聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

2020-12-19 12:46:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/20 Ⅰテサロニケ4章13~14節「命が光り輝いている」ニュー・シティ・カテキズム50

 今週金曜日は、クリスマス。主イエス・キリストが人としてお生まれになったことをお祝いするお祭りです。プレゼントをもらったり、ケーキを食べたりする楽しみもあるでしょう。その元になったのは、神ご自身が私たちに、ひとり子イエスを贈ってくださったというかけがえのないプレゼントです。その感謝から、私たちもお互いに贈り物を贈り合い、人を招いて一緒に食事をしてお祝いするようになったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。



 このヨハネ3章16節は聖書の福音のエッセンスです。神は私たちを愛されて、最愛の御子を、この世界に与えてくださいました。クリスマスは、キリストのお誕生をお祝いするとともに、神がキリストをお与えになるほどに私たちを愛して、永遠のいのちを持たせてくださった喜びの想起です。キリストが二千年前にお生まれになっただけでなく、今も私たちにいのちを注いでくださり、永遠のいのちを与えてくださったお祝いです。
 先週はキリストは今どこにおられますか?というお話しをしました。キリストは、死んで復活され、天に昇って神の座の右に座し、やがてもう一度おいでになります。その「復活」、「昇天」、「永遠のいのち」についてお話ししていきます。今日は復活です。

問50 キリストの復活は私たちにとって何を意味しますか?
答 キリストは、ご自身を信じるすべての者がこの世にあって新しい命へと入れられ、来たる世には永遠の命へと入れられるために、罪と死に勝利され、肉体を持って復活されました。私たちがいつか復活するのと同じように、この世界はいつか回復されます。しかし、キリストを信じない者は永遠の死に定められます。

 先のヨハネの福音書の言葉では、神がそのひとり子をお与えになったのは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである、とありました。イエス・キリストは、私たち信じる者が永遠のいのちを持つために、生まれ、十字架に、死に、復活されました。いわばイエスは、死ぬためにこの世にお生まれになったのです。神であるイエスにとって、人間となるだけでも想像を絶する謙りですが、その後、本当に低い道を歩み、最後は殺される死へと歩まれました。それが、「神がひとり子をお与えになった」に含まれていたことです。そして、その三日目に、イエスは墓からよみがえりました。それが、イエスの復活の意味です。ですから、イエスは死んでよみがえり、私たちに新しい命を下さり、永遠のいのちを下さるためにお生まれになったのです。イエスの誕生と死と復活は、私たちを永遠のいのちに生かすためでした。
13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 ここで「眠っている」とあるのは、死んだ人のことです。テサロニケの教会の中で、亡くなった方がいたのでしょう。その死の悲しみでいっぱいになっていた人々に、パウロは「望みの無い他の人々のように悲しまない」でほしい、と思い出させるのが、イエスが死んで復活されたことなのです。イエスが死んで復活されたのだから、イエスにある人、イエスを信じる私たちも、死んで終わりではないのです。イエスが死に勝利された以上、私たちも死んでも終わりではなく、必ずいのちを与えられるのです。勿論、それでも、今誰かが死ぬことは悲しく、辛いことです。大きな怪我をしたら、手術をすればすぐに必ず直ると分かっても、今の痛みは痛いのです。死別は悲しいことです。しかしその悲しみを、二度と会えない永遠の別れではない。イエスを復活させた神は、私たちにも死の後の新しいいのちを下さる。そう信じた上で、悲しみ、嘆き、生きるようにしていただけるのです。
 イエスの復活は、私たちにとっても復活があるという保証です。その復活の希望を持ちつつ、今を生きることが出来るのです。

 このキリストの復活は、死後への希望だけではなく、
「この世にあって新しい命」
へと入れてくれます。更には
「この世界はいつか回復されます」
と、この世界そのものを新しい目で見させてくれるものでもあります。もし、この世界を神が諦めているなら、御子がこの世界のただ中に来る必要はなかったでしょう。もし、人間の体にたいした価値がないのであれば、神の御子が人間の体を持つことなど無駄な遠回りでしかなかったはずです。まして、そのイエスに対する人間の仕打ちが、蔑みや反対、苦しみの十字架の死であった時、よみがえらず、魂の姿で現れて、弟子たちに将来の希望だけを語ることも出来ました。けれども、御子イエスは人となって生まれ、その命を最後まで献げきって、死んだ三日目に、からだをもってよみがえられたのです。そこには、神がお造りになったこの世界が、神の命によって生かされること、必ず、この世界は回復さること、私たちが今ここで生きて、世界を愛し、人生を育み、精一杯いまを大事にして生きる歩みが、永遠の価値を持っていることが保証されているのです。つまり、今ここにある私たちの生き方、世界に対する態度を、根本的に新しくするのです。キリストが体をとって、人となって生まれ、ボロボロにされる人生を歩んで死んだあと、復活されました。
 イエスの命は、闇の中に輝いています。生きていることは無駄に思えて、生まれてこない方が良かったように言われる中、イエスの復活は、闇の中に輝いている希望です。
ヨハネの福音書1章4、5、9節
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。…
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 この輝いている光が来たことを、お祝いするのがクリスマスです。闇に生まれたキリストは、十字架の死からよみがえり、私たちに永遠のいのちを下さいました。私たちは今、どんな思いをする時にも、神がこの世界と私たちに果たされる豊かなご計画を信じるのです。それを私たちの周りの大切な人たちにも分かち合わせていただきましょう。

「復活の神よ、死が私たちのいのちの終わりではないことを、どうか覚えさせてください。私たちを神の裁きから救い、また誰もが神の怒りから逃れることが出来るように、強く勧める信仰を与えてください。キリストの御業によって神の怒りから救い出された私たちは、いつの日か復活の衣を身にまとい、新しい地で生かされる喜びを、心から待ち望みます。アーメン」
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