聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答92~94 使徒20章7~12節「七日目から八日目へ」

2019-03-31 16:35:46 | はじめての教理問答

2019/3/31 使徒20章7~12節「七日目から八日目へ」はじめての教理問答92~94

 今日の聖書箇所は

「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」

と書かれて始まっていました。教会が、週の初めの日曜日に集まっていたことが記録された資料でもあります。旧約の時代は土曜日が

「安息日」

でしたが、キリスト教会が土曜日に集まっていたという記録はなく、週の初めの日に集まった記録が、今日の箇所の他に、何カ所か残されています。仕事は休めませんでした。週はあっても奴隷には休みなどないのが社会でした。最初のキリスト者の多くは奴隷だったと言いますが、日曜日も土曜日もお昼は働いて、夕方から集まったのです。キリスト者たちは、一日の仕事を終えてヘトヘトな中、集まっては礼拝をしていました。疲れて眠った青年が窓から落ちたのは、そんな事情もあったでしょう。礼拝中に眠るのが不謹慎とかいう以前に、それでも集まっていた事実に驚きます。集まらなければならないのではなくても、週の初めの日に集まるようになったキリスト者の礼拝、熱心に驚かされるのです。

問92 キリスト教の安息日は、何曜日ですか?

答 週の最初の日、主の日と呼ばれる日です。

問93 どうしてその日は、主の日と呼ばれるのですか?

答 その日に、主イエス・キリストが死者の中からよみがえったからです。

問94 主の日は、どのように守らなければなりませんか?

答 日々の働きを休み、神さまを信仰深く礼拝しなければなりません。

 週の最初の日は、キリスト教の安息日です。それは「主の日」と呼ばれるのは、主イエスが死者の中からよみがえったからです。イエスがよみがえられた日が、キリスト者の安息日です。イエスの復活を記念して、キリスト者たちは集まり続けて、やがて、キリスト教が公認された4世紀、ローマは毎週日曜日を、礼拝のための休日としました。今私たちのカレンダーが、日曜日はお休みとなっているのは、ユテコや奴隷のキリスト者たちが日曜日ごとに、仕事を終えてからでも集まって、イエスの復活を覚えて礼拝を続けていたからです。ですから、私たちは主の日を

「日々の働きを休み、神様を信仰深く礼拝」

するのです。そしてそれは、十戒の第四戒で

「安息日を覚えてこれを聖としなさい」

と言われていたのと同じ、週に一日を休むことに通じます。第四戒も、決して私たちを縛り付け、不必要な義務を課するものではありません。「休み」によって、私たちの生き方が変えられるのです。週に一日を、あえて仕事をせずに、主の創造と救いの御業を覚えることで、私たちの生き方が大きく息づくことが出来るようになるのです。

 旧約の時代も、安息日は、天地の創造と、出エジプトの解放という過去の出来事を覚えるだけではありません。それは、今ここでの自分たちの歩みを変えるものでした。そして、新約の時代の今、主の日は、かつてイエスが日曜日に復活したという過去を振り返るだけではやっぱりありません。イエスは私たちのために救いを成し遂げて下さいました。私たちが日曜日を礼拝の日として休むのは、イエスの復活だけでは不十分で、私たちが日曜日の礼拝や教会の活動を守らなければならないから、では断じてありません。イエスの復活は、私たちの完全な救いの宣言です。私たちは今、既に、奴隷や中途半端なキリスト者ではなく、成長途中ではあっても完全な神の子どもです。そして、これからも神は私たちを神の愛の中に捉えてくださいます。今も沢山失敗をするでしょう。回り道や間違いもするでしょう。それでも、イエスは私たちの救いを完成して下さいましたので、最後には、神の御国に必ず迎え入れられて、永遠の喜びに踏み出します。そのことが約束されています。確かな希望があります。そこまでイエスがともに歩いてくださるのです。その事も、主の日には覚えるのです。

 このイメージに、安息日が「第七日」から「第一日」になったよりも、「第七日」の次の日、「第八日」になったと考えるのも役立つでしょう。聖書の中で「七」が完全数だというのは有名です。神は世界を六日でお造りになり、七日目に休まれました。七はあちこちで、完成、完全を示す数です。でもそれにもう一つ足した「八」は、新しさ、次の始まり、来たるべきもっとよいものを現すのです。イエスの復活は、七日目の安息日が相応しいかと思ったら、土曜日ではなく、翌日でした。それは、私たちの救いが将来完成して、新しい世界が始まることを見つめさせます。聖霊が降臨したのも、七日目ではなく八日目でした。それは、新しい神の民の誕生の先触れでした。聖書は、今のこの世界が、六日間で作られ、七日目の安息日を過ごしていると言って始まります。そして、やがてこの長い七日目は終わって、永遠の八日目を迎えるのです。その日が待っていると保証するのが、今ここで過ごす八日目、つまり

