聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」

2012-11-19 15:05:21 | インポート
2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」
エゼキエル書十六19―23 詩篇十六篇

 六章の最後の部分になりますが、ここでパウロは、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。…」
という言い方をしています。この前後でパウロは、奴隷制を引き合いに出して語っています。神様の恵み、救い、自由は、地上の出来事の何によっても例えることは出来ないものです。けれども、それを奴隷制に準えて知らせようとしているのです。「恵みによって救われるのだから罪を犯そう」というような詭弁に振り回されるような幼稚さ、弱さを慮(おもんばか)って、パウロは人間的な言い方をして、身を屈めて分からせようと順応しているのです。そしてもう一度、
「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」
と、奴隷の譬えを展開します。完璧な譬えには程遠いのですが、しかし、思い切ったこの例証によって、罪の生き方を捨てるようにと言っているのです。
 何度もお話ししてきたように、決してパウロは、罪の生き方を捨てることによって、神の奴隷(しもべ)となりなさい、と命じているのではありません。むしろ、神の恵みによって既に罪から救い出された、もう既に神の奴隷であるという事実を言っており、その事実に基づいて、罪に生きるのではなく、義に生きなさいと言っているのです。私たちは、なお罪を犯してしまうものです。罪の奴隷であるかのように、傲慢や欲や感情に振り回されてしまうことはあります。しかし、罪の奴隷であるかのように生きてしまうことはあっても、罪の奴隷となってしまうのではありません。この区別はとても大切です。
 パウロは20節以下でもこう言います。
「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
 罪の奴隷であった時、とか、その当時、という言い方が示しているように、それは過去の生き方なのです。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となっている、なのです。もう以前とは違うアイデンティティ、立場、身分、肩書きがあるのです。それは、神のしもべ、神のものである、という私たちであるのです。
 「義については、自由にふるまっていた」
というのはどういうことでしょうか。自由に義を行っていた、という意味ではないのは明らかです。ここでは、「自由」と「奴隷」とは反対ですから、罪の奴隷であったということであり、義に従わずに生きてきた、愚かで不正な生き方を指しているのです。それは喜ばしい自由だったのでしょうか。そこに良い実りがあったのでしょうか。いいえ、何もなかったのです。今にして思えば、罪を楽しむ生き方とは、恥じる外ない生き方であり、何の良い実もない不毛な生き方であり、死に向かっていたのです。
 「行き着くところ」
と21節と22節にありますが、この言葉は「終わり・最後」とも「目的・ゴール」とも訳せる言葉です 。罪に従う生き方は、死を目的地・終着駅としています。これは、肉体的な死、最後は心臓が止まって死ぬ、という意味に限らないでしょう。神に従う生き方も、からだの死は避けられないのです。むしろ、神のいのちに逆らい、生きながらにして死んだ者となっている、「霊的な死」と言うべき状態を指しているのでしょう。この世の欲や権力の虜(とりこ)となり、誰よりも長生きをしているとしても、いのちの主である神に逆らったその歩みは既に死んだものなのです。
 主イエス・キリストは、私たちをそのような、死へと向かう生き方から救い出してくださいました。神の恵みによって、私たちはもう神のものとなっているのです。そして、だからこそ、私たちは、
 「聖潔に進みなさい」
と命じられています。罪の方にではなく、聖なるものとされることを願い求めなさいと言われるのです。
 次の23節では、このことを纏めてこう言います。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
 ここには、「死」と「永遠のいのち」とが対照されています。先に、罪のゴールは死、神に従う道のゴールは永遠のいのち、と言われていたのをもう一度纏めています。けれどもやはりここでも、私たちが神に従うことによって、永遠のいのちをいただく、とは言われていないのですね。死は罪の報酬と言われていましたが、いのちは神の下さる賜物です。プレゼントです 。人間が神に従った結果としていのちをいただくのではないのです。これは、神様からの贈り物です。
 これは少し考えると、アンバランスな対比ではないか、とも思えます。義に従いなさい、罪を犯すのはやめなさい、と勧めながら、しかしそのように生きる結果・報いを語っているのではないのです。罪は死をもって報いるのですが、義がいのちという報いをもたらす、と言うのではないのです。義の根拠である、神と主イエス・キリストが示されるのです。パウロが指さすのは、恵みの神です。そこから、私たちが、罪が恥ずべきものであり、そして不毛でしかない現実を見させられて、手足を義にささげることが出来るのです。そこには、
 「聖潔に至る実」
も結ばれるのですが、しかし、それさえも、私たちが頑張って結べるわけではなくて、神の恵みがもたらした実なのです。
 さて、14節でパウロは、
 「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」
と言いました。そして、恵みの下にあるということを口実に、開き直って罪を犯そうとする人がいることを想定しました。しかし、パウロが考える「恵みの下」とは、罪を犯しても赦してもらえる、という意味での「恵みの下」ではなかったのです。その恵みは、私たちを聖潔に至らせ、永遠のいのちへと向かわせる恵みだったのです。恥ずべき罪を恥じさせてくださり、不毛なもの、いくら手に入れても決して心を満たされることないものを追うことを止めて、神の義を求めさせてくださるのが、恵みの神なのです。
 しかし、それほどの恵みを約束されていながら、パウロがそのような屁理屈を想定しなければならなかったのも現実です。私たちの中にもまた、神の恵みを、卑しく自分勝手に、歪めて考えてしまう思いがあるのです。自分の罪を大目に見てくれ、都合の良いようにあれこれと楽をさせてくれる、それが神の恵みだと思う自分がいるのです。
 パウロはそのような幼さを、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」
と言っていました。奴隷という譬えが不完全であるとは分かりながら、幼いキリスト者に分かって欲しくて、こういう言い方をしたのです。
 言い換えれば、キリスト者として成人していく、幼く弱い者から、成人した強い者へと成長していくということは、恵みをも口実として自分にとって居心地のよい生き方に温々としていよう、というのでなく、神に仕え、神のものとして生きることを喜び、本当に納得して、義に従って行くようになる、ということでもあるのでしょう。イエス・キリストにある永遠のいのち、恵み、賜物、といったことが、罪の思いと戦うようにされて、イエス様のように自分をささげ、御心に従ういのちであると悟っていくこと。あれもこれもあったらいい、と手足を伸ばすのではなく、自分の手足も持っているものすべてをも捧げる者とされていくのです。そのような、心の底における変化が、
 「聖潔に至る実」
を結ばせるのです。
 ボンヘファーは、従うことを願わないキリスト者が考えているものを「安価な恵み」、服従へと招く恵みを「高価な恵み」と呼びました 。私たちがキリストに従うことは真に高価な、そして本物の恵みです。その恵みのいのちへと至らせるために、キリストは十字架にかかってくださったのです。

