聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

2017-03-26 16:42:24 | 聖書

2017/3/26 「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節

 来週4月の月報が出ます。受難週とイースター、そして六〇周年記念礼拝を控えた4月ですので、いつもの巻頭言と違い、私も自分の十年の歩みを振り返った内容を書きました。鳴門教会の六〇年、また前回の五〇周年から十年を振り返りつつ、私たちも自分の歩みを振り返ること。そして、かつてとは違う「今」を受け止め、将来に目を向けたい、と思うのです。

1.失意の中でのゼカリヤ書

 今月取り上げる「ゼカリヤ書」は旧約聖書の最後から二番目にあります。旧約の歴史の終盤です。旧約聖書の歴史の最後に、捕虜となったバビロンから、イスラエルの民族がエルサレムに戻ってきて、神殿の再建を始めるのです。もう一度、神を礼拝する民として歩み直そうとするのです。ところが再建工事を始めたのに、六年後、周囲の敵やペルシヤの政治情勢が理由で、工事は中断してしまいます。この辺りはエズラ記の四章に書かれています[1]。しかもその中断期間は十年にも及びました。そういう中断期間に、エズラ記五章にこう書かれるのです。

エズラ五1さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。

 2そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。…」[2]

 これが今日の「ゼカリヤ書」と結びつくのですね。イスラエルの民は折角復興を始めたけれど、肝心の神殿建設は進まないという失意を抱えていました。いいえ、そもそも神殿の土台を据えた時点で、以前の壮大なソロモンの神殿を知っていた人々は、あまりにも質素な建物だと嘆いていたのです。「昔はもっと良かった」という不毛な懐かしみです。そして現実に対しても、十年、諦めや現状容認の状態になって、礼拝が後回しにされていました。主はそういう時代にゼカリヤを立てられて、イスラエルの民を励まし、奮い立たせようとなさったのです。

 更に、ゼカリヤ書の九章以降は、八章までのメッセージの四〇年近い後に書かれたと考えられています。工事が中断されていた神殿は、民の奮起によって再建されましたが、まだ彼らの歩みは続き、願っていたような展望も開けません。そういう中で、神は再びゼカリヤを送られて、気落ちした民にお語りになりました。四〇年ぶりでしたが、主はまた民にお語りになりました。そしてここで、聖書の小預言書で最も多くの「メシヤ預言」が語られていくのです。

2.数々の幻をもって

 ゼカリヤ書の中には沢山の不思議な幻が出て来ます。預言書の中でも特に幻想的な、黙示文学でもあります。人や四つの角、測り綱、汚れた祭司とサタンの法廷、燭台と二本のオリーブの木、飛んでいる巻き物、四台の戦車、などなどです。その一つ一つの意味を詳しく解説することは到底できません。ただ、そういう思い切った幻を人々に思い出させることで、主は意気消沈した人たちの想像力に働きかけたのでしょう。どういう意味かは大事なはずですが、現実には確定しがたいのです。むしろ、その幻を想像することで持たせられる強いインパクト、衝撃的なイメージそのものを大事にしたほうがいいのかもしれません。

 その一つが、九章の9-10節で出て来る「ろばの子に乗る王」という預言です。これは、主イエスが十字架にかかられる週の最初にエルサレムにおいでになった時に成就しました。

 9シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 王となるお方がおいでになる。それは良いのですが、その方が「柔和でろばに乗られる」とは全く意外であったはずです。強い王として軍馬に乗って入場されるなら分かります。しかし、軍馬ではなくロバ、それもまだ人を乗せ慣れていない子ろばに乗って来られる。振り落とされるかもしれません。

 威厳どころか、笑いものになるような、そんな柔和な王としておいでになる。それは民にとって、本当にビックリするようなものだったのだと思います。ゼカリヤは、民の不信仰や意気消沈に発破をかけます。惰性的な礼拝や、神を小さく考える態度を戒めます。でもそれを叱って脅しつけて、神を恐れさせたかったのではありません。

一14…万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、エルサレムとシオンとを、ねたむほど激しく愛した。」17…『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』

二8あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。

 こういう神の情熱的な愛の言葉を鏤めながら主がおいでになることをゼカリヤは語るのです[3]。そしてそれを言葉だけでなく、豊かなイメージで告げるのです。そのイメージはまさにイエスにおいて成就しました。当時は到底理解も納得も出来なかったことですが、ゼカリヤの預言通りイエスはおいでになり、子ろばに乗り、銀貨三〇枚で売られ[4]、突き刺されたのです[5]

3.「夕暮れ時に光」

 そういうゼカリヤ書の最後一四章も、想像しづらいイメージが畳み掛けられています。私たちにはその全てを理解も説明も出来ません。何かとても力強く、社会の常識をひっくり返してしまうようなことを神はなさる、というのが精一杯のような気がします。その中にある、忘れがたい言葉の一つがこの7節の

「昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある」

という言葉です。

 夕暮れ時。それは、ゼカリヤの時代の人々が体験していた時代とも重なります。エルサレムに帰ってきたけれど、神殿建設を諦めざるを得なかった時代。また、やっと工事を再開して神殿を完成させたけれども、直ぐに礼拝が惰性的になっていった時代。そして、旧約時代も終わりに差し掛かっていたという意味でも「夕暮れ」というイメージはピッタリです。でも、ゼカリヤはそういう夕暮れ時にも

「光がある」

と語ります。神がメシヤをお遣わしになる時、夕暮れで、どんどん暗くなる一方という時にも薄れることのない光が与えられるのです。そして、旧約のもう終わりという夕暮れに、失望の中に埋もれそうな民に、神がこの不思議なゼカリヤの預言を与えられたことが「光」でした。神はあなたがたを嫉むほどに愛しておられると語られました。三章では、罪の汚れた服を着ている大祭司の汚れた服を脱がせ、礼服を着せ、きよいかぶり物をかぶらせてくださる幻が語られています。主は、私たちが、自分の罪で真っ暗闇の中にいるような思いをする時にも、そこに光を与えて、新しい歩みをくださいます。主御自身が、人の時間や常識を超えた光を与えてくださると約束されたのです。

 ゼカリヤ書が約束したイエスがおいでになるのは五〇〇年も後でした。イエスの御生涯を通して成就した預言もあれば、いまだに分からない言葉もあります。ですがその預言の意味や成就と同じぐらい大事なのは、主がその時代の人々に希望を示された事です。ゼカリヤ書を想像力を働かせて読むなら、私たちも夕暮れ時に光を照らされる主の恵みをいただくのです。教会の歩み、私自身の歩み、皆さんの歩み。そこにイエスが来られても、夕暮れや真夜中もあるでしょう。これまでも、これからも、私たちが予想もしない歩みをするのです。でも、そこにも神は光があると約束されます。思いもかけない光を下さるのです。御言葉を通して、おいでになったイエスの慰めと愛をゼカリヤ以上にハッキリ深く知ります。そればかりでなく、イエスは私たちの闇をも、かけがえのない時間にしてくださり、慰めを下さいます。その闇を通らなければ分からない本当の光を知るのです。不思議なゼカリヤ書を通して、神が不思議なお方であり、私たちの歩みに不思議な恵みを輝かせるお方である、この事実を教えられたいのです。

「世の光なるイエス[6]。ゼカリヤの時代の人々とともにおられたように、私どもとともにおられます。何十年、何百年のスパンで、人の思いや予想を超えたあなた様の良きご計画が、喜びや慰めの光がある幸いを感謝します。私たちを御自身の瞳として慈しまれ、罪の赦しや再出発、慰めや癒やしの恵みを、どうぞ今、私どもの小さな歩みを通して、豊かに輝かせてください」



[1] 紀元前539年、バビロンがペルシヤによって滅ぼされる。538年、ペルシヤ王クロスによる、イスラエルの民のエルサレム帰還の勅令。536年、神殿再建開始。530年、神殿再建中断。520年、ハガイ、ゼカリヤによる神殿再建再開。516年、神殿完成。

[2] また、エズラ記六14にも「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。15こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」と書かれています。

[3] ゼカリヤとハガイは、神殿工事が中断した中で、工事の再建を促しました。しかし、ハガイも神殿再建そのものを求めたのではなく、心からの礼拝を求めたのでした。ゼカリヤはそれがもっと全面的に教えられています。「ゼカリヤは、ハガイのように民に対して神殿再建を完遂するよう励ましたが、ゼカリヤのメッセージは物質的な壁や現時点での諸問題をはるかに超えていた。ゼカリヤは壮麗で黙示に満ちた象徴を細部まで生き生きと描きながら、神の民を救い全世界を治めるために神から遣わされるメシヤという人物について語っている。ゼカリヤ書は非常に重要な預言書の一つであり、メシヤについてこまごまと言及している。これらはイエス・キリストの生涯において明らかに成就された。」バイブルナビ1475ページ。

[4] 十一13主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

[5] ゼカリヤ書十二10-11など。

[6] ヨハネ八12「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

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