聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問7「罪の始まり」ローマ5章12~14節

2016-04-17 22:27:12 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/04/17 ハイデルベルク信仰問答7「罪の始まり」ローマ5章12~14節

 

 前回、神は人をよいものとしてお造りになったことをお話ししました。人もこの世界も、神はよいものとしてお造りになった。それは聖書が教えている、とても大きな原則の一つです。しかし、そうすると、どうして世界には、とても「よい」とは思えない事があるのか、人間も自分自身も、良くない状態にあるのか、という疑問が起きます。問3では「悲惨と罪」という言い方をしていました。問5では「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」という言い方をしました。そんな私たちの中にある、惨めな自分中心の思いは、どうしてそうなったのか。それが問7です。

問7 それでは、人のこのような堕落した性質は何に由来するのですか。

答 わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆罪のうちにはらまれて、生まれてくるのです。

 アダムとエバの、楽園における堕落と不従順。聖書の最初の創世記第三章に出て来る出来事です。楽園で、神とともに、大地を耕し、管理しながら、罪のない状態に置かれていたアダムとエバが、堕落の道を選んで、神に不従順な行動を取りました。それが、人の本性が毒されて、生まれながらに罪のうちに孕まれる原因となったのだ、というのですね。パウロは、今読んだように、ローマ書でこう言っていました。

ローマ五12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、…

 ここで、ハッキリと「一人の人によって罪が世界に入り」と言っていますね。その一人の人とはアダムです。でも、その後にパウロはこう言っています。

…-それというのも全人類が罪を犯したからです。

 全人類が罪を犯した? どうでしょうか。「いいえ、私たちはまだその時に生まれもしていませんでしたよ。神との約束を破ったのは、アダムです。私たちは、アダムとエバの反逆のせいで、こんな悲惨を被っているのですよ。私たちのせいではなくて、アダムのせいです。私たちは被害者です」。そんなふうに言いたくならないでしょうか。けれども、ここで言いたいのは、アダムのせいだ、私たちのせいではない、ということではありません。神のせいで世界がおかしくなっているのではなくて、私たち人間の側に、堕落した性質の由来があるのだ、ということなのですね。その事を覚えるためにも、もう一度、あの「アダムとエバの楽園における堕落と不従順」を思い出してみましょう。

 神は世界をよいものとして創造されました。エデンという素晴らしい農園を作られて、そこを管理する責任を人間にお与えになりました。その中で、園の中央にあるたった一本の木を「善悪の知識の木」と呼ばれて、それを食べない、という命令を与えられました。この善悪の知識の木やその実そのものに、特別な力があったかどうかは問題ではありません。大事なのは、その木の実を食べないことを、神は人間にお命じになって、その約束を守ることをお求めになった、ということです。

cranach eded 難しい事ではありませんね。園には、あらゆる種類の木の実があったのですから、たった一本を食べない約束なんて、難しい事ではないはずです。しかし、そこにサタンがやってきて、エバに囁きます。

蛇(サタン)「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか?」

エバ「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

蛇(サタン)「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるようになるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 そう言われると、エバは、食べてはいけないと言われた木をじっと見てしまい、美味しそう、好ましいそうに思えてしまって、木の実を取って食べてしまいます。そして、夫アダムにも与えて、アダムもそれを食べてしまうのです。しかし、彼らは目が開けて神のようになるどころか、自分たちが裸である事を知って、恥ずかしくなりいちじくの葉で自分たちの腰巻きを造ります。それでも、主がそこに来られた時、彼らは隠れてしまいます。神は

「あなたはどこにいるのか」

と聞かれますが、彼らは正直に誤ることが出来ず、妻のせいにしたり、蛇のせいにしたりします。

 そして園を追放されるのです。この一枚の絵に描かれた話は、アダムとエバの話です。でもそこにあるのは、私たち自身の姿でもありませんか。十分に豊かに与えられた中、たった一つの禁止が気になる。うまい口車に乗せられて約束を破る。止めとけば良いのに、見る必要のないものをじっと見ている内に欲しくなる。自分の後ろめたさから逃れたくて、人を巻き込んでしまうとか、誤れば良いのに、人のせいにしたり言い訳をしたりする。それはアダムだけでない、この私の人生でもあると思うのです。

 私たちが自分の間違いに気づいた時にすべきことは、アダムのせいや誰かのせいにして、「私じゃないよ」と責任逃れをすることではありません。自分が全部悪いのではないにしても、それでも自分が間違ったりズルをしたりやってしまったことは「私です。ゴメンナサイ。赦してください。どうぞ、もう二度としないように助けてください」と言うことですね。惨めな状態にいる人間が、なぜ惨めになったのかの犯人捜しをしている限り、決してそこからは出て来られません。そこから出たいと願うこと、助けを求めること、伸ばされた手を握りしめて、よろしくお願いしますと自分を預けるのは、他の誰にも出来ないのです。そうやって助けを求めるとき、イエス・キリストは測り知れない恵みによって、必ず惨めな状態から救って、私たちの心をも変えてくださるのです。

