聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問32「この世において様々な益に」 エペソ一章3~6節

2015-01-06 09:25:49 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/01/04 ウェストミンスター小教理問答32「この世において様々な益に」

                                                        エペソ一章3~6節

 神様が私たちを、救いに召してくださることを、私たちはどのように考えているでしょうか。今日の、ウェストミンスター小教理問答32は、私たちの「救い」のイメージを豊かに膨らませてくれる言葉ではないかと思います。

問 有効に召命される人々は、この世において、どのような益にあずかるのですか。

答 有効召命に召命される人々は、この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。

 「益」を言います。神様が私たちを、イエス・キリストの福音を受け入れるように力強く働いてくださる、「有効」に「召命」してくださることに続いて、「益」を語るのです。この事自体、素晴らしい事ではないでしょうか。いいえ、そもそも聖書が語る言葉が、信じて従う者に約束されている「祝福」や「益」なのです。神様が、イスラエルの民の父祖であるアブラハムに、最初に語った言葉からしてそうでした。

創世記十二1「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

 わたしが示す地へ行きなさい。

 2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

 あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

 あなたの名は祝福となる。

 3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 モーセが民に語る言葉も、預言者たちが語る悔い改めのメッセージも、神様の豊かな祝福を語っています。本来、神様がお造りになったこの世界そのものが、あらゆる動物や様々な植物でバラエティに富んだ、色とりどりの豊かな世界でした。そこには、神様の喜びや想像力を凝らした世界がありました。その世界に置かれた人間に対しても、神様は祝福を溢れさせようと願っていらっしゃいました。ですから、私たちがこの神様との関係に入れられるならば、当然のように、豊かな益を期待してよいのです。

 よく「御利益宗教」という言い方がされますね。家内安全、商売繁盛、無病息災、そんな願いを叶えるには、どこの神社が良い、どこの宗教の方がよい、などと考えることを「御利益主義」と言って見下すのです。けれども、キリスト教は、御利益を軽蔑したり、御利益はないと否定したりするのではありません。むしろ、最大の豊かな御利益を約束されています。本当にこの世界をお造りになった、全知全能の神様のお約束ですから、これ以上確かな約束はありません。そして、神様ご自身が私たちを祝福しようと願っておられるお方です。有効召命とは、その祝福(御利益)にも直結しているのです。

エペソ一3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 「天にあるすべての霊的祝福」! すごい表現です。神様は、私たちが想像もつかないほどの祝福を考えておられるのです。けれども、その後に続いているのは、

 4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 私たちが、御前で聖く、傷のない者とされること、言い換えれば、イエス・キリストによって神様の子どもとなることを、愛をもって定めておられました。今日のウェストミンスター小教理問答32で、

 …この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。

とありますが、義認と子とすることは、神様の側の「決定」ですから、救われた時、その瞬間に、罪を赦されて義とされ、神の子とされるのです。そういう立場はもう持ちます。そして、「聖化」は「決定」ではなく「みわざ」と言われていて、ずっと続いていくことです。それは「聖」と「化して」いくことですが、神様の子どもとして、中身も神様に似た者とされていく、ということですね。私たちはイエス・キリストを信じた時点で、既に、罪を赦されて神の子どもという立場を与えられています。そして、生涯掛けて、その神の子としての成長をいただくのです。そして、そこに伴って、様々な益も約束されているのです。

 よく「御利益主義」と言われるのは、その肝心な神様との関係が回復して、親しい交わりが与えられることをそっちのけに、それに伴って与えられる筈の喜びや繁栄ばかりを求めていることではないでしょうか。それは、余りに勿体ないことですし、神様に対しても失礼でしょう。神様との関係にこそ、最大の祝福と喜びである「愛」があるのです。神様が全てのことを益として下さる、というローマ書八章28節の約束も、この神の子どもとして成長していく上での「益」であって、私たちが願い、嬉しがるような「益」ではないのです。でも、神様は、私たちが願う以上、想像するより遥かに優れた「益」をご計画なさっておられます。目の前のことは辛くても、長い目で見て、最大の益を用意されているのです。有効召命とはそういう祝福を含んでいるのです。

