聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/11/24 マタイ伝22章37~40節「神の要求とは」ニュー・シティ・カテキズム7

2019-11-24 17:30:03 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/24 マタイ伝22章37~40節「神の要求とは」ニュー・シティ・カテキズム7
 
 ニュー・シティ・カテキズムを一つずつお話ししながら、神がこの世界を創造したこと、私たちは神の栄光を現すために創造されたことをお話ししてきました。その神の栄光を現すことには、神が私たちに要求していることに従うことも含みます。
第7問 神の律法は何を要求していますか? 答 個人の完璧な、永久の服従です。それは私たちの心を尽くし、魂を尽くし、知力を尽くし、力を尽くして神を愛することです。そして私たちの隣人を自分自身のように愛することです。神が禁じていることを決して行わず、神が命令していることを常に行う事です。
 私たちが神に服従すること。それが神の要求です。「個人的で完璧で永久の」というのは、元々の英語のカテキズムでは
「Personal, perfect, and perpetual obedience」。
 Pで始まる言葉を三つ並べる、覚えやすい、言葉遊びになっています。個人的で、完璧で、永久の、というと堅い印象があるでしょうが、もっと深く、生き生きした印象を持って欲しいと思います。神は、私たちに、私個人の服従を求めておられる。私が、少しもいい加減でなく、完全に服従することを、そして、いつまでも服従することを求めておられる。そうよくよく味わって欲しいのです。神が、私たち一人一人の、パーソナルでパーフェクトでパーペチュアルな服従を求めておられる…。
 今日のマタイ伝でも、イエスは、神の律法で一番重要なのはどの戒めですか、と問われて、答えました。
マタイ22:37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38これが、重要な第一の戒めです。
39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。…
 心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、神を愛すること、そして私たちの隣人を自分自身のように愛すること。これが神の定めた人間に対する律法、神の要求の中心だと仰ったのです。神が私たちに求めているのは、神を愛すること、そして、自分の隣人を自分のように愛すること。この二つ。イエス自身、この言葉を聖書にある言葉から引きました。第一は、申命記6章5節です、第二はレビ記19章18節です。これは聖書の最初の方です。神は、最初から、人間に個人的で完全な永久の服従を求めていました。
 神は私たちを造った創造主です。私たちを創造した時、既に神が人間に求めていたのが、この完璧な神に従う関係でした。それは、神ご自身が人間を愛して、個人的で完全で永久の愛を人間に注ぐお方だったからです。神が人間にだけ、完全な服従を要求されるのだと思うと苦しくなります。無茶な要求をなさるなぁと恐ろしくなります。でも、神ご自身が愛のお方だからこそ、私たちにも、完全な愛、隙のない服従を求めるのです。
 イエスの弟子のペテロという人がいます。この人はとても真面目で、頑張り屋だったようです。家や仕事をなげうってイエスに従いました。同じようにイエスに従った弟子の中でも、自分は一番になろうと競争していました。イエスのためなら、例え殺されても決して裏切らない、と言い張っていました。しかし、イエスが捕まって十字架に付けられる時、ペテロはイエスを見捨てて逃げてしまい、「イエスなんて知らない」と三度も強く否定のセリフを吐きました。イエスに完璧に従っていくつもりが出来ませんでした。そのペテロに、イエスが現れた時ペテロに何と言ったでしょうか。ペテロも、イエスに申し訳ない思いでいっぱいだったのか、何と言われるかビクビクしていたようです。しかしイエスがペテロに言ったのは
「あなたはわたしを愛しますか」
でした。もう裏切りませんか、とか、どうやって償うつもりか、とか、嫌味や何かではなく、
「あなたはわたしを愛しますか」
でした。ペテロは「はい。私があなたを愛する事は、あなたがご存じです」と言いました。それしか、言えませんでした。でもイエスは、その言葉を聞きたかったのでしょう。イエスは「あなたはわたしを愛しますか」と三回もペテロに聞きました。イエスがペテロに求めたのは、何か犠牲を払うことでもないし、ペテロの愛など要らないという一蹴でもありません。イエスに従い切れなかったペテロにも、「愛しますか」だけを問われたのです。それを求めるのがイエスなのです。なぜなら、イエスご自身がペテロを個人的に完璧に永久に愛していたからです。
 イエスは私たち一人一人にも求めます。「あなたはわたしを愛しますか」と。私たちが神を愛することを求めます。私たちが神に「私はあなたを愛します」と言う時に、神は喜ばれるお方です。勿論、口先のいい加減な「愛」ではありません。心も命も知性も傾ける偽りのない愛を求めます。私たちも、口先だけの愛や、心のこもっていない愛は要らないのです。神は私たちがお互いにも愛し合うことを望みます。隣人を自分のように愛する生き方を求めます。それは、ただ親切にするとか、嫌なことを我慢するとかの、形ばかりの善ではなく、自分も大事にして、同じように相手も大事にすることです。自分よりも隣人を愛しなさい、ではないし、隣人や自分よりも、神を愛しなさい、でもないのです。神が、ご自分を愛するように求め、私たちにも、隣人を自分自身のように愛しなさい、と仰った。それが、神の要求である、ということに私たちは驚くのです。
 そして、この要求は要求によっては果たせません。愛は、命じたり、強制することによって出来ることではないのです。愛は、ただ神の愛が注がれることによってのみ芽生えます。神の愛は、ただ私たちを愛するだけではなく、私たちのうちに自分も他者をも同じように愛するようにさせる命の力なのです。神の愛をもらうことなしに、私たちは神を愛することは出来ません。私たちの心には、神から離れた結果の、愛とは真逆の、自分勝手な思いや不安や淋しさでいっぱいです。神は、まず私たちとの関係を取り戻すため、御子イエス様を私たちに遣わしてくださいました。イエスこそ、愛の贈り物です。イエスの命が、私たちと神との関係を回復してくれました。その回復によって私たちは、神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することも、出来るように変えられて行くのです。

