聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答35~37 ローマ書五章13~21節「私たちはみんな」

2018-09-23 17:05:24 | はじめての教理問答

2018/9/23 ローマ書五章13~21節「私たちはみんな」  はじめての教理問答35~37

 今日のローマ人への手紙5章は

「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に-」

と書き出してから、話しがその説明にそれてしまいます。そして、14節~17節でその説明をずっとした上で、もう一度18節で仕切り直して、

「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます」

と本題に戻っています。一人の人(アダム)の違反によって、罪が世界に入りました。それは、アダムとエバだけの事ではなく、世界に罪が入り、死が入ったという出来事でした。その脱線で話していた大きな変化を、今日は心に留めたいと思います。

問35 罪をおかしたとき、アダムとエバはどのように変わりましたか?

答 きよく幸福な状態から、罪深くみじめな状態に変わりました。

問36 いのちの契約を、アダムは自分だけのためにむすんだのですか?

答 いいえ。アダムは全人類を代表して、いのちの契約をむすびました。

問37 アダムのおかした罪は、あなたをふくめすべてのひとに、どのような影響をもたらしましたか?

答 わたしたちはみな、罪あるもの、みじめなものとして生まれました。

 アダムとエバが、神との「いのちの契約」を破った時、アダムとエバは「聖く幸福な状態」から「罪深く惨めな状態」に変わりました。アダムとエバが神に対して罪を犯したことが、私たちも含めた世界のすべての人に、大きな影響を与えているのです。

 今世界には沢山の問題があります。犯罪や戦争があり、家族の中でもすれ違いや大げんか、憎み合うことがあります。交通事故や仕事の悩みがあります。台風や地震や津波が起こることだってあります。そういう状態を見て、どう思うでしょう。ある人たちは、「こんなひどい事が起きるなんて、神様はいないか、悪い神なのか、どちらかとしか思えない」と言います。別の人たちは「もっと自分たちが頑張れば、世界をよくすることが出来るはずだ」と言い、反対に「どんなに人間が頑張っても、世界は良くなりはしないんだ」と諦めています。今日の問35から問37は、どんな見方をしているでしょうか。

 神が造られた世界には、もとから罪や惨めな状態はありませんでした。最初は

「聖く、幸福な状態」

でした。しかし、アダムとエバが罪を犯した時、それは、全人類を代表しての行為でしたから、全人類が契約違反の影響を受けて、

「私たちは皆、罪ある者、惨めな者」

となったのです。決して神が人間を最初からそんな不幸な状態に創られたからではなく、アダムとエバを代表とする全人類が、神に背いた決定的な決断によって、人間は大きく変わったのです。それはこの世界の問題というよりも、人間の変化、人間の罪や惨めさです。神は、この世界を、美しく、素晴らしい世界をお造りになりました。

 今でも世界は、美しく、素晴らしいことで満ちています。災害や砂漠化、寒波などもありますが、大森林や朝焼け、美味しい果物や野菜、美しさ、素晴らしさ、がすべて取り去られてなんかいません。罪深く、惨めになったのは、人間であって、世界ではないのです。その世界にいながら、神を称えないし、神を信頼できなくなってしまっているのは、まさに人間の罪深さであり、惨めさですね。

 今の私たちは、創られたそのままの在り方ではありません。この世界の中で、争ったり傷つけたり、造り主なる神を忘れて、神ではないものを神のように崇めています。人間は今、決定的に何かがおかしいのです。聖書に寄れば、そういう現実が

「いのちの契約」

に違反した時から始まったのです。恐竜時代が終わって氷河期に入ったとか、平和な時代を終わらせる戦争が始まったとか、そうした大転換にも匹敵する大変化が、この世界に起こりました。人間の心に氷河期が始まりました。神を見失い、人を愛する愛も壊れ、自分の中でも混乱しています。世界には食べ物がなく、病院もなく、死んでいく人が大勢いる国があります。しかし豊かで安心して暮らせるはずの先進国は幸せなのではなく、もっと豊かになろう、もっと贅沢になろうと、ますます忙しく、飢え渇き、人間関係は壊れ、心の病や自殺も多いのです。日本人の「幸福度」は先進国でも最も低いそうです。本当に悲しい、悲惨な現実です。でもそれがこの世界の最初からの姿ではない。神の造られた世界は、もっと素晴らしくて、神はこの世界に、良いご計画を持っておられる。今はあるべきでない姿なのです。

 ナルニア国物語の『銀のいす』というファンタジーがあります。このお話で、地下の世界に入った主人公達に、悪い魔女が魔法をかけて、暗い地下がこの世界のすべてだと思い込ませようとする場面があります。地上って何ですか? 太陽って何ですか? 木や草なんて夢ではありませんか? そんなものは空想で、この地下の世界だけが本物ではありませんか、と催眠術で騙そうとするのです。みんなが魔法で頭がボーッとする中、沼人がこう言うのです。

「あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ」

 こう言って、魔女の呪いを破るのです[i]

 じめじめした暗い世界から、地上の明るいもっと広い世界へ。そここそ、自分たちの住まいがある世界だ。聖書も、この世界にある、罪と悲惨の現実を見据えた上で、これが世界の全てではない、神の世界はこれで終わりではない、と語るのです。

 「いのちの契約」の破棄は歴史を大きく方向付けました。けれども「どうせ世界はこんなものだ」ではなく、その逆です。その事実から目を背けず、罪と惨めな人間の現実を受け止めましょう。自分自身の罪と惨めさも受け止めましょう。非を認めるべきことは認めて、悔い改め、謝罪し、変えていきましょう。でもそれだけでは焼け石に水です。神が、私たちを、本来の聖い幸福な状態にしてくださる、と約束してくださったのです。イエス・キリストは、私たちからその回復を始めるために、この世界に来て下さいました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみを徹底的に味わって、私たちのうちから

「聖く幸福な状態」

を始めてくださいました。私たちに信仰や願いや、嘆きや希望を与えてくださっています。そして、やがて、世界の氷河期を終わらせて、前よりも遥かに素晴らしい、聖い幸福な御国を始めて下さるのです。ですから、自分の痛み、悲しみ、苦しさを、そのままに言い表し、祈りつつ、その約束に生き、回復のために出来ることをするのです。



[i] 「あなたのおっしゃるように全部夢かもしれない。でも、心に造り出したものこそ、実際にあるものよりも遥かに大切に思えるんでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。自分たちは一つの遊び事に耽っている赤ん坊かもしれませんが、あなたのほんとうの世界なんかを打ち負かして、うつろなものにしてしまうような世界をこしらえあげることができるのですとも」『銀のいす』262ページ。

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Ⅰコリント書1章1-13節「途上にある教会 第一コリント」

2018-09-23 16:00:34 | 一書説教

2018/9/23 Ⅰコリント書1章1-13節「途上にある教会 第一コリント」

 今月の一書説教はコリント人への手紙第一。パウロが書いた手紙で最も分量が多く、第二の手紙と合わせると、聖書でコリントの教会との関わりが閉める割合の大きさに驚かされます。そして、実に生々しい手紙。ぜひ各自で読んで、私たち自身と重ね合わせて聴きたいものです。

1.コリントの教会の事情

 コリントの町はギリシャにあり、東西の交通の要衝として大変栄えていました。経済的な繁栄は当然、道徳よりも商売を呼び込み、倫理的には腐敗していました。町の大神殿も敬虔さとは無縁で、神殿娼婦や神殿男娼で知られるいかがわしい宗教でした。ローマ帝国中で周知のことで、「コリント風に振る舞う」といえば淫らなことをするという俗語だったぐらいです。そういう都市だからこそ、パウロはここでの伝道をして、偶像ではない天地の造り主なる神を証しし、気慰みではないイエス・キリストの福音を語ったのです。その様子は「使徒の働き」十八章で読んだ通りで、約二年パウロはコリントに滞在して、多くの人が入信したようです[1]

 その後、パウロがコリントを離れ、第三回伝道旅行でエペソに滞在していた時、コリント教会に宛てて書いた手紙が本書です[2]。その冒頭、1章1節からを読みました。最初の挨拶、感謝、励ましが9節まで書かれていました。

 しかし、10節で一転して

「仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください」

とあって、驚かなかったでしょうか。その後、

「争いがある」

と明言され、教会の中に

「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」

と分裂が起きていたことが分かって、呆気に取られるのです。コリント教会には分裂がありました。開拓者のパウロを批判する人にもパウロは悲しんだでしょうし、キリストよりもパウロ先生だという人の勘違いにも、パウロはもっと残念な思いをしています。

 この「分派」の問題をパウロは4章まで取り上げます。それで終わりではありません。5章からは不品行の問題を扱われます。コリントの道徳は乱れきっていましたが、教会の中にも淫らな行いや買春が行われていたのです。この問題を7章まで扱います。その後8章から10章までが偶像崇拝との関わり、11章から14章では御霊の賜物の問題、15章では復活の教理が否定されている問題が扱われます。いくつかは手紙でパウロに問い合わせがあったようです[3]。ですから、このパウロの手紙は、コリントの教会が分裂や不品行、礼拝の混乱、教理の誤解などに手を焼いて、エペソにいるパウロに助けを求めて書いた手紙への回答として書かれたのです。それも目を覆うような問題だらけだったコリント教会の姿が浮かび上がってくるのです。

2.問題はあっても

 こうした惨憺たる状況がコリント教会にありました。他の教会にも問題はあり、その後の二千年の歴史でも完璧な教会など一つもなく、時に教会はひどく堕落してきました[4]。現在も教会のスキャンダルがニュースになります。そういう時に良く聞かれるのが、

「新約聖書の時代の教会は聖く愛に満ちていた。新約の教会に帰ろう」

というスローガンですが、聖書の教会は、決して理想的で麗しい教会ではありません。グループに分かれたり誘惑に流されたり、貧富の差を持ち込み、外からの圧力に屈してしまう。教会は人間の集まりで、私たち人間はキリスト者となっても聖人になるわけではありません。好みがあり、誘惑に流され、弱さを持っている人間です。そういう人間の集まりである教会は、間違いを犯さずにはおれません。その自覚を忘れて思い上がるなら、キリストの救いに与ってはいても、キリストの名を隠れ蓑にしたり、悪を行ったり、そして未信者よりもひどい暴力を振るうこともあり得るのです。

 しかし、そういうコリント教会に宛てて、パウロは、どのように書き始めたでしょうか。

Ⅰコリント一22コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 「聖なる者とされ、聖徒として召された方々」

というのです。その後も4節で感謝、5節で

「あなたがたは…キリストにあって豊かな者とされました」

 7~9節も、神があなたがたを召して、保って、完成させてくださる希望に貫かれています[5]。パウロはコリント教会のドロドロした問題を踏まえた上で、いや踏まえているからこそ、神の恵みという原点、キリストのものとされた土台に立ち戻るのです。

 主イエスが私たちを捉えて、私たちを神の子どもとしてくださいました。主イエスへの信仰を与えてくださいました。それでもまだ、沢山の問題を抱えています。ひどい罪さえ犯しかねない私たちです。しかし、罪や汚れ、間違い、誤解がある私たちを、主イエスは召して神の民としてくださいました。私たちは聖徒と呼ばれ、神の子どもとされ、神の物語の中にもう入れられています。その神の恵みに立ち戻ることによって、現実の問題を見つめ、自分の過ちを認めて、虚しい考えや恥ずべき生き方や幼稚な争いを止めて、悔い改め、生活を整え、成長し、希望をもって生きるようにと、パウロは励ますのです。

3.第一コリント13章「愛の章」

 「私たちは人として何をすべきか(すべきでないか)」(ルール)

よりも

 「キリストはどんな方でキリスト者とは何者か」(アイデンティティ)

が大事なのです。主はそのいのちをもって私たちを捉えてくださいました。だからパウロは、キリストが私たちを召されたこと、神が私たちをどのような者として選ばれ、どのようなご計画を持っているのかを説き聞かせています。

 あなたがたはキリストのもの。キリストは私たちのために死なれ、よみがえられた。私たちはもうその約束の中に入れられた。(アイデンティティ) だからそれに相応しい生き方が勧められるのです。

 皆さんも「私はクリスチャンとは名ばかりで、実態が伴っていない。末席を汚していて…」などと考えることがあるかもしれません。思い出してください。私たちの行いよりも大事なのはキリストが何をされ、何を約束されたかです。神の国を受け継がせてくださるという無条件の約束があるのです。その途上にあって、私たちはまだまだ過ちを犯し、恥をさらします。しかしそれを隠したり正当化したりせず、逆に正直に謙虚に認めて、主の憐れみに立たせて戴いて歩ませていただく。私たちは途上にあるのだと告白し続けることに、教会の証しがあるのです。

 コリント書でも最も有名なのは13章「愛の章」でしょう[6]

 どんな特別な力があっても愛がなければ騒音と変わらない。いや、知識や信仰や慈善や殉教さえも、愛がなければ何の役にも立たない

と歌い上げます。しかし、これも私たちに「全き愛」がなければ、という道徳や人道主義なのでしょうか。誰もそんな愛は持てません。私たちの内側から愛を生み出したり造り出したりすることは不可能です。ただ全き愛のお方であるイエス・キリストが、私たちを愛して、ご自身を与えてくださいました。その愛のゆえに、教会はしばしば間違え、醜態を見せ、傷つけ合いながらも、歩むことが出来るのです。

 イエスは私たちを耐え、信じ、望み、忍んで育ててくださいます。

 イエスの愛は決して尽き果てません

 イエスは私たちを完全に知ってくださり、私たちの隠れた罪や問題も、その奥にある呻きも知ってくださっています。

 また、今私たちがどんなものであるとしても、将来、神の子どもとして成長して、聖徒として輝くことを完全に知ってくださっています。

 その愛に立つからこそ、教会は自分たちの問題に正直に取り組み、何度でも繰り返して悔い改めて、主の赦しに与って、立ち上がることが出来るのです。

 その愛を追い求めるのです。規則や敬虔に見られるとか、他の宗教の批判、罪を犯した人を責めたり後ろ指を指したりもせず、愛を追い求めなさい。今、途上で不完全な私たちを愛して、すべての罪を赦し、そして罪からも愛のない生き方からも救い出してくださる主イエスがここにおられます。その愛を戴く途上にある私たちなのだと、コリント書は教えてくれるのです。

「私たちを愛したもう主よ。コリント教会の目を覆うばかりの姿に驚きつつ、これもまた私たちの鏡だとハッとさせられ、その中に輝く主の愛の測り知れなさに御名を崇めます。主の死と復活のゆえに私たちは永遠にあなたのものです。途上にあり、多くの助けと赦しと励ましに支えられてあることを、それぞれの歩みでも世界大の教会の歩みでも謙虚に証しさせてください」



[1] その時に語られた有名な言葉が、使徒の働き18章9節以下です。「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

[2] 厳密には、パウロはコリントに宛てて、少なくとも四通の手紙を書いています。第一「前の手紙」(Ⅰコリント五9)、第二「コリント人への手紙第一」、第三「涙の手紙」(Ⅱコリント二4、七8)、第四「コリント人への手紙第二」。また、その間では、実際に訪問もしたようです(Ⅱコリント十三2)。

[3] 一11、七1、八1、十二1、十六1、参照。

[4] 「地上にある最も純粋な教会も、不純と誤りの両者を免れない。そして教会の中には堕落してもはや全くキリストの教会ではなく、サタンの会堂になってしまっているものもある。それにもかかわらず、神をその御意志に従って礼拝する教会は常に地上に存在するだろう。」ウェストミンスター信仰告白、第25章「教会について」5節。村上満、袴田康裕訳。

[5] 「一4私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。5あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。6キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。7その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。9神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」

[6] 「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持(も)っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならばすたれます。異言ならば止みます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私(わたし)が完全(かんぜん)に知(し)られているのと同(おな)じように、私(わたし)も完全(かんぜん)に知(し)ることになります。こういうわけで、いつまでも残(のこ)るのは信(しん)仰(こう)と希(き)望(ぼう)と愛(あい)、これら三(み)つです。その中(なか)で一番(いちばん)すぐれているのは愛(あい)です。」

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はじめての教理問答32~33 創世記3章1~11節「悲しむ神」

2018-09-16 16:10:37 | はじめての教理問答

2018/9/9 創世記3章1~11節「悲しむ神」はじめての教理問答32~33

 先週は「罪」について聖書が何を言っているかを「はじめての教理問答」から知りました。聖書が言う罪、キリスト教が言う罪とは、私たちの心が悪いとか、人間社会での法律を破るかどうか、が基準ではありません。神様が人間に求めておられることが基準です。その神様の求めておられる目的(ゴール・的)から外れていることが罪です。神様の目的では無い、違う的を狙っている「的外れ」を「罪」というのです。

 今日はその続きです。人間が神の求める生き方から外れる時、その罰は何でしょうか。

問32 あらゆる罪にふさわしい罰とはなんですか?

答 神さまのいかりとのろいです。

問33 わたしたちの最初の祖先の罪とは、どういうものでしたか?

答 禁じられた木の実を食べたことです。

問34 だれがアダムとエバを誘惑して、このような罪をおかすようにしむけたのですか? 

答 サタンがまずエバを誘惑し、さらにエバを使ってアダムを誘惑しました。

 罪にふさわしい、つまり、神の求めることに応えなかった結果、自分に跳ね返ってくる「罰」は、神の怒りと呪いです。神が人間にご自身を信頼して、心から神に従うことをお求めになります。人間がその神の言葉に背いて、神に従わない時、神は怒り、私たちは呪いを身に招くことになります。そういう結果になるような約束破りを、最初の人間、アダムとエバはしてしまいました。つまり、禁じられていた木の実を食べたのです。

 神はエデンの園で、ありとあらゆる種類の豊かな木の実を下さり、園の中央に2本の木を植えられ、その片方、たった一本の木からは

「取って食べてはならない」

と禁じられていたのです。それが神と人間との

「いのちの契約」

でした。その禁じられた木の実を食べたことが、最初の人間の罪でした。「たったそれぐらい!」と思う人もいます。しかし約束は約束です。「少しぐらい破ってもいいでしょう」では、約束をする意味がありません。約束は守ることが、神の人間に求められている応答なのです。しかし、そこに蛇がやって来ました。これは蛇の姿を取った、サタンだと聖書では明らかになっていきます。その蛇がエバを誘惑し、エバを使ってアダムを誘惑して、禁じられた木の実を食べるようにそそのかしたのです。ここには、神が私たちに求められる契約を破らせよう、背かせよう、人間を神から引き離そうとする力が働いていることが示されています。そうした誘惑、悪い力があるので、私たちは賢く、用心深くなる必要があります。

 サタンは

「食べても決して死にませんよ。食べたら、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知ります。神はそうだと知っているんですよ」

と言いました。それに騙されて、また神を疑って、アダムとエバは、約束を破って、食べてしまいました。つまり、ただ約束を破っただけで無く、神を疑い、食べたら目が開かれて、神のように善悪を知るようになると期待して、食べたのですね。それは、サタンの誘惑があったにせよ、アダムとエバが自分から選択して、禁じられていた木の実を食べた、誰のせいにも出来ない過ちでした。食べた時、二人の目は開かれましたが、神のようになって善悪を知ったのでしょうか。いいえ、彼らの目が開かれて分かったのは、自分たちが裸であるという事実でした。神のようになるどころか、自分たちは裸である事実が見えて、その事実を、イチジクの葉を綴り合わせて隠す、という実に愚かしい行動をするのです。

 その後、神が近づいて来られたと知ると、二人は神の顔を避けて、隠れます。これも愚かな行動です。そして、

「あなたはどこにいるのか」

と呼びかける神に対して、彼らは

「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

と言いました。すると主は

「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」

と言われます。皆さんはこの言葉を聞いて、どんな主の思いを聞きますか。これは、主が人間の約束違反、的外れ、罪が明らかになった時に、初めて発せられた言葉です。主のどんな思いが伝わってくるでしょうか。

 読みようによっては、神は人間が契約を破って、あの樹の実を食べ、目が開かれて裸だと知ってしまったことに愕然として、爆発寸前、とも読めます。そういう意味で神は怒っておられるのだと読めます。しかし人間が裸である事は、2章25節でも既に触れられていました。裸であっても恥ずかしいと思わなかったのです。ですから、ここで主が仰っている

「あなたが裸である事を、誰があなたに告げたのか」

は、犯人捜しでは無く、

「わたしではないか」

という言葉なのですね。

「人が裸である事を告げたのは、わたしではないか。だから、あなたが裸であることを恐れて、わたしから身を隠しているのはどういうことか。食べてはならないとわたしが命じた木から食べた、ということではないのか」

と言っているのでしょう。そして、その事で神は一方的に怒り狂うのでは無く、人間が自分のしたことを認めるよう語りかけます。そしてこの後も、神は人間に、神との約束を破った責任の重さを自覚できるよう、出産や仕事の苦しみを増やします。でもそれは神との関係をよくも裏切ったなと怒りに任せて呪った、というようなものではありません。それは人が自分の間違いを認め、味わい、責任を引き受けるための罰です。

 人との約束を破れば、その人との関係は大いに傷つきます。暑いものに触れば火傷をします。無駄遣いをしたお金は帰って来ません。太陽を見れば目が潰れます。同じように、いのちの基である神に逆らえば、私たちの命は大いに傷つき、神は決して平気ではおられません。神に背く罪には、神の怒りと呪いという罰が当然の報いとして、相応しいのです。しかし、その「神の怒り」は人間に対する神の真剣さ、情熱です。この世界の小さな人間と、真剣に関わられて、約束を守ろうとなさり、約束が破られた時には悲しまれ、大いに嘆かれるからの怒りです。その呪いも、人間と真剣な関係を作るための結果責任であって、神は最後には神の子イエスの犠牲によって、呪いを祝福に替えるおつもりでした。

 罪にふさわしい罰は、神の怒りと呪いです。人間の小さな罪を、神が必要以上に怒るのではありません。私たちの罪は、決して小さなことではないのです。そして、私たち以上に、神ご自身が激しく悲しみ、最後には神の子イエスが十字架で呪いを引き受けることによって解決するしかないほど、神ご自身にひどい傷をもたらすのが罪なのです。

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ローマ書12章1-10節「聖なる身体 5つの愛の伝え方④」

2018-09-16 16:03:25 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/16 ローマ書12章1-10節「聖なる身体 5つの愛の伝え方④」[1]

 「5つの愛の伝え方」シリーズ、四つ目として「スキンシップ」を取り上げます。身体を触れることは愛の伝わる大切な手段です。だからこそ、無闇に人に触れないほうがいいとも言えますが、私たちの身体の感覚には他に代えがたい大きな力があります。子どもはたっぷり抱っこされて育ち、大きくなるものです。そのように神が人間を作られたことは聖書の人間観です。

1.霊的な礼拝とは

 今年の春、福音主義神学会の研究会は「身体性」がテーマでした。私たちのカラダについての学びです。どうも教会は人間がカラダある存在だと余り考えて来なかったんではないか、「魂の救い」ばかり言って「身体性」を後回しにしてきたのではないか、という反省も込められていました[2]

 私たちはどうでしょう、自分の体の声を聞いているでしょうか。頭や義務感だけで動いて、自分の体にある欲求や孤独には耳を塞いでいないでしょうか。「眠たい、お腹すいた、どこかが強張っている、病気や不調の心配がある」そうした感覚はありませんか。そうした身体の感覚は無視してはなりません。体の声を向き合わずにただ抑えつけ、無視するなら、それは私たちを振り回し、支配し、時には爆発してくるでしょう[3]。それは「自分の信仰の弱さ」や「罪」だからではありません。主は、その弱さや欲望、特徴も含めて、様々なサポートを必要とする身体を持つものとして人間をお造りになりました。私たちは体の声に向き合い、体を生かし、またお互いの身体を通して、主の恵みを味わっていくのです。[4]

 今日のローマ書12章。ローマ書は1~11章まで、キリスト教の教理、堕落の現実と圧倒的な恵みによる救いについて丹念に語ります。その主の圧倒的な恵みを受けて、12章以下「ですから」と読者のローマ教会(そして私たち)への「勧め」が語られます。その実践の最初が

ローマ十二1あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

 私たちの体を献げる。皆が生贄になるとか、牧師や伝道活動に人生を献げる事でしょうか。2節以下

 「心を新たにすることで、自分を変えて頂く」

 私たちの考え、思いを神の恵みの福音に基づいて一新されて生活することです。体を殺して神に献げるのではなく、体を生かして神の御心を求めて生きる。それこそが神に喜ばれ、完全なことだ、というのです。欄外を見ると、それこそが

「霊的な礼拝」

という訳も紹介されています。聖書が言う霊的な礼拝とは、精神や魂のことではなく、体を生かすことなのだ、この体の営みすべてを神への献げ物として、神の御心を求めつつ生きること。それが聖書の語る「霊的」なことだと言われているのです。

2.体の献げ方

 では具体的にどう生きることが神の御心にかなった生き方か、これは3節以下16章まで語られています。一人一人が異なる賜物を持っているので、お互いに違いを認め合い、仕え合いなさい。9節以下、

愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬し合いなさい。

 よく知られた

15喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい

もあります。こうして生きることが、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物としての生活です。その最初4節以下をもう一度見ましょう。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 この「からだ」はキリストの体ですが、同時に私たち一人一人の体を結びつけています。理念とか譬えで「一つの体」と言っているのではなく、私たちがこの体で実際に助け合い、それぞれの存在を喜ぶ。喜んでいる時には一緒に喜んで、泣いている時にも、何とか励まし泣かずに済むようにと考えるのではなく、傍らに佇んで、一緒に泣く。そういう体の在り方が、神の憐れみによって勧められている、新しい生き方、体の献げ方、神の喜ばれる礼拝なのです。

 Ⅰコリント6章でもパウロは、

あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。

と言います。コリントの教会に淫らな行いをしている信徒がいる問題を取り扱って、

15…あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。[5]

と言うのです。「淫らな行いが道徳的に悪い」という責め方ではないし、「淫らな行いなんかしたのだからキリストの体ではない」でもなく、それでもあなたの体は主の体の一部だ、なのです。

 ローマ書の言葉もそうです。私たちのからだは神に喜ばれる聖なる生きたささげ物とされる。私たちは自分の身体に劣等感があったり、傷をつけたり、汚れた体だと思わずにおれない経験をしていることもあるでしょう。しみやシワだらけでも、病気や傷があっても、どんな体でも、その体は、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物とすべき体だ。私たちの側で何か条件を満たそうとか、汚れてしまってダメだとか、そんなことは一切なくて、ただ、神の圧倒的な憐れみの故に、私たちは体ごと、聖なるものとして神に受け入れられるのです。

3.キリストの受肉

 体への拒絶とか暴力は、魂の深い所まで傷つけます[6]。人に触れたがらないのは、スキンシップが全く要らない人とは限らず、逆に本当は温かい触れ合いが要る時に、虐待や暴行を受け、深い人間不信に陥って、自尊感情も持てない場合もあるでしょう。徳島県立近代美術館で特設展があった佐野洋子さんは4歳の時、お母さんの手を繫ごうとしたら撥ね付けられて、「二度と母とは手を繫がない」と決意して、六十年間苦しい関係を続けたそうです[7]。AIDSへの偏見をなくす活動に参加した芸能人が、患者さんに「ありがとう」と握手をされたら、すぐにその手をごしごし洗わずにおれなかった、と告白していました。手を繫ぐ、繫がないというのは、本当にその人を愛しているかのバロメーターにもなります。そして私たちは、多かれ少なかれ、そういう体験を受けたり触れなかったりという記憶を持っていないでしょうか。教会での性的虐待の報道が続いていますが、そんな目に会ったら、教会やキリスト教や人生にも嫌悪感が生涯拭えなくても仕方ないと思います。

 しかし、最も聖なるお方である神の子イエスは、人となってくださいました。人間と同じ肉体を取ってくださいました。私たちと同じ、この体、肉体を取ってくださいました。相手にされなかった病人に触れたり、子どもたちに手を置いて祝福し、疑って沈みかけたペテロの手を取りました。そして最後にはご自分が、鞭打たれ、唾を賭けられ、十字架につけられて、呪わしい、忌まわしい体で死なれました。神はそのイエスをよみがえらせて、弟子たちは生きているイエスと再会したのです。その体には醜い釘の痕や痛々しい槍の傷がありました。

 それは、神がこの世界に満ちている様々な暴力や、その結果の消えない傷を知っておられる証しです。

 私たちにどんな汚れや罪があろうとも、そっと触れてくださる証しです。

 私たちの体を神が決して忌み嫌うことなく愛して、回復してくださり、また私たちのお互いの傷のある存在を通して、愛や大事さ、慰め、励ましを与えてくださるのです。

 

 今イエスは天におられます。イエスはご自分が本当に肉体を取り、裂かれたことを示すために、聖餐を定めました。パンと杯を通して、私たちはイエスに触れ、味わい、イエスとの交わりを持ちます。とはいえ、それは不完全な触れ合いです。実際のイエスに触れることには適いません。本当に主に触れて頂きたい、触れたい、ですよね? 聖餐に与るたびに私たちは、主の日をますます待ち望むのです。

 それまでの間、お互い体を持つ生身の人間として、繊細に、大事にし合いましょう。夫婦や親子は触れ合いが必要な場合が特にあるかもしれません[8]。いずれにせよ私たちが、自分の身体を主の聖なるものとして愛おしむようになり、体全体で世界を味わい、体が発する声に耳を傾け、体を労るようになれたら嬉しいではありませんか。身体性を見失ったキリスト教から、主が本当に肉を取ってくださったと告白する教会になりたいものです。

「人となられた主よ。あなたの受肉によって、この身体が、持て余すような汚れた身体から、測り知れない価値と使命を与えられ、弱さや痛みさえも恵みに輝くようになりました。しかし身体を傷つけられ、深く癒やしがたい傷も世界には溢れています。憐れんでください。私たちが主の愛を受け取り、主の温かさを伝えるよう、どうぞ一人一人と交わりを癒やしてください」



[1] 今回の説教には、ブログ「ちょうをゆめみるいもむし」の『聖なる生きたそなえ物』がタイムリーに掲載されて、大きく刺激を受けています。付してお礼を申し上げます。

[3] 後藤敏夫氏が、ヘンリ・J・M・ナウエン『イエスの御名で』を引きつつ、以下のような文章を書いています。「ナーウェンが『イエスの御名で』の中でこの問題に触れています。霊的な指導に活きている男女が、実にたやすく、非常に淫らな肉欲にふけってしまうことがある、と彼は言います。そしてそこで、霊性ということが肉体を離れて精神化してしまうと、肉体の命は肉欲に陥る、と彼は言うのです。あるいは、牧師や司祭がほぼ観念の世界だけのミニストリーに生き、自分が伝える福音を一連の認識や思想にしてしまうと、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる、とナーウェンは言います。 数年前、アメリカのテレビ伝道者のセックススキャンダルが問題になりました。ああいうことも、ただ性欲の問題ではないと思います。心と身体という私たちの全人格が共同体から離れ、個人的な英雄主義と虚構のセルフイメージで観念的に福音を語るとき、魂の内面に地割れがおき、肉体が親密さを求めて復讐するのです。テレビ伝道者のような人々は、おそらく、スポットライトを浴びながら、観念と虚構の中で福音を語りながら、自分が身体(性)をもって生きる共同体をもっていません。私のような者でも、歓迎され、少しヨイショされるような集会でご奉仕した後は、自我が膨張して、その帰り途、心の隙間に空虚な風が吹き、身体が等身大の親密さを求めて、肉的な誘惑に弱くなるという体験をすることがあります。ナーウェンは、こういうことは受肉の真理を生きることを知らないことによって生じる、と言います。」ブログ「どこかに泉が湧くように」1993年講演記録

[4] 典型的な精神主義として、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、天地創造の神を告白するキリスト者は、むしろ「心頭を滅却せず、火の温かさを味わおう」という招きを聞くのです。

[5] Ⅰコリント六15あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。16それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。17しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

[6] 「愛を伝える5つの方法」に私たちの身体がある、ということは私たちの体が神の聖なる器だということの一部です。赤ちゃんを抱っこする、夫婦が抱き合う、友人が肩を抱き、敵同士が握手をして和解をする、そうして安心や愛を文字通り体感する。それは、神が私たちの体を喜んでくださっている証しです。

[7] 佐野洋子さんと母親の60年以上にわたる確執と和解については、こちらの記事など。

[8] 日本人にハグの習慣はまだ馴染みが薄いですから、もっと軽い握手やタッチから始めたらよいでしょう。そして、それが苦手な人もいることも忘れず、デリケートであったほうが良いでしょう。重い自閉症で、親が触れることも出来ない、というケースもあります。特に、異性の場合は控えた方が無難です。そして、決して傷つけるような触れ方は許されません。逆に、自分の身体を傷つけられそうになったら、遠慮なく守ってください。それが出来なくて、傷つけられてしまったら、恥じることなく、助けを求めてください。私たちの体は、自分や誰かがぞんざいに扱ってよいものではありません。キリストのものです。

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「尊い贈り物 5つの愛の伝え方④」ルカの福音書21章1-6節

2018-09-09 19:30:56 | 愛を伝える5つの方法

2018/9/9 ルカの福音書21章1-6節「尊い贈り物 5つの愛の伝え方④」

 人身売買から保護された女性に、化粧(メーキャップ)を通して支援をする働きがあります。売春を強いられて身体も自尊心もボロボロにされ、保護されてもうつろだった女性が、お化粧をすることで笑顔になっていく姿は感動的です[1]。震災のケアでも女性たちに化粧品を(それも高級な)届けたそうです。言葉とか必需品だけでは出来ない力を贈り物が果たせる、という実例です。

1.愛を伝える贈り物

 「5つの愛の伝え方」、肯定的な言葉、仕える行為に続いて三回目は贈り物を取り上げます。プレゼントを贈るのも愛を伝える方法の一つです。勿論、相手に必要なものを届けること、台所用品や仕事の道具、救援物資や日用品、無くては困るもの、あると助かるものを贈るのも大事ですが、それは「仕える」と重なります。贈り物には必要なものだけでなく、必要ではないもの、記念品、お土産、サプライズ等が含まれます。そういう一見「無駄」な贈り物で愛を伝える人、そういうプレゼントで愛を伝えて欲しい人も多くいます。「それは贅沢だ、物質的だ」ではなく、神が下さった愛の伝え方の大事な一つ、贈り物を特に強く感じる個性なのです。

 今日のルカの福音書21章は「レプタ二枚の寡婦(やもめ)」として知られる出来事です。エルサレム神殿に世界中から大勢の巡礼者達が集まっていました。ラッパ型の献金箱に大勢の人が献金を投げ入れていました。しかし、その中に紛れて、いかにも貧しい女性がやって来たのです。彼女が投げ入れたのは、最小単位のレプタ銅貨二枚、数十円の金額です。当時の決まりで、献金は最低でもレプタ銅貨二枚とされていました。この女性はその最低限度額を献げたのです。エルサレム神殿の膨大な規模の運営予算にとって、それはどれほどのものだったでしょう。「わずかですが用いて下さい」というどころでさえなくて、転がってどこかに消えても、献金箱の底に忘れられても、気にされないような金額でした。イエスはその献金を見て、

二一3こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

 イエスはレプタ二枚を通して、女性の心を受け取りました。額では無く、そこに込めた思い、生きる手立て、生活そのものを献げた。御利益や願い事を期待してではないでしょう。「主の御用の足しに」という額でもありません。ただ彼女はひとえに自分の心を、出来る形で表したのです。その思いを主はご覧になって、本当に喜ばれて、受け取ってくださったのです。

2.贈り物の落とし穴

 ここから神が求められる贈り物について、とてもシンプルなことを気づかされます。それは贈り物は心を贈るためのものだということです。何を贈るかも勿論大事ですが、その贈り物に添えた心を見るのが、主なのです。主イエスは彼女の思いを受け取ってくださいました。わずか2レプタを献げた彼女の心を受け止めてくださいました。私たちの贈り物も、物だけで無く、言葉を添えたり、一緒に過ごしたり、必ず別のメッセージで思いを届けましょうと『愛を伝える5つの方法』の著者は書いています[2]。物だけでは不十分です。もし「愛の印に高価な贈り物」を要求されたら、「愛」につけ込んで利用したい一方的な関係かもしれません。あるいは贈る側も、知らず知らず贈り物が気を引くための「賄賂」にしやすいのです。祖父母たちが孫の、親同士がわが子の愛を買おうと、より高価なプレゼントを贈って争うなら、それは愛ではなく「賄賂」です。プレゼントに感じるのが自分への愛ではなく、自分の愛を買おうという計算だったら、どうでしょう。子どもには愛よりも競争心が伝わったとしても無理ないことです。

 どんな愛の伝え方も、愛を伝えるための手段です。決して、自分の愛が足らないから、あるいは相手の愛を手に入れるための手段ではありません。「あなたが大事ですよ」という思い。それを伝える手段として何かしら形にして贈るのです。高価な宝石でも、小さな貝殻でも、ささやかな絵はがきでも、手作りの何かでも、その贈り物に心を込めて贈ることで、よりそれが伝わるのです。

 勿論、好みもあります。欲しくない物は喜ぶよりも嫌がらせに思われるかもしれません。高価なものは無駄遣いだと思ったり、負担に感じさせたりするかもしれません。そもそも贈り物よりも、一緒に過ごして欲しい、何も要らないから話をしたい、という人もいます。

 「受け取らない」自由も大事です。

 そうしたお互いのそれぞれ違う思いのやり取りも大切にしながら、思いを形にして伝えて、形だけで無く思いを受け取ってもらう。夫婦や親子で、それをしてみることで関係が潤うなら、惜しくは無いでしょう。主が与えてくださった今の生活、家族や人間関係を、そんなちょっとした工夫で生き生きとさせられることがあるのです。

 このシリーズの最初にお話ししたように、神は私たちにありとあらゆる贈り物を下さっています。この命も自分という個性的な存在も、家族、健康、自然、出会い、何一つ主からの贈り物でないものはありません。そして、何よりも主の贈り物はイエス・キリストです。

ヨハネ三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3.何よりの贈り物

 神は御子をお与えになった。最大の愛の贈り物です。最も大事なものを与えるのは自分自身を与えることです。神は、私たちにひとり子イエスを通して、ご自分を与えてくださいました。そして、昨年クリスマスからお話ししているように、神はひとり子を与えてくださることによって、私たちを受け取ってくださいました。ひとり子を与えるという最大のプレゼントの送り先として、神は私たちを選んでくださいました。私たちは神の愛を受け取るだけでなく、神がこの最大の贈り物の受け取り手としてこの私たちを選ばれた、という贈り物をも頂いています。

 贈るにせよもらうにせよ「プレゼントは高価でなきゃ」と考える人は実は「このままの自分には価値が無い」と自己肯定感の低さ、不足感が強いのかもしれません。贈り物の中身によって[3]自分の価値が乱高下するのでしょう。しかし、私たちは既に神から最高の贈り物を頂いています。イエスの血でしか買い取れない、高価で尊い人なのです。私たち一人一人が、自分も含めてお互いが、神がこの世界に贈られた贈り物であり、イエスの命の値を払って買い取ってくださった、最高のプレゼントです。それを忘れて、愛を伝えるよりも愛のなさを裁き合い、どっちが偉いか、価値があるかと競争し、世界も家庭も修羅場にしてしまう現実もあります。それは私たちにとって真剣な課題です。主の憐れみを求めずにはおれません。だからこそ、最初に紹介した人身売買から救出された女性達のように、その苦しみで満身創痍になった人が贈り物をもらって、「自分には価値がある、希望がある」と体験して笑顔を取り戻す、そういう出来事に希望を持ちます。言葉で、お手伝いで、またささやかな精一杯の贈り物は、そうした回復を始めるために、主が与えてくださった大事な手段なのです。勿論、自分が何を欲しいか、好みを伝えて良いのです。ですがそれとともに、まずは贈り物の奥にある相手の心を、相手自身を受け取りましょう。

「やさしい気持ちで受け取ることは最高の形で与えること」です[4]

 レプタ二枚の献げ物を喜ばれた主イエスは、この数日後、ご自分のいのちを十字架に献げました。私たちを神の民としてくださいました。そして今も命や喜びや大事な人生を下さっています。その惜しみない愛にならって、私たちもお互いを、他者を、主の贈り物として受け止め、自分自身も、主がユニークに個性豊かに、そして完璧では無いけれどもかけがえのない存在として造って下さった贈り物として見ていきたい。そうして主の栄光を現させて頂きたいのです。

「恵み深く万物の造り主なる主よ。世界はあなたの宝物、そして私たちもあなたの宝の民です。あなたが言葉だけでなく様々な恵みを下さるように、私たちが互いに愛を贈り合うことが出来ますよう、特にその事が必要な関係に、その事で悩んでいる方に助けと知恵と勇気を与えてください。主イエスを贈られたあなたの愛を、私たちもそれぞれの精一杯で現させてください」



[1] 中日新聞記事「女性救う、化粧の力 人身売買横行のネパール 日本の団体活動」2013年6月5日、向井麻衣氏、TEDトーク「その途上国支援、本当に必要ですか? 17歳で”世界一貧しい国”に飛び込んだ女性の言葉が響く」。この記事では、「化粧」が女性にとっての「自尊心」を高める「外観のニーズ」という視点から語られています。確かに、この働きは「贈り物」だけでなく「仕える行為」「スキンシップ」とも重なる意味があります。

[2] ゲーリー・チャップマン『子どもに愛が伝わる5つの方法』(中村佐知訳、いのちのことば社、2009年)103ページ。

[3] あるいは、「中身」ではなく、「包み方」「渡し方」という付随物によって、浮き沈みをしてしまうこともあるでしょう。

[4] 「やさしい気持ちで受け取ることは最高のかたちで与えることなのかもしれない。わたしには、そのふたつを切り離すことはできない。あなたがわたしに与えるとき、わたしは受け取ることをあなたに与える。あなたがわたしから受け取るとき、わたしはじゅうぶんに与えられていると感じる。 ルース・ベベルマイヤー」(マーシャル・ローゼンバーグ『非暴力コミュニケーション』22ページ)より。追加として、「魂をもてなすとは、安全さを差し出すことでもあります。この人は安全な人だと信頼しきって、自分の言葉を選んだり、心にある思いの善し悪しを考慮することなしに、正直に、ありのままの自分をさらけ出しても大丈夫だと感じられるとしたらどうでしょうか。この人は、私の言葉や思いの中で、受け止める価値のある部分は大切に受け止め、それ以外のものは、優しさという吐息で、吹き払ってくれるだろうと信頼できるとしたら。.....魂の友情とは、批判されたりあざけられたりすることを恐れずに、何でも分かち合うことのできる場所を提供することです。それは、仮面や取り繕いが取り除かれ、脇に置かれる場所です。それは、いちばん深い秘密、いちばん暗い恐れ、恥を感じるいちばん敏感な部分、いちばん心を乱す問いや不安を、安心してさらけ出せる場所です。それは、恵みの場、つまり、その人が将来こうなるだろうという姿のゆえに、現在の姿がそのまま受け入れられる場所です。" (Sacred Companions: The Gift of Spiritual Friendship and Directionより。中村佐知訳)」

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