聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ伝2章1~12節「礼拝せずにいられない」

2019-09-22 15:35:04 | マタイの福音書講解

2019/9/22 マタイ伝2章1~12節「礼拝せずにいられない」

 クリスマスには何度もお話しをしてきた今日の箇所を、もう一度、マタイの福音書の講解説教として一緒に聴きます。この箇所で目につくのは、なんといっても東の方からやってきた博士たちの礼拝であり喜びです。2章16節を素直に読むなら、博士たちが星を見たのは二年前。彼らは二年も旅をして王を礼拝しに来ました。そして星が、幼子の家の上に留まった時、

10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

 とても強い喜びです。「大いなる喜びを喜んだ」という文章です[1]。博士たちの姿は非常にインパクトあるものでした。最初に「ヘロデ王の時代に」とあるヘロデ大王は、大変有能な王でした。彼はユダヤ人ではなくイドマヤ人で、ローマ皇帝に取り入ってユダヤの王として任命された傀儡ですが沢山の都市や建築物を建てた建築家でした。彼が建てた壮大なエルサレム神殿はユダヤ人にも自慢されましたが、有能さと残酷さ、妬み深さを併せ持っていたヘロデその人への尊敬はありませんでした。そのエルサレムに、東の方からの博士たちがいきなり現れて、

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

と言いました。この寝耳に水の知らせにヘロデは動揺し、エルサレム中の人々も、ヘロデを動揺させるようなこの知らせに、震え上がりました。しかも、それがユダヤ人ではなく、東の国から来た異邦人から、というのがまた夢にも思わない展開でした。[2]

 この博士たちは、どうして星を見てユダヤ人の王の誕生を知ったのでしょうか。聖書には、メシアである王が来られることは書かれています。ダビデの子が永遠の王となる。それは聖書の全体像でお話しして来た、中心的な約束です。でも、それを告げる星の預言などありません。聖書の欄外に民数記の言葉が一応引用されますが、それは後付けで、キリストの星が昇ると明言してはいません[3]。祭司長、律法学者、聖書の専門家が、キリストの誕生は

「ユダヤのベツレヘムです」

と答えた根拠は旧約聖書のミカ書5章2節ですが[4]、この言葉だって当時の定説だったわけではなく、「都市伝説」みたいな読み方に見えます。それでも博士たちは出かけていきました。すると期待通り星が彼らを導いて幼子のところで止まりました。博士たちは大喜びを喜んで、幼子を礼拝して、贈り物を捧げ、そして夢で警告を受け、別の道からコッソリ帰っていった。素朴な礼拝、喜びに満ち、いつのまにか風のように帰っていたという、博士たちの巡礼でした。不思議な星が彼らを導いたというだけでなく、博士たちの訪問丸ごとが、不思議な彗星でした。エルサレムには場違いな異邦人が「ユダヤ人の王の誕生を知らせる星を見て礼拝しに来た」と言って消えた出来事そのものが聖書の読者にとって不思議な光なのです[5]

 この姿はなんと不思議でしょう。今でも教会が、新来者や通行人、他宗教の信者からハッとさせられることがあります。自分たちより遥かに純真な信仰、礼拝の姿勢、惜しみない生き方に頭が下がります。洗礼を受けていない人も主が不思議に導いて、喜びに溢れさせる出来事を目にします。聖書の言葉は異教徒や無神論者にも希望や生きる喜びを与え、その歩みに主は不思議に働いておられる。その事に自分の心を問われ、謙虚にされます。生きて働いておられる主への信仰を、色々な人によって教えられ、気づかされるのは恵みです。恥ではなく恵みです。

 博士たちは他の人にも「お生まれになった王を一緒に礼拝に行きましょう」とは言いません。イエスご自身、「博士たちだけだとは不信仰だ、エルサレムはけしからん」と責めません。ヘロデならどうでしょう。ヘロデは自分の権力の座を誰にも奪われてはなるものかと戦々恐々としていました。イエスを殺そうとベツレヘムの男の子を皆殺しにしたように、自分を脅かす者の首をはね、エルサレムの住民は怯えて彼に頭を下げていたのです。大王とは呼ばれても所詮は人間に過ぎないヘロデの思い上がりでした[6]。しかし永遠の王であるイエスなら、自らへの礼拝を義務として要求し、強制的に集めてひれ伏させ、捧げ物を命じても良いのでしょうか。礼拝しない不届き者を罰する権利をお持ちなのでしょうか。

 いいえ、イエスはそんな王ではありませんでした。イエスは礼拝されるためでなく、私たちを罪から救い出すため、私たちに仕えるために来て下さった王です。こう言われました。

20:28…仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た…[7]

 「来た」。

博士たちも東の方から来ましたが、イエスはもっと遠くの神の座から来ました

博士たちは王を求めて来ましたが、イエスは罪人、疲れた人、失われた人を求めて来ました。

博士たちは王の前にひれ伏して礼拝しましたが、イエスは弟子たちの足元に屈んで足を洗い、ゲッセマネでひれ伏して祈りました。

博士たちは宝の箱を空けて、黄金、乳香、没薬を捧げましたが、イエスはご自分の差し出せる全ての宝を下さいました。罪の赦し、神の子どもとしての立場、教会という交わり、日毎に必要な糧を。

そして、博士たちが星を見てこの上なく喜んだように、イエスは私たち一人一人との出会いを、この上もなく喜んでくださった。私たちの罪も、礼拝に腰の重い鈍さも、全てご存じの上で、そんな罪に死んだ生き方から救い出すために、イエスは来られました。それも、喜んで、愛して。

 ヘロデのような王とは全く違う、民に仕え、私たちを喜んでくださる王。この方がおいでになったしるしが、博士たちだったのです。

 ここで博士たちは自分たちの喜びだけで一杯でした。「人を誘わなければ」などとは考えず、自分がこの王を見る喜びで一杯になり、喜んでひれ伏して、捧げ物をして帰って行きました。その姿が、イエスが初めてくださる礼拝とはどんなものかを教えられるのです[8]。マタイの福音書最後の28章では、復活したイエスを弟子たちが礼拝したとあります。

28:17そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

 2章で博士たちの礼拝に驚かされただけのユダヤ人が、最後には弟子たちがイエスを礼拝するのです[9]。4章の荒野の誘惑では、人が悪魔に頭を下げて妥協する誘惑が取り上げられています。人が神を礼拝することから遠い現実があります。そのような人がイエスに出会うことで、イエスを礼拝するよう徐々に徐々に変えられて行き、イエスにひれ伏す姿は垣間見えます。そして、最後でイエスを礼拝をする[10]。それでもまだ、疑う者たちもいる。でも、そんな弟子たちをイエスは受け入れ、育て、ともにいてくださるのです。

 礼拝は、命令されてする義務ではなく、イエスが私たちの心に育てて下さる関係性です。礼拝は「行かなければならない」からではなく「主を礼拝したいから、礼拝せずにはおれないから」来るのです。礼拝が「サービス」というのは、私たちが神に仕えるからではなく、神が先に私たちに仕えてくださったからです。キリストが私たちの所に来て下さいました。イエスが私たちの心の奥に働き、罪の赦しを与え、重荷を下ろさせ、神の子どもとしてくださいました。教会の交わりに入れ、他の人の中に主を見るような目を下さいます。神を、神だけを礼拝する思いをくださるのです。まだ疑い、よそ見する私たちをもじっくり時間をかけて、慰め、教えてくださいます。外国人や場違いな人を通しても気づかせてくれます。そうして私たちが心から主を喜び、礼拝する恵みを取り戻して、私たちの生き方に主を王として迎えさせてくださる。それもまた、私たちの努力でなく、イエスの御業です。イエスはそのような王です。そして、そのように私たちが、私たちに仕えておられ、私たちの周りの人を通しても語っておられることを知れば知るほど、ますます主を礼拝し、喜んで生きるようになり、人をも愛するようになります。その私たちの姿そのものが、この世界に光を投げかける星となるのです。

「崇められるべき主よ。あなたは私たちに礼拝を強いるより、むしろ自ら犠牲となり、私たちに跪いて仕えてくださいました。私たちを喜び、罪の赦しと光を下さいました。その愛と御業を知れば知るほど、私たちはあなたを礼拝せずにはおれません。闇や絶望や権力が力を振るうように思えます。ヘロデのような恐れに囚われそうになります。しかし、ここに来られたあなたこそ真の王です。あなたの恵みにより、全てを導いて、心からあなたを礼拝させてください」



[1] 喜ぶ:5:12「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」、18:13「まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。」、26:49「それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。」、27:29「それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。」、28:9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」。
喜び13:20「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。」、13:44「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」、25:21「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(25:23も)、28:8「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」

[2] 「博士たち」(マギ)には色々な訳語が当てられます。高貴な人(マジェスティ)、高官、天文学者、占星術師(新共同訳)、賢者、王、…?? 諸説あるにせよ、いずれにせよ、異邦人の高貴な身分の方々であることは間違いありません。3人というのも聖書には明記されていません。もっと多くだろうという説が伝統的には強くありました。

[3] 民数記24:17「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」

[4] 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

[5] 捕囚で散らされたユダヤ人から聖書の言葉を聴いて、メシアが来る約束を知っていて、見たこともない星が西の空に昇った時、「あの王の誕生の知らせだ!」と思ったのかもしれません。それは非常に危うい断定でした。

[6] 博士たちのように、喜んで「礼拝しに来ました」という存在はどんなに脅威だったことでしょう。彼らが義務感や理屈で礼拝に来たならまだしも、素朴な心で礼拝に来ている。聖書の約束を心から信じて、期待している。その目の輝きは、ヘロデを恐れてひれ伏す人々の目には決して見当たらないものでした。だから、ヘロデはイエスをますます憎み、殺そうと計ったのでしょう。同じ、イエスへの「礼拝したい、信じてお仕えしたい」という心を戴いた人々が増えていくことで、やがてローマ帝国そのものがイエスを迫害することを諦めるようになっていった、とも言えるかも知れません。

[7] マタイ20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

[8] 礼拝に誘わなければ、とか、人にも「礼拝に行かなければ」と誘うより、自分にとって礼拝が大事であれば、人も「あの人の行っている礼拝って何だろう?」と思うでしょう。勿論、礼拝がいつも喜びや恵みで満たされているばかりではありません。生きていることには悲しみや問題もあります。その浮き沈みをもともにしておられ、その私たちの歩みを治め、すべてを恵みと賛美に変えてくださる王がイエスです。だから私たちは心からイエスを礼拝するのです。私たちの罪、恥じ入るしかない思い、取り返しのつかない過ちをも知った上で、それを十字架の上で贖ってくださったイエスを仰がずにはおれないのです。私たち自身が、礼拝を「せねばならない」というより、「せずにはおれない」恵みとして受け止めて、生活の中心にイエスを迎える時に、それは周囲や家族にとっても、誘われなくても興味を持つ礼拝、誘って欲しい礼拝になるでしょう。そして、私たちは、主が様々な方法を用いて、一人一人の心に働きかけて、礼拝するよう導いてくださることを、信じているのです。

[9] 「ひれ伏して礼拝する」は、今日の2:2、8、11の他、4:9-10「こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」10そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」、8:2「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。」、9:18「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。」、14:33「舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。」、15:25「しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」、18:26「それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。」、20:20「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした」、28:9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」、28:17。

[10] その途中でも、イエスご自身が弟子たちや人間にご自分への礼拝を要求した事は一度もありません。イエスは神の国の福音を語り続けたのであって、まず礼拝を義務化することはしませんでした。

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はじめての教理問答144~146 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」

2019-09-22 15:29:04 | はじめての教理問答

2019/9/22 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」はじめての教理問答144~146

 今日はまず、主イエスがお話になった一つの物語を聞きましょう。聞いた相手は、お金持ちたち。イエスのお話しを聞いても、彼らは心を動かそうとしませんでした。このお金持ちの人たちも、自分たちが贅沢をしたりお金を沢山儲けたりすることばかりを考えて、貧しい人やお腹を空かした人のことは心に留めていませんでした。自分たちは、聖書を学び、正しい生活をしているのだから、神に祝福をもらう権利が当然あると思っていたのでしょう。イエスはそのような人たちに対して、ズバリと語ったのです。

ルカ16:19ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。21彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

 贅沢に遊び暮らした金持ち、腹を空かせた貧しい病人。二人はどうなったでしょう。

22しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

 金持ちも死にました。立派なお墓だったでしょうね。贅沢に遊び暮らして、大きなお墓に葬られた金持ち。羨ましいぐらい幸せな人生にも思えますね。でも、イエスはこの金持ちは、アブラハムの懐ではなく、「よみにいった」とお話しするのです。

23金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

 「よみ」とは死者の行く場所です。それがどんな場所かは、よく分かりません。ここで言われているのは、金持ちはよみにいて、アブラハムとは遠く離れた所に見えた、という事です。アブラハムは聖書の最初に出て来る人のひとりです。金持ちにもラザロにもご先祖です。でも、金持ちはアブラハムの側ではなく、よみに行ました。金持ちの生き方は、アブラハムとはまるきり違ったのです。アブラハムはラザロを懐に抱いていました。わが子のように慰め、抱き寄せています。しかし、金持ちはラザロを気にもかけずに自分の贅沢な暮らしを楽しんでいました。懐どころか、食べ物の残りを恵むことさえしなかったのです。彼の生き方は、ラザロを抱き寄せているアブラハムとはまるきり違いました。だから死んだ後の場所も、アブラハムからは遠かったのです。

24金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

 金持ちは、アブラハムに、ラザロを送るように言います。炎の中で苦しくてたまらない、水を一滴持って来させてくれ、と言います。これにアブラハムは答えます。

25するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。26そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

 アブラハムは金持ちに、自分の生き方とラザロの対照的な生き方とを思い出させます。金持ちが選び、好んできた生き方は、聖書の示す道とは逆でした。その結果には越えようがない大きな隔たりがあります。光と闇、水と油以上に、本質的に相容れないのです。

27金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。28私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

 この金持ちは、自分の間違いを最後まで認めません。ラザロがよみがえって私の家族に教えに行かせよ、と今でもラザロを見くびって、命令する立場にいると思っています。自分が苦しい目に遭っているのは、もっとちゃんと教えられていなかったせいだ、と最後まで言い張るのです。「ラザロよ、悪かった。ごめんなさい。アブラハムよ、私の生き方はこんな場所に来てもしかたがなかった」とは言いません。「あなたの所に行きたい」とも言わないし、ただこの熱さや苦しみの文句を言うだけです。もしラザロを寄越したら、その手を握ってよみに引きずり込むつもりじゃないかと思ってしまいます。

 神は聖書を通して、私たちに語っています。神が私たちとともにおられ、私たちもお互いにともにいる生き方を教えています。聖書だけでなく、貧しい人、困っている人を通して、またその人達を大事にして共に生きようとしている人たちの姿を通して、私たちにともにいるよう、語っています。アブラハムや聖書の多くの物語が、私たちに与えられている、向きを変えて神を信じ、互いに助け合えという、生きた招きです。でも、そうした神の「ともにある」招きを拒んで、自分たちの楽しみだけのために生きて人生を終わるなら、その願いの通り、神から遠く離れたよみに行くことになるのです。

問144 信徒は死ぬとどうなりますか?

答 わたしたちの体はちりにかえり、魂は主ととともに永遠にあります。

問145 不信者は死ぬとどうなりますか?

答 その体はちりにかえりますが、魂は地獄に落ちます。

問146 地獄とはなんですか?

答 神さまを信じないものが、神さまから切りはなされ、おのれの罪のゆえに苦しむ恐ろしい場所です。

 死後、主とともにいます。幸せな天国というより、何より

「主とともにいる」

 これが聖書の語るゴールであり、慰めです。この世界を造られた神、恵みに富み、貧しい人をも愛される主とともにいる。私たちも本当にこの神と一緒にいたいと願い、一緒にいればいるほど、神の素晴らしさを永遠に喜ぶ。そういうゴールを聖書は語るのです。

 反対に、地獄とかよみとは、何よりも

「神様から切り離され」

ている場所です。火や苦しみという表現はあっても、何より、神から切り離されている場所です。それは神の罰ではありません。神は人間とともにいたいのです。人間が、神を拒んで、神に背を向けたのです。人は神と共にいることも、神が愛する全ての人をも拒んで、自分さえ良ければ良い、という生き方を選ぶようになっています。最後はよみで孤独に苦しむとしても、それでも神に立ち帰って、悔い改めようとは思えない。それが、人間の姿です。

 神は、そういう人間である私たちの中に、神を信じる心を下さいます。神とともにいたい、そして、人とつながり、助け合い、出来る事をして、ともに生きていく世界に行きたい、という思いを下さるのです。神から切り離され、苦しみ、恨み続ける終わり方はしたくない、そういう思いも神からの贈り物です。そんな神を信じる心をいただいているなら、死んで体は葬られても、終わりではありません。神は私たちを迎え入れ、アブラハムがラザロを受け入れたように、私たちは神の元に受け入れていただくのです。

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はじめての教理問答141~143 ヨハネ黙示録1章4~8節「キリストは今どこに?」

2019-09-15 15:08:17 | はじめての教理問答

2019/9/15 ヨハネ黙示録1章4~8節「キリストは今どこに?」はじめての教理問答141~143

 キリストは、今どこに?いるのでしょう。この質問に皆さんは何と答えますか。今日学ぶのはキリストは、どこにおられるのか、です。教会に来ていない多くの方は、こう思うでしょう。「イエス・キリストは、偉い人だったけれど、最後は十字架に死んだんだから、どこかのお墓に葬られているんでしょう?」

 そこで、ここでもこう言います。

問141 キリストは十字架ののちに、墓にとどまりましたか?

答 いいえ。キリストの体は、死から三日目に墓からよみがえりました。

 これだけでも、ビックリですね。キリストは、十字架に死んで葬られたけれど、三日目に墓からよみがえった。今、キリストのお墓を探しても世界中どこにも見つけることは出来ない。とんでもない話ですが、キリストは死んで三日目に復活した。本当に体でよみがえって、弟子たちとも出会ったのです。それは、教会にとっての原点の信仰告白です。そして、それは、キリストだけの超自然的な出来事というだけではありません。私たちの命も、神が創造された、この世界の神秘です。「普通、命は死んだらお終い」なのではありません。命は、神が作られた、奇跡です。キリストがよみがえったのは、私たちも死んだらおしまい、ではなく、私たちもよみがえるという証しです。私たちはキリストの復活を思う時に、私たちも死んで墓に葬られても、そこに留まるのではなく、最後にはよみがえらされる、という希望でもあるのです。いずれにしても、キリストの体が葬られたお墓は、世界のどこにもありません。キリストはよみがえったのです。

 ではよみがえったキリストは、今どこにいるのでしょうか?

問142 キリストはいま、どこにいますか?

答 天にあって御国をおさめ、わたしたちのために取りなしています。

 キリストは、よみがえった後、天に上りました。聖書には、イエスが「神の右の座に着き」という言葉が繰り返して出て来ます。「神の右の座」があるなら「左の座もあるのか?」と思いたくなりますが、「神の右の座」とは神に一番近い地位、神に次ぐ立場のことです。神の王子がつく場所です。キリストは、今、天におられて、神の国を治めています。キリストが天におられるとは、私たちから遠く離れているということではなく、キリストは天の御座で、世界を治めて、私たちのすべてに関わっている、ということです。イエスは私たちと「ともにいてくださる」という聖書の言葉もあります。キリストがおられるのは天の、神の右の座です。しかし、そこから私たちを力強く治めている王ですから、「私とともにおられる」とさえ言うことが出来るのです。

 ですからキリストは今、天におられて、全てを治めています。そして、私たちとともにいてくださいます。ここには「私たちのために執り成しています」と書かれています。「執り成す」。私たちと神様との間に立って、私たちを結び合わせてくださっています。私たちが罪を犯して、神の義に適わないことをしても、キリストが私たちを受け止めて、神との関係を支えてくださり、神は私たちを受け入れてくださるのです。私たちが祈る時、私たちの小さな祈りも、キリストが執り成して、神に私たちの祈りを届けてくださいます。キリストは、私たちと神との間を完全に取り持ってくださるのです。

ヘブル7:25…イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

 執り成しをしてくださっている。それは、本当に有り難い、私たちにとっての希望です。ただ、天で治めているだけでなく、私たちのために、神との間に立って、神に近づかせてくださるのです。ですから、私たちは今ここで、キリストの御支配を信じます。キリストの名前によって祈ります。私たちには分からないことは沢山ありますが、そのすべてを治めておられるイエスを信頼して、祈り、歩んで行くのです。

 では、キリストが天で私たちを治めている、ということで終わりなのでしょうか?

問143 キリストはふたたび来ますか?

答 はい。終末の日に、世を裁くために来ます。

 キリストは、もう一度この世界に来られます。かつて、二千年前にこの世界にお生まれになったイエスは、今、天におられて、やがて再び、この世界に来られるのです。そして、その時に世界を裁くのです。この事については、また来週、詳しくお話しします。今日は、この事だけを覚えましょう。キリストは、もう一度、この世界においでになる。今私たちがキリストを信じるのは、この世界の現実については諦めて、キリストに希望だけを置いている負け惜しみではありません。今ある色々な悪や問題に、神は何もしてくれないまま、悪い人は逃げおおせることは決して出来ません。神は、すべてを裁いて、明るみに出すのです。その事を信じながら、恐れ慎んで、生きていくのです。

 今読んだ黙示録の言葉にも、重ねてこのような言い方が出て来ました。

ヨハネの黙示録1:4…今おられ、昔おられ、やがて来られる方…

 ヨハネの黙示録では、この事を何度も繰り返しています。ヨハネの黙示録は、キリスト教会にとって、ローマ帝国からの攻撃がとても強くなっていった時期に書かれました。教会にも、冷たさや人間関係のもつれや、パワハラやゆるみが入ってきていました。そういう中、黙示録は、キリストが今もおられ、昔おられ、そして、やがて来られるお方だと何度も繰り返し語るのです。私たちがキリストを信じるのは、日曜日だけの礼拝の事ではありません。昔、キリストが語った素晴らしい教えを忘れずに生きていきましょう、ではありません。今、キリストが天におられることに目を仰いで、祈りながら生きていく、それだけでもありません。キリストは、墓にはおられずよみがえって、今も天におられます。天で神の右の座に着いて、私たちのために執り成してくださっています。そして、必ず再び世界に来て、すべてを裁いて、新しい国を始めるのです。

 どうでしょう。そう信じる事は、私たちの生き方のどれほど頼もしい土台ではありませんか。将来にキリストが再び来る日が、すべてが白日の下に晒される日が来ると信じて今を生きていけることは、そういう将来があると知って進んで行くことは、生きることをどれほど喜びに変えるでしょうか。キリスト教信仰は、たんなる教えや、今の慰めや、日曜日だけの平安ではありません。むしろ、私たちの毎日の生活の全てが、イエスの執り成しに対して信頼し、やがて来られるイエスへの希望によって新しくされることなのです。

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マタイ伝1章18~25節「覚めない夢を見せてくださる」

2019-09-15 15:04:12 | マタイの福音書講解

2019/9/15 マタイ伝1章18~25節「覚めない夢を見せてくださる」

 マタイはキリストの聖書を書き始めるに当たって、

「アブラハムの子、ダビデの子」

と旧約を貫く系図を長々と書き、次に「使徒信条」の「主は…処女マリアより生まれ」を書きます。

18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアは、ヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

 そして、処女降誕という奇蹟を主張する以上に、それを巡って起きた出来事、特にヨセフの姿を通して、キリストがどんなお方か、イエスのメッセージは何かを浮き彫りにするのです。

 マリアとヨセフの「婚約」は今の婚約よりも「結婚」そのものに等しい厳粛なものでした。その破棄は「離縁(離婚)」と呼ばれますし、まだ一緒に暮らしてはいなくても「妻」と呼ばれているのです[1]。万一、夫の与り知らない所で妻がこどもを身ごもったとしたら、それは姦通の大罪として、石打ちで死刑にされるのが当然とされていました[2]。ですから、小さな村のナザレでヨセフがマリアを公に離縁したら、マリアはさらし者にされ、殺されることも目に見えていました。ヨセフはそれを望まずに

「ひそかに離縁しようと思った」

のでした。

 ヨセフはマリアの妊娠を

「聖霊によって身ごもっていることが分かった」

とハッキリ書いています。ヨセフがマリアの身ごもったのが、不貞や他の誰かによるのでなく、神のお働きだと分かったのは、御使いが夢に現れた時ではありません。最初から聖霊によってだと分かったのです。分かった上で、彼が離縁しようとしたのは、彼が「正しい人」だったからです。自分は、神に選ばれたマリアとの結婚や、生まれてくる特別なこどもの父親役には到底相応しくない。自分に出来るのは、マリアをさらし者にせずに、ひそかに離縁することだと思ったのです。

 そう決めながら、具体的な方法やタイミングを考えて思い巡らしていたのでしょうか。

20…主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 夢のお告げで、ヨセフはマリアを迎える使命を与えます。その名をイエスと付ける使命も与えます。「イエス」とは「主は救い」という意味の名前です。主は私たちを救う方。そして、この生まれる子は名前の通り、ご自分の民をその罪からお救いになる、というのです。

 「罪」とはマタイの福音書に七回だけ出て来る言葉で[3]、他にも神との関係が損なわれている状態を表す言葉はありますけれど、この言葉はいつも「赦し」と結びつけて使われています。罪とはどんな問題であるにせよ、主はその問題を解決して、そこから救い出してくださる。その事がこの最初の1章21節の時点で言われています。イエスは、ご自分の民を、その罪から救ってくださるのです。注意してください。

「救ってくださる」

は無条件の断定です。「救うことが出来る方で、後、救ってもらえるかどうかは、人間の信仰や悔い改めにかかっている」ではないのです。人間の側での信仰とか悔い改めとか、救われたい願いとかは、到底当てに出来ない程、罪は人の心を暗くし、病ませ、毒しています。だからこそ、イエスがご自分の民を罪から救ってくださることに希望があるのです。それが最初に宣言されたのです。22節もです。

22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 これは旧約聖書のイザヤ書7章の言葉です。この言葉自体、当時のアハズ王という狡賢(ずるがしこ)い王に対して言われた言葉です[4]。つまりこの預言自体が、神の救いは、人の求めや健気な願いに対してではなく、神ご自身から与えられることをハッキリと示すものだったのです。神は、私たちを救ってくださるのです。それはここに記されている「インマヌエル」という名前が示す通り、神は私たちとともにおられる神だからです。神は正しく、罪を容認する事は決してありません。しかし「罪があるから一緒にいられない」と言って終わり、私たちの努力や償いがなければ始まらない、と離れている神ではなく、「ともにおられる」神。人を罪から救うために自ら立ち上がり、人の所に来て、私たちとともにいる。それが神というお方なのです。

 19節のヨセフも「正しい人」と言われていました。ヨセフの正しさは、マリアをさらし者にせずにひそかに離縁することを考えるのが精一杯でした。マリアの妊娠が神の業だとは思えなかったのだとしたら、さらし者にはしないけれど夫婦として一緒にもいられない、という正しさ(潔癖さ)だったのでしょう。或いは、マリアが聖霊によって妊娠したのだと分かったのだとしたら、自分はその夫として相応しくないという、正義感からの辞退だったのでしょう。いずれにせよヨセフの「正しさ」は結び合わせるよりも、夫婦としては相応しくないと関係を解消するような「正しさ」でしかありませんでした。自分にはその価値がないとか、相手の失敗は夫婦としての価値を損なったとしか考えません。一章前半のあの系図、アブラハムもダビデも、女性達の名前もバビロン捕囚も、人が神から戴いた人生や大切な人間関係をどれほど壊し、傷つけてしまうか、呆れるしかない証拠でした。人の正しさからしたら絶望的です[5]

 しかし、本当に正しい神が、ヨセフの夢に御使いを遣わして語ったのは、「恐れずにマリアを迎えて、生まれる男の子にイエスと名付けよ」という言葉でした[6]。主はヨセフの「正しさ」よりも大きな正しさでヨセフを受け入れました。それは、ヨセフにとって自分の「正しさ」を引っ繰り返される言葉です。この時点で、マリアの妊娠が聖霊によるのだと分かったとしても、尚更ヨセフは遠慮したくならなかったでしょうか。自分ならどうでしょう。そんな大役は無理だ、そんな価値はないと思わないでしょうか。勿論、「自分がキリストの父親になるだけの価値があるから神もそれを分かって選んだのか」と自惚れたら大間違いです。神が人を救うのは、人に救われるだけの価値や善意や情熱があるからではありません。神が人を罪から救いたいと行動してくださる。それがアブラハムやダビデも含めて、聖書全体が証しする、神の主権的な・一方的な・先行的なことです[7]。そして、その神が人間を救い、愛するのは、人間を尊い者と見て下さっているからです。「相手に価値があるから愛する」のは神の愛ではありません。神は万物の造り主です。相手を尊い存在と見て、創造するのが神の愛なのです。神はヨセフをマリアの夫、イエスの父として相応しいと見て下さり、マリアを迎えイエスを名づける使命を託してくださいました。それはヨセフにとって、神が自分を尊い者と見て下さっていること、自分の人生を通して神の栄光を現そうとしている、という恵みを受け止めることでした。

24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた…

 眠りから覚めたら、私たちは夢を夢として片付けたり、夢自体忘れたりします。ヨセフがそうしなかったのは不思議なことです。ともかくこの夢は夢で終わらず、ヨセフの決断を変えました。神はヨセフに、夢を生み出す程の深い心の奥に働きかけてくれました。神の夢は決して覚めることがありません。人として正しい人生ではなく、神がともにいてくださる歩みへと導いてくださったのです。神は、救い主イエスの誕生のため、ヨセフを用いただけではありません。まずヨセフに近づいて、ともにいることで救われたのです。神が罪から私を救い、私とともにおられる。その言葉を初めに聴いたのは、アブラハムの子、ダビデの末裔、神の民の挫折のどん底にあったヨセフでした。ヨセフは眠りから覚めても、この夢は覚めません。神はヨセフとともにいて、ヨセフの生涯を通して主の業をなさいました。私たちもその覚めることのない夢を見せてもらっています。イエスが下さった救いは、私たちが神を「ともにおられる神」として知る、人生そのものの救いです[8]。神は私たちの心の奥深くにもこの夢を下さいます。

「ともにいます主よ。ヨセフの夢に現れたように、私たちにもともにおられ、イエスの救いに与らせてくださることを感謝します。一人一人、どう関わるかはあなたの深いご配慮によりますが、どうぞあなたが心の奥深くに語りかけてください。この礼拝を後にしても、心に灯った夢が覚めることなく、あなたとともに歩む幸いを、あなたの使命を、果たさせてください」



[1] 20節の「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」は「恐れずにあなたの妻マリアを迎えなさい」が直訳です。

[2] レビ記20章10節、申命記22章22-23節、ヨハネ8章3~5節など。しかし、このヨハネの出来事そのものが表しているように、現実には一律な判断がなされていなかったとも言えます。律法は、売春も禁じていましたが、ユダヤに遊女はいましたし、「不品行な女」と呼ばれる女性が石打ちにされずに生活していたのも事実です。

[3] マタイ3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」、9:2「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」、9:5「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」、9:6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」、12:31「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」、26:28「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

[4] アハズは外国勢力の脅威に対して、神を信頼して落ち着いた行動を取るよりも大国の阿(おもね)ろうとしていました。それに対してイザヤは、主に信頼することを求めて、それが疑わしければ、しるしを求めよ、とまで譲歩したのです。しかしアハズは「私は求めません。主を試みません」と一見、謙遜そうな、しかしその実、もうイザヤの助言には聞く気がないからの拒絶をするのです。そうした優柔不断なアハズに対して、イザヤは「主ご自身がしるしを与える」と言って、この「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む」という言葉を告げるのです。

[5] マタイの福音書では「正しい人」が、限界ある面と、神の前での正しさでもある面と、両義的に使われています。正しい人(ディカイオス) 5:45「正しい者にも正しくない者にも」、9:13「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」、10:41、13:17、43「そのとき正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」、49「御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、」、(20:4「相当の賃金」)、23:28「同じように、おまえたちも外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」、29「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、」35「それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。」、25:37「すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。』、25:46「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」、27:19「ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」

[6] 「恐れずに」はマタイに、10:26、28、31、14:27、17:7、28:5などで繰り返されます。

[7] この「神にしか出来ないことを神がしてくださること」が「恵み」なのです。

[8] マタイの福音書が語るイエスの教えは、高尚な道徳というよりも、神がともにいてくださる歩みがどういうものかを具体的に生き生きと歌い上げていくものです。それは私たちには到底完璧には従えないものです。しかし、イエスは私たちを罪から救ってくださいます。イエスが私たちとともにいて、私たちの生き方を、神とともに歩むよう変え続けてくださる。私たちが自分の力や無力さによって、神の前に相応しくないかのように思う自分の「正しさ」から、本当に正しい神が、私の罪も夢も過去も将来も全部知った上で、私を尊いと見て、ともにいてくださると知らされていきます。そして、他の人をも、イエスが見ている眼差しで、見ていくように変えられる。その生き方が語られていきます。それは、救いの条件でも、無理な要求でもなく、そのような生き方へと救われていくということです。そしてイエスは、間違いなく必ず、私たちを救って下さるのです。

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はじめての教理問答137~140 Ⅰコリント11章23~26節「食卓への招待」

2019-09-08 20:49:16 | はじめての教理問答

2019/9/8 Ⅰコリント11章23~26節「食卓への招待」はじめての教理問答137~140

 教会の大事にする儀式、「聖礼典」についてお話ししています。先週まで、「洗礼式」についてお話しして来ました。今日は「聖餐式」についてお話しします。

問137 聖餐式では、どのようなしるしが用いられますか? 

答 パンを食べぶどう酒を飲み、イエスさまの苦しみと死を思いおこすというしるしが用いられます。

問138 パンはなにを表しますか? 

答 わたしたちの罪のために犠牲となったキリストの肉を表します。

問139 ぶどう酒はなにを表しますか? 

答 わたしたちの罪のために流されたキリストの血を表します。

 聖餐式は、パンとブドウ酒をいただくことを通して、イエス・キリストが苦しみを受けて死なれたことを思い起こすのです。先に読まれたⅠコリント11章の通りです。

Ⅰコリント11:23主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 イエスは、十字架にかかる前の晩、食事の席でパンを裂き「これはあなたがたのためのわたしのからだです」と言われ、ぶどう酒の入った杯も取って「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われて、これからも弟子たちがイエスの死を覚えながら、パンを裂いて食べ、杯を分けて飲むようにと命じたのです。

 この絵をみて分かるように、パンと言っても、お煎餅みたいです。当時は今のようにフワフワなパンはありませんし、ましてこの時のお祭りでは、膨らまないまま焼く「種なしパン」でした。そして、それをイエスは手で裂いて、一人一人に違う形のパンを渡したのです。でもそれが、イエスの死を表しました。まもなくイエスは十字架にかかります。釘や槍でイエスの体は傷つけられました。それ以上に、イエスはご自分のいのちを私たちに与えてくださったのです。一つのパンを裂いて分けるように、イエスはご自分を私たちに与えてくださいました。イエスは私たちに命を下さいます。今私たちが生きているのも、神の御業ですし、神は私たちに、ただ生きるだけでなく、豊かな命を下さる方です。いいえ、神ご自身の命によって、私たちを生かしてくださるのです。イエスが私たちを愛して、ご自身の命を与えてくださいました。私たちが罪の報いとして死に向かって進んでいたのを、イエスは私たちのために自らが死ぬことによって、引き受けてくださいました。パンは、イエスが私たちのために死んでくださった十字架の記念です。また、私たちが本当にイエスからいのちを戴けることを、パンを取って食べて味わうことで実体験させて戴くのです。そして、自分一人だけではなく、私たちがお互いに、一つのパンを分け合う仲間、イエスという一人のお方の救いに与る、一つの仲間であることを覚えるのです。その事を覚えさせたくて、イエスは聖餐式を定めてくださいました。尊い御自身を、薄っぺらいパンに託して、これがわたしのからだだ、わたしを覚えて、これを行いなさい、と言われたのです。

 もう一つは葡萄酒の杯でした。私たちの教会では、ぶどう酒(ワイン)ではなく、葡萄ジュースを使います。イエスの時代、ワインは水代わりの薄いものでした。水をそのまま飲む方がお腹を壊すので、ぶどう酒で殺菌したものを使っていたのだそうです。ですからイエスが「わたしの血による新しい契約です」と仰ったのも、今のような酔っ払うお酒ではないし、高級なワインで盛り上がったのでもありません。ところが、教会ではワインはイエスの血を表す恭しいものなのだから、と高級な葡萄酒を造る技術を開発して、どんどんアルコールの強いお酒が造られるようになっていきました。一方で、葡萄はすぐに発酵してしまうので「葡萄はワインにしかならない」とずっと考えられていました。でも礼拝には子どももいます。お酒に弱い人、アルコール依存症の方もいます。そういう人にはワインは困ります。「アルコールなしの葡萄の飲み物も出来ないか。教会で、アルコールの入らないワインで聖餐式が出来ないか」と考え出されたのが、アメリカでウェルチさんが造った葡萄ジュースなのだそうです。ですから、私たちの教会でも、安心して葡萄ジュースを使って、聖餐式をしています。

 ワインかジュースか、よりも大事なのは、一つの杯です。イエスは杯を指して「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました。イエスが私たちのために血を流されたのは、私たちに新しい契約を下さるためでした。それは、主にあって一つとされるつながりです。イエスが主の食卓に私たちを招かれ、一つのパンを食べ、一つの杯をのみ、一つの食卓を囲む。それこそ、主が覚えさせてくださる新しい契約なのです。

 もともと主の聖餐式は、一つの杯を回し飲みしていました。今でも、一つの杯から回し飲みしている教会もあります。次の人に回す前に、自分ののんだ所を布で拭いています。でも、それでも嫌だという人も多くなって、今は小さな器に分けています。それはそれで無理は出来ないのですが、本当は一つの杯を分け合い、一つのパンを分け、一つの食卓に着く。自分だけでなく、あの人もこの人も、苦手な人も言葉が通じない人も、皆がイエスの食卓に一緒に招かれて、神との交わりに入れられている。その大きな恵みの契約に入れられていることを覚えるのが、主の食卓を囲む聖餐式なのです。

問140 聖餐式にあずかるのはだれですか? 答 罪を悔い改め、キリストに信頼し、神の子にふさわしい生活を送り、教会において信仰を告白したものです。

 私たちは今まだ、罪を持っています。神の御心に反し、人や自分を傷つける罪の中に生きています。ですから罪を犯さないことは出来ません。神の子にふさわしい生活とは、罪がない立派な生き方ではありません。神の子に相応しい生活とは、悔い改めと信頼です。イエスの前に正直で、罪を正直に認め、お互いにも赦し合い、主の食卓を真ん中において行く生活です。それを覚えるためにも、教会の中心には、主イエスの食卓があります。礼拝とは、この聖餐式が中心にある時間です。イエスの食卓に私たちが一緒に招かれている。パンと杯がなくても、聖書を通し、賛美や説教を通して、有り難い恵みを一緒に戴くのです。そうして神を賛美して、命を戴き、派遣されて行くのです。

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