聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答107~108 ガラテヤ書3章21~28節「いのちの律法」

2019-05-26 21:01:15 | はじめての教理問答

2019/5/26 ガラテヤ書3章21~28節「いのちの律法」はじめての教理問答107~108

 

 夕拝でずっとお話ししてきたのは、神が聖書の最初に、イスラエルの民に与えられた「十戒」の事です。ここには、主なる神だけを神として礼拝すること、そして、私たちが互いに生かし合い、大切にし合う関係を育てることが教えられてきました。

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、 あなたの神、主である。

わたしのほかに、ほかの神々はない。

あなたは、自分のために、偶像を造らない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とする。

あなたの父と母を敬う。

殺さない。

姦淫しない。

盗まない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしない。

なたの隣人の家を欲しがらない

 こういう十の戒めです。神は、エジプトで奴隷とされていた人々を救い出して、自由にしてくださいました。もう奴隷ではなくなった。けれども、新しい歩みの中で、どうにかして、かつてのような生き方に戻ろうとしてしまうことを見越して、神はこの十戒を下さったのです。当たり前のような戒めですが、本当にこのまま生きようとするなら、なんと大きなことを神様は願っておられるのかと思うようになる。そういう新しい律法でした。しかし、この十戒を、また、聖書の教えを私たちは誤解しやすいものです。こういう戒めを守ることを神は求めている。こういう戒めを守れば、神は自分を救って下さる。一つでも破れば、救われない。そういう真面目な生き方を命じるのがキリスト教だと思いがちです。ですから、今日は、こういう問いを見たいのです。

問107 あなたは十戒を完全に守ることができますか?

答 いいえ、アダムの堕落ののち、完全に十戒を守ることができるのはイエスさまだけです。

 十戒を完全に守ることは出来ません。聖書も十戒を完全に守りなさい、守れるはずだ、守らないなんてとんでもない、と教えているのではありません。聖書の最初にアダムが神に背いて、神との関係が壊れてしまって以来、だれも十戒を守れません。ただ人となって来られたイエス様お一人、罪のない聖い人間として、完全に神に従ったのです。聖書は人間が誰一人、律法を守れなかった物語でもあります。もし人間に十戒を守ることが出来たのであれば、イエス・キリストが来る必要はなかったのです。では「十戒は守れないのなら、要らないじゃないか」と言いたくなるかもしれませんが、

問108 十戒は、あなたにとってどんな役に立ちますか? 

答 十戒は、神にとって何が喜ばしいことか、そして私がどれほど救い主を必要としているかを教えてくれます。

 十戒は、神にとって何が喜ばしいことかを教えてくれます。神が望んでおられるのがどんなことか。逆に言えば、神が何を望んでおられないのかも教えてくれます。自分のしていることを、「みんながしているからいいさ」「自分一人ぐらいこんなことをしていても構わないよ」そう思いたくなる時、十戒を通して、聖書の言葉を通して、私たちは神がそれを喜ばれるか、神が願っていることは何なのかを思い出させてくれます。そうして、私たちは、自分がどれほど救い主を必要としているか。イエス様を必要としている自分である事を切実に知って、イエス様の助けを求めることが出来るのです。

 今日のガラテヤ書3章の言葉を思い出しましょう。ここでも

「律法は神の約束に反するのでしょうか? 決してそんなことはありません!」

と始めていました。そして、律法には、人間にいのちを与えることは出来ないけれど、罪の下にあることをすべての人に知らせることで、イエス・キリストに対する信仰を持つようにうながした、というのですね。その事で、ここでは律法を

「私たちをキリストに導く養育係」

と呼んでいます。養育係。子どもを教え、育てる人です。お父さんやお母さんではありません。私たちの父は天の神、兄はイエス・キリストです。養育係とは、子どもを育てたり守ったりする人です。お父さんから子どもの世話を任された人、ということでしょう。食事を挙げてお世話をする「乳母」とも違いますし「家庭教師」とも違います。新約聖書が書かれた二千年前の当時は、知識のある奴隷が子どもの養育係を任されていました。勉強を教えるだけでなく、生き方を学んだり、危険から守ったりしたのです。英語の聖書ではこの言葉を「ガーディアン」を訳しています。守護者、管理者という言葉です。とても強く、頼りになる存在です。律法とはガーディアンなのです。父なる神様から人間を養育し、守るよう力強く働いてくれる、頼もしいガーディアンなのです。私たちが律法を守るのではなく、律法が、私たちを守って、父なる神の喜ばれることは何かを思い出させてくれます。そして、自分で正しく生きられるわけではないことを思い出して、ますます救い主イエス様に信頼して生きるように、助けてくれるのです。

