聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記17章1~14節「アブラハム契約のしるし 聖書の全体像14」

2019-04-28 17:39:54 | 聖書の物語の全体像

2019/4/28 創世記17章1~14節「アブラハム契約のしるし 聖書の全体像14」

 聖書は、神が世界を創造したことから始めて、人間が神に背を向け愛の御心を誤解しても、神は人間に働き続けて、最後にはこの世界を新しい世界として必ず完成する。そういう大きな物語を語っています。しかし、それは華やかなというよりもむしろ地味で、上から力強くというよりも低い所から、弱さから、痛みや慰めを通して進む計画です。その事が豊かに現されているのが、神が最初に「神の民」の父として選んだのが、アブラハムという、子どものいない老人だった事実です。そして、そのアブラハムに神が与えた契約のしるしが「割礼」でした。割礼というのは男性の性器の皮を一部切り取る儀式です[1]。私たちにはそういう習慣に馴染みがありませんし、新約聖書を読むと

「割礼を受けなくても、イエス・キリストの恵みによって、信仰だけで救われる」

という教えが目につきます[2]。ですから、あまり割礼に関心もないのではないか、と思うのですが、あえて今日の箇所から「割礼」のしるしを考えたいのです。

 まず、今日の箇所は、アブラハムが九九歳の時のことと始まりますが、その前の16章16節では八六歳だったとありますから、13年の歳月が経っています。13年前、アブラハムと妻サラは神の言葉を信じ切れませんでした。自分たちの拙速な判断で女奴隷を代理母にして子を儲け、神との関係も閉じ、自分たちの関係も大きくこじれさせたのです。夫婦の間の不満とか醜い責任逃れとか、女奴隷を虐めて追い出す程の残酷な思いも暴露したのでした。それから13年、黙っておられた神が、この17章で現れて、アブラハムにこう語りかけるのです。

17:1…「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

 「全能の神」元の言葉でエル・シャダイという名前を、ここで初めて名乗られます。100歳を前にしたアブラハムに「全能の神」として現れて、

「わたしはわたしの契約を立て、あなたを大いに増やす」

と仰るのです。そして4節以下、アブラハムを大いに増やして多くの国民の父とし、王たちが出て、今いる一帯の地を与える。わたしは彼らの神となる、という、将来の壮大な構想を語るのです。それが、神が「全能の神」として名乗られた時、その具体的な御業として語られた壮大なご計画でした。それは人間の常識や経験では考えられないことです。老人アブラハムに、全能の神は、新しい将来像、永遠に続くご計画を始めるのです。神はアブラハムに、ご自分の前に歩み、全き者であれと言われて、手始めに三つのことを与えられます。

 一つ目は改名、名前の変更です。今まではアブラム、ここからアブラハムに変わります。15節では妻もサライから「サラ」となります。これは色々な説明がありますが定説はないようです[3]。意味はともかく、神が名前を変える、それもハという息を吹き込むような一字を入れた事自体、神が人に新しい命を吹き込んで、人を新しく造り変える御業でしょう[4]。神はサラにもアブラハムにも、ご自分の命を吹き込んで、人には想像のつかない大きな何かをなさいます。なぜなら、神は「全能の神」だからです。それが、名前を変えたことに表されています。

 全能の神の前に「全き者であれ」と言われることの、第二は割礼です。この儀式は、

13…わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

とある通り、男子の体に刻まれる神との関係の印です。確かにその儀式そのものは猛烈な痛みや血を流す行為ですが、痛みとか犠牲という以上に、全能の神との関係を表す、体に刻まれた印でした。それも、場所が場所だけに、人からは見えない所での神との関係です。それは、

11あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。

とある通り、隠れた所の覆いの皮を切り取る所に意味があります。神との、包み隠すことのない関係。「全き者」とは、間違いをしないとか、神に対する立派な信仰を持つ、ということではありません。全能者なのは神で人は違います。限界があり、神をも疑い小さく考える者です。そのくせ「何をした」とか表面的な装いで自分を守り、本心の醜さ、恐れ、素を隠したがる。アブラハムもサラも主を信じず、互いに責任を擦り合い、弱い者虐めをした普通の人間でした。しかし主はそんなぶっちゃけた裸の私たちをご存じです。ある意味で失敗を通して、心が割礼を受けるのです。私たちの隠れた心、弱さ、疑い、罪、過ちをすべてご存じである神の前に立ちます。そして全能の神は、この私たちにも新しい働きをなさる、小さな私たちを通して尊い神のご計画をなさる。到底信じられなくても、全能の神は御心をなさる。そういう、何の隠し立てもない神との関係に入れられている。割礼はそういう契約に立ち戻らせてくれるのです。

レビ記26:41彼らの無割礼の心… 

エレミヤ4:4主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。[5]