「週の初めの日」

の安息日です。

 イエスの復活は、神が私たちのために一方的な恵みを注いで、新しい民となさったことを証ししています。神は、人の罪よりも強い赦し、死よりも強い命を、私たちに約束されたのです。痛みや苦しみや悩みはありますが、それが世界だと、諦めるのでなく、八日目に向けて、励まし合って、正直な関係作りをしていきます。いや、新しい八日目が来ると思わなければ耐えられないような痛ましい出来事や暴力があります。それでも、そういう中で、日曜日ごとに、私たちは仕事や遊びを脇に置いて神を礼拝するのです。

 日曜日、私たちは主の復活を記念して、礼拝に集まります。教会でともに御言葉に聴き、賛美をし、交わりを持ちます。イエスの復活を思い、将来に約束されている希望を思い、今がその旅路である事を思います。ですから私たちは、将来に希望を持つことが出来ます。未来に対する不安や、今の悩み、迷いや後悔はありますが、それでも私たちを導いてくださる神の御手を信じることが出来ます。人や自分を責めたくなり、後悔があっても、最終的には神が全てを益として下さると信じることが出来ます。今ここで、イエスがともにいて導き、成長させて下さること、教会や世界の兄弟姉妹と一緒に旅を続けて行ることを思い出します。その時、私たちは命がよみがえる思いをします。ユテコの復活にも匹敵する体験です。日曜日、手を休めて、神を礼拝するのはそうした恵みがあります。今の日本では、旧約時代やキリスト教公認後のヨーロッパよりも、日曜日を丸一日休むのは難しいかもしれません。それだからこそ、私たちが奴隷のように使われて、振り回されて生きるのではなく、自由な者として礼拝を選び、イエスの復活を思い、共に祝う将来を信じるキリスト者として生きるようにと招かれているのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅰサムエル記16章1~13節「人はうわべを、主は心を サムエル記第一」

2019-03-31 06:56:24 | 聖書の物語の全体像

2019/3/31 Ⅰサムエル記16章1~13節「人はうわべを、主は心を サムエル記第一」

 今月の一書説教は「サムエル記第一」です。イスラエルの民がイスラエル王国となっていく激動の時代です。始まりのサムエルの誕生が紀元前1105年頃、それまでは次々と士師(さばきつかさ)が建てられては一時的に落ち着いていた時代でした。それから90年後、第一サムエルの終わり、ダビデの王として正式に即位する1010年頃まで、中央集権、王という権力者を頂点とする階層社会になり、貧富の差も固定化していく大激動です。サムエル記第二ではダビデ王の統治が淡々と描かれて、その違いを読み飛ばしてしまいがちです。皆さんの人生、鳴門キリスト教会の60年、いやこの30年前を考えてもどれほど社会が変化したでしょう。衛生面も食生活も豊かになりました。ネットがつながり、スマホが手放せない。寿命は延びたけれど、心の病は増え、自殺が死亡原因のトップになり、年金も先細り。豊かで便利になったけれど、戸惑いや新しい問題も抱えています。「個人情報」という考えがはびこって、伝道や近所づきあいも、随分勝手が違ってしまいました。

 サムエル記の最初と最後はそれに匹敵する大変化を遂げています。部族社会から王国になる。安定する代わりに、階級や貧富の差が生まれる。軍隊が強化され、専門化していく。そうした大きな移ろいで、今まで考えられなかった問題も起きていく。そうした変化の中で様々なドラマが繰り広げられるのが、サムエル記の特徴です。

 サムエル記の登場人物を四人上げるとすれば、ハンナとサムエルとサウルとダビデです。最初に登場するハンナは子どもがいないことで苦しんでいましたが、主の憐れみに触れて子どもを授かります。それがサムエルです。ハンナは息子を主に捧げて、今日交読した

「ハンナの賛歌」

を歌います。

私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。
主のように聖なる方はいません。
まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。
私たちの神のような岩はありません。
おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。
まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。
不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。
主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、
高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。
まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。
主は敬虔な者たちの足を守られます。
しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。
人は、自分の能力によっては勝てないからです。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。
主は地の果ての果てまでさばかれます。
主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。

 その中の、主は「貧しい者を引き上げ、悪者を打ち砕く」と歌った言葉が、サムエル記全体を読む鍵になります。サムエルは敬虔な指導者として、民を導きます。祈り、説教し、民を神へと立ち帰らせます。しかし、サムエルの子どもたちは父の道から外れ、賄賂を受け取ったり不正な裁判を下したりする俗物でした。そこで民はサムエルに、自分たちも他の国々のような王様が欲しいと強請(ねだ)ります。それは主への不信から出た願いでしたが、主はイスラエルの十二部族でも最も小さいベニヤミン部族の青年サウルを最初の王とします。サウルは歓迎され、勝利を収め、敵ペリシテ人に挑みますが、分を弁えない行動を重ねてしまう。主はサウルを退け、次の王を選びます。それが少年ダビデです。しかしサウルはダビデの人気に妬みに狂い、ダビデはサウルの殺意を逃れて荒野で十年余りを過ごします。その逃亡劇の間もサウル王の息子ヨナタンはダビデを親友として励ましますが、父サウルはますます狂気に陥り、大祭司の町を虐殺し、霊媒の女にサムエルを呼び出させる。逃げるダビデも、ある家族を腹立ち紛れに皆殺ししそうになったり、妻を次々と娶ったり、あろう事かペリシテ軍に亡命して一緒に戦おうとするなど大きくぶれるのです。最後の方でサムエルがひっそりと亡くなり、最後はサウル率いるイスラエル軍がペリシテ軍に大敗し、サウルもヨナタンも命を落とします。・・・

 と、波瀾万丈のサムエル記第一の、超ざっくりの荒筋です。とてもたくさんのドラマが詰まっていて、一度に話しきることは出来ません。当然一つ一つのストーリーをバラバラに抜き出して、何か単純な道徳や教訓を汲み取ることも、慎重になりたいと思います。ただ、ハンナの祈りで始まったサムエル記は、第二サムエル記二二章のダビデの祈りで結ばれます。サムエルは、母ハンナの祈りに応えて与えられた主からの贈り物で、主の憐れみ深さを体現する存在でした。サムエルも祈りの人でした。王を求めた過ちにようやく気づいた民に、こう言うのです。

Ⅰサムエル12:23私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。

 民の不信仰や傲慢さを嘆きながら、祈り続けるサムエルは、祈りの人でした。また、サムエル記は知恵ある言葉を語っていますし、主と親しく語り合う関係を持っていました。サウルやダビデは、サムエルや預言者を介して主の言葉を聞いたのに、サムエルは別格です。ダビデの記述の方が長いのに「ダビデ記」ではなく、途中で亡くなるサムエルの名が付けられるサムエル記です。サムエルの存在感やその言葉の深さは、死の後もサムエル記の最後まで輝くのです。

 かといって、サムエルが理想的な人で祝福されていたかというとそうではありません。彼の子どもたちは利益を求め、賄賂をもらう指導者に育ちました。民からは愛想を尽かされ、期待したサウルに裏切られ、彼は嘆いて祈ります。彼は祈りの人でしたが、その多くの祈りは叶ったわけではありません。叶わなくても祈る、という意味でサムエルは祈りの人だったのです。社会が大きく変わっていく中で、信仰と祈りがあってもその変化に戸惑ったり振り回されたり、何も出来ない思いをする。むしろ、そういう人間の姿をサムエル記は描いているのでしょう。私たちもどうでしょうか。

 サムエル記のような社会の変化、王になる、豊かになる、またその折角手に入りかけた特権が手から滑り落ちそうになる…。そういう時、私たちはどんな愚かで焦った行動を取ってしまうことでしょうか。サウルを不信仰だとか傲慢だとか単純に批判は出来ません。私だって、宝くじが大当たりしたら、どんなに浮かれて、人を疑い深くなるか、知れません。悪いとか良いとかではなく、社会や環境の変化は私たちの生活や生き方に大きな影響を及ぼすのです。「サムエルやダビデが素晴らしくて、サウルはダメ」と単純化せず、むしろサムエルの嘆きや、サウルの苦しみやブレにも、サムエル記は詳しく寄り添っているのです。

 サウルは確かに主から離れていき、ダビデを妬み、最後は霊媒を頼み、惨めに戦死します。しかしそれはサウルを断罪するためでしょうか。サウルと同じ失敗をしないよう反面教師とするためでしょうか。いや、第一サムエル記は、自害して果てたサウルの亡骸がさらしものにされていたのを、ヤベシュギルアデの人々が、夜通し歩いて、取り戻しにいき、丁重に葬った、という終わり方をしています。サウルを責めるより、そのサウルをあわれみ、悲しみ、いとおしむ姿で結ばれるのですね。(※ そして、無残にさらされた亡骸を葬った、という記述は、イエス・キリストが十字架にさらされ、その亡骸をアリマタヤのヨセフたちが葬った出来事を思い起こさせましょう。イエスは、サウルのような生き方にも、ご自分を重ねてくださり、そこで、死刑になるような生き方をしてきた人(強盗)の隣人となったお方です。)

