聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答47~48 2018/10/28 ルカ23章39~43節「キリストの生涯と死は」

2018-10-28 15:33:17 | はじめての教理問答

2018/10/28 ルカ23章39~43節「キリストの生涯と死は」はじめての教理問答47~48

 キリスト教は、人間の救いのために、人間が自分で何かをしなさいと勧めるのではなく、キリストが何をしてくださったかを信じます。それは、私たちの代表として、キリストが神に従い、罪の罰を受けてくださった、という

「恵みの契約」

にキリスト教の土台があるからです。今日は、キリストが「恵みの契約」において、私たちの代表として、何をして下さったのかをもう少し詳しく教えられましょう。■

問49 イエスさまは罪をおかしましたか?

答 いいえ。イエスさまは罪のない生涯を送りました。

問50 どのようにして、キリストは苦しみましたか?

答 神の子であるキリストは、ひととなって、わたしたちのかわりに神にしたがい、苦しみました。

問51 だれのためにキリストは神に従い、苦しんだのですか?

答 父なる神が、キリストに与えたひとたちのためです。

問52 キリストは地上でどのような生涯を歩みましたか?

答 服従と奉仕と苦難の生涯です。

問53 キリストはどのようにして死にましたか?

答 十字架につけられ苦しみ、恥をしのんで死にました。

 まず、イエスは罪のない生涯を送りました。もし、イエスが罪を犯したとしたら、私たちの罪を赦す以前に、自分の罪の赦しを必要とします。ですから、イエスが罪を犯すことなく、生涯を聖く生きられた、というのはとても大事なポイントになります。今日のルカの福音書のエピソードでもそれは言われていました。イエスがユダヤ当局に捕らえられて十字架にかけられた際、両側にいた犯罪人の一人は、イエスに罪がないことをハッキリと認めました。十字架という残酷極まりない痛みの中で、

41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

と明言したのです。イエスの生涯には何一つ悪い行いはない。そう言い切りました。しかし、その罪一つない方が、この十字架の処刑を

「自分のしたことの報い」

と言わざるを得ない人の隣で、極悪の犯罪人と同じように、十字架に架けられました。それは、私たちの代わりに神に従われた生涯でした。私たちのために、苦しみをも引き受けてくださいました。その生涯は、何一つ罪がなく、また、私たちのためにとことんまで苦しみを引き受けられた、ということを特徴としています。ヘブル書4章にはこうあります。

ヘブル四14さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みに遭われました。イエスは私たちに同情できない方ではありません。私たちの苦しみを、人間としての痛みを、徹底的に知っておられる大祭司。それがイエスです。

 先日、教会に電話がありました。「牧師さんに質問がある」と言って、「キリストは罪を犯さなかったのなら、罪を犯した人の苦しみは分からないんではないか」と質問されました。なるほどと思いながら、私がお答えしたのは、「罪」とは神の愛から遠ざけてしまうから、人の苦しみも分かれないし、自分が罪を犯したことも認めたがらない性質がある。罪を犯した人が他の人の苦しみを分かるわけではなく、「あいつよりも自分のほうがましだ」とか「あいつよりも自分のほうが苦しい」とか思う事しか出来ない。キリストは、そんな罪の鈍さがなくて、本当に聖く、愛のお方だからこそ、罪を犯した者の苦しみを、深く理解してくださるし、それを断罪したりせずに苦しんでくださるのだ。そんなお答えをしました。電話の方は、ちょっと意外そうな声に変わって、もう少し違うお話しをした後、切りましたが、私はその会話の中身を考え続けています。

 キリストは、私たちのために、神に従い、苦しんで、生涯を送り十字架に死なれました。その生涯には罪がありませんでしたが、罪がないからこそ、人として過ごす時、人の罪の醜さや刺々しさには、私たち以上に突き刺さる思いだったでしょう。私たちよりも遥かに、悲しみ、嘆かれたことでしょう。それでも、人として歩まれて、神に従い、人に仕えて、最後には十字架の苦しみまで受けられ、恥を忍んで死なれたのです。それは何のためだったのでしょう。それは「父なる神が、キリストに与えた人たちのため」でした。これを私たちは、自分のため、と信じることが出来ます。

 今日のルカの福音書を思い出してください。犯罪人は二人、イエスの両側にいました。一人はイエスを

「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」

と言いました。キリストが私たちのために苦しんだのに、また自分と違って、何の罪もないのに苦しまれているイエスに向かって、こんな言葉を投げつけられる。それぐらい、人間の心は麻痺して、病んでいます。自分の非を認めたくない、人の事も神の愛も分かろうとしないのが、アダムの堕落以降の人間の姿です。しかし、もう一人の犯罪人も、同じような生き方をしてきたのに、なぜか彼はイエスの罪のなさを認め、自分のしてきた生き方の間違いを素直に認めました。そして、イエスがやがて王となる方だと思って、

