聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/3/29 イザヤ書9章6節「100%神、100%人」ニュー・シティ・カテキズム20

2020-03-29 14:51:35 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/29 イザヤ書9章6節「100%神、100%人」ニュー・シティ・カテキズム20
 
 今日から、ニュー・シティ・カテキズムの第二部に入って行きます。ここでは「キリスト・贖い・恵み」といったこと、聖書の教える「救い」について知っていきましょう。そしてそれは、私たちが何をしたら幸せになれるか、というよりも「贖い主キリスト」が私たちと神との関係を回復してくださる、という救いなのです。まず、そのキリストがどのようなお方であるのかについて、しばらく御言葉を開いていきましょう。■
第二十一問 私たちが神に立ち返るためにはどのような贖い主が必要ですか?
答 本当の人であるとともに本当の神である方です。
 人と神との贖い主であるキリストは、どんなお方でなければならないのですか、と問うてまず第一に、
「本当の人であるとともに本当の神である方です」
というのです。このキリストは本当の人で、本当の神。100%神で、100%人。私のお世話になった宣教師の方も、繰り返してこのフレーズを話していました。難しい言葉で「キリスト二性一人格」と言います。これは、キリスト教にとっての根本的に大事な告白です。どうしてキリストが、神でなければならず、人でなければならないのかは、次回、一つずつ扱われます。今日は、キリストが神であり人であること、そのものを見ます。
 まず、聖書そのものが、イエスが「私たちと同じ人」であると言い、イエスが「礼拝されるべき神」であると言っています。今日のイザヤ書もその箇所の一つです。
イザヤ9:6ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 他にもたくさん、イエスが私たちと同じ人間であることを伝える言葉と、イエスが神の子であり、天の父と共に永遠からおられた方であることを伝える言葉があります。ですから、イエスが人であることと、イエスが神であることとは、聖書に土台があります。では、その二つをどう組み合わせればよいのでしょうか。この告白に至るまで、教会の中では長い論争がありました。「イエス・キリストは、神なのか、それとも人なのか」は何百年も掛けて、「神だ」「いや人間だ」と議論がされてきたのです。
 そこで、教会の中に出て来たいくつかの考えがあります。
 まず、イエスは神であって、本当に人間になったのではない、そう見えただけだ、という考えが広まったこともありました。これは否定されました。見えただけで本当に人間ではないなら、嘘になります。
 次に、イエスは人であって、本当の神ではない、一番偉い天使ぐらいで、人間よりは上だけれど、神よりは劣る、という考えもありました。これも否定されました。もしイエスが神でないなら、神ではない天使や被造物を礼拝したり信仰することは十戒の第一戒に違反することです。
 それから、イエスは半分神で、半分人だ、とする考えもありました。そして、イエスの中には、神の人格と人間の人格とが二つあった。二重人格だったと考える人たちもいました。それは、やはり、神としても不完全で、人間としても不完全だったとなってしまいますし、二重人格という状態はますます分からなくなってしまいます。だからこれも、否定されました。
 また、イエスは神と人とが混じり合った、ミックスした人格だとする考えもありました。これもやはり、結局神でもなく人でもない、ということでしょう。ギリシャ神話などでは、こういう「半神半人」という存在は出て来ますが、聖書の神は、世界を造られたお方ですから、そういうお方ではありません。


 こうした説明はどれも無理があります。だから、教会はそれらを退けた上で、説明は出来ないけれども、イエスは100%神で、100%人だ、と言ったのです。
 この、二つの関係を「二性一人格」と言いますが、五つのポイントがあります。
①イエスは、神性と人性の二つがある。
②それぞれの性質は完全。
③それぞれの性質は区別される。
④キリストの人格は一つだけ(神としての心と、人としての心の二つはない)。
⑤ひとつの性質に真実なことは、他方の性質にも真実。イエス様が悲しいとか喜ばれたとか、痛いとかそこにおられたとかは、神としても人としてもいつも両方なんだ、ということです。
 このようにまとめることで、イエスは、神であり、人である、という二つのことを、どちらも軽く見ずに言い切ったのです。
 頭で考えると難しい事ですから、これは理解するというよりも、無理に説明しようとすることを止めたと考えてください。そして、驚いてください。天地を造られた神、永遠の造り主なる神であるキリストが、私たちと同じ人間になってくださった。こんな途方もないことを、私たちは告白しているのです。この世界よりも大きなお方が、私たちを贖うために、この世界の小さな人間の一人となってくださいました。それは、私たちを救うためでした。私や皆さんを救うために、神が、人となってくださった。それは、到底理解できないことです。さっきの図のように、半円にしたり混ぜたり出来ないことです。水と油といいますが、オーケストラと虫が共演するとか、稲妻と線香花火が半分半分とか、太陽と砂粒が結婚したとか、そんなナンセンスな話です。神が人となったなんて、それより遥かにかけ離れたことです。しかし、この世界をお造りになった神は、この世界の最も小さいものさえ、限りなく愛おしんで、最も近くおられます。そして、私たちは、この世界の造り主なる神のひとり子イエスが、私を贖うため、神に立ち返らせるために、人となってくださったと信じているのです。これは途方もない告白です。
 二性一人格を図にすることは出来ませんが、こんな図を書きましょう。キリストは永遠に神でした。神である、ということは永遠の昔から、将来も終わり無く永遠まで神だと言うことです。しかし、イエスは最初から人ではありませんでした。人性を取る前があったのです。それは、受肉、クリスマスのあの出来事からです。



 イエスはマリアの胎に宿って、人としての歩みをあの時から始められたのです。神であるイエスは私たちのために人となってくださいました。この贖い主を信じるのがキリスト教です。愛の宗教とか、神を信じて良いことに励むとか、そういう事よりも、永遠の神が私たちを立ち返らせるために、完全な人となってくださった。こういう大胆な告白が私たちの信仰です。