 中には、律法のことを誤解して、厳しく口うるさい家庭教師のように思っている人もいます。こんな「養育係」でしょうか。

 あまりに真面目で、堅苦しい家庭教師のイメージがあるかもしれません。律法なんて面倒くさい、律法なんていらない。そう思い込んでしまっている人がたくさんいます。でも、律法は私たちをキリストに導く養育係です。律法は神様ではありませんし、律法を守らなければ神様の子どもになれないのでもありません。むしろ、神様は律法を通して私たちに語りかけます。十戒を守れない自分を知ることで、私たちは神様の元に帰って行ける喜びに溢れます。十戒を通して、私たちは神様のもとから離れる生き方のつまらなさ、くだらなさに気づいて、神のもとに立ち帰らせてもらえます。「教育係」は楽しく、ステキで、ワクワクする人です。決していい加減なことはしないし、こびを売ったりもしませんが、縛るよりももっと広く、大きな世界を体験させて、目を開いてくれるのです。

三26あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスによって神の子どもです。

 十戒をどうぞ大事にしてください。私たちは養育係の下にはいません。律法が指し示してきたキリストが現れて、私たちを神の子どもにしてくれました。律法しか知らなかった時代よりもハッキリと、私たちは神がどんな方かを知っています。でも、養育係である十戒は、今でも私たちを教え、導いて、育ててくれます。悪い者から守り、誘惑から守ってくれるガーディアンです。まだ私たちには罪があり、神様から離れやすいので、律法によって時には厳しく、連れ戻してもらう必要があります。そして、救い主イエス様は、律法を通して、私たちの毎日の生活を助けてくれます。どんな人も馬鹿にせず、ウソもなく、文句や自慢をストップしてくれます。律法は頼もしい養育係なのです。

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マタイ伝9章9-13節「神はともにいる王 マタイ伝」

2019-05-26 20:55:29 | 一書説教

2019/5/26 マタイ伝9章9-13節「神はともにいる王 マタイ伝」

 今月の一書説教として、マタイの福音書をお話しします。新約聖書の第一巻、最初に開かれる書。しかしご存じのように、その最初がアブラハムからダビデ、バビロン捕囚と名前が延々と綴られる系図です。聖書を読む気が失せて閉じてしまう人もいるでしょう。ぜひ、それで躓くより、そこは飛ばしていいので、読み続けていただきたい。そして、新約を読み終わったら、今度は旧約の最初から読み始めたらよいでしょう。そこでも読み慣れない所は飛ばしてでも何とか最後まで読んで、もう一度、新約を開いてください。そうしたら、読んできた旧約の人物がマタイ一章の系図に出て来て、旧約と新約が繋がっていることを実感するのです。

 マタイの福音書が、新約聖書の最初に置かれているのは、旧約と新約との繋がりが最もハッキリしているからでしょう。旧約の歴史がアブラハムからモーセ、ダビデと続いてきて、長い間掛けて神の契約が現されてきました。同時に、旧約聖書が示すのは、人間の醜さや裏切り、暴力や悲しみの現実です。そうした出来事を思い出させるのが、マタイの最初の系図です[1]。そして、そのような歴史の末にイエス・キリストがおいでになったことが語られます。マタイの福音書そのものが、旧約の民の子孫、ユダヤ人を読者として想定して書かれています。本文にも旧約聖書の言葉が沢山、他の三つの福音書より多数引用されていますし、旧約の預言がイエスの御生涯によって「成就した」という言葉も沢山出て来るのが特徴です。

 イエスは、今から二千年前の時代に突然現れた聖人・偉人ではありません。旧約の二千年以上の歴史を通じて、ずっと待ち望まれてきたメシア、神が遣わしてくださる本当の王。その事が、旧約聖書との繋がりを強調するマタイの福音書を通して伝わってくるのです。それは、偉大すぎて近寄りがたいメシアではありません。この福音書の中で、繰り返し語られるのは、

1:23「その名はインマヌエルと呼ばれる。」…「神が私たちとともにおられる」

18:20二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる…。

28:20「…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 一章でも最後の二八章でも、

「ともにいます」

という言葉が出て来ます。神は私たちとともにおられる。イエスはそれを体現された神の御子であり、そう約束なさったのです。それも、旧約の歴史が、神の民とされたイスラエル人がどんどん転がり落ちてしまって、見る影もない所に、イエスは王としておいでになりました。人間の罪が明らかになっている所に、イエスは