といった表現が旧約聖書の中にも散見されます。割礼は神との人格的な関係を表すために体に刻みつけられたしるしです。割礼そのものを誇ったり、絶対視したり、そこに安住したりするものではないのです。だからこそ、新約の時代、イエス・キリストが来られて、救いの契約を完成して下さった時、割礼の儀式を強制してハードルを高くする事は止めました[6]。しかし割礼を受けなくて良くなった、のとは反対に、割礼よりも深く、強烈な恵みが私たちの心に刻み込まれたのです。私たちが血を流す代わりに、イエスが血を流して、神と私たちとの隠し立てのない関係を下さいました。私たちの誇りや自慢や美化をすべて手放して、素の自分、隠したままにしたい自分の本心をご存じの神の前に立たせてくださいました。痛みや罪や弱さを通して覆いを取り除けられ、心から謙って神の前に立つのです。そういう関係が始まったことを現す最初の儀式が洗礼ですが、洗礼は

「キリストの割礼」

とも言われるのです[7]

 洗礼は割礼の代わりではありません。割礼が示していた、神との深く、隠し立てのない関係、体に刻みつけられた関係、それでも形ばかりになりうる関係を、イエス・キリストが完全な形で成し遂げてくださいました。キリストが肉を裂かれ血を流した御業によって、私たちの心が深く照らされました。迷いや弱さや罪のあるまま、主に立ち帰って、全能の神がこの私たちのうちにも働いて新しい業をなさる。私たちを新しくしてくださる、と信じるのです。

 この言葉を聞いても

17アブラハムはひれ伏して、笑った」。

 サラも次の18章で

12心の中で笑い」

ます。神が全能だからといって、こんな老人に子どもが産めるはずがない、とせせら笑うのです。それは微笑みや幸せの笑いというより、小馬鹿にした笑い、戯れる、笑い物にする笑いです[8]。しかし、神はそれを「不謹慎だ、不信仰だ」と怒るどころか、笑いを逆手に取って

「サラが産む子どもをイサク(笑い)と名づけよ」

と言うのです。「イサク」は全能の神が与えた第三の贈り物です。21章でサラは生まれて割礼を施したイサクを抱いて言います。

…「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう」。

 全能の神の約束はアブラハムもサラも吹き出した笑い話でした。神は人に、馬鹿馬鹿しい約束を語って笑われて下さり、でもそれを成就なさる。老人が子どもを抱き、神を裏切った人が何年も経って神から語りかけられる。人の失敗を通してもっと深い繋がりを与え、心の深い思いも隠している恥もさらすような出来事を通して、それでも神が愛していることに気づかせて、本当に隠し立てのない関係を結ばれる。

 神は私たちとの契約を、ひとり子イエスの御業によって完成しました。神の子が田舎娘から産まれ、十字架に殺された人が救い主として復活し、裏切った弟子が砕かれたリーダーになり、迫害者が伝道者になる不思議でした。その準備になされたアブラハムの選びは、神が全能の神であることを、笑わせて教えてくれます。回りくどい、笑っちゃうような不思議を私たちになさいます。そして最後には私が、みんなと一緒になって、信じずに笑った自分を笑う。全能の神は、笑いを下さるお方。そんな告白が、イサクという名に込められています。この主が今も私たちと包み隠すことのない関係を求めているのです。

「主よ、あなたから離れた世界の中に、いいえ、この私たちの心の奥の封じ込めたい自分にも、あなたが深い憐れみをもって近づかれることを感謝します。どうぞ、私たちが笑い出す程の尊い事をなしてください。ここにどうぞ、あなたの不思議な恵みを、思いを超えた慰めを始め、今の恐れや諦めを、いつか笑う日を迎えるとの約束を果たして、私たちを新しくしてください」



[1] 今日の週報のコラムを参照。エジプトの壁画も載せました。この時代のメソポタミアではごく一般的になされていた儀式のようで、衛生的な意味や宗教的な意味合いがあったのだろうと考えられています。ただし、聖書に書かれているように、ペリシテ人はしていませんでした。また、現代でも、フィリピンでは男性になる通過儀礼として10代でなされているようです。ちなみに「女性の割礼」という儀式がアフリカなどで習慣としてあることが近年も報道されて問題視されていますが、女性に一生の痛みを強いる女性器切除と、男性性器の皮の一部を傷つける割礼とは全く違うものです。

[2] ユダヤ人はアブラハム以降、割礼を「神の民のしるし」として大事にしてきました。生まれて八日目に割礼を施すという儀式がとても大事な民族のアイデンティティともなったのです。それだけに、特に新約の時代、ローマ社会との出会いで、割礼という習慣がない人々との交流では、大きな壁になってしまいます。キリスト教会は、外国人に対して、割礼を強いることはせず、割礼がなくてもイエス・キリストを信じるだけで神の民となる、という信仰に立ちました。割礼がなければダメだと考えたキリスト者と、割礼を受けなくても信仰だけで救われるとした使徒たちとの議論が新約で目立ちます。