「神の子、そして人の子であられるイエスよ。あなたは歴史を通して預言されていました。神でありながら人でもあるあなただけが、私たちの身代わりとなるために完璧な従順を全うしてくださいました。あなたの他に、神に近づく道はありません。アーメン」
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2020/3/29 伝道者の書5章18~20節「日の下の営み 一書説教 伝道者の書」

2020-03-29 14:46:03 | 一書説教
2020/3/29 伝道者の書5章18~20節「日の下の営み 一書説教 伝道者の書」

 「みことばの光」の聖書通読表で、今週末から読むことになっているのが「伝道者の書」[1]。口語訳聖書では「伝道の書」、新共同訳や聖書協会共同訳では「コヘレトの書」という変わった名前が付けられている書です。元々のタイトルが「コヘレト」で、集会を集める人、説教者、ということで「伝道者」と訳されています[2]。聖書の中では、詩篇、箴言に続いて、次には短い雅歌が来て、その後にはイザヤ書や預言書が続いていく位置。そういう意味では余り目立たない書で、聖書の「奇書」とか「最も難解な書」と言われます。でも、有名な言葉もあります。
3:1すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある[3]。

3:11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない[4]。

11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」

12:1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 これらは良く知られている、伝道者の書の言葉です[5]。しかし、このような美しい言葉もちりばめられてはいますが、もっと有名な、そして、私たちを躊躇わせるのは、最初から最後まで繰り返される、「空の空」、「空しい」という言葉です。これが37回繰り返されます[6]。

1:2空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
3日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
4一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
5日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。[7]

 「これが聖書か?」と思うような、虚しさで水を差す言葉が羅列されるのです。「空」は悪とか無価値とは違います。虚無だ、無意味だ、というのではないのです。それは次の繰り返し、
2:14…見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。
 「風を追うようなもの」[8]。煙や風のように保証も確かさもない、予想もコントロールも出来ない。それが「空」です。
 2章以下、知恵を追求しても[9]、快楽をとことん追求しても[10]、結果は空しかった。幸せや富や正義を追い求めても、風のように逃げてしまう、煙を掴むようにどうにも出来ない。人の営みも[11]、王様の大事業も、最後は、手から零れ落ちてしまい、幸せや確かさや価値を与えてはくれない。すべては風を追うようなもので、空だと言い切るのです。
 聖書の他の書では、人生の意味や喜び、神とともに生きる素晴らしさを歌っていますが、伝道者の書は大胆にも「人生は虚しい」と言い切る書です[12]。聖書は一つの真理を語ると言うより、人生の両面性をいつも見ています。神の支配と人間の責任、神が三位かつ一体であること、キリストが神であり人であること、私たちが罪人であり神の子どもであること、人の堕落ぶりと愛すべき美しい存在であること。そして、人生の価値を言う言葉もあれば、「伝道者の書」は「空の空」と人生の虚しさ、ダークサイド、無価値さを一書かけて言い切ります。そして、その人生の虚しさを勘違いせずに見据えた上で、今日読みました言葉のような形で励ますのです。
5:18見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
 これは「労苦して良いものを楽しむだけが神を信じない人のせいぜいの楽しみだ」とは言っていないです。
「これが人の受ける分なのだ」
と積極的で肯定的です。
19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
20こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。
 他にも神が与えたものとして
「あなたの愛する妻[13]」
や様々な喜び、
「益」[14]
が言われます[15]。つまり《人生は風のように虚しく、思うようにならず、予想は出来ないし、明日どうなるか分からない不確かなものであることは変わらないからこそ、今ここで自分の仕事[16]、労苦[17]、家族、友人、食事をあるがままに喜ぶ》。目の前にある生活を、心から味わい、喜ぶことが神からの賜物だ。何とか人生を虚しくならず有意義にしようとか、人生は空だから見切りを付けて神に従うことで保証のある人生にできるとか、そういう無理な要求は虚しいのです。神は私たちに人生の王道を歩ませ、有意義で予測可能で確実な生涯を送らせたいのではない。風を追うような人生で、神を恐れ、今ここにある生活、責任、人間関係、美味しいものを大事にさせるために、賜物として下さったのです。どうにも出来ないことを何とかしようとし、それが出来ないから「虚しいなぁ」と投げやりに生きず、今ここで満たされて、喜んで生きて欲しい。
 この「喜ぶ」も「見る」という言葉です[18]。楽しいふりをするのでなく、じっくり眺める、味わう、満喫するのです。ですから、悲しみや喪失でも、何が何でも感謝するとか嬉しそうにする、よりも、悲しみを見つめて十分悲しむ、虚しさを目にすれば心底泣く、ということでもあります。そうやって、風のような人生の中で、目の前にあることを存分に味わい、ベストを尽くしながら、神が下さった務めや家族や自分の心の動きを受け止めて、くよくよ思わずに生きる。それが、神を恐れて、神の命令を守り、生きることだ、と言う知恵をくれるのです[19]。
 人生が風のように虚しいと言い切るなんて「伝道説教」はあまりないでしょう。でもこの虚しさ、不確かさをごまかし、人生を操作できるように大言壮語する宗教は、胡散臭いものです。何人もの方が「伝道者の書」こそ現代人が聖書を初めて読むときに真っ先に開いて欲しい書だ。社会で理不尽な思いをし、どうにもならない疲れを抱えている人たちに、上から目線でなく寄りそってくれる。この書の語る虚しさ、侘しさ、不条理さに触れて、安易な答えや解決を聴くよりも遥かに慰められて、心を開ける人は多いだろう」と言います。そして今、世界が予想もしていなかった感染症で先行きの見えない中、「伝道者の書」は大きな道(みち)標(しるべ)に違いありません。こんな書が聖書にあることに驚き、確かさに飛びつこうとする愚かさから守られたいものです。
 実は「伝道者の書」には神は登場しますが、神の名「主」は一度も出て来ません。イスラエルもエルサレムも契約も出て来ません。しかし「神」という名前には珍しく「あの神」という定冠詞付きの呼び方がほとんどなのです[20]。一般的な神、正体の漠然とした「神」ではなく、あの神、私たちに命や労苦や仕事や喜びや命令を下さったあの神を見上げさせます。そして、
12:11知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。
 これは誰の事でしょう。神です。あの神が私たちの羊飼いだ、という[21]。真っ直ぐに「主」「イエス」と言わず、この虚しい人生を羊のようにさ迷ういながら生きる私にもあなたにも、あの神は羊飼いとなって下さる。私たちが心まで虚しくならず、今ここにある賜物を喜んで、くよくよ悩まずに生きさせてくださる。そして、こう仰る羊飼い、イエス・キリストが来て下さいました。この世の虚しさを舐め尽くしてくださいました。そのイエスが、
マタイ28:20見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。
と仰って、本当に今もともにいてくださる。だから、私たちはここで分からない事をくよくよ思わずに委ねて、出来る労苦を喜んでさせていただき、自分やお互いの益を図っていきましょう。伝道者の書をぜひそれぞれに今こそ読んで、この深く力強い言葉に恵まれてください。

「羊飼いなる神様。伝道者の書を下さり、有難うございます。人生の不条理を見据えたこの書に今私たちは格別な指針を戴きます。どうぞ、主よ、私たちをお導きください。あなたを恐れるよりも、自分の予定や安心を握りしめてしまう私たちを憐れんでください。不安と痛みの中にある私たちを助けて、知恵と弁えを与えてください。あなたの備えてくださった、今ここに生かされている幸いを改めて噛みしめ、喜んで最善を果たしてゆかせてください。御名により」


[1] 本書の手短な参考書としては、YouTubeの「バイブルプロジェクト」の「伝道者の書」紹介動画(https://www.youtube.com/watch?v=t9L5YsVF4vE)や、長尾優『信仰の半歩前―オトコ、四十を過ぎれば』(新教出版社、2000年)198頁以下がお勧めです。
[2] 英語ではEcclesiastesエクレーシアステス。教会をギリシャ語でエクレシアと言いますが、コヘレト(集会)と語源は一緒です。
[3] 伝道者の書3章1節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。3殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。4泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。5石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。6求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。7裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。8愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」
[4] 3:11の「神は人の心に永遠を与えられた」は、旧約では「永遠を思う思い」。
[5] これ以外にも、「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。(7:21)」「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。11また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。12一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(4:9-12)」などは忘れがたい箴言です。
[6] 空הֶבֶל  1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、15「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」、17「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、19「その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」、21「なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」、23「その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」、26「 なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:19「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。」、4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、7「私は再び、日の下で空しいことを見た。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」、16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:7「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。」、10「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。」、6:2「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」、4「その子は空しさの中に生まれて来て、闇の中に去って行き、その名は闇におおわれ、」、9「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。12 だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」、7:6「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。」、15「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」、8:10「すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」、14「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:20「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」、11:8「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」、10「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」、12:8「空の空。伝道者は言う。すべては空。」これが、37回ですが、旧約全体で72回使われるうちの半分以上を占めています。
[7] ヘミングウェイ『日はまた昇る』のタイトルは、本書1章5節から。小説のエピグラムは、本書の1章1節以下。ゲーテ『ファウスト』も本書から影響。ルナン「ヘブル語による最も魅力ある書」。ルター「慰めの書」。熊谷徹「初めて聖書を読もうとする人は「伝道者の書」から読むと良い」『新聖書講解シリーズ旧約13 箴言・伝道者の書・雅歌』(いのちのことば社、1988年)324頁。
[8] バイブルプロジェクトの動画では、「空」の語源が「煙・蒸気」と言われます。風は本書に20回、「風を追うようなもの」に類する言い方は10回(1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、17「私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。」、2:11、17、26、4:4、6、16、6:9、8:8)、登場します。
[9] 1:12~18、参照。
[10] 2:1~11、参照。
[11] 「営み」עִנְיָן 8回、本書のみの言葉。1:13、2:23、26、3:10、4:8、5:3、14、8:16。
[12] 12章の有名な「あなたの若い日に」も、創造者を覚えれば、「何の楽しみもない」という老後が来ないわけではありません。そのために創造者を覚えるなら、御利益宗教でしかなく、「創造者を覚えた」とさえ言えないのです。
[13] 伝道者の書9章7~10節「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」
[14]  益יִתְרוֹן 9回。伝道者の書にのみ。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、5:9、16「これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、6:11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。」、7:11「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。12知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」、10:10「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。11もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」
[15] 「人は生きている間、自分のわざを楽しむことにまさる幸いはない」という内容は、2:24-26、3:12-13、22、5:18-20など。
[16] 仕事עִנְיָן 8回。伝道者の書にのみ出て来る名詞です。1:13「私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」、2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:10「私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:3「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」、12:3「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」
[17] 労苦עָמָל  25回(旧約59回)。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:10「自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。11しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、18「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。19その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。20私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。21なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。22実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、6「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。9二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」、5:15「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。16これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、18「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」、6:7「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」、8:15「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」、17「すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:15「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」
[18] ラーアー。伝道者の書では47回出て来て、そのうち四回が「喜ぶ」です。2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、5:19「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」 以下の箇所の「喜ぶ」は、原語はラーアーではありません。2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ」、3:12「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」、4:16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:4「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。」、20「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」、9:7「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」、11:9「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」、12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」
[19] 「神を愛して陽気に生きよ。この世のことなど気にするな」ジョン・ダン
[20] 40回中、定冠詞なしは3回のみ。
[21] 本書の作者を「ソロモン」とする伝統的な読み方は、現代では保守的な神学者でも否定しています。ソロモンを臭わせ、敬意を払いつつ、その名を直接出すことはしていない、という着眼点は説得力があります。ソロモンを思うとき、知恵者でありながら、最後は逸脱していった人物として、それこそ「虚しい」思いがわき上がります。しかし、それだから「ソロモンは滅びて、救われなかった」などと私たちは言い切れるのでしょうか。聖書に大きく名を残す人を、イエスさえ、繁栄の引き合いに出しただけです。ここでも私たちは「信仰者としての道を失敗した人は救われず、呪われている」などと安易にいえないことを弁えるべきでしょう。
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2020/3/22 Ⅰテモテ2章4~6節「あがなう」ニュー・シティ・カテキズム20

2020-03-22 22:13:25 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/22 Ⅰテモテ2章4~6節「あがなう」ニュー・シティ・カテキズム20

 夕拝では「ニュー・シティ・カテキズム」に沿ってお話しをしてきました。今日で、その第一部が終わります。この第一部では、私たちの希望、神と世界と人間の創造の事、そこから背いてしまった人間のこと、を見てきました。神が世界を創造された、本来の私たちのよい状態と、そこから外れた人間の滅びについて見てきました。
 前回の19問では
「罰から逃れ神の好意をいただく方法」
は、私たちの側ではなく、神ご自身が私たちを神と和解させ、贖い主によって罪と罰から解放してくださることをお話ししました。世界を造った神が、私たちの回復のためにも、ご自身から立ち上がってくださる。それが、聖書の示す福音です。では、その「贖い主」とは誰ですか? これが今日の第20問です。そして、この第一部は結ばれるのです。
第二十問 贖い主とは誰ですか? 答 唯一の贖い主は、主イエス・キリストです。永遠の神の御子で、神が人となり罪の刑罰をご自分で受けられました。
 神ご自身が私たちを解放してくださるために立てられる「贖い主」。それは「主イエス・キリスト」です。第一部の最後は、イエスが登場して閉じられます。そして、次回からの第二部では、イエスの贖い主としての働きを一つずつ説き明かしていくのです。今日はまずこの「贖い」という言葉を心に留めましょう。「あがない」という言葉自体、どういう意味なのか、余り馴染みがない日本語ですから、確認しましょう。
 あがなうとは漢字で「贖」と書きます。この「贖」という漢字の貝偏は何を表すか知っていますか? そう、お金です。今のお金は紙やコインですが、昔は貝殻をお金にしていたそうです。ですからお金に関係する漢字には、貝偏が使われています。贖う、という漢字にも貝偏がありますから、お金に関係するようです。これは、悪いことをした罪の罰をお金を払って償うことや、金品を出して罪を免れることを意味する漢字です。そこから、お金ではなくても、何か代価を払って償いをする、という意味で「あがなう」という言葉が使われます。買い戻すとか、代価を支払う、等と言い換えられることもありますが、イエスの「救い」というだけでは伝わらないニュアンスがあります。「救い」というと、償いや犠牲、痛みがあったかどうかは分かりません。力尽くでただ救いだすこともあるからです。溺れている動物を救うのには網で引っ張り出すだけでも出来ます。イエスが救い主であることは確かですが、それだけなら、イエスが神の力で何の苦労もなく救えたかもしれません。けれども「贖う」と言った場合には、その救いには、支払い・犠牲があったニュアンスが伴います。「イエスは、神様だから、私たちを救うのに、何の苦労もなかったんだろう」などと思ってはいられません。イエスは、私たちを贖うために、ご自分を与えてくださったのです。このイエスの贖いの業を知る時に、私たちは神の大きな愛を覚えます。イエスは、私たちの贖いを果たしてくださった救い主です。
 「イエス・キリスト」という名前は、イエスが名前で、「キリスト」とは「油注がれた方」、神様によって特別に任職された方、という意味です。私の名前は古川和男ですが、イエス・キリストとは古川・和男とは違って、「古川牧師」とか「トランプ大統領」というように「イエス」というキリスト、贖い主イエス、という名前と肩書きを並べている呼び名なのです。イエスは、今から二千年ほど前に、ユダヤの国で生き、30歳そこそこで十字架に処刑された人です。そのイエスが、贖い主だ、神から送られたキリストだ、その死は私たちの罪を贖うための死だったのだ、そして、イエスは三日目によみがえって今も生きておられて、私たちの贖いを果たしてくださるのだ…そう言い始めた弟子たちが世界に広まって、私たちもその中に入っている。これは本当に不思議です。
 今日読んだⅠテモテ二章4節には、このように書かれていました。
Ⅰテモテ2:4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
 神は唯一で、神と人との仲介者も唯一。イエスだけが贖い主です。自分で自分を贖うこと、償いをすることは出来ませんし、他の誰にも贖いは出来ません。勿論、贖いなしに神と和解することは出来ません。神であるお方が、人となってこの世界に来て、私たちに神の贖いを教え、語り、真理を示してくださりました。そればかりでなく、イエスの生き方や死に方、その存在がまるごと、私たちを神と和解させるための贖いでした。このイエス・キリストは、唯一の贖い主なのです。このイエス以外に、私たちを贖ってくれる贖い主は誰もいません。そして、イエスは、私たちを取り戻すために、ご自身の命も、十字架の苦しみをも厭わないでくださいました。私たちは、それほどの価値があるとイエスは見なしてくださったとは、なんと素晴らしいことでしょう。



 これはクリスチャンのチャールズ・シュルツの書いた人気マンガ「スヌーピー」です。彼女は「私は人間で、誰かに愛されなくちゃならないの。他のみんなもそうなのよ」と言っています。そうです。私たち人間は、神に愛されているのに、神から離れたため、誰かに愛されたくて、心が渇いています。その私たちを、神はご自身の犠牲によって、神の子イエスの命によって買い戻してくださいました。私たちは、もう誰からも愛されていないものではありません。私たちは神に愛されているものです。神が命をも惜しまずに私たちを取り戻してくださるほど、私たちは愛されている。嬉しいことです。同時に、私たちはもう自分のものでもありません。贖われた私たちは神様のものです。



 お店に行くと、商品に値札がぶら下がっています。その商品がいくらか値段が分かります。十字架のネックレスをしている人がいます。クリスチャンじゃなくても、している人はいますが、言わばあのネックレスは値札です。私たちは、イエスの十字架という値札を付けられたもの。十字架のネックレスをしていなくても、イエスの命という高価な価値を与えられたもの。誰も、こんな高価な値を奪い取れる人はいません。イエス・キリストは私たちの唯一の贖い主です。
「尊い贖い主よ、この世界が創られる前から、あなたは私たちを愛してくださっていました。あなたは私たちの恥を負うために、ご自身の栄光を捨てられました。十字架の死に至るまで父なる神に従い、神を崇められました。あなたこそ、賛美と感謝と礼拝を受けるに相応しいお方です。あなたの他に、希望はありません。アーメン」

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2020/3/22 マタイ伝6章9~13節「試みにあわせないで」

2020-03-22 20:46:28 | マタイの福音書講解
2020/3/22 マタイ伝6章9~13節「試みにあわせないで」

 どうかすると、主の祈りに馴染みすぎて、習慣のように唱えていても、この
「我らを試みに遭わせず悪より救い出し給え」
だけは他以上に真剣に願える、ということがあります。試みや悪からの守りを願う。それはとても自然な願いで、本能的といっても良いかもしれません。また、イエスが私たちに祈りを教える中で、もっと高尚な願いや
 「試練をお与えください」
という言い方ではなく、
「試みに遭わせないで、悪からお救いください」
と願うよう教えてくださったこと。それは、お祝いしたい喜びであり、深い慰めです[1]。
 ここだけではありません。イエスの活動は、いつも私たちの受ける試みを真っ正面から受け止めるものでした。特にマタイが強調しており、4章では人々に語り、福音を伝える前に、荒野で四十日、試みを受けて、サタンを退けた出来事がありました。十字架にかかる前、26章ではゲッセマネの園で祈りながら、一緒にいた弟子たちに
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」
とお語りになりました[2]。イエスはいつも、私たちには誘惑(試み)が付き物であると強く意識していました[3]。この13節の悪には欄外注に
 「あるいは「悪い者」」
とあります。単なる「悪からお救いください」以上に「悪い者」試みる者、私たちを誘惑し、悪に引きずり込もうとする存在からの救い、そう訳すことも出来るのです。イエスはその「悪い者」の試みからの救いを願わせています。イエスの言葉や働きは、誘惑との戦いを強く念頭に置いています。そしてイエスご自分が、同じ試みを経験してくださったお方です。
ヘブル4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
 イエスは私たちと同じように試みに遭われたお方です。そして、私たちに深く同情しつつ、試みられたら一溜まりもない私たちをも、悪から(悪い者から)救い出してくださるお方です。天にいます私たちの父に、私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください、と祈る願いは決して虚しくはありません。神は私たちを救われます。そのために、御子イエスをこの世界に遣わして下さり、私たちとともにおらせてくださいました。この神への信頼こそ、今日、何よりも覚えていただきたいことです。
 この「悪」は「悪い者」とも訳せますが、「悪い者」と言い切りたければ「悪魔」「サタン」という言葉もあったのです。それなのに、悪とも悪い者ともどっちとも訳せるような言葉が選ばれたのもまた意味深長なことです。悪しき者の働きは確かにありますが、それ以上に天の父の力は強いのです。悪の力よりも、イエスの恵み、神の愛のほうが遥かに強く豊かなのです。その事を抜きにして私たちが悪を恐れ、不安から「禍からお守りください」と願うとしても、イエスはその不安そのものから救い出してくださるのです。
 何度も立ち戻りますが、この主の祈りの願いの前、5節からでイエスは、祈りが人に見せる偽善になる事や、神に対してのパフォーマンスになることを強く窘(たしな)めていました。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」[4]。
 その神の子とされる、豊かな恵みの契約をイエスは強く宣言されました。そして主の祈り自体でも、
「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。御心が行われますように」
と、まず神を神とすることに私たちの心を向けさせたのです。そうであるなら、
「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」
という「試み」や「悪」とは、その神の深くて強い恵み、偉大さを忘れさせてしまうことです。父なる神への心からの信頼抜きに生きてしまう悪です。そこから引き離そう、自分を誇らせようとする「悪い者」がいる。そこからの「救い」です[5]。
 C・S・ルイスは、悪魔は「悪魔の存在を信じないこと」と「過度の、そして不健全な興味を覚えること」の二つを喜ぶと言います[6]。二つは逆のようですが、どちらも人を神から引き離す、悪魔の思う壺です。誘惑はいつも両極端です。「試み」を「誘惑」と捕らえて、快楽とか不道徳や不正をすぐに思い浮かべます。確かに、食欲や性欲や犯罪に拐(かどわ)かされて、人生を棒に振ることも沢山あります。ギャンブルやポルノや泥酔や、挑発や詐欺やごまかしの誘惑は、決して小さくはありません。しかし、その反対の道徳主義・潔癖主義、「自分たちは正しい」という思いもまた、私たちが陥りやすい試みであり、救い出されなければならない悪です。神が私たちを造られたのは
「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛し…あなたの隣人を自分自身のように愛」
するためでした[7]。この神の「愛する」という御心から切り離すことはすべて誘惑です。「自分たちの方が正しい、自分たちは責められる所が少ない、あの人たちよりマシ」…そう思う時に神は小さくなっています。神への祈りは、一方的な恵みへの感謝を忘れた、独り言になります。「自分は正しい」という思いこそ、イエスが立ち向かった悪でした[8]。不道徳や欲望に流されて放蕩や不正に走るなら、それは惨めな結果になります。ルカ15章の放蕩息子の譬えが示す通りです。しかし、あの譬えで強調されているのは、その弟に腹を立てた真面目な兄息子です。父の心から遠く離れていた兄息子こそ「自分は正しい」というプライドから救われる必要がありました。イエスは、当時の自堕落な生き方をしていた罪人にも、模範的だと自他共に認めていたパリサイ人たちにも、ともに神の元に帰るよう招かれました。そして、自分の罪を認めた人たちより、「自分たちは正しい」と思っていたパリサイ人こそが、イエスの教えに抵抗して、最後はイエスを十字架につけたのです。
 マルチン・ルターの妻は、
「まだ赦していない罪を『赦した』と思う誘惑からお救いください」
と言いました。一つ前の第五の祈願を受けた、とても誠実な言葉です。それに加えるなら、「天の父が負い目を赦されたのに『まだ赦されていない』と思う誘惑からお救いください」とも言いたいのです。神が天の父となって私たちを愛し、神の子どもとしてくださっている。その父が王である
「御国が来ますように」
と祈っていながら、まだ神の支配を疑っている。神を信頼できる幸いがあるのに、まだそれを疑っている。神が赦しを下さるのに、それを信じ切れなかったり、問題が起きると「罪のせいではないか」と思ったりする。「《試みに遭わせず悪からお救いください》と祈っても無駄だと思う」という誘惑に陥っていませんか。神を小さく考えているなら、それは、神に背を向ける誘惑にもなれば、自分が神の代弁者のように思う悪にもなる。どちらも神への信頼が小さすぎます。傲慢も絶望も、楽観も悲観も、貧しさも豊かさも誘惑です[9]。自惚れも自己卑下も、禍も幸せも、罪も「正しさ」も悪になります。苦しみや挫折という試練も辛いことです。しかし、成功や順調が神を忘れさせたり[10]、神を自分の幸福の「守り神」に貶めて、本当に神を喜び愛する、人格的な関係を失わせたりする方が深刻です。悲しい死も「まだ生きていられる」という幻想からも私たちは救い出される必要があります[11]。
 イエスは、私たちの陥る誘惑には様々な形があるのだと、マタイの福音書はこの後、丁寧に展開してくれます。思い煩ったり[12]、さばいたり[13]、嵐に怯えたり[14]、主の赦しを拒んだり[15]。それはこれから気づかされていきましょう[16]。大事なのは「誘惑リスト」を造って避ける以上に、天の父を見上げて、謙って、父の御心に生きることです。誘惑を避けようとするばかり、罪を犯すまいとするばかりで、神や人を愛すること、神の恵みや人の尊さを喜ぶことを忘れたら、元も子もありません。大事なのは、神を信頼し、互いに愛し合う生き方です[17]。苦難に遭わないより、神の御国を求めることであり、それがイエスの伝えた
「御国の福音」
でした。その途上にある私たちはまだまだ様々な形で「自分」が王になり、主の恵みに背いてしまいますが、イエスは決して見捨てずともにいて、悪から救い出してくださいます。また、私たちが互いに裁き合うのでなく、ともに赦された者として赦し合い、主の民の旅をともに歩ませてくださる。そこから逸らそうと、悪い者が私たちの欲望やプライドに巧みに働きかけるとしても、神はその企みさえ用いて、私たちを深く結び合わせてくださいます[18]。その約束としてこの祈りを祈るのです。

「聖なる主よ。あなたの御心が、御言葉の通りなりますように。あなたを信頼し愛し、また互いに愛し合い、喜ばせてください。恵みを小さく考え、見せなくしてしまう言葉や生き方や思いを取り上げてください。私たちには魅力的でも、あなたが悪と見られることからは強いてでも救い出してください。人となり試みを受けた主イエスがともにいて、神の民の旅路を歩ませてくださる。その幸いにいつも立ち戻り、互いに励まし合い、慰めを分かち合わせてください」

[1] マルチン・ルターは、この願いを二つに分けて、子ども向けに以下の解説文を書いています。「第六の願い また私たちを誘惑から導かないでください。 これはなんですか。 答え 神は確かにだれをも試みられないが、私たちはこの願いにおいて、神が私たちを守り、保ってくださって、悪魔やこの世や私たちの肉が私たちを欺いたり、誤った信仰や絶望、また他の大きな咎や悪に誤り導くことがないよう、また、たとえこうしたものに誘惑されても、私たちが最後にはこれに打ち勝ち、勝利を得るようにしてくださいと願うのだよ。 第七の願い むしろ私たちを悪からお救いください。 問これはなんですか。 答え 私たちはこの祈りにおいてまとめとして、天の父が私たちのからだと魂、財貨と名誉に対するあらゆる類の悪から救い、最後に、私たちの終わりの時がくるときには、祝福された終わりを与えてくださり、恵みを受けてこの苦しみの谷から天へと受け入れてくださるようにと願うのだよ。」
[2] マタイの福音書26章41節。
[3] 「試み」には、テストという「試練」の面と、悪へ誘う「誘惑」があります。ギリシャ語のペイラスモスは、どちらにも文脈で訳し分けられる単語です。テストがなければ、自分のうわべだけに満足して、弱さ、狡さ、醜さを曖昧にしか受け止めないだろう。それならば、却って高慢という罪に陥る。悪魔はぬるま湯という誘惑で、人を滅びに至らせる。
[4] マタイ6章8節。
[5] また、「主の祈り」の結語「国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」は、欄外に置かれて解説されているように、本来のマタイの本文にはなかったと考えられます。しかし、主の祈りが、天の神の主権に根ざしていることは、この補足に豊かに表されています。
[6] 「悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、その一つは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使いとを同じように諸手を挙げて歓迎する。」『悪魔の手紙』(蜂谷昭雄、森安綾共訳、新教出版社、1978年)、25頁
[7] マタイ22章37~39節「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
[8] 「真実を自分の中に見出すことは危険ですね。ユダヤ人哲学者レヴィナスが、『他者に責任を負うということがなければ、神という言葉は意味をなさない。』と言い放ちます。自分の中に真実をため込んでると、その真実と反する人を裁き始めます。他者との間に境界線ができてしまうのです。自分の中に真実をためるために教会に行くことは真の礼拝ではないかもしれませんね。自分が満たされる。問題の解決の糸口が見つかる。自分の思いや信仰を完成させる。思うように賛美する。神様の導きを無視して、神様が解るという自分の中にとどまる。私たちの信仰の先に他者がいなければ、私たちが、『他者のためにある自分』と出会わなれば、そこに神という言葉に意味がないとレヴィナスは言います。礼拝を通して、わたしの心の中にあるうめきや葛藤がなくなれば、神様と出会えるということではないことに気付く私たちでありたいです。勇気を持って、うめきを持つ私としてありのままの姿で神様の前にでる。そうすると、自分のうめきを聞きながら、御霊が共にうめいてくださっていることに気付き、自分自身が自分を理解することから解き放たれ、心の奥にあるうめきで打ちひしがれている中で、っと気づかされます。それは自分だけではなく、聖霊のうめきだと気付くのです。そこには十字架の道があることに気付きます。わたしのうめきに届く天からの光。神様の愛。 神様がそれを聞き、受け取り、満たそうとしていることに気付く。神様がこのうめきを通して私を呼んでくださっている。真実を手放す意味は、自分の外ある真実を、超越にある真実を受け取り続けることです。インマヌエルの神様と共に生きることです。そこに「他者のためにある自分」がいる。神様によって自分の中が完成されることではなく、神様が他者のためにうめきを持つわたしをも必要とし、呼んでくださっていることを受け取りつつ、神様に従っていきたいです。
「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきを持って、私たちのためにとりなしてくださる。」ローマ8:26 中村穣、Facebook投稿、2020年2月29日「一度は手放さないと分からない真実」
[9] 箴言30章7~9節「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。9私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」、ピリピ書4章11~13節「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
[10] 来週お話しする「一書説教 伝道者の書」では、快楽からも正しすぎることからも、という。老いていくこと、若くない日が来ること、死やさばきの日が必ず訪れることを忘れてしまう誘惑を語る。
[11] むしろ、十字架の道を語るイエスに「そんなはずがありません」と言ったペテロを「下がれ、サタン」と言われたイエスにとって、悪しき者の誘惑とは、平坦な、楽な道を行こう、試みなどなしに自分を捨てることもなく生きていられる、という思いではないか。若い時の情欲、中年期の皮肉、老いて孤独な日々の自己憐憫(フーストン、205頁)
[12] 6章25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」
[13] 7章1節「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」 中傷、断罪、噂話、憶測はこの「さばいてはならない」に入るでしょう。そこには、相手への共感・想像力が欠落しています。
[14] 8章23~27節。
[15] 9章1~13節。
[16] 「私でなくて良かった」「私はあの人とは違う」「自分たちは特別」という思いも誘惑です。人格を手段とする悪。自分のために、神も他者も、道具(踏み台・利用)とする悪。試み・試練を恐れすぎる誘惑も、試み・悪しき者を軽視し侮る誘惑も。
[17] 私たちが何が誘惑かを知ることは大事。とても大事。しかし、その私たちの知識・理解が正しいとは限らない。それに限界・誤解があることも避けられない。だからこそ、私たちが誘惑だと思わないことでも、神がよしとされるならば、強いてでも私たちを救い出してください、と祈る。
[18] この事が何よりも分かるのは、誘惑を経験した人々の共同体、互いの弱さをよく知り、互いの重荷を担い合える共同体こそ、最も強く、神の手の中にある、という事実です。AAの12ステップは、真剣なこの第六祈願の告白です。
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2020/3/15 イザヤ53:3-11「神ご自身が」ニュー・シティ・カテキズム19

2020-03-14 17:17:55 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/15 イザヤ53:3-11「神ご自身が」ニュー・シティ・カテキズム19

 今日の朝の礼拝では「罪の赦し」のお話しをしました。キリスト教では「赦す」ということをとても大事にします。しかし、「赦し」は誤解されることでもあります。決して悪を大目に見るとか忘れる、問わない、ということではありません。問題にしっかりと立ち向かった上で、その罪の傷を癒やしていくのです。夕拝で、人の罪についてお話しをしてきました。罪は、人が神の願いに逆らうこと。神以外の何かを神のようにして生きることです。罪はそれ自体で、自分の首を絞めること、悲惨や破綻をもたらすことに他なりません。その事をしっかり覚えた上で、今日はその罪の解決を見ていきます。
第十九問 罰から逃れ、神の好意を頂く方法はありますか?
答 あります。神の義を満たす為に、神御自身が、ただあわれみによって、私たちを神ご自身と和解させ、贖い主によって罪と罪の刑罰から解放してくれます。
 私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を得る方法。それは、私たちが何かをすることではありません。私たちがどんなに良いことや、何か神を喜ばせる秘密を知って、一生懸命アピールしたとしても、そんなことは何の役にも立ちません。クリスチャンが「私が救われたのは、神様が私の真面目さや一生懸命さを見て、分かって下さったからよ」と言ったとしたら、それは完全な誤解です。私たちには、救いを戴く方法など何一つ生み出せません。ただ「神ご自身が」行動を起こしてくださること。神に対する私たちの罪のために、神ご自身が罰するより、裁いて滅ぼすよりも、私たちのために立ち上がってくださって、神の義を満たしてくださる。そこに私たちの希望があるのです。

 今日読んだ、イザヤ書53章は、旧約聖書の中で、やがてキリストが来て、苦しみを受けて、私たちの救いを果たして下さることを預言した、とても大事な章です。イザヤ書53章。覚えて下さい。この中で、将来のキリストの苦しみを描きながら、
10しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。…
とありました。この「御心」という言葉は、喜ぶ、願うという意味があります。主なる神がそう願われた、というのです。計画とか、意思というだけでなく、神の御心は、神が自らそう選ぶ、ということがあります。そもそも、誰も、神に願わないことをさせることは出来ません。神は人間の罪を怒りたかったけれど、救いたくもあったので、渋々イエスを送り、十字架にかけたのではありません。勿論、それはイエスにとっても、神にとっても、大変な痛みでした。私たちには、十字架の痛みや苦しみがどれほど深く、恐ろしいか、ごく僅かに想像することしか出来ません。まして、神が十字架にかかるという事が、神にとってどんな痛みか、苦しみか、屈辱か、想像すら出来ません。けれどもそれを神は選んでくださいました。神とイエスは、私たちを罪から救うため、イエスが十字架にかかり、私たちが罰せられる代わりに、イエスが不当な罰を受ける、という形を選ぶことを、喜んで選んでくださいました。そうしたいと願ったのは、ただ、神ご自身の私たちに対する愛です。罪に滅ぶことを可哀想に思ってくださる愛です。そうして、キリストが自分のいのちを「代償のささげ物」としてくださったことで、末長く、永遠に、神の民の歩みが続くようになりました。それが主の御心(喜び)でした。

 私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を戴けるのは、神ご自身がそう願ってくださったからです。しかも、罰から逃れさせる、というだけではありません。キリストは、私たちを神ご自身と和解させてくださいます。これは、「罪」が神に逆らうことだ、という基準であることを思い出すと、結びつくでしょう。単に道徳的な悪が「罪」で神はそれを怒る、というだけのことではありません。罪とは神に逆らうこと。であるとすれば、当然、罪が解決するとは、神との和解でもなければなりません。神は、キリストによって、私たちとご自身との関係を和解してくださいました。神が和解してくださいました。それは、神が御心とされたこと、喜んで自らしてくださったことです。
 勿論、未だに私たちには罪があり、神に逆らったり、神との関係を大事に思えなかったりする問題はあります。私たちは神の子どもとして修復されていく途中にあります。罪の悲しさも、神の偉大さも、キリストの十字架の重さも、もっと知っていくことが必要です。しかし、その回復の途上にある事自体が、神が私たちと完全に和解して下さったからこそ始まった歩みです。私たちは不完全ですが、神はその私たちと完全に和解したいと願ってくださいました。一生かかっても、私たちが神の子どもとして教えられ、新しくされることを御心として、私たちに働き続けてくださっています。それが神の喜びだからです。
 時に、キリストの十字架が、神から差し出されたものであることが忘れられることがあります。キリストの苦難が、神の喜びでなく、私たちのための「仕方なし」の妥協案だったように言われることがあります。キリストにより神との完全な和解が与えられたのも「イエスに申し訳ないことだ」と罪悪感を煽り立て、後悔を強いる言い方でも語れます。「神は本来なら罪を罰したかったのに、イエスが間に立って下さったことで、私たちは辛うじて救われるのだ」とでも言うかのような理解があります。私たちはイエスの十字架に負い目を感じなければならないのでしょうか。「十字架にかかってくださってゴメンナサイ」と言わなければ恩知らずになるから、信じるのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスは十字架に死に、よみがえられました。神は私たちが罪の罰を受けるよりも、ご自身が犠牲を払ってでも私たちを罪から救い出したい、私たちとの関係を回復したいと願いました。私たちが救いを願うより、神ご自身が私たちとの関係回復を願ってくださいました。イエスが下さったのは後悔や罪悪感ではなく喜びです。

 この神に替えて私たちが縋っているものは全ていつか失われます。私たちは自分の持っているあれこれがなくならないよう神が守ってくれることを期待して、何かあると神を信じない理由にしてしまいます。しかし、神との関係はそんなものではないのです。神がこの私を失うまいと思ってくださった。そのためにイエスが来ることを喜んで選ばれた。こんな幸いは他にはありません。その喜びをもって、今を生きてゆけるのです。

「和解の神よ、私たちのために道を備えてくださり、ありがとうございます。あなたは正義においても、恵みにおいても、いつも完全なお方です。私たちは救われる資格などないものです。しかし主よ、あなたの救いを受け取ります。あなたの愛するひとり子イエス・キリストの御名によって、私たちではなくイエスが成し遂げられた御業に信頼し、あなたの御前に歩み出ます。アーメン」
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