 一年が始まって、この夕拝で、多くの人が初詣で願うように、良いことばかりを神頼みするようなことはしません。でも、私たちは、神様から希望を頂いています。諦めや悲観的な思いは捨てましょう。神様は、すべてを働かせて、益として下さいます。最善の、最高のご計画の中で、私たちを愛する子どもとして導き、祝福してくださいます。

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申命記四章32~49節「心に留めなさい」

2015-01-06 09:08:29 | 申命記

2015/01/04 申命記四章32~49節「心に留めなさい」

 

 申命記四章のこの箇所は、三四章まで続きます申命記の最初の部分から、第二の段落に移っていく節目に当たります。モーセの説教の結びの勧めが、力強く語られています。ここでモーセは、これから約束の地に入ろうとするイスラエルの民に、彼らがこの四十年の間に経験してきた、出エジプトの出来事、シナイ山で契約を結んだ出来事を思い起こさせます。

32さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

33あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

34あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

 こう畳みかけるように言ってから、その目的をこうモーセは言います。

35あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

 主だけが神であって、他には神はない。それをあなたが知るために、ここまでの数々の御業があって、あなたがたが神の民とされたのだ。その目的に尽きる、と言うのです。

 ここでモーセの言葉を聞いている民の中には若者もいました。大半が、この四十年の間に生まれた者たちであって、直接、出エジプトやシナイ山での光景を目にしたわけではありません。ですから、直接奇跡や不思議な出来事を見たというより、イスラエルの民とは出エジプトの御業に与った民である、その民であるあなたがたに語る、とモーセは訴えているのです。

 それから三千五百年も後の私たちは、聖書の奇跡を読んでも、自分自身にはこういう奇跡的な体験はしたことがなくて、この時代にタイムトラベルでも出来ればいいのになぁ、と思ってしまったりするかも知れません。しかし、私たちもまた、この神の民に加えられて、聖書を与えられて、数々の奇跡や御業を、自分たちの歴史として共有しています。直接の目撃や体験をしていなくても、その記憶を継承して、その歴史の上に自分たちも今ここにあるのです。そして私たちにも、そうした神様の御業、摂理、導きが、

…主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るため…

という目的(ゴール)へと向かわせるものであることを覚えたいのです。新年礼拝という切り口で考えるなら、この一年に私たちにどんなことが起きようとも、それは、究極的には、主だけが神であって、他に神はないことを私たちが心から知るために通って行く出来事なのです。

 それは「主だけが神である」というアタマの中の知識だけの話ではありません。

39きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。

40きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。

 こう言い換えられるように、主を唯一の神とする、と信じることは、その主の掟と命令とを守り行うことに直結します。主を神だと言いながら、生活においてはその主の言葉を侮(あなど)っているなら、本当は、主が唯一の神ではなく、自分の方が神になっているのです。すべての事は、主だけが神であり、その神が私たちを幸せにしてくださると知って、その掟に従うため。人間が造った他の神は神ではないし、自分もまた、神ではないのだと知るため。そのために、主は様々な力強い御業を果たされて、私たちにご自身を現して、私たちが、この主との、他にはない交わりに生きるように導いてくださっているのだ、そう教えられるのです。

 繰り返しますが、私たちは、自分のために証拠を求めて、奇跡や特別な御業を求めてはなりません。すでにそれは起きた事であり、私たちはその中に生かされているのです。今も主は私たちに御業をなしておられる。そう信じる事が、主が神であるという告白に通じます。特別なこと、自分たちにとって手頃な御業や幸せを求めて、それがなければ信じることも服従も拒めるかのように考えるとしたら、まだ自分が神よりも上に立とうとしているのです。主はここで幸せを語っておられます。けれども、その本当の幸せに至るためには、まず私たちは試みられ、戦いや恐ろしい思いさえ通りながら、整えられる必要があるのです。

 41節以下の、三つの町を取りのけた事は、まさにそのことを物語っているのでしょう。

42以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。そのものはこれらの町の一つにのがれて、生き延びることができる。

