聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書21章1~4節「レプタ二枚」

2015-02-22 22:01:29 | ルカ

2015/02/15 ルカの福音書21章1~4節「レプタ二枚」

 

 イエス様が神殿で、群衆と話したり、祭司長や律法学者たちからの論争に答えたりしながら弟子たちに教えておられた時、献金の様子が目に留まった、というのです。神殿の中には「婦人の庭」と呼ばれる場所があり、そこには13個のラッパ型をした献金箱が置かれていました。そのうち六つは「自発のささげもの」(自由献金)を入れ、残りの七つは、半シェケルの神殿税のため、薪のため、山鳩のため、などと用途が決まっていたそうです。今の礼拝のようにプログラムがあって、献金の時間があって、というのとは違い、各地からの何百万人もの礼拝者たちが次々と来ては、係の人に、何の目的で、いくら献げるのかを大声で告げて、どんどん流れていったようです。1節の、金持ちたちの献金というのは、そのような光景でした。そこに見るから貧しい寡婦(やもめ)が来まして、レプタ銅貨を二枚献げました。レプタ銅貨というのは、一日の労賃という一デナリの一二八分の一であり、当時の最小単位の硬貨(コイン)でした。でも一円と考えるのは少なすぎるので、レプタ二枚で百円ぐらい。ただし、レプタより小さいお金というのはない、そう思って戴けたら当たらずといえども遠からずではないかと思います。

 当時の神殿というのは、私たちが慣れ親しんでいる会堂の礼拝とは違います。お金持ちたちがジャンジャカ献金しており、次の5節に「宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってある」と言われていますように、物凄い規模の大建築物、大神殿でした。敷地面積は二十二万二千平方メートルぐらいになったらしく、大塚国際美術館の三倍以上です。それだけの建物を維持する会計規模も膨大だったでしょう。巡礼者たちは過越祭だけで二七〇万人来て、次々にささげ物を入れていたのです。神殿には、七億円以上の蓄えがあったとも記録されています。そういう中で、たったの二レプタ(百円)。落とし物でも、それぐらいはざらで気にも留められなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は仰います。

 3…「わたしは真実をあなたがたに告げます。…」

 これは、ただのお世辞ではなく、ルカで三回だけ使われる大変強い言い方です[1]

「…この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

 4みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

 この二レプタのささげ物を、イエス様は見過ごされるどころか、これが一番多い、と仰ったのですね。この寡婦は、誰よりも、他の全員を合わせたよりも、たくさん献げたのだ。なぜなら、献金は、どれだけ額を多く献げたかで測られるのではないからです。

 イエス様がこのように教えられたのは、当時の社会で(そして今も)、金持ちたちの大口の献金とか高額なささげ物が価値ありと思われていたからです。それは、前回の二〇章47節で言われていた「見えを飾るため」という動機に通じていました。それを考えると、この寡婦の献金の心がよく分かるのではないでしょうか。彼女が二レプタを献げたのは、見えを飾るためであれば出来ないことでした。もしも、この時の金持ちが、人生を転げ落ちて、一文無しになった時、二レプタだけ手に入れたとしたら、どうするでしょうか。その二レプタを献げたでしょうか。少なくともそれは、あり余るほどの財産があった時の献金とは丸きり違う動機になることでしょう。自慢しようとか、自分が神殿を支えているんだとか、たくさん献げることで安心出来るとか、そういう思いからではないはずです。

 そうした「見栄・プライド」はこの二レプタにありません。しかもこの寡婦は「寡婦」です。ご主人に先立たれたのです。どんな亡くなり方だったのかは分かりませんが、男女機会均等などと言われる現代とは違い、未亡人が一人で身を立てていくのは大変な事で、この女性のように極貧を極めることは珍しくありませんでした。ご主人を亡くした悲しみは、本当に彼女の生活、人生から多くのものを奪ったのです。それは大変な悲しみだったと思います。しかし、彼女は多くを失ったことで神様を恨んだり、回復や与えられることを願いに来たりしたのではありません。持っていたなけなしの生活費さえも献げました。これは、本当に驚くべきことです。