「私共の心を開いて、あなた様に従う幸いを悟らせてください。主イエス・キリストが歩まれたしもべの道にこそある自由を求めさせてください。まだ弱く、幼い者です。だからこそ、あなた様が忍耐をもってお語りくださっている招きに従わせてください。永遠のいのちへと至る道を、いよいよ身軽に、いよいよ惜しまぬ心で、進ませてください」


文末脚注

1 ギリシャ語「テロス」。ローマ書では、十4に「終わらせられた」、十三7で「義務」と訳されています。
2 ギリシャ語「カリスマ」。恵み「カリス」の複数形であることにも、これが報いや資格に基づくものではなく、恵み(一方的な贈り物)であることが表されています。
3 「安価な恵みとは、説教、原理、体系としての恵みのことである。一般的真理としての罪の赦しのことである…安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない…安価な恵みとは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである…高価な恵みは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがするゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈物として与えるがゆえに恵みである」ディートリッヒ・ボンヘッファー『キリストに従う』より

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2012/11/11 ローマ書六15―18「罪から解放されて義の奴隷となった」

2012-11-12 10:47:58 | 聖書
2012/11/11 ローマ書六15―18「罪から解放されて義の奴隷となった」
申命記三二36―43 詩篇八六篇

 15節を読んで、同じような言葉がどこかにもあったと思い当たる方もいるでしょう。
「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
 六1にも同じような言葉がありました。
「 1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
 恵みがあるのだから、罪を犯してもいいのだ、という屁理屈がまた15節でも取り上げられます。持ち出している根拠は微妙に違っていますが、あれこれと言い訳をしながら何とか罪に留まろうという人間の心境という意味では同じでしょう。ロイドジョンズの説教をまた引用するなら、福音ではなく道徳を説教するなら、こういう誤解は産まれないだろう、福音を説教するならば、必ず「では罪を犯してもいいではないか」という誤解は招きかねないのだ、恵みによる赦し、人のわざには依らない救いを説くならば、では罪にふけってもいいじゃないか、と思われないわけにはいかない、ということです 。勿論、そういう誤解に対して、
 「絶対にそんなことはありません」
と言うのも福音なのですが、それは、「やっぱりよいこともしなければ」とか「恵みをいただいたのだから、ちゃんとした生き方でお返ししなければ神様も怒るから」といったような理由ではないのです。言い換えれば、同じ信仰のわざを行っていても、その動機が福音に基づいていることもあれば、人間的な義務か義理のような場合もある、ということでしょう。パウロは、福音に基づいて、罪を捨てる生き方をする理由を、今日のところではどう述べているのでしょうか。
 パウロはこう言うのです。
「16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」
 罪を愛するなら罪の奴隷となる。罪を離れるなら従順の奴隷となる。律法のさばきの下にではなく、恵みの下にあるからといって、罪を犯そう、堂々とであれ少しぐらいであれ、罪に耽っていようというのであれば、それは恵みの下から飛び出して、自分を罪の奴隷としてしまうことです。そんなことは絶対にあってはならない。
 ところで、奴隷と言うのは、第一に、自分が誰かの所有である、ということです。現代の私たちは、奴隷と言えば、人間扱いされないとか、酷く扱き使われるとか、手足を鎖に繫がれてガレー船をこぎ続けるようなイメージを持たれがちですが、そういうことではありません。身分の高い奴隷も大勢いました。一世紀の文献を見ると、奴隷を養うことを考えれば使用人を雇った方が割安だ、というような表現も見られます。酷使していい、という存在ではなかったのです。奴隷であるということが直ちに重労働や悲惨や死を意味するわけではない。ただ、主人のものであった、のです。ですから、ここに「従順の奴隷」「義の奴隷」という言葉がありますが、そこにあるのは主従関係であって、人格を剥奪されるとか惨めに言いなりにならなければならない、とは考えなくてよいのです。
 しかし、それよりも、ここでお気づきになるでしょう、罪の奴隷か従順の奴隷か、そのどちらかしかないのでしょうか。それほど従順に生きることも出来ていないけれど、罪の奴隷と言われるのも心外だ。その中間ということはないのでしょうか。
 パウロはそうは言いません。罪の奴隷か従順の奴隷か。人間は、自分で自分の主人になることは出来ません。神の奴隷になるか、神以外の何かの奴隷になるか 。それ以外にはないのです。自分で自分の主人になっているつもりだとしたら、それはもう神を忘れた傲慢という罪の虜になっているのです。神に背を向けた、罪の奴隷か、神に従う、義の奴隷か、どちらかしかない。このこともまた私たちは心に刻まなければなりません。
 しかし、決してパウロは、あなたがたがどちらの生き方を選ぶかによって、義の奴隷にもなり、罪の奴隷にもなるのだぞ、だから神に従う生き方を選ばなければならない、とは言っているのではありません。それは誤解してはならないことです。
「17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 もうあなた方は、義の奴隷である。もとは罪の奴隷であったけれども、今は違う。罪から解放されて、義の奴隷となってしまっている。私たちが自分で生き方を選ぶことで誰を主人とするかを決められるのではないのです。自分の生き方を選べるのは奴隷ではなく自由人であります。先に申しましたように、奴隷は主人のものです。かつては罪が主人であった。しかし、そこから逃げ出して正しく生きることによって神の奴隷となれるのではありません。それは逃亡奴隷でしかないのです。そうではなく、神が恵みの下に入れてくださった。罪から解放してくださった。もうあなたは罪のものではない、わたしのものだ、と仰って、私たちの主となってくださった。そこで私たちがいくら罪の方に走っていっても、それで主のものでなくなるのではない。身分を変えることは人間には出来ないのです。
 けれども、だからといって勝手(かって)気儘(きまま)にほっつき歩いていて言い訳もない。むしろ、神のものである以上、神に従わなければなりません。また、主も、所属さえご自身のものとなっていればいい、というおつもりで私たちを買い取られたのではありません。私たちが罪の性質を捨ててきよくされて、神のしもべらしくしようとのご計画がある。
 17節に、伝えられた教えの規準、という言葉がありますが、規準というのは「型」という言葉です 。教えの型、キリスト教信仰・教理の大枠、全体像、といってもいいでしょう。それ以上に、この「伝えられた」とは「引き渡された」「委ねられた」と訳されることの多い言葉です。あなたがたに伝えられた、と言う以上に、あなたがたがその教えの型に引き渡された、その教え。罪の裁きだけでなく、罪そのものから救われて、神様の御心に叶う者としてくださるというその教えに、私たちは引き渡された。身分を罪の奴隷でなくされた、というだけでなく、神様の教え、御言葉の規準に、私たちは引き渡された。けれどもそれも無理矢理とか嫌々ではなくて、
 「心から服従し」
なのです。キリストの福音を聞かされて、罪の赦しだけでなく、神様が私たちをご自身のものとして新しくしてくださる、よいご計画をもって私たちを変えてくださる。愛されるだけでなく、愛する者へと招いていてくださる。そのメッセージを、私たちはみな、それなりに心から喜んで、心から受け入れ、お従いします、という決心をしてきたのではないでしょうか。
 「義の奴隷」とあります。この「義」は「あの義」という言葉です。一般的な正義や正しさ、ではありません。イエス・キリストにおいて示された義。罪人を救い、義とするという驚くべき義です。その義に私たちが捕らえられている。その義に、私たちの心も生き方も捕らえられて、ますますその義のしもべとされていく。
 もう罪はない、というのではありません。罪の誘惑に負けない、失敗をしない、というのでもない。罪との戦いはあり、悔い改めもしなくていい日はない。罪を謙虚に認めつつ、罪を握り締めたり耽ったりしてもいいとする詭弁には逃げないのです。神のものとして生きるのです。それは不自由で窮屈な生き方ではありません。私たちが心から服従したくなるような、幸いな生き方です。私たちが主の奴隷である、主のものである、ということを、ハイデルベルグ信仰問答は、「唯一の慰め」と言いました 。先ほど読みました詩篇八六篇でも、三度、自分のことを「あなたのしもべ」と呼んで、そこを手がかりに主の憐れみと恵みを希(こいねが)ったのです。
「あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
 私たちは主のしもべです。もはや罪のものではなく、主の恵みの中に立てられていき、罪や恐れから自由にされて、主の祝福と義を求めることを許されています。

「尊い代価を払っていただいて、あなた様のものとしてくださった恵みを感謝します。その幸いにより罪や欺きに背を向けさせてください。カルヴァンが、「私の心を、主よ、あなたにささげます。速やかに、かつ、真心を込めて」と言いましたように、私共もまた、この心を主にささげさせてください。主の義を慕い求めて歩ませてください。」



文末脚注

文末脚注
1 ロイドジョンズ『ローマ書講解6章』344ページ以下。
2 マルチン・ルターは、『奴隷意志論』を書きました。エラスムスの『自由意志論』に反論して、人間の意志の自由をよりは、奴隷的な性質を論じたものです。これもまた、宗教改革から始まるプロテスタントの原点のひとつです。
3 テュポス。五14で「アダムは来るべき型のひな型...です」と訳されていた言葉です。
4 ハイデルベルグ信仰問答「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか。 答 私の唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、私の体も魂も、わたしのものではなく、私の真実の救い主イエス・キリストのものであるということです。主は貴い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、私を悪魔のすべての支配から贖いだしてくださいました。主は、いまも、天にいます私の父のみこころではなければ、私の頭から髪の毛一本も落ちることのないように、いな、すべてのことが私の救いに役立つように、私を護っていてくださいます。それゆえ、主は、ご自身の聖霊によって、私に、永遠の生命(いのち)を保証し、今から後は、主のために生きることを、心から学び、進んでそうすることができるようにしてくださるのです。」
5 詩篇八六4

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2012/9/16 ローマ書五18―19「ひとりの従順」

2012-11-08 13:17:41 | 聖書
2012/9/16 ローマ書五18―19「ひとりの従順」
イザヤ書四六章 詩篇八六篇

 12節で言いたかったことが、少々遠回りをした上で、ようやくこの18節で、文章のまとまりがつきます。前回まで、違反を犯したアダムと、従順を貫かれたイエス様との共通している面と、違っている面とが教えられてきました。しかし、要するに、この本文で分かるように、パウロが言いたいのは、
「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
ということです。アダムの違反のせいで、全人類が罪と死に支配されるようになった、というのは、あくまでもイエス・キリストにある救いを、引き立てるための道具に他なりません。(勿論、アダムの違反によって、全人類が罪を負い、死ぬようになったのは、歴史的事実です。ただの譬えだ、という意味ではありません。)
 同じ事をずっと繰り返しているようですが、パウロもまた、ここで諄いほどにこのことを言っています。そして、次の20節では、有名な、
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
という聖句がありますが、これはこれだけで味わいたいと思いますので、今日は18-19節だけをお話しします。
 第二版をお持ちの方は、18節が、
 「一つの違反によって…一つの義の行為によって」
とあるのにお気づきになったでしょう。第三版に改訂されたとき、
 「ひとりの違反によって…ひとりの義の行為によって」
と言葉を変えたのです。文法上はどちらも可能なのですが、文脈を考えると、
「…「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」
 そういう理由から、「ひとつの」ではなく「ひとりの」と改訳したのです。アダムとキリストが対比されている。もっと正確には、イエス・キリストが際立つために、アダムを持ち出して、ふたりを並べている、ということです。パウロは、私たち読者に、主キリストへの揺るぎない確信を持たせたいのです。私たちも、アダムの違反・堕落を考えても、一層、第二のアダム「キリスト」にあって、絶対確実な救いが現れて、自分が今、その中に入れていただいているのだという、この恐れ多く、驚くべき事実を心に刻みたいと思います。
 ある人は、ここに、「すべての人」と繰り返されているところを取り上げて、「すべての人、というのだから、これは全人類だろう。神様は誰も滅ぼしたりはせず、最後には全員をお救いになるのだ」と考えます。前回もお話ししたように、17節には、
 「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、」
と限定されています。聖書全体を見ても、終わりの日に滅びる人が必ずいると言われていますので、神様は誰をも滅ぼされない、という意味で「すべての人」と言っているわけではありません。かといって、神様はみんなを救いたいのだけれど、後は信じて救いを我がものとするかどうか(救いのチャンスを生かせるか)は、全人類に平等に与えられている自助努力に掛かっている、と考える人もそれ以上に多くいますが、それもまたあやふやな話で、聖書が語るのはそんな不完全な救いでもありません。第一ここでは、「すべての人が義と認められる」と言い切られているのです。
 「すべての人」とは、人類全員、という意味ではなく、
 「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」
のことであり、それが、人種や民族、信仰の豊かな人、未熟で自助努力が必要だと思い込んでいる人、そういうことに関わらず、イエス・キリストを受け入れたすべての人、と考えるのが一番筋が通るでしょう。18節最後にある部分は直訳すると、
 「すべての人がいのちの義へと認められる」
という文章です。「いのちの義」、言い換えると、義と認められていのちを与えられる、ということになりますが、この義をいただくまでは、アダムの罪の中にあって死んでいたのです。死んだ者が、ただイエス・キリストの「義の行為」によっていのちの義をいただいて、信仰も持てるのです。死んだ者が信仰を持って、それによっていのちの義をいただける、などということはあり得ません。ここで言われているのは、完全に、イエス・キリストの恵みによる救いです。アダムが罪を犯した時、それ以降に生まれる全人類がまだ影も形もなかったのに、アダムの子として有罪判決を受け、死に服する者とならざるを得なかったように、イエス・キリストが従順を果たされたとき、神様が、そのイエス様に結びつけられる人全員を、まだ信じたり悔い改めたりしない先に、義とすると決めてくださったのです。
 「それなら、人間が何をしても関係ないのか、選ばれているなら罪を犯しても救われて、選ばれていなければ努力も何も報われない-それなら、したい放題に生きてもいいはずだ」などという屁理屈(へりくつ)は、次の六章で扱われます。ですが、今ここでも、本当にこの「救い」というものが、十字架とか復活とかいう「ひとつの義の行為」よりも、「ひとりの(イエス・キリストの)義の行為」によるものなのだ。それも、漠然と大風呂敷を広げるような福音だけ準備しておいて、後は本人の心がけで、合格した者だけが救われる、というようなものではなくて、本当に、この私、この自分を、罪に死んだ生き方から、罪の欲望に流されるままの無気力な生き方から救い出そうとのご計画をもって、義の行為をしてくださったのだ。そう知らされていくときに、あれこれ言い訳して罪の生き方、自己中心の生活を何とか続けようという、ケチな根性も、氷解せずにはおかないはずです。19節では、
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
と言われています。この「従順」とは、「義の行為」を言い換えたものです。ですから、十字架の死に至るまでの従順という、苦痛や死にも甘んじて従われた事実(これを「受動的従順」ともいいます )もさることながら、イエス様が神の御心に従ってこの世にお生まれになってから十字架に掛かられるまでのすべての義の行為、焦点にまで至る全ご生涯を丸ごと指しての「従順」です。これを「能動的従順」と言います。十字架だけではないのです 。イエス様のなしてくださったのは、私たちの代わりに罪の罰を受けられる、というだけではなくて、生涯一点の曇りなく、神に従われたのです。その義を私たちも着せていただき、永遠のいのちを約束されていると信じてよいのです。
 そして、それは、本当にどんなに有り難く、感謝なことでしょうか。そしてまた、私たちはこのことの素晴らしさを忘れてしまうにどれほど早いことでしょうか。「すべての人」が文字通り「すべての人」ではないじゃないか、と不平を言いつつ、限られた神の民としての「すべて」に対してさえ、「救われてもあれじゃあな」「あんな人が救われるとは到底思えない」などと決めつけたがる。そして、その根っこには、やはり自分が救われたこと、信仰者として今歩んでいることのうちに、自分の善良さとか真面目さ、正しさを誇っているところがあるのではないでしょうか。
 ローマの教会が、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との民族・文化の違いを乗り越えられずにいたように、パウロは今も私たちが様々な偏見や経験から、「すべての人」ではない、と思いたがる、その自己過信から主イエス様を見上げさせようとしています。私たちが「イエス様の十字架」を信じるよりも「十字架と復活のイエス様」を信じる。そして、そのイエス様の能動的な従順に与って-いのちの義を与えられて生きる。日曜日だけ、神様を礼拝する時だけでなく、私たちの生活のすべてが、もはやアダムの違反の傘下にではなく、キリストにあって新しく生かされる。いいえ、キリストが私たちを新しく生かしてくださる。もうその新しいいのちの中に、私たちがあるのだと知らせているのです。

「アダムの違反の歴史に楔を打ち込んだイエス様の御救いに、私共が入れていただいている不思議な光栄を感謝します。どうぞ、私共を救いの喜びで溢れさせてくださり、主の豊かないのちのわざに仕える者として整えてください。私共の目を開いてください」?


文末脚注

1  新日本聖書刊行会のホームページより。「新改訳聖書第二版のローマ5章18節で「一つの違反」「一つの義の行為」と訳されていた言葉を、第三版は「ひとりの違反」「ひとりの義の行為」と訳しています。原文にあるヘノスというギリシャ語は、中性形ととって「一つの」と訳すことも、男性形ととって「ひとりの」と訳すことも可能です。/この語は5章12-19節で12回も用いられていて、中性形ととるべきケースもあります。それは16節後半にあるヘノスです。「多くの違反」と対照されていることから、明らかに「一つ違反」だとわかります。18節はその「一つ違反」を取り上げ、それですべての人が罪ある者とされたことと「一つの義の行為」によって義認がもたらされたことを対比させている、と解釈すれば、第二版のような訳が生れます。その際、ヘノスが「ひとり」を意味するなら、12、15、17、19節のように「人」「イエス・キリスト」といった語を加えればよいのに、それをしていないのだから、意図は「ひとつ」にある、と論じることもできるかもしれません。/しかしながら、実のところ、そうした語を加える必要がない程、文脈は「ひとり」と「ひとり」、アダムとキリストのコントラストで貫かれているのです。5章12節以下で、アダムの違反にスポットが当てられていることは確かです。しかし、それと対比して、十字架の死という「一つの義の行為」に注目を引こうとしているわけではありません。/違反と対比されているのは、むしろ「恵み」や「賜物」です。また18節における「違反」と「義の行為」の対照が、19節では「ひとりの人の不従順」と「ひとりの従順」の対照で置き換えられていることを見ると、十字架という「一つの行為」が突出しているようには思えません。とにかく、焦点は「ひとりの人」アダムと「ひとりの人」キリストにあって、それぞれの「一つの」行為にあるのではないのです」 http://www.seisho.or.jp/about-rev3/column/rome5_18.html
2  ピリピ二8「(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」など。
3 勿論、十字架だけでも測り知れない主の御受難と愛とは証しされています。

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2012/9/23 ローマ書五20―21「恵みが満ち溢れる」

2012-11-08 13:05:19 | インポート
2012/9/23 ローマ書五20―21「恵みが満ち溢れる」
Ⅱ列王記二二章 詩篇一一九65~80

 イエス・キリストのみわざによって、私たちも含めた多くの者が、罪赦され、義とされて、救いの恵みに与る。このことを、パウロはずっと語ってきています。繰り返し、繰り返し、このことを語っている。今日の箇所は、その、ひとつのクライマックスとも言えるでしょう。
「20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
 ただし、この言葉もまた、前後のつながりを無視して読んではなりません。特に直接に繋がるのは、13節です。
「13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」
 アダムから、律法が与えられるモーセまでの間、律法がなかったために人類が罪を認めることは曖昧で済ませられていました。規準がなければ、罪や違反もハッキリとは分からないものです。しかし、その時にも、アダムから入って来た罪が人類を支配していました。すべての人が死んだ、ということに、罪の支配が見て取られたのです。ひとりひとりが犯罪を犯したかどうか、ではなしに、人類の代表としてアダムが神様との契約を破った故に、人類は罪と死の支配下に置かれたのです。
 けれども、それは、実はイエス・キリストが第二のアダムとして来られて、神様の前に完全に忠実な歩みを果たされて、贖いの契約を完成されたとき、そのキリストの契約に入れられた民がみな確実に救いに与る、ということの「ひな型」であって、私たちを断罪し絶望させるどころか、キリストへの確信と希望に満たすものだ、と言ってきたのです。そういう流れで、今日の箇所、
 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。…」
という言葉が語られるのです。多くの人は、律法が与えられたのはそれをちゃんと守ることで、神様に認めてもらい、救いに与るために違いないと思っています。そうではない。人間がすでに堕落して、罪と死の支配下にあったことを、律法によってハッキリと認めさせて、違反の事実を積み上げて、人間に目を逸らさずに諭させるためだったのです。今更、人間に善を行うことを期待されていたのではありません。むしろ、そういう甘い見通しを弄(もてあそ)んでいる人間の目を覚まさせるために、神は律法をお与えになったのです。自分の罪に気づかせる。ただの偶然とか不運とか個性とか弱さ、だれでもあること、ではなく、神に背いている罪が問題なのだ、そう気づかなければならないのです。
 ロイドジョンズという説教者はここで言います。「地上最悪の罪人とは、自己満足し、自己完結している、善良で、道徳的な人々であり、今の自分のままで神の御前に立つにふさわしいと信じている人々である。…全宇宙で最悪の罪人とは、自分にキリストの血が必要であることを全く見てとったことのない人である。それより大きな罪はない。-殺人も姦淫も不品行も、それと比べれば無に等しい。」
 そうして、神様に背を向けたまま、自分が少しでもマシだと自惚れている心が律法によって砕かれるのは、人間を絶望させ貶めるためだったのでしょうか。いいえ、そうではなく、
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」
 神様が人間に律法を与え、違反を積み上げて示されるのは、それによって人間が本当に謙り、悔い改めて、神様のもとに行くためです。自分がした事への報いなんかではない、ただ神様からの一方的な恵み、価のないものがいただけるプレゼントとしての永遠のいのちをいただくためだったのです。
 この「増し加わる」と「満ち溢れる」の対比に注意してください。この後歌います、三〇六番は、聖歌七〇一番を新しくしたものですが、聖歌では「罪汚れはいや増すとも主の恵みもまたいや増すなり」としていました。罪が増しても、その分、それにまさって恵みが表れる。それもまた確かに真理です。私たちは、人間の罪の現実を見、自分の罪に直面させられる時、そこでまた新たに、一層深く大きな主の恵みを味わい知らせていただく、という経験をします。どんな罪も、主の恵みよりもまさるものはありません。これは本当に大きな恵みであり、不思議で尊い主の憐れみです。
 けれども、教会福音讃美歌では「罪の痛みいや増しても主イエスの恵みはなお溢れる」としました。こちらの方がいいし、今日はこちらを是非歌いたいと思ったのです。罪の痛みは一層増す。しかし、それに対する恵みは、「満ち溢れる」という強い言葉です 。「いや増す」は比較級ですが、「満ち溢れる」は、これ以上ない、溢れてしまう、という、最上級です。罪よりも一歩か二歩、恵みの方が常に先立つ、というのではない。罪よりも遥かに深く豊かで強い神の恵みが露わにされるのです 。
 「律法」というのは、旧約聖書の中の規程のことだけではなく、旧約聖書そのものを指す言い方でもありますから 、旧約聖書の歴史がまさに、罪の歴史であると共に、満ち溢れる恵みの歴史である、とも言うことが出来るでしょう。神様の御心に背き続けた人間の姿。そこに怒り、聖なるお取り扱いを露わにされるとともに、主は、真実な恵みをもって民を導かれ、また、預言を与えたり、奇蹟を表したり 、恵みを満ち溢れさせてくださったのです。そういう告白もたくさんあるのです 。
 人は、罪の現実を見ようとせずに、神の愛だけを語り、人間の救いや希望を語ろうとすることを好みます。罪に目を瞑れば、恵みも見えなくなる、と今日の箇所は教えています。律法が入って来たのは、違反を明白にすることによって、恵みを満ち溢れさせるためでした。
「21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
 罪が死によって支配する、とは、罪が人類に死をもたらして死すべき存在という運命を決定づけた、という客観的な面と、人間は死を恐れるようになり、死への恐怖から罪を犯してしまう、という主観的な面があります。同じように、恵みが、義の賜物によって支配する、というのも、神の民を、義とし永遠のいのちを与える、という客観的な面。そして、私たちの生きる動機が(死への恐れや不安からではなく)義の賜物をいただいた-報いとか功績のゆえにではなく、主の測り知れない、一方的な御愛とみわざのゆえに-という感謝、賛美となる、という主観的な面があるでしょう。決して脅迫とか押しつけがましさによってではなく、恵みは、主イエス・キリストのゆえに私たちを、感謝と賛美に押し出されて生きる者としてくれるのです。それが、恵みの支配ということです。外側からの強制ではなく、かといってあやふやで甘いものでもなく、恵みが私たちを支配する。心の内側から、賛美と感謝に動機づけられて歩む者となるようにと支配してくれる。罪のどんな強力な力にも勝って満ち溢れる、恵みの支配の中に私たちが今入れられている。これは何という恵みでしょうか。
 けれども、これが神の御心です。理想とか希望という、果たされないかも知れないものではなく、これこそ神の目的であり、ご計画です。恵みは罪よりも深い。神の愛は、どんな悪よりも強い。だから、人間が堕落したならその回復のためには、ご自身が十字架のような苦難を引き受けるほかないとご存じでも、神様は堕落の可能性をさえ引き受けられたのです。人間がどんなに罪を重ねても、神様はそこに恵みを満ち溢れさせて、私たちをいよいよ恵みに生きる者としてくださるのです。
 そして、私たち一人一人も、本当にこのような主の御心のうちにあることを感謝したいと思います。罪を抑え付けて正しく歩むことを求められているのではなく、自分の罪をまざまざと知らされるときに、そのような自分であることを百も承知の上で、神が私たちを選び、イエス・キリストがこの私のために人となり、十字架にかかりよみがえってくださったことを思い、いよいよ謙らされます。
 ですから、私たちは、恵みならざるもの-恐れや不安、自分の損得や他者を操ろうとする心-から完全に自由にされ、本当に恵みによって支配されることを求めたいと思います。神様は、私たちを恵みによって支配させるために、律法を与えてくださいました。恵みの支配に成長したければ、御言葉を読むことです。それも、知識や温々(ぬくぬく)とした恵みを蓄えるためではなく、自分の罪を知るためです。それも重箱の隅を突(つつ)くように道徳的な問題を自虐的に論うのではなく、神の前に自分が何者かでもあるかのように、人よりも正しいかのように、恵みに縋り付かなくとも生きていけるかのように思い上がっている罪に気づかされて、悔い改め、主の満ち溢れる恵みに立ち帰るのです。

「私共の罪よりも遥かに大きな恵みに導かれている幸いを感謝します。自分の罪を認めれば立つ瀬がないように思うのでなく、ただ主の恵みに治められていることを喜ばせてください。私共を、この強く熱き恵みに、満ち溢れさせてください。私共は小さな器ですが、人を赦し愛する、あなた様の溢れる恵みに満たされた土の器とならせてください」?


文末脚注

1 D・M・ロイドジョンズ『ローマ書講解5章 救いの確信』(渡部謙一訳、いのちのことば社、2009年)519頁。
2 ヒュペルペリッシューオー。ここと、Ⅱコリント七4でしか使われない、強意の動詞です。
3 この路線で、パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(八37)などと言い得たのです。
4 特に最初の五書(創世記から申命記まで)を「律法」と言いますが、旧約聖書全体は「律法(トーラー)と預言者(ナビーム)と詩篇(ケスビーム)」(ルカ二四44)と言われ(それぞれの頭文字を取って、「タナハ」と言われたりもします)、それをさらに短くして、「律法と預言者」と言ったり、「律法」と呼んだりしたのです。
5 ヨシュア記、士師記、列王記など、暗黒の時代にこそ、主の奇蹟は相次ぎました。
6 詩篇一一九篇やイザヤ書など、多数。


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2012/9/30 ローマ書六1―4(五20―六4)「いのちにあって新しい歩みをする」

2012-11-07 15:05:19 | 聖書
2012/9/30 ローマ書六1―4(五20―六4)「いのちにあって新しい歩みをする」

 一言で言えば、キリスト教とはどんな教えか、と聴かれたら何と答えればよいでしょうか。ひとことで答えられるかどうか、はともかく、取っ掛かりとして相応しい言葉が、今日の、いのちにあって新しい歩みをする、という4節の言葉です。神の愛とか、赦しとか、そういう面も大切です。けれども、その、神の愛、赦しという事そのものが、私たちを、いのちにあって新しい歩みへと突き動かす、というところまで行ってこその、神の愛であり、罪の赦しのメッセージなのです。
 先週まで読んで参りました、このローマ人への手紙の五章までには、本当に豊かで確かな神の恵みが、丁寧に述べられてきました。私たちが善い行いをするから救われるというのであれば、誰一人、神の前に正しいことなど出来ない罪人であるわけですが、だからこそ神様は、私たちに、キリスト・イエス様を送ってくださって、罪からいのちに移してくださった。それがどんなに確かなことか。
 そう繰り返したのは、やはり人間の側に、神様の愛への疑い、不安、不信というものがあるからです。善行とかお布施、難行苦行といった犠牲を払って、神様の気を引くことでも出来なければ、救ってはいただけないのではないか、という人間の陥りがちな考えでは間に合わないほどの大きな神の愛ですから、パウロは重ねて言葉を継ぎ、譬えをいくつも持ち出して、神の救いの確かさを語ります。その一つのクライマックスと言えるのが、今読みました、五章最後の部分です。そこには、
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」
という言葉さえありました。神様が律法を与えて、人間に自分の罪を動かしようのないほどハッキリとお示しになる。しかし、それによって私たちは絶望するのではなくて、いよいよ神様のお恵みというものを知る。私たちが善いから、立派だから、ではなく、本当に、一方的な恵みによって救ってくださるという神様の測り知れない恵み深さがいよいよ分かる。満ちあふれる程に見えてくる。そこまでパウロは言い切ったのです。
 しかし、そうしますと、人間というのは本当に屁理屈をこねるもので、
「六1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」
 こういうことを言い出す人がいる。実際にそういう人がいることをパウロは念頭に置いて、先手を打つように話しているのだと思います。神様の恵みによる救い-人の行いには一切依らない救い-これは、ずっと後の宗教改革において回復された主張ですが、その時も既存のカトリック教会が非難した攻撃の一つは、「そんなことを言い出せば、みんなが野放図に、好き勝手に生き始めても歯止めが出来なくなる。不道徳を助長する邪教だ」という論理でした。実際そういう動きもありました。それが、人間の罪であり、狡さだとも思います。
 しかし、宗教改革者たちもパウロも、それに対してこう言うのです。
「 2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
 罪に対して死んだ。これはどういう意味でしょうか。直前の五21節では、
「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる…」
とありました。罪が支配した状態から、恵みが支配するようにと新しくされた、と言います。それが、罪に対して死んだ、ということです 。
 確かに、神様の愛は、私たちがどんなに罪を犯しても、私たちを赦し、愛し続け、最善をなしてくださる恵みです。しかし、私たちが罪を犯していても「まあ、いいや」と大目に見るというのとは違うのです。私たちを愛するからこそ、私たちを見捨てまい、滅ぼすまい、というだけではなく、罪の支配から恵みの支配へと移す。私たちの心を毒し、やがては滅ぼすような罪を怒らないだけでなく、その罪から引き摺り出してでも救い、生き方を一新させようとする。それが私たちを愛する神様の愛です。そうでなければ、本当に私たちを愛するとは言えないのではありませんか。
 赦されるならば罪を楽しんでもええじゃないか、それで一層恵みを味わわせてもらったほうがいいじゃないか、と言って憚らないとしたら、それこそが罪の奴隷となっている証拠ですね。そういう人間の性根-罪がどれだけ神を傷つけ人を傷つけるかを考えずに、自分の楽しみや都合を振り翳す人間の罪-そこから神様は私たちを救い出してくださったのだ。それなのにまだ罪の中に生きよう、その方が恵みが分かる、などということはあり得ないじゃないか、と言われているのです。
 少し考えるとお分かりになることですが、このように言われている事自体、逆に、この手紙の読者である当時の教会も、それ以降の私たちを含めたキリスト者たちも、イエス様を信じたら、たちまち心が清くなって罪を犯さなくなる、というわけではないし、どうせ赦されるのだから罪を楽しもうという屁理屈を捨てているわけでもないのです。もしそうなら、こんなこと自体、言わなくてもいいはずですから。
「 3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」
とあるのも、洗礼(バプテスマ)を受けたから、自動的に新しく生まれ変わって、いのちにあって新しい歩みをしている、もう罪のない生き方をしている、ということではないわけです。洗礼やその水に、何か特別な力があるのではありません。しかし、パウロは洗礼を受けた事実に訴えます。イエス様が洗礼を教会にお命じになったのですが、教会への入会儀式として洗礼があることを私たちは軽く考えて、「ただの儀式だ」などと言ってはなりません。それを受けたからと言って心が新しく生まれ変わるのではない。また、洗礼を受ける本人が、どれだけ罪からきよくされた生き方を自覚しているかも定かではないかも知れません。それでも、その洗礼を受けたという揺るぎない事実を根拠としてパウロが訴えているように、私たちは、キリストの福音を信じ、洗礼を受けるときに、自分がもう神の支配の中にあるという事実を信じることが許されるのです。まだ罪を犯してしまうのも事実です。神の愛が見えない思いをするときもあるのです。それでも、私たちは、神の恵みの支配の中に、今自分がある。罪は、私たちの心に働きかけますが、決して私たちを支配して、神の手から私たちを奪って滅ぼすことは出来ないと信じなければならない。
 この夏に秩父でありました合同修養会で教えられたことの一つは、私の心には、不安や心配がいつもある、ということです。自分の性格を考えさせられて、改めて、自信のなさが、自分の行動や心理を物凄く左右していることを認めざるを得なくなりました。そういう私にとっては、本当にこの聖書のメッセージは慰めであり救いです。私が恐れたり案じたりしていても、神様が私を支配してくださっているという事実は変わらない。私が頑張って聖い生き方をしようとか罪を犯すまいとすることで信仰が確かになるのではない。明日も東から太陽が昇るのだろうか、目が覚めたら1足す1が7になっていたらどうしようかと人間が心配し始めたとしても、それで自然法則が揺らぐことなどないように、私が疑おうと分からなくなろうと、神様の方で私を支配していてくださる。だから、この方への信頼と服従に生きる。いのちにあって新しい歩みをする、のです。
 「歩み」という言葉、文字通り、歩むという言葉です 。キリストの支配に入れられることは、走ったり躍ったり、熱狂するようなことではなく、「歩み」です。目立ったり偉大なことをしたり、丸きり生活を変えて生きるのではなく、変わらない毎日の中で、淡々と歩みつつ、しかしその歩みがいのちに支配されている。神を礼拝し、罪に背を向け、キリストの救いの恵みの中にあることを確信して、一歩一歩、歩んでいる。キリストを信じても、日常の営みの苦労はなくならないでしょうし、病気や災害や死に襲われなくなるわけでもありません。けれども、先の五章3節以下では、そんな艱難さえも、私たちを忍耐や品性や希望を生み出すと、喜んで告白すると言われていました。私たちは、自分を省みれば如何に小さく、身勝手な者であるかを知るばかりです。けれども、そんな私たちを、神様がどれほど確かに捉えていてくださることでしょうか。私たちの心の底の底までご存じのお方が、その心の底で神様を信じ、喜び、お委ねする、新しい歩みをさせようと決めてくださっている。その恵みにご一緒に与りたいと思います。

「キリストにある者とされる幸いが、罪を楽しむでも敬虔さを装うでもなく、あなた様の恵みにますます信頼する歩みであることを教えてくださり感謝します。今なお恵みよりも自分の力に頼もうとする思い上がりを砕き、只管(ひたすら)、主に拠り頼ませてください。豊かに私共をもてなしてくださる一方的な御愛のうちに、この午後も憩わせてください」


文末脚注

1 次の七章では、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。…」と(身も蓋もないような)譬えを語っています。
2 新共同訳や口語訳では「生きる」と訳しています。

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