話です。イエス様を信じて、世界の造り主である、主なる神を礼拝している人々の話です。他の宗教の話ではないのです。それなのに、その教会の中で、自分が聞きたい事だけを話してくれるような教師(牧師や説教者)を集めるようなことが起こる、というのです。ちゃんとした教えは、詰まらないからか、都合が悪いからか、そんな話よりも、もっと自分たちの好みにあった話をしてくれるような人たちがいい。そうして、真理から、人間が考えついた話に逸れていく。そういう時代が来るとパウロは言いました。

 前回から、十戒の第二戒を見ています。第二戒は、こうでした。

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」

 偶像を造ってはならない、というのです。真の神だけを拝みます、イエス様だけが私の礼拝する神です、と言いながら、そこに「偶像」を持ち込むことがあってはいけないのです。ウェストミンスター小教理問答では、こう言っています。

問51 第二戒では、何が禁じられていますか。

答 第二戒は、画像により、あるいは神のことばにおいて定められていない何か他の方法で、神を礼拝することを禁じています。

問52 第二戒に付け加えられている理由は、何ですか。

答 第二戒に付け加えられている理由は、私たちに対する神の主権、私たちに対する神の所有権、そしてご自身への礼拝に対して神が持っておられる熱情、です。

 「画像により」とあるのは、十戒で言っていた「偶像」が、特にウェストミンスター小教理問答の書かれた十七世紀の教会では、「画像(聖画・聖像)」が教会の中に持ち込まれていたことを背景にしています。イエス様の絵や、聖書の人物の銅像などが教会の中に立てられていました。そのためにお金をかけて、大きな絵や銅像が教会の中に置かれて、それがさも有り難いものであるかのようになっていました。

結局、その絵が崇められたり、その像にお金を投げたり、触ったら病気が治ったとか迷信が生まれたりしていったのですね。神様を礼拝するのに、そうした絵や見える形を持ち込むと、何もないよりも分かりやすいようだけど、それは神様やイエス様を礼拝するのではなくなってしまう。そういうことが意識されています。プロテスタントの教会が、会堂に聖画を飾り立てたり、十字架にイエス様をつけたりしないのは、そういう理由です。

 問52の

「第二戒に付け加えられている理由」

というのは、

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」

の部分ですね。そして、ここには、

「私たちに対する神の主権、私たちに対する神の所有権、そしてご自身への礼拝に対して神が持っておられる熱情」

が込められています。私たちに命じたり禁じたりする主権、私たちは、自分も自分の子孫も幸いも禍も、すべて神様の手の中にある、神の所有権を認めます。そして、その私たちの礼拝に対しての強烈な「熱情」も見て取れますね。恵みを千代にまで施す、と仰いますが、千代って親子一世代が25年だとすると、何年でしょうか? そうです、二万五千年です! それだけの祝福を約束されているのです!

 それほど私たちを祝福したいと、熱情を持っていてくださるのに、私たちが、「こんな礼拝は詰まらないから、もっと聖画や像を持ち込んだら、分かりやすい礼拝になるんじゃないか」と思うのは、勿体ないことです。また、神様の仰ることの、都合の悪い部分ばかりを嫌がって、聞きたい話だけをしてくれる説教者を呼んで、真理に背いていくのも、本当に勿体ないことです。神様の大きさ、偉大さ、厳しいほどの恵みの深さを、勝手に曲げたり、いいとこ取りしたりしようとすることは間違っています。私たちは、神を自分サイズに合わせようとする間違いを犯してはいけません。都合の悪いことも含めて、神の仰ることを受け入れて従う時、私たちは、神が、私たちが願うよりももっと大きな神であることを認め、神を礼拝するのです。そして、その神が私たちを愛され、熱情をもって祝福しようとしてくださっていることも知るのです。

 大塚国際美術館に行けば、たくさんの聖画を見ることも出来ますね。思いもかけないような表現をする絵もたくさん見て、目が開かれる想いをします。そういう絵は、拝んだりしてはいけませんけれど、悪いことばかりではないでしょう。たくさんの絵から、神様に対するイメージが広がることはあるのです。けれども、大塚美術館だけでなく、世界中の名画を全部合わせたとしても、神様はそれよりも大きな方です。礼拝堂に飾りきれない、もっと豊かで大きな神です。

 そして、その神が、私たちを愛されています。私たちを限りなく恵まれます。私たちが、神を信じ切れず、色々なものに目移りしたり、恐れや不安を抱いたり、自分の都合で生きたりする貧しい生き方から、神を信じ、光の子どもとして歩んでほしいと願ってやまない神です。そのために、ひとり子イエス・キリストが、この世に来られて、十字架にかかりよみがえって、その救いを聖霊が私たちに届けて下さいました。その素晴らしい愛は、どんな絵でも描ききることは出来ません。むしろ、私たちの心に、神が生涯かけて、この恵みを描き出してくださるのです。目には見えませんが、見える形には収まらないほど大きく深い主を、礼拝していきましょう。

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ルカの福音書二二章14~20節「待ちわびていた晩餐」

2015-05-24 20:14:43 | ルカ

2015/05/24 ルカの福音書二二章14~20節「待ちわびていた晩餐」

 

 最後の晩餐を描いた名画は沢山あって、描き方はかなり違って特徴があります。テーブルの向こう側に一列に座っていたり、こちら側にも座ってテーブルを囲んでいたり、イエス様だけがこちら側に座っていたり。実際どうだったかよりも、それぞれに作者の意図、絵に込めたメッセージがあるのです。実際には、当時の過越の食事はテーブルも椅子も使わなかったようです。14節に「席に着いた」とあるのは、床に左肘をつき「寝椅子」というものに寄りかかって足を外に投げ出して、ご馳走を丸く囲んだ状態でした。その過越の食事で、イエス様がとても強い言葉で喜び、篤く語っておられることが目につきますね。

15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

16あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 このように仰ってから、19節以下で「主の聖晩餐(聖餐式)の制定」と言われる言葉を教えられるわけです。17節と18節の「杯」は、15節16節と対をなす言葉です。イエス様はその杯を通してイエス様は、「今から神の国が来るまでは、もはやぶどうの実で造った物を飲むことはない」という特別な食事であることを教えられたのです。この時の杯は、「わたしの血」とは言われませんから、聖餐の杯が二回あるのではありません。19節のパンと20節の杯が、主の聖晩餐の制定なのです。けれども、その聖晩餐の前置きである部分の方が、長く諄(くど)い事にも気づかされますね。それも、同じようなことを二度も繰り返して、今晩の過越の食事がイエス様にとっては最後の過越の食事、杯となるのだ、と仰っているほどです。過越の祭りは、ユダヤ人が毎年必ず守っていた、大変重要な祭りです。それを、イエス様はもう二度と食べないと仰るのですから、実に驚くべき大胆な宣言でした。過越の祭りの終止明言をされたのです。そんなことをなぜ言えるのか。それが、次の「制定」の言葉で明らかにされるのですね。

19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 過越の食事を指して、イエス様は「ご自分の体」と仰いました。過越の食事では、昔エジプトを出て来た時に、小羊を屠って、その血を家の玄関の鴨居と門柱に塗り、小羊を食べたのですが、その出来事を思い出すために、小羊と苦菜と種なしパンを食べることになっていたのですね。イエス様は、その食事を配りながら、「わたしが、あなたがたのために、このようにわたしを与え、体を裂かれる。そのことを覚えて、このパンを食べなさい」と仰いました。また、食事の後の杯でも、その杯に託して、「わたしはあなたがたのために血を流す。それは新しい契約である。それをこの杯が現している」と仰いました。過越の意味が新しくなったのです。

 この事には、旧約聖書の歴史で起きた、いくつもの大切な背景があります[1]。今すべてを説明すると時間が足りません。端折って言いますと、出エジプトの時に、動物の生け贄の血をもって結ばれた契約に代わる「新しい契約」を、イエス様は、ご自分のいのちをもって結ばれると言われたのです。だから、もう今までの古い契約の過越の食事が終わって、これからは、イエス様を記念する新しい契約の食事、主の聖晩餐を行って、イエス様を覚え続けるのです[2]

 イエス様は私たちにもご自分を与えてくださいました。そして今も私たちに、ご自分を与え続けて、主の聖晩餐の度(たび)に、このイエス様を覚えるようにと仰っています[3]。今日は聖霊降臨日ですが、まさに聖霊は、この「覚える・思い出させる」お方と言われ、私たちを愛するキリストを思い出させてくださる神です。新しい契約に入れられた喜びを与えてくださるのです[4]

 「契約」という言葉は堅苦しくて冷たい気がするかもしれませんが、神様は「古い契約から新しい契約」という大きな歴史を語ることで、私たちに、神のご計画が壮大で確実なものであること、神の愛がただの感傷ではないことを示しておられます[5]。そして、イエス様はその、恵みの現れである契約を主の晩餐の席で覚えさせながら、私たちが神の国でイエス様とともにお祝いを食べ、喜び楽しむ日を約束しておられます。その日まで、イエス様は食事をしない、ぶどうも食べないと言われます。なぜでしょうか。それは、私たちがいなくても先に食べてもいいや、とは思われないからですね。あなたがいなければ、食事は始めない。それほどに主イエスは私たちを、愛され、迎え入れて、ともに喜んでくださるのです。その主の愛を、いつでも覚えて歩みなさいと仰っています。この主のパンに養われることが、あなたがたが生きていく上で必要なのです。イエス様がこれまで語ってこられた喩えは、私たちをこの食事に与らせるために、イエス様は私たちを捜しに行かれる、という話でした[6]。ボロボロになって帰って来ても、走り寄って喜んで迎え入れて、大切な家畜を屠っても惜しまないという話でした[7]

 こんなに愛してくださっている方は他にはいません。私たちの普段の生活や社会、親子関係でさえ、無条件で愛し、喜ばれる、という関係はそうそうないものです。また私たち自身、人を気にせず、待てなくて、置いてけぼりにしてしまいます。だけど、神様はそうではありません。主イエスは、いのちをも惜しまずに、私たちを神の御国の食卓に着かせてくださいます[8]

 私たちは愛されている者として生きるのです。普段ぞんざいな扱いを受けて、どんなに邪険に扱われて怒ったり傷ついたりしても、神が私を愛されていることを知る故に、惨めにならない。そういう生き方になるのです。人からの扱いで一喜一憂し、自分の価値が下がったように思う、そんな振り回される生き方から自由になるのです。あなたの価値を決めるのは自分でも、親でも、誰でもありません。私たちを造られた主、私たちを愛される神です。また、私に何が出来るか、何をしてきたかが私たちの全てではありません。過去や現在や将来がどうあれ、私たちが最後には主の食卓に着き、永遠に神の子として生き生きと生きる。それが、私たちだと、イエス様は気づかせてくださるのです。自分を良く見せようとしなくてよいのです。自信が持てずに、罪や間違った方法で自分を幸せにしようなどと、もう欺く必要もありません。私たちの間違いも恐れも全部知った上で、主は私たちを愛し、主の聖晩餐や食事や様々な形で、淡々と、でも情熱をこめて、

「わたしを覚えなさい」

とご自身を差し出してくださっています。

 

「主よ。あなたが求めておられるのは、大きなことをすることでも立派な人生でもなく、あなたの限りない愛をいただいて生きることです。主の深い愛が、本当に壮大で、確実で、測り知れない御業と犠牲と忍耐を経て、私たちを捕らえている、恵みの契約であることを、何をも差し置いてでも受け止めていけますように。そうして、神の子、光の子として歩ませてください」



[1] たとえば「新しい契約」はエレミヤ書三一31を背景に、「血」による「契約」は出エジプト記一九章1~8節を背景にしています。

[2] これは聖書における大転換です。その新しい契約やキリストが来られること自体、旧約の中でずっと予告されていたことですが、イエス様は、その待ち望まれていた新しい時代を宣言されました。今日この過越の食事を区切りとして、ご自分の死によってそれをもたらすと仰ったのです。

[3] ただし、「あなたがたのために与える、わたしのからだです。」は、「あなたがたに代わって与える」なので、私たちに与える、ではなく、私たちの代わりに、神に与える、です。

[4] 「覚える」とは、ただの回想ではありません。その記憶の中に自分を見出すことです。主イエスの、惜しみない愛の中にあることを思い出せと言われます。神の長く壮大で、確かなご計画の中に、今ここに私たちがあることを噛みしめながら、歩みなさいと仰るのです。主の聖晩餐をとおして、イエスは、私たちのために血を流して、新しい契約となってくださったことを思い出させなさいます。勿論いつでも主の聖晩餐を感動して受けるばかりではないでしょう。むしろ、ほとんど形式的になることが多いかもしれません。けれども、主は私たちに、主の聖晩餐を通して、本当に私たちに、ご自分が肉を裂かれ血を流したことによって、新しい契約を成し遂げてくださったことを覚えさせたいのです。弟子たちがいくら鈍感で、分かっていなかろうと、イエスはご自分の十字架による、新しい契約を覚えさせたいのです。

[5] 私たちに対する神の愛、主イエスの深い慈しみは、私たちに、ただ感情論や知識として与えられるのではなく、もっと確かで現実的なものです。主の聖晩餐という儀式もそうです。

[6] ルカ十五4-10、十九9。

[7] ルカ十五11-32。またこの後も、二四章で復活後のお姿に見るように、イエス様は、疑い恐れて、とぼとぼと生きている者に近づいて、一緒に食事をしてくださいます。恐れて、閉じこもっていた弟子たちの所に入って来て、食べ物を食べてみせたお方です。

[8] この所には、神の国の成就として、共同体的な視点があります。その一つが、17節「互いに分けて」です。過越では、カップはそれぞれが一つずつ持っていました。しかし、イエスはあえて、一つから回し飲みさせられました。それは、この「新しい契約」が、一つ主のからだにあずかる共同体であることを強調するためです。ともに行うのが聖餐式であって、個人的ではありません。ここに神の国の共同体が、始まったのです。イエスの喜びを中心にして、すべてのものが招かれ、ともに祝い合う交わりです。それは、これまで、ルカの福音書に描かれてきたように、罪人や取税人も招かれる共同体であり、資格や条件を必要としない、ただ、キリストの尊い契約によって結ばれたことを信じる、新しい家族です。

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問49-50「喜びにあふれた礼拝」 使徒の働き二章42~47節

2015-05-17 21:00:38 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/17 ウェストミンスター小教理問答49-50「喜びにあふれた礼拝」 使徒の働き二章42~47節

 

 夕拝を続けてきて、一年が経ちました。朝の礼拝とこの夕拝とはやり方を変えています。なるべく、分かりやすい言葉、親しみやすい音楽を使っています。でも、朝の礼拝も夕拝も、どちらもキリスト教の礼拝であることは変わりません。一番大切なところが違っているわけではありません。違和感のない言葉や音楽で、神を礼拝する。聖書のメッセージがより分かりやすく伝わって、福音に与り、神様と出会う。そういう礼拝でありたいと願っています。間違って、私たちの好みやアイデアだけで礼拝を変えたら、それは礼拝ではなくなってしまいます。神ご自身が、それを第二戒で禁じられたのです。

問49 第二戒は、どれですか。

答 第二戒は、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」です。

問 第二戒では、何が求められていますか。

答 第二戒は、神が彼のことばにおいて定めておられるすべての宗教的礼拝と規定を受け入れ、実施し、純粋かつ完全に保つことを求めています。

 前回まで見てきたように、第一戒では、本当の神である主以外の神を礼拝したり、自分の神としたりしてはならないことを教えられました。今日の第二戒では、本当の神を礼拝するにしても、その礼拝の仕方が、偶像を作ったり、自分の好ましい形を持ち込んだりした礼拝になってはいけませんよ。かえって、神が聖書において「定めておられる礼拝と規定を受け入れ、実施し、純粋かつ完全に保つことを求めています」よ、と教えています。聖書において、どのように神を礼拝すべきか、または、どのように神を礼拝してはならないか。その筋道が教えられています。それ以外の方法で神様を礼拝しようとするなら、それは「偶像」を持ち込むことになるのです。いくら「イエス様を礼拝していますよ」と言っても、自分なりの方法であったなら、それは自分が考え出した偶像を「イエス様」と呼んで礼拝しているに過ぎなくなるのです。

 聖書が示している礼拝にはどんな要素があるでしょうか。それは、まず第一に、聖書そのものを読むことです。そして、その聖書の言葉を説き明かす説教。そして、イエス様が制定してくださった聖礼典(洗礼と主の聖晩餐)を執り行う礼拝です。そこに更に、讃美や罪の告白、祝福なども含めた祈りが加わります。これが聖書の礼拝の骨格です。

 でも、これだけだと詰まらないからと、あれこれ加えたらどうでしょうか。みんなが楽しめるように、コンサート、映画をしてみたらどうでしょうか。お楽しみタイムを設けて、ゲーム、コンテスト、占い、買い物コーナーをしてみたらどうでしょうか。雰囲気を出すために、スモークを炊いたり、レーザー光線で視覚効果を出したりしたらもっと礼拝が盛り上がるのではないでしょうか??

 いいえ、そういう雰囲気や「盛り上がり」は、聖書が定めている礼拝とは違います。ですから、人間の好みで礼拝にあれこれ持ち込んで、人間が「いやぁ~、今日の礼拝は楽しかった。盛り上がった」といくら思ったとしても、その時点で、神様を礼拝することを忘れた礼拝になってしまうのです。

 とはいえ、私たちの礼拝には、聖書や説教、祈りだけではありません。他にもいろいろなものを持ち込んでいるのに気づきませんか。例えば、立ったり座ったりしますね。これはどうでしょうか。音楽・楽器もどうでしょう。讃美を歌いながら、手を叩いたり両手を上げたりダンスしたりする教会もあります。それから、礼拝には、報告や献金、生け花などもありますね。また、教会によっては、礼拝の中であいさつをする所もあります。欧米の教会では、握手やキスもします。食事をする、祝福式や任職式をする、それから、女性がかぶりものをする教会もあります。どうなのでしょう。

 実は、こうしたものも、聖書に出て来る礼拝の姿なのです。聖書の中に、立ち上がりなさい、ひれ伏しなさい、弦楽器や打楽器や管楽器で主を讃えなさい、躍りなさい、互いにキスをしなさい、と言われています。また、イエスさまが説教の中で、花を見なさい、鳥を見なさい、喩えを聞きなさい、と様々な視覚教材を使っておられるのですね。ですから、こうしたものは、礼拝になくてはならないものではないけれど、礼拝の中で使ってよいもの、ということになります。

 聖書の示している礼拝の仕方でなければいけない、偶像を持ち込んではならない、からといって、礼拝が堅苦しいものになるわけではありません。むしろ、聖書から知る礼拝は人間のお粗末な想像力よりも遥かに豊かでバラエティに富んでいます。順番もこうでなければならないというものではないし、自由です。立ち上がったり躍ったり、涙したり、一緒に歌いながら歩いたりする。それが、今日の聖書箇所にも描かれているような、生き生きとした礼拝の民の姿です。

