聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/15 マタイ伝12章46~50節「イエスの母、兄弟姉妹」

2020-11-14 11:22:53 | マタイの福音書講解
2020/11/15 マタイ伝12章46~50節「イエスの母、兄弟姉妹」

前  奏 
招  詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈  祷
賛  美  讃美歌86「御神の恵みは」①②
*主の祈り  (週報裏面参照)
交  読  詩篇1篇(1)
 賛  美  讃美歌461「主我を愛す」①②
聖  書  マタイの福音書12章46~50節
説  教  「イエスの母、兄弟姉妹」古川和男牧師
賛  美  讃美歌460「幼き子らよ」
献金・感謝祈祷
こども祝福式
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌540「御恵み溢るる」
*祝  祷
*後  奏

 「イエスがまだ群衆に話していたとき」
と始まります。説教の途中、話している最中でも、
「見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。」
 それがどんな用件であれ[1]、ご家族が呼んでいらっしゃるなら、ご家族を優先していただかなければ。お話しを中断するのが当然だろう、と気遣ったことが発端になっています。一方、48節で、
…「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか。」…[2]
49それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
と仰有った言葉は、イエスが家族を邪険に扱ったかのようにも読めます。思い起こしてください。マタイの福音書の最初は、主イエスの家系図でした。1ページ目の、あの退屈にも思える系図です。家族のつながりがあって、イエスがおいでになったのです。また、イエスは後に、
15:4「神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と(律法において)言われました。5それなのに、あなたがたは…」
と強く仰有いますし[3]、兄弟についてもマタイは「兄弟」という言葉を31回も使っています[4]。
Ⅰテモテ5:8もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。
 こういう家族関係の大事さを教会は受け止めるよう召されています。ここには、信仰か、家族か、どちらが大事か、という二者択一はありません。信仰とは、家族をも神の恵みのうちに受け止めさせてくれます。しかし、人間はそれを忘れて考えがちです。白か黒か、極端に走りやすいのです。ここでも、イエスより家族が、またそれを告げた人の方がイエスに、「説教よりもご家族が来ておられますよ」と取捨選択を思いつくのです。それに対してイエスは、その二者択一という道を選ばず、目の前にいる弟子たちの方に手を伸ばして、言われたのです。
「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。50だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
 イエスにとって母や兄弟たちは、かけがえのない存在でした。血を分けて、今まで一緒に住んできた家族です。それは特別な関係でした。しかし、それと同じぐらい強い関係が、今、ここにいる弟子たちとの間にある。この人たちは、わたしの兄弟、姉妹、母だと言われます。
 ここに
 「わたしの父のみこころを行うなら」
とあります。イエスは神を「わたしの父」と呼ばれ、親しい、無二の関係にある事を忘れません[5]。その父なる神の「みこころ」は、御子イエスを通して、この世界に届けられました。神の深い憐れみ、罪人を滅ぼさず、赦しと回復を与えて、私たちも互いに生き生きと生かし合う、それが父の「御心」です[6]。イエスが神を「天におられるわたしの父」と親しく呼ぶ、そういう深い神の、まさに「心」をお持ちである神の「みこころ」のことです。まず神が私たちを愛して、生かして、私を神の家族の中に迎え入れてくださった。その無償の招待に与ることです[7]。エペソ人への手紙にはこうあります。
「天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父」(エペソ3:15)[8]
 神が家族というものを定めました。血の繋がり、母親の産みの苦しみは本当に尊いものです。それは、神ご自身が家族というものを創造される方であるからです。神が私たちの父ともなり、産みの苦しみも厭わない母ともなってくださるのです。そして、神ご自身のひとり子イエスが、私たちを呼び集め、わたしの兄弟、姉妹、母だと、手を差し伸べてくださるのです。
 この時点での弟子たちは、イエスの教えをまだまだ理解できず、とても未熟です。イエスが語ってくださる神の言葉、私たちの父となった神、その神の子どもとして私たちがどう生きるべきかに心を燃やされつつも、イエスの母や兄弟が来たと聞いて、きっとこう思ったのではないでしょうか「いいなぁ、あの人たちはイエス様の家族で。私とは違うなぁ。イエス様は私たちに有り難いことばを語ってくれるけれど、ご家族には勝てない」。しかしイエスは、「あなたがたは本当にわたしの家族だ」と仰有った[9]。この驚きで12章は閉じられます。

 主イエスも家族から誤解され、理解されなかった、ということにも慰めを見出しても良いでしょう[10]。私たちの現実の家族が、血の繋がりや親子、兄弟ということに束縛される窮屈な関係になることも少なくありません。しかし、血の繋がる親子も、血の繋がらない夫婦も、家族としてくださるのは、神です。そして、神の子イエス・キリストが、ご自身の血をもって私たちを神の子どもとしてくださいました。キリストの血は、何よりも強く、しかも窮屈でなく安らかな、神との、そしてお互いとの主にある家族関係をくれたのです。イエスが示した言葉、聖書に記される神の御心は、神が私たちを神の家族にしたいと願う言葉です。周囲を見回して、主イエスが私たちにも手を差し伸べながら、こう仰有っている言葉を聞きましょう。
見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。

「すべての家族の呼び名の元である父よ。あなたが、ともに歩み、互いに支え合う、家族をお作りになります。今、主イエスにあって、神の愛によって、聖霊の交わりによって、家族への祝福を注いでくださることを感謝します。私たちの思い以上に素晴らしく喜ばしい、あなたの御心にいつも立ち戻りながら、互いを喜び、互いに育て合い、ともに恵みを祝わせてください」

脚注

[1] マルコの福音書三章の並行記事(31~35節)は、直前に「21…イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。」を置いて、この母や兄弟たちの用件も、イエスの活動を留めて家に連れ戻そうという動機だったことを示しています。しかし、マタイはそのような書き方をしていません。そして、13章から新しい段落に入る前の、12章の結びとして、「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」という宣言の積極的な重要性に焦点を当てています。

[2] 47節「ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。」は、欄外中にあるように、無い写本が多く、むしろそちらが原典に近いようです。多くの翻訳が、47節自体を脚注としています。

[3] 母 マタイに24回。1:18(イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。)、2:11(それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。)、13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」14そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、)、20(「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」21そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。)、10:35(わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。)、37(わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。)、12:46(、47)、48、13:55(この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。)、14:8(すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。)、11(その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。)、15:4(神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。5それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、)、19:5(そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。)、12(母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」)、19(父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」)、29(また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。)、20:20(そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。)、27:56(その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。)

[4] 兄弟(聖書協会共同訳「きょうだい」) マタイに31回。1:2(アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、)、11(バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。)、4:18(イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。)、21(イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。)、5:22(しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。23ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。)、47(また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。)、7:3(あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。4兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。)、10:2(十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、)、21(兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。)、12:46(、47)、48、49、50、13:55(この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」)、14:3(実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。)、17:1(それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。)、18:15(また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。)、21(そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」)、35(あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」)、19:29(また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。)、20:24(ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。)、(21:28-31(ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。)はアデルフォスではなく、)、22:24(「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。25ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。)、23:8(しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。)、25:40(すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』)、28:10(イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」)

[5] この「天におられるわたしの父」こそ、イエスの根本的なアイデンティティであり、イエスが私たちをも神とつなぎあわせ、「天におられるあなたがたの父」として示してくださった根拠です。マタイで11回。7:21(わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。)、10:32(ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。)、11:27(すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。)、12:50(だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」)、16:17(すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。)、18:10(あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。19まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。)、20:23(イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」)、25:34(それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。)、26:29(わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」)

[6] 「あの御心」という言い方で、全般的な神の願い、意思、命令というよりも、強く特定しています。このことは特に、7:21「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」で明らかで、そこでの説教で触れた通りです。これ以外にも、マタイで「みこころ(セレーマ)」は常に定冠詞がつきます。6:10「みこころが天で行われるように、地でも」、18:14「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるわたしの父のみこころではありません」、26:42「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」でも、「the will」という言い方が使われています。21:31も同様の言い方が、例え話の中の「父」の「願ったとおり」という意味で出て来ます。

[7] それは私たちが神のために何かをするとか、立派なキリスト者として生きるとか、そういううわべよりも深い、心の刷新です。

[8] エペソ3:14~21「こういうわけで、私は膝をかがめて、15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。16どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」

[9] あるいは、ここで「弟子たちの方に手を伸ばして」と言われていますが、この「弟子」とは46節で「群衆」、イエスの話を聞きに集まっていた人と同じなのかもしれません。マルコ3:34の並行記事では「そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」と対象は広く取られています。ルカの並行記事、8:19~21では「しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」と、目に見える対象を提示しない言い方をされています。ただイエスの話に惹かれて、集まって、イエスが話す神の言葉、神の国の教えに耳を傾けていただけの群衆を、「父の御心を行っているわたしの家族」と言われたのだとすればビックリです。

[10] 家族でも、誤解をします。血がつながっている、小さい頃からよく知っている、そういう思いが、家族だからこそ、偏見となり束縛となり、窮屈な関係を生む。それが、イエスの家族でも起こっていました。家族からの誤解やもつれで悩む者は、イエスも誤解された事実を知って、ホッとするのではないでしょうか。「イエスの家庭生活について書かれた箇所はどれも、慰めというより心乱されることばかりです。カナでマリアが助けを求めたときイエスは、「わたしと(あなたは)どんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2・4)と言いました。後に、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」という伝言を受けたとき、「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」(マルコ3・32~33)と返答しました。またついにマリアは、十字架の下に立たされることになりました。イエスは、母親と愛する弟子ヨハネを見ながら、母親にこう言いました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)。しかし、父ヨハネについての言及はありません。亡くなったのでしょうか。 崩壊した家族、別居や離婚、片親の子供、また子供の自殺願望や薬物依存に大きな不安を抱いている親たちがいる今の時代、まったくの機能不全に見えるイエスの家族は、いくらか慰めになるかもしれません。家族の一致、親への愛情、あらゆる犠牲を払ってでも家族で過ごすことを優先する、いわゆる家族の価値を、イエスは否定しないものの、矛盾した態度をとっているのは明らかです。ただし、教会が独身に高い価値を置くのは(とくに神に仕えたい人たち)、イエスの家族のひどく混乱した状態にルーツがあるとは思えません。…」 ナウエン、42~43頁

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