 憎しみや計画的ではなくて隣人を死なせてしまった場合、加害者が逃れることの出来る町が設けられました。そこに住む限り、被害者の家族の復讐から守られて暮らす事が出来る、「逃れの町」の規定です。これから入る約束の地での生活に、この「逃れの町」は最優先課題の一つとして実行されるのですね。新しい生活に、こんな町を備えなければならない。誰かを死なせてしまうこともあるかもしれない。自分の愛する家族が被害者になって、加害者を殺したくなることが起きるかも知れない。そんな時の解決策が、加害者が「逃れの町」で再出発をするというギリギリの規定です。そんな複雑な事態も想定しておきなさい、と主は言われるのです。

 神様を礼拝して律法に従って生きていれば、決して悲劇や災難、不条理で人生の歯車が狂ったりはしない、などとは約束されません。イエス・キリストが十字架で贖いを果たしてくださったと信じても、こんな複雑な事件が降りかかることはあるのです。そこで信仰を投げ出してしまうのではなく、そんな歩みの中でなお、主の掟と命令とを守る。そうして、主が、主だけが神であり、他に神はいないという告白に生きていく。そういう生き方へと導かれるのが、贖い主なる主が語られる旅路です。私たちの思いや力、理解には限りがあります。私たちは神ではなく、ちっぽけな存在です。でも、その私たちを顧み、間違いや不条理に巻き込まれずにはおれないこの地上の歩みにも御業を現し、主を神として生きる人生を送るようにと、主が私たちに語りかけ、働きかけて、幸せを用意してくださっています。

 39…心に留めなさい」

と言われます。毎日の生活、ふとした時、何をしていても、唯一の神である主とその御言葉を心に留める。喜びの時もあれば、どうしようもない悲しみの時もある中、いつも主を見上げて、主の御手に委ねて、従う道は、主が必ず幸いに至らせてくださいます。

 

「あなた様だけが神であるとの告白を、私たちのすべての生活において、貫かせてください。いつも、あなた様の礼拝の民として生きる幸いをお恵みください。偉大な真の創造主が、私共を心にかけて、神ならぬものを恐れる過ちから救い出そうと、人生を導いておられます。その測り知れない慈しみをもって、私共を、取り分け苦しみの中にある方を、お支えください」

 

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問31「イエス・キリストを受け入れるように」 エゼキエル書十一章19-20節

2015-01-01 21:43:22 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/12/28 ウェストミンスター小教理問答31「イエス・キリストを受け入れるように」

                                                        エゼキエル書十一章19-20節

 

 聖霊が、私たちに、イエス・キリストの贖いを届けてくださる。そのことを確認しながら、今日は「有効召命」という言葉を手がかりに、神様の救いの恵みを覚えましょう。

問 有効召命とは何ですか。

答 有効召命とは、それによって神の霊が、[第一に]私たちに自分の罪と悲惨を悟らせ、[第二に]私たちの思いをキリストを知る知識で照らし、[第三に]私たちの意志を新たにすることによって、福音において無償で私たちに提供されているイエス・キリストを受け入れるように、私たちを説得し、また、実際受け入れることができるようにしてくださる、そのようなみわざです。

 「召命」というのは、「召す」ということです。こちらに来なさい、あなたはどこに行きなさい、このような仕事をしなさい、裁判所へ行きなさい…そのような時に「召集」「召喚」「召還」と言います。礼拝の最初でも「召詞」と言って、神様が私たちを礼拝に召しておられる言葉を一緒に聞いて、礼拝が始まるのですね。そして、「有効召命」という場合の召しは、「イエス・キリストを受け入れるように」という召しです。教会では、いろいろな機会に、まだイエス様を信じていない人は、イエス様を受け入れましょう、福音を信じてください、と呼びかけます。これも、「召し」です。

 けれども、そういう招きをしても、分かりましたと応じる人ばかりではありません。むしろ、殆どの人は、なかなかその招きに答えませんね。では、神様が人間を救おうとなさっても、人間がそれを断ることは出来るのでしょうか。神様の呼びかけを人間がスルーしてしまうこともあると考えて良いのでしょうか。

 今日の「有効召命」という言葉は、それを言っています。聖霊が救いを届けてくださる時には、それは「有効」だ、「効き目・効力が有る」と言うのですね。無効ではなくて、有効なのです。人間が福音を話しても、相手が聞くかどうかは分かりません。けれども、聖霊が救いへと招いてくださるのは「有効」ですよ。人間が無効にしたり、スルーしたり出来ない、確かな「召し」ですよ、と言っているのです。教会の説教や集会での招きは拒むことも出来ます。でも、神様が見えない所で深く心に働いておられて、

 …福音において無償で私たちに提供されているイエス・キリストを受け入れるように、私たちを説得し、また、実際受け入れることができるようにしてくださる…

聖霊の御業が有効に働いているから、人がイエス・キリストを受け入れることが出来るのです。そういう御業を信じて、教会は、伝道を続けていけるのです。

 もし神様が招かれても、人間が拒むことが出来るとしたらどうでしょう。召命の内容は、ここにある通りです。

…[第一に]私たちに自分の罪と悲惨を悟らせ、[第二に]私たちの思いをキリストを知る知識で照らし、[第三に]私たちの意志を新たにする…

 人間は、自分の罪と悲惨を認めたくありません。キリストを知る知識の光からは何とかして逃れて、隠れようとするのが生まれつきの人の本心です。意志を新たにされないまま、古い自分では、意志を新たにすることなど願いもしません。もし、人間に、1パーセントでも、神様の招きを拒む余地があったとしたら、救いはたちまち脆く崩れ去ってしまいますし、私たちも絶望するしかありません。でも、神様の召命は有効です。

ヨハネ六44わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 この「引き寄せる」という言葉は、他に漁師が海に投げ入れて魚でいっぱいになった網を引っ張る時に使われる言葉です。グイーグイッと手繰り寄せる、そういう動作です。神様が、私たちのこともこのように力強く引っ張ってくださるのです。そうして私たちが、福音において提供されているイエス様を、受け入れるように説得してくださって、受け入れさせてくださって、イエス様のもとに行く事が出来る、のですね。決して、自分では行くつもりもないのに、嫌がる私たちを、神様が無理矢理引き摺っていく、ということではないのです。私たちの心に働いてくださって、自分の罪と悲惨を悟ることが出来るようにしてくださり、イエス様を知る知識で心を照らされ、私たちの意志を新たにしてくださる。だから、本人としては、色々な迷いや心配はあるとしても、それでも自分で納得して、「イエス様を信じよう。自分の罪や悲惨は本当だ。イエス様によって新しくしていただきたい」と、心から願って来るのですね。それは、実は、聖霊による御業であって、「有効召命」と呼ぶに相応しい、力強い招きなのです。先に読んだ通り、

エゼキエル十一19「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

20それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの民となる。」

 私たちに新しい心を下さることは、神様のご計画でした。この世界を作られた神様の大きなご計画の中で、私たちの心が罪を悔い改め、イエス様の光で照らされ、新しくされることが着々と進んでいくのです。だから、私たちもまた、神様の恵みに与って、救いをシッカリと戴き、新しい心を戴くことを期待していいのですね。神様が、私を救いに招いておられるだけではなくて、私たちのうちに力強く働いてくださいます。罪を認めさせるだけではなくて、イエス様を知る知識の光を照らしてくださいます。そして、心を新しくしてくださいます。ホントかな?と思ってしまっても、神様の方がそれを望んでおられるのですから、私たちは、神様に、素直に祈っていきましょう。

 神様は、どんなひどい人の心にも働いて、罪に気づかせ、イエス様の贖いを受け取らせることが出来るお方です。「この人は駄目だろう」と諦めることはありません。逆に、どんないい人も、聖霊によらなければ、罪を認めることは出来ません。「いい人だから信じるだろう」という期待も的外れです。神様にお任せして、ただ、自分については謙遜に、正直に、そして神様の福音への信頼と喜びに溢れて歩む。それが、神様の私たちに対する御心ですし、そういう私たちの姿を通しても、有効召命の御業は広がるのです。

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元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」

2015-01-01 21:40:57 | 説教

2015/1/1 鳴門キリスト教会元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」[1]

 

 初めて新年をご一緒に迎えることが出来て、本当に感謝をしています。そして、私にとっては2年目に入っていく今年、そしてこれからの歩みに、主がどんなことをご計画なさっているのか、と思いを馳せます[2]。私自身、牧師としてまだまだ成長したい、教会に仕え導くために、もっと整えられたいと願いながら、昨年読んでいた本に、牧師のリーダーシップであるべきビジョンとして、こんな言葉を印象深く読みました。

「わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践する…。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」[3]

 教会員全員が確信をもって、様々な人を友として受け入れ、礼拝に一緒に集うことが出来るかどうか。同じような事を、今月の後半に参加してきます教会からも、祈りの課題として投げかけられました。

「主が、自分のいる教会を「すべての民の祈りの家」としてくださるよう祈りましょう」

 この教会に、色々な国の人が来る。肌の色や言葉、文化の違う人が来る。それは、面倒くさいことでもあるかもしれません。また、これはアメリカの教会での表現であって、日本ではまた違った言い方が必要かもしれません。多国籍になることは勿論ですが、そうでなくても、判で押したような教会になるのではなくて、本当に色々な方が集まっている。そこで、簡単に「クリスチャンとはこういう人」などと言えないくらい、個性溢れる人が集まってくることも喜べるというのは大事なチャレンジだなぁと思わされます。

 今日開きましたエペソ書の四章最初は、エペソ書の丁度真ん中に当たりますのが、この四章の冒頭です。ここまで一章から三章まで語ってきた、神様の奥義、救いのご計画を踏まえて、パウロは、「その召しにふさわしく歩む」ことを、ひと言で言えば、

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と要約しています。パウロはエペソ一9で「みこころの奥義」を、

一9…この方[イエス]にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と述べています。すべてのものがキリストにあって一つとされること。それが、御国であり、神様のご計画であり、救いの完成です。キリスト教の「救い」やゴールは、ただ私たち一人一人が天国に入るとか永遠のいのちを持つというだけの、個人的な、バラバラのことではありません。神様が世界をお造りになった最初に、人間を共同体としてお造りになり、ひとつの家族としてお造りになったのです。罪のために人間は自己中心的になり、自分さえよければいいと考えるようになってしまいました。そこからイエス様の十字架と復活の御業に与って、救われるというのは、ただ私たちが罪の罰や地獄を免れさせていただく、というだけではありません。神様がもともと私たちやこの世界をお造りになった時にご計画なさっていた、万物が一つになる、という「奥義」を全うしてくださる、ということです。そういう、創造から終末までの御心を視野に入れた、ご計画の中で、私たちが召されて、信仰を与えられているということです。その神様のご計画と御業を知り、信頼することが土台にあるのです。

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と言われています。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」であって、「一致しなさい」ではないのですね。キリストの御業に基づいて、御霊は私たちを既に一つとしてくださっています。その一致を「保つ」のです。「一体感を持ちなさい」とか「一致しなさい」ではありません。私たちはもう既に、主イエス・キリストの御業によって「ひとつ」です。そしてそれは、本当に豊かな「一つ」です。一世紀のローマ社会では、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人が主にあって一つである、という告白にこの福音の奥義が現れていました。全ての国の民が集まって、ともに主に祈りと礼拝を捧げる、という教会の姿が、見える形になっていった。それが、教会でした。今でも、教会がそのような場所であることは大切です。個性や趣味や感じ方、性格、文化はガッカリするほどバラバラであったとしても、それでも、そのような異なる同志の私たちを、主が愛し、御国に召して、ひとつの教会に連ならせてくださった、という事実が、「御霊の一致」です[4]。もし、ここに、「一体感」とか人為的な「一致」を持ち込もうとするなら、それこそは「御霊の一致を保つ」のではなくて、むしろ壊すことになります。大事なのは、私たちにとっての好ましい一致があることではなくて、本当に違う者たち同志が、キリストへの信仰にあって既に「一つ」である、ということです[5]

 この御霊の一致を熱心に保ちなさい、と強く勧められています。「御霊の一致」に召された者として相応しく歩むようにと勧められています。それには、まず、主が私たちを召してくださった「御霊の一致」、望みや信仰告白における一致をシッカリと学び、知る事です[6]。何でもありの一致ではなく、主にあっての一致です。もう一つが、私たち自身の人格的な成長です。

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 私たちが、お互いの違いをただ我慢したり目を瞑ったりするのではなくて、謙遜になり、柔和になること-自分の価値観を手放すこと-、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合うこと、そういう私たち自身の変化、成熟が、御霊の一致を内実のあるものにするのですね[7]。「私は罪人です。神様の恵みによって救われました」と心から言っているつもりでも、教会に来た人を見て「あの人は受け入れたくないなぁ」と思っているとしたら、自分がまだまだ傲慢で、救いの恵みを受ける資格があったかのように思い上がっていた事に気づかされます。そして、人間的な事で裁いたり「クリスチャンらしさ」という枠を作ったりするのではなく、本当に御言葉に聞き、主の福音にあって、一つである教会を目指して行く。そのためにも、教会に、様々な人が来ることは本当に主の恵みなのだと思います。

 私たちが来て欲しい人を選ぶのではなくて、福音を必要とする人、主が愛しておられるのはすべての人であって、そういうご計画へと私たちは召され、教会はその現れである事を問われ、求めていくのです。この一年も、主はそのような告白へと私たちを育てようとしておられます。

 

「教会のかしらなる主よ。あなた様の十字架と復活の御業によって、万物を一つとする御業は既に与えられています。どうか、この土台を別のものにすり替えることなく、私たちを心からの、愛の一致へと召された事実を弁えさせてください。この一年、礼拝と交わり、祝福と苦難、学びと体験を通して、一人一人が「謙遜と柔和と寛容と愛」に成長させていただけますように」



[1] 昨年から、週報の表紙に書いていた「年間聖句」が、このエペソ書四章冒頭の言葉ですが、ここから直接お話しすることは一度もしないまま、一年が過ぎてしまいましたので、2015年も同じ箇所を掲げることにして、元旦にここからお話ししておきたいと思いました。ただ、夏期学校でも、月報の巻頭言(2014年11月15日の「徳島キリスト者平和の集い」での説教)でも、お話しして来たことではありますので、初めて聞く話ではない、という方もいらっしゃると思います。

[2] 勿論、主のご計画されている出来事は、起きてから分かるものですから、先に今予想することは出来ません。また、明らかにされている御言葉においても、地上での幸いや繁栄に心を向けず、私たちの生涯は天の御国への旅路であり、禍や試練を通して、私たちが訓練されることが御心であると教えられています。決して、良いことばかりが起きると期待するのではありませんが、すべてを働かせて益としたもう主の御真実があって、この年にも、厳しいかも知れないけれども、深く、力強い、素晴らしいご計画が備えられているのです。そして、御言葉を通して、主が私たちにどんな事を語っておられるのかは、十分に教えられています。その主の導きを信じて、主の御声に心を開いて、共に聞いていきたいと願います。

[3] ドナルド・マクラウド『長老教会の大切なつとめ』(原田浩司訳、一麦出版社、2010年)25-26頁。前後から引用すると次の通りです。「わたしたちはそれぞれに置かれている状況に応じて、聖書が意味するところを受け持たなければなりません。それは、わたしたちにとっては、自ずとより広い共同体へと及び、そして、ただ自分たちがキリスト者であるという点において、すべてのキリスト者を喜んで迎え入れるように備える、この会衆、この教会を意味します。このことは、わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践するよう要求します。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」

[4] 「召し」一18、四1、4、(動詞も、四1、4で)

[5] これは、いわば「使徒信条」の「我は…公同の教会を信ず」につながります。「使徒信条」そのものが、「ひとつの信仰」である。

[6] 「ひとつの望み」とも言われますが、「望み」はエペソ書では、一18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」、二12「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」と出て来ます。また、一12の「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」は「プロエルピゾー」で「望み(エルピス)」の派生語です。直接「望み」という言葉の意味説明はありませんが、その前後で語られている約束(特に一10のご計画)に対する態度として生み出される「望み」だと言えるでしょう。奥義の実現、御国をともに受け継ぐ、という望みです。

[7] キリスト教の倫理は、互いに愛し合うこと、隣人を自分のように愛すること、キリストが愛してくださったように愛し合うことに尽きるのですが、それも、一人一人が、立派な愛のある人になれと言われているのではなくて、神様の御心が共同体的なもの、一つとされることだからです。また、私たち一人一人が謙遜と柔和と寛容と愛を完備することによって、御霊の一致が生み出されるのではありませんし、私たちの愛や謙遜が足りないことで、御霊の一致が壊れてしまうのでもありません。神様の御心の奥義は、そんな脆く儚いものでは断じてありません。主の下さった豊かな召しが、私たちの傲慢や独り善がりを砕いて、私たちのうちに愛を育てるのです。

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ルカ20章19~26節「神のものは神に」

2015-01-01 21:37:52 | ルカ

2014/12/28 ルカ20章19~26節「神のものは神に」

 

 先週はクリスマス礼拝で、ルカの二章の冒頭から、皇帝アウグストゥスの勅令の中で、イエス・キリストが、お生まれになった出来事が起きたことからお話ししました。ローマ帝国を支配している皇帝(カイザル)と、飼葉桶にお生まれになったイエス様とは、喩えようもないような違いがありますが、しかしその飼葉桶こそ世界の主なる神の御業であり、この世の権力に対する挑戦があるのです。今日の「デナリ銀貨」にカイザルの肖像と銘が刻まれていたとあります。当時の日当として出回っていたデナリ銀貨には、「神なるアウグストゥスの子、ティベリウス、カイザル・アウグスト」と刻印され、裏には女神の姿に描かれた王母リビア像と「大祭司」の銘がありました[1]。皇帝は神の子を自称し、その母は大祭司と呼ばれている、そういう時代でした。

 ユダヤ人たちは、そのような状況の中で生きていました。ただ税金を納めるのが嫌だ、というだけの子どもじみた不満ではありません。異教徒のローマ帝国に税金を払わなければならないという屈辱がありました。彼らにとっては、像を彫ることは偶像崇拝でしたし、大祭司や神を名乗ることも、とんでもない冒涜でしかありません。そういう罪を平気で堂々とやってのけるローマの皇帝に、税金を納めなければならない現実は、大変な問題であったのです。

 しかし、この質問は、真剣に答を求めたからではありません。イエス様の言葉尻を捉えようとしたからに過ぎません。税金を納める必要はない、と言わせる事が出来れば、ローマ総督に「このナザレのイエスは、納税の拒否を唆している」と突き出すことが出来ます。逆に、「税金を納めることは良い」と答が返ってきたら、ローマを憎み、重税に喘いでいる民衆はイエス様に失望しきることでしょう。どちらに答えても窮地に陥ることになります。そういう難問を仕掛けて、律法学者、祭司長たちは、イエス様を追い詰めようとしたのです[2]

 これに対するイエス様の答が、カイザルの銘が刻まれたデナリ銀貨を示しての25節でした。

25すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

26彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。

 難問で追い詰めたつもりの彼らは返す言葉が見つかりませんでした。イエス様のお言葉は、いくらローマが憎いと言っても、使っている貨幣がカイザルのものである以上、自分たちがローマ帝国の恩恵に肖(あやか)って生活している事実を浮き上がらせました。税金を納めることを拒否する権利があるかどうかを論ずる以前に、返すべきもの、相手のものであるという原則が示されました。しかし、何でもカイザルに従う、というのでもありません。カイザルのものはカイザルに、ですが、カイザルのものではないものは返さなくてよいのです。それ以上に、「神のものは神に」という、もっと大きな原理があります。神のものはカイザルに渡す必要はありませんから、偶像崇拝まで容認されたのではありません。いいえ、もっと言えば、カイザルもまた、神の大きな御支配の中に含まれているものだと位置づけられています。カイザルのものと神のもの、その二つを綺麗に色分けすることなど出来ません。全ては神様のものです。この答によって、イエス様は、非の打ち所のない答を示されました。

 勿論、彼らが返答に窮したのは、彼らの目的がイエス様の揚げ足を取ることにあったからです。結果としては、彼らはこの答を聞いてもまだ心を開くことをせず、ますます頑固になってしまうのです[3]。だからといって、そうやって相手を黙らせること、律法学者たちとの論争に勝つことがイエス様の目的ではなかったのですね。言い負かしてしまうために、上手い答をなさった、ということではありませんし、私たちもまた、イエス様のお答えに感心して終わってはなりません。この言葉に従って歩むことこそ、イエス様の願いであります。

 最初に申しましたように、イエス様はカイザルの勅令が世界を動かす時代にお生まれになりました。この時も、人々はカイザルに税金を納め、カイザルの像が刻まれたコインを使って生活していました。そういう中で、カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返す、という言葉は、本当に彼らの生活そのものに与えられた言葉でした。ルカが、この福音書に続けて記す「使徒の働き」では、パウロがユダヤからローマ帝国に出て宣教をしていく中で、「カイザル」という言葉がもっと頻繁に出て来ます[4]。教会の歩みにおいて、国家との関わりをどうしていくか、緊張も出て来るのです。そこでの原則は、イエス様が示されている通りです。

 …カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。

 キリスト者は無政府主義者ではありませんし、信者ではない政治家に対しても相当な敬意を払い、為政者のために祈り祝福するように言われています。税金を納め、国民としての義務を果たすことにやぶさかであってはなりません。為政者は、神が立てられた権威だ、という視点があるからです[5]。しかし、では権力や上司を何でも神の代弁者として崇めて従うかというとそうではありません。権力が、神のように道を外して、服従や礼拝を求めたり、正義に反して命を踏みにじったりする時、言い換えれば、「神のもの」まで要求してくる時には、従うのではなく抵抗するのです。そして、そのように、国家の権力が間違いうることを見抜いている故に、キリスト者が「非国民」と非難されることもある。実際、ここでイエス様は、納税を禁じたわけではないのに、この数日後に捕まって、ローマ総督ピラトの下に連れて行かれた時、

二三2…「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」[6]

という罪状で訴えられます。いいえ、イエス様の宣教の最初、荒野の誘惑においても、国々の権力を見させられながら、サタンは自分に平伏すことを要求しました。イエス様は、神である主だけを拝み、主にだけ仕える、と答えられて、この誘惑の厳しさ、大きさを示されていました[7]。実際、初代教会の多くの人々が、皇帝礼拝を拒否したことで殉教するのです。礼拝は、人や国家に返すべきものでは決してなく、ただ神にのみ返すものなのです。

 この国や世界が、これからどう変わっていくのかは分かりません。権力はいつも、正しい振りをした巧妙な手段を使って、民衆を支配しよう、従わせようとするでしょう。他にも色々な場面で、私たちは恐れ、膝をかがめそうになります。しかし、イエス様の言葉は教えています。国家のものは国家に、神のものは神に返すべきだというだけではない。主は私たちに、神のものは、国家や何かが求めようとも、ただ神に返す歩みを下さる。私たちの生活において、神ならぬものを神とすることから解放してくださることも、神の、私たちに対する御心なのです。

 世界を治めたもう神は、私たちにとってただひとり信頼すべきお方です。この方への恐れを忘れて、嘘や企みを抱えて、権力の座に着いている世界に、イエス様はおいでになりました。この主が私たちに、ご自身への深い信頼と、神ならぬものを恐れない勇気とを下さるのです。

 

「主よ。この一年の歩みも、あなた様は一切を支配し、私たちを慰め、あらゆる苦難や罪さえも、益となるよう導いておられます。そう心から信じる幸いを、感謝いたします。私たちの見える所や思いを遥かに超えて大きな主の御手を仰ぐゆえに、あなた様以外のものを恐れ崇める誘惑から救い出してください。そのようにして、本当の王なるあなた様を証しさせてください」



[1] 山中雄一郎『ルカ福音書瞑想 下』聖恵授産所出版部、168ページ。

[2] そういう彼らの本心は、前回の喩えで言われていたように、主人からあずかったものを返そうとせず、横取りしようという態度でした。ですから、今日の箇所の「神のもの」とは、直接的には、前回の「ぶどう園の収穫の分け前」に当たります。一般的に「すべてのものは神のもの」ですが、ここでは特に、指導者たちが神の民を自分たちのものとしてしまおうとしていることを非難されているのです。

[3] 20節の「引き渡そう」は、九44、十八32など、今まで繰り返されてきた「人の子は異邦人に渡され」への第一歩です。予告されてきたことが、いよいよここで、祭司長たちの実行に移されだしました。そして、次は二二4、6です。

[4] マタイでは2回、マルコでは3回、ヨハネは2回なのに対して、ルカは福音書で6回、「使徒の働き」では9回、この言葉を使用しています。「使徒の働き」も、十七7、二五8、10、11、12、21、二六32、二七24、二八19、と後半に集中しています。

[5] ローマ十三1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。…」など。

[6] このほか、ルカでは、二1、三1でカイザルが登場します。

[7] ルカ四5-8、参照。

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