聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/11 マタイ伝18章1~10節「小さい者の一人をも」

2021-04-10 13:03:01 | マタイの福音書講解
2021/4/11 マタイ伝18章1~10節「小さい者の一人をも」

 弟子たちが
「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」
とイエスに質問した時、イエスは一人の子どもを呼び寄せて、彼らの真ん中に立たせて、
「子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません。…この子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」
と仰った出来事です。勿論イエスは、「誰が一番偉い弟子なのか」という争いを止めさせたのであって、「一番子どもらしくなれるのは誰か」ゲームを始めたのではありません。

 この「子ども」は幼子イエスにも使われる、まだ二歳になるかならないかのギャングエイジです[i]。子どもが天国に相応しい、可愛くあどけない、天使のような存在、と描かれるようになったのはずっと後のことで、聖書のこの時代も、そんな考えはありません。幼児はまだ人間と見なされず、大人の物と考えられていました。ここで言えば、弟子たちの「誰が一番か」ゲームに、子どもは入ることさえ考えられない存在だったのです。そんな、弟子たちの眼中にもない子どもの一人を、イエスは呼ばれて、弟子たちの真ん中に立たせました。大人たちに囲まれて、小さな子どもが一人立つ絵です[ii]。そしてイエスは、背伸びや競争をする生き方から
「向きを変え」(回れ右をし)[iii]、
子どものようにならなければ、天の御国に入る事さえ出来ない、と断言されるのです。イエスは、彼らの目を、一人の子どもに向けさせます。

 そう、イエスはその子ども、彼らが目にも留めなかった子どもの一人を、神の国を知る、目の前の手がかりとして見つめさせます。「どうせ子どもだから」「何を考えているかなんて気にする必要は無い」と決めつけて見ようともしていなかった子どもを、真ん中にひとり置かれて、じっと見させられます。私たちが自分で勝手に思い描く理想化された「子どもらしさ」を目指させたのではありません[iv]。その子を大事にすることです。ですから、続く6節以下、
わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
「つまずき」とは、「わたしを信じる」こと-イエスとの出会い、イエスとともに生きること-を妨げることです。だから12節では
「羊が一匹迷い出る」
 15節では
「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」
話に膨らんでいきます。迷子になり、罪を犯してしまう、生身の一人に目を留めるのが神の国なのです。この世界では「誰が偉いか」「誰が一番いい子か」と競って、一番偉い人の首には金メダルがかけられて表彰台に上げられます。その影響が拭えない弟子たち(私たち)も、知らず知らず、競争や勝ち負け、自慢とか評価を教会にも持ち込んでしまう。そんな物差しは、小さな一人がイエスとの関係を持とうとしても妨げられます。それは、その人の首に大きな石臼をかけて、海に沈んだ方がよい。それが神の国です。イエスは弟子たちの「誰が一番偉いか(大きいか)」と問うたのに対して、
「この小さい者たちの一人」
に目を留めさせて、その質問自体を覆されました。神の国は、私たちの目の付け所を覆すのです。[v]
8~9節「あなたの手か足が…あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」。
 こんな極端な譬えでイエスは仰るのです。「ならば、この小さい者、目障りで、躓こうと迷い出ようと知ったことかと思うようなその一人を軽んじないように。躓かせないように。受け入れるように」と。あなたの手足や目に、不具合があっても切って捨てたりはしないように、子どもや小さな人、罪を犯した人も、手足や目のように大事な存在です。いえ、むしろ、そうした「小さな人」こそ、私たちにとって必要な、差し伸べられた手です。その弱さや問題を通して、私たちを導いてくれる足になります。その躓きや迷いを通して新しい何かを見せてくれる目になります。子どもや小さな一人に、「神の国はこのような者の国だ」という思いをもって目を留めていく時、私たちの見方も生き方も確かに変えられていくのです[vi]。それこそが、イエスが王として治める国、この世をひっくり返してしまう天の御国なのです。
10…あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
 当時の社会には、偉い人には御使いが付いている、それも偉くなればなるほど守護天使の数が増えると考えていたようです。しかしイエスは、小さい者たちの一人にも御使いが一人一人付いていて、父なる神の顔を見ている。その小さな者が直接神の顔を見ることは叶わなくても、その御使いが代わりに見ていて、神との親しい交わりを持ち、神の顔に叶わないことがあれば、その問題を解決できるように導いていてくれる。決して躓きや問題を放置するのではありません。手足や目に何か問題があっても、切って捨てはしなくても、逆に何も手当をせずに放って置きはしないのと同じです。その事は、12節以下で、丁寧に触れられていく通りです。
 その大前提にあるのは、私たちが子どもや小さい者に目を留めることです。「あの人は偉い、あの人は子ども、あの人は罪人」と一括りにしやすい見方が、そんな評価ではなく、「この一人」「その人」「この私」を見るように変えられるのです。なぜなら、主イエスが、私たちをそう見てくださっているからです。神の国はそのような国だからです。私たちが、思い上がりも勘違いも、躓きも、すべて拭われて、目の前の一人を「その人」として見るようになる。そして自分も「偉い人」や「いい子」にならなきゃなんて思い込みから自由にされていく。イエスは私たちの生き方の向きを変えさせて、子どものようにしてくださる救い主なのです。

「主よ、あなたこそ最も偉い方、偉大な方です。そのあなたが、私たちを愛し、罪人を救うため、最も小さな幼子となってくださいました。どうぞ、私たちの大人ぶった背伸びを笑って、私たちを自由にしてください。生身の幼子や目の前にいる一人一人の中に、あなたが見ておられるいのちに気づかせてください。あなたの深い憐れみを思わせ、それを妨げて躓きをもたらす、禍な生き方から、絶えず向きを変えさせてください。御使いを通して支えてください」

脚注

[i] 「子供」マタイでは、まず2章の「幼子」イエスのこと(8、9、11、13、14、20、21節)。その後、11:16(この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。)、14:21(食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。)、15:38(食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。)、18:2~5、19:13~14(そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。14しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」)。
[ii] 真ん中に 10:16(いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。)、18:20(二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」)。似ているのは、中風の人の癒やし(9:2~8)、取税人との会食(9:10~13)、長血の女(9:18~26)、安息日での癒やし(12:9~14)、イエスの「家族」(12:46~50)。イエスは、繰り返して、人々の前に「小さい者」を置かれ、彼らに目を留め、彼らを受け入れるよう招かれる。
[iii] 向きを変えるストレフォー。欄外:悔い改め 5:39(しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。)、7:6(聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。)、9:22(イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、18:3、27:3(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。)
[iv] この言葉を聞いても、私たちは「子どもらしさ」とは何だろうかと考えて、自分を低くする謙遜とか、純粋無垢に、正直、などなどを定義し、自分に課してしまうことが多いでしょう。それは、目の前にいる子どもに当てはめるなら、大人の勝手な「こどもらしくしろ」を押しつけるだけの基準である事が少なくないものです。
[v] ナウエン「「子供を受け入れる」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、この世からほとんど無視される人々に愛情のこもった関心を払うことです。自分で想像してみるのですが、とても重要な人物に会うために列に並んだとします。そこに小さな子供が通りかかりました。私はその列を離れ、その子供にすべての関心を向けようとするでしょうか。・・・」『ナウエンと読む福音書』85頁。
[vi] 新刊『いのちにつながるコミュニケーション』(富坂キリスト教センター編、田代麻里江、小笠原春野、酒井麻里、白石多美出、三村修、岡田仁、共著、いのちのことば社、2021年)では、次のように述べられています。「イエス様は、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いに答えるため、小さい子どもを呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせ、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました(マタイ一八・一~四)。当時のユダヤ社会でも、子どもは無知で無力な小さい存在として扱われていました。現代の社会でも、親が子どもに言う「迷惑をかけないように」という言葉は、暗に「大人にとって都合の良い秩序や快適な自由を子どもは邪魔をしてはいけない」という意味で使われています。 親が子どもに社会的規範を厳し過ぎるほど守らせようとするのは、「迷惑をかける子は、社会からはじき出されて、幸せな人生を送れなくなってしまう」という恐れから来ているのかもしれません。そして多くの親が、自らも同じ理由で親から厳しく育てられた経験をもっていることに気づくでしょう。 ところが、キリストは小さく弱いままの子どもを皆の真ん中に立たせて、「悔い改めて子どもたちのようにならないかぎり、決して天の国には入れない」と宣言されました。大人対子どもという圧倒的なランクの差、権力の上下関係をひっくり返されたのです。この革命的な宣言は、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(同五節)と続きます。・・・(以下、略) 」 28~29頁。
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