使徒2:42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。
44信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 でも勿論、私たちにただ、躍ったり、泣いたり、花を見たり、聖書を聞いていさえすればいい、と強制しているのではありませんね。そうした様々な形と切り離せないのが、私たちの心の奥深い喜びだったり、感動だったりするわけです。天地万物を作られた、唯一の本当の神を礼拝することは、私たちの心に大いなる恐れを生じさせるはずです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、よみがえってくださったという福音は、私たちの心に深い喜びと感謝を与えるはずです。聖霊が、私たちに悔い改めと信仰を与えてくださり、神の子どもとしてくださったのなら、私たちは罪と悩みの重荷をすべて下ろす、言いようのない感動へと導かれるはずです。それが礼拝の喜びです。

 神を礼拝し、キリストの福音に与るために、聖書には大切なことがたくさん教えられています。人間のアイデアで盛り上げよう、というのではなく、様々な形を凝らしながら、神の恵みの福音に与る礼拝を守り、育てましょう。そういう礼拝によって、私たちは、ここから遣わされていくどこにあっても、雰囲気ではなくキリストとの交わりに生きることになります。信仰をもって、神を礼拝しながら歩むように私たちが変えられて行くのです。本当に純粋に神を礼拝することは、私たちを変える力と喜びがあります。

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ルカの福音書二二章7~13節「大丈夫です」

2015-05-17 20:58:21 | ルカ

2015/05/17 ルカの福音書二二章7~13節「大丈夫です」

 

 鳴門で大渋滞といえば、サッカーの試合がある日でしょうか。二万人収容できるスタジアムから一斉に出て来る人や車で、詰まってしまいます。阿波踊りの時は、約七万人の来場者で町が溢れかえります。徳島の阿波踊りだと一三〇万人もの人出だそうです。そして、エルサレムの過越の祭ではその二倍以上、三〇〇万人近い大群衆が、ローマ中から集まったそうです。まさに、祭りのど真ん中に放り込まれた、大変なごった返しようでした[1]。そうした喧噪の中、今晩、過越の食事をする場所を捜すという今日の会話がなされたのです。

 今日出て来る、「家の主人」とはイエス様がすでに話をしてあったのです。「過越の祭りの日に、弟子たちと食事をする場所を用意しておいておくれ」。「分かりました、先生」。そんな打ち合わせがあったのでしょう。「水がめを運んでいる男」ともありますが、当時は水がめを使うのは女性で、男性は皮袋を使って水を運んだのだそうです。また、正確には「水がめを運んでいる男があなたがたに会う」という文章です。大変な人混みですから、向こうからペテロとヨハネを見つけてその家に案内してくれるよう、この男の方とも打ち合わせていたのです[2]。そういうイエス様の周到な用意があって、この過越の食事を弟子たちは迎えることになりました。それは、この過越の食事が、特別な「最後の晩餐」だったからです。今日の箇所でも「過越」という言葉が四回も出てきます。そして、次の15節でイエス様が仰っています。

15…「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

 それほどこの「最後の晩餐」はイエス様にとって大切でした。だから、邪魔をされないよう、弟子たちにも秘密で打ち合わせがされていました。前回ユダがイエス様を引き渡す機会を狙っていたとありましたが、過越の食事などは格好のチャンスでしょう。だからイエス様は、そこに踏み込まれないよう内緒で準備をしておられました。それほどこれは特別な晩餐でした。

 過越の祭とは、この時から更に1500年ほど遡った、出エジプトの出来事の記念でした。神が、エジプトの国の頑なさを責められ、一向に悔い改めようとしないエジプト人に対して、遂に全ての家の初子を殺すという禍(わざわい)をもたらされたのです。しかし、そこに住むイスラエル人に対しては、こう命じられました。「一歳の羊を屠って、その血を戸口の鴨居(かもい)と二本の門柱に塗りつけなさい。主はその戸口を過ぎ越されて、その家には禍は降りかからない[3]」。この言葉に従ったイスラエルの家は約束通り、禍が過越して行きました。その晩のうちにエジプトはイスラエル人を急き立てて解放しました。大急ぎでの出発でしたので、パンを持って行くにも発酵させる暇がありません。パン種を入れず、膨らませないままで焼いて持っていきました。そういう出エジプトを記念するのが、「過越の祭り」「種なしパンの祝い」というお祭りです。

 この「過越の祭り」の時に、イエス様は十字架に掛かられました。わざわざこのタイミングを選ばれて、死を遂げられましたのは、キリストこそ私たちの「過越の小羊」として血を流し、十字架に死なれたのだからです[4]。キリストは、私たちの「過越の小羊」として屠られました。この主を信じるとき、私たちも新しく人生が始まるのです。そのことをハッキリと教えるためにも、イエス様は周到な準備をもって、この過越の食事を弟子たちとともにされたのです[5]

 もうこの日の翌日には、イエス様は十字架にかかって、犠牲の死を遂げようとなさっています。それは大変な緊張であり、その苦しみだけを言えば、最後まで避けられるものなら避けたいと思われていた深い苦しみと悲しみです[6]。イエス様はそういう自分の苦しみ以上に、ご自身の死によって、弟子たちが神の深い恵みに与ることを知らせたくて、この食事の場を大切にされたのですね。これもまた、何と大きなイエス・キリストの愛でしょうか。

 しかし弟子たちも、イエス様が逮捕され、十字架の死を遂げる今晩から、大変厳しい坩堝(るつぼ)に放り込まれようとしています。31節では

「サタンがあなたがたを麦のように篩にかける」

と言われます。信仰が試されます。そればかりかイエス様は、弟子たちをこの世界に派遣されます。この世界の大混乱の真っ只中で、神の国を証しさせます。富の誘惑と戦い、自分自身のプライドと戦いながら御言葉に従って生きる道は、決して楽ではありません。けれども、イエス様は、そのような彼らのために、この「最後の晩餐」の席を用意されました。そのためにスパイのような秘密作戦まで練って、この席で弟子たちと秘かに過ごそうとされたのです。

 弟子たちはそんな事は全く分かっていません。過越の食事をどこでしようか。ご馳走にありつけるだろうか。そんなことを考えていたのでしょう[7]。主は、その彼らの日常的な心配に応えてくださいました。心配しなくても大丈夫でした。しかし主イエスには、準備をしている弟子たちが考えもしなかった、素晴らしいご計画がありました。弟子たちが願ったものを与えながら、実はもっと大切な、もっと喜ばしいメッセージがありました。それは、主がご自身を私たちに与えるほどに私たちを愛され、私たちを救う歴史的なご計画がある、という福音です。

 今も主は、あらゆることを通して私たちに囁(ささや)いておられるのではないでしょうか。

「大丈夫だ。わたしはあなたにわたし自身を与えるほど、あなたを愛している。あなたが考えているよりも遥かに深く、わたしはあなたのそばに近くにいる。あなたの心配よりも遥か前から準備をして、あなたに素晴らしい大きな計画を成し遂げるのだ。」

 そんな声が囁かれています。

 私たちも、時として大混雑の中で生きている気がします。自分の場所を確保することしか考えない風潮、そしてその中で悪事を働こうと狙っている人々さえいる中です。イエス様が苦しまれたように、痛みや悲しみはあります。誠実を尽くしても二進(にっち)も三進(さっち)もいかない。物事が悪くなる一方で、最後には破綻(はたん)してしまう、そういうことだってある日常です。そのような中で傷つき、泣き叫びながらも、でもなお、主に愛されている者として、主の御心に従う民として生きることが出来るのでしょうか。喜びの歌を歌い始めることが出来るのでしょうか。

 イエス様は、弟子たちが厳しい時代を迎えるに当たって、この「最後の晩餐」を死守されました。そして、今も私たちに「主の聖晩餐」(聖餐式)を通して、思い起こさせてくださるのです。主は、すべての必要を備えておられます。今も私たちの近くにいます。聖餐式が示す通り、私たちの毎日の食事、一緒に食事をすること、その食事の裏に沢山の人たちの配慮や準備や、動物の犠牲、作物の生育や収穫があること[8]。そうした全てを通して、主が私たちを養い、もてなし、受け入れ、喜んで下さること、ともに食卓を囲んで祝う交わりに、私たちを受け入れて下さることを、本当にリアルに、事実として教えてくださっています。この恵みに立ち返り続けることによって、私たちは、神の民として歩み続けるのです。戦いも誘惑もあります。私たちのプライドや自己中心とも生涯葛藤は続きます。心配もしますし、実際、病気や破綻、裏切りや痛ましい出来事は起きるのです。でも、それは私たちを脅かすものではありません。主がこの私たちを招き、すべてを備えて、今も永久にも、ともにいてくださるのですから。

 

「多くの雑音や目まぐるしい毎日、忙しい生活の中で、主の静かで力強い招きを聞かせてください。主を忘れて、怯え、心が彷徨ってしまう時、あちこちで囁かれているあなたの導きに気づけますように。日常に満ちている備え、恵み、励ましに気づかせて、今週も一人一人を支え励ましてください。その喜び、平安、愛をもって、地の塩、世の光として仕えさせてください」



[1] 「当時のエルサレム市の城壁は八百メートル四方ほどの狭い市街を包んでいたので、「二七〇万二〇〇人」もの巡礼者が殺到する過越祭り(ヨセフォス『ユダヤ戦役』六・九・三)の混雑は、大変なものであった。」榊原康夫『聖書講解 ルカの福音書』401頁。

[2] ここでペテロとヨハネが選ばれたのも偶然ではありません。二人は、ここ以外にも、八51で「ヤイロの娘のよみがえり」の時に、九28で「山上の変貌」に際して、ヤコブと共にイエス様から選ばれて、同行を命じられます(マタイ、マルコでは、ゲッセマネの祈りでもこの三人が選ばれてそばに置かれます。)。そして、「使徒の働き」では、ペテロとヨハネが初代教会の指導的な立場にいる二人として同行していることが、三1、11、四13、19、八14などに記されています。それを考えても、この時に二人が選ばれたのは、主イエスの栄光の証人として、弟子(使徒)の代表を務める欠かせない要素がこの晩餐の準備と、主の備えを体験することにあったからだと言えます。

[3] 出エジプト記一二章全体。特に、21~27節「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。」

[4] Ⅰコリント五7「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」

[5] それがただ「重要」というだけでなく、「どんなに望んでいたことか」と言われる程の喜びになる意味を持っていたことは、ヨハネが「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあり、その続きで、弟子たちの足を自ら洗われた「洗足」の事実にも窺えます(ヨハネ一三章1節以下)。

[6] この二二44でも、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」という思いで、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)と祈られたとあります。

[7] 柔らかい小羊の肉と苦菜を、種なしパンでサンドイッチにして食べる、あの味を考えていたのかも知れません。昔のエジプトの国と同様、今自分たちを支配しているローマ帝国にも神の怒りが下ることを期待して、過越を祝うつもりだったかもしれません。

[8] そもそも、エデンの園で「善悪の知識の木」の実を食べることを禁じる(それ以外の木の実はすべて食べて良い)という命令を通して、主がアダムとエバに、御心を学ばせ成長させようとなさったのに始まって、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」の祈りに至るまで、「食」はすべて、神が人間に与えられたメッセージです。Ⅰコリント十31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」、参照、Ⅰテモテ四3-5、ローマ十四章。

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