聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

Wordpressでつづけます

2022-06-06 15:45:27 | 説教
2022年4月から、新しい教会に異動しました。
ひとつの節目として、Wordpressに説教原稿の投稿先を移すことにしました。
(どうやら、Wordから、脚注なども含めての投稿が、やりやすそう・・・という理由もあります。勉強中です)
これまでの説教は、このままgooブログにお世話になります。

新しい説教ブログのアドレスは、こちらです。
引き続き、聖書を読む冒険をごいっしょに!

感想やツッコミをコメントで寄せて戴けたら、めっちゃ励まされます。
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2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

2021-04-02 16:40:47 | 説教
2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

 神の子キリストは、今から二千年ほど前、人として生涯を過ごし、最後に残酷な十字架刑に処せられて、三日目に甦り、今も生きておられます。この告白を、世界が味わう受難日です。
 この十字架の苦しみは、両方の手首と、足を太い釘で打ち付けて磔にして、致命傷を与えないまま、気が狂うほどの激痛の中に放置する、という酷い苦しみです。その惨たらしさから、当時のローマ市民は十字架刑を免除されて、話題にすることもタブーとされていました。一方、ローマへの反逆者とされた人は、冤罪(えんざい)であっても十字架につけられて見せしめのさらし者にされて、道路の脇に見かけることは少なくなかったようです。当時のローマ帝国に住む人にとって十字架刑はかなり身近な恐怖でもありました。ですから、ここでも十字架がどれほど苦しいものか、という描写や説明はほとんどしていません。それを言うことは必要なかったし、また、説明しきれるものではない、想像を絶する苦痛だったのです。ただ、23節に短く、
「没薬を混ぜたぶどう酒」
という、一寸とした痛み止めをもお受けにならなかったことが書かれています。イエスが、十字架のあらゆる苦しみを漏らさず、逃げることなく飲み干そうとなさったことが分かります。そして、その後はイエスご自身の事は何も伝えられないまま、34節で、
34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 十字架の想像を絶する苦しみでさえ、お受けになったイエスが、こう叫ばずにはおれないことが起きました。父なる神に見捨てられるという、十字架の苦痛以上の、神との関係の苦痛を、イエスはこの十字架の上で味わわれたのです。そして、主イエスがここで神に見捨てられる体験をなさったゆえに、私たちが神に見捨てられることは決してなくなったのです。
 こうしたイエスの姿へは言葉少ななのに対して、周囲の人間たちは饒舌です。イエスを罵って
「十字架から降りてきて、自分を救ってみろ」
と、通行人たちも、祭司長や律法学者も、両脇で十字架につけられた人たちも嘲ります。
「わが神、わが神、どうして」
という叫びを聞いても、そばに立っていた人たちは誤解をして、酸っぱい葡萄酒、喉を焼き付かせるような物でまだ死なせまいとしたのです。周囲の人たちは、苦しむイエスが「救い主だ」とは思わず、せめて「この人は冤罪だ」とさえ思わなかったのです。人々はイエスを理解できませんでした。
 受難週に必ず読まれる聖句の一つ、イザヤ書53章は預言していました。
イザヤ書五三1誰が信じたか。…だれに現れたか。…彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
 まさに、この預言の通り、十字架の周りの人はイエスを蔑み、顔を背けたのです。
 4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 「あれほど酷い目に遭っているのは、きっと神に罰せられ打たれ、神に苦しめられているとしか思えない」。そう思う、というのです。そういう考えでは到底理解できない事を、神はなさるお方である。そうイザヤが預言したとおり、イエス・キリストは、苦しみと辱めの十字架にかかり、人々から全く理解されませんでした。しかし、その十字架の死の直後、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
 この、惨めに十字架にかかり、苦しんで、しかし誰をも恨まず、罵らず、ただ、神に悲しみと疑いを叫んで死んだ方を、負け犬や可哀想な愚か者ではなく、神の子だと告白する、驚くべき言葉です。しかも、この処刑を執行した、権力者の側の百人隊長がです。言わばこれは、この世界の権力者、人間の冷たく、見当違いな正義感の敗北宣言・降伏宣言です。
 5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 私たちこそ、癒やしが必要なけが人、病人、罪人です。イエスが刺され、砕かれたのは、私たちのためでした。イエスは、私たちの持っている闇をご存じです。私たちの愛のなさ、恐れをすべてご存じです。その私たちの深い罪を、赦すだけでなく、癒やして回復させるために、神の子イエスが人となり、完膚なきまでに苦しみにご自分を献げて下さいました。そのイエスこそ、神の子である、この世界を治めるお方です。人間に仕えて、苦しみの局地も味わって、私たちの病も悲しみも知っているイエスこそ、神の子です。
 イエスの苦しみが神の子の究極の愛であることさえ分からない世界で、この方こそ神の子である、この方だけが私たちを癒やされるという告白を今私たちも与えられます。自分の罪や重荷などどんな問題も、恥じたり隠したりせずに主に告白して、赦しと回復をいただきましょう。そして、この私たちのために、主が十字架の死を遂げてくださった愛を、深く味わいましょう。そしてそれが死で終わらず、復活に続いたという希望に、私たち自身も、すべての人も、ともに生かされていくことが出来ますようにと願う、新しい心を戴きましょう。

「神の子イエス様。あなたの道は、人の思い描く道とは真逆でした。あなたが、十字架の死を通して、私たちに赦しと新しいいのちを下さった恵みを感謝します。今なお、人を裁き、コロナ禍という苦しみでも、責めたり罰したりする言葉を発する、病んだ社会です。どうぞ、私たちの罪や歪んだ正しさを、十字架の主の姿を通して照らしてください。あなたを救い主として賛美するだけでなく、あなたの恵みの光の中ですべてを見ていく者として新しくしてください」
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2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

2020-04-11 11:57:39 | 説教
2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      Ⅰペテロ1章3節
 祈  り
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」①
 主の祈り
 罪の告白      招き(コロサイ3:1,5,6)
                    祈り・沈黙
 赦しの確証    ローマ書4章25節
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」②
Ⅱ.みことばの宣教
 牧会祈祷
 聖  書      Ⅰコリント15章1~11節
 説  教      「最も大切なこと」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌154「地よ声高く」①
 ささげもの
 報  告
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌154「地よ声高く」②
*派遣・祝福    ヘブル書13章20-22節

 世界の教会が今日、主の復活を祝っています。教会に集まらなくても、主が私たちのために十字架にかかり、三日目によみがえらされ、今も生きて私たちとともにおられる。この知らせを味わい、お祝いしています。私たちは今年、この事実をかつて無かった程噛みしめています。
 十字架と復活は、今日のⅠコリント15章でパウロが確認している「最も大切なこと」です。
15:3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
 キリストの私たちのための死と復活は、聖書に書かれていた、最も大切な事です。それは聖書後半のクライマックスですが、その前の3分の2、旧約聖書でもずっと語られています。やがてキリストが来て、私たちを回復して下さる。それも、神の圧倒的な力によるのではなく、キリストご自身が死なれ、葬られ、命を捧げて下さる。また、それで終わりではなく三日目に甦って、弟子たちや多くの人に現れたのです[1]。教会はこの「福音」を最も大切な事として語ってきましたし、世界のキリスト教会、キリスト者はこのことを信じているのです。
 でもそれは「昔、キリストが十字架に死んで復活しました」と信じているという意味ではありません。キリストが復活して現れた弟子たちは、ただ復活の目撃証人となって、復活を裏づけただけではなく、復活の主に出会って、人生を新しくされました。弟子たちは、イエスの十字架の時に全員が逃げ、イエスを裏切ったりした失敗者ばかりです。復活の時にも、彼らは喜ぶどころか、笑ったのです。イエスが死んで、もうお先真っ暗と沈み込んでいた。そこにイエスが現れて、彼らは本当に驚いた。ひっくり返る思い、いや本当に弟子たちの人生はひっくり返ったのです。イエスの十字架と復活は、私たちの常識を覆します。イエスをよみがえらせた神の恵みは、私たちにも力強く働いています。それが、聖書に書いてあること-キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられ、弟子に現れた、最も大切なことなのです。
 特に、このコリント書を書いているパウロ自身、自分のことをしみじみと書いていますね。
8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
 神の教会を迫害していた自分、使徒と呼ばれるに値しない私に、キリストが現れてくださって、恵みによって、他の全ての使徒たちよりも多く働かせてもらった。私が、ではなく、神の恵みが私とともにあって働いた。そういう神の恵みを自分がいただいた、という告白になっています。
 この「無駄にはならず」は、15章に5度も繰り返される言葉です[2]。神の恵みは決して無駄にはならない。キリストの十字架の死という最悪な出来事と、その後の復活の恵みは、禍や死が襲いかかっても、決して無駄にはならないと希望を与えてくれる、不思議な灯です。
 次の12節以下を見ると、コリントの教会の中に
「死者の復活はない」
「死んだら人間お終いだ」と考える信者がいた事が分かります。十字架や復活は信じていたのでしょう。それでも「それはそれ、これはこれ」。32節では
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」
という言い草も出て来ます。だからパウロは、もしそうなら、キリストの復活もなかった、でもキリストは復活したのだ、と語るのです。この章の最後の結論はこうです。
58…私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
 イエス・キリストは私たちの罪のために死んで三日目に復活させられ、イエスを見捨てた弟子たちを新しく立ち上がらせ、教会の敵であったパウロを使徒にしてくれました。神の恵みは、死よりも強いのです。イエスが死なれたように、私たちも死にます。死ななくなるわけではなく、弱さを持ち、朽ちる身体で生きています。でも、それが全てではなく、復活の力をキリストは私たちのうちに働かせてくださる。
 今、これだけ世界が感染症に脅かされて、対策を取る必要に迫られています。「自分は大丈夫」などと思わず、朽ちる身体だと弁えて、十分慎重になりましょう。それでも、この朽ちる世界にも、主イエスが来られて、朽ちない恵みの力を働かせておられる。そうでなかったら、キリストは復活しなかったはず、信仰など無駄なのです。しかしキリストは、初穂としてよみがえられました。決して無駄にはならない労苦を私たちに与えてくださっている。それは私たちにとっての生きた希望です。

「主イエスがよみがえられたことの、実に不思議な知らせを思い、御名を崇めます。あなたは私たちの救いも、十字架の苦難も復活も、無駄とは思わず、御業を成し遂げてくださいました。その恵みの力に、私たちが今支えられて、あなたの命の働きを期待して歩めることを感謝します。どうか私たちもあなたの恵みの器として、今この時、それぞれの場でお用いください。あなたの慈しみを見させ、私たちの心も恐れを溶かし、愛と喜びに温かく満たしてください」
[1] イエスの復活は、実際にその目で見た目撃証人が大勢いる事実です。勿論、旧約聖書には、「ケファに現れ、十二弟子や500人以上の兄弟たちに現れる」とは書かれていませんが、その大勢に現れたことも聖書の約束、預言で、最も大切なことでした。
[2] Ⅰコリント15章2節「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」、10「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」、14「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」、58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
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マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

2017-04-16 16:01:30 | 説教

2017/4/14 マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

 イエスが十字架に死なれたこと、そして、三日目によみがえられたことは、キリスト教会にとっての最も大切な信仰告白です。Ⅰコリント15章3節以下にこう書かれています。

Ⅰコリント十五3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

 5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 この「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」、これが最も大切なことであり、福音(良い知らせ)です。そして、それこそが聖書の示しているメッセージだ、と言われています。

 キリスト者でさえ、聖書に何が書いてあるのか、つい誤解しがちです。敵を愛しなさい、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい、そんな高尚な道徳が書かれているように思いがちです。聖書を実際に読んでも、そこにある失敗や人間ドラマを読んで、教訓を引き出そうとして終わることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目によみがえられ、弟子たちに現れたという福音を中心に書かれています。そして、私たちはそれを信じています。でも「信じれば救われる」に勝って、信じる相手の神が、私たちの罪のためにご自分をお与えになった方、本当にいのちを捨てられて、三日目によみがえり、弟子達に現れた、そういう驚くべきお方である事に驚きたいのです。

 これは本当に驚くべきことです。余りに意外すぎて、誰も理解できませんでした。今読みましたマタイ27章の記事でも、イエスは十字架につけられた後、たったひと言

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と大声で叫ばれたのと、最後の最後にもう一度大声でお叫びになった以外は何もなさいません。ただ十字架の上で苦しまれて、死んだだけです。そういう全く無力な死に方をなさったのです。余りに弱々しくて、惨めであるため、周りにいる人々は、イエスを嘲笑い続けたのですね。そうです。むしろ、ここでは道行く人々や祭司長や律法学者、長老たち、両脇の強盗たちがイエスを罵り嘲る姿の方が、詳しく長々と記されています。

「もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」

 そう言って囃し立てて馬鹿にする人の姿のことしか書いていません。それぐらい、十字架に苦しんでいるイエスは、惨めでした。そこには神々しさとか、英雄らしさなどは一切ありませんでした。感動するような犠牲的な愛も感じられませんでした。イエスが叫ばれた、ここで記録されている唯一のお言葉、

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

でさえ、

47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。…

49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。

と見当違いな誤解をして、無神経な言葉を吐くだけでした。そういう人々の無神経さ、鈍感さ、無理解、そして冷たく嘲笑い、罵り、中傷することをマタイは記録しています。しかしその向こうに見えてくるのは、そのように誤解され、嘲られながら、黙ってご自分をそのままに差し出されたイエスのお姿です。イエスは、十字架という残酷な痛みに、私たちの想像を絶する苦しみを味わって何時間も過ごされました。手足を釘で打たれたまま、裸で日差しに晒されて、死ぬまで放って置かれるのです。多くの人は気が狂い、この時も隣の強盗も自分の反省は棚に上げてイエスを罵っていたのに、イエスは違いました。反論もせず怒ったりお説教したりもなさいませんでした。

「もし神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」

と罵倒されても、イエスは言い換えされませんでした。私なら「お前達の救いのために、死んでやるんだぞ」と言い返したでしょう。イエスはそんな反論を一切されず、ご自分の正しさを証明しようとされたりもせずに、十字架の苦しみも、人々からの罵声も、神から捨てられるという想像できない苦しみにも、最後まで留まって、死なれたのです。

 この冬に、「沈黙」という映画が日本でも上映されました。切支丹ご禁制の時代を舞台にした、とても重い映画です。そこでも拷問や苦しみが扱われていました。そこでのシチュエーションに、踏み絵を踏んで信仰を捨てるか、自分や誰かの命を犠牲にするか、という選択が何度もありました。主人公の司祭はそこで苦しむのですね。神を裏切るような真似はしたくないが、信徒を見殺しにするのも苦しすぎる。簡単な答は言えませんが、その事をイエスの状況と重ねてハッとさせられました。

 イエスは、ここで人間の命を選ばれました。ご自分が誤解され、神を冒涜している、偽メシヤだ、嘘つきだと笑われて、十字架に苦しめられても、その濡れ衣を晴らそうとは思われませんでした。十字架にかけられたままでも、せめて自分が神の御心を行っていることは分かって欲しいとも弁解されませんでした。自分を捨て、自分が神に対する最大の罪を犯したという汚名をもすすごうとされず、ご自分をお与えになったのです。それも、その苦しみを与える相手、ご自分を嘲笑い、否定する人々の罪が赦されるために、でした。これは、真面目な人なら全く思いつきもしないような行動です。しかもそれこそが、聖書が証ししているキリストの行動でした。

 イエスはこれをずっと予告しておられました。一番弟子のペテロはイエスを愛すればこそ、そんな滅多なことは言われるもんではありませんと窘めた事がありました。しかしイエスは、ペテロを

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と仰り、

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

と言われたのです[1]。人の道は、楽や名誉や賞賛を求めます。しかし、神の道は、自分を捨てる道、自分を与える道です。それは、イエスの死と復活において最大に表されました。聖書がキリストの死と復活を示している、というのは、ただイエスが死んで復活する出来事を予め記していた、というだけのことではありません。神御自身が、本当に愛のお方であり、ご自分を与えるお方であり、そういうお方として私たちに現れてくださった、ということです。

 旧約聖書にはこのような言葉もありました。

イザヤ五三11彼[キリスト]は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 イエスは本当に激しい苦しみを受けられました。それは、イエスが神の子であるにも関わらず、例外的に「一度だけなら我慢しよう」というような自己犠牲ではありませんでした。キリストも神も、そういうお方なのです。私たちの誤解や非難、どうしようもない罪に顔を背けず、苦しみ、命を与えることを選び、満足されます。その深い人間理解をもって私たちの罪を赦して義としてくださいます。私たちの咎を、嫌がることなく担ってくださるのです。そうやって、私たちが神から離れた生き方から、この神を喜び、神に従う生き方へと立ち戻らせてくださるのです。

 ここに私たちの救いがあります。キリストが私たちのために御自身を与えて死に、よみがえって、現れてくださった。人間の考える「宗教」や「神」の理解の枠には到底収まらない神です。正しいことをせよ、と命じるよりも、聖書の物語は神御自身がどんな方かを示します。それは、私たちの罪も問題も深くご承知の上で、ご自分が傷つき、その顔に泥を塗られることも厭わず、私たちの所に来て、正しい生き方へと導いてくださる神です。このイエスを十分私たち自身が味わい、驚き、これほど深い救いに与っていることを覚えましょう。苦しみや孤独や罪の重荷も、誤解も過ちもすべて知って、受け止めてくださるイエスを仰ぎましょう。

「主よ。受難日に思う十字架の苦しみも、私たちに耐えられるのはほんの僅かな断片に過ぎません。それでもあなたは、御自身の犠牲の重さより、私どもに対する愛と喜びこそ知らせたいお方であることを感謝します。主の愛の大きさをなお深く思い巡らし、一切の恐れや汚れから解放され、恵みに感謝するとともに、その主に似た心で生きる幸いへまでお導きください」



[1] マタイ十六21-28。

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詩篇一二一篇「助けはどこから来る」新年夕拝

2017-01-02 17:54:39 | 説教

2017/1/1 詩篇一二一篇「助けはどこから来る」

 今日の詩篇一二一篇は、一二〇篇から一三四篇まで、一五の詩篇が

「都上りの歌」

とタイトルがつけられている中の一つです。「都上り」とは、ユダヤの人々がエルサレムの都まで礼拝のために上っていく、巡礼の旅の事です。今のように近くの教会に車で行くのとは訳が違います。年に数回、歩いてエルサレムまで行くのが「都上り」でした。それは、実に貴重で、また大変な旅でした。一番北のガリラヤからなら、三日ほどはかかったでしょう。往復で一週間ほどかけての旅です。その間、色々なことを考えたことでしょう。数時間だけ教会に行くのでさえ、大変なことがありますが、まして一週間家を空けるのです。家族のこと、仕事のこと、親のこと、そして戦争や侵略がしょっちゅうあった昔ですから、そういう社会や民族的な心配も考えずにはおれなかったでしょう。

 ここに出てくる「山」は巡礼の旅の途中で見た、山々だったのでしょうか。あるいは、都エルサレムがある山々の連なりが目に見えたのかもしれません。ここで「山」を見た時、恐らく詩人の心に浮かんだのは、美しい自然というよりも、山の険しさ、自分たちの道に立ちふさがる問題を象徴するような恐れだったのでしょう。山は綺麗だなぁ、と憧れて山を見ているのではなく、山に登っていく巡礼の道を覚えながら、

 1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

と思わずもらしたのでしょう。それは、ただ山を登るのが大変だ、上り坂だから嫌だなぁという事ではないのです。私の助け、と彼は言います。自分の生活の助け、巡礼に行って帰ってくればいいだけではない現実の自分の生活全般を思いながら、心に浮かんでくる問題を、見上げる山に重ねながら、

「私の助けはどこから来るのだろうか」

と言ったのです。この礼拝に来ている私たちもどうでしょうか。礼拝に来ながらも、心に引っかかっている心配があるでしょう。教会の上がりかまちを見てため息をつく方は、普段もあちこちでため息をついているはずです。今ここにいる私たちそれぞれの心にはどんな山があるのでしょう。もし私たちが礼拝のため、ここではなく、三日も旅をしなければならない都だとしたらどうでしょうか。とても、そこまで行く気力はない、と思わないでしょうか。詩篇作者の生活も、決して悩みや苦労が何もないから、都に上って行けたのではないはずです。その途中、山を見上げてはため息が出、助けて欲しいと叫びたくなるような自分の心に気づくのです。しかし、彼は続けて言います。

 2私の助けは、天地を造られた主から来る。

 私の助けは、天と地を造られた神、主から来るのだ。今から向かっている都で崇めているのは、エルサレムだけにいる神ではありません。礼拝だけを要求し、私の生活のことは知らんぷり、という神ではありません。私を助けてくださる方です。しかも、この神は天地を造られた神です。この山を越えた向こう側のエルサレムにおられる神ではないのです。山も空も、大地も、後ろの故郷も、その向こうの異国の地も、すべてをお造りになった神なのです。その主から、私の助けは来る。そう彼は自分に言い聞かせます。

 3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

 4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

 「まどろむこともない」と二回繰り返して、主の守りの確かなこと、信頼するに価することを自分に思い起こさせますね。今日、私たちもこの言葉を言いましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る」。

 私たちの教会にとって大きな影響を与えたジャン・カルヴァンはジュネーブの教会の礼拝の最初に、召詞として毎回この詩篇一二一篇2節を読み上げて始めました。神を礼拝するに当たり、その神を

「天地を造られた主」

として覚え、同時にその方から

「私の助けが来る」

と励まされる。そこを確認した上での礼拝としたのです。これは、今も大切な確認です。この礼拝と、私たちの生活は、別々のことではありません。私たちは、今自分の心に引っかかっている様々な問題の助けも、この方から来ると信じて、天地を造られた主を礼拝するのです。

 5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

 6昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

 7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

 8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 詩篇作者はこう言い切っています。この短い詩篇の中で、「守る」という言葉が何度も繰り返されているのに気づきます。全部で六回も、

「守る方…守る方…守る方…あなたを守る…あなたのいのちを守られる…今よりとこしえまでも守られる」

と繰り返すのですね。裏を返せば、主の守りを繰り返して確認することが必要なほど、禍もあるし、助けが必要なのが人生の旅路だ、ということです。主は私たちを禍から守ってくださいます。けれども、禍に遭わせずぬくぬくと過ごさせてくださる訳ではありません。私たちが一年の初めに、主に禍からの守りを祈り、主の確かな守りを確信するのも、決して、この一年、不幸や苦しみがない、という事ではありません。病気や死や悲しみがない人生を期待せよ、というのではありません。そういう禍があって、実際、大変な思いをしたり、取り返しの付かない曲がり角を経なければならないのも、私たちの人生です。しかし、そうした中でも、私たちは、神が私たちを守り、禍をも益に変え、祝福にしてくださると信じるのです。主は私たちの「右の手」を守り、なすべきことを果たさせてくださいます。私たちの「いのち」を守って、死においても、恐れることなく、魂を主に委ねさせてくださいます。主はすべての禍よりも強いお方です。

ヘブル十一6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 私たちは神がおられる事実だけでなく、この方が御自身を求める者には報いてくださる方であることをも信じます。それが主が私たちに与えてくださる信仰です。天地を造られた主から、私の助けが来る。何と大胆な信仰でしょう。主イエス・キリストが示して下さり、御霊が私たちに育んで下さるのは、この信仰です。どんな歩みがこの先にあるのか、私たちは1年後も、明日さえも分かりません。でも、どんな禍が起きようとも、その事さえ主は助け、私たちを守り、神の民として支えてくださると約束されています。

 

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