「その時には自分を思い出してください」

と言うようになりました。この違いは私たちには説明がつきません。キリストが私たちのために苦しまれた事が分かるのも、私たちが自分の非を認めることが出来るためにも、キリストは人となり、苦しみを味わわれました。鈍感極まりない人間のために、キリストは人となり、苦しみを厭われませんでした。そして、私たちの心にも働いて、信じる思い、キリストの苦しみと愛への気づきを下さいます。

 人の苦しみを本当に理解して優しくなるのも、自分の力では出来ません。イエスの苦しみに感謝できるのも、イエスが心を開いてくださる恵みなのです。イエスが測り知れない犠牲を払ってくださって、神への愛と互いへの兄弟愛を持たせてくださるのです。

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2018/10/28 箴言30章1~9節「知恵を下さる神 箴言」

2018-10-28 15:03:53 | 一書説教

2018/10/28 箴言30章1~9節「知恵を下さる神 箴言」

 今月の一書説教は「箴言」です。聖書には箴言を始め「知恵文学」というジャンルがあります[1]。パウロは

「宣教の愚かさ」

を語りましたが[2]

「知恵のない者としてではなく知恵のある者として、機会を十分に活か」

すよう勧めています[3]。聖書の最初には

「善悪の知識の木」

が出て来ますし、神からの知恵が何であるのかを教え、知恵を祈るよう励ましてくれるのです[4]

1.「主を恐れることは知識の初め」

 箴言は全部で31章。1~9章は序論で、父が息子に知恵の大切さを教えます。特に8章は、交読文の中にも使われますが、知恵を擬人化した章としてユニークです[5]。この部分の最初と最後にあるのが

「主を恐れることは知識の初め」[6]

 主を恐れること、神を神として限りなく大事にすること、それが知恵の初めだよ。神である主を抜きに賢い生き方は出来ない。或いは、神を自分の人生の知恵袋やアドバイザーと考えて、自分に都合のよい知恵をもらおうというのも本末転倒です。まず神を神とする。神との関係を第一に考える。そうする時に、お金だとか、不倫や暴飲暴食や陰口の誘いにも乗らない、本当に賢い生き方が出来るのだよ、と教えます。

 その後、十章からが「格言集」になります。今日読んだ30章もその一部です。前の29章は一節ずつ2行の対句になって、色々な事例を取り上げて、スパッと知恵を授けます。

20軽率に話をする人を見たか。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。

23人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。

25人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。

26支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。

 スパッと言い切っています。しかし、これは格言や諺のように、原則を言い切ったもので、律法とか絶対的な約束とは違います。日本語でも「渡る世間に鬼はない」とも「人を見たら泥棒と思え」とも言います。「二度あることは三度ある」とも言えば「三度目の正直」とも矛盾したことを言います。どちらも先人の知恵で、私たちの見方に落ち着きや励ましやユーモアを添えてくれるのです。知恵文学にもそういう読み方をしてください。分かりやすいのが、

二六4愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。…12自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。

 聖書の約束だからゼッタイと思い込まず、極端や皮肉もこめて、私たちの愚かさに冷や水を浴びせて、冷静にならせてくれる言葉、だと思って、じっくり読むことをオススメします。

2.「知恵の初め」の上に

 私がいつからかハッと気づかされたことがあります。それは、箴言が

「主を恐れることは知識の初め」

と言いつつ、10章からは具体的な格言集で、私たちの生活を様々な角度から、痛烈に、極端な言い方さえして、細々と光を当てている、ということです。つまり「主を恐れてさえいれば、どんな場合にも賢明な判断が出来る」とは言いません。それは私たちが陥りやすい過ちです。箴言は、

「主を恐れることがすべて

とは言いません。「聖書があれば他の本は要らない」とは言いません。むしろ、本当に賢い人は他の人の助言に耳を傾ける。知恵のある人は自分で解決しようとせず、相談をする。人の言葉に耳を傾ける人だと繰り返すのです[7]

 それを実証するように、箴言そのものが外国の格言を沢山引用しています。特に、22章17節から24章までの「知恵ある者」の言葉は、エジプトの「アメンエムオペトの書」という古い格言集からの引用が沢山あります。そして30章は

「マサの人ヤケの子アグルのことば」

で、31章も

「マサの王レムエルの言葉」

とあります。マサはイスラエルの地名ではなく、外国の王の言葉です[8]。その外国の王が、

まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も持っていない」

と深い謙虚な言葉を残しています。

二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。

むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。

私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」

と見事なバランスの祈りをしました。そういう異邦人の祈りにも箴言は真実を見て、敬意を持って引用しています。

 そして31章はマサの王レムエルの母の言葉です。異邦人の母親の言葉が箴言の最後を飾るのです。更にその最後10節から31節は

「しっかりした妻」

を称える歌です。これは理想化されすぎた「ウルトラ主婦」だと誤解されやすいのですが、実は普通の主婦としての仕事をこなしている、多くの女性たちを歌っている詩ですね。王に対する賢明な勧めとして、庶民の女性たちの働きを見よ、と勧めるのです。自分の権力や美しく飾った女性に目を奪われず、市井の女性の内助の功にシッカリ目を留めなさい。愚かなプライドに目を曇らされやすい王や男性たちに、庶民の女性たちの働きこそ国を支えているのだと目を開かせる。これが知恵を語る箴言の結びです。三〇章24~28節には虫や小動物が

「知恵者」

として出て来ますね[9]

この地上には小さいものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。

25蟻は力のないものたちだが、夏のうちに食糧を確保する。

26岩だぬきは強くないものたちだが、その巣を岩間に設ける。

27いなごには王はいないが、みな隊を組んで出陣する。

28ヤモリは手で捕まえられるが、王の宮殿にいる。

 本当に主を恐れるなら、虫や自然、他者の言葉に聞く耳を持つ。勿論、信仰や倫理では譲れない一線はありますが、逆に頭ごなしに疑わず、耳を傾け、他者に相談し、外国人にも敬意を払い、蟻や動物にも学び、母親や妻、社会の縁の下の力持ちにも称賛を惜しまない。それが、箴言を通して語られていく、本当の知恵ある謙虚な生き方です。

3.愚かな者を選ばれた神

 箴言(知恵文学)は、知恵への考えを根こそぎ変えます。「箴言を読めば賢くなれる」というより、生き方の方向が変わり、主との関係を第一にして、親や妻、隣人や敵、自然や世界とも健全なつながりを大事にするようになる。家庭を大事にし、正直に、善を行うように励まされます。自分が関係の中に活かされていることを忘れて、知恵を掴もう、賢く見せようとしやすい事自体、本当に愚かで勿体ない生き方です。箴言はそう気づかせてくれます[10]

 新約で、主イエスは

「神の知恵」

と繰り返して呼ばれます[11]。そして、パウロはコリント教会に対して

「あなたがたの中に知者は多くない」

と言いました。

「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」

と言いました[12]。私たちが「自分が賢いか愚かか、正しく知恵がなきゃダメだ」と考えてしまう方向から、もっと大きな愛の中に生かされている事実に気づかされて、イエスにますます依り頼み、人と生かし合えばいいのだ、と気づきます。それがイエスが下さる本当に賢明な生き方です。知識を追い求めるのでなく、神を恐れ、人に心を開いていくのです。

 イエスは神の知恵です。でもイエスは、私たちを愛し、私たちのためにご自分を献げるという愚かさを選ばれました。そして私たちに、自分の愚かさ、知識の限界を素直に認めさせ、また聖書を通して知恵を下さいます。私たちはイエスの優しさに、素直に自分の視野の狭さを認めて、喜んで助けをもらい、助言に耳を傾けるようにされます。知ったかぶりをせず、分からないことは「分かりません」と言える素直さは、神を恐れる心の恵みです。でもそこに開き直らず、人の意見や気持ちをどんな時も大事に出来て、関係を育て、何よりも知恵を祈り、御言葉の知恵に励まされる生き方を頂くのです[13]。箴言や新約の知恵ある言葉は、私たちの実生活に有益な知恵を与えて、助けてくれます。私たちとともにおられる主イエスは、具体的に、賢く、ユーモアを込めて私たちを諭して導いてくださる。箴言はその事も豊かに教えています。

「神の知恵であるイエス様。箴言を与え、知恵ある生き方を具体的に教えてくださる愛とご配慮に感謝します。あなたの尊い選びと測り知れない知恵を信頼して、あなたに拠り頼み、良い歩みをともに重ねさせてください。鳩のように素直で蛇のように賢く、と言われた通り、毎日知恵が必要ですから、どうぞ私たちの判断や思いを導き、光の子として歩ませてください」



[1] ヨブ記と箴言と「伝道者の書」。ヨブ記は「苦難」から、「伝道者の書」は哲学的に、知恵を語っているのに対して、箴言は「主を恐れることは知恵のはじめ」と歌い、父親が息子に伝える教訓という形で知恵ある生き方を語っています。特に「王」が語り手であるだけに、非常に実践的で、ビジネス書にもなる書です。

[2] Ⅰコリント一21。

[3] エペソ五15~17「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。17ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」

[4] 創世記二章、ヤコブ書一5「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」。

[5] 世界を造る前から神は知恵を得ていた、というのはキリストがご自分のことを語っているようだ、とも読めます。しかしこの読み方は、異論もあります。あまり、旧約の随所に、三位一体やイエスの受肉を読み込みすぎる必要はありません。いずれにしても、神の知恵の奥深さ、肝心要なことを深く印象づけます。

[6] 一7「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」、九10「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」

[7] 箴言一四21「自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ」。この「隣人」は異教徒・ノンクリスチャンであろうと変わりません。だれであれ、目の前にいる人を蔑むのは、神の御心(=神の知恵)から外れた「罪人」の姿なのです。

[8] 創世記25章14節に「マサ」という地名が出て来ます。しかし、これが箴言30章31章の「マサ」と同じ場所のことなのかは、諸説があります。

[9] 蟻は、6章6節でも「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ」。

[10] 言い方を変えるなら、神との人格的な関係に生きる事こそが、「知恵」です。八章はまさにそれを言っていました。知恵が人格化されていますが、知恵とは人格的なものなのです。イエスが「わたしが真理です」と仰ったのも、「真理」とは「人格的」であること、人格者なる神ご自身であることを教えていました。知恵を得るために神との関係や人との関係を大事にするのではなく、神との関係に生きること、人との関係に生かされていること、その関係を育てることこそが本当の知恵なのだ。自分も相手もともに生かし、人が生き生きと生かされることこそ知恵ある生き方そのもの。

[11] Ⅰコリント一23「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」「30しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」など。コロサイ二3「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」

[12] Ⅰコリント一章「26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」

[13] ローマ一二16「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」

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2018/10/21 はじめての教理問答47~48 Ⅱコリント5章14~21節「私の代わりのキリスト」

2018-10-27 11:36:25 | はじめての教理問答

2018/10/21 Ⅱコリント5章14~21節「私の代わりのキリスト」はじめての教理問答47~48

 世界の宗教は、どれもが「何かをしなくては救われない」と教えているそうです。良い行いをしなければならないとか、儀式を守ったり、献金をしたり、何かしらの義務が救いのための条件として要求されるはずです。キリスト教は、ユニークなことに、私たちの行いに依らず、キリストによって救われる、と言います。これが

「恵みの契約」

です。それでもクリスチャンや牧師の中にも、何かをしなければならない、という考えがあります。私たちの中には、自分が何かをしなければ、神様に受け入れてもらう資格はない、という考えが染みついています。ですから、私たちは、自分の行いによって救われるのではなく、キリストが救って下さる、という「恵みの契約」を何度も何度も確認することがとても大事なのです。今日はこのことをもう一度確認しましょう。

問47 めぐみの契約において、キリストはだれの代表となりましたか?

答 キリストに選ばれたものの代表となられました。

問48 キリストはどのようにして、めぐみの契約を完成しましたか?

答 キリストは、ご自身の選ばれたもののために、すべての律法に従い、かれらの罪にふさわしい罰を受けました。

 先に「いのちの契約」をお話ししましたが、最初の人アダムに与えられた、神に従う契約をアダムは破ってしまいました。それは、アダム一人の違反ではなく、全人類の代表としてアダムが行動した違反でしたから、アダムとともに全人類が神に罪を犯したと見なされました。ところが、今度は「恵みの契約」はキリストが私たちの代表となってくださった、というのですね。神の子キリスト・イエスが、ご自身で選んだ者たちのために、代表となって、すべての律法に従ってくださいました。また、選ばれた者たちの罪に対して相応な罰を、受けてくださいました。

 ここには、キリストが「恵みの契約」においてなさったことが二つの面で分かります。一つは、すべての律法に従ってくださったことです。アダムとエバは神の律法を破りました。その後の人間は、私たちも含めて、律法を守れません。それは神の律法を守ることが難しくなった、というよりも、人間の心が、神への信頼や賛美よりも、自分への不安や自己充実とかプライドを追い求めるようになってしまっているからです。いずれにせよ、人間は神の律法を守ることが出来なくなっています。それは、神に対する罪ですから、神との関係を損なった罰が伴います。また、その関係を損なった償いが必要です。キリストは、十字架にかかって、その罰を受けて、私たちの罪の償いをしてくださいました。神との関係を損ねた結果の痛みを、神の子イエスが、すべて十字架の上で味わってくださったのです。キリストは、神に対する罪にふさわしい、神との断絶という罰を十字架の上で味わい、死んでくださいました。これが、第二の面です。キリストは私たちの代表として、罪の罰を受けてくださった。これを「消極的従順」といいます。

 しかしこの「消極的従順」だけではありません。キリストが、私たちのために「積極的」に神に従って下さったのです。神の御心を完全に行ってくださいました。「そりゃイエス様は神様だったら、そんなことは当たり前で、楽に出来たことでしょうよ」と思うかもしれませんね。イエス様ならお茶の子さいさい、といえばそうかもしれません。しかし、それは私たちの「代表」だったとしたらどうでしょう。

 「イエスだから楽勝、私たちには無理」

で終わらず、無理な私たちのために、イエス様が私たちの代わりに、神の御心に完全に従う歩みをしてくださいました。その歩みは私たちのためでした。ただの模範という以上に、私たちの代表として歩んでくださったのです。だから、イエスが私たちの代表として、神の律法に完全に従われた以上、その正しい歩みも私たちの歩みとなるのです。イエスが私たちのために正しく歩んでくださったことが、私のためだった、と言う事が許されているのです。この「積極的」と「消極的」との両方で、キリストは私たちの代表となってくださった。これが

「恵みの契約」

なのです。

 この「積極的」面は疎かにされて、「消極的」面ばかりが伝道や説教では語られがちです。キリストが私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったことに偏って強調されがちです。もちろん、それだけでも、本当に想像を絶する神の愛です。キリストの犠牲です。キリストが、罪ある人間のために、ご自身が人間となって、すべての罪を身代わりに受けてくださった、それゆえに私たちはどんな罪をも赦されて、救いに預かれます。これは測り知れない恵みです。有り難いことです。けれども、それだけではとても後ろ向きです。有り難いけれども、申し訳ない思いで終わりそうです。この消極的面とともに積極的な従順を知って、それも私たちの代表だった、と見えるとどうでしょう? キリストの救い、「恵みの契約」がものすごく立体的にならないでしょうか?

Ⅱコリント五14というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。15キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 今日読んだⅡコリント5章には、キリストが私たちのために死んでくださったことが書かれています。それは、罪の罰の身代わり、というだけではなく、私たちが新しく生きるためだったと言われています。そうです。私は、私のために死んでくださった方がいる、私のために生きてくださった方がいる。この世界を造られた神が、この私を、罪に埋没した生き方から新しく歩ませるために、ひとり子イエスを送って、私には出来なかった正しい生き方と、私が受けるはずだった罪の報いに滅びる苦しみを味わわせてくださった。その大きな「恵みの契約」の中に、私も入れて戴いているのだ。そう知ることは私たちの生き方をどんなに大きく深く変えずにはおれないのです。

 ここに

「新しく造られた者」

ともありました。見た目は変わらず、相変わらず失敗をし、罪に悩み、信仰さえ覚束なくなるとしても、そんなことは

 「恵みの契約」

の前には小さいことに過ぎません。キリストが私たちのために、代表として正しく歩み、十字架に死んで、よみがえってくださったのです。そこに立つからこそ、私たちの生き方、考え方、人との関わり、一つ一つが新しく変わらずにおれないし、神は変えてくださるのです。

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はじめての教理問答42~46 テトス書3章1~7節「人の心を変えるのは」

2018-10-14 22:31:05 | はじめての教理問答

2018/10/14 テトス書3章1~7節「人の心を変えるのは」

はじめての教理問答42~46

 聖書を読む上で、手がかりになる視点の1つは、「創造・堕落・贖い・新創造」という4つの視点です。

 世界は神が造られた世界であり、堕落による悪影響も全生活に及んでいます。コップの水に毒が入ると、水が全部毒されるように、私たちの全生活が、神から離れた堕落に影響されています。その事実は決して侮ることは出来ません。けれども、そこから神が私たちに救いを届けてくださって、新しく歩ませてくださいます。

問42 罪人の心をかえるのはどなたですか? 

答 ただ聖霊だけです。

問43 いのちの契約によって救われるひとはいますか?

答 いいえ。だれもいのちの契約によって救われることはできません。

問44 どうして、いのちの契約によって救われるひとがいないのですか?

答 だれもがそれに違反して、そのとがめを受けたからです。

問45 あなたはどのようにして、いのちの契約に違反したのですか?

答 アダムはすべてのひとの代表でした。ですから、アダムの最初の罪とともに、わたしも罪を犯しました。

問46 ではあなたは、どのようにして救われますか?

答 主イエス・キリストにより、めぐみの契約によって救われます。

 ここでもう一度出て来る「いのちの契約」とは、人間が堕落する前に、神が与えてくださったものです。神は人間をエデンの園に置かれました。豊かな自然の中、あらゆる食物を与えられ、園を耕したり守ったりする仕事に明け暮れながら、二人は、神がいのちの神であることを知っていきました。たった1つ、禁止の約束がありました。それは、園の中央にある「善悪の知識の木」の実は取って食べてはならない、という約束でした。でもそれも、その約束を守ることで、神がいのちの神であることを知って、人間がもっと豊かないのちを持つようになるために欠かせない約束だったのです。

 しかし、アダムとエバは、その約束を破ってしまいました。神に従うよりも、自分が賢くなろうとする選択を選んで、神に背きました。アダムとエバは人類の代表でしたから、全人類がいのちの契約に違反して、その責任を持っています。その問題を抱えたまま、救いに与ることは出来ません。堕落の結果、毒が入ってしまった心を新しく変えてもらう必要があるのです。今日の所では、それは私たちには出来ず、神の聖霊だけが、私たちの心を変えることが出来ることを強調しています。

 聖霊が、私たちの心に働いてくださる時にのみ、私たちの心は、いのちに向かうことが出来ます。神が聖霊によって働いてくださることなしに、自分の力だけで心を変えることは出来ません。いのちの契約を違反した事実をもう一度なかったことにして、やり直させてもらおう、ということは誰にも出来ません。自分で自分の心を変えることは出来ません。ただ、聖霊が働きかけて、私たちの心を、神へと変えてくださるのです。それは、王なる神のあわれみによる、主権的な始まりです。これを「恵みの契約」と言います。それが、聖書の示している「救い」です。人間には自分で自分を変えることは出来ませんし、神もそれを期待したり、求めたりしてはいません。ただ、主イエス・キリストにより、聖霊が心を新しくしてくださる、という「恵みの契約」が、聖書の教える救いの大前提なのです。この事を理解すると、聖書を読むのもずっと楽になるでしょう。先ほどのテトス章。

テトス三4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。

 ここにはまさに、聖霊による救い、私たちのわざではなく、キリストの恵みによる救いが語られています。自分で心を変えるのでなく、聖霊が変えてくださるのです。自分の行いで自分を救うのではありません。主イエスの行いによって救われる。恵みの契約なのです。神との関係を回復して戴くのです。しかし、それはもう、神の命令を守らなくても大丈夫、ではありません。救われるのだから、傲慢で何が悪い、嘘つきや二枚舌も平気、人を虐めたり馬鹿にしてもいい。そうでなく、先立って書かれていたのは、

あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

 私たちの生き方が、権威を重んじ、中傷や争いを捨てなさい、という生き方が語られていました。また、自分たちが神を知らない時に、いかに愚かで、分断した生き方をしていたかを思い出させます。そこから、恵み深い神によって一方的な救いを戴きました。それは、私たちの生き方を根底から変えました。ですから、私たちの関係も、もう愚かに思い上がった生き方をせず、人に尊敬を与える生き方をしなさい、と勧められるのですね。聖書は「いのち」について教えてくれます。正直であること、人を妬まないこと、欲望や誘惑に従わず、正しいことを選ぶこと。貧しい人や弱い人を虐げたり、違う人を批判したり陰口を叩いたりしない。そうした命令が書かれています。そうした道を軽んじて生きるなら、神が招いてくださった豊かないのちに背を向けてしまうのです。

 神は私たちに、今もいのちの道を示してくださっています。それは、私たち自身が、神から戴いたのが、裁きや軽蔑や脅しではなく、いのちだからです。あわれみと恵みの救いを戴いたからです。だから、私たちにも、憎み合う生き方ではなく、自分をも人をも大事にする生き方が示されているのです。神は、難しい要求を命じません。私たちにいのちを与え、また、ともにいのちを育てる歩みを選んで欲しいと願ってくださっています。決して諦めることなく、長い目で、私たちがいのちを選ぶよう励まし助けてくださるお方です。神は、いのちの契約と恵みの契約をくださったお方です。

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Ⅱテモテ書3章16-17節「聖書の有益さ 聖書の全体像1」

2018-10-14 22:17:13 | 聖書の物語の全体像

2018/10/14 Ⅱテモテ書3章16-17節「聖書の有益さ 聖書の全体像1」

 今日から「聖書の全体像」をテーマにお話しします。特に聖書が語るストーリー、パウロのいう

「神のご計画の全体」[1]

をお話しします。神が聖書に示しているのはこの上なくユニークな『神の大いなる物語』です。今日はその最初に、聖書そのもののユニークさを見ましょう。

1.聖書の基本的なこと

 私たちの使っている聖書は、大きく分けると旧約聖書と新約聖書の二つからなっています。旧約はイエス・キリストが来られるまでの時代に書かれたもので、新約はイエス・キリストがおいでになってから書かれたものを収録しています。今日のテモテへの手紙第二に

Ⅰテモテ三15また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。…

とある「聖書」は旧約聖書の事です。まだ新約聖書は書かれている途中で、テモテの幼い時からあったのは旧約だけでした[2]。旧約聖書は三九巻。一番古いのが、紀元前一五〇〇年頃のモーセが受けた律法です。そして新約聖書は二七巻、紀元一世紀に書かれたものです。三九巻と二七巻を合わせると六六巻。九九の「三九、二十七」と語呂合わせで覚えてください。

 しかし、千六百年もかけて、書いた人たちは四〇人。元々の言葉も、旧約は主にヘブル語で、新約はギリシア語です[3]。それほど隔たりながらも、聖書は神を著者とする一貫性・統一があります。聖書全体が一冊の本で、多くの人間を用いながら、神ご自身が究極の著者である本なのです[4]

Ⅰテモテ三15…聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。16聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。17神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 この「聖書」は旧約聖書ですが

「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」

と言われています。旧約聖書はキリスト・イエスへの信仰による救いを受けさせるのです[5]。そして

「すべて神の霊感によるもの」

です。霊感とは、モーセやパウロが恍惚状態になって書かれたという事ではありません。聖書の記者たちはそれぞれの状況で、祈りつつ、言葉を考えつつ、それぞれの書を書いたのです。そのプロセス全部に神の聖霊が働いておられて、その書を有益なものとされました。神が長いプロセスを通して、聖書を書かせたので、聖書は教えと戒め、矯正と義の訓練とのために有益なのです。そして、神の人を全ての良い働きに相応しくし、十分に整えられた者とするほどの有益さがあるのです。16節の

「教えと戒め」

は正しい知識と間違った誤解を正すこと、

「矯正と義の訓練」

はそれぞれの人格や生活の間違った生き方を治して、正しい生き方へと育てていくこと。つまり、知的にも生活面でも肯定・否定両方の必要を満たすのが四つの

「有益さ」

なのです。そうすることによって人は全人的に、全ての良い働きに相応しく、十分に整えられた者となるのです。読まないなんて勿体ないのです!

2.聖書の多様性

 もしかすると

「すべての良い働きにふさわしく十分に整えられた者」

なんて、自分には縁がないし、そんなご立派なクリスチャンなんて楽しくなさそうで、正直、御免被りたいと思う方もいるのではないでしょうか。そういう人にこそ聖書を読んでください。神を十分に知らないままだと、当然

「神の人」

へのイメージも浅薄で陳腐で、型にはまったつまらないはずです。そんなあまり説明もいらないようなものと違い、聖書はもっと神の豊かさを教えてくれます。神のメッセージがどれほど豊かで、意外で、バラエティに富んでいるかを教えてくれるのです。

 聖書を書いた四〇人には、純粋な牧師や神学者は一握りです。政治家や軍人、羊飼いや詩人、漁師や医者、税金取り、かつてのキリスト教迫害者といった職業人たちです。また内容も、歴史を伝えるものや小さなドラマ、神殿での礼拝の献げ方や生活の規則(戒め)もあります。詩集も、「知恵文学」と分類される箴言、ヨブ記、伝道者の書などもあります。旧約聖書の後半は「預言書」で一七人の預言者達のそれぞれの記録が伝えられています。新約も、イエスの生涯を伝える福音書が四つ、教会の始まりを伝える「使徒の働き」、そして20の手紙と「ヨハネの黙示録」という摩訶不思議な書が混ざっています。聖書にはひと口では言い表せない多様な内容があります。最近「聖書のジャンル」がよく言われます。ジャンルを無視して、文字面だけから無理な読み方をしたら危ないことが丁寧に指摘されるようになりました。[6]

 聖書著者の多様性、各巻のジャンルの多様性は、神が人間をどれほど多様で、様々な面を持った存在であるかをご存じの証拠です。ただキリスト教を信じて宗教的に救われ、素晴らしいクリスチャンになるエスカレーターなどありません。汗水流して仕事をし、生活で喜びや悩みを味わい、家族の幸せと問題とに揺れ動く-人間の全生活が聖書の視野に入っています。礼拝や魂や死後の問題の宗教ではなく、人の営み全てに神は目を留めてくださっています。私たちの歩みや心の底を深く見ておられます。そして、驚くばかりの恵みで導いて励まし、絶望から救い出し、神に信頼して生きるよう招き、働かれます。知恵や新しい生き方を下さるのです。

3.恐れからキリストへの信頼へ

 一番大事なのは、私たちが神を信じる立派な信仰を持つとか、私たちが神の人として整えられようとするかではありません。神が私たちの全生活、全生涯の主でいてくださることです。神ならぬものを崇めて追い求める、無理で苦しい生き方から、神の力、知恵、恵みを知るから、神を信頼せずにおれないのです。私たちの努力ではなく、神ご自身の業です。

 聖書の歴史も聖書の豊かな内容も、神を指し示しています。神は聖書を記すのに、様々な職業を持った人たちを用いられました。モーセやパウロ、一人一人の個性や背景をそのままに生かして、その時代その時代にお語りになりました。聖書には雲のように数えきれない程の証人がいます。聖書の時代、そして聖書六六巻が完成してから今に至る二千年、併せて三千五百年。神の言葉を読んで、キリスト・イエスに対する信仰をもらった、数えきれない先輩たちがいます。

 どの時代のどの人もどの教会も決して完璧ではありませんでした。これだけ豊かな聖書ですから、あちこちの理解・解釈は分かれますし、日本語への翻訳は終わりがなく、簡単ではありません。けれども、思い出してください。旧約聖書が語っていたのはキリスト・イエスへの信仰だったのに、イエスがおいでになった時、イエスをキリストとして分かっていた人はほとんどいませんでした。それでもイエスは来てくださいました。人の誤解や限界があろうとも、イエスは来てくださり、神のご計画は進んでいくのです。神ご自身が私たちの神として働いておられます。そこに希望があります。信仰の反対は「恐れ」です。聖書の言葉は、私たちが恐れようと疑おうと誤解しようと、神がキリストにおいて御心をなさると信頼させて、希望を持たせてくれます。

 聖書はただの道徳や古めかしい哲学書ではありません。また、名言集や格言の寄せ集めではありません。「霊感」とか「神の息吹」は、呪文みたいなものではありません[7]。むしろ聖書全体がバラバラでなく、大きな神の物語を語っています。その中で、私たち一人一人の心にある思い、日常生活の在り方を方向付けてくれるのです。神は私たちに語りかけておられます。私たちの現状を隅々まで知った上で、私たちに語り続け、この世界が神の手の中にあることを知らせてくださる書です。神ならぬものを追いかけたり、強迫観念で良い行いをしたりする生き方から、本当の神は解放してくださいます。良い働きの動機や裏付けが変わって、もっと信頼を持って、もっと喜びをもって生きていくようにされるのです。聖書の真ん中にいるのは、キリスト・イエスです。私たちといつもともにおられ、私たちを導き、整えてくださるお方です。聖書を開いて御言葉に静かに聴く中で、ともにおられる主は様々な恵みを下さるのです。

「御言葉の主なる神よ。聖書の長い歴史と豊かな内容を感謝します。聖書を通して、主イエスを信頼して生きてゆけることを感謝します。御言葉の糧で養ってください。恐れや不安で生きることから救い出して、信頼と喜びから、淡々と良い業をなさせてください。あなたは真実な方です。どうぞあなたの大きな物語の一頁に私たちを加えて、あなたの栄光を現してください」



[1] 使徒の働き二〇27「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」

[2] ユダヤ教では、イエスをキリスト(メシア)として受け入れませんから、「旧約聖書」だけが「聖書」です。また、イスラム教は、旧約のモーセ五書と詩篇と新約聖書の福音書、そして、クルアーン(コーラン)を聖典とします。更に、キリスト教でも、カトリックは、「外典」(旧約聖書続編)と呼ばれる七つの文書も受け入れています。詳述は省きます。

[3] 旧約聖書の一部はアラム語で書かれています。

[4] Ⅱペテロ一21「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」

[5] また、イエスが、聖書はご自身について語っていると各所で言っています。ルカ二四44「そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」、ヨハネ五39「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」など。私は神学校の入試に「旧約では律法を行うことによる救いで、新約がイエスを信じる恵みを語っている」と書いて提出してしまいましたが、憐れみで入学させてもらいました。その後、聖書の一貫性を学ぶことが出来て、神の恵みがハッキリと分かりました。まだ学んでいる最中です。

[6] たとえば、ゴードン・D. フィー、ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために「総論」: 聖書解釈学入門』関野祐二訳、いのちのことば社、2014年、など。

[7] 聖書のある一節を、お札のように使って、人を慰めたり回心させることが出来る、という誤解は広くあります。街角で、黒地のボードに聖書の言葉を書いたものを見かけますが、そこにはこうした理解があります。また、「アブダカダブラ」という呪文はヘブル語のアルファベットを並べたものという説もあります。

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