「ご自分の民をその罪からお救いになる」

お方として来られたのです[2]。それは、他ならぬこの福音書の記者、マタイ自身の体験したイエスとの出会いだったに違いありません。今日の、

9:9イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 収税所とは、当時のユダヤを治めていたローマ帝国が置いた事務所です。マタイは、同胞のユダヤ人から憎い敵のローマ帝国のために重税を搾り取る片棒を担いでいました。ローマ兵の威圧感を後ろ盾に、ユダヤ人から金を取り、その中から自分の取り分も集めて、裕福な暮らしもしていたかもしれません。ですが、孤独でした。ユダヤ社会では「取税人と罪人」と並ぶような扱いをされる、売国奴、呪われた人生を送っている奴と見なされていました。しかし、イエスは収税所に座って仕事をしていたマタイを見て「わたしについて来なさい」と言います。マタイの生き方を責めたり、通り過ぎたりせず、「わたしに着いてきなさい」と言われた。それはマタイがどれほど驚いた呼びかけだったでしょう。そしてマタイは取税人の仕事を捨てて、イエスに従う人生を選んだのです。それぐらいイエスの呼びかけは衝撃的でした。

 この出来事の前にはずっとイエスの奇蹟が伝えられています。8章では重い病気の癒やしや、船に乗っては嵐に襲われてもイエスが風と湖を叱りつけて鎮めたり、悪霊に憑かれた人から大勢の悪霊を追い出したりした出来事が綴られます。イエスの力は凄いなぁと思うのですが、その華々しい出来事の流れに、取税人マタイとの出会いがあるのです。これは、マタイが参考にしたマルコの福音書の流れに沿ったものではありますが[3]、そこにマタイが(恐らくは)自分の名前を明記して「マタイという人が」と書いたのだとすると、それはイエスが自分に声をかけてくださったことが奇蹟中の奇蹟だと言いたいのではないでしょうか。イエスが自分を呼んで下さった。新しい人生を下さった。イエスは、私にも声をかけてくださったお方。私に一緒にいることを求め、世の終わりまでともにいると約束してくださった方。そのイエスが神の子であって、神ご自身が私とともにいる神なのだと、イエスを通して、マタイは知って、人生が変えられる奇蹟が起きたのです。それは、当時のユダヤでは冒涜とも見なされました。10節でイエスがマタイたちと一緒に食事をしています。取税人や罪人と呼ばれた社会の除け者たちが大勢来ていました。それ自体あり得ないことでした。だから11節で、禁欲的に真面目に神の掟を厳格に生きようとしていたパリサイ人たちは、「なぜあなたがたの先生は」と非難をするのです。あんな奴らと一緒に食事をするなんて、と言うのです。

12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

13『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです[4]

 イエスにはマタイも取税人も「罪人」も、無価値でダメな存在ではなく、大切な存在でした。神は正しい人を喜ぶのではなく、すべての人を真実に愛することを喜ばれます。罪人のためにこそ、神から犠牲を惜しまず、近づいて癒やしてくださるのです。私も高校の時この言葉で人生が変わりました。パリサイ人やユダヤ社会、現代の私たちや教会も「神が求めるのは正しい生き方で、正しくない生き方をする者を神は裁かれる」と考えます。その発想がある限り、真実の愛よりも評価や軽蔑や上下関係が生まれます。「ユダヤ人は敬虔で、異邦人は呪われている。ユダヤ人でも、取税人はダメ、律法に従えない人は罪人」。生まれや行いや何かで、人の価値に上下を付けて安心しようとするのです。そんな考えをイエスは悉(ことごと)く覆(くつがえ)します。説教でも譬え話でも、イエスは当時の理解に挑戦します[5]。マタイが繰り返す言葉の一つは

「最も小さな者のひとり」

です。人の社会の中で「最も小さな者」と蔑んでいるような、その一人に神は目を留めておられる。そしてイエスは最も小さな人の一人になります。病気を癒やし、嵐も鎮め、奇蹟を起こす権威を持ちながら、しかしその力で社会を引っ繰り返すよりも、最も小さな者、貶められて阻害されている人の友となり、小さな一人となって殺される道を選ばれました。それが、イエスという王の示した道でした。「真実の愛」をもって、誰一人として蔑まず、ともにいてくださる王。そして、そのようなイエスのお姿そのものが、マタイを変え、神の御業の始まりになり、ユダヤ人から始まる「神の国」の広がりになっていくのです。マタイは、イエスがまずユダヤ人に語ったことを伝えながら、いつも、周りにはユダヤ人以外の異邦人の存在にも目を向けさせます。ユダヤ人より純粋な礼拝者の東方からの博士たち[6]、イエスも驚く程の信仰を持つ百人隊長[7]、ユダヤ人よりも熱心に求めるツロ・フェニキアの母親[8]、十字架の下で「この方は本当に神の子だった」と告白したローマ兵[9]。そして、最後は28章で、

18イエスは…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…

と全世界へと派遣されるのです。そのイエスの派遣によって、マタイも弟子たちもイエスのあわれみを伝えました。その末に、今私たちもここでイエスの福音を聞いています。私たちもここで、イエスがこの私をも招いてくださって、いつまでもともにいると約束されているのです。

「マタイを召された主よ。王であるあなたは、病人や罪人の私たちを救うため、神の民として生き返らせるため、この世界に来て、最も小さくなってくださいました。この驚きと感謝が込められたマタイの福音書を与えてくださり有難うございます。どうぞ私たちの歩みや私たちの心にも語りかけ、働きかけて、小さい一人を愛するあなたの御国をこの地に拡大してください」



[1] 一章の系図、四人の女性は、男性側の暴力に巻き込まれた面が大きい。しかも全員が、ダビデ以前。理想化されたダビデだが、曰く付きの面をマタイは抑える。しかし、それはダビデを非難するためでなく、そうした問題ある過去を抱えたダビデと、イスラエルの末に、イエスが王として来られたことが福音書に展開される。

[2] マタイ一21~23「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

[3] マタイとマルコとルカの福音書は、内容に共通するものが多いことから「共観福音書」と呼ばれます。中でもマルコが最初に福音書を書き、それをマタイとルカが参考に、アレンジしつつ書き写したと考えるのが、新約聖書の編纂史についての主流の理解です。これに、マタイとルカとが共通して参考にした「Q資料」というものがある、という学説も根強くありますが、それについては異論もあり、私もこの点は断定しなくてよいと考えます。まして、「Q資料」の復元などは不可能だと考えています。

[4] この「真実の愛」とは直訳すると「あわれみ」という言葉ですが、元々の引用されたホセア書の言葉が「真実の愛」でした。この事に関しては、「受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」」でお話ししました。ご参考に。

[5] マタイの特徴の一つは、「説教集」でもあることです。いずれも「イエスがこれらの言葉を語り終えると」で結ばれる五つの説教集は、5~7章「山上の説教」、10~11:1「派遣の説教」、13章「天の御国の譬え」、18:1-19:1「弟子たちの交わりの問題」、24-25章「終末について」(パリサイ人の偽善の23章は前置き)です。マタイ全体が、小さい者への光とともに、当局の「権力者」への批判で貫かれており、それ自体が、イエスがどのような王であるかを示している。5つの説教集もそこに向けています。特に、第五説教集の導入と言える23章はその面が強烈です。

[6] マタイ2章。

[7] マタイ8章5節以下。

[8] マタイ15章21節以下。

[9] マタイ27章54節「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」

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はじめての教理問答105~106 Ⅰヨハネ1章3~4節「あふれて生きる」

2019-05-19 20:42:31 | はじめての教理問答

2019/5/19 Ⅰヨハネ1章3~4節「あふれて生きる」はじめての教理問答105~106

 

 今日で、「はじめての教理問答」の十戒についての告白は最後になります。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、と続いてきた十戒の結びは、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」です。

問105 第十の戒めはどういうものですか?

答 第十の戒めは、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です(出エジプト20:17)。

問106 第十の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 神がわたしに与えることをよしとしたもので、満足することを教えています。

 神が最後に与えられたのは

「隣人の家をほしがってはならない」

です。建物のことだけでなく、隣の家の家族、持ち物全部。

「男奴隷、女奴隷、牛、ろば」

は、今で言うなら、家具や車、年収、暮らしぶり。どんなことでも、他人のものを見て、自分のものにしたい、自分にはあれがないなんて不幸だ、不公平だ、と考える心を、十戒は退けます。

 「隣人の家をほしがる」は、周りの人の持ち物や暮らしを、自分のものにしたいと強く願うことです。何でも「欲しがる」ことそのものが良くないのではありません。何も欲しがることなく、無欲で、不平や熱情もなく、夢も希望も持たない人になれ、というのではありません。むしろ、この「欲しがる」は良い意味で使われる場合もあります。

創世記二9神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

箴言二一20知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし、愚かな人はこれを吞み尽くす。

 神は、この世界を好ましいもので満たしておられます。世界には、欲しがらなければもったいないほどの素晴らしいものが満ちています。神に「何がほしいか?」と聞かれても「いいえ、私は何も要りません」なんて言ったほうがいいなんてことはありません。神は私たちに良い物を願って欲しいのです。知恵がある人は、神からその好ましい財宝をいただいて、十分に味わい、生かしています。質素で、何も欲しがらないのが良いどころではなく、神は私たちに強い情熱、熱心を求めます。何が欲しいのかを聞かれます。でもその時に「私の隣の人の家が欲しい。同じ車が欲しい。あの人の食べているようなのが食べたい」と願うとしたら、勿体ないでしょう?

 他人のものを欲しがる事を、十戒は窘めています。言葉や行動に出さなくても、心の中で欲しがる。その事を、十戒は言っています。ここには、神が求めている私たちへの要求の高さが最高に示されています。神を礼拝するとか、真面目に生きるとか、そんなことを神は喜ぶと思い込んでいることが多いのですが、十戒は、私たちの心の奥にある、毎日の妬みとか人のものを欲しがる思いに光を当てるのです。パウロは言います。

ローマ七7…律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

 律法が第十戒の「隣人のものを欲してはならない」と言ってくれたことで、私は自分の中にある欲望に気づいた。十戒がなければ、自分には罪はないと思えたのに、十戒のおかげで、隣人のものを欲しがる自分に気づき、それをどうしようもない自分の罪に気づいたというのです。そして、そのパウロは、こうも言っています。

コロサイ三5…貪欲は偶像礼拝です。

エペソ五5…貪る者は偶像礼拝者であって…。

 神を信じると言いながら人のものを欲しがる。他人のものを自分のものにしたいと考える。それは、神よりも、隣人のものを神にしてしまっている「偶像礼拝」なのです。そして、決して幸せになることの出来ない、ますます心が渇いてしまう悲しい心です。

Ⅰヨハネ一3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 私たちの喜びが満ち溢れるため。なんと美しい言葉でしょう。主が私たちに下さるのは喜びに満ち溢れる歩みです。神が下さる交わりや御言葉を受け取っていく時、私たちの喜びが満ち溢れる。神様が福音を通して、そして、交わりを通して与えてくださるのは喜びに満ち溢れた歩みです。満ち溢れた心は、人のものを見ても、欲しがる必要がありません。交わりを持った時、当然、そこにいる人は誰も同じではありません。自分より素敵な家に住んでいる人、自分の家族にはないものを楽しんでいる人がいるでしょう。みんな違います。そこで比べたり妬んだり、欲しくなったりする心を十戒は否定しています。でもそれを否定するだけではなく、もっと積極的な、喜びに満ち溢れる交わりがゴールにあるのです。誰も、人のものを妬まず、欲しがらず、自分の物は自分の物、人の物は人の物、と弁えて、違うお互いを喜び合い、楽しみ合う。そういうゴールに向かっていると思えば、今ここでも、私たちは人のものを見て、欲しくなる気持ちがわき上がっても、それに振り回されたりせず、楽に生きられるようになります。

 何度かお話ししたように、元々の十戒の言葉遣いは

「してはならない」

という命令でなく、もう言い切って「しない」と断言しているのです。ここでも

「隣人の家をほしがらない」

です。天地の神が私たちの神となってくださったことで、人は人のものを欲しがらず、自分の生活を喜び、本当に必要なものや欲しい物で生活を豊かにするようになります。本当に幸せな恋人は、幸せな他者を見てもうらやましく思う事はないでしょう。何よりも、かけがえのない相手がいて、自分を喜んでくれるから、満たされているのです。イエス・キリストが下さるのは、それ以上に満たされた関係です。私たちを愛し、私たちに特別な人生を用意し、私たちの罪や弱さも全部受け止め、私たちを喜んでくださる主との歩みです。そして、隣人や友人やどんな人との出会っても、その人もまた、主に愛され、違う満たされ方、特別な愛され方をしている同志だと知る時に、私たちの交わりも、妬みや羨む必要のない、喜びを満ち溢れさせてくれる交わりになるのです。

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創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

2019-05-19 20:38:26 | 聖書の物語の全体像

2019/5/19 創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

 聖書が書き綴るのは、神が

「ともにいる神」

であり、創造されたこの世界に、神が何を願い、どう関わり、どう導くかを現した「神の物語」です。その最初に、神の民を生み出していくために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムを語る上で、今日の22章の出来事はクライマックスだと言えます。百歳になって、神がようやく授けてくださったひとり子を、その神が

「全焼のささげ物として献げなさい」

と命じられるのです。とても理不尽な命令です。神が授けてくださったイサクです。その子を、同じ神が「生贄として献げなさい」という。それは大きな

「試練」

でした。決して「最後には神が止めてくださるだろう」と期待したのでもありませんし、「アブラハムは神への信仰が深かったからわが子も喜んで捧げたのだ」だとしたら意味がなくなります[1]。アブラハムにとって、悲しみや疑いや嘆きが心中に渦巻いたことでしょう。アブラハムは黙々と翌朝早くに旅支度をして、二人の若者と一緒にイサクを連れて出立します。薪も割って、場所へ向かいます。三日目、その場所が見えると、

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」…

 「私の息子は、あそこに行き、礼拝をして、二人で戻ってくる」というのです。イサクが、

…「お父さん…火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

と尋ねた時も、アブラハムは「お前を捧げるのだ」と言わないばかりか、暗示的に答えます。

…「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」…

 こうした言葉やそれ以外のアブラハムの沈黙は、彼の信仰なのか、それとも他に言う事を思いつかず、こう言うしかなかったのか。言葉少なに二人は一緒に進み、9節で到着するのです。

 9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

 イサクは薪を背負って山を登ることが出来たのですから、小さな子どもではなく、アブラハムより体力はあったでしょう。アブラハムが不意打ちで縛ったとか、嫌がるイサクを無理に殺そうとしたわけではないはずです。むしろ、父が捧げる羊の生贄を見慣れていたイサクは、献げ物に託して、主に自分を献げするのが信仰だとその姿から見ていた。だからこの時も抵抗せず、だからこそアブラハムはイサクを祭壇の上に載せることが出来たのだろうと思います。

10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 主の御使いですが

「わたしは」

というのですから、神ご自身でもありました。主は、イサクを刃物で屠ろうとしたアブラハムを止められました。本当にアブラハムがわが子より主を恐れ、主を大事にしていると分かった所で、主はご自分の命令を撤回します。その時、アブラハムは、

13…目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

 主は雄羊を備えてくださっていた! アブラハムが主に従ってひとり子をさえ捧げた、という以上に、主がアブラハムに犠牲や従順を求める、という以上に、主がご自身で雄羊を備えてくださっていた。それがこのエピソードの大きなメッセージです。ですから、

14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

 アブラハムの信仰より「主の山には備えがある」がこの出来事の記念なのです。それも、7節8節では、主が羊(小羊)を備えてくださる、という暗示的な言葉でしたが、13節で実際に備えられていたのは立派な

「雄羊」

でした[2]。迷子の小羊ではなく、藪に引っかかっているなんてあり得ない雄羊がいました。アブラハムはそこに主の備えを、それも人の予想を上回る善い備えを見たのです。主は、最高のものを備えてくださる。それがこの出来事だったのです。

 アブラハムがイサクを惜しまずに捧げたのにも勝って、主がアブラハムにもイサクにも惜しみない備えを用意しておられた。いいえ、もとよりイサク自身が、主からアブラハムに備えられた贈り物でした。主の祝福と慈しみ、そしてアブラハムの疑いや裏切りへの赦しと憐れみがあったから授かったイサクです。イサクの子孫がやがて天の星のように増え広がると、神は約束されました。イサクを育てる喜び、家族の笑い、愛するわが子との歳月そのものが主の恵みです。主は恵み深いお方なのです。だからその恵みを通して、ますます主を喜び、崇める。そこに伴って祝福や喜びは豊かにありますが、でも、その祝福や喜びがあるから神を愛する、という関係ではなく、本当に神を恐れ礼拝し、神を神として喜び、従う関係が主の目的なのです。

 この後、アブラハムのように「わが子を生贄に」というような命令は決して与えられません。むしろ聖書は、子どもを神々に捧げて願望を叶えようとする習慣を、非常に忌まわしい習慣として厳しく禁じています[3]。イサクもその子のヤコブも、その子を捧げるよう求められることはないのです。ただ、アブラハムとは違う形で、大事な家族を失いながらも「それでもなお、主を信じるか、主を主として礼拝し続けるか」という問いはいつもありました。私たちの生活でも、失ったり選んだり、変化や試練はつきものです。創世記43章でヤコブが言う

「私も、息子を失うときには失うのだ」

のセリフはヤコブの人生の大事な転換点になります。ヨブ記も、財産や家族や健康、妻の愛や友人からの友情を失ってもなお主を恐れるか、神が願う人との損得抜きの契約関係などあり得るのかをテーマとしています。そして、そういう関係を神は必ず私たちとの間に作り、私たちの心を新しくなさる。それが聖書の物語のメッセージです。

 主は私たちに求めただけではありません。主ご自身も民に(私たちに)にご自身のひとり子を捧げてくださったのです[4]。主はご自身の愛するひとり子イエスを私たちのために生贄となさいました。イサクが薪を背負って山を登ったように、イエスは十字架を背負い、カルバリの丘を上りました。縛られて、刃物で屠られました。主は愛するひとり子を与えることで、神がこの世界にご自身を与えて、惜しみない恵みを現すかをハッキリと示してくださいました。そういう確かな関係の中に私たちは入れられています。そして、私たちもその主の恵みの中で新しくされてゆき、御利益とか祝福のためではなく、主を愛し、隣人を自分のように愛する者に変えられて行くのです。神が求めている関係はそういう、自分を捧げる関係なのですから。

 財産も家族も健康も主からの祝福です。すべて善いものは主の贈り物です。でもそれが偶像になって主よりも握りしめやすい。失わないで済むことを主に期待するなら、それは主への信仰や礼拝ではないし、主が求める人とのいのちの関係でもありません。必ずいつかは壊れたり、失われたり、手を離れていきます。我が子を失う経験も起こります。これからの社会でも沢山の喪失を私たちも体験するでしょう。それでも主を愛する、多くを失いながらも神を神として礼拝する。主以外の全てを失い、時には自ら手放さざるを得ない思いをしながら、でもそれを主が備えて一時でも楽しませてくださったと感謝して、主を礼拝するのです。途中で御心が分からなくても、奪われるばかりのように見えても、「主を信じて何になるんだ」と思いたくなっても、主を礼拝し、誠実に歩み、ハッキリしている御言葉に従っていく。そんな山を登る思いで進んで行く人生には、必ず新しい主の備え、惜しみない備えがあると励まされるのです[5]

「すべての贈り主なる神よ。惜しみない御恵みを感謝します。その恵みを偶像にして、主を二の次にし、失う恐れに囚われてしまうとしても、あなただけが私たちの神です。あなたの備えの素晴らしさを期待して、旅路を続けさせてください。失う悲しみもご存じである主イエスが、どうぞ一人一人を支え、決して失われないあなたとともに歩む幸いに心を向けさせてください」



[1] ヘブル書11章17節以下には「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。18神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とありますが、ヘブル書11章全体のいくぶん「美化」したとも言える表現であることを心に留めて読まれるべきでしょう。

[2] 7、8節の「羊 שֶׂה」は若い羊、小羊、など羊一般。13節の「雄羊 אַיִל」は、強い羊に特定する言葉です。21章28節などの「子羊 כִּבְשָׂה」は一歳未満の羊です。ちなみに、「雄羊」は生贄とされるときも、大祭司の任職や、年に一度の「贖いの日」の献げ物だけで、特別な儀式用でした。

[3] エレミヤ19:6、レビ18:21、20:1-5、申命記18:10、ミカ6:6-7

[4] ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

[5] 「主の山に備えがある」の「備えがある」は、欄外のように「見る」という言葉です。ですから、いくつもの訳・意味が提案されています。その可能性の一つは「山では主を見る」です。「備え」とは「主ご自身」との出会いである、ということです。これもまた味わい深い提案です。

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はじめての教理問答99~100 箴言30章7~9節「自分のもので満足」

2019-05-05 21:16:14 | はじめての教理問答

2019/5/5 箴言30章7~9節「自分のもので満足」はじめての教理問答99~100

 神様が下さった、大切な戒めをまとめた「十戒」を、ひとつひとつ心に留めていますが、今日は第八の戒め「盗んではならない」を見ていきます。

問101 第八の戒めはどういうものですか?

答 第八の戒めは、「盗んではならない」です(出エジプト20:15)。

問102  第八の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 ほかのひとの物を、奪ってはならないということを教えています。

 盗むことは悪いと思わない人はそうそういないでしょう。けれども、日本では今でも、万引きや強盗、窃盗犯は毎年65万件以上報告されています。空き巣、ひったくり、強盗、すり、自転車泥棒、様々な詐欺、そして、法律的には問題のない方法でだれかのものを奪い取ること、犯罪には問えないけれども、神様の前には「盗み」であるものも含めたら、どれほど沢山の盗みがこの世界にあるか、知れません。そして私たちも、人のものを盗ったり、皆がしていることだからとズルをしたり、誤魔化したりしている事はあるのではないでしょうか。

 また世界を見回したときに、日本やアメリカのような豊かな国は、貧しい国よりも強いので、その国の食べ物を買い上げてしまいます。
 もう何年も前に、日本でお米が足りなくなりそうになって、日本は世界の国々からたくさんのお米を買いました。一番安いのがタイの国のお米で、日本はタイからたくさんのお米を買い上げました。そうするとどうなると思いますか? タイの米が足りなくなりました。それでも日本では「タイ米はぱさぱさしているから嫌だ」と人気がなく、大量に捨てられたのです。これも一つの盗みでしょう。

 また、日本で売るためにアジアの貧しい国で広いバナナ農園やチョコレート農園などが作られて、子どもたちまで安い賃金で働かされて、貧しく、やせている事実もあります。


 そんな国から日本に働きに来た外国人が、ひどい安い賃金で働かされている。ほとんど騙されて日本に働きに来て、体をボロボロにされている人身売買という悲惨な現実が徳島でもあります。これも「盗み」です。

 「盗んではならない」の事例として聖書が挙げる第一は「誘拐」です。誘拐は、殺人と同じ大罪とされています。その人を殺さなくても、その人をさらったり閉じ込めたりすることは、大きな罪です。それは誘拐に限りません。人を殺さなくても、その人のものを自分のものにする。人を自分のために利用しようとする。人身売買や搾取は、モノだけではなく、誰かの人生そのものを奪うことです。そして、神は、「誰のことも奪ってはならない。誰からも盗んではならない」。そう仰るのです。そうして、今日の箴言の言葉は、私たちを守ってくれる、とてもすばらしい言葉です。

箴言三〇7二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。

むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。

私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。

 これは箴言でたった一つだけ出て来る「祈り」なのですが、その願いは、

「空しい事と偽りの言葉を遠ざけてください」

「貧しさも富も私に与えず、私に定められた分の食物で私を養ってください」

の二つでした。そしてその理由に貧しすぎると、盗みをしたくなって、それは神の御名を汚すことになってしまうから、と言います。でも、反対に富んでお金持ちになればいいかというと、そうではありません。満腹していると、神様を忘れてしまう。神様よりもお金や物に頼ってしまう。では貧しい方がいいかというと、貧しすぎても盗みかねない。だから、貧しさも富みも私に与えないで、ちょうど良い加減の私に定められた分で、私を養ってください、というのです。これは、私たちにも役立つ祈りです。何かが欲しくなったり、自分がとても損をしている思いがして、腹が立ったり、人のものを盗りたくなったりする前に、

「貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で、私を養ってください」。

 そう祈るのです。そうして「神が今下さっている分で、十分だ、満足だ」。そう思える心は、盗む必要がありません。

 私たち一人一人が、盗まれてはならない、誰かの好き勝手に奪われてはならない存在です。誰も売り物ではなく、誰を売り物にしてもなりません。でもこの世界は盗んだり、奪ったり、人を閉じ込めたりが今もなされています。自分がされたら困るし怒るだろうに、人から取り上げることは平気でなされてしまう。強い国が貧しい国から奪っている。そういう社会を、神様は深く悲しみ、嘆いて、

「盗んではならない」

と仰っているのでしょう。実際、旧約聖書の中心になるイスラエル人は、かつてエジプトで奴隷でした。エジプトの国で盗まれ、人として扱われず、人生を奪われていました。しかし、神はそのイスラエル人を解放してくださいました。盗むか盗まれるか、奪うか奪われるか、で生きていた生き方から、救い出してくださいました。盗まれていた人を取り戻してくださいました。そうして、あなたがたも誰からも盗まない生き方をせよ、むしろ、奪うか奪われるかで殺伐としている世界に、橋わたしをしなさい、と招いてくださっています。ただ「盗みが悪い」というだけでなく、自分も他の人も、外国人も、貧しい人も、どんな人も、盗まれたり良いように扱われたり、安い賃金で売られたりしてはならない、大事な人だからです。どの人も大事に扱われ、売り物扱いされることのない世界を神様が造ろうとされているからです。盗まれて、本当に深く傷ついた人たちが、癒やされて、大切にされて、喜んで自分の人生を生きていく。そういう世界を語っておられます。

 この招きに答えて、生きている人が沢山います。

 戦争で資源を奪い合う世界の各地に行って、傷ついた人たちを助けている人。

 安定した暮らしをなげうったマザー・テレサ。

 オルガンの才能を生かしてたっぷり稼いだお金を注ぎ込んで、アフリカで医療活動をしたシュバイツァー。

 そうした働きを支援する教会があります。この礼拝の献金の一部も、長老教会を通して、世界の支援に一部が使われます。それぞれの生活や買い物で、搾取をなくそうとしている企業を応援できます。この中から、将来、そんな仕事をして、世界に出て行く人もいたら素晴らしいことだと思います。イエス様が下さるのは、盗んではならないという戒めだけではなく、盗まなくても喜べる満たされた心、そして、世界で一番貧しい人たちにも仕えて、一緒に笑顔を取り戻していく働きです。

人身取引の撲滅を目指す「ノット・フォー・セール・ジャパン」のHPです。

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