 人が愛から離れた悲惨な状態になったのは、神に原因があるのではなく、人間に原因がありました。しかし、神はその人間のために、神のほうから、しかも神の子なるイエス・キリスト御自身の犠牲によって、救いをもたらしてくださいました。なんと有り難いことでしょう。そのイエスに、自分をお任せするのは、誰でもない、私たち自身です。

 

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申命記二一章(1~9節)「いつも水の流れている谷」

2016-04-17 22:20:01 | 申命記

2016/04/17 申命記二一章(1~9節)「いつも水の流れている谷」

 

 先月、土曜日のサスペンス劇場で鳴門が舞台になったことがありました。サスペンス物が大好きな方もおられますが、神も謎かけと謎解きはお好きな方です。そしてモーセは申命記で、「殺人事件」を何度も想定しています。趣味ではなくて、現実的に色々な想定もしています。今日の箇所では、犯人が見つからなかった場合、です。これはサスペンスものでは絶対想定しないケースではないでしょうか。最後まで誰が殺したか分からない、では落ち着けません。しかし、今日の申命記ではそのような場合もあるという現実を見据えています。そしてその時に、ただ不安を抱えたり疑心暗鬼になったり、「自分たちは関係ない、無実だ、むしろ被害者だ」という態度を取るのではないのです。その時、遺体発見現場から最も近い町を調べて、その町の長老たちが、儀式をしなければならない。それが、3節後半からの、

…まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、

 4その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。

 まだ使ったことのない小さな雌牛を、耕したり種を蒔いたりしたことのない谷まで連れて行き、雌牛の首を折る、というのです。まだこれからという雌牛を犠牲にすることも、どれほどの距離があるか分からない谷川まで出かけていくことも、勿体ないことでもあります。「とばっちり」とも言えます。けれども、そうして出かけていって、雌牛の首を折り、

 5そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。…

 6刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、

 7証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。

 8主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。

 自分たちは潔白ですでは終わりません。自分たちは手を下した犯人ではないにしても、その犯罪が民の中で行われた以上、その罪の赦しを願い、その罪を除き去る責任はあるのです。

 9あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。

 注意したいのは、ここで何故殺人事件が起きたのか、その犯人が見つかりもせず、未解決で終わったのは何故なのか、というようには考えられていないのです。こんな事件が起きたのは何かの呪いではないのか、とか、神の御心はどこにあるのか、もっと言えば、神の前に正しく歩んでいたならこんな事件は起きるはずがない、という発想はここにありません。そういう原因探し(新たな「犯人」捜し)をするのではなく、ただその事態に対して、どう対処すべきなのか、が示されています。私たちもよく、何か思いがけない出来事があると、そこから神の御心を読み取ろうとしたり原因をほじくり返そうとしたりする過ちに陥りやすいものです。しかし、その思いがけない出来事の原因を神に問うよりも、その出来事に対して自分が何をなすべきか、どう応答することが神の御心か、そう考えて行動すること。それこそが、神の御心なのですね。そしてここでは、迷宮入りになった事件を、知らんぷりをしてやり過ごすのではなく、正しい神の前にちゃんと持っていって、自分たちの痛みであり、責任の一端があることを認めて、主の赦しを希(こいねが)うことです。これが、9節の「主が正しいと見られること」なのです。

 解決されていない事件がそのままあると、不安や疑いや気味の悪さなどで心が毒される一方、何もなかったようなふりをする、という方法は取られがちです。ここで命じられているのはそれとは正反対ですね。犠牲は払うけれど、ちゃんとその問題を引き受けて、向き合っておくのです。そのプロセス自体もこっそり儀式だけ済ませるというのではありません。レビ族の祭司たちを招いて、立ち会ってもらうのです[1]。密室でなく、公式にしなければなりません。そうやって、神の前に、起きた事件を差し出して、あわれみと回復を求める。勿論、見つからなかった犯人の罪まで赦されるわけではありません。しかし、いつまでもその未解決事件を引き摺って、話さないけれども誰もが気持ち悪さを抱えたまま、という苦しみから、神は解放してくださいます。赦しを信じて歩んで行こうと、ここでは励まされているのだと思うのです。

 その象徴が、四節の

「いつも水の流れている谷」

です。この谷は、耕したことも種を蒔いたこともない、つまり人里離れた場所、それなりの距離があったでしょう。そこに、いつも水の流れている谷がある[2]。両岸には、詩篇一篇にあるように