 この女性が「純粋で人並み外れた敬虔さを備えていた、素晴らしい人だったのだなぁ」とは思わないでください。この女性を誉めたり特別視したりして終わらないでください。イエス様は言われています。私たちと神様との関係は、これほどの温かい、強い、揺るがない関係なのだ。いくら献げたか、人から見て恥ずかしくないか、そういうことで献げるのは止めなさい。神殿建設や教会の活動に役立つとか、用いて欲しいとか、そういうことも一番大切なことではない。勿論、献金をちゃんとしていないと神様が怖いから、というような動機であっても間違いだ。もっと神様の愛は深く、大きく、限りないのです。額を見て満足され、祝福されるお方ではありません。私たちを愛され、喜ばれるお方です。その神の御愛への溢れる思いから、献金に託して、神様に自分自身の生活(いのち)を喜んで明け渡してしまう。そういう信仰へとこの寡婦を導かれた神は、私たちにもそのような信仰へと招き入れてくださるのです。

 彼女が二レプタを献げたことは、神様がその二レプタを受け入れてくださると信じていたから出来たことでしょう。主が「たった二レプタだけか」と喜ばれないんじゃないかと思っていたとしたら、当時の常識に反するこんな献金はしなかったのです。何の足しにもならないとしても、自分の精一杯のささげ物を神様にお献げしたい。そういう私を神様は決して蔑まれない、と信じていました。夫を亡くした悲しみや貧しい生活の苦しさはありました。でも、聖書はそういう理不尽な禍が、人生において突如として起こるのだ、と言い切っています。そして、神様は、そうした社会の貧しい者、弱い者、小さな者を顧みておられるのだから、神の民もまた、その人々を支え、受け入れ、助けるようにと励まされています。この寡婦が、貧しい中から自分が出来る唯一の礼拝を献げたのは、勝手に考えたとか神様が不思議にそういう思いへ導かれたという以上に、御言葉に、主が寡婦や孤児を憐れまれるお方である、という宣言が繰り返されていると知ってのことでしょう[2]。人は貧しい彼女を気にも留めないとしても、主はこの私を顧みて、愛しておられる。そう思い至っていた彼女の礼拝が、ここでの献金だったのです。

 勿論、教会の必要や礼拝の使い途が先にあって、それに合わせて呼びかけられるささげ物という実例も聖書にはあります[3]。「お役に立ちたい」という願いも大切です。しかし、そうした必要に応え、用いられる、という実用的な関係の根底にあるのは、主が私たちを愛されて、私たちの存在を喜び、私たちとの生きた交わりを結んでくださる、という恵みです[4]

 イエス様も、私たちをそのような関係に入れるためにこの世においでくださいました。神ご自身が、私たちのために、愛する大切なひとり子を献げてくださいました。その愛によって、私たちは神様との本当に深い関係へと至らせていただくのです。生涯かけて、御言葉や様々な訓練を通して、見栄や罪から自由にしてくださるのです。役に立つとか禍があるかどうかに関係なく、私たちは主のものとして生きる。そういう思いを込めて、献金をしたいと思います。

 

「主よ。私たちの全ては十字架において贖われて、もうすでにあなた様のものです。何も誇ったり惜しんだりせず、ただあなた様の恵みに喜び、あなた様のものとして歩ませてください。深い悲しみをも慰め、心からの礼拝と感謝へと至らせてくださる御業に、与らせてください」



[1] 「真実をあなたがたに告げます」は、ルカでは九27「しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」、十二44(主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人であることを見られる者は)「わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」とここで用いられています。

[2] 出エジプト記二二21~24、申命記十17~18、詩篇六八5、一四六9、イザヤ一17、エレミヤ七6、マラキ三5、ヤコブ一27、など。

[3] 例えば、出エジプト記二五章1節以下、Ⅰ歴代誌二九章1~9節、使徒十一章27~30節、ローマ十二13(聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。)、Ⅱコリント八~九章、など。

[4] ルカが、その福音書の最初から描き出しているのは、このような、自分自身を捧げる信仰です。「おことばどおりこの身になりますように」をはじめとして。そのような関係こそ、神との当然の関係・信仰である、ということです。

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問36「愛への確信、平和、喜び、恵み」Ⅱペテロ1章5~10節

2015-02-22 21:59:23 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/02/15 ウェストミンスター小教理問答36「愛への確信、平和、喜び、恵み」Ⅱペテロ1章5~10節

 

問 この世において義認、子とすること、聖化、に伴い、あるいはそれらから生じる、益とは、何ですか。

答 この世において義認、子とすること、聖化、に伴い、あるいはそれらから生じる、益とは、神の愛への確信、良心の平和、聖霊による喜び、恵みの増加、終わりに至るまでの恵みにおける堅忍、です。

 ここで出て来る、「義認、子とすること、聖化」という「益」が聖霊によって救いに召される時に与えられるのだ、ということを今まで見てきましたが、今日は、その「義認、子とすること、聖化、に伴い、あるいはそれらから生じる益」というのがありますよ、と言って、「神の愛への確信、良心の平和、聖霊による喜び」などを挙げています。つまり、罪を完全に赦されて、神様の子どもとされ、神のかたちに成長していく時、そこには、心をワクワクさせてくれるような、明るく燃え上がる祝福があるんだ、と言い換えたいのですね。

 ある人が、故郷に帰るのに全財産をはたいて、船の切符を手に入れたそうです。(昔の話ですから、飛行機ではなくて、船です。)切符を買うだけでお金が殆どなくなりましたから、船に乗っている間の食糧に、安い乾パン(非常食のようなもの)を買い込んで、持ち込みました。船には豪華なレストランがあって、美味しそうな匂いが漂ってくるのですけど、その人は毎日少しずつ、乾パンを囓(かじ)っていました。でも、毎日毎日同じ乾パンで侘(わび)しくて堪らなくなってしまいました。思い切って、船員さんに聞いたのだそうです。「すみません、レストランの一番安いメニューはおいくらですか。」 そうしたら、船員さんは短くこう答えました。「切符の裏をご覧下さい」。そう言われて、船のチケットを引っ繰り返して裏を見たら、こう書いてあったそうです。「目的地までの食事付き」。なんと、彼は乾パンを囓っていなくても、レストランに入れば、何でも食べられたのですね。

 このお話しを教えてくれた人はこう言いました。「神様の救いもそうなのです。天国行きの救いを、私たちは自分の全人生を払っていただくのですが、神様は、その間の必世も豊かに満たしてくださるのです。クリスチャンの生活が、貧乏で、楽しみは余りないとか、神様は必要を下さるだけでケチなお方だと思っていては勿体ないですよ。」イエス様も、パウロも、神様の惜しみない恵みを約束してくれます。

ローマ八31…神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 すばらしい約束ですね。そして、今日開いた言葉では、この「すべてのもの」の中で一番大切なこととして、「神の愛への確信、良心の平和、聖霊による喜び、恵みの増加、終わりに至るまでの堅忍」と言われています。すべてのものを神様は下さいますが、その中でも大切な事は、レストランのご馳走とか、一番になるとかではなくて、どんな時にも、神様の愛を確信していること。良心にとがめを感じない生き方。聖霊が下さる深い喜び。神様からますます豊かに恵みを戴くこと。そして、「堅忍」というのは、「苦しみや辛さの中でも、しっかりと耐え忍ぶ」という意味ですが、どんなことがあっても救いから落ちることなく、信仰に留まって歩ませていただける。そういう「益」こそ、神様が私たちに、用意してくれている、祝福なのですね。

 今日の、Ⅱペテロ一章には、こうありました。

Ⅱペテロ一5…あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、

 6知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、

 7敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 そして、こういう、内面的な変化、成長を追い求めるために熱心に努力することが、

10…あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとし…

ていくことになるのだ、と言われています。神様によって召され、選ばれて、救いに与った。本当に、そうなんだなぁ、と確証させるのが、私たちが、人間として幅広く豊かに成長しようとすることなのですね。神様に召されて選ばれた、と言いながら、退屈でつまらない生き方をして、成長しようとか変わろうとかしないなら、ホントに神様に救われたのかな?と言われても仕方がない。神様が私たちに下さるのは、天国に入れるだけの切符ではなく、天国の素晴らしさ、神様の恵み深さを体現するような歩みなのです。

 勿論、それは、神様を信じる歩みが、ただ素晴らしくて、何も嫌な事がない、という意味ではありません。「終わりに至るまでの恵みにおける堅忍」というのも、「苦しみや辛さの中でも、しっかりと耐え忍ぶこと」だと言いましたね。苦しみや辛さがない、ということとは違う。自分の力だったら、もう必ず投げ出してしまうに違いないような戦いがあるのです。だけど、そういう中でも、恵みの中で、しっかりと耐え忍ぶように、神様が私たちを鍛えて下さる、ということですね。神様が守ってくださるのだから、私たちは何もしなくていい。ただボーッと待っていれば良い、のではありません。イエス様は、私たちを恵みによって鍛えてくださいます。ボーッとしている人間ではなく、努力したり、悩んだり、大笑いしたり、人を励ましたり、正直になったり、考えたりして、生き生きと人間らしく生きる人にしてくださるのです。それが、神様が私たち一人一人に用意されている「益」なのですね。Ⅰテサロニケ五章16節以下に、

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。

という御言葉がありますが、そのように喜びを選び、感謝を発見していくような者とさせたい。イエス様は、私たちが豊かな益に与って、自分に与えられた山あり谷ありの人生のドラマを歩み抜かせてくださるのです。イエス様ご自身が、この世に来られたのは、十字架に掛かるためだけではなく、人としての生活を歩んでくださるためでもありました。大変な生涯の中、泣いたり笑ったり、友となり真剣に語り、喜び楽しまれたのです。そのイエス様のお姿は、私たちにも神様が喜びや平安、堅忍を用意されている証拠です。

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ルカの福音書二一章5~9節「惑わされないように気をつけなさい」

2015-02-22 21:50:02 | ルカ

2015/02/22 ルカの福音書二一章5~9節「惑わされないように気をつけなさい」

 

 エルサレムの宮は、すばらしい石や奉納物で飾ってあったと書かれていますように、当時の世界では屈指の芸術的な建造物でした。全体が金で覆われ、巡礼者たちは、遠くからでもエルサレムの都の中に輝いている神殿を目にして、心を奪われたのです。その神殿のただ中にあって、美しい彫刻や奉納物の数々に人々が興奮していたのでしょう。そういう人々にイエス様は、

 6「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」

と仰ったのです。それを聞いた人々が、今度は不安になりまして、

 7…「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」

 こう尋ねたことから、この二一章では、エルサレム神殿ばかりか、世界が滅亡する終末に向けての預言が書かれている、と読まれることが多いようです。

 けれどもそうではありません。イエス様が6節で仰ったのは、神殿が滅びる、ということではなく、神殿だろうと何だろうと、すべてのこの世界のものはやがて崩れて残らなくなる、ということです。形あるものはみな衰えて、過ぎ去る。神殿だけは例外、自分たちが憧れ、喜んでいるものだけは特別、いつまでもなくならないで欲しい-そういう人間の勝手な思い込みに対して、そうではないと言われたのがイエス様のお言葉です[1]

 8節以下の言葉も、イエス様はちゃんと教えておられるのですね。

 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。

 9戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

 惑わされないように、後についていかないように、怖がらないように、と言われています。でも、どうでしょうか。クリスチャンでも、戦争や暴動、地震や病気、異常気象やテロだとか物騒なニュースが続くと、いつのまにか、「ああ、イエス様が仰ったとおりだ。終末は近いに違いない」と言い始める人が多いのです。確かにイエス様は、

「…それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

 すぐではないけれども、まもなく終わりが来るのだ。そうまくし立てる人が、今も少なからずいるのだなぁと感じます。イエス様はそういうふうに考えてしまう人間に対して、

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。

 9戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

と注意されたのです。イエス様の名を騙(かた)る者が大勢現れても、終末を煽り立てても、戦争や暴動や天変地異や世界がひっくり返るような出来事が起きたとしても、惑わされるな、恐れるな、そういう事は必ず起こることであって、世の終わりが来るということではないのだ。だから、どんな事があっても、それで恐れ、落ち着きを失って惑わされないように、よく見ていなさい。そうイエス様は言われたのです。

 次の10節以下で、イエス様はもう少し詳しく、信仰の戦いや、エルサレムがローマに囲まれた時にはすぐさま脱出すべきこと、いつも目を覚ましているべきことを丁寧にお語りくださいます[2]。ですから、今日は、10節でイエス様が、改めて言葉を継がれる前までの所で、このイエス様の警告を心に刻みましょう。世の終わりが近い、という前兆などはないのです。「時が近づいた」(世の終わりが近づいた)と煽り立てる人がいるとしたら、いくらイエス様の名を騙っていても、それだけで、ついて行ってはならない不審者なんだということです。

 世の終わりがない、というのではありません。むしろ、この世は必ず終わります。そして、その世界の中にある全ての物は、神殿だろうと教会だろうとエルサレムも東京も摩天楼(まてんろう)も必ず朽ちるし、富士山が爆発したり隕石が降ってきたり東日本大震災が起きてもそれが世の終わりではなかった、その現実をシッカリ見て、動揺することなく歩みなさい、と言うことです。

 前回イエス様は、貧しいやもめの信仰に目を留められました。神様は、壮麗な神殿よりもこの寡婦の精一杯を尊いとされるお方です。二〇章後半の教えとの繋がりで言えば、人はいつか死に、やがて復活をして、主が永遠の王として治められるとき、人が見ているうわべのものではなく、この寡婦が現したような神様との関係だけが永遠に輝くのです。でも、そのように言われていながら、今日の最初で人々は、やもめを愛おしまれたイエス様の言葉など聞こえなかったふりをするかのように、宮の飾り物に話題を変えます。神様が見ておられるのは、私たちの心です。見せかけの立派さとかプライドとかで取り繕えない、私たちの心の貧しさ、不信仰、傲慢を取り扱い、神様に自分をお返しするよう招かれているのに、それでも人間はなお、自分自身の隠れた問題を認めようとせず、様々な上っ面のことにしがみついて安心しようとします。そして、そのような上辺のものやこの世界が崩れるのはいつなのか、何とかして前兆を知る事が出来ないか、と右往左往しようとするのです[3]

 確かに、当時の人々にとって、精神的支柱でもあったエルサレム神殿が崩れるとは信じがたい事だったでしょう。私たちもまた、何かしら見えるものを支えにしているものです。建物や事業、誰か尊敬する人物、自分の生活や家族、財産、健康、命。そういうものを失った時には自分が何者でもないかのように思えて、生きることや正気を保てなくなるかも知れません。イエス様はそのような私たちの現実をちゃんと見ておられます。そして、警告してくださっているのです。先の寡婦が、ご主人を亡くし、貧乏を極め、二レプタが全財産となっても、その二レプタを捧げたように、私たちもすべてを失ってなお、その自分が神のものであることを気づかせようとなさいます。支えにしているものなど全部崩れ去るのであって、何もなくなった自分を愛し、目を留めて、祝福してくださる神がおられるのです。

 9節の「終わり」とは「ゴール・目的」という終わりです[4]。見えるものが崩れる時は、オシマイではなくゴール、完成です。そこから私たちのいのちが始まるのです。だから今、私たちは見えるもの、失うものに支えられつつも、自分の心を-貧しい心を-主に差し出し、この貧しい私を愛したもう主とともにある歩みを踏み行かせて戴くのです。そのために、イエス様がこの地上に来てくださいました。そして、ご自身が、貧しく低く、すべてを捧げる生き方を歩んでくださいました。その主のいのちが、聖霊によって私たちのうちに始まるのです。

 

「恐れ惑い焦りそうになるとき、御言葉に立ち帰らせてください。主の、世界に対するご計画を、信じさせてください。やがてこの世界の夜は終わり、永遠の朝が来て、朽ちるものが掻き消えます。その時にも残るような真実な歩みへと、どうぞ私共の思いを導いてください。あなた様からの勇気と喜びと望みを抱いて歩むことによって、世にある光として輝かせてください」



[1] 「一つの石も」 十九44でも明言されていたばかりのこと。

[2] そしてその最後にも、「33この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。と世界が滅びることで心を騒がしてはなりません、と繰り返されるのです。

[3] 「こわがってはいけません」 しかしこの言葉がもう一度出てくる二四37は、復活のイエスを見て弟子たちが幽霊かと思って怖がった、というユーモア。それが私たちでもある。騙されもしよう、勘違いして、奪われもしよう、だが、それでも主は私たちを決して奪うことはなく、私たちに御国を与えてくださる。表面的な一切がはぎ取られた後に、私たちの心を深く、確かに満たしてくれる永遠の御国が始まる。

[4] 「終わり」テロス 破滅的な終わりではなく、完成・目標。一33、十八5、二二37「実現します(直訳「実現を持ちます」)」。動詞形テーレオーも、二39、十二50、十八31、二二37「実現します」

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問37「死の時にも益がある」 ルカの福音書二三章42~43節

2015-02-22 21:44:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/02/22 ウェストミンスター小教理問答37「死の時にも益がある」   ルカの福音書二三章42~43節

 

 今日は、ウェストミンスター小教理問答37からお話しますが、六つ前の問31では、

問 有効に召命される人々は、この世において、どのような益にあずかるのですか。

と問うて、「この世における」(今の人生で、死ぬまでの間にあずかる)益について、見てきましたが、今日の所では、この世に於ける歩みを終えた「死の時」のことを言うのですね。

問 信者は死のとき、キリストからどのような益を受けますか。

答 信者のたましいは、彼らの死のとき、完全に聖とされ、直ちに栄光に入り、信者の体は、キリストになお結ばれたままで、復活まで、彼らの墓で休みます。

 私たちは、死ぬことに対して、どんなイメージを持っているでしょう。そして、死んだ後にはどんなふうになると考えているでしょうか。勿論、「死にたくない」と思うのが自然です。そして、なるべく、死の後も、幸せでいたい、と考えたいですね。そして、誰もが「実は、死ぬこともたいしたことではないのだ」と思っていたい、思おうとしているんだろう、という気がします。

 聖書は、死はそんなきれいなものではないよ、と言っています。罪によって死が入ったのであって、死は神様の御心ではなかった、不自然なもの、いのちを壊すもの、悲惨な暴力、最後の敵だと言っています。だから、今日の所でも、「死」が「益」だとは言っていません。死は、やっぱり良いことではないし、死を説明して明るく乗り切ろうとする必要もないのです。誰であっても、死んでいい人などいないのです。だけど、そういう悲しくて、苦しくて、耐えられないような死が必ず来るのですが、その「死のとき」にも、キリスト・イエスは私たちに「益」を用意していてくださいますよ、それが、

 …信者のたましいは、彼らの死のとき、完全に聖とされ、直ちに栄光に入り、信者の体は、キリストになお結ばれたままで、復活まで、彼らの墓で休みます。

という益だ、と言っているのですね。

 死が益だとは言いません。また、「死なないように守ってくださる」という益だとも言いません。でも、死のときにもキリストが益を下さいますよ、という信仰があります。それが、私たちの魂が、完全に聖とされて、ただちに栄光に入ること、そして、私たちの体も、キリストに結ばれて、復活の日まで待っているのだ、という「益」なのです。

 たくさんのことを全部見るとゴチャゴチャしますから、簡単に説明しておきますが、体は墓で休むとありますが、体は必ず朽ちたり分解されたりするんじゃないかとか、そんなこともありますが、ともかく、体も神様が最後にはよみがえらせてくださること、魂だけではないんだ、ということだという事だけ覚えておいてもらえたらいいでしょう。

 もっと大切なのは、私たちは、死んだら、その時に完全に聖とされ、直ちに栄光に入る、ということですね。イエス様が、十字架の上で、隣で十字架に掛けられていた強盗の一人がイエス様に信仰を告白した時にこう言われました。

ルカ二三43…あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

 今日、と言われたのですね。いつか、そのうち、ではなく、まもなく日が暮れて、翌日になろうとしていたこの時に、イエス様は、強盗に「今日、わたしとともにパラダイスにいます」と断言されました。私たちも又、死んだら、すぐにイエス様とともにおらせていただけるのです。

 他の多くの宗教や、キリスト教の中でも、そうは考えていない人たちがいます。死んだ後、魂が幽霊になって、見えないけれどもこの世を彷徨っている、と考える人もいます。そうではないけれども、神様の楽園に入れてもらうには、自分の罪の償いをしたり、生きている間に出来なかったまっとうなことをしたりして、神様のお許しを戴かなければいけない、と考える人もたくさんいます。死んだ人が早く楽になれるように、お線香を上げたり、寄付をしたり、念仏を唱えたりしてあげないと行けない、と信じて、一生懸命「供養」をしているのは、日本だけではないようです。そして、亡くなった本人が、やり残した未練とか悔しさとかがあるんじゃないか、天国に行っても浮かばれないとか、そういう考えも広くあることは、ドラマや映画にも現れているでしょう。

 そうした心配に対して、聖書はハッキリと教えてくれています。私たちは、死の時に、「完全に聖とされる」(つまり、心を聖くされ、もう恨みとか心配事とか、後悔に押し潰されそうになることはなく)、「直ちに栄光に入れられる」、つまり、何か償いや苦行を続けて、足りない分を満たさなければならないのではなくて、直ちに栄光の状態に入れて戴けるのだ。まだこの世に戻って来たいとか、残された人間が何かしてあげないと喜べないとか、そんな中途半端な状態ではなくて、栄光の状態に入れて戴く。そう信じる事が許されています。それは、私たちの想像力を超えています。からだから離れた魂の状態、ということでさえ、すでに想像を越えていてお手上げです。でも、とにかくイエス様と共にいる素晴らしい恵みの状態で、最後の復活の時、永遠の御国が始まるまでを過ごすことになるのです。

 私たちはこう信じています。イエス様が救いに召してくださったからには、私たちはこの素晴らしい益にあずかると約束されています。それまで、ちゃんと信仰生活をしていたらとか、神様が喜ばれるような良いことをしたら、とかではなく、イエス様は、聖としてくださり、栄光に入れて、からだも休ませてくださるのです。私たちの代わりに、イエス様がすべての代価をご自分の命でもって払ってくださったからです。その素晴らしい約束に励まされましょう。

 この後歌うのは、「黒人霊歌」と呼ばれるものの一つです。(「終わりのときに」教会福音讃美歌345番) アフリカから無理矢理連れて来られ、奴隷として働かされ、苦しい生活をしていた黒人の人たちが、イエス様を信じる信仰を持つようになって、天国のことを沢山歌ったのです。辛い、真っ暗なような人生を歩みながら、イエス様の約束された、死の先の栄光を見つめていました。死の後に、イエス様に会えること、それでもう十分、と歌っていました。でも、その信仰によって、彼らは本当に逞しく、明るく、勇気をもって歩んだ人たちでもありました。その天国の歌を、今日、私たちも歌わせてもらいたいと願います。

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問33「義と認めてくださる」

2015-02-13 09:08:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/01/11 ウェストミンスター小教理問答33「義と認めてくださる」

                                                        ガラテヤ二16

 

 神様が、今この世界での歩みで、私たちに下さる「益」にはたくさんのものがあります。その一番最初になる、「義認」について教えられましょう。

問 義認とは何ですか。

答 義認とは、それによって神が、私たちに転嫁され、信仰によってのみ受け取られる、ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、そのような、神の無償の恵みによる決定です。

 実はこの「義認」という信仰は、「これによって教会が立ちもし倒れもする」教理だと言われるぐらい、大切なものです。ここを間違えてしまうと、教会が教会でなくなってしまう、という肝心要のことなのですね。

 どうしてそれぐらい大事なのでしょうか。長い答ですから、整理しておきましょう。中心にあるのは、

  …神が…ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、…

です。神様は正しいお方(義なるお方)ですから、すべての罪を大目に見ることはなさいません。不正を憎まれ、悪を裁いて、報いを必ず受けさせるお方です。その神様の前に、私たちが「すべての罪を赦して」いただけるということ自体、驚くべきことです。嘘や悪巧み、意地悪や我が儘、心の中にある罪の思いも、実際にしてしまったこと、犯罪や重罪も、どんな罪も神様は見て、知って、見逃しはなさいません。どうしたらその神様の正しい怒りから救われるか、人間はあれこれ考えます。

 ある人たちは、他の人と比べます。自分も悪い所はあるけれど、他の人と比べたら、結構マシな方だから、神様も赦してくれるはずだ、と思う事にするのです。

 ある人たちは、自分の罪を償うだけの善いことをしよう、と考えます。人に親切にしたり、沢山の献金をしたり、熱心に何かをしていれば、悪いことをした埋め合わせになって、プラスマイナスで救ってもらえると期待します。

 けれども、聖書は、そういう方法はどれも完全に正しい神様には通用しない。

  …神が…ただ、キリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、…

と教えているのです。私たちが何か善いことをしたから、どちらかと言えば良い方だから、ということでは全くなくて、ただ神様が、キリストの義のゆえに、私たちの全ての罪を赦してくださる。

 私が、とても返せないほどの借金をして、裁判所に連れて行かれたとしましょう。どうしたら許してもらえるでしょう。「他にももっと借金をした人もいるんだから、勘弁してください」と言い訳をしたら、借金はなくなりますか? 「これからお小遣いで少しずつ返します、毎月100円ずつ返します」と言っても、借金が何百億円もあったら、無理でしょう。そこで、イエス様が登場してこう言われるのです。「わたしがあなたの借金を全部払ってあげる。あなたはそれを受け取りなさい。あなたのことはこれからも私が引き受けてあげよう」。

 でも忘れてはなりません。それは、私が、ちょっとは良い子だったから、イエス様が気に入ってくださったのでもなく、言い訳が上手かったからでもないのですよ。只管、イエス様の一方的なご厚意によることです。

 別の喩えもしておきましょう。大事なお呼ばれをしたので、ステキな服を着て出かけたのに、行かなくても良い道で遊び歩いて、すっかり服を汚してしまった。このままでは、とてもお客様として迎えてもらえません。ちょっとゴシゴシ洗っても大事なパーティに窺えるほどにはなれません。でも、私に出来るのは、少し汚れを落とすか、汚れを隠せないかとか、そんなことしか思いつきません。けれどもそのとき、呼んで下さった家からイエス様が来てくださって、その汚れた服を脱がせてくださり、お風呂で洗ってくださって、イエス様の礼服を着せてくださって、私を迎え入れてくださった。そういうことが、神様と私たちの間でも起きるのですね。これが義認です。

 大事なのは、神様と私たちの間には、自分の努力や工夫で解決する事など全く出来ない罪の問題がある、ということ。けれども、その罪を、イエス様がただ一方的な恵みによって、赦してくださったということ。そして、その赦しを私たちは、何か善いことをしたらもらえるのではなくて、信仰によって受け取るだけ、「信じます。ありがとうございます」といただくのだ、ということです。

 もしここに、「神様の恵みは有り難いけど、私たちの努力もないと、罪を赦して貰うことはない」という考えを持ち込むと、教会は「倒れ」てしまいます。「イエス様が私たちのために十字架にかかってくださった、でもそれは、私たちの心がキレイだったからだわ」と思うようなら、「義認」ではなくなります。イエス様が私たちのために十字架にかかり、私たちの罪をすべて背負ってくださった。それは、私たちにとっては、身分不相応な、一方的なお恵みです。そう言って、ただイエス様が義としてくださる測り知れない御業を褒め称え、崇めることから始めなければなりません。

 この「義認」という事で有名なのは、今から500年前にいた、ドイツのマルチン・ルターという人です。ルターは、自分の中にある罪、汚れた心が苦しくて、義なる神様に裁かれることが恐ろしくて、苦行までして頑張ったのです。それでも、ますます赦しは遠く感じるばかりで、「私は神を憎んだ」と書いています。でも、聖書を読むようになって、ルターは、聖書に書いてある「義」が、福音の義であって、

「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられる」

義だと発見したのです。そして、ルターは当時の教会がこの事に立ち戻るように呼びかけて、宗教改革という大きな運動を引き起こすのです。

 私たちも、神様の義の衣を着せられて、すべての罪を赦されています。自分の罪を正直に認めることと、その自分の罪を神様が決して怒ったり呆れたりせずに、キリストの十字架の故に完全に赦してくださっていることを、ますます信じて感謝しましょう。

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