[3] 良く言われるのは「アブラム」は「高められた父」という意味で、「アブラハム」は「多くの国民の父」だ、という説明です。しかし、「アブラハム」に「多くの国民の父」という意味が直接あるわけではありません。

[4] サライがサラになったのは、「イ」を取ったように見えますが、原文では、SaraiをSarahに、つまり最後の一字をiからhに変えた変更になっています。

[5] エレミヤ書4:4「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」、また9:25-26「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」、レビ記26:41「このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。」、エゼキエル44:7「あなたがたは、心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血を献げたが、あなたがたの行った忌み嫌うべきあらゆるわざによって、わたしとの契約を破った。」

[6] 割礼を巡る議論は、使徒の働き10章、11章、15章などを参照。また、パウロの書簡での直接の言及としては、ローマ2:25~29など。「もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」

[7] コロサイ2:11、12「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。12バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」

[8] この言葉ツァーハクが出て来る他の節としては、以下が挙げられます。創世記21:9「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。」、26:8「イサクは長くそこに滞在していた。ある日のこと、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見下ろしていると、なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた。」、39:14「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」(同39:17)、出エジプト記三二6「彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」、士師記一六25「彼らは上機嫌になったとき、「サムソンを呼んで来い。見せ物にしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で笑いものになった。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、」などがあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答99~100 ヘブル13章4~6節「妥協なき婚活」

2019-04-28 17:32:29 | はじめての教理問答

2019/4/28 ヘブル13章4~6節「妥協なき婚活」はじめての教理問答99~100

 「終活」「婚活」「妊活」。どれも20年前にはなかった「活」のつく言葉です。「就職活動」を「就活」と略したぐらいはしましたが、今では同じように「活」を付けて、朝早起きして活動するのを「朝活」、Facebookやツイッターなどソーシャルネットワークを有効活用するのを「ソー活」、高齢者の生き生きした生き方を「労活」、死や葬式を意識した準備を「終活」と、何でもありのようです。そして、結婚していない人たちが結婚したくて、結婚できるよう出会いを探したり、結婚相手に選んでもらえるように準備することを「婚活」というようです。今日は聖書の十戒の第七戒です。

問99 第七の戒めはどういうものですか?

答 第七の戒めは、「姦淫してはならない」です(出エジプト20:14)。

問100 第七の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 思いや言葉、そしておこないにおいて純潔であること、そして結婚において貞節であることを教えています。

 「姦淫」「純潔」「貞潔」という言葉が出て来ますが、その中心にあるのは、私たちの結婚と自分の性の取り扱いのことです。私たちが男性や女性に作られたのは、神の恵みを現す素晴らしい贈り物です。それはやがて一人の異性と結婚する準備でしょうし、そうでなく、独身で生きる上でも何か意味はあるでしょう。なのに、結婚した相手以外の人とセックスをすることは「姦淫」と呼ばれます。神様は聖書で、姦淫を禁じます。

ヘブル書十三4結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。

と言っています。結婚の大事さがすべての人に分かるように教えなさい、寝床を汚す(夫婦以外の人とセックスをする)ような事は、神が裁かれることを教えなさい、と言っています。だから、今日ここにいる私たちも、結婚の尊さ、大事さを覚えたいのです。

 「婚活」という言葉が作られて、盛んに婚活がされているように、人にとって「結婚したい」という気持ちはとても強いのです。男の人が女の人に惹かれ、女の人が男の人を好きになる気持ちは、とても自然なことです。ドラマや歌、お話しの多くは、男女の出会いや恋がテーマです。先日の高校生のキャンプでも、「古川先生の恋愛講座」という分科会に10人の人が来てくれて、熱心に話しを聞いてくれて、後からまた質問やお礼がありました。私自身も、幼稚園の頃から、素敵な恋に憧れたり、中学生で失恋を経験したり、今でもドラマでハッピーな恋愛の話しにはドキドキします。

 「姦淫してはならない」

を誤解して、「恋愛やセックスや性欲自体が汚れている」と考える人がいます。結婚しても「裸を見るなんて罪だ」と考えてしまう人もいるのだそうです。それは、聖書の教えのようで、正反対ですね。聖書は私たちが男性や女性である事を、神様からの贈り物だと言っています。一人一人が男性や女性としての欲求を持ち、魅力を持ち、異性に興味を持つのは自然なことです。素晴らしいことです。もしも、自分の性について悩んだり、分からないことがあったりしたら、神様に堂々とお祈りして聞いたり、牧師や教会の誰かに恥ずかしがらずに相談してください。性というのは、神様が私たちに下さった、不思議な、素晴らしい贈り物です。

 しかし、その不思議な贈り物を扱い兼ねて、大事な結婚を壊すような使い方をするようになっていることも聖書には沢山出て来ます。

  • ヨセフは、働いていた家の主人の奥さんから言い寄られて、一緒に寝るように誘われました。それを断ったら、逆上されて、牢屋に入れられてしまいました。
  • ダビデ王は、もう結婚していたのに、よその家で水浴びをしている女性を見て、王宮に呼び出してベッドに誘います。子どもが出来たと知らされると、そのご主人を別の人も巻き添えにして殺してしまいます。
  • そして、イエス様の元には、姦淫の現場で捉えられた女性が連れてこられます。この人は、とても後悔したでしょうが、そんな間違いをしてしまったのです。
  • また、別の女性も、姦淫をしたことで街中に知られていた人が、イエス様に優しくされて、嬉しくて嬉しくて、その足に高価な香油を注ぎ、涙でイエス様の足を拭った出来事が伝えられています。それほど、この人は自分の姦淫のために、淋しく、辛い思いをしていたのだと思います。

 イエス様はその人たちをも本当に深く愛されました。姦淫した女性だろうと、結婚を尊ばなかった人だろうと、イエス様は変わらず愛され、受け入れて下さいます。だからこそ、自分の人生を台無しにしてしまうような、姦淫をしてしまうことを禁じられます。折角の体、折角の将来の結婚に、姦淫はとても深い傷を残してしまいます。だから、神様は十戒の中で、「姦淫してはならない」と強く仰います。私たちを守るために、私たちが幸せになるために、傷つかないために、姦淫してはならないと強く言ってくださいます。

 聖書には、結婚の尊さが忘れられて、姦淫をしたり、不品行をしたり、夫婦がぶつかったりする出来事がたくさん出て来ます。結婚は簡単なことばかりではありません。だから「婚活」という言葉が生まれて、どうしたら結婚できるか、あれこれ言われています。そして、結婚したらしたで大変だったら、どうしたら離婚できるか、有利に別れられるかを教える「離活」という言葉まであるそうです。そんな事情や現実を、神様は十分踏まえた上で

「結婚がすべての人の間で尊ばれるようにしなさい」

と仰っています。なんと素晴らしい事でしょうね。神様は、決して結婚を低く、汚れているとは考えません。どんな結婚も、尊ばれるだけの価値がある、大切なものだと見ています。その尊さを人間が踏みにじって、裏切って姦淫をしたり、暴力をしたりしたら、神はその関係を終わらせます。それぐらい、神は私たちを愛されています。姦淫するな、と命じるのではなく、私たちを幸せにしたいと願って止まない神でいてくださるのです。

 ですから、もし教会の人や周りの人が、姦淫をしたり、結婚相手でない人の子どもを妊娠したりしても、皆さんは決してその人を裁かないでください。教会に来る人の中に、不倫や水商売をしてきた人がいても、神は姦淫を憎まれると言う以上に、神はあなたを愛されていると伝えてください。そして、その人たちにも自分にも、最善の結婚を神様が与えてくださるよう期待しましょう。結婚を引き下げず、尊ばれるようにと言ってくださる神が、私たち一人一人を男や女に作ってくださったことを、最後には本当に感謝できるように、期待しましょう。そして、その時まで、自分の身体を清く守っていきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨハネ伝20章19~29節「傷のある復活」イースター夕拝 2019

2019-04-21 14:33:47 | 聖書の物語の全体像

2019/4/21 ヨハネ伝20章19~29節「傷のある復活」イースター夕拝 

 今日は世界のキリスト者が、イエスがよみがえらされたことをお祝いする「復活日」、イースターです。イエス・キリストが十字架に殺された三日目、日曜日の朝に、天の父なる神は、イエスを墓の中からよみがえらせました。本当にイエスは、死者の中からよみがえらされて、弟子たちの前に現れました。イエスは十字架に殺されましたが、神はそのイエスを復活させて、イエスが本当に神の子であり、私たちの救い主、主であり王であることを証ししてくださいました。死は終わりではなく、やがて私たちは皆よみがえって、新しい体をいただき、この世界も新しくされて、栄光の御国で永遠を迎える日が来る。その最初として、イエスは復活なさったのです。神がひとり子イエスを、私たちのためにこの世界に人として遣わしてくださった。十字架の死に至る最も低い人生を歩ませて、その死の三日目に復活させられた。イエスの十字架と復活は、神が世界と私たちを、神のものとして回復される証拠ですあり、キリスト教のエッセンスです。

 今日のヨハネ20章が伝える通り、弟子たちはイエスの復活を信じておらず、墓が空だと知らされても「復活だ、早く主に会いたい」とは考えもしなかった。むしろ、イエスを殺したユダヤ人がここにも来ないかと恐れて閉じ籠もっていた。そこに

19イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 イエスの復活とは、イエスの死後も弟子たちが自分たちの心にイエスが生きていると信じたことだと言う人や、弟子たちがでっち上げたと考える人もいますが、そんな勇気や希望は弟子たちにありませんでした。弟子たちが復活という教理を生み出したのではありません。弟子たちは臆病だったのに、イエスは事実、墓からよみがえり、弟子たちに現れて、語りかけたのです。私たちがイエスの復活を信じようと信じまいと、神はイエスを復活させました。信仰深い弟子たちの所にイエスが来て下さったのではありません。私たちが愛するから、信じるから、神を喜ばせる信仰者だから、キリストが祝福してくださる、のではありません。恐れて、信仰を失っている弟子たちの真ん中に、復活のイエスが立ってくださった。これこそが、キリスト者の原点です。

20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 イエスが見せた「手と脇腹」は、十字架で太い釘を打たれた手と、兵士が本当に死んだ事を確認するために槍で刺した脇腹でした。ですから、25節でもトマスが「私は、その手に釘の痕を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った通りです。手には指が入る程の釘の跡が、脇腹には手が入る程の槍の刺された傷跡があったのです。イエスご自身、その手と脇腹を彼らに示すことによって、ご自分である事を弟子たちにハッキリと示しました。それがなければ、他人の空似かと思ったかも知れませんが、確かに見間違いようのない大きな傷があったのです。勿論、血は止まっていたのでしょうが、傷跡はあったのです。

 ただ、イエスが十字架につけられた時、鞭を打たれ、何時間も磔にされていました。十字架に架けられた人は、たとえ息絶える前に磔から降ろされたとしても、その体はひどく曲がって、一生真っ直ぐ歩くことも立つことも出来なくなったのだそうです。イエスがもしも本当に死んだのではなく、仮死状態で息を吹き返したのだ、としたら、起き上がることもままならない、痛々しい体であったことでしょう。ただの蘇生だったという説明は、これを考えてもナンセンスです。イエスは本当に死んで、そして、本当に神はイエスをよみがえらせたのです。だから、真っ直ぐに立ち、弟子たちと歩いたのです。

 しかし、それならば、手と脇腹の傷もすっかり癒やして、跡形もなくして弟子たちに現れることも出来たでしょう。傷のない、キレイな体のほうがいい気がします。それなのにイエスの手と脇腹には、傷跡がありました。それも大きな傷が。イエスもトマスに、

27…「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

と言われました。しかしトマスに信じさせるためではなく、最初に弟子たちに現れた時、イエスの方から手と脇腹を示されたのです。その傷はイエスである印でした。その傷は醜く見えても、今や弟子たちに喜びをもたらし、トマスに

「私の主、私の神」

という告白を言わしめる傷となりました。イエスの傷こそ、イエスが本当に十字架に死んだ事、何をなさった方かの徴でした。あれが幻や夢ではないし、忘れてしまった方がいい悪夢でもなく、イエスが何をなさったかを示す、かけがえのない生涯の証しだったのです。

 ある方は「復活によっても癒やされない傷がある」と言いました。どこかで私たちは、神様の元では傷や痛みがすべて忘れられて、跡形もなくなることを期待しているかもしれません。天国では、すべての傷がすっかり治り、障害もなく、皆美人で、若々しく、劣等感を持たなくてよい体になっている、というイメージがないでしょうか。そしてそれはそのまま、今でも神様が、私を傷つかないよう、失敗や問題や痛みがないよう守って下さればいいのに、という期待と失望と繋がっているのでしょう。復活のイエスの体には大きな傷がありました。ツルツルピカピカの栄光の体ではなく、生涯の傷が残っていました。それこそは、イエスの生涯の証しでした。もう血は流れておらず、痛々しく醜い傷ではなく、癒やされた傷跡でした。でも、その癒やされた傷痕は、消す必要がなかったのです。イエスが私たちを愛し、罪を負って傷を受けられました。それは愛の傷、イエスの生涯の証しです。人の罪を裁くより、罪ある人に赦しを与え、大きな平安を与えたいと願って、十字架にかかることも厭わなかった証し、尊い傷なのです。

 「祈りの手」という絵があります。絵描きになりたい二人が、まずは一人が働いてもう一人を絵の勉強に専念させようとした。でも長年、肉体労働をするうちに、もうすっかり絵が描けない節くれだらけの手になっていた。その手を描いた絵です。

 なんと美しい物語がここにあるでしょう。この生涯で体に刻みついた傷や皺、頑張りや愛の跡が、やがてどう残り、どう癒やされるのかは分かりません。でも全部が治ってしまったら、お互いどうやって見分けがつくのかも、同じぐらい分かりません。復活は生涯の傷を綺麗さっぱり無くすのではないのでしょう。イエスの復活が傷を残していたことは、今の私たちの痛みも、恥や呪いではなく、大事な人生の刻印だからです。イエスは人としての痛みを誰よりも味わわれました。その復活の体には、癒やされた傷がありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マタイ28章「主はよみがえられた」 イースター説教

2019-04-21 14:28:12 | 聖書の物語の全体像

2019/4/21 マタイ28章「主はよみがえられた」

 主イエスが、十字架の死から三日目に、墓からよみがえられた。本当に神は、イエスを復活させてくださった。今日のマタイの福音書も、イエスの生涯を辿り、イエスの教えや奇跡を辿りつつ、その結びに十字架の死からよみがえらされたという驚きの事実を伝えています。イエスは本当によみがえった。キリスト教会は、この信じがたい出来事を信じてきました。特に今日の箇所、大きな地震や主の使いの描写などを読むと、ますます信じにくいかもしれません。

 確かにここには、復活が奇跡や非日常的な出来事を伴って起きています。「こんな話、実際にこの目で見なければ信じられるか」と思うかもしれません。しかし、この場にいて御使いたちを見て震え上がった番兵たちはどうでしょうか。御使いを見て震え上がり、死人のようになったと4節にありました。その彼らが11節で、墓地から都に駆け戻って祭司長たちに報告するのですが、祭司長たちから多額の金を与えられると丸め込まれてしまうのです。すぐ前に、地震や輝く御使いを見て、震え上がったのに、大金を握らされたら「自分たちが眠っている間に、弟子たちがイエスを盗んでいったのだ、イエスの復活など捏ち上げだ」と言いふらした。少し考えたら、そんな話のほうがありそうもないのに、そんな話しを広め始めるのです。

 この兵士たち、そして祭司長たちの姿は、この復活記事の中で不思議な程、詳しく記されています。イエスを復活させた神は、地震や輝く御使いを遣わしたのですから、祭司長や兵士たちの姑息な対応など叱咤して、封じることも出来たはずです。その協議の議場に、輝く御使いを派遣したり、イエスご自身が現れて圧倒したりだって出来たでしょう。しかし、そうした人間の考えがちなやり口とは反対に、場面はガリラヤに飛ぶのです。彼らの思惑を尻目に、イエスは弟子たちの故郷である辺境のガリラヤで、

「あらゆる国の人々を弟子としなさい」

という大きな使命を与えられ、

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

という、尊い約束を与えられます。まるで祭司長たちの企みなど、全く意に介さないようです。

 私たちはこういう周りの状況を気にかけてしまいやすいものです。イエスは、復活を否定されても嘘が言いふらされても憤慨しないのに、私たちは憤慨し、何とかしたくなります。「神に力があるなら、その力で社会に影響力を持ちたい、反対する人を説得して納得させたい、自分を無視する奴に分からせてやり、謝らせたい」と思いやすい。でもイエスはそんな発想から、全く自由でした。抑(そもそ)もこの時、イエスの復活を告げられたのは女性たちでした。当時の男性社会で、女性は教育や証言の対象とは見なされていませんでした。証人としての信憑性が確かな、社会の名士や知識人、議員に御使いが現れたらもっと影響力があったでしょうに、ここで御使いは女性たちに語りかけました。そしてイエスも彼女たちに現れて、男性たちへの伝言を託されるのです。それも、今いるエルサレムから離れて、ガリラヤに行け、そこで会おう、と言われます。都エルサレムで語る方が、また祭司長や議会を圧倒して、イエスの復活を信じさせ、イエスの正しさ、神の子としての権威を認めさせた方が、世界への影響力は絶大でしょうに、イエスはガリラヤで会うと仰います。そこで、16節で十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登ってイエスに会います。その時さえ

「疑う者たちも」

いました。弟子たちの中にさえ疑いがあった。そう伝えた上で、最後の言葉が語られます。

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 復活は、死に対してもイエスは権威を持っていることを証しした最たる出来事です。でも、私たちが思うような「権威」とは違います[1]。人を圧倒したり脅したりして服従させ、命令し、操作しようとする権威ではありません。反対に、祭司長やユダヤの議員たちは自分たちの権威を守ろうとして、お金や嘘を使うことも厭いませんでした。そしてそれはひとまず成功しました。でもイエスは天でも地でもすべての権威を与えられているからこそ、そんな小賢しい権威は気にも留めません。イエスの復活は、死に対する勝利です。しかしイエスがそれでなさろうとしたのは、人の上に権威を振るうこととは逆に、女性たちに出会い、辺境のガリラヤで希望を語り、まだ疑っている弟子たちを通して、あらゆる国に福音を告げさせることでした。

 このマタイの福音書の最初に、イエスが語った説教、「山上の説教」の最後でも

7:28イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。29イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

という言葉がありました。イエスの権威は、当時の律法学者たちの偉そうな態度とは全く違う、本当の権威を持っていて驚かれた、というのです。そしてその「教え」の権威は、天の父なる神の憐れみ、罪を赦す権威[2]、人を苦しみや狂気から解放する権威でした。嘘や圧力で自分の面子を守ろうとする権威ではなく、イエスは人を憐れみ、人を生かす権威をお持ちです。その復活は確かに死に対する勝利でしたが、その前にイエスは死の苦しみを背負うことをなさって、全く権威がないかのように嘲笑われることをも厭われませんでした。そして復活の事実を否定する当局の企みに悔しがったり抵抗したりせず、イエスは弟子たちを辺境の山で集め、ご自分の弟子として世界に派遣されます。あらゆる国の人々がイエスの弟子になるよう招かれている。

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…

 バプテスマを受けて、イエスの命じられたことを守る弟子となる。世界の支配者や権力者が、何をしようと、本当の権威者であるイエスが、この世界のあらゆる国の人々を招いています。しかもその出来事が、弟子たちを通して広められていくことをイエスは宣言されます。疑う者さえいる弟子たちを通して、イエスはあらゆる国の人々に働きかけ、その伝道や洗礼や教育という回りくどい方法でなそうとされる。何と地味で、欲のない方法でしょうか。でもそれが、復活したイエスの選ばれた方法でした。私たちが今ここで、イエスの弟子とされている。希望をもって歩んでいる。イエスの教えを学びながら、イエスの力に守られて、導かれていることを信じている。決して華々しくはない、それぞれの人生が、復活のイエスの始めた出来事、本当の権威に裏づけられた、尊い、永遠のいのちを秘めた出来事なのです。

20…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 これはずっと説教でお話ししている「聖書の物語の全体像」で中心となる契約の成就です。主は私たちとともにいる神です。「あなたが良い事をしたら」でもなく、「何かしくじらない限り」でもなく、何があろうとなかろうと、ともにいる。この世界のすべての権威を授けられたお方、この世界を治めておられる方が、私たちとともにいると約束されます。後の日も、今も私たちを生かしておられます。人がどんなに巧妙に「復活などなかった」と言おうと、どんなに大金を積まれようと、私たちの中に疑いが残っていようと、事実、イエスは復活し、私たちとともにいてくださいます。そして、嘘や力尽くで人を封じ込めようとする権威が紛い物に過ぎないと気づかせてくださいます。人の権威を恐れる生き方から救い出して、すべての人が招かれている主とともに生かされる歩み、主の教えに生かされる生涯に入れられているのです。ですから教会は、反対や無理解をも意に介する必要がありません。既に

「世の終わり」

までが約束されていますから、嘘や姑息な手段は必要としないのです。画策や隠蔽や口封じなどせず、堂々と間違いを認めます[3]。堂々とこのキリストの言葉を語り、淡々とイエスの恵みを教え続けます。神は死よりも強いお方、人の疑いや画策よりも強く、私たちとともにいてくださるお方。その権威を振りかざすより、罪を赦して和解を与え、女性や低い者、小さな者に目を注いでくださるお方。そのイエスが、今日も私たちを生かしておられると指し示し続けるのです。

「私たちのために死に復活された主よ。すべての権威はあなたにあります。生かされている恵みを忘れ、主の憐れみが踏みにじられる中、私たちは十字架と復活に捕らえられ、あなたに生かされてある事を知らされました。この不思議な恵みの力を毎日、小さなことにも見出し、王なるあなたを誉め称えさせてください。主を迎える終わりの日まで、ともに歩ませてください」



[1] 『広辞苑』では「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義されています。

[2] マタイ九6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」

[3] 体制の権威は、恐れ、隠蔽し、金で解決しようとする。現実に目を向けられず、都合の悪い真実は闇に葬ろうとする。キリストの教会はそんな小賢しいことをする必要はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答97~98 マタイ伝5章12~26節「怒りにまかせない」

2019-04-14 16:07:08 | はじめての教理問答

2019/4/14 マタイ伝5章12~26節「怒りにまかせない」はじめての教理問答97~98

 夕拝では十戒を学んでいます。今日は第六の戒め、「殺してはならない」です。

問97 第六の戒めはどういうものですか?

答 第六の戒めは、「殺してはならない」です(出エジプト20:13)。

問98 第六の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答  ひとのいのちを、不正に奪わないこと、そして怒りにまかせて罪を犯さないことを教えています。

 これは驚きですが、今読んだマタイ伝5章では確かにイエスは、

「殺してはならない」

という教えを

「兄弟に対して怒る者」

も同罪だと直結しています。兄弟を「馬鹿者」と見下す行為も、裁きに値すると言います。「ゲヘナ」とは元々、エルサレムのゴミ捨て場の谷で、いつもゴミを燃やす火が燃えていました。転じて、ゲヘナと言えば、神の裁きによって捨てられる場所、怒りの炎が永遠に燃えている場所のイメージになりました。兄弟に「愚か者」という者は、燃えるゲヘナに投げ込まれる、というのです。

 もちろん、

「殺してはならない」

とは「怒ってはならない」という事だけを言いたいのではありません。怒りとは無関係であっても、人を殺すこと、どんな人の命をも踏みにじることは禁じられています。他人の命だけでなく、自分の命であっても殺してはなりません。他殺も自殺も、神は喜ばれません。命は神のものであって、人が奪ってはならない。私たちは、どんな人の命も軽々しく扱ってはなりません。

 しかし、殺さなければ良いのか、と言えば、そうではなく、もっと深く、もっと積極的に、イエスは私たちにこの聖句の意味を教えます。それが、この「怒り」への言及なのです。誰かに対して怒ることは、殺人に等しい罪です。神は、私たちが誰をも殺さないことだけで満足されるのではなく、怒ることさえ望まれません。人との喧嘩、突発的な犯罪は、何かがあったときに怒りに駆られ、その勢いで相手を殴ったり首を絞めたりして起きるものでしょう。その最悪の形の殺人までは行かなくとも、その手前でも口をついて出て来るのは「馬鹿野郎」とか「お前なんか分からず屋だ」というような見下す言葉です。そして、そのような言葉を言われた相手は「馬鹿と言ってくれてありがとう」と思うでしょうか。いいえ、「馬鹿」「愚か者」という言葉は、大げんかや、心を深く傷つけるトラウマになり、心の病や自殺さえ引き起こすことがあります。

 因みに「怒る」という言葉は動詞です。行動です。兄弟に対して怒る、怒りをぶつける、怒りに任せて何かをすることに触れています。嫌なことがあった瞬間に、私たちの心には怒りの感情がわき起こります。カチンときたり、強く悲しく思ったりする。そういう怒りの感情は「痛い」「悲しい」と同じで、人の心の反応として当然のものです。心で怒ること自体が罪として禁じられているとまでは思わなくてよいでしょう。ただし、怒りは強い力を持っています。ですから、押さえ込むと溜め込むだけで却って爆発します。そういう失敗を、私は沢山してきました。また、怒りを感じないようにすると、心の感情全部が固まって無感覚になってしまいます。熱い怒りの代わりに、冷たい軽蔑、嫌

悪、憎悪を握りしめてしまうことにもなります。感情が違う形になっただけです。こうした私たちの心の感情は、とても大切です。怒りや憎しみの感情にまかせて罪を犯さないためにこそ、怒りを自分の心の中で、封じ込めずに、向き合う方が良いのです。現代も、子どもだけでなく大人でも、何かの弾みでぶちギレて暴力を起こす事件が続いています。「アンガーマネジメント」という怒りの感情の扱い方を学ぶ講座も広がっています。怒りとの上手なつきあい方が切実に必要になっています。

 聖書にも、怒りは決して恥じられていません。腹が立ったことを率直に、激しく、神様に祈っている祈りが、詩篇には沢山出て来ます。例えば、詩篇139篇19節以下では、

神よ どうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ 私から遠ざかれ。

彼らは敵意をもってあなたに語り あなたの敵は みだりに御名を口にします。

主よ 私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。

あなたに立ち向かう者を 嫌わないでしょうか。

私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。 彼らは私の敵となりました。

 そうして、自分のうちにある怒りを神に対して吐き出しています。具体的に、ストレートに、余さず露わにしています。これを人に対してぶつけたり、怒りにまかせた行動を取ったとしたら、悪になるでしょう。けれども、その怒りを主に対して聴いていただく時、怒りを言葉にして言い表す時、逆説的に私たちは怒りに振り回されない生き方が出来ます。人の挑発に乗らない、賢明な生き方が選択できます。怒りに任せて罪を犯して、裁きを招くよりももっと良い道が、神との関係にあるのです。

 マタイ5~7章でイエスは「山上の説教」と呼ばれる大事な説教を語っています。

マタイ五17わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

 こう言われて最初に語ったのが、今日の「殺してはいけない」の「怒り」の問題です。イエスは「殺すな、怒りもするな」と命じた、のではありません。それでは律法は更に成就しにくくなるだけです。高尚な律法を言われても、私たちは守れません。それこそ「出来ない俺は馬鹿者だ。きっと神もお怒りに違いない」と思って、生きていけません。だからこそ、イエスは来て下さいました。そしてイエスはこの私たちを怒るのではなく、愛してくださった。私たちを馬鹿にしたり見下したりせず、私たちのために命を捨ててくださいました。そうして、罪を怒らないばかりか、心に愛や喜び、赦し、人を受け入れる思いを下さいます。生涯、働き続けて、人との関係も、自分の中の思いも深く取り扱ってくださいます。私たちが殺さないだけでなく、怒りに借られて罪を犯したり、馬鹿者と口走ったり、愚か者だとレッテル貼りをすることからも自由にしてくれます。それでこそ、イエスが律法を成就するために来た、という言葉は果たされるのです。

 殺人はなくても虐めや嘲り、人を貶めて楽しんで、でも心が殺伐としている社会です。それでもイエスは私たちを愛し、生かし、私たちが互いに生かし合うように働いておられます。勇気を出して「殺さない」だけでなく、生かし合う関係を作りましょう。人を馬鹿にせず、自分のうちの痛みをも丁寧に扱いましょう。どんな人も、生きる価値があり、笑われていい人は一人もいない。そう確信できるとはなんと幸いなことでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする