聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/26 創世記3章1~13節「エデンの園の後」ニュー・シティ・カテキズム14

2020-01-26 16:44:05 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/26 創世記3章1~13節「エデンの園の後」ニュー・シティ・カテキズム14

 聖書は、神がこの世界をお造りになったと語り始めます。神がこの世界を造られ、すべてを手の中に包んでいおられるのです。それとともに、今読んだように、
12こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった…
 神が作られた世界に、一人の人、最初の人が罪を持ち込んで、この世界に罪と死が広がっている事実も聖書は教えています。それは、創世記の3章に書かれている物語です。
 神が作られた世界は、最初、罪が入っておらず、最初の人、アダムとエバは神を親しく知り、心から神を愛し、神と共に生きていました。置かれた場所はエデンと呼ばれる園(庭)で、見ても麗しく、食べても美味しい、すべての木々を生えさせていました。そして、神は人が神の栄光を現すために、エデンの園(森?)の管理をさせて、その木々の果樹を楽しむように言われていました。そして、一つだけ、園の中央にある「善悪の知識の木」からは食べてはならない、という約束をされていました。
 そこに、ヘビがやって来て、女に言いました。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」
 いいえ、神は「どの木からも取って食べてよいが、善悪の木からだけは食べてはならない」と言われていたのです。ヘビの言い方だと、神はとてもケチで、冷たい方のようですね。女は言いました。
「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と神は仰せられました。」
と。神は「食べたら死ぬから」「触るだけでも死ぬかもしれないから」という理由ではなく、「食べてはならない」と言っていたのですが、誤解していました。その所につけ込んで、ヘビは女に言ったのです。
「あなたがたは決して死にません。それを食べるその時、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」
そう言って、消えてしまうのです。
 さあ、そう言われて、木を見てみると、その木は食べるのに良さそう、見るからに美味しそう、賢くしてくれそうに思えてきました。それで女はその実を取って見ました。まだ食べてはいません。でも「触ってもいけないと思っていたけれど、なんだ、大丈夫じゃない」と思ったかも知れませんね。取って大丈夫なら、食べてもいいじゃない、少しぐらい、と思ったかも知れません。そして囓ったら、あら大丈夫。一緒にいた夫アダムにも与えました。アダムは、「それは神との約束を破ることだからダメだよ」「僕は食べない」「神が仰ったのは『死ぬといけないから触るな、じゃなくて、食べない』という約束だったよ」とは言ったんでしょうか、言わなかったんでしょうか。どちらにしても、アダムも食べてしまったのです。すると、二人は目が開けました。今まで見えなかったものが見えるようになりました。ヘビの言った通りです。しかし、ヘビが言ったように神のようになったでしょうか。いいえ、二人は自分が裸の人間であることが見えただけでした。神のようにはならなかった。嘘をついたのは、神ではなく、蛇でした。
 二人は自分たちの間違いを認めて、神にゴメンナサイ、約束を破りました、と謝ることはしませんでした。イチジクの葉っぱを綴り合わせて腰の覆いを作り、裸を隠しました。神が二人に呼びかけても、「そうですゴメンナサイ」と言ったでしょうか。いいえ、アダムは
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」
と言いました。自分が悪いんじゃない、女がくれたんだ。その女を作ったのはあなたじゃないですか、と神のせいにするようですね。主は女に言いました。
「あなたは何と言うことをしたのか」
 女は「ゴメンナサイ、私が神様を疑ったのです」と言ったでしょうか。いいえ、
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました」
と言ったのです。こうして、二人はエデンの園にいることが出来なくなりました。神と一緒に生きることの出来ない心になったのです。
 多くの物語が、世界に問題が入った原因を説明します。最初は良い関係があったのに、悪い考えにたぶらかされた。疑う心を吹き込んで、裏切らせた。そういうお話しもあります。

 それは聖書にあるお話しに近いもので、聖書から引っ張ってきたとも言えますね。「あいつらを信じたらダメだ、お前はもっと強くなれる、私の言う通りにした方がいい」そんな声を信じたのが、破壊の始まりになった、というのは聖書とソックリです。神を信じて約束を守ることを捨てて、神に背を向けた時、人は嘘や胡麻菓子、責任転嫁を始めました。人間同士の関係も、愛して信頼するよりも、疑ったり傷つけたり利用しようとしたりするようになりました。だから、今も人は神の善い命令に従えないのです。
第十四問 神は私たちを神の律法が守れないように創造されたのですか?
答 いいえ、しかし私たちの最初の祖先であるアダムとエバの不従順によって、全ての被造物が堕落し、私たちは全て、罪と罪悪を持って生まれ、私たちの本質は腐敗しており、神の律法を守ることは出来ません。
 神は、人間を神の律法を喜んで守れるように作られました。本来私たちは、神の言葉に喜んで従っていけたのです。ところが、神との信頼を捨てたとき、人の心に罪が入り、神の律法を守る事も出来なくなりました。十戒に示された、神を神とし、互いに大切にすることが出来なくなってしまったのです。世界には罪が入ってきました。この出来事を「堕落」と呼びます。エデンの園で幸せだった人間は、堕落した後、神との関係が壊れた罪、また心の中の悲惨な罪悪を産まれながらに持っています。だから私たちは神の律法を守れないのです。これが、聖書の人間理解です。しかし、それでは終わりません。
 創世記3章は始まりに過ぎません。神はエデンから追い出して終わりとはしなかった。その人間のため、神の子キリストが私たちを回復し、神を信頼する関係を取り戻して下さる。私たちが神をもう一度信頼するようイエスが来て下さって、今もともにいて、やがて完成してくださる。それが、エデンの後も続く、聖書の大きなストーリーなのです。
「憐れみ深い主よ。私たちは根っこから汚れている者です。第一のアダムの子孫として産まれた私たちは、あなたの禁じられるものを求めてしまいます。どうか、第二のアダムであるキリストのうちに、私たちを新しく生まれ変わらせ、新しく造り変えてください。そして、聖霊の力によって、あなたの戒めに従うことができますように。アーメン」
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2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる 一書説教レビ記」

2020-01-26 16:09:44 | 一書説教
2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる」
 今日の一書説教は「レビ記」です。旧約聖書でも生贄儀式の事細かな方法を延々と述べる書。1~7章が「全焼のささげ物」「穀物のささげ物」や「交わりのささげ物」「罪のきよめのささげ物」「代償のささげ物」の五つのささげ物の捧げ方を記します。次の8~16章は、祭司の任職、食べて良い動物、体や家に現れる「汚れ」や、「贖いの日」の儀式のこと。続く、17~22章は偶像崇拝や姦淫など道徳的な規定。最後23~27章は「安息」の時、という流れです。
 とはいえ、私たちには三千年も前の、遊牧や農耕の社会で書かれたものです。回りくどいし、グロテスクで難解です。私は以前、「今ここに書かれた儀式から解放されていて、感謝します」という読み方で閉じていました。ある意味ではそうです。「レビ」は、イスラエル12部族の一つ「レビ部族」で、その中から大祭司となるアロンの家が選ばれ、レビ部族は祭司をサポートする大事な働きをしました。幕屋の仕事の管理などを請け負ったのです。ですから、そういう細かなことはレビ部族にお任せして、私たちには関係がないと思いたくなります。ところが、レビ記の中心はレビ人ではなく、民全体です[1]。元々の書名は、1章1節の
「主はモーセを呼び」
とある「そして呼んだ」という言葉。神の「呼びかけ」の書です。ある古代訳では本書タイトルは「本the book」。創世記や出エジプト記に匹敵する、特別重要な書なのです[2]。主イエスがおいでになった後、教会が新約聖書を持つには何十年とかかりました。教会が最初に携えたのは、旧約聖書でした。イエスの福音を知らせるために、旧約聖書を開いたのです。レビ記もその一つでした。レビ記は「イエスが来られたので、もう要らなくなった」書ではなく、レビ記を読めば、イエスが分かる、という内容です。そういう読み方をしたいと願います。
 そもそもレビ記は「出エジプト記」の後にあります。神が、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を、力強く救い出してくださった救出が先にありました。新しく救われた民として、これからどのように歩んで行くのか。ここには事細かな規定がびっしり書かれています。それは、今まで奴隷であって、生活のリズムも文化も習慣も全くない民に与えられた、新しい生活の形でした。その中心は生贄やささげ物の儀式ですが、それも彼らの信仰を形作る儀式でしたし、それ以外のきよめや汚れ、年中行事も実に配慮に満ちた儀式だったのです[3]。私たちは神によって救われただけでなく、神の民となったのです。それは礼拝だけでなく、食事や夫婦生活、冠婚葬祭や病気、貧困への対処、時間の過ごし方など、全生活におよぶ変化をもたらすと、レビ記は教えているのです。今の私たちには理解しがたいとしても、当時の人々にとっては、この生活や儀式、動物を屠ったり儀式をすることは大事な生活の型だったのです。
 その中でも今日読みました、19章は「神聖法典」と呼ばれている、ハッキリした章です。
2イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。3それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 神が聖なるお方だから、あなたがたも聖なる者となれ。これがレビ記の中心メッセージなのです。そしてその「聖」とは世捨て人のようになるのではありません。自分の親を心から大事に思う。また安息日に休む。そういう、今ここでの生き方なのです。また、9節には、
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。10また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
という貧しい人への配慮も「聖」の一面です。14節には、
あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。
という配慮も命じられています。この他沢山の行き届いた配慮が命じられます。そして18節、
18あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
 イエスは
「最も大切な戒めは何ですか」
と問われた時に、このレビ記19章18節から
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
を引用したのです[4]。レビ記は、イエスが引用された最も大事な戒めを語っている書です。その他の儀式や戒めも、ここを目指しているのです。
 しかし、このイエスの言葉がルカ10章では
「良きサマリヤ人」
の例えに繋がりました[5]。強盗に襲われて倒れた旅人を、同胞のユダヤ人ではなく、敵対していたサマリヤ人が近寄って助けた、というあの有名なお話しです。あの話で、先に通りかかったのに、反対側を通って知らぬふりをした一人が「レビ人」でした。「レビ記」と聞いて、まずあの「良きサマリヤ人」の話を思い出す方もいるかもしれません。礼拝の儀式に仕えるだけで、心の冷たいいけ好かない人…。レビ人もレビ記もそんな嫌な色で読まれているかもしれません。
 しかしレビ記の本来のメッセージは真逆です。礼拝儀式だけではなく、全生活が神の前に生きる、聖なるもの、憐れみ深いものとなることを求めています。そのためにこそ折々に生贄を捧げました。1章の
「全焼のささげ物」
 動物を丸ごと焼き尽くす生贄は、神の民が自分を完全に神にお献げする「献身」を現しました。私たちは神のもの。神の民。そのことを確認する「全焼のささげ物」が、レビ記の最初です。その後4章に
「罪のきよめのささげ物」
が出て来ます。罪を犯したことに気づいたなら、牛や羊を捧げたのです[6]。動物をささげることで神の怒りを逃れる、のではないのです。神が、人に罪を手放させて、赦しと和解をシッカリと受け取らせるために、「罪のきよめのささげ物」という儀式を与えてくださったのです。人は、この儀式を通して、神の赦しの恵みを全身で受け取り、「あなたの罪は赦された」という祭司の宣言を聞いたのです。
 礼拝の聖餐式を思い出してください。聖餐を通して、私たちはイエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂かれ血を流されたことを覚えます。聖餐を通して、神の愛、罪の赦し、キリストの苦しみ、そして私たちが神の民である事を覚えます。聖餐の儀式で罪が赦されるでも、聖餐をしなければ罪が赦されないでもなく、聖餐を通して、神が私たちに神の側からの犠牲によって、私たちが赦され、新しい歩みへと呼ばれたことを思い出す。
 長老教会が採用した新しい式文も、世界の多くの教会の式文も「罪の告白と赦しの宣言」という部分を礼拝の最初に設けています。静まって自分の罪を告白し、赦しの確証の御言葉を聞くのです。これも「まだ神が、私たちの罪を怒っているから、告白をして赦して頂かなければ」ではないのです。神は既にイエス・キリストによる完全な罪の赦しと、新しく永遠の関係を下さっています。なのに、それを忘れて思い上がったり、「まだ赦されていないんじゃないだろうか、自分はダメなんじゃないだろうか」と重荷を自分で負おうとしてしまったりする私たちです。その私たちが自分の罪の重荷や恵みならざる重荷を手放すために、また互いに責める事を止めるために、罪の告白の祈りをともに祈り、赦しの言葉をもう一度ハッキリと聞くのです。
 レビ記でも、神は儀式や律法を通して、新しい生き方を民に身につけさせようとされました。私たちはそこに秘められていた本当の生贄、神の子キリストの献身を知っています。それだけでなく、時代や文化も全く違う今の私たちが、ここにあることをそのまま真似る必要はありません。それでも、今ここで、私たちが神のものとされた民として生きる。いつも主を礼拝し、全生活を神の前に生きている神の民として生きる。神が備えてくださった赦し、恵みを受け取って生きる。そして、隣人を自分自身のように愛するよう呼ばれていることは同じなのです。
ローマ12:1ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 ではレビ記の時代と違う今、私たちが、どのように生きることが「聖なる生き方」なのか、具体的には、このローマ書12章3節以下に書かれています。レビ記も、聖書全体も読みながら、神を礼拝する歩みをさせていただきましょう。

「聖なる主よ。あなたは恵みによる人生を人に備え、キリストの命による罪の赦しと新しい歩みを下さいました。どうぞ全生活の中に主の招きを聞かせてください。理解の難しいレビ記を通しても、生々しいほどのあなたの恵みに気づかせてください。そうして、私たちがあなたのものとして、悔い改めと赦し、礼拝と交わりを心からともにする、聖なる集いとしてください」



[1] レビ人に言及するのは、25章32、33節だけなのです。「レビ人の町々、すなわち彼らが所有している町々の家については、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33レビ人が買い戻すものに関しては、彼の所有地の町で売られた家はヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエルの子らの間にあって彼らが所有するものだからである。」むしろ、「民数記」の方が「レビ人」の働きを規定していて、名前が入れ替わった方がよいぐらいです。
[2] Nobuyoshi Kiuchi, Leviticus, (Apollo’s Old Testament Commentary, IVP, 2007). p.15. 木内伸嘉氏の本書は『レビ記』注解として最も参考にしている書です。オススメです。
[3] そしてそれは、やがて来られる本当の大祭司であり生贄である、イエス・キリストを証しするものでした。
[4] マタイ22章35~40節「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」、マルコ12章28~34節も。
[5] ルカ10章25~37節「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「あなたの答は正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」29しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」30イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。35次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。』36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」37彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
[6] それは、神がやがてイエスを私たちの罪をきよめるため、十字架に命をささげてくださることを表していました。

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2020/1/19 ローマ書3章10~21節「律法の光の先に」ニュー・シティ・カテキズム13

2020-01-19 20:58:47 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/19 ローマ書3章10~21節「律法の光の先に」ニュー・シティ・カテキズム13

 聖書のマルコの福音書10:17以下に、こんなお話しがあります。イエスの所に一人の青年がやってきました。そしてイエスに言いました。「先生、永遠のいのちを持つためには何をしたらよいですか?」するとイエスは言いました。「戒めはあなたも知っているはずです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え」。すると青年はイエスに言いました。「先生、私は少年のころから、それらすべてを守ってきました!」。人を殺したこともないし、姦淫や盗み、偽りの証言も、騙し取ることもしかし、イエスはそういう青年をじっと見つめて、慈しんで言われました。
「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、わたしに従って来なさい」。
 すると、青年はどうしたでしょう。彼は、この言葉に顔を曇らせ、悲しみながら、立ち去ったのです。なぜなら、彼は多くの財産を持っていました。それをすべて売り払って貧しい人たちに与えるなんてことは、とても出来なかったからです。イエスは、悲しんで立ち去る青年の背中を、見送りながら、「富を持つ人が神の国に入るのは、なんと難しいことだろうか」と仰ったのです。
 この青年は、自分は神の戒めを守っていると思っていました。お金持ちで安全な生活が出来て、戒めを破らなくて過ごせていたかもしれません。イエスはそれを聞いて、「あなたは頑張っているね。立派だなぁ。あなたのような正しい人は、そのままで神の国に行けるよ」とは仰いませんでした。むしろ、彼をじっと見つめて、自分の愛のなさに気づかせるのです。「戒めを守ってきました」という答は、違いました。誰も「私は戒めを守ってきました」と言うことの出来る人はいません。私たちには、神の戒めを完全に守ることは出来ません。この事を今日は覚えましょう。
第十三問 誰か、この神の律法を完全に守ることができる人はいますか?
答 堕落の後、神の律法を完全に守ることは誰にも出来ず、思いによって、言葉によって、行いによって絶えず破っています。
 神の戒め、十戒を、4回に分けて見てきました。私たちが、神以外のものを神としないこと、人を大切にすることを、神は人に命じられました。けれども、それを完全に守れる人は一人もいません。それどころか、私たちは戒めを絶えず破っているのです。「守っています」などとは言えないのです。
 「思いによって」とは、私たちの考えで、人を憎んだり人の物を自分の物にしてしまったりするということです。神様が教えて下さったように、人のことも自分と同じように大切に思うよりも、「いい気味だ」「畜生」「ざまあみろ」「あいつは頭が悪い」。そんな考えを持っているのです。
 「言葉によって」もです。人の事を罵る、傷つける、悲しませる言葉を私たちは言ってしまいます。自分が言われたらとても悲しくて、耐えられない言葉を、人に話してしまうことがあります。冗談を言ってから、「しまった、あんな事をいうんじゃなかった」と思っても、もう遅かった、という経験をします。大人になってもです。
 そして、「行いによって」実際に、私たちは、人を傷つけたり、イジワルをしてしまったり、人のイジメを見て見ぬふりをして止めなかったり、良かれと思って人の心を踏みつけてしまっています。思いによって、言葉によって、行いによって、私たちは律法を破ってしまうのです。
 この後、来週以降
第14問 神は私たちを神の律法が守れないように創造されたのですか? 第15問 誰も神の律法を守れないのであれば、律法の目的は何ですか? 第16問 罪とは何ですか? 第17問 偶像礼拝とは何ですか? 第18問 神は私たちの不服従と偶像礼拝を罰せずにおられますか? 第19問 罰から逃れ、神の好意を頂く方法はありますか?
をお話ししていきます。ですから今は「なぜ律法が与えられたのか」という話ではなく、私たちは律法を守れないのだ、ということ一つのことを心に深く覚えたいと思います。神が下さった尊い律法を学んできましたが、それを知っても、私たちは律法を守ることは出来ません。イエスに「私は戒めを守っている」と胸を張った青年と同様、私たちは自分が律法を守っているなどとは、恥ずかしくて言えません。勿論、大きな罪を堂々と重ねている人と、精一杯正しく生きようとして、それでも罪を犯さずにはおれない人とが同じなわけではありません。正しく生きようとすることは無駄ではなく、価値あることです。「何をやっても同じ」なはずがありません。しかし、私たちが、神の律法を守ることで、救われる、とは聖書の教えではありません。むしろそれは誰も出来ない、ということを教えるのです。ローマ3章は、こう並べています。
10…「義人はいない。一人もいない。11悟る者はいない。神を求める者はいない。…15「彼らの足は血を流すのに速く、16彼らの道には破壊と悲惨がある。17彼らは平和の道を知らない。」18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 律法を守れる人はいません。律法という光は、自分が神の戒めを、思いにおいても言葉においても行いにおいても守れない、原罪があることを知らせてくれるのです。
 小説『氷点』は、クリスチャン作家の三浦綾子さんのデビュー作。今まで何度もドラマになっている有名な作品です。医者とその家族が主人公ですが、その娘が誘拐されて殺されてしまう。そこに迎えられた養女が、明るい心の持ち主なのですが、その子を巡って、誰もが正しく生きることが出来ない。人は真っ直ぐに生きたいけれど、心の奥深くに罪がある。愛をもって、正しく生きたいけれども、その心が氷ってしまう「氷点」がある、というタイトルです。

 このお話しが、日本に「キリスト教の原罪」というテーマに市民権をもたせたとも言えます。それでもただ暗い小説ではありません。人が罪を持っていることを認めて、誰も他の人を裁けないし、自分でも自分を裁いたり、良く見せようとすることを止めて、赦されている生き方を始めていく話です。律法は人が律法を守れないことを照らす光です。しかし、その光の先にこそ、神の恵みが見えるのです。

「聖なる神よ、私たちが自分の思うままに生きるとしたら、すべての行動が主の律法に背いているでしょう。私たちはあなたの裁きの御座の前で、自分の罪深さを認めるほかありません。あなたの律法は私たちを有罪とし、義しい者のように振る舞うことを許しません。私たちは心から救い主を必要としているのです。アーメン」
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2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」

2020-01-19 20:51:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」
 「主の祈り」の願いの最初を見ます。文語文では
「御名を崇めさせ給え」
でした。新しい訳文では「崇める」の意味合いが
「聖なるものとされる」
だとハッキリしました。今でも聖書の言葉の翻訳は悩ましい努力が重ねられていますが、日本にキリスト教が入ってきた頃はもっと手探りだったでしょう。現在ではカトリックや聖公会、多くの教会が現代文で「主の祈り」を祈るようになりました。ここも
「御名が聖とされますように」
と祈る。「聖holy」という言葉が以前よりも浸透してきたのかもしれません。「聖」は説明も理解も不十分にしか出来ない言葉ですが、ただ「崇める」よりももっと深い、真実な願いが、ここで口にされているのです。
 また、イエスはこのように願う道を示されました。「御名を崇めさせ給え」と祈り始める時、なんとなく前口上のような意識がないでしょうか。礼儀作法として「神様、私たちに御名(あなたのお名前)を崇めさせてくださいませ」と述べておく。まず謙虚に神を持ち上げておいて、それから自分たちの本題に入っていく。そんな理解を長く私はしていたように思います。そんなおべっかが神との関係にも必要なように誤解していました。「主の祈り」を思い巡らすうち、そうではないと気づきました。イエスは、私たちの祈りの言葉だけでなく、私たちの願いとか心、神との関係そのものを新しくしてくださいました。「主の祈り」が教えるのも、祈りの方法というより、私たちの心の願いそのものの刷新です。「主の祈り」は「軌道修正の祈り」です。私たちの祈り、願いや妄想、心の思いそのものを整えます。まず
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかける事自体が、神への信頼を思い出します。自分が孤独ではない、神の子どもであることに立ち返り、ともに神を「父」と呼ぶ大勢の人がいることを思い出します[1]。次に
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、私たちの第一の願いが、自分の願いや名前でなく、神の御名になるのです。自分の面子(めんつ)とか名誉とか何かに心が掻き乱されやすい私たちが、
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、心が「自分」から「天の父」に引き上げられます。自分がどうされるかで汲々としてしまうことから、天の父の偉大さ、恵み深さを見上げて、信頼し、自分を手放すことが出来ます。大きく息をつくことが出来るのです。
 御名とは祈る相手の神の御名前ということです。しかし、改めて「主の祈り」を見ますと、ここには「神」という言葉はひと言も出て来ません。神の御名が聖とされることではあるのですが、その神に向かって「神よ」でなく「天にいます私たちの父」と呼びかけ「あなた」と呼びかける祈り。言わば「御名」とは他でもなく「天にいます私たちの父」という名です。イエスが来る前ならそれこそ「御名を冒涜する」と言われるようなそんな親しい呼びかけがイエスを通して私たちに与えられました。その御名が、聖とされますように、とも言えます。
 「聖」について、いくつもの説明があります。罪がないこと、という説明もあります。それも一面です。区別されること、という説明もよくされます。それもとても大事な一面です。しかしそれ以上に聖の本質に迫っているのは、完全なあわれみ、惜しみない愛です[2]。言うなれば、永遠の神であり、罪も闇もないお方が、私たちのために「天にいます私たちの父」となってくださった、この御名こそ「聖なるものとされますように」と願われるに相応しい名です[3]。
 旧約聖書の時代、イスラエル民族がエジプトの奴隷生活から解放されて、神の民として歩み出した時、主はイスラエルの民に聖なる律法を与えました。この「聖なる」というのも、罪を犯さない、とも言えますが、「完全な憐れみに満ちた」というイメージの方がいいでしょう。その時も、神はイスラエルの民に、御名を汚さないように言われていました。
レビ記22:31「あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。32わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
 しかし、イスラエルの民の歩みは、神の律法から外れて、神の民とは名ばかりの裏表や打算、利得を追い求めてしまいました。それは主の御名を汚すことでした。それに対して、神は忍耐に忍耐を重ねた末に、最後はバビロン捕囚という裁きを通らされます。その理由は、彼らが主の御名を汚したから、でもありました。神の御名を崇めてはいても、その神を小さく考えて、自分の欲望や狭い了見で生きている。その行き着いた所が、バビロン捕囚や各地への離散でした。しかし、その追いやられた先で、預言者エゼキエルはこのような主の言葉を告げます。
エゼキエル36:20彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。21わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。
 ここでは、主の民が主の国から追い出された、と笑われて終わっていることが、御名を汚していること、聖なる名が汚されていることだと言われているのですね。エゼキエルは続けて、
22…イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る…。
24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
25…わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。[4]
 主が、散らされた民を導き出し、連れ帰って、新しい心を与え、主の掟に従って生きるようにする、と仰います。それが
「主の大いなる名が聖であることを示す」
御業なのです。ただ「神の民の罪を容赦しない」とか「御名に泥を塗る者を罰する」聖ではありません。口では神を崇めても心では見くびっていたり、現実を見て「神がいても大したことはない」と思ったりしている人間たちが思いもしないことを神はなさる。神の憐れみは限りなくて、御名を貶める人々の生き方を新しくし、心から神を誉め称えずにはおれないようになさる。「御名が聖とされますように」とは、主ご自身が旧約の歴史を通して約束されていた御業の成就です。[5]
 そこには、聖なる主が、私たちの心をも憐れみに満ちた心に変える御業が必要です。神が私たちをも聖なる心へと変えてくださらなければ無理です。そして、主は変えてくださいます。新約では、御名が聖なるものとされる、という言い方は「主の祈り」だけで、その他はすべて、神が聖なるものとするのは、人や教会です[6]。神のように聖なる憐れみは神だけのものですが、私たちがその神に触れるとき、私たちもその聖さに感染して変えられる。主の憐れみを心から信頼するように少しずつ少しずつされていく。神が「天にいます私たちの父」となってくださった憐れみを味わい感謝する。そして、痛みや涙の多く、神の憐れみなど信じられない出来事がある中で、神が天の父として私にもすべての人にも、恵みを惜しみなく現されることを期待する。そして、私たちの受け止め方や心も主が変えてくださって、自分の名誉や願いよりも主を誉め称える心を下さるように願い、自分を献げるようになる。それが聖なる主の御業です。
 その第一歩が、自分の願いに先立って、御名のために祈る「主の祈り」です。どうぞ主の祈りを祈ってください。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」とだけでもよい。毎日、この短い祈りを、ゆっくり祈る習慣を第一歩としてみましょう。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。様々な願いや求めがすべて包み込まれて賛美に至るような、聖なる憐れみで私たちを癒やしてください。またそれを喜び、御業を賛美する私たちとして聖めてください。御子イエスが、私たちをあなたの子としてくださった測り知れず力強い恵みの御業に全ての人を慰め、世界を聖なる賛美で満たしてください」

[1] これは、前回お話ししたことです。2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」
[2] 参照、ホセア書11章7 ~9節「わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。8エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ(原語:だからだ)。わたしは町に入ることはしない。」
[3] この原稿を書いた後、読んだ二つの記事から、「聖」に通じる文章がありました。「神様のみ心は、私たちの心の奥底にある損得勘定のない純粋な願いである」(『ミニストリー』、2019年12月号、61頁。)「何ができるかといった思いからも解放されることが、神さまへの最後の奉仕なのかもしれません」(『信徒の友』、2020年1月号、17頁)。
[4] この段落の全文は次の通り。エゼキエル書36章21~27節「わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。22それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る──神である主のことば──。24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」
[5] 他にもイザヤ書20章39節「さあ、イスラエルの家よ、神である主はこう言われる。それぞれ自分の偶像のところに行って仕えるがよい。後には必ず、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と、自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。」、同29章22節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。23彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。」
[6] ヨハネの福音書17章17節「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」19節「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」、使徒の働き20章32節「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」、26章18節「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」、ローマ書15章16節「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」、Ⅰコリント1章2節「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」、7章14節「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」、エペソ書5章26節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」、Ⅰテサロニケ5章23節「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」、Ⅰテモテ4章5節「神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」、ヘブル書2章11節「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、9章13-14節「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」、10章10節「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」、14節「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」、「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。」、13章12節「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」、Ⅰペテロ3章15節「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」、ヨハネの黙示録22章11節「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
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2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」

2020-01-19 20:51:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/1/19 マタイ伝6章9節「御名が聖とされますように」
 「主の祈り」の願いの最初を見ます。文語文では
「御名を崇めさせ給え」
でした。新しい訳文では「崇める」の意味合いが
「聖なるものとされる」
だとハッキリしました。今でも聖書の言葉の翻訳は悩ましい努力が重ねられていますが、日本にキリスト教が入ってきた頃はもっと手探りだったでしょう。現在ではカトリックや聖公会、多くの教会が現代文で「主の祈り」を祈るようになりました。ここも
「御名が聖とされますように」
と祈る。「聖holy」という言葉が以前よりも浸透してきたのかもしれません。「聖」は説明も理解も不十分にしか出来ない言葉ですが、ただ「崇める」よりももっと深い、真実な願いが、ここで口にされているのです。
 また、イエスはこのように願う道を示されました。「御名を崇めさせ給え」と祈り始める時、なんとなく前口上のような意識がないでしょうか。礼儀作法として「神様、私たちに御名(あなたのお名前)を崇めさせてくださいませ」と述べておく。まず謙虚に神を持ち上げておいて、それから自分たちの本題に入っていく。そんな理解を長く私はしていたように思います。そんなおべっかが神との関係にも必要なように誤解していました。「主の祈り」を思い巡らすうち、そうではないと気づきました。イエスは、私たちの祈りの言葉だけでなく、私たちの願いとか心、神との関係そのものを新しくしてくださいました。「主の祈り」が教えるのも、祈りの方法というより、私たちの心の願いそのものの刷新です。「主の祈り」は「軌道修正の祈り」です。私たちの祈り、願いや妄想、心の思いそのものを整えます。まず
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかける事自体が、神への信頼を思い出します。自分が孤独ではない、神の子どもであることに立ち返り、ともに神を「父」と呼ぶ大勢の人がいることを思い出します[1]。次に
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、私たちの第一の願いが、自分の願いや名前でなく、神の御名になるのです。自分の面子(めんつ)とか名誉とか何かに心が掻き乱されやすい私たちが、
「御名が聖なるものとされますように」
と祈る時、心が「自分」から「天の父」に引き上げられます。自分がどうされるかで汲々としてしまうことから、天の父の偉大さ、恵み深さを見上げて、信頼し、自分を手放すことが出来ます。大きく息をつくことが出来るのです。
 御名とは祈る相手の神の御名前ということです。しかし、改めて「主の祈り」を見ますと、ここには「神」という言葉はひと言も出て来ません。神の御名が聖とされることではあるのですが、その神に向かって「神よ」でなく「天にいます私たちの父」と呼びかけ「あなた」と呼びかける祈り。言わば「御名」とは他でもなく「天にいます私たちの父」という名です。イエスが来る前ならそれこそ「御名を冒涜する」と言われるようなそんな親しい呼びかけがイエスを通して私たちに与えられました。その御名が、聖とされますように、とも言えます。
 「聖」について、いくつもの説明があります。罪がないこと、という説明もあります。それも一面です。区別されること、という説明もよくされます。それもとても大事な一面です。しかしそれ以上に聖の本質に迫っているのは、完全なあわれみ、惜しみない愛です[2]。言うなれば、永遠の神であり、罪も闇もないお方が、私たちのために「天にいます私たちの父」となってくださった、この御名こそ「聖なるものとされますように」と願われるに相応しい名です[3]。
 旧約聖書の時代、イスラエル民族がエジプトの奴隷生活から解放されて、神の民として歩み出した時、主はイスラエルの民に聖なる律法を与えました。この「聖なる」というのも、罪を犯さない、とも言えますが、「完全な憐れみに満ちた」というイメージの方がいいでしょう。その時も、神はイスラエルの民に、御名を汚さないように言われていました。
レビ記22:31「あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。32わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
 しかし、イスラエルの民の歩みは、神の律法から外れて、神の民とは名ばかりの裏表や打算、利得を追い求めてしまいました。それは主の御名を汚すことでした。それに対して、神は忍耐に忍耐を重ねた末に、最後はバビロン捕囚という裁きを通らされます。その理由は、彼らが主の御名を汚したから、でもありました。神の御名を崇めてはいても、その神を小さく考えて、自分の欲望や狭い了見で生きている。その行き着いた所が、バビロン捕囚や各地への離散でした。しかし、その追いやられた先で、預言者エゼキエルはこのような主の言葉を告げます。
エゼキエル36:20彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。21わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。
 ここでは、主の民が主の国から追い出された、と笑われて終わっていることが、御名を汚していること、聖なる名が汚されていることだと言われているのですね。エゼキエルは続けて、
22…イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る…。
24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
25…わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。[4]
 主が、散らされた民を導き出し、連れ帰って、新しい心を与え、主の掟に従って生きるようにする、と仰います。それが
「主の大いなる名が聖であることを示す」
御業なのです。ただ「神の民の罪を容赦しない」とか「御名に泥を塗る者を罰する」聖ではありません。口では神を崇めても心では見くびっていたり、現実を見て「神がいても大したことはない」と思ったりしている人間たちが思いもしないことを神はなさる。神の憐れみは限りなくて、御名を貶める人々の生き方を新しくし、心から神を誉め称えずにはおれないようになさる。「御名が聖とされますように」とは、主ご自身が旧約の歴史を通して約束されていた御業の成就です。[5]
 そこには、聖なる主が、私たちの心をも憐れみに満ちた心に変える御業が必要です。神が私たちをも聖なる心へと変えてくださらなければ無理です。そして、主は変えてくださいます。新約では、御名が聖なるものとされる、という言い方は「主の祈り」だけで、その他はすべて、神が聖なるものとするのは、人や教会です[6]。神のように聖なる憐れみは神だけのものですが、私たちがその神に触れるとき、私たちもその聖さに感染して変えられる。主の憐れみを心から信頼するように少しずつ少しずつされていく。神が「天にいます私たちの父」となってくださった憐れみを味わい感謝する。そして、痛みや涙の多く、神の憐れみなど信じられない出来事がある中で、神が天の父として私にもすべての人にも、恵みを惜しみなく現されることを期待する。そして、私たちの受け止め方や心も主が変えてくださって、自分の名誉や願いよりも主を誉め称える心を下さるように願い、自分を献げるようになる。それが聖なる主の御業です。
 その第一歩が、自分の願いに先立って、御名のために祈る「主の祈り」です。どうぞ主の祈りを祈ってください。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」とだけでもよい。毎日、この短い祈りを、ゆっくり祈る習慣を第一歩としてみましょう。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。様々な願いや求めがすべて包み込まれて賛美に至るような、聖なる憐れみで私たちを癒やしてください。またそれを喜び、御業を賛美する私たちとして聖めてください。御子イエスが、私たちをあなたの子としてくださった測り知れず力強い恵みの御業に全ての人を慰め、世界を聖なる賛美で満たしてください」

[1] これは、前回お話ししたことです。2020/1/12 マタイ伝6章9節「天にいます私たちの父よ」
[2] 参照、ホセア書11章7 ~9節「わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。8エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ(原語:だからだ)。わたしは町に入ることはしない。」
[3] この原稿を書いた後、読んだ二つの記事から、「聖」に通じる文章がありました。「神様のみ心は、私たちの心の奥底にある損得勘定のない純粋な願いである」(『ミニストリー』、2019年12月号、61頁。)「何ができるかといった思いからも解放されることが、神さまへの最後の奉仕なのかもしれません」(『信徒の友』、2020年1月号、17頁)。
[4] この段落の全文は次の通り。エゼキエル書36章21~27節「わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。22それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。23わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る──神である主のことば──。24わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」
[5] 他にもイザヤ書20章39節「さあ、イスラエルの家よ、神である主はこう言われる。それぞれ自分の偶像のところに行って仕えるがよい。後には必ず、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と、自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。」、同29章22節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。23彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。」
[6] ヨハネの福音書17章17節「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」19節「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」、使徒の働き20章32節「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」、26章18節「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」、ローマ書15章16節「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」、Ⅰコリント1章2節「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」、7章14節「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」、エペソ書5章26節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」、Ⅰテサロニケ5章23節「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」、Ⅰテモテ4章5節「神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」、ヘブル書2章11節「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、9章13-14節「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」、10章10節「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」、14節「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」、「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。」、13章12節「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」、Ⅰペテロ3章15節「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」、ヨハネの黙示録22章11節「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
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