 イエス・キリストは、私たちを愛するだけでなく、私たちと神との関係を整えてくれました。それによって、私たちは神の愛を受け取り、私たちも神を愛し、自分も隣人も同じように愛することが出来るようにされていきます。神は、ご自分の要求が果たされるよう、すべてのことをなさっています。だからこそ、私たちは心配せずに、安心して、神を心から愛し、自分もお互いをも愛するようになっていけるのです。
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2019/11/10 マタイ伝5章13~16節「地の塩、世の光」

2019-11-24 16:58:29 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/10 マタイ伝5章13~16節「地の塩、世の光」
 マタイの五章から七章の「山上の説教」は、「幸いなるかな」という言葉で始まりました。それに続く13節以下に
「あなたがたは地の塩です。…世の光です」
と言われます。先の幸いも聞かされた群衆にとっては驚きの始まりだったわけですが、この言葉もまたビックリだったでしょう。何しろ、
「あなたがたは地の塩です
と大変強い言い方でイエスから断言されたのです。彼らは、イエスの教えを聞いたり、病気を癒やしてもらったりして、イエスに従ってきた人々です。よく分からないけれど、イエスに惹かれて、或いは様々な思惑があって、集まってきて、イエスの教えを聞こうと集まってきた人々です。その人々に、イエスは仰る。
「あなたがたは地の塩です」
と。「地の塩になります/してあげよう」でも「なりなさい」でもなく、
「あなたがたは地の塩です」
なのです。人の側ではそんなつもりはない。「私は地の塩とか世の光とかになりたいんじゃない」と思っても、イエスは、集まる人々の幸いだけではなく、集まった人々が地の塩となり、世の光となることを視野に入れていました。それが神の国でした。
 「地の塩」。塩は食事に不可欠で、生活にも健康にも欠かせません。甘い和菓子にも塩が入るとを引き締めます。また塩は防腐剤の役目もします。人間の体にも塩は不可欠です[1]。水と塩だけで生きのびる話もあります。ですから塩は高価で、お金の代わりに用いられていた程でした。鳴門は塩作りの町で、かつてはこの一帯も塩田。塩を作る大事な働きを担ってきた地域です。イエスはその塩のように、集まった人たちが地にとっての塩…味を引き締め、腐敗を引き止め、生命を維持する、不可欠で高価な存在と言われるのです[2]。しかし塩の取り過ぎは毒です。塩分を控えるべき病気もありますし、和菓子や食事も塩を入れすぎたら台無しです[3]。塩は塩味を主張せず、食事に馴染んで、隠し味になっているぐらいが適当です。ですからキリスト者も、「少数だから弱い」とか「もっと数を増やして目立たせよう」ではなく、少量で十分な役割を果たしている。目立たず、気づかれなくても、社会にとって大切な役割、引き締め、腐敗を防ぎ、命を支える存在である。そう言われているのです[4]。続く、
「…もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」
の部分は、塩が塩気をなくしたら踏まれる、という警告にも聞こえます。当時の岩塩は塩気をなくすことがあったそうです。しかし、本当の塩は塩気をなくすことはありません。塩には賞味期限の記載がないのです。塩が塩気をなくしたら、というこの言葉を聞いて、皆さんは「ああ、私は塩気を失った塩だ。塩気や腐敗防止を果たせず、流されていてばかりだ。投げ捨てられて踏みつけられても仕方ない」と思うかもしれません。しかし、これは逆です。あなたがたは地の塩だ、とイエスは断言されました。その塩が塩気を失うことはないのです。投げ捨てられ、踏みつけられることは決してない。そう聞きたいのです。だからこそ、続く言葉は、塩気を失わないように頑張れ、地の塩になれ、というような命令や警告ではなく、
14あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。…
 地の塩よりももっと踏み込み「光」。
「あなたがたは世の光です」
と言い切るのです。これは「山上の説教」で、彼らは山の上にいました。そこで
「山の上にある町は隠れることができません」
と仰る。イエスの元に集まっている、その姿が光となる、というようです。ここでも私たちの中には「自分は光り輝くなんて出来ない」と遠慮する声が聞こえる気もします。安心してください。これも、「世の光になりなさい」とか「輝きなさい」と命じているのではありません。
「あなたがたは世の光です」
とイエスが仰るのです。
「明かりをともして升の下に置いたりはしません」
とありますが、当時、窓もないような狭く貧しい家では灯(あか)りを消す時には升を上から被せて、煙で空気が汚れないように消したのだそうです。しかし灯りを灯(とも)すのは消すためではありません。燭台の上に置き、家にいるすべての人を照らすためです。燭台が頑張って輝いたり、高価な燭台であったりする必要はありません。「世の光」とはその人が輝いた「スター」になるのではありません。神が、その人を通して、周りの人々を照らすのです。
 16節も「輝かせなさい」というより、
「あなたがたの光よ、人々の前で輝け」
光に命じる文法です。だからこそ最後も
「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」
と言われます。私が立派な行いをしてスターのように輝く、スポットライトを浴びる、それなら私が称賛されるでしょう。取って付けたように、「私ではなく、神様がしてくれたんです」とは言えるかも知れません。でもそういう事ではない。
 そもそも
「天におられるあなたがたの父」
の呼び名が、ここで初登場の言い回しです。旧約聖書には、神を天の父と親しく呼ぶことは極めて珍しく、恐れ多いことでした。しかし、イエスはここでサラリと神を
「天におられるあなたがたの父」
と呼ぶのです[5]。イエスは天からの