 近年、教会のリーダーシップ論を扱った本がいくつも出ています。その中では「自分の闇を見つめる。自分の傷ついた真の姿を認める」という事が言われるようになりました[1]。そこで取り上げられる典型的な例がサウルです。サウルのお陰で、私たちは自分の闇、危うさ、妬みや焦りに気づけます。サウルは表面的な悔い改めや自分の面子を気にし、心の闇を否定し続けて泥沼にハマりました。サウルを見つめて「自分も同じ危うい者だ」と謙虚に認める事が希望になります。そして、そのような私たちと主はともにいてくださるのです。サムエル記で敵と言えばペリシテ人を思いますが、実はペリシテ人が用いられてダビデが助かる場面が多くあります。呪わしい筈の霊媒女の方がサウルに親切です。単純に敵だ、悪だ、異教徒だと言えない役回りを果たしているのです。

16:7…人はうわべを見るが、主は心を見る。

 この言葉は、主がサムエルを諭した言葉です。ダビデの兄たちの上辺を見て「この人こそ王にふさわしい」とサムエルは思いましたが、主は上辺ではなく心を見ていると宣言されました。しかし、ダビデは心が立派で上辺はパッとしなかったのでしょうか。いいえ

15「彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった」

と言われます。でも、主はそのダビデの心を見ています。ダビデの心も、やがて王に選ばれたら迷い、怒り、高ぶって、大きな間違いを犯す心であることもご存じの上で、ダビデを選びました。サウルが長身で王に相応しい見た目だったのに、後から妬みや狂気にかられて消えていくのも、その上辺だけを見て、批判するのは人の見方です。その上辺の物語の奥に、どんな心があるのかを、主は見ておられます。私たちには上辺しか見えません。そして時代が変わり思わぬチャンスや焦りに遭うと、隠していた心の、ほんの一部が、思いがけない行動に現れるものです。思いがけない出来事は、人には見えなかった心の一部を露わにします。でもそれも、心の一部で、決して失敗だけで、その人のすべてが分かったように思っては勘違いです。まだまだ隠れた心を持っているのが私たちです。そしてそんな私たちとも主はおられて、見えない所で、しかし確かに働いておられる。過ちやすい私たちを主は導いておられる。それを忘れて、私たちは、自分が王になろうとしたり、上辺だけ見て全てを分かった気になったりもします。でも、主が王である。ダビデの子イエスが、私たちの王となって導いてくださっています。

 時代の激動する今、戸惑い、迷います。心の一部が上辺に現れたり、不安やもどかしさを覚えたりします。そして、本当に、これから先、技術が進み、価値観が多様化し、どんな社会になっていくのか、予想もつきません。だからこそ、助けてくださる主を一緒に仰いで、心を分かち合いながら歩ませていただきましょう。

「心を見たもう主よ。うわべを見て一喜一憂する私たちを、あなたは深く見ておられ、心の闇をも受け止めておられます。だからこそ、あなたの愛のゆえに祈らせてください。見えるものに振り回されるたびに、すべての良いものを下さっているあなたを求めさせてください。あの激動の時代にも、今この時代の変化にも、あなたがともにいて、私たちの王であってください」



[1] ヘンリ・J・M・ナウエン『傷ついた癒やし人』、ゲーリー・マッキントッシュ『リーダーシップのダークサイド 心の闇をどう克服するか』、ピーター・スキャゼロ『情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして』など。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記15章5~21節「アブラハムとの契約 聖書の全体像13」

2019-03-31 06:50:20 | 聖書の物語の全体像

2019/3/24 創世記15章5~21節「アブラハムとの契約 聖書の全体像13」

 聖書の大きな物語の中で、神が最初にアブラハムを選んで、神の民の始まりとなさったことを先週はお話ししました。75歳で子どもがいない。将来を託すにはまず選ばれない人を、あえて神は選んで、新しい歩みへと旅立たせたのです。不思議な予想外の始まりでした。しかし、そんな希望に燃やされても、一向に事態は変わらず時間が経ち、やがて心は失意でジメジメしてくる…。この15章のアブラハムはそうだったかもしれません。75歳で旅立ってから、次の16章の最後は88歳と書かれます。14年、何も変わらない。子どもは与えられないまま時間が過ぎていく。神の約束と現実とは違うじゃないか、と思うような中。1節で主に声をかけられても、子どもがいない現状を並べるだけで、疑問や抗議になるような、そんなアブラハムに、

十五4すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

5そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

 天の星を見上げさせて、数えられるなら数えてご覧、あなたの子孫はこのようになる、とユーモラスに仰るのです。未だに一人さえ与えられていないことで嘆いているのに、天の星のように数えきれないぐらい、だなんてそんな荒唐無稽な話、到底信じられるか、と思いますが、

十五6アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 アブラハムは信じるのです。その約束を信じる。生きている間に見る事はなく、13節も「四百年」以上先の話を語っています。その大きな将来への約束を、アブラハムは受け入れたのです。そしてそのアブラハムの信頼が「義と認められ」ました。アブラハムの信仰そのものに力があったとか立派な信仰だった、ということではなく、語って下さる主を信じた、その精一杯の信仰を主が認めてくださったのですね。信じがたい状況ですし、到底信じられない約束ですけれども、そういう中に、生ける神は働いて恵みを現してくださる。人には終わりで恐れや諦めしかないように思える中でも、世界を造られた神は働いてくださる。天に数えきれない程の星々を鏤(ちりば)められたお方は、アブラハムとサラにも子どもを生まれさせると仰っている。そう言って下さる主に、疑いも迷いも恐れもある中で、しかし信頼をすることを選んだのです。

 18節に「契約」という言葉が出て来ます。9章で神がノアと結んだ「ノア契約」は世界を保持する契約でした。世界の存在そのものを祝福される契約でした。この世界を見るときに、すべてのことに神の御業、御真実が現されています。またこの世界を必ず完成に至らせるご計画があるのです。このノア契約を土台として、「アブラハム契約」は神がアブラハムを選んで語りかけ、この地を所有として与えて、子孫に住まわせるという、具体的な約束でした。土地と子孫を与え、いつまでもそこに住む将来。そしてアブラハムはそう言われた主を信じました。

 聖書で「信じる」という言葉が出て来る最初がここです。かつてアダムとエバは、主の溢れる祝福をエデンの園で味わいながら、神はケチだと唆されて、主を信じない道を選んでしまいました。アダムは主を信じず、それは彼の咎となりました。しかしアブラハムは主を信じ、それが彼の義と認められた。神を信じない世界で初めて、アブラハムが主を信じた。それは人の信仰心や意志ではなく、主がお恵みくださった関係の回復に他なりません。主も彼に信仰を求めたのではなく、約束を与え、語りかけ、既に天に数えきれない程の星があることを見させることによって、アブラハムの中に信仰を引き起こされたのです。主に背を向けていた人類の中から、主を信頼する人を起こしました。それも、直接自分の益になるとか、自分が救われて永遠のいのちをもらうとかではなく、神のこの言葉を、約束を、祝福として受け止め、その成就を待つこと、神を神とする生き方に自分を捧げたのです。主が生きておられ、この世界に希望を与えること、自分の人生に祝福を与えること、人には無理だと思うような命の業をなさること、それも人間の願うよりも大きな神の時間の中でなさることを信頼する「信じた」です[1]

 この6節の言葉は、新約聖書でも大事な言葉として何度も引用されています。

ローマ4:2もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。[2]

 信仰によって義とされる。これはキリスト教の伝道では、何かの行いによって罪の赦しは得られず、ただ神を信じれば(キリスト教を信仰すれば)罪が赦されて救われる、という読み方で強調されます。ですが、アブラハムが主を信じたことには、「救い」以上の約束があり、祝福がありました。そして、その神を信じること自体が神との関係の回復だったのです。

 この後の奇妙な生贄の儀式を思い浮かべてください。雌牛と雌山羊と雄羊と鳥を持って来て屠り、獣は二つに裂くのです。これは契約を締結するときの儀式でした。もし契約を破ればこのように二つに裂かれる、という意味で、裂いた動物の間を契約を結んだ両者が歩くのです。現代の私たちは契約違反を防ぐため何かを担保にしたりしますが、当時は「生贄」で厳粛に契約を結んだのです。血腥(ちなまぐさ)い中でも、鳥は裂かずに二つを向かい合わせにするのは小さいものへの憐れみを現しているようですし、猛禽を追い払うのも無慈悲な思いで扱わない、ということらしいです。アブラハムは、そうした作業を1日掛けてして、また夜が来ると、猛烈な眠気に襲われて、暗闇の恐怖にも襲われます。そのときアブラハムは何も出来ない。恐れるな、と始まった15章ですが、アブラハムは暗闇への恐怖にどうしようもないのです。しかし、主はそのアブラハムを「恐れるな」と叱るのではないのですね。13~16節で将来への希望を確約します。主の契約は、アブラハムが信じれば守る、恐れなければ果たされる、という条件付きではなく、無条件の一方的な将来への祝福の約束なのです。力強い宣言です。そして、

15:17日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

 煙と火があの二つに裂いた生贄の間を通った。契約を破ればこのように殺されても良い、と文字通り命を賭ける儀式が、しかしアブラハムは通らずに締結されました。主は契約を忠実に守られます。破るとしたら、人間です。しかし、主はアブラハムに生贄の間を通らせません。あたかも主がひとりでその罰を引き受けるようでした。そして後に、荒野をイスラエルの民が旅した四〇年、いつも昼は雲の柱、夜は火の柱が先立ちました。そしてやがて、本当の生贄となったのは神の御子イエス・キリストでした。この契約儀式通り、神は人の違反の罰を人に負わせず、ひとり子イエスが十字架で裂かれた事で、人の違反を償ってくださり、契約を果たされました。神はどうしても人間との関係を回復して、恵みによる祝福に与らせたいのです[3]。アブラハムに将来の祝福も約束し、主を信じる心も与えました。

 それに応答してアブラハムは主を信じ、猛禽を追い払ったりしました。人には応答する責任があります。でも、恐怖に襲われたり眠かったり、疑ったり約束を破ったりするのも人間です。応答にしくじる私たちを主は深く受け止めてくださる。人が神に背いても、その償いの代価をご自身が命がけで払う。そうして主の赦しと回復を受け取りながら、必ず、神の祝福に与らせてくださることは、主イエスの十字架で果たされ、今アブラハムの子孫が数えきれない程いることにも、私たちがここでその信仰に連なっていること、赦しと約束の福音に与っている事実にも、成就しています[4]

 主を信じる私たちの信仰は、小さいようでも、世界を作られた神が私たちを愛され、希望を約束されている。そんな大胆な信仰です。今ここで主を信じる信仰は、限りない価値があるのです。

「天を作り、命を育まれる主よ。月や星を見上げ、世界に広がる信仰の家族の多さに、アブラハム契約の確かさを覚えます。どうぞ、今ここでの歩みをあなたの大きな祝福の中に受け止める信仰を与えてください。暗闇の恐怖に襲われる時にも、あなたが私たちを支えて導いてください。神ならぬものを神とせず、主にある希望を語り、互いを生かし合う者としてください」



[1] それは神との関係を回復することによる祝福です。神との関係なしに、ただ祝福や利益だけを欲しいと願っても、それを人間は悪用してしまうでしょう。そもそも神や人との関係よりも、自分が自分はと思う生き方自体が、惨めで歪んだもの、そこからこそ救われなければならない生き方です。そして、神に立ち帰って、神を神とすることは束縛や息の詰まるようなことではなく、深い豊かな祝福なのです。でもそれに背を向けてしまっているのがアダム以来の人間の姿です。そのような人の中で、神はアブラハムを起こして、アブラハムに約束と信じる心を与えてくださいました。その末に、今私たちも神の民とされ、神を信じる心を与えられて、礼拝に来ています。今ここに、神は働いておられる。長いご計画で働いておられる。

[2] ローマ書4章9節以下も。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。11彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、12また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。13というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。14もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。15実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。16そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。17「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。18彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。19彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。20不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、21神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。22だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。23しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、24私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。25主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」また、ガラテヤ書3章6節「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。10律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。14それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

[3] 18節以下の主の宣言が重なって、主はアブラハムにこの地を確かに与えると言われます。この言葉は千年後、ソロモン王の治世の最大領域で成就したのだとも言われます。

[4] 《破った結果は人間が罰を受けるけれども、後からキリストが救済策として身代わりになってくださった》のではありません。最初から、神はご自身が償いを果たすと約束したのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答90~91 イザヤ書54章1~8節「安息を中心に生きる」

2019-03-31 06:40:57 | はじめての教理問答

2019/3/24 イザヤ書54章1~8節「安息を中心に生きる」はじめての教理問答90~91

 「初めての教理問答」から「十戒」をお話ししています。第一戒は、本当の神だけを神とすること、礼拝の対象。第二戒は、神を偶像やイメージを持ち込まずに礼拝する、礼拝の形式。第三戒は、神の名をみだりに唱えない、つまり礼拝の心構え、でした。第四戒は、礼拝が、時間の過ごし方にも関わっていることを教えています。

問90 第四の戒めはどういうものですか?

答 第四の戒めは、
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」

です( 出エジプト20:8-11)。

問91 第四の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 六日のあいだ働いて、安息日を聖とすることを教えています。

 第六戒は、一週間に一度、仕事を休めて、安息日として聖別することを教えています。その日、神が天と地と海、その中にいるすべての生き物を造られた上で休まれたことを、じっくりと味わうため、安息日を

「覚えよ」

 神が十戒の中で私たちに「覚えよ」と命じているたった一つのことは「安息日」です。どうでしょうか。「神が私たちに「覚えてほしい」ことは何だ?」というクイズを出したら、「安息日」だって考えるでしょうか。暗唱聖句とか、十戒の第五戒より後の

「父と母を敬え」
「殺してはならない」
「姦淫してはならない」

といった、守るべき規則や道徳を思うのではないでしょうか。「安息日を覚えなさい」ということだとは、私なら到底思いつかない自信があります。

 しかも「安息日を覚える」とは、仕事をせず、家族や奴隷や家畜も休ませて、一緒に、神がこの世界を造られて、神も手を休めて世界をご覧になったことを覚える、というのですね。何かをしなさい、というのとは反対に、何もせずに、神がすべてをなさったことを思う。それが安息日なのです。人が働くことも大事です。六日間は働くのです。でも、七日目は仕事を休めて、神が働いてくださってこの世界があることを十分に味わうのです。自分が働かなくても、世界は動いている。そうじっくり覚えるのです。

 「十戒」は出エジプト記の20章に記されていますが、もう一回、申命記の5章にも記されています。二つは殆どが一緒ですが「安息日」の理由が違っています。出エジプト記では

〈神が世界を創造して休んだ〉

ことが理由ですが、申命記では

〈エジプトの奴隷生活からの解放〉

が安息日の理由です。天地創造と奴隷生活からの解放。この二つが、安息日を覚える理由なのです。みんなで仕事の手を最大限休んで、神が世界を創造されたことと、私たちを奴隷生活から救い出してくださったことを覚えるのです。そこで今、イエス・キリストが十字架の死から三日目の日曜日に復活されてからは、安息日は土曜日ではなく、日曜日としています。日曜ごとにイエスが復活して、救いを完成された。私たちは罪を赦されて、永遠のいのちを戴いていることを覚えるのです。

 今、日曜日は、日本での実際は、教会に行き礼拝を捧げ、一緒にご飯を食べたり聖書を学んだり、ということになるでしょう。でも、それで忙しくなるようなら、立ち止まって、休んでもいいのです。安息日とは名ばかりで、教会活動の日になってしまうのは、とても注意しなければならないことです。今日のイザヤ書でも繰り返していました。

イザヤ五六4…「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

 ここで安息日は「喜び」と結びつけられています。神が人間に安息日を下さったのは、神がこの世界を安息の世界として造られたことを覚えるためです。また、その中でも、人が奴隷にされていたのを解放してくださったことを覚えるためです。その事を、片手間でなく覚えるために、週に一日を安息日とするよう、主は命じたのです。そして、私たちが、こうして安息日のたびに、神が世界を造ったことと、私たちを救い出してくださった事実とを覚えることは、喜びになるのです。

 さて、安息日を覚えるのは、過去の天地創造という始まりや出エジプトという出来事を覚えるだけの、後ろ向きな生き方ではありません。なぜなら、六日働いては一日休み、また六日働いて安息日が来る、という繰り返しがこれからも続くからです。私たちの生活が、全生涯が、安息日で区切られるのです。しかも、その日はすべての人にとっての「安息日」です。奴隷も家畜も休むと言いました。主人が「お前は今週仕事が足りなかったから安息日はなしだ」、「お前は良い子でなかったから、安息日に休む資格はない」などと言う事は許されないのです。全ての人が、安息日には休みながら、一緒に、主が世界を造られて、私たちを解放してくださった、と喜び祝うのです。勿論、サボっていいわけではありません。サボることは、その人自身の生き方の損でしょう。六日間は働くのが人間の生き方なのです。そして、七日目は休んで神と共に喜ぶのです。神が私たちを作ってくださった。私たちが奴隷になることに耐えられず、死んでよみがえってくださった。私たちは、神の作品、神の子ども。そして神は、やがて世界に永遠の安息を与えようと約束しています。安息日は、その保証でもあります。今、安息を中心とした生き方をするのは、私たちの人生やこの世界の歴史が、安息へと向かっているからです。

 クラーク博士で有名な札幌農学校の校則はたった一文。

Be Gentle.

だったそうです。細かく何をするか、よりも紳士であれ、そうすれば行いはついてくる。

 聖書は丁寧に、私たちの生き方に具体的な指示をくれます。けれども、その出発点で覚えるべき事は、安息日でした。安息日を繰り返す生活。何をするよりも、一緒に休んで、神がこの美しい世界を造り、私たちを生かしてくださっている。神が力強く私たちを奴隷生活から解放してくださった。その事に尽きる。だから、私たちは自分が神になろうとしない。神を知らないもののように生きない。神に愛されている者として、自由な者として生きる。そして人にも休みを与え、人と一緒に祝うような存在になる。私たちが安息日を守るのではないのです。安息日を覚える生き方が、私たちを神の民として守ってくれるのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答88~89 マタイ7章21~23節「神、神、と言うな」

2019-03-17 20:19:51 | はじめての教理問答

2019/3/17 マタイ7章21~23節「神、神、と言うな」はじめての教理問答88~89

 夕拝では主が下さった「十戒」をお話ししています。主が私たちに下さった十戒を、私たちが心から受け取る。それも、礼拝の一つです。そして、主の言葉は私たちを生かします。十戒を深く味わうことで、私たちは神さまの御心の素晴らしさに触れて、恵みを味わい、主を誉め称えるのです。今日は、十戒の第三戒をお話ししましょう。

問88 第三の戒めはどういうものですか?

答 第三の戒めは、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」です(出エジプト20:7)。

問89 第三の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 神さまの名前、そのことばとわざを、敬うことを教えています。

 第三戒は、「主の名をみだりに唱えない」です。「主」とは、天地を造られた神様が聖書の歴史の中で、ご自分のことを名乗られたお名前です。そのお名前をやたらと唱えない、ということです。それは、主の名前だけではなく、神の言葉、神のわざ、神のご人格全体を、畏れ敬うことです。ちなみに「主」という言葉は、もともとのヘブル語で

יהוה‎

と書きますが、これをどう読むのか、今はハッキリしません。というのは、ユダヤ人達が「主の名をみだりに唱えてはならないのだから、この名前のところに来たら、声に出さずに、静かにして、アドナイと言い換えて読もう」としたのだそうです。「アドナイ」というのは「主・主人」という意味のヘブル語です。神さまの名前ではないのですが、軽々しく唱えてはならない、恐れ多い名前だから、もう口にはしない。そのうちどう読むのか分からなくなってしまって、今ではこれはたぶん「ヤハウェ」と読むのだろうと考えられています。主の名をみだりに唱えないようにした結果なのです。それはそれで、笑うようなことではない、精一杯の守り方だったのだと思います。それでも、ただ口にしない、という以上のことを第三戒は教えているのではないでしょうか。

 パウロや新約聖書では、むしろ積極的に「主の名によってせよ」と命じています。

コロサイ三17ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

 何をするときも、感謝しつつ、主イエスの名において行いなさい。こういう積極的なことが言われています。これも逆にいつも「イエスの名によって」「主によって」と口にしていなさい、ということではないでしょう。主がどんなお方か、主イエスが私たちにとってどれほど大きい方か。何をするにしても、イエスと無関係なことは何もない。それほど大きなお方だと分かることが先にあるはずです。それなしにやたらと名前を口にするとしたら、それはみだりに名前を唱えることになりますね。

マタイ七21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

 ここで言われている人は、「主よ、主よ」と熱心に御名を呼んでいます。でも、主よ、主よと繰り返して、他の人にも御名によって御言葉を伝えて、御名によって悪霊を追い出したり、御名によって奇蹟を行ったりしても、天の父の御心を行うことに心は向いていませんでした。御名を使ってはいても、天の父の御心に生きていませんでした。神の御心は私たちへの愛です。神ご自身も、御子イエスとの間に、父と子の親しい関係があります。そして私たちにも、神を父と呼ぶ親しい関係が与えられます。ですから私たちも、お互いに赦し合い、愛し合い、受け入れ合う、親しく真実な、愛の関係を神は求められます。その関係を棚に上げて、神さまの御名で働きをしたり、力を示したりして、自分はそういうことをしたから御国に入る資格があると考えている。それは、何と言う思い上がった、悲しい勘違いでしょうか。「主よ、主よ」と言いつつ、その主がどんなお方か、「主よ」と呼ばせて下さる神さまがどんなに恵み深いお方か、ということはどこかに飛んで行ってしまっていた。それは、決して神が喜ばれることではないのです。神の名を口にするときも、ちょっと立ち止まって、じっくり考えて、神さまを見上げる。そうすると、神の素晴らしさ、御真実を思う事が出来ます。

 神はすばらしいお方です。その神が、私たちにご自分の名を知らせてくださいました。私たちは、神を親しく主とお呼びします。本当はどう呼ぶのか、分からなくなっているとしても、主なる神は私たちのその呼びかけに喜んで応えてくださいます。また、神は私たちにご自分を

「天にいます私たちの父よ」

と呼ばせてくださいました。天地の創造主を、自分のお父さんと親しく呼べるなんて、恐れ多い事です。でも、神は、私たちの父となってくださって、私たちが「お父さん」と呼ぶことを喜んでくださっています。なんとすばらしいことでしょう。また、神の子は私たちのために人となってくださり、イエスとして現れてくださいました。飼葉桶に寝かせられた赤ん坊として生まれ、人として過ごし、最後は十字架に殺されて、三日目によみがえられたあのイエスが、私たちの神であり、救い主でいてくださる。「イエス様」という御名を知らされています。また私たちは神を

「私の神、私たちの神」

と親しくお呼びすることが出来ます。神が私の神となってくださっている。それも、本当に素晴らしいことです。

 神は、私たちの名前も呼んで下さるお方でもあります。

イザヤ四三1だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

 主が私たちの名を呼ばれるのも、決してみだりにではありません。私や皆さんの名を、神は愛を込めて呼んで下さいます。終わりの日にも私たちの名を呼んでくださいます。だから私たちも、そのお方の名を軽々しく呼ばない。そういう関係が与えられたのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする