聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」

2021-01-30 12:18:00 | 一書説教
2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」[1]

 一書説教として「テサロニケ人への手紙第一」を取り上げます。この手紙で最も有名なのは、
5:16~18いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい[2]。
でしょう。私たちの心に残る美しい招きで、ハガキや壁掛けに飾っている方も多いでしょう。その三つは5章だけでなく、この手紙で繰り返して出て来る言葉です。今日読んだ最初にも、
2私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。3私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望み[3]に支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。…
 そう言って、パウロはこの一章から三章まで、テサロニケ宣教の経緯を振り返っています[4]。


 テサロニケは当時のマケドニア州の州都として栄えた大都市で、現在もギリシャの港湾都市です。この手紙の書き手であるパウロとシルワノとテモテは、この大都市を第2回伝道旅行で訪問し、伝道をしたのです。その時に誕生したのが、テサロニケにあるキリスト者の共同体でした[5]。それは、初めてのマケドニア、引いては初めてのヨーロッパの福音宣教で大都市に教会が誕生した、歴史的な一歩でした。しかし、そこにも教会への激しい反対があったことは2章14節以降でも窺えます。使徒の働き17章を見ると、その迫害が危険だったために、たった3週間で、パウロたちはテサロニケを密かに脱出して、アテネ、コリントまで移ったのです。
 パウロは「残してきたテサロニケの信徒たちはどうしているだろう」と心配で、直接その様子を見に行きたいと何度も試みました。3章ではテモテだけをこっそりテサロニケに送り込んだとあり、手に汗握る現実がありました。その密偵テモテが戻って報告しました。テサロニケの信者が迫害の中でも信仰に立ち、彼らもパウロたちに会いたいと思っている。
 パウロはその知らせに深く慰められたと告白しています。それでこの手紙第一が書かれたのです。そうしたこれまでの迫害や苦しみ、心配や緊迫も含めた歩みを振り返って、パウロはこの手紙を書き、感謝から書き始めたのです。大変なこともそれを祈りながら、一つ一つが神の御業だったと心から思えました。自分が伝道したという以上に、生ける神御自身が働いて、迫害の中でも主を信じる人々を支え、遠く離れていても慰め合い祈り合う関係を下さいました。その神がこれからも必ず私たちを救い出される。そう心から感謝するパウロの手紙なのです。
 四章では淫らな行いを避けること[6]、兄弟愛[7]、働くこと[8]について触れられています。テサロニケ教会はまた信仰の知識も未熟でした。何しろ新約聖書の殆どがこれから書かれる、という時です。パウロの滞在はたった三週間足らずでした。疑問や誤解もありました。また、
4:13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 イエスは死んで復活されました。その事は、私たちの死の体験、死別の悲しみにも新しい光を当てます。悲しみがなくなるのではありませんが、望みのない他の人々、イエスの死と復活を知らない人々とは全く違う悲しみ方、悼み方、受け止め方が始まります。でもその事をまだよく分からないで困惑していたのがテサロニケ教会の現場でした。それに応えた、死の悲しみについての言葉も、この書の素晴らしい慰めです。テサロニケ書はパウロの励ましの書です。
 しかしパウロは一方的に教え諭すだけではなく、テサロニケの教会から慰められ、励まされてもいました。手紙は双方向です。テサロニケ教会の様子が分からないときは、いてもたってもいられなかったことも率直に告白しています。「いつも喜んでいなさい」と言ったパウロは、「私はいつも喜んでいる」とは言わず、「私もあなたがたから喜びをもらった」と素直でした。

 喜び[9]、祈り[10]、感謝[11]。これは別々の三つの美徳というより、三角形のような関係です。
 私たちの心はいつも喜びを求めています。心の素直な願いや必要が満たされることが喜びです。喜びなさいとは、喜んだふりではなく、心の流れを作ることです。
 そのためにも絶えず祈ることが出来ます。手紙をもらう小さな喜びから、迫害や死別の深い悲しみまで、絶えず起きる出来事を、神の前に差し出すことが出来ます。私たちのために御子を送り、死者の中から復活させた方の前に置くのです。
 そして「感謝」とは、何かを贈り物として受け止めることです。すべてのことにおいて鏤(ちりば)められている恵みがあります。心が求める喜びを大事にし、主の前に何でも持っていき、現実にある出来事に神からの贈り物を気づく。お互いに支え合う関係です。

 これは、新約聖書で恐らく最も早く書かれた書です[12]。それがこの手紙でした[13]。「聖書は神様からのラブレター」とも言われます[14]。確かに神は手紙という方法が好きな方で、聖書の中に22通もの手紙を大いに採用なさいました。聖書は静かな大聖堂や教室で一方的に語られたというより、現場にある教会に宛てて書かれた手紙なのです。書かれた事情があって、書き手にも様々な背景があって[15]、具体的な現場で書かれながら、生けるまことの神がそこで主の民に、喜びと祈りと感謝を与えてくれました。そのやりとりを、今ここにいる私たちも味わって読むことから、生ける神は私たちを励まして、喜び・祈り・感謝を励まされ[16]るのです[17]。

「主よ、テサロニケ書を通して、喜びや希望を与えてくださり、感謝します。パウロの言葉を通して、あなたの私たちに対する慈しみが届けられます。あなたから私たちへの手紙に、いつも励ましを戴かせてください。あなたは私たちの痛みも渇きも、過ちもご存じです。今、私たちに知恵と忍耐を与えて保ち、やがて私たちと顔を合わせる将来を、あなたご自身が待ち望んでおられます。みことばの一つ一つがここにいる一人一人を生かす手紙となりますように」



脚注:

[2] Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[3] 「望み」は、本書で6回繰り返されています。1:3「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」10「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」2:19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。」4:13「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」5:8「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[4] アウトライン:

1:1-5 挨拶の祈り

1:6-3:13 振り返りと誠実さの確認

1:6-10 テサロニケ教会信徒の回心 偶像から生けるまことの神に

2:1-12 パウロのテサロニケ宣教 母のように父のように

2:13-16 キリストとキリスト者の苦難

3:17-3:10 パウロの心配と安堵

3:11-13 忍耐の祈り

4:1-5章 成長への励まし

4:1-12 聖く生きること 性的不品行を避ける。勤勉に働く。

4:13-18 死別の疑問とイエスの再臨の希望

5:1-11 主の日の訪れを待つ生活

5:12-22 具体的な生き方の姿勢

5:23-28 祝祷・結語

[5] 詳しくは、使徒の働き17章を参照。

[6] 4:3「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、4一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、5神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。7神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」

[7] 4:9「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、10マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」 この言葉が示しているように、この「兄弟愛」は実際の慈善活動、募金のことだと考えられます。

[8] 4:11「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。12外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」 この繋がり方も、9節の「兄弟愛」が、働くことによって助け合うことを指していると推察できます。

[9] 「喜び」は本書に11回。1:6「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」、2:4「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」、8「あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。」、15「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。」、19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、4:1「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」、5:16「いつも喜んでいなさい。」

[10] 「祈り」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、3:10「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」、5:17「絶えず祈りなさい。」、25「兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。」また、3:11~13と5:23~25、28は、祈りの言葉そのものです。3:11-13「どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。」5:23-24「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められることのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

[11] 「感謝」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、2:13「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、5:18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[12] 新約聖書にはパウロの手紙が13通あります。長いローマ書やコリント書の後に来るテサロニケ書は短めの5章の目立たない手紙ですが、書かれた順番では恐らく一番初めです。ただし、ガラテヤ書が「南ガラテヤ説」という執筆事情の仮説を採れば、テサロニケ書よりも先ということになりますが、現代では「北ガラテヤ説」に軍配が上がっています(ただし、どちらかを決定づけることは出来ないというスタンスは、いずれの説を問わず共有されているコンセンサスです)ので、テサロニケ書が恐らく最初の書簡です。

[13] 旧約聖書には一書が丸々手紙のものはありませんが、新約で手紙形式が採用されて、聖書の後半を占めています。パウロ書簡以外では、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙(第一と第二)、ヨハネの手紙(第一、第二、第三)、ユダの手紙。そして、ヨハネの黙示録も手紙形式です。手紙というジャンルについては、関野祐二「文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 書簡の解釈」第4回(上)、第5回(中)、第6回 (下)が参考になります。

[14] これは聖書を紹介する言い方の一つで、この言い方への反論もあります。ラブレターとはとても思えない内容もありますから。むしろ、聖書は神が私たちに与えられた「物語」、「大河ドラマ」と重厚なイメージがそぐうかとも思います。

[15] そもそも、パウロの第二回伝道旅行は、バルナバと決裂して、体調を崩してか道を閉ざされ、初のマケドニア(ヨーロッパ)上陸。ピリピでむち打たれ、テサロニケでも3週間で追い出され、ベレアまでテサロニケのユダヤ人が追いかけて、アテネに避難した。そこでもほぼ見向きされず、コリントにやってきた。コリントでの宣教の難しさも、使徒の働き18章、コリント書第一第二から見て取れます。そこで、テサロニケの信徒を案じていて、テモテがテサロニケの報告を持って帰ってきた、という状況で書かれた。

[16] 励ましは、5回。2:12「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」3:2「私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、」4:18「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」5:11「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」、14「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」

[17] 主にあって励ましをもらい、励ます、一方的でない交わり。お互いの戦い、悲しみ、困難を覚えつつ、「本当は直接会えたら一番だ」という思いが、今の精一杯として、この手紙を書かせたのです。よちよち歩きの教会に、彼らを想って一喜一憂するパウロが書いたテサロニケ書。その手紙を通して、その後の教会も今に至るまで支えられてきました。今ここに生きる私たちのすべてをご存じの神が、あの時代あの現場を生きた教会への手紙を通して、私たちを励まし、支えてくださいます。主は、この手紙を通して、私たちをも励まし、慰めてくださるお方です。私たちに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝するよう励まし、成長させてくださるのです。


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2021/1/24 マタイ伝15章29~39節「七つのパンと少しの魚」

2021-01-23 12:04:07 | マタイの福音書講解
2021/1/24 マタイ伝15章29~39節「七つのパンと少しの魚」

前  奏 

招  詞  マタイ11章28~30節
祈  祷
賛  美  讃美歌6「我ら主を」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交  読  詩篇23篇(1)
 賛  美  讃美歌354「飼い主わが主よ」①②
聖  書  マタイの福音書15章29~39節
説  教  「七つのパンと少しの魚」古川和男牧師
賛  美  讃美歌354 ③④
献  金
感謝祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌540「御恵み溢るる」
*祝  祷
*後  奏

 マタイの福音書15章の結びです。28章あるマタイの折り返しを過ぎました。この15~17章でイエスの旅は都エルサレムから最も北に離れ、異邦人の地を彷徨うようにしています[1]。この後、南下して、都で十字架と復活へと向かう。その折り返しでの出来事がここにあります。
 今日の前半、大勢の群衆がイエスのもとに足や目や手、口に障害のある人たちを連れて来、イエスが彼らを癒やされたとあります。今までにもイエスが病人を癒やす奇蹟は何度もありましたが、この人たちは初めてイエスの癒やしを見たように驚きました。30節の
「イエスの足下に置いた」
は投げたという意味で[2]、障害者をイエスの足下に投げ捨てたのです。「イエスならきっと癒やしてくれる」と願って連れて来たより、何の期待もなく捨てに来た感じです。しかし、イエスがその捨てられた人を癒やされた-期待もしなかった奇蹟を見て、驚いた。そして
「イスラエルの神をあがめた」
という言い方は、ここにいる人々がイスラエル人ではない人々、今までイエスの奇蹟を目にしたことがない人たちであった、という事です。この時の場所は、ガリラヤ湖でも、西のユダヤ人のガリラヤとは反対の、東側の異邦人の地でした。その、異邦人たちに対して、イエスがなさったのが今日の「七つのパンと少しの魚」という奇蹟です。
 14章の「五つのパンと二匹の魚」は有名ですが今日の「七つのパンと少しの魚」は、似たような話だから「何が違うんだろう?」と思われるかもしれません。今申し上げたように、この奇蹟は、異邦人たちに対してです。似たような出来事ではありますが、大きな違いは、この奇蹟が、ユダヤ人ではない、ガリラヤ湖を挟んで対岸にある人々、ある意味ではガリラヤ湖の漁師のペテロや他の弟子たちと「睨(にら)み合って」来た人々に対してなされた、という事です。
 そう考えると、ここには、弟子たちの彼ら群衆に対する冷たさも露骨に見えてきます。「五つのパン」では弟子たちの方から群衆の食事を心配してイエスに声をかけていました。それもその日のうちの夕方前にでした。しかしこの「七つのパン」では、三日経っても弟子の方からは何も言い出さず、イエスの方から「かわいそうに」と言い出されています。弟子たちの返事は「五つのパン」の奇蹟が彼らにも与えられるのではないかなどとは思いもせず、パンの数を聞かれて
「七つです。それに、小さい魚が少しあります」
というのも、いかにも投げやりです。「少し」ってどれぐらいなのでしょう。その「少し」も、あの群衆には惜しい、と聞こえます[3]。
 これに対して、イエスが32節で仰る
「かわいそうに」
は、「腸を痛める」という言葉です[4]。イエスの深い、おなかが痛くなるほどの思いやりは、この異邦人たち、病人を足下に投げ捨てる人々にも注がれています。そして、彼のためにもパンを差し出すことを弟子たちに求めました。群衆たちにも座って協力することを求め、その後
「感謝の祈り」
を捧げました[5]。感謝! この時、弟子たちが祈ったとしたら感謝なんて思いついたでしょうか。口先だけの感謝を形ばかり祈ることはあったかもしれません。しかしイエスにはそんなことはありません。本当に感謝していたのです。異邦人の群衆とともに食事できて感謝。この群衆と出会わせてくださって感謝。彼らに食事が与えられて感謝。32節での
「空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから」
と真剣に心配された問題をシッカリと解消できて、食事をした彼らを帰らせることが出来る安心を、感謝なさったのです[6]。
 この後彼らをイエスはすぐ解散させるのですから、この奇蹟に与った結果、全員がイエスを信じて回心するとか、何か結果を当て込んではいません。ともかく、今ここでこの人々とともに食事をすること、神が僅か七つのパンと数えられもしない魚数匹をさえ用いて、養ってくださることを感謝したのです。そして、その後、弟子たちにパンと魚を渡して、弟子たちは群衆に渡して、人々は食べて満腹しました。余ったパン切れは七つの籠(大きなバスケット)が一杯になるほど豊かでした。そして、イエスは
「群衆を解散させて舟に乗り」
次の地方に渡って行かれたのです。
 「五つのパンと二匹の魚」でイエスが何千人もの人を養った奇蹟は、四つの福音書が揃って記す奇蹟としては、復活以外の唯一の記事です。それは、イエスの慈しみと、弟子たちに託される務めを豊かに証ししています[7]。この「七つのパンと少しの魚」は、それが更に、異邦人や、弟子たちにとっての「他人」、すべての人々にも及んでいることを見せてくれます。弟子やユダヤ人の思い及ばない所にまで、主イエスの心は及んでいました。そしてその養いのために、弟子たちは持っているものを献げ、配慮して、配るようにと召されます。主イエスが「自分の必要を満たして下さる」というだけでなく、人が視野に入れていない人々、背を向けている人々の必要にまで深く心を留めている。途中で動けなくならないかと案じられ、一食をともに出来ることを感謝して、帰らせる。そのイエスだから、私たちをあわれんで、今日まで養ってくださっています。私たちの空腹や必要に心を配り、私たちとともに食したり歩んだりできることを感謝して、私たちの持つわずかなものや、私たちの手、働きをそのために用いられるのです。

「命のパンである主よ。あなたはパンを通して民を養い、あなたの豊かな恵みを示されました。私たちが養われ、今日まで旅を続け、満たされた事もすべてはあなたの恵みです。私たちの冷たく、投げやりな思いも溶かしてください。あなたとの関係だけでなく、私たちのヨコの関係も、全く別だと思っている関係も、すべてを支えるのはあなたの思いであり、そこに私たちへの招きがあります。どうぞ御手の中で、私たちの存在も命の糧として、お用いください」

脚注:

[1] マルコ7:31によれば、デカポリス経由です。「イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。」

[2] リプトー。マタイ9:36(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れていたからである)、27:5(そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。)

[3] 日本語には訳されていませんが、33節には「私たちがヘーミンどこで手に入れることができるでしょう」と「私たち」が使われています。いかにも「この私たちがですか??」と不満げです。

[4] スプランクニゾマイ。マタイ9:36、14:14、18:27、20:34。

[5] 原文では「祈り」はなく、「感謝して」です。これを祈りの要素と読むことも出来ますが、第一義的には「感謝して」なのです。

[6] 感謝(ユーカリストー)は、マタイではここと26:27(聖餐の杯)のみ。

[7] イエスの不思議な力や、人に食事を与え、養ってくださるお方であることを示しています。また、その業を弟子たちが持つ僅かなものを通してなさること、弟子たちが自分の持っているものを差し出す時に、それが祝福されることも教えてくれる物語です。もう少し詳しくは、その時の説教ブログをお読み下さい。

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2021/1/17 マタイ伝15章21~28節「小犬の信仰」

2021-01-16 12:00:50 | マタイの福音書講解
2021/1/17 マタイ伝15章21~28節「小犬の信仰」

前奏 
招詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈祷
賛美  讃美歌3「天地の御神をば」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇1篇(1)
賛美  讃美歌298「安かれわが心よ」①③
聖書  マタイの福音書15章21~28節
説教  「小犬の信仰」古川和男牧師
賛美  讃美歌467「思えば昔イエス君」
献金・感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌539「天地挙りて」
*祝祷
*後奏

 今日の舞台となる「ツロとシドン」はガリラヤから更に北、異国の地でした。前回、都エルサレムから指導者たちがやってきて、イエスを批判した事が書かれていました。その決裂でイエスは更に遠くのツロとシドンに、一時的にではありますが退いたのです。旧約聖書の預言書には、創世記の最初から名前が出て来る古い町で[1]、貿易で大いに栄えた反面、偶像崇拝や暴君ぶりで神の厳しいさばきを受けるともされていました[2]。このマタイの福音書でも、
十一21…さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすい…
と持ち出されたのは、それだけこの地域が神の前に、悪を積み上げてきた歴史を持っているからです。しかし、皮肉なことに今イエスは、エルサレムの宗教家たちの躓きに距離を置くため、ツロとシドンの地方に退かれています。そして、そこでカナン人の女の信仰に驚くのです。
22すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
 「カナン人」も旧約聖書にはなじみ深い地名で、かつてこの地域に住んでいた民の総称です。カナン人の罪は非常に重く、神はイスラエルにその地を与えて、カナン人をさばき、カナンの風習を真似てはならない、と繰り返して言われていました。ですから、そのカナン人であるこの女性は、イスラエルにとって異邦人であり敵です。その先祖の女帝イゼベルとも重なる、滅ぼされるべき人、近づくのも忌まわしい人でした[3]。なのに、彼女の口から出たのは「主よ、ダビデの子よ」という、イエスに対する告白でした。彼女は娘のため、イエスに叫び続けます。
23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
 女は、イエスに無視されても引き下がらず、弟子たちに邪魔者扱いされても食い下がります。
24「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
 イエスの将来的な働きはすべての民に広がります[4]。そのためにも神が選ばれたイスラエルの民をまず扱う[5]。その順番をイエスは仰っています[6]。それでもこの女性は諦めません。イエスの前にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と懇願します。これにイエスは、
26…「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
 これは24節を言い換えたもので、「子どもたち(イスラエルの家の失われた羊たち)」のパン(祝福)を小犬(異邦人)に投げてやるのは、ご自分の使命に反すると仰有るのです。異邦人を「犬」と呼ぶのは、ユダヤ人に慣わしだったようですが、あんまりな言い草ではあります。
27しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」[7]
 この「ただ」は「なぜなら」という言葉です。子どものパンを小犬に与えるのはとんでもない。なぜなら、小犬は食卓から零れるパン屑を戴けるからです。彼女は諦めません。ここまで娘のために食い下がるこの母親に、イエスは言われました。
28…『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒やされた。」[8]。
 この女性の「信仰」が立派(大きい)とイエスは仰有いました。彼女が願ったのは、罪の告白や主への悔い改めではなく、わが娘の癒やしでした。その娘思いにしても、詳細は不明です。娘が悪霊に憑かれていたのも、母である彼女自身が関係なかったかどうか分かりません。シドンもイスラエルも、現代の日本も、親は子どもを愛する一面、やり過ぎたり間違ったり、子育てに後悔や失敗はつきものです。彼女が立派な信仰者だったと理想化するより、娘の苦しみに今、必死で、たまたまそこにやってきて出会ったイエスになぜかしら、
「ダビデの子」
という聖書的な告白で呼びかけて、諦めることなく食い下がって、おこぼれでも良いから助けてほしいと願った、それをイエスが
「あなたの信仰は立派です」
と見てくださった。自分の娘への必死な願いと、神のあわれみは大きいに違いないとしがみついた。現実の厳しさや神のつれない応答や、物事には順序があるという理屈さえ踏み越えて、ひれ伏し求める願い。その願いを、信仰など最も縁のなさそうな所にイエスは見つけて、それを「立派な信仰」と言ってくださいました。言わばイエスご自身が、そこにあった願いに「然り(アーメン)」と言ってくださったのです。
 主の食卓には零(こぼ)れ落ちるほどの恵みがある。私たちもユダヤ人ではなく異邦人、小犬です。溢れる恵みに与って、失われた生き方から良い羊飼いが見つけて下さって、今ここにいます。そして、その私たちからも溢れて、主の祝福が周りにも届いている。だから教会の外で、聖書を知らない人が、キリスト者以上の信仰や愛を見せます。悪霊や不信仰や、危険に一線を画して退かなければならない生活の中でも、なお家族や愛する人のために献身し、諦めずに回復を願う行為に頭が下がる思いをします。その時、主イエスはその人の願いに
「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」
と-
アーメン
と言っておられるのです。

「主よ、あなたの食卓から零れた恵みで豊かに養われ、喜びを注がれた私たちです。どうぞ私たちをもあなたの祝福のパン屑として、周囲への恵みとしてください。あなたの恵みを小さく遠く考えて、願い祈ることも諦めてしまう私たちの弱さ、愛する者の苦しみに手をこまねいて苦しむこの世界の叫びも、あなたはご存じです。どうぞ憐れんでください。そして、私たちの思いを超えて咲く恵みを見落とさず、世界に働き続けるあなたを褒め称えさせてください」

脚注:

[1] 創世記10:19(19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かって、ガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かって、ラシャにまで及んだ。)、49:13(ゼブルンは海辺に、船の着く岸辺に住む。その境はシドンにまで至る。)、ヨシュア記19:28(エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て大シドンに至る。)、他。

[2] イザヤ書23章(1 ツロについての宣告。タルシシュの船よ、泣き叫べ。ツロは荒らされて家もなく、そこには入れない。キティムの地から、それは彼らに示される。2 海辺の住民よ、黙れ。海を渡るシドンの商人はおまえを富ませた。)、エレミヤ書25章22節、47章4節、エゼキエル書26~28章(2 「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門は壊され、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言った。3 それゆえ──神である主はこう言われる──ツロよ、わたしはおまえを敵とする。海が波をうねらせるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。4 彼らはツロの城壁を荒らし、そのやぐらを壊す。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。5 ツロは海の中の網干し場となる。わたしが語ったからだ。──神である主のことば──ツロは諸国の餌食となり、)、ヨエル書3章4~8節(4 ツロとシドン、またペリシテの全地域よ。おまえたちは、わたしにとって何なのか。わたしに報復しようとするのか。もしわたしに報復しようとしているなら、わたしはただちに、速やかに、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。)、アモス書1章9-10節(9 主はこう言われる。「ツロの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民としてエドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。10 わたしはツロの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。」)、ゼカリヤ書9章2~4節(2 これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。3 ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。4 見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。)、参照。

[3] Ⅰ列王記16章31節「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」

[4] マタイの福音書28章18~20節

[5] 「イスラエルの家の失われた羊」 イスラエルが正しいから、きよいから、愛するのではない。彼らこそ、失われていた。イエスの方が、イスラエルから追い出されたかに見えて、イエスはご自分ではなく、イスラエルの家こそ失っている。迷っている、と仰る。

[6] とはいえそれはカナンの女性からすれば、あまりにも素(す)気(げ)ない言葉です。

[7] ここでイエスが使われた「小犬」という言葉は、異邦人への蔑称の「犬」ではなく、ペットの小犬です。キュナリオス、小犬。この箇所(と並行箇所のマルコ七24~30)のみに出て来る。家の中に入れられ、食卓の下でおこぼれを期待しているのを許されている、家族同様の存在で、野良犬ではない言葉をイエスは使われました。つまり、この言い方の中に、既に異邦人も恵みの視野の中に入れられていると匂わされているのです。

[8] 神の民イスラエルが不信仰でまさに霊的に「失われた」状態であった時、呪われるべき民、救いとは遠いと思われていた民の中に、信仰が見出されました。これは、歯がゆいような、嬉しいような、ビックリもしガッカリもする出来事です。しかし、これが事実でした。そしてイエスはその事実から目を逸らしたり、否定したりしません。彼女の信仰を受け止めて、その願いを叶えて、娘を癒やされたのです。イエスが人の信仰を褒めたのはマタイの福音書でハッキリと二度、遠回しには四度だけです。そのいずれもが、当時の「敬虔な」と思われる範疇ではない人々の「信仰」に対してでした。マタイの福音書8章10節(百人隊長の告白に対して:「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。)、9章2節(中風の人を運んできた人々を見て:イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。)、9章22節(長血の女に対して:イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)、9章29節(目の見えない人たちに:そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。)、15章28節(本日の箇所)

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2021/1/17 創世記一章1-5節「光よ、あれ」こども聖書①

2021-01-16 11:49:48 | こども聖書
2021/1/17 創世記一章1-5節「光よ、あれ」こども聖書①

 今日から「こども聖書」を一緒に読んでいきます[i]。

 子ども向けに、聖書のお話しを、旧約聖書の創世記から新約聖書の最後の黙示録まで、順番に分かりやすく書いてくれています。今日のお話は、創世記の一番はじめの言葉を今読みました。
創世記一1はじめに神が天と地を創造された。
とありました。神様が、この世界をお造りになりました。その時の世界は、まだ何もない世界でした。真っ暗でした。神様が作られたから世界は始まったのです。けれども、神様が作られたその世界は、最初、何もない闇の世界だったのです。本も読みましょう。

ずっとずっとむかし、この世界がはじまる前のこと。神さまが天と地をつくられました。地は真っ暗で、どこまでいっても何もありませんでした。そう、どこまでも、どこまでも真っ暗闇だったのです。ずっとずっと昔、この世界はとっても寂しい所だったのですね。

 真っ暗な世界。それも、神が作られた世界でした。この最初の暗闇の世界も、神がお作りになったから始まった世界でした。寂しいようですが、創世記の1章2節には、光が照る前の世界でも、
「神の霊がその水の面を動いていた」
とありました。この「動いていた」という言葉は、母鳥が翼を広げているような言葉です。「舞い掛けていた」と欄外にあります。お母さん鳥が、巣の中の卵や雛の上に、大きな翼を広げて覆い、守っているような言葉です。神は、最初の真っ暗な世界にも、闇の中でも、そこにおられて、優しく、力強く守っておられました。そして、巣の中の冷たい卵が、ひび割れて雛が顔を出すように、この真っ暗な世界に、神の光の業が始まりました!
 その時です。神様が口を開かれました。
「光よ、あれ」
 そうです。神は、その世界に、光を差し出されたのです。すると光が照りました。
するとどうでしょう。光が出来たのです!
それは、どんな様子だったのでしょうか。世界がパッと明るくなったのでしょうか。ボワッと明るくなったのでしょうか。それとも、小さな光が見えたのでしょうか。でも、その小さな光でも、闇の世界は大きく変わったはずです。まだ、光の当たっていない闇もありましたが、それでもその光は、闇の世界を一変させた輝きでした。
 神様はこの光を喜ばれました。光は、世界を明るく照らし、金のような輝きをもって、世界を温めてくれます。
 暗い所が好き、という人もいるでしょうし、明るすぎるのが苦手、という人は少なくありません。それでも、神様が光を作らない方が良かった、とは思わないでしょう。光がない真っ暗闇だったら、世界はどんなになるでしょうか。真っ暗な世界に、光が照ったのは、本当に嬉しいことです。真っ暗だと、何がいるのか分からなくて怖いです。寒くて、冷たくて、不安です。でもその世界に、神は光を照らしてくださいました。神はその光を見て「良し」とされました。喜ばれ、満足されました。神は、喜んで私たちを照らして温めてくださるお方です。今でも神は、この世界に光を照らしてくださいます。
 この光に満足された神さまは、次にこの世界をクルクルと、優しく回されました。明るい所と暗い所が出来るよう…。そして、明るい所を昼、暗い所を夜、と名づけました。
 神様は「光よ、あれ」と仰有って、光を照らされた時、それで闇がなくなったわけではありませんでした。闇の部分もあって、光の部分もあるのですね。闇がなかったら、「夜」と名づける部分もなかったでしょう。
 神様は最初から光のある世界をお作りになることも出来たのに、闇の世界に光を照らされたのはどうしてでしょう。闇のない世界ではなく、闇もある世界をお作りになったのは? 神様は闇がお好きなのでしょうか? 私は小さい頃、闇が嫌いでした。真っ暗な所は怖くて、夜トイレに行くのも怖くて嫌でした。神は、光を照らして喜ばれるお方ですが、闇もお作りになりました。世界を真っ暗に作った上で、そこに光をお作りになりました。神様は、闇の世界の中に、光やいのちをお作りになるお方です。どんな夜のような時も、いつまでも暗いままではありません。神がこの世界に夜を残しているのは、その夜も、朝にしてくださるからです。夕があり、朝があります。夜が来て、昼が来る。そういう世界が、この時から始まったのです。この世界を、神様は昼と夜がある場所、光と闇の両方がある場所となさったのです。光を世界一杯に照らして、闇を無くしたり、最初から、光が照っている世界になさることも出来たのに、神様は、闇の世界を作り、そこに光を照らし、闇の夜と、光の昼が交互に来るようになさったのです。
わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。イザヤ書45章7節
 この後、人間は神様から離れて、闇の方に逃げてしまいます。神様の前から隠れて、嘘やごまかしを始めます。人間の心が、闇になり、真っ暗になってしまいます。しかしその人間の闇の中に、神様はこれからもいて下さいます。そして、罪の暗い中にも、新しい道を開いてくださいます。人間の力ではどうしようもない所に、神は不思議な希望をおはじめになります。神様は闇に光をお作りになるお方です。この事が、聖書の中で最後まで強く繰り返されるのです。ですから、私たちも、この世界をお作りになった方は、光を作られた方だと、ここに帰って来ることが出来るのです。
「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。Ⅱコリント4章6節
 さあこれから何が始まるのでしょうか。聖書の最初で、神が作られた世界に何をなさるか、この光の中で見せて下さいます。ワクワクしながら読んでいきましょう。そして今も、神がこの世界に何をなさっているのか、私たちを生かしてくださっているこの場所に何をしてくださるのか、神が下さる光の中で、見せていただきましょう。
神が最もすばらしいみわざをなさるのは、日が昇る前のまだ暗いうちなのです。[ii]

「神よ、あなたは沈黙のうちに世界を闇の中にお作りになり、その後「光よ、あれ」と最初の言葉を口にされました。そして、今も闇の中にも働かれ、光をお作りになるお方です。あなたご自身が光です。どうぞ、私たちを、あなたの光によって導き、闇の中でも私たちを守り、ゆくべき道を示し、あなたへの信頼をもって歩ませて下さい」

脚注:

[i] 『こども聖書 かがやく神さまのことば』、メロディ・カールソン文、デニス・オッシナー絵、フロイラン・規子訳、新生宣教団、1998年。

[ii] ナディア・ボルツ=ウェバーの言葉。中村佐知『まだ暗いうちに』(いのちのことば社、2020年)290頁より。


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2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

2021-01-09 13:08:50 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/10 ヨハネ黙示録21章1~4節「寄留者として生きる」ニュー・シティ・カテキズム52

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しも最後になります。第52問はこれです。
問52 私たちにとって、永遠の命にはどのような希望がありますか?
答 それは私たちに今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。もうすぐ私たちは新しい都市で永遠に神と共に住み、神を喜ぶようになります。その新しい天と新しい地において、私たちは罪から完全に、かつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界の中で、新しく復活したからだに生きるようになります。

 最後には「永遠のいのち」についての確認です。ここには「新しく」という言葉が、五回も繰り返されています。私たちは、やがて新しくされます。その「新しさ」は、もう古くされることのない新しさです。私たちの生活だと、新しいものは必ずやがて古くなります。
 「新年」も、十日経って、もう慣れてしまいました。新型の家電製品も自動車も「最新式」が交代し続けていきます。新しいオモチャはとても魅力的に見えますが、少しすれば、また次のものが出てくる、際限の無いゲームです。時間が続く限り、新旧が入れ替わり続けるのが、私たちの生活です。でも、その「時間」そのものが終わる時が来て、「永遠」が始まります。古びる時間の代わりに永遠の新しさが始まります。新しい年で、新しい天と新しい地において、新しくされて回復された世界で、新しく復活した体に生きるようになるのです。その世界は永遠に新しく、今の理解を超えています。
ヨハネの黙示録21章1節また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 当時の人たちにとって「海」は、恐ろしい所、嵐になったら人を飲み込んでしまう、死に通じる場所だったようです。だから、そういう人たちの考えを配慮して「海はない」と言ってあげているのでしょう。そのように、私たちは今の世界の中でしか、将来をも想像することは出来ません。けれども、この今の世界そのものが「以前の天と以前の地」と呼ばれるように、やがて過ぎ去って、「新しい天と新しい地」が来るのです。それは、今の天と地のように、幸せも消え去り、神が見えない世界とは全く違う世界です。
 3私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
 4神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
 以前のものが過ぎ去ったから、涙も死も、悲しみも叫び声も苦しみもない。そういう将来を聖書の終わりに、ハッキリ約束しています。しかし、ここだけではありません。ここにある言葉は、実は聖書の中で繰り返している言葉です。
「神が人々とともに住み、人々は神の民となり、神は彼らの神となり、ともにいてくださる」。
 これは、聖書の最初から最後まで、神がアブラハムを選び、イスラエルの民と契約を結び、預言者たちを通して呼びかけ、繰り返して語っていたことです。神がともにおられる。私たちは神の民、神は私たちの神。主イエスもこの言葉を繰り返して、私たちと神との関係そのものを示してくださいました。私たちが何かをするとか、神が何かをしてくださるとか、そういう行動以上に、私たちが神のもの、神が私たちの神となってくださった、その新しい関係を語られたのです。それは、今すでに始まっていることです。
…今の堕落した世界がすべてではないことを思い起こさせます。…
とありました。今の世界がすべてではない。
 私たちの今の世界はすべてではありません。最新の製品も、人の言葉も、苦しみや悲惨も、成功も喝采も、その時その時、私たちにはそれこそすべてのように思えます。そう思っているうちに、いつの間にか次のものが来、また新しいものが訪れては消えていく。そのような移りゆく世界がすべてではなく、やがて新しい世界が来る。その時に向けて、私たちは進んでいるのです。

 今日の説教題を「寄留者として生きる」としました。聖書には、私たちを「寄留者」とか「旅人」として描く言葉がいくつもあります。私たちは、今この世界に住んではいますが、私たちの永遠の住まいはここではなく、やがての永遠の家にあります。だから今は、旅をしているのです。今のこの世界がどんなに魅力的でも、どんなに悲惨でも、それは私たちにとって一番の問題ではありません。旅の途中のその場所から、やがては腰を上げて、家に向かっていくのですから。いつか、私たちは死に、この世界のことに別れを告げる日が来ます。この世界で手にしたもので、新しい世界と関係のないものは、すべて朽ちてしまいます。
 その事を思い起こすなら、私たちの生き方は、今ここにあっても自由になります。「永遠のいのち」という言葉は私たちに、今の世界がすべてではないことを思い起こさせてくれる。まもなく、いつまでも新しい世界へと帰り着く。その家に向かって、私たちは帰っていくのだ、ということを思い起こさせてくれるのです。
 人は、将来に対して、色々な希望を持ちます。死後や世界の終わりの先にも、想像力を逞しく、幸せな世界を描きます。神様は、私たちのそうした想像力よりも、遙かに素晴らしく、創造主であるお方ですから、世界の宗教やキリスト教が描き出す永遠よりもすばらしい世界を用意されるでしょう。ここにあった
「罪から完全にかつ永遠に解放され、新しくされて回復された世界」
というのもどんな世界なのか、私たちには到底理解も説明も出来ません。

人が罪をもう問われないとはどういうことでしょう。
私たちが会う人たちは、お互い分かるのでしょうか?
嫌な人にも会うことになるのでしょうか?

 そんな疑問も、今は湧き上がります。

抑も「永遠」なんて飽きないのでしょうか? 
疲れないのでしょうか?

 そんな心配が全部、無用な想像で終わるような、素晴らしい回復を神は用意しておられます。神とお会いすること自体、今はまだ、私たちにとって緊張したり、恐ろしい気もしたりする事です。しかし、私たちは神と共に住み、神を喜ぶようになる。永遠に喜び、生き生きと輝き続ける将来があります。その時に向けて、神は今も私たちを運び、ここで私たちとともにいて、私たちの旅路を導いてくださいます。

「永遠なる神よ、私たちはあなたの御国の完成を心待ちにしています。私たちの涙が完全に拭い去られ、肉体の戦いに苦しむことのない日々を待ち望んでいます。どうか永遠のいのちへの確かな希望によって、今与えられている人生の試練に向かっていく勇気を得ることが出来ますように。アーメン。主イエスよ、来て下さい」
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