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(3:17)
と告げられた御子ですが、そのイエスが群衆や私たちを集めて、神を「天にいます父」として結びつけて、親しく「アバ父」と呼ばせてくださる[6]。何にも持たない貧しい者に、天の御国を下さり、迫害の中でも喜ぶような幸いを下さる。イエスの元に来た人々は、そういう途方もない恵みを聞いたのです。イエスに従う時に聞くのは、私たちの心も人生のあらゆる面も知り尽くす神が、それでも私たちを見捨てず踏みつけず、「天にいます私たちの父」でいてくださる。私たちの罪のためにご自身が御子の命の犠牲を払い、赦しと回復を与えてくださる。この神の確かな愛です。
 聖書は神と人間との関係を「契約」と呼びます。それを
「塩の契約」
と呼ぶことが旧約には何度かあります[7]。神の人間に対する約束が変わらないから、そして、私たちの生活や共同体に塩気をもたらし、引き締めて、腐敗から救い出してくれるから、でしょう。「塩の契約」に生かされている私たちは、幼子のように喜び、正直になり、飾ったり輝いてるふりをしたりせずに生きていける。その幸いを戴き続け、イエスの教えに育てられていく。その安心感、喜びの生き方が「良い行い」として、父を証しするのです。
 具体的にはこの後17節から最後まで、その
「良い行い」
がどんなものか、が語られていきます。心でも人を蔑まない、復讐しない[8]。特に、6章1節には
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父からの報いを受けられません。」
とあります。世の光とは、人目を意識した善行ではないとハッキリします。むしろ人目ではなく、神の真実で憐れみ深い眼差しを覚えて生きる。私たちの心を見ている神の前に生きる。そして、6章後半には
「思い煩うな」
と言われます。あなたがたの天の父なる神があなたがたの必要を満たして下さる。だから、明日を思い煩わず、今日の十分な労苦を担っていける。それが、結果的に「天の父があがめられる」「善い行い」になります。「敬虔なキリスト者」の立派な生き方ではなく、罪人をも回復させる神の前に、飾らず、あるがままに生きる。その生身の歩みが全ての人への光ともなるのです。苦しみの中で慰めを受け、失敗したり罪を犯したり限界にぶち当たる時も、主に立ち返り、教会という神の家族の中で、慰めやサポートをもらうことが出来る。そんな歩みこそ、本当の意味で
「良い行い(立派な、美しい行い)」
となって、周囲を照らす「世の光」となるのです。醜さや闇や問題を隠した「美しさ」を装うのではない。醜い問題にも正直に向き合い、それが変えられ、ケアされることこそ、本当の美しさでしょう。「地の塩、世の光」は立派そうな証しを立てることだと思われたり、「こんなことは証しにならない」と問題を隠蔽したりすることになりかねない理解もされますが、その逆に、思い煩いや労苦や心の奥をも見ておられる天の父の前に生きることそのものです。
 主の言葉を聞かずにはおれずに教会に集まっている私たちです。主の周りに集まって御言葉に聴く歩みが、天におられる私たちの父なる神を示して、人々の心を照らす[9]。希望や正直さ、安心や喜びを与え、この世界を、気づかないぐらい僅かに、でも僅かでも確かに、住みよい世界にする。神のいます世界にしていくのです。
「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です」。
 イエスが私たちを愛して救うだけでなく、そのことを通してこの世界を生かそうとされている。私たち一人一人がそう言われています。
「『教会が教会であるのはそれが他者のために存在する時だ』[10]。主よ、あなたが私たちのために来られたように、私たちもあなたのため、他者のために存在する者です。あなたの恵みは、人の心には思い浮かばないほど大きく、深く力強いのです。どうぞあなたの愛に潤され、幸いを味わい、主の十字架と復活の福音に生かされて、あなたの恵みの器としてお用いください。」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[2] 「地の塩」塩はマタイに他の用法なし。新約全体でもコロサイ4:5-6の「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」のみ。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[4] 日本でキリスト者が0.4%というのは少なくてもっと増えてほしいところですが、キリスト者を多くすることが目的ではない。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[6] ローマ書8章11~17節「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。14神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」、ガラテヤ書4章4~7節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[8] また、マタイ6:19~24「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。22からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、23目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」地上に宝を蓄えない生き方、富より神に仕える生き方。そうでなければ、光はない、と言われている。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[10]  Wikipediaでも紹介されている、ディートリヒ・ボンヘファーの代表的な言葉です。


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ニュー・シティ・カテキズム6 2019/11/17 申命記10章12節~11章1節「神が備えてくださる人生」

2019-11-17 16:43:17 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/17 申命記10章12節~11章1節「神が備えてくださる人生」
ニュー・シティ・カテキズム6

 夕拝は、ニュー・シティ・カテキズムに沿ってお話しをしています。問4で私たちは、
神は私たちを、なぜ、どのように創造されましたか? 神は私たちを神ご自身のかたちとして男性と女性とに造られ、神を知り、愛し、共に生き、栄光を表す為に造られました。神に造られた私たちが神の栄光を表わす為に生きる事は正しい事です。
と学びました。私たちは、神の栄光を現すために造られたのです。神の栄光を現すこと。それが人間の目的であり、私たち全員の人生の目的なのです。しかし、神の栄光を現すなんて、どうすれば出来るのでしょうか? そこで今日の問6を見ていきましょう。
第六問 私たちはどのようにして神の栄光を表すことが出来ますか?
答 私たちは神を喜び、愛し、信じ、神の御心と命令と律法に従うことによって神の栄光を表わします。
 これが神の栄光を現す生き方です。よく、この前半を飛ばしていることがあります。神の御心と命令と律法に従う。聖書の言葉をきっちり行う。それが神の求める要求だ。そう思い込んで、真面目に厳しく生きている人がいます。でも、そういう規則を守ることを神が求めている、という以前に、ここが大事なのです。神を喜び、神を愛し、神を信じる。それが、神の栄光を現すことに欠かせないのです。なぜなら、神は私たちを喜んで創造し、私たちを愛し、私たちが信頼するに足るお方だからです。申命記でも、
10:12イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、13あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。
 ここにも、神が求めておられる事が、主を心から恐れ、主を愛し、心を尽くして、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕えることだ、と言われています。心はどこかに置いたまま、蓋をしたまま、神の命令の字面だけを行う。そんな服従は神が願っていることではないのです。強制的に服従を要求する神では決してない。それを聴いて、ホッとします。でも、神を喜び、神を愛し、神を信じる方が実はもっと難しいのだとも思います。神を愛し、神を喜べ、と言われても出来ることではありません。神を愛したいと思ってもどうすればいいのでしょうか。実は、その事も聖書には丁寧に書かれています。
14見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。15主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。…
 神が天と地を造られた方、すべては神のもの。そして、その中に住む人を愛し、選び、聖書の物語が始まって行きました。今、私たちがここにあるのは、神が私たちを造られたからです。神の言葉は、細い橋のように思えるかもしれません。しかし実は、この細い橋だけでなく、こういう世界全体を造り、治め、この先にある世界も用意されているのが神なのです。私たちは、神がどれほど偉大で、私たちのすべてと関わっているかをまず知らなければなりません。神を知れば知るほど、私たちは神を喜び、愛し、信じずにはおれません。まず神が私たちを喜び、私を愛しておられると知るからです。
 また、聖書を通して更に気づかされるのは、神の私たちに対する恵みです。神の主権性と、神の善さ。その間に私たちはいます。神が宇宙よりも偉大な、大いなるお方であり、私たち一人一人に最も近く、どんな時も愛し、支えてくださる。それを知ることが、私たちの生き方になるのです。神のために何かしなくちゃ、ではなく、主を心から信頼して、喜びに溢れて、神を賛美し、神様の言葉に従っていこう、と思うようになります。その心から信頼があって、初めて私たちが本当の意味で神の戒めを行う事も出来るのです。神が求めているのも、私たちがますます神を知って、主に心を向けることです。
16あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。…
 心を包む皮を取り除きなさい。私たちは心を隠します。心を人に開くことは、恐る恐るします。心を守り、見せないでいたいです。でも、神は私たちに、心を開きなさい、心を隠している覆いを取りなさい、と求めます。それは、私たちが主を知る時に、伴って始まる在り方の一つです。神を怖がったり、嫌々従ったり、うわべだけで賛美したりするのではない、深い深い安心した関係なのです。そういう神の偉大さと善さを知る時に、私たちは、心から神の栄光を現す生き方が出来る。何かをすることで神の栄光を現す、というのではありません。私たちが神を知り、神を喜び、神を愛し、信頼するようになり、神の律法に従って生きる。そして、それが他の人をも愛し、ともに生きていく生き方になる。そのこと自体が、神の栄光を現す、という意味なのです。

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるように命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ

 大きなことが神の栄光を現すのではありません。小さなことを大事にし、弱さや命を喜ぶことが神の栄光なのです。何より、私が神の栄光を現すために造られたなんて、素晴らしいことです。神は私たちを通して、必ず栄光を現されます。だから私たちは、喜んで、御名を崇め、心を開いて正直に、ともに仕え合い、ともに歩んで行くのです。



「恵み深い主よ。私たちはあなたを完全に知り、喜ぶようになりたいのです。私たちの目を開いてあなたがどんなお方であるか、そのままに、よく知ることが出来るようにしてください。それによって、私たちがますますあなたに信頼し、私たちのすべてをもってあなたの戒めを守ることが出来ますように。小さな親切であれ、大きな勇敢さであれ、どんな従順のわざを通しても、あなたの栄光を現させてください」
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2019/11/10 マタイ伝5章1~12節「意外な幸いに踊る」

2019-11-17 16:38:31 | マタイの福音書講解
2019/11/10 マタイ伝5章1~12節「意外な幸いに踊る」

 マタイはイエスの説教をいくつも載せていますが、その最初が5~7章の「山上の説教」で、最も長い説教です。そして、イエスが語った「御国の福音」がどんなものか、が十分に現されています。その導入は今読んだように「幸い」のオンパレードです。「幸い」が9回も繰り返されます。以前の文語訳聖書では
「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」
でした。元々がそういう言い方です。イエスの説教第一声は「幸いなるかな」。イエスの告げる「御国の福音」は幸いを告げる。そう思うだけでも、心が躍るような思いになります。
 しかしその「幸い」が何を指すかというと、意外極まりないのです。
「心の貧しい者」「悲しむ者」「義に飢え渇く者」「義のために迫害されている者…わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口(あっこう)を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」。
 全く非常識な言葉です。心が豊かな方が幸せ、悲しみがない方が幸せ、迫害や罵り、悪口など欲しくありません。そんなものを喜ぶのは歪んだ考えです。しかしこの言葉をイエスの道徳、「山上の垂訓」と呼んで高潔に生きようとする人もいます。文豪トルストイがその1人です。彼は文字通りイエスの言葉を実践しようとして行き詰まり、家族にも別れを告げ、旅先で惨めな死を遂げます[1]。しかし、イエスは「幸い」を告げたのです。人から見れば不幸と思って当然の状況に「幸い」を告げました。それはイエスの権威による「幸い」の宣言です[2]。イエスしか語れない幸いです。2節に
「口を開き」
とわざわざあります。まるで天地創造の初めに神が口を開いて、世界を造られたように、イエスが天の御国をこの群衆の中に造り出すかのようだ、と読まれるのです。この言葉は道徳でも命令でもありません。イエスがどんな幸いを見つめて、そこに群衆や私たちを連れて行こうとしているか、イエスの見つめる旅路を示しています。幸いを犠牲にせよとか、一般的な道徳や、高潔な倫理とかではありません[3]。悲しみや迫害、そのままでは死で終わる不幸な状況を、イエスは幸いの道とすると言います。今の悲しみや飢え渇きも将来、確かに慰められ満ち足らされる。そんな確約ができる権威がイエスにはあるのです[4]。人は為す術のない不幸も、イエスは幸いへの道とするのです。
 しかし3節と10節の
「天の御国はその人たちのものだから」
は未来の事ではありません。今の現実です。「天の御国」とは死んだら行く天国という意味ではなく、神が王として治めている国・支配のことです。神の支配だからこそ当然、死後や将来も心配は要りません。しかし、何よりも「天の御国」とは今ここで神が私の王であり、私は神の国の民として生かされ、歩み始めている、ということです[5]。その神の国は、どうしたら私たちのものになるのでしょうか。
「幸いなるかな、心の貧しい者。天の御国はその人たちのものだから」
と言われるのです。欄外に「霊において貧しい者」とあります。霊とは、霊である神と繋がる私たちの属性です。霊において貧しい、とは神と繋がることにおける貧しさです。信仰の貧しさと言い換えてもよいでしょうが、それは努力してどうなるものではない、私たちの存在の深い深い欠乏です。それもここではちょっと貧しいとか清貧というようなものではなく、極貧、物乞いをしなければ生きていけない瀕死の貧しさです。自分の信仰など誇れない、神の前に何も差し出せるものがなく、ただ神の憐れみを乞い求めるしかない。そういう者に、イエスは
「幸いなるかな。天の御国はその人たちのものだから」
と仰るのです。この反対は、ちょうどこの「山上の説教」最後、7章21節以下に天の御国に入れない人の姿として出て来ます。
「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」[6]
 「俺は貧しくない」と言い張っている。「自分にはこれもある、神に誇れるものがある、貧しくはない」。それは天の御国、神の憐れみによって治められる御国とは真逆の思いです。以前「心が貧しい者とは、ひと言で言えば、「天の御国はあなたのもの」と言われて、「え、天の御国が私のもの? 嬉しい!」と思える人だ」と聞き、成(な)る程(ほど)と唸(うな)らされました。そんな嬉しさとは対照的に、「私には天国に入って当然」と文句を言うのは、神の国の土台である憐れみを否定しているのです。でも、私たちは憐れみよりも人間のわざを誇る世界にどっぷり浸っています。心貧しい者の幸いを仰ったイエスの言葉は、常に驚きであり続けます。驚かされ続け、そのイエスの眼差しに触れ、心貧しく生きる人たちに触れることで、私たちは根底から変わります[7]。心貧しい者に一方的に注がれる神の愛を知らされて、私たちは自分の貧しさを知り、その貧しい中にイエスがともにいることを知るのです。そして素直に悲しむ者となります。
 「悲しむ者は幸いです」。
 悲しみが幸いではありませんが避けられません。それを避けて、悲しみから逃げ、喜びだけを装おうとする生き方で行き詰まるのではない。人生の悲しみを十分に悲しみ、神の慰めを子どものように求める生き方になる。悲しみも絶えない私たちのところにイエスが来て下さった。何も差し出せるもののない私たちの所に来て、「天の御国はあなたのものだ」と約束してくださった。その幸いを受け止めつつ、それ以外の悲しみも(平気になれではなく)十分に悲しみながら、慰めの約束を聴きながら生きるようにされていくのです。それが柔和な生き方[8]、義に飢え渇き、憐れみ深くなり、心きよくされ、平和をつくる生き方とも通じてきます。(今回は端折りますが。)人が「イエスに従えば悲しみがなくなり、いつも満ち足りた生活が送れる」と期待して従ったとしても、自分の貧しさを痛感するような出来事、悲しみ、渇きはあります。出来合の平和より、平和が造られなければない状況を通るのです。安定や幸せがない、しかしそこでこそ、イエスがもっと深い幸いを創造される。それは、
「12大いに喜び(喜び踊り)なさい」
と言われるほどの幸いを言われるのです。
 豊臣秀吉がキリシタンを迫害し、伴天連追放令を出したきっかけは、秀吉の寝床に女性を用意しようと臣下の者が少女たちに声を掛けた所、「いやです」と言われた事件だそうです。秀吉の誘いを断るなんてとんでもないことでした。しかし少女は「私はキリシタンですから」と言った。権力者の命令に対して小娘でさえ「ノー」と言わせるキリスト教。その結果が迫害や虐待だとしても、女性が自分の尊厳を主張するようになった。何と力強い幸いでしょうか[9]。

「神よ。あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」
 先日の特別集会で板倉先生が最後に紹介した言葉です。4世紀のアウグスティヌスの言葉です。安らぎ、幸い、喜び、命。どれも私たちの創造主であり、幸いを語る神との関係にこそあります。豊かさや安心、環境にあるのではありませんし、誰とも無関係に自分の内面や気の持ちようで持てるものではありません。私たちは私たちを造られた神との関係抜きにはない。だから、せめて誰かが一緒にいてくれることが嬉しいのです。状況がどうあれ、自分がどんなに貧しく悲しんでいても、ともにいてくれる誰かがいる時、魂が躍り上がって喜ぶのです。その幸いが人に力を与え、小娘も心貧しい者にも「ノー」と言える自由、迫害や悲しみをも恐れない命をくれます[10]。アウグスティヌスの言葉とされる文にこんな言葉もあります。
「神は私たちが唯一の存在であるかのように一人一人を愛してくださる」[11]。
 なんと幸いでしょう。イエスは、その幸いをここから作り始めてくださいました。まだまだ私たちは、このイエスの意外な言葉に驚き、戸惑い続けましょう。戸惑いつつ、既にイエスがここに来て幸いを始めておられることを聞いていきたい。そして、この幸いの約束に力づけられて、堂々と悲しみ、喜び躍りながら、御心がなりますようにと祈っていくのです。

「主よ。心貧しい私たちをあなたが愛し、御国を下さる幸いを感謝します。幸いとは程遠い場所で、その辛さも悲しみも痛みも十分に知りつつ思いも寄らない幸いを語り創造してくださる。私たちとともにいることを幸いと喜んでくださる。そのあなたがおられるから幸いです。この幸いを語り合い、ともに喜び祝い、踊るほどの喜びを戴いて、御国の証し人としてください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[2] そして、この山上の説教の最後に示されるのは「7:28群衆はその教えに驚いた。29イエスが彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」という驚きの反応です。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[4] 口語訳は「慰められるであろう」「受け継ぐであろう」としていました。未来形だからです。しかし「だろう」では不確かになってしまいます。ですから新改訳は「だろう」ではなく「慰められる」としました。確かな将来です。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[6] マタイ7:21~23「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[8] マタイ11:28~30「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[10] そして、イエスご自身がこの通りに生きてくださいました。心の貧しい者たちとともにおりつづけ、悲しみをともにし、柔和で、平和を作ってくださいました。それをイエスは義務感や正義感でなさったのではなく、喜んで、幸いとして生きてくださいました。イエスご自身が、まず幸いを語り、幸いを生き抜いてくださいました。そのイエスに従っていく者にも、その幸いが与えられるとイエスは約束しています。人には全く意外な幸い。しかし、人にとってどんなに心外な状況や自分の貧しさを痛感するような時にも、その時にこそますます幸いが溢れて、喜びになり、大いに喜ぶような歩みを、イエスは口を開いて創造し続けておられるのです。

[11] ただし、この言葉は、アウグスティヌスの言葉ではなく、サンスクリット語の引用だという論文も見つけました。http://lisadeam.com/what-i-wish-st-augustine-had-said/

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ニュー・シティ・カテキズム5 世記1章26節~2章3節「神がすべてを作られたからには」

2019-11-12 09:48:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 創世記1章26節~2章3節「神がすべてを作られたからには」
ニュー・シティ・カテキズム5
 先週は、三位一体の神がご自身のかたちに、人を男と女に造られたとお話ししました。私たち人は、神を映し出す存在として、神の栄光を現すために造られた、限りなく価値ある者なのです。その続きの今日は、神が人間の他に何を作ったか、を見ていきます。
第五問 神は他に何を創造されましたか?
答 神は全てのものを神の力強い御言葉によって創造し、全ての神の創造物は非常に良いものでした。全ては神の愛の統治のもとで栄えました。
 神は、人間だけでなく、この世界のすべての造り主です。勿論、科学の世界では、神が作ったとは言いません。今の科学では、世界がビッグバンから始まって、どのように今の宇宙になり、地球上に生物が誕生して、現在のような世界になったのかを説明しようとしています。化石や望遠鏡で調べて世界を解明しようとしています。その科学者の中には、沢山のキリスト者や、違う信仰を持っている人がいます。神が世界を造ったという信仰と、世界がどのようにして出来たのか、という科学とは決して矛盾しません。

 また、神がこの世界をお造りになったと信じることは、科学で神を証明することとは別です。科学で、神の証拠を発見できるとは言いません。小説を読んでも、作者の名前は載っていないでしょう。しかしそこに小説があること自体が、作者がいる証拠です。写真に色々なものが写っていても、カメラは写っていないことがほとんどでしょう。でも写真そのものが、カメラがあった証拠です。この世界も、科学で神を抜きにした説明は出来るとしても、この世界があること自体が、創造主がいることを証ししています。そして、こんな途方もなく大きく不思議で良く出来た世界を造られた神が、この私を作られて、今も支えておられることを思うと、私たちは驚き、神を賛美せずにおれません。
 またここにあるように、神の言葉の力強さ、神の創造力の偉大さに私たちは驚きます。この世界は偶然に出来たのではなく、神が創造されて、すべてが存在したのです。意味のないものや、神の計画外で出来ちゃった物は、何一つありません。私たちもそうです。私たちも誰でも、人間は、神が一人一人をお造りになったのです。実際には、お母さんのお腹の中で育ち、十ヶ月かけて生まれてくる準備をしたのだとしても、それも含めて、神が一人一人を作ってくださったのです。同じように、世界は科学的には、これからも研究されて、どんなプロセスを通って、今のようになったのか、学説が出て来るでしょう。それも含めて、神がこの世界を、神の力で、神の目的をもって、お造りになったのです。この世界は、神の芸術作品なのです。この事が聖書の最初の一頁、創世記1章に書かれています。とても美しく、豊かな表現で、世界の創造を歌い上げます。そこから、聖書の記述は始まるのです。その創世記一章の締めくくりが、31節です。
1:31神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。2:1こうして天と地とその万象が完成した。…
 神はこの世界を見て、「非常に良かった」と見られたのです。神にとって出来ないことは一つも無いし、ご計画通り完成したのだから、良かったのも当然だろうと思いますが、わざわざ神は世界を振り返って、「非常に良い」と喜んでおられるのです。
 他の国の神話は大抵、そうはなりません。神が世界を創造している間に、ハプニングが起きたり、予想外のことが起きて、世界は今問題だらけになっている、そういうお話しが多いのだそうです。この世界は、苦しみや戦いが起きる、壊れた世界。価値のない世界。神が作られたのだとしたら、失敗作だ。そのように捕らえるような神話です。
 それを考えると、聖書が世界の創造を、神の主権だと考えていることは特殊です。
「全ての神の創造物は非常に良いものでした。全ては神の愛の統治のもとで栄えました」
と言い切っていることも、とても驚きです。この世界は、非常に良い世界。私たちの生きている宇宙は、失敗作ではなく、美しい世界。この後、3章でアダムとエバが神から離れたために、醜い罪が入ってきます。裏切り、嘘、隠蔽工作、責任の擦り合い、主導権争い、沢山の苦しみ、悲しみが入りました。病気や死や、自然災害も起きます。世界が美しいとは到底思えない現実があります。だからこそ、聖書が私たちに、神がこの世界を「非常に良い」世界として見ていると語ることを覚えましょう。神はこの世界の中に、神の力や知恵、栄光を豊かに現しています。そして、今も、人の弱さや愚かさでも台無しになったような世界ではなく、この世界を回復してくださるのです。

 私たちは今、世界の壊れた部分が目について、人間の醜い部分、自分の足りないところに目が行ってしまうものです。しかし、だからといって、この世界や人間、自分が、虚しい、無価値だと思う事はありません。この世界を創造された神、三位一体の愛の神が、この世界を通して、栄光を現して、それを必ず完成なさるのです。そこに立ち返るのです。
Ⅱコリント4:18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。…
ローマ1:20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる…
 聖書にはこの両方があります。ともすると「見えるものではなく見えないもの」とか「見えるものに目を留めないのが信仰だ」が強調されます。それは極端です。この世界に神の永遠の力と神性は、ハッキリ現されています。空の鳥、野の花、夜の星空や自然の美しさ、皆さんの体、世界を支えている秩序や法則や不思議。見える物をシッカリ見て、神の栄光を知れると、聖書は招きます。問題や災害は一部で、普通や幸せや、命や美しさ、必要も楽しみも何一つ当たり前ではなく、奇跡です。神が作られた以上、世界はなお美しく、やがて神はこの世界を必ず回復なさるのです。ですから、頭で信仰を考えず、今ここで、全身で、神の作られた世界を感じましょう。目を開けて、世界に現された神の栄光を、臨在を十分に味わいましょう。
 イエス・キリストは、その神との関係を修復してくれました。私たちは世界を見る目も、驚きと賛美に変わったのです。

「その言葉によって世界を造られた主よ。私たちはあなたのなさった創造に驚嘆します。たとえ、世界が破綻しているとしてもです。あなたの美しさは、星々の輝きに現されています。あなたの力は大風の威力に示されています。あなたの秩序は、数学の法則に分かります。息のあるものはすべて、御手の業のゆえに、御名を賛美しますように」
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