「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」

木があったでしょう。人が畑にすることもない辺(へん)鄙(ぴ)な場所で、無駄のように水が流れ続け、木を潤し育てています。水を飲みに動物が来、その木の実を啄(ついば)む鳥たちもいた筈です。

 聖書の最初のエデンの園にも、川が流れていました。一つの川がエデンを潤し、そこから全地を潤す四つの大河となっていたとあります[3]。エデンのある木を育て、動物や人間たちの全ての生活を豊かに育んだ川です。エデンから神に背いて追い出され、喉も魂も渇くようになった人間に、神は何度となく水を与え、井戸を掘らせ、泉に導かれました。詩篇や預言書(特にイザヤ書、エゼキエル書)では、神の祝福の約束が川で与えられます[4]。そして聖書の最後、黙示録二二章も

「水晶のように光るいのちの水の川」

の描写で始まります[5]。神は、流れ続ける川を、民に対するいのちの祝福のシンボルとして示されます。私たちはその谷川を慕い喘ぐ鹿のようなものですが[6]、今日の箇所は、その谷川に行って、流れ続ける川の畔に立たなければならないと言うのです。殺人事件があって、それが解決できない。心を闇が覆って、全地が汚れたように思える時も、世界が呪わしいように見える時もあるのです。その時にこそ、川の流れる谷の所に行き、自分たちの立つ地は、決してただの荒野ではないと覚えるのです[7]

 殺人事件ではありませんが、男性に騙され、結婚に何度も失敗した女性がおりました。荒んだ人生を送って来て、誰とも会いたくなく、しかし水を汲まない訳にはいかないので、昼日中に井戸にやってきたこの方にイエスは仰いました。

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」[8]

 そして、彼女はイエスとの出会いによって、本当に溢れる喜びを持ちました。自分の人生の意味が分かったわけではありませんが、過去を恨む生き方から、過去をも知った上で、受け入れてくださったイエスによって、彼女の人生は、荒野の中でいのちの水を渾々(こんこん)と湧き出させ始め、周りにも溢れたのです[9]。世界は荒野であり、人生には理不尽なことも起きます。私たちの歩みはその中で無駄にヒッソリ流れている川のようなものです。それでも、御言葉や祈り、静まりによって、イエスからいのちを戴き続け、愛と赦しと悔い改めと執り成しをもって歩むなら、私たちの存在は、いのち溢れる泉となるのです。[10]

 

「主よ、心塞ぐこと多く、ドラマのような解決のない現実に、うつろな思いで渇く者を、あなたはいのちの川へと招かれます。その御配慮を感謝致します。過去に蓋をし忘れようとしても、過去を恨み呪っても心は荒むばかりです。どうぞ私たちに、主を仰ぐ者に約束された満たされた心を与えてください。そうして世界の尊さ、人生の価値を取り戻す泉としてお用いください」



[1] レビ人の祭司たちがここにいる理由は書かれていません。彼らには何の役割もないのです。「雌の子牛」は、首を折られるだけで、屠られて血を注ぎ祭壇に燃やされる犠牲とはされません。ですから、祭司たちは、生け贄の儀式のために必要なのでもないのです。ただ、立ち会うため、です。レビ人は「彼らは、あなたの神、主が、御自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。」と説明されています。主の臨在と祝福を覚えるために、彼らはここに招かれます。この事件ののろいや責任逃れなどといった、恐れに裏付けられた儀式ではなく、主の祝福と主への奉仕をそこでも覚えるために、わざわざレビ人が同席するのです。

[2] 季節だけ、雨が降ったときだけ出来るかれ谷(ワディ)ではなくて、いつも水が流れ続けている谷です。

[3] 創世記二10「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。11第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。12その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。13第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。」

[4] 詩篇四六4「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。」、六五9「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。」、イザヤ四三19「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」、またエゼキエル書四七章1~12節には、新しい神殿から水が流れて川となり、渡ることのできない川となっていく様子が描かれています。「8…この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。…12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食料となり、その葉は薬となる。」

[5] ヨハネの黙示録二二1「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、2都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。3もはや、のろわれるものは何もない。…」

[6] 詩篇四二1「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

[7] 無法者が好き勝手にして、捕まらなかった、してやったと笑っているような呪わしい地ではないのです。死が支配している地でもないのです。ここに、いつも流れている川があるように、神はこの世界にいのちを与えてくださいました。誰も畑にしないようなこの場所で、いのちを流れさせ続けている川があるように、神はこの荒野のような世界にもいのちを与えてくださるのです。無駄なように思えることでも、神が祝福なさるのです。

[8] ヨハネの福音書四13-14「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」。また、同七38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

[9] イエスは、やがてもたらされる世界に命の水の川が流れていると語るのではありません。その川が、今ここにおいても流れることを約束されています。どこにもかしこにも、ではありません。全地が覆われるのはまだ先です。

[10] 「それでも夜が明ける」という映画があります。アメリカの黒人奴隷の酷かった時代の実話を元にしています。一人の老いた黒人の葬儀の場面が出て来ます。集まった黒人たちが歌います。「ヨルダン川は流れよ、流れ続けよ」。ヨルダン川とは、奴隷解放の象徴でした。また一人が奴隷のまま酷使されて死んでしまったその葬儀の場で、絶望ではなく、流れ続ける川を歌いました。投げやりになっていた主人公も、この「Run, Jordan, run」の部分を、段々と力強く熱唱していく、大変印象的な場面です。確かに彼ら、虐待されていた黒人たちにとっても、聖書の語る「川」は希望を与えていました。

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問6「神は人をよいものに創造された」 創世記1書26~31節

2016-04-10 20:20:52 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/04/10 ハイデルベルク信仰問答6「神は人をよいものに創造された」 創世記1書26~31節

 

 私たちの心には、神の掟に叶わない、自己中心の願望が強く染みついています。それをこのハイデルベルク信仰問答では、「悲惨」と呼んでいます。「罪」とも言いますが、罪だといって責めるよりも、神の愛から離れている状態を、悲惨、みじめさと呼ぶのです。その上で、そういう人間の我が儘な姿について、今日はこう問うのです。

問6 それでは、神は人をそのような悪い邪悪なものに創造なさったのですか。

 ここで「邪悪」と訳されている言葉は「逆さま」という意味だそうです。頭と足がひっくり返っている状態です。神は人間に、神を愛し、隣人を愛しなさいと命じられましたが、でも人間が、神をも隣人をも愛するよりは、いつでも自分の都合で憎みかねないのだとしたら、それは神が人間を創るときに、間違ったのではありませんか。愛するのとは逆さまな存在に造ってしまったということではないのですか。そういう質問です。しかし、そうではない、と答ではいいますね。

答 いいえ。むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。

 そうです。神は人を善いものとして創造されました! これは、多くの宗教や創造の神話が、人間の邪悪さや問題を、創造の時点でのミスや偶然とするのとの違いです。人は善いものとして造られました。それも、神ご自身のかたちに似た者として。

創世記一26神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神御自身が、御自分に似た者を造ろう、と仰って創造された。それが人間だ、というのです。すべての人が、男も女も、誰も彼も、人間はみんな

「神のかたちに造られた」

ものです。「義」正しさ、「聖」厳かな聖さを備えた存在として造られたのですね。

……それは、人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。

 こういう、人間に与えられた特別な目的が、人間にはあるのです。素晴らしい言葉です。人が、自らの造り主なる神を正しく知る-この「知る」とはただ知識を学ぶとか正確な知識を覚えるということではありません。人間と人間がお互いを知るというのは、もっと温かくて、親しくなることです。人が神を知るとは、神の素晴らしさ、聖さ、美しさ、正しさを知って、ますます神を崇めるようになることですね。そして、神を「心から愛する」ようになり、「永遠の幸いのうちに神と共に生き」そして、「神を誉め歌い賛美するため」です。それ程に人間は、よいものとして造られたのですし、人間が神御自身のかたちに造られたから、そういうことが出来るのです。

 この後、問七から、ではどうしてその人間が、神を愛するどころか、憎むようになってしまったのですか、と罪の原因を教えていきます。今日は、その説明の前に、人間がよいものとして造られたと言う言葉を心に味わいたいのです。

 神は人を善いものとしてお造りになりました。だから、今も私たち人間を、本来の善さ、測り知れない価値あるものとして見ておられます。中には、「私は神様の御言葉通りに生きられないからダメだ」と自分を低く低く考える人がいます。皆さんはどうでしょうか。神は、私たちをどのように見ておられると考えていますか。怒っている、気にしていない、ガッカリしている、私にメロメロ、いろいろなイメージがあるでしょうが、特に失敗したときには、神も私には失望しておられるに違いない、私を恥ずかしく思っておられるんではないか、と考えてしまうのではないでしょうか。

 確かに、私たちが、神の愛に背いて自分のことしか考えなくなっているとき、神は決して平気ではおられません。それを、この信仰問答では「悲惨・惨めさ」と言ってきました。

「自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」

に創造された人間が、神を知ろうともせず、神を愛さず、神と共に生きることを幸い所か苦痛としか思わないで、自分が自惚れた歌を歌って満足しようとしているなら、それは本当に惨めなことです。それだからこそ、神は私たちに、本来の目的に帰るように求められます。私たちが惨めでも平気でニコニコしているわけではありません。でも、それは神が私たちを愛すればこそ、真剣でいてくださる眼差しです。親は、子どもが失敗したり、泣いたり、悔しい思いをしたりしながら、少しずつ成長していくのを見守り育てます。神も、決して私たちにガッカリも腹を立てもなさいません。神には出来ないことがないと言いますが、神の義と聖に反することは出来ません。悪いことは出来ませんし、私たちを愛することを止めることも出来ません。私たちが神をガッカリさせることも、見捨てさせることも出来ません。神は私たちを善いものとしてお造りになった以上、そのよいご計画を完成なさるのです。

 私たちも、この世界も、本来はよいものとして造られました。神は私たちを、御自身のかたちにお造りになり、義と聖のうちにお造りくださいました。だから、私たちが神を知り、愛し、神とともに、神を賛美しながら過ごすことが、一番自然なことです。今はそれが出来ていなくて、自分のことしか考えないばかりか、自分のことも善いとか素晴らしいとは思えないかも知れません。世界も虚しく、悪い世界に感じることもあるでしょう。でも、キリスト教はそういう嫌な世界から逃げるために信じるのではありません。

 イエス・キリストの恵みによって救われるとは、私たちの生き方が回復され、神を正しく知って、神をますます愛し、神を誉め称える生き方へと変えられることです。私たちが神を知り、神を誉め称えることを神が喜ばれるのです。「自分は惨めだ」と思っていた者が、聖霊によって、自分の存在や信仰や神様への賛美が神に喜ばれ、尊い価値を与えられていると気づかされながら、喜んで生きるようになる「救い」なのです。

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申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

2016-04-10 20:19:00 | 申命記

2016/04/10 申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

 

 今日の箇所は戦争について教えています。日本の法律も変わって、戦争が遠い話ではなくなり、都会の真ん中で、テロに遭うかもしれない時代になってしまいました。安全の壁に守られた中で戦争や平和を論じ、「聖書は好戦的だ」「旧約の神は戦いの神だ」などと聖書の血(ち)腥(なまぐさ)い記事を批判する時代から、もっと現実的なこととして戦争を考える時代になりました。しかし今日の箇所は、とても戦争に対して冷静で、水を差すような視点を語っています。戦争をしようとする軍人や将軍にとって、今日の箇所は、絶対に開きたくない箇所であるはずです。

 確かに1節から3節の前半ぐらいなら勇敢にも聞こえます。戦いに出るときは恐れるな、神、主がともにおられる、と勇ましい。弱気になるな、恐れるな、と士気を鼓舞されます。しかし、うろたえるな、おじけるな、と余り繰り返されると、帰ってこれから始まる戦いが厳しいものだと印象づけてしまうようです。そして5節以下は、軍の人材確保からは最悪の勧告ですね。

 5新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか[1]。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。

 同様に、ぶどう畑を作ってまだ収穫していない者、婚約したけれどまだ結婚していない者は、戦闘に加わるよりも、帰って自分の家に住み、ぶどう畑の収穫をし、結婚しなさい、と言われるのですね。それも、ぶどう畑の収穫をさっさとして来いとか、結婚式だけ挙げてまた戻って来い、ではありません。二四章5節では、新婚後、一年は兵役を免除されて、妻を喜ばせなさい、とあります[2]。また、ぶどう畑は作ってから収穫するまで、五年待たなければならないとされていました[3]。ですから、ぶどう畑を作った者が帰って収穫をして来るなら、何年も兵役を免除されることにもなったのです。だめ出しが8節ですね。

 8…「恐れて弱きになっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」

 ここには戦死の可能性が明言されています。「主が守ってくださるのだから、必ず生きて帰れる」などと楽観的な保証はしてくれません。神がともにおられるから戦いを恐れるな、とは言われるものの、命懸けであり死ぬこともあり、狼狽(うろた)え怖じけたくもなるほど、熾烈を極めるのですね。だからこそ、安易な戦争への突入は窘(たしな)められています。1節で、

馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても

とありますが、平時から馬や戦車や最強の軍事力を持とうとしない、ということです[4]。軍人たちにはやりにくい考えだったでしょう。武器や戦車、戦闘機、軍事技術を万端にし、いざ戦争となれば、集まった兵士たちを鼓舞し、勝利を夢見させ、恐れて逃げ帰ろうとすることなど力尽くでも許したくないのではないでしょうか。残した生活や家族のことなど考えさせないか、その家族のためにこそ戦え、と士気を高める方向に持っていったはずです[5]。申命記の言葉は、それとは正反対です。むしろ、戦争に勝つことが最大の目的になってしまう時、人間の生活や農業や夫婦といった、人間としての基本的な営みが犠牲になることを厳しく戒めるのです。軍人の論理が社会を支配するなら、市民は後回しになる。軍隊は国民よりも作戦や勝利を優先しがちなのです。赤紙が来れば断れない。兵士のストレスや秘密保持などのため、夫婦や家庭は深く傷つき、苦しんでいます。19節20節には、包囲戦において、不必要に木を切り倒すことが禁じられていますね。戦争において、自然や環境が無闇に破壊されます。勝つため、あるいは敵を少しでも苦しめるためならば、自然を簡単に壊すのです。その復元には何年、何十年もかかりますし、永久に戻せない場合もあります。これの最たる行為がヒロシマ、ナガサキ。原子爆弾の投下でした。その後も、朝鮮半島の地雷の野原、ベトナムの枯葉剤、湾岸戦争の劣化ウラン弾、そして辺野古です。

 ここでは「恐れず戦え」と言われています。戦わなければならない現実はあるのです。しかし、では普段から強く負けない兵器、軍事技術、最強の軍人たちを育てよう、というのはまた反対の極端な危険です。でも戦争とはそういう誘惑があるものです。その原理は形を変えて社会を動かし、人間性や家族や自然を破壊しています。国家や政治家、中央の生活や、強い人々の欲や利益のため、庶民や地方は顧みられていない。軍事予算が福祉を減らすのも、原発問題や過労死などは、まさにそれです。あるいは個人個人が、自分の責任に向き合いたくなくて、大義ある戦争や大事業や仕事の成功、または教会の奉仕や活動に逃げて、本当に大切にすべき、家庭や人間らしい営みを犠牲にしてしまうこともありがちです[6]。容易い誘惑です[7]

 10節から15節には、遠くの国々と戦わなければならない場合のことが書かれています。まず降伏を勧めること、だまし討ちや奇襲攻撃はしないのですね[8]。捕虜にした場合は、申命記は彼らを在留異国人として大切にするよう命じるのです[9]。苦役に服すると言っても、好きなように虐げていい、人間扱いする必要はない、ということではありませんでした。

 でも16節から18節には、カナンの地のヘテ人、エモリ人たちの絶滅が命じられます。これは正直、やはり抵抗を覚えます。そのまま納得して無理に説明しようとしてはならない言葉だとも思います。ただ、この地の人々が、忌みきらうべき事、子どもの人身御供や近親相姦など、人としてあるまじき文化だったのも事実です。戦いにおいては容赦なく、それこそ軍隊の論理、国家の都合で動いていた国です。そういう国に対して、神は厳しく立ち向かわれるのです。

 「聖絶」は神が特別に、ハッキリと命じられた場合だけのものです。人間がこれを持ちだして、敵を壊滅することを正当化する事は決して許されません。私たちは、神が本当に強く、悪を憎まれることを厳粛に覚え、自戒すべきです[10]。「神がともにおられるのだから恐れない」という告白を乱用して、変な楽観論を持って欲しくはないし、この言葉でもって家庭や生活を犠牲にするような事はしたくないのです。戦争は大変です。まず戦争が起きないよう努めるべきです。ここを読んで「聖絶などしてはならない」と言える現代であれば尚更、私たちは平和づくりが求められています。そして、戦争以上に、人間の生活や農業、夫婦という小さな営みを、また自然環境を守るための戦いを優先したいと思います。これらを失うことはどれほどの悲しみでしょう[11]。それもまた簡単な戦いではありませんが、私たちの神、主がともにおられますから、恐れず弱きにならず、この戦いをしていくのです[12]

 キリストは、この戦いの絶えない世界に、全く大胆で、思いもかけない新しいあり方を示されます。自分の欲望や利益のために人を押しのけるとか、自分の狭い正義感のために人間らしさや家庭や自然も壊して構わないとか、そういう人間の愚かさを覆されるのです。神がともにおられるとは、そのようなものとして私たちが生きることです。私たちの小さな手の業には、自分や出会った人たちの家庭には、この自然には、国家の戦争の勝利にも引けを取らない価値がある。それを守るための戦いは簡単ではないとしても、神がともにおられるほどの尊い意義があるのだと確信して、自分の人生をシッカリ生きるのです。

 

「私たちを愛したもう天の父よ。『恐れてはならない』と言いたもう御声に励まされて、私たちが平和のため、日本や近隣の国々のため、隣人や家庭、小さな人たちのために、労し、戦うことが出来ますように。惑わされず、また逃避せずに、大切なものを守らせてください。大変ではあっても、あなたの愛する私たちの歩みに、かけがえのない価値を確信させてください」

 



[1] 「奉献する」とありますが、実際には、竣工した上で住み始めている、ということでしょう。P. C. Craigie, The Book of Deuteronomy, The New International Commentary on the Old Testament, p.273.

[2] 申命記二四5「人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」 これは「妻を喜ばせる」ためであって、「子どもを産むため」ではないことも注目。結婚の目的の一つは、子孫を産むためですが、それ以上に人格的な交わりこそが目的です。子孫を多く産んで国力を増強するために結婚するのではありません。それならば、結婚は国家繁栄のための手段となってしまいます。

[3] レビ記十九23-25。

[4] この事は、十七16で王に対する注意として戒められていました。

[5] たとえば、以下の記事を参照。「卓越したリーダーはチームの士気を高め、人をやる気にさせるすぐれた演説術を身につけている。ナポレオンの演説は次の三つの要素を含んでいた。 一、まず最初に兵士らの過去の功績を称賛する。これは部下を認め心からの信頼を示すことで、彼らの自尊心を煽る効果がある。 二、次にこれからやる共同の目標を告げる。ここで戦う相手をはっきりさせる。 三、そして最後に敵をののしり、魅力的な褒美を与えることを匂わせる。相手をおとしめることで「自分たちは有利である」と思わせ、かつ「頑張れば褒美が手に入るのだ」というエサを最後に持ってきてやる気を引き出すのだ。戦いに臨む兵士に伝えなければならないことは、これですべてなのだ。」ナポレオンの演説術「人間力」エピソード集「君ならできる。目標はこれだ。敵はまぬけだ。褒美もでかいぞ」

[6] 単調な現実に目を向けるのが面倒臭いから、ますます家や農業や結婚を後回しにして、もっと血湧き肉躍る、戦争とか「国を守る」という大義に酔い痴れる、という力も働くでしょう。「家族のためだ」と言い聞かせて給料を入れるだけで、本当に家族にとっての家長(夫、父親)としてじっくり向き合うことを避けてしまうのです。

[7] 教会も又、「聖戦」の名の下に十字軍などを行いました。十字軍は「聖絶」を掲げたが、時代的には現状への不満のはけ口としてイスラムとの戦いにすり替えたのです。今ここでの仕事に忠実にあるよりも、他に敵を作ることによって、問題を押しつけてやり過ごそうという誘惑は人間に大きいのです。

[8] しかし、士師記十八27ではダン部族がこれをしています。「彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。」

[9] 特に、二一10-14では、捕虜の女性さえ、権利を与えられるとされています。その他、律法全体の正義や憐れみ、権利保護の対象に入るのであって、エジプトの奴隷のような非人間的な扱いは断じて禁じられていたのが申命記律法であったことを忘れてはなりません。

[10] McConvilleは、三つのポイントをあげて、本章と聖書の戦争についての記事を読む上での助けとしています。①生きている以上、戦争は避けられず、なんらかのスタンスを持つ必要がある。イスラエルの戦争は主(ヤハウェ)の教唆とその先導のもとになされることを本質とする。②申命記の戦争律法は、現在の戦争にすべてが当てはまるわけではない。現代に「聖戦」はない。③聖書の戦争論は、神が悪と戦われることの象徴である。悪と戦闘とは、地上的な形を取り、最終的には天における戦争と切り離すことは出来ない。J.G. McConville, Deuteronomy, Apollos Old Testament Commentary, IVP, pp.322-323.

[11] 5-7節は、二八30と共鳴している。「あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。」

[12] 恐れずに戦争に行け、家の事は心配するな、ではありません。恐れずに、家の事を大事にせよ、自分の生活の義務を果たせ、なのです。それこそが、国を守る力です。「今日においても、一つの健全な家庭が形成されるなら、その家庭が及ぼす社会的影響は実に広く、深いものがある。家庭の形成、保持のため、どれほど厳しい戦いがなされ犠牲が払われても、行き過ぎとは言えない。日常生活において、家を建てたり、ぶどう畑を管理活用したり、家庭の形成や保持など、武力によらない種々様々な戦いがある。こうした日常の営みこそ何よりの力であり、国を守る力なのである。」宮村武夫『申命記 旧約聖書講解シリーズ』p.142

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問5「みじめさにまさる感謝」ローマ7書22~25節

2016-04-03 17:36:19 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/04/03 ハイデルベルク信仰問答5「みじめさにまさる感謝」ローマ7書22~25節

 

 前回は私たちが自分の惨めさに気づくのは何によってですか、神の律法によってです。神の律法は、私たちに、神を愛し、隣人を愛することを求めています、という問3、4を見ました。神は私たちに愛することを求めておられる。その基準に照らした時に、私たちは自分の惨めさに気づく、というのです。それが、今日の問5です。

問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。

答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。

 「これらのこと」とは、神を愛し、隣人を愛することです。そして、私たちは神と隣人を愛するんではなく、

「憎む方へと生まれつき心が傾いている」

とこの第五問は答えるのです。「いや、ちょっと待ってくれ。私は、確かに完璧ではないけれども、それでも精一杯、人を愛したいと思ってはいる。他の人と比べたら、これでもマシな方だ。神と人を憎むだなんてとんでもない。そこまで厳しく言われるのは心外だ」。そう思う人もいるでしょう。私たちは自分の愛のなさ、罪と欠点があることは認めますが、しかし、それでも平均的には良い方だ、もっと酷い人もいる、と思いたがります。「あなたはよく頑張っているね」と言ってもらうのを期待しています。何年も前に、聖書の学びをたまたま一対一ですることになってしまった方と、よく分からないまま時間が過ぎていったことがありました。最後に私がお祈りをして、「神様。私たちは、あなたの前に顔を上げることもできない罪人です」と祈った時、相手の方は心の中で「私はそこまで罪人じゃないわよ」と、カチンと来たのだと仰っていました。それが人間の心理です。

 この第五問が、「あなたはこれらすべてのことを、精一杯行っていますか」というような質問であったなら、そんな反論もよかったでしょう。しかし、そうは問いませんでした。最初から、

「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」

と問うたのです。なぜでしょうか。それは、「これらのこと」つまり、神を愛し、隣人を愛することが、ただ「神を愛し、隣人を愛しなさい」とは言われていなかったからです。

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」

あなたの神である主を愛せよ、であり、また、隣人を

「自分のように」

愛せよ。その愛し方そのものが、「精一杯」とか「人よりも」ではなく、完全な愛し方を求めていたのです。いいえ、そもそも「愛する」とは、出来るだけ優しく人にしてあげるということではありません。自分がいい人だと思われるために、一日一善を欠かさない、というようなことでもありません。まして、その愛が足りないと言われた時に、カチンと来たり傷つけられた気になったりして、言い返すようなそんなことではないのです。

 反対に、ここで

「神と隣人を憎む」

と言われていました。これも、強すぎて、いいや神には感謝している、隣人もそれなりに大事にしている、と抗弁する人には引っかかるでしょう。確かに、普通「憎む」というと憎悪や敵対心のような、毒々しい感情が伴っています。完全に愛しているとは言えなくても、憎んでいるわけでもない、と言いたい所です。聖書の中で、「憎む」という言葉は、決して愛の真反対とは限りません。「自分のいのちを憎む」とか「親を憎む」という言い方をイエスはなさいました。それは、自分のいのちや家族を憎悪しなさい、という意味ではなく、自分のいのちや親を後回しにしてでも、イエスに従いなさい、神の国を第一にしなさい、という意味でした。

 ですからここでも、神と隣人を憎む、というのは「始終憎しみを抱いている」のではなく、神と隣人を「後回しにする」ことです。本当に大事にはしていない。そして、本当に大事にしているのは、結局自分です。自分が可愛くて、人にも親切にし、神に感謝しています。だから、何かあって、自分の夢が潰されたら、人も罵り、神をも呪うのです。子どもに自分のすべてを捧げるような母親は、結局、自分の不安や果たせなかった夢、立派な母親として評価されたい、そんな自己実現を子どもに押しつけているに過ぎない場合があります。子どもはそんなプレッシャーにも精一杯答えようとしますが、自分の意志や自由を押し殺していることに耐えきれなくなって、ある時、親の敷いたレールから外れる日が来ます。すると、母親はその子を責め、罪悪感を与え、無理にでも操作しようとするかもしれません。子どもが感じるのは愛情ではなく、憎しみです。相手を愛していれば、何があっても愛します。しかし、もし、何かがあって、その愛が憎しみに変わるのだとしたら、罵ったり、呪ったり出来るのだとしたら、それは、最初から神の律法が言うような愛ではなかったのです。

 しかし、今日の言葉を素直に受け入れるなら、私たちは希望を持てます。なぜなら私たちは、生まれつき神や隣人を憎んでまで自分を可愛がる傾向を持っている、と言い切っているからです。そんな傾向を持っている人間に、努力して、愛しなさい、頑張って人を大事にしなさい、といくら道徳を説いた所で、不可能です。そうしたくないのが、生まれつきの傾向なのですから。だから、私たちは自分の努力で人を愛するのではありません。かといって、どうせ愛せなくてもいいんだ、ではありません。これは、ハイデルベルク信仰問答で教えられてきたように、私たちの「悲惨」なのです。愛の人になれることへの憧れがありつつも、心の中には人や神を憎んでも我が身をかばおうとする醜い思いがある。それは悲惨です。パウロはそれを先のローマ書で言っていました。

ローマ七24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 自分の自己中心な本性を見ると、本当に惨めな思いになります。でも、私たちの主イエス・キリストは、私たちの心に神の律法を与えてくださいます。心を、神の律法を喜ぶよう変えてくださるのです。まだまだ、わが身可愛さの行動を取ってしまうとしても、もっと深い所で、神が私たちを取り扱ってくださるのです。それが主イエス・キリストの御業を通して私たちに届けられる救いです。この恵みに与るためにも「自分はまだよくやっている」などと、自分の行動を美化したり誇ったりするプライドはさっさと捨てましょう。主の恵みを日々戴いて、心から謙虚に、愛する者へと変えて戴きましょう。

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