聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答124~125 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」

2019-07-28 21:20:47 | はじめての教理問答

2019/7/28 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」はじめての教理問答124~125

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、とても大切な祈りのお手本です。イエスは六つの大事な願いを教えてくださいました。その最後の願いを、今日は見ましょう。

問124 第六の願いごとはなんですか? 答 第六の願いごとは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」です。

問125 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」とはどういう意味ですか? 答 わたしたちを誘惑から守り、誘惑されたときにはそれに惑わされないよう、強くしてくださいという祈りです。

 天の父に願うべき、大切な願いの最後は「私たちを誘惑から守り、誘惑に惑わされないよう、強くしてください」という祈りです。イエスはそう教えてくださいました。そしてそう教えるだけでなく、イエスご自身が誘惑を経験してくださいました。その事が、今日読んだ、マタイの四章に書かれていました。イエスは、人々を教えたり癒やしたりする働きを、三〇歳ごろから3年間なさったのですが、その働きに出て行く前に、荒野に行って悪魔の誘惑と戦いました。活動を始める前に、まず、厳しい誘惑に、自分を晒したのです。それは、私たちを教え、救うために、どれほど誘惑という問題が大きいか、イエスの働きにとって、人間を惑わそうとする悪の問題が決して避けては通れないと思われたか、を現しています。誘惑、試みは、私たちの生活に付きまとっています。

 イエスは、荒野でまず四〇日、何も食べずに過ごしました。お腹がぺこぺこだったでしょう。するとそこに悪魔が近づいて来て、言いました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」石をパンに変える? そんなことは私たちには出来ませんね。けれども、イエスは神の子でしたから、石をパンに変える力も持っていました。しかし、この時イエスは、そんな力で自分が神の子であることを証明しようとはしませんでした。私たちと同じ、ひとりの人間として神様の養いに信頼しました。イエスは

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある」

と応えたのです。四〇日何も食べていなかったのですから、石をパンに変えられたら、と思わなかったはずがありません。しかし、イエスは悪魔からそう誘われても、それには流されませんでした。

 次に悪魔はイエスを神殿に連れて行き、そのてっぺんから飛び降りるよう勧めました。聖書にも、神様は守って下さるって書いてあるんだから、飛び降りてみなさい。そうしたら神殿に集まっている大勢の人は、神殿のてっぺんから降りて来たイエスを見て、驚いて、イエスの弟子になりたがるでしょう。断食をしたり、十字架にかかったり、遠回りの道をしなくても、皆の心を一気につかむことが出来るでしょう。でも、イエスはここでも悪魔に耳を貸しませんでした。聖書に書いてある言葉を、自分に都合良いように使うことはしませんでしたし、人を驚かせて、人気者になろうとも思いませんでした。

 最後に悪魔は、世界中の国々の輝かしさを見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」。悪魔にひれ伏せば、悪魔はイエスに世界を上げよう、というのです。神様に従わなくても俺にひれ伏せば、助けてやろうと申し出たのです。イエスはこう答えました。

下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。

 本当の神以外の何者をも礼拝してはならない。それが聖書で言われている事だ。悪魔が神のように礼拝されたい、世界を引き替えにでも、自分を崇められたいと思っても、それに従うことは出来ません。世界や命や人生を引き替えに約束されても、神ではないものを拝むことはしない。

 そうイエス様はきっぱりとサタンの申し出を退けました。そして、イエスは人々の所に行ったのです。人からスゴいと言われ、楽な格好良い、そして悪魔と取り引きするような華やかな道では無く、イエスの生涯は飼葉桶から始まる低い生涯でした。貧しい人の所に行って友となり、集まった人に神の国の話をし、病人を癒やし、弟子を教育しました。人から誤解され、馬鹿にされ、憎まれ、最後は十字架に殺されました。どんなに損をしようと苦しもうと、人からどう見られようと、イエスは神様に従い、人として歩みました。その私たちとともに歩むイエスの生涯が、私たちの希望なのです。

ヘブル2:17…イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。…18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。…4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

 穴に落ちた人を助けるには、登り方を教えることも出来るでしょう。ロープを下ろすことも出来るでしょう。しかし、イエスはその穴の中に飛び込んで、私たちの所に来て、一緒に上らせてくださるのです。イエスは、神の子で石をパンに変えることも出来るのに、それよりも私たちとともにいて、人としての私たちを助けてくださいます。

 生きていると病気や問題や悲しいことがあります。そういう苦難が「試練」とよく呼ばれます。でも、苦しい事だけでなく、もっと楽をしたい、苦しみを避けたい、人から認められたい。そういう誘惑も沢山あって、嘘やズルや悪事へのきっかけになります。その結果、人を悲しませ、神様を悲しませて、大きな後悔になります。ですから、

「私たちを試みに遭わせず悪からお救いください」

とは、ただ苦しい目に遭わせないでください、という以上の祈りです。私たちが、神様を信頼して、神様の導きに信頼して生きていけますように。苦しいことも、うまい話も、冒険も臆病も、色々な誘惑がありますから、どうぞそうしたあらゆる試みから守ってください。でも、誘惑は避けられませんから、どうぞ悪からお救い下さい、惑わされないように、私たちを強くしてください、という祈りです。そして、そう祈りなさいと教えてくれたイエスは、本当に私たちと同じ人間となって、誘惑を味わい知ってくださっています。私たちを助けてくださいます。また、誘惑に私たちが惑わされても、最後には必ず救い出してくださいます。私たちは、その神の助けを求めるだけでなく、神がイエス・キリストによって人生を導いてくださいと願います。人の声に振り回されそうになっても、神が私を導いて、私を守り、救い出してくださると信頼して、お預かりした私の人生を歩ませて戴きましょう。

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ヘブル書8章1~6節「神からの祭司 聖書の全体像22」

2019-07-28 21:09:41 | 聖書の物語の全体像

2019/7/28 ヘブル書8章1~6節「神からの祭司 聖書の全体像22」

 今日のヘブル書8章で

「私たちにはこのような大祭司がおられるということです」

と言っています。これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは私たちの大祭司である。そして

よりすぐれた契約の仲介者」

である。この事から振り返ると、モーセ契約において、神が大祭司を立ててくださった事が、とても大切な出来事であったと改めて思うのです[1]。今日はモーセ契約の最後として、神がここで大祭司を立ててくださったメッセージを覚えます。

 祭司は、民を代表して神に仕え、生贄を捧げたり、主からの神託を告げたりする働きをする人です。モーセの時代まで、イスラエルに祭司はいませんでした。アブラハムやヤコブが祭司のような働きをすることはあっても、祭司と呼ばれる人はいなかったのです。祭司は人間からは立てられず、神から与えられて初めて、神と人間の間の祭司となれるのです。そして、神はモーセの兄アロンを選んで大祭司として、アロンの子孫を祭司の家系としました。神は人に祭司を送ってくださる。神と人間との間を取り持つ存在を、神の方から遣わしてくださって、私たちとの関係を回復してくださる。神との間を執り成し、「あなたの罪は赦された。あなたはきよい」と宣言してくれる祭司を立ててくれるのです[2]。キリストは、私たちの大祭司として永遠に、完全に、私たちを神に結びつけてくださいます。その1500年前に大祭司が立てられたことは、やがて完全な大祭司キリストがおいでになることの印でした。

 ですから祭司に選ばれたからと自惚れて、アロンたちが思い上がることは常に窘(たしな)められました。聖く生きる生活管理が求められ、入念な儀式の執行が求められました。一番ハッキリ書かれているのは大祭司の「祭服」です。出エジプト記28章には、大祭司の祭服について詳しく書かれています。頭にはターバン、そこには「主の聖なるもの」と書かれた札をつけていました。体には長服の上に、青い上服を着、その上に「エポデ」と呼ばれる祭司の特別な前掛けをつけ、更にイスラエルの全十二部族に因(ちな)んだ宝石を並べた胸当てを付けていました。他にも胸当てや肩当て等があり、これらは一つ一つ意味があり、栄光と美を現していました[3]

 ただし、それはこの煌(きら)びやかな服は大祭司の立派さを飾り立てるためではありません。私たちが思い描く神官や王は権力を誇示する華やかな衣装を着ますが、大祭司の場合は別です。大祭司が最初に着るのは

「ももひき」

です[4]。見えませんが、裸を覆えと言われています。人はエデンの園で神との約束を破って以来、裸を隠さなければならなりませんでした[5]。人間の罪の姿を大祭司も持っているからです。大祭司が服を着るというのは

「覆う」

という言葉です。

創世記3:21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

とあるあの言葉です[6]。大祭司は「ももひき」から着て、自分が裸で神の前に立てないこと、神からの衣を着せて戴いて立つことを現します。また、その履き物については何も言われていませんから、裸足なのでしょう。靴を脱ぐこともまた、神の前に謙って、自分の権力、特権意識、プライドを明け渡すことを表しました。大祭司は、神と人との間を執り成す特別な役割に任命されるわけですが、祭司の儀式に特別な力があったわけではありません。大祭司が生贄を捧げるのでなしに、自分自身を神の怒りに差し出すことで執り成しを果たす事件もあります[7]。逆に生贄によっても永遠に赦されないと言われる場合もあります[8]。詩篇では、「主が喜ぶのは生贄ではなく、砕かれた心だ」と何度も明言されています[9]。大祭司こそは、最も砕かれた心、傲り高ぶらない心が求められました。民の問題や、生贄を必要とする罪に対しても、蔑みや上から目線でなく、「自分も裸では主の前に立てない、同じ罪人だ」と自覚するのが祭司でした。何より、本当の大祭司キリストが来るまでの「つなぎ」に過ぎなかったのです。

 そして本当の「大祭司キリスト」が来られました。主イエスは私たちの大祭司です。しかし、一度もあの大祭司の服は着ませんでした。反対に、イエスが大祭司だという十字架において、イエスは裸でした。上着も下着も奪われて、裸のまま死にました。それは従来の祭司としてはあり得ないことでした。しかし神の目からは、それこそ本当の生贄でした。イエスが全く罪のない、裸を隠す必要の無い、聖いお方だったからです。その方がご自分を丸ごと私たちに捧げてくださいました。隠すべき罪が全くないイエスは、最も砕かれた心、最も憐れみ深い方です。

ヘブル書2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

 大祭司の要件は「憐れみ深さ」です。ヘブル書では「憐れみ」が3度繰り返されて、大祭司が憐れみ深い方で、私たちは大祭司を通して憐れみを戴けることが強調されています[10]。「イエスは罪がなく聖いのなら私たちに同情できないだろう」と思いそうになっても、聖書はイエスに罪がないからこそ、私たちに深く同情して、私たちのために裸の恥も十字架の苦しみも厭わなかったと言い切るのです。イエスは、私たちを決して見下したり軽蔑したりせず、私たちを救ってくださいます。イエスは人のすべての罪をご存じの上で、人を愛し、憐れんで、救いたいと願って、ご自分を献げてくださったのです。このイエスの、ご自身を一度捧げた執り成しだけが、神が私たちの罪を赦して、再び神に結びつけ、互いを結びつける働きなのです。

 神が私たちを結び合わせてくださるのは、ご自身との関係だけではありません。すべての関係は三位一体の神がこの世界に表している神の栄光です。引力や自然法則も、食物連鎖やコミュニケーションも、神の支えなくしてはつながれません。そして、神は私たちを愛するゆえに、ご自身とだけで無く、あらゆる関係、特に人と人との関係に働かれます。今日交読した詩篇一三三篇は、たった3節ですが、都に上る巡礼で、兄弟がともにいる喜びを歌っていました。

詩篇一三三見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。

 「兄弟たちが一つになってともに生きる」姿が大祭司の任職で頭に注がれ「アロンのひげに流れ」る「貴い油」に重ねられています。兄弟(家族か仲間か)が一緒にいる。ともに生きる。その幸せは大祭司の任職に通じます。家族が一緒にいることさえ、決して当たり前ではありません。色んな理由で別れ別れにもなり、すれ違って顔を合わせられなくもなる。けれどもその間に、主イエスが来て立ってくださる。神はイエスを送り、イエスは聖霊を遣わし、分断の狭間に立たせてくださる。憐れみ深い神は、私たちに祭司を遣わし、罪の赦しも、和解や一つともにおる幸せもくださるのです。赦す心、謝る言葉、心を繫ぐ言葉を語らせてくださる。一三三篇は、イスラエルの民謡でも歌われますし、教会では聖餐式において読まれる詩です。実に今ここで私たちが主にある兄弟姉妹としてともに生きていること、一つ食卓を囲み、祈り合い、分かち合い、一緒に笑ったり嘆いたり楽しむことは、大祭司イエスの御霊による恵みなのです。

 神が祭司を送って、私たちを一つにしてくださる方です。私たちのために、イエスを立てて下さった。それも神々しい神官でなく、憐れみ深い大祭司として、ご自分を生贄としてくださった。お高くとまった神官が立派な祭服で自分を覆って畏まるのとは正反対に、裸で十字架に死ぬことも憎しみや恥をも厭わずに、私たちに和解を与えてくださいました。モーセ契約を通して始まった大祭司の働きを、完全な大祭司であるイエスは完成してくれました。そして、今も私たちと父なる神との橋わたしをして、永遠に大祭司として執り成していてくださいます。それが、神のご計画全体の中で、祭司たちに託された御業です。その主の業を受け取りましょう。それが更に、私たちの家族の中に、周囲の人に、働いていくことを祈りましょう。人と人との間にイエスを見ましょう。そして、自分が主の憐れみによって満たされて、砕かれた心、愛のある言葉、どこでも主にある希望を見ていくよう整えられていただきましょう。

「主が大祭司を遣わし、イエスの完全な仲裁を示してくださったことを感謝します。どうぞその執り成しの中に、赦された喜びと永遠の和解の希望を日々戴かせてください。そして私たちの間に、世界の破綻や分断に、どうぞ憐れみを注いで、和解をお与えください。裁き合い非難し合う関係から、和解を信じ将来に希望を育て合う関係へと、私たちを育んでください」[11]



[1] 聖書の全体像は、天地創造から将来の新しい天と地の完成という大きな物語です。神は、神から離れた人間にも回復を計画されて、それを様々な形で示されました。その大きな節目の一つが、モーセを通して果たされた奴隷生活からの解放と、新しい生き方です。それは、律法(十の言葉)において示されましたが、神は律法という規則だけではなく、神の住まいである「幕屋」と、幕屋に不可欠な、いけにえや捧げ物をする「祭司」も神は立ててくださいました。

[2] この事は、ヨブ記やサムエル記にも見て取れる思想です。ヨブ記19章25節以下「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。26私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。27この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」、Ⅱサムエル記12章23節以下「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。24ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」

[3] 出エジプト記28:2「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」

[4] 同28:42「彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。」ももひきについての考察は、「牧師の書斎 亜麻布のももひき」を参照。

[5] 創世記3章。それは、十戒のすぐ後でも、祭壇を階段で作ってはならない、裸が見えないためである、と言われています。出エジプト記20章。

[6] 出エジプト記28:41「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。」、29:5、8、30、40:13、14も同じ。参照、「イエスは大祭司 牧師の書斎」。

[7] 民数記16章48節など。

[8] Ⅰサムエル記3章14節、イザヤ書22章14節。

[9] 詩篇40篇(6節)、50篇(8~14節)、など。

[10] ヘブル2:17(既出)、4:16「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」、8:12「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[11] この大きな愛を受けた者として、私たちがこの世界に置かれています。イエスが大祭司として私たちに完全な赦しと和解を与らせ、そのことによって私たちも憐れみ深い者となる。そうした私たちの歩みを通して、周囲が主の恵みを知り、あらゆる意味で神の民は「祭司」となる使命が与えられています。イエスが憐れみ深い大祭司であるように、私たちも祭司のように、人と人とを結びつける役割を与えられています。「そうしなければならない」ということではなく、神はそもそも人間を祭司的な働きをするよう創造された、ということです。このことを、出エジプト記でも新約のペテロ書でも「祭司の王国」と読んでいます。イスラエルにはアロンが大祭司として立てられるに先立って、こう言われました。出エジプト記19:6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」。イスラエルそのものが世界の中に「祭司の王国」として置かれたのです。他の国々にとっても神がイスラエルに罰や恐怖ではなく、赦しや回復や楽しみ、幸せを与えてくださることがメッセージとなる。そのために、イスラエルは選ばれました。この言葉は新約に引き継がれます。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」、ヨハネの黙示録1:5~6「また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、6また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」

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夜の教会学校「もしもし。神様です」

2019-07-28 06:39:33 | はじめての教理問答

2019年7月14日 夜の教会学校「もしもし。神様です」 

 「もしもし」ってどんな時に使いますか? すぐに思いつくのは、電話を掛けた時。僕が誰かと電話で話をしたい時は、電話をかけて「もしもし、古川です」と言います。教会には「もしもし、教会ですか?」と電話が来ます。その電話を取った時、「もしもし神様です」ってことは、神様からの電話ですね? 神様から電話が来たら、ビックリしますね。そんな電話が本当に来たら、すぐに切った方が安全です。神様は電話よりもお祈りでお話しをします。電話は使いませんが、神様はみんなとお話ししたいと願っているお方。そんな神様なんだって思って欲しくて、今日は「もしもし。神様です」というタイトルにしてみました。

 教会では、神様がおられることを信じています。この大きな世界を造られた、すばらしい神様がいて、今も世界を治めていること、ただ一人のその神が私たちに命をくださっていると信じます。でも、神様の大きさ、すごさを言うだけではなく、その神が私たちを造り、愛しておられるとも信じるのですね。世界よりも大きな神が、この私たちを造られたのは、私たちを愛するためです。君は愛されるため生まれたってさっき歌った通り、神様は私たちを愛して、私たちが神の愛を現すような人になるために、人間を造りました。でも、そんなことは信じられなくなるぐらい、人間は今、神様から遠く離れてしまっています。その私たちのために、イエス様が来て下さいました。イエス様は、神のひとり子であるのに、私たちと神様との間をもう一度結び合わせるために来て下さったお方です。だからイエス様は私たちに祈りを教えてくださいました。私たちが親しく祈ることが出来る神様。「もしもし」と電話したいぐらい、神様は私たちと話したい。私たちが神様にお話しするのを待っているお方なんだと、イエス様は教えて、私たちと神様を結び合わせてくださったのです。だから、教会ではお祈りする時に、よく最後に

「イエス様のお名前によって祈ります」

と言います。そう言わない時でも、イエス様が私たちと神様とを結びつけて下さった、唯一のお方なのです。

 私たちは、神様の愛をいただくために造られました。だから、お祈りは大事なのです。

 この絵を見て下さい。これは、キリスト教会で一番古い絵の一つ。お祈りをしている人ですね。どんな特徴がありますか? 目を開いて天を見ています。手も上にあげて、のびのびと祈っています。その頃の多くの宗教にも、お祈りはあったそうですが、キリスト教の祈りの嬉しさ、明るさはユニークです。そして、この人は女性です。昔は、男性が偉そうにしていましたが、イエス様は女性にも近づいて話しかけました。女性が祈っている。この絵は、イエス様のことを知って、神様ってどんな方かを知ったクリスチャンの特徴が現れています。私が話しかけるのを待ってくださっている神様。私の祈りを聴いてくださる神様がいる! 女性も男性も、こどもも、神様に祈れる! イエス様が、天の神様と私をつなげてくださった! そんな喜びが、この祈りの絵になって、二千年近く経った今も、目にしているんですね。

祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。

 こういう説明があります。お祈りって、神様はすばらしいなぁとか、神様のなさることはすごいなぁとか、神様への驚きを言ったり、神様のくださる良い物を「ありがとうございます」とお礼を言ったり、神様に御願いをすることです。なんでも御願いしてもいいようで、僕たちはよく腹を立てたり、悲しすぎたりして、適ったら困るような御願いをすることがあります。ですから、なんでも、とは言われていません。でも、御願いして良いのです。そして、大事なのは、御願いを叶えてもらうためにお祈りするのではない、ということ。祈りは、御願いが適うかどうかではないんです。みんなの家族や友だちとの関係も、そうでしょう? 御願いを聞いてくれなかったら、もうおしまい、と言われたら、嫌だと思いませんか? ですから、こんな言葉もあります。

「祈りとは神との友情を育てること」

 世界を造ったただひとりの神様が、私に話しかけて、私の祈りを聴いてくださっている。私の心の声を聴いてくださっている。私の友だちでいてくださる。それ自体、凄いことだと思いませんか? お祈りの度に、私たちは神様とますます友だちになるのです。神様が友だちだから、ひとりぼっちの時も、本当は独りではなくなります。神様がいてくださると思うと、私たちの心は強くなります。神様の優しさを思うと、私たちも優しくなります。祈っている時も、神様は私たちのことを全部ご存じなのですから、嘘はつけません。正直なことを祈り、正直な人になっていくのです。

 ぼくは、朝起きたら、「神様、今日も起きられてありがとうございます。今日も1日よろしく御願いします」と祈ります。妻が起きたら、一緒に手をにぎってお祈りします。遠くにいる家族や友だちのことも大事ですから、神様によろしくお願いしますと祈ります。ご飯を食べる前、朝、昼、晩それぞれに祈ります。そして、夜寝る前にも、夫婦で手を繫いで祈ります。そして、歩いていても、何かをしていても、お仕事の合間にも、祈っています。「神様、ありがとうございます」とか「神様、助けてください」とか、短くお話しすることもありますし、「神様」とだけいって、しばらく静かにじっとしていることもあります。目を瞑るときもあれば、目を開いて手を前に向けて祈る時もあります。どんな祈りでも、神様は待っておられるはずです。祈るとホッとします。祈ると、神様がいてくださることが分かって、安心できますし、本当に嬉しくなります。

 皆さんも、いつでも祈ってみてください。短くてもいいから、祈ってください。上手な言葉で祈ろうなんて思わなくて良いから、祈ってください。言葉で祈るより、手紙を書くのが好きな人は、神様にお手紙を書いてみてください。日記のように、神様へのお祈りを書いていってもステキですね。

 今からカードを配ります。これは、イエス様が教えてくださった「主の祈り」という祈りです。イエス様が教えてくださったのですから、この祈りを読むのも良いです。この祈りは最初、神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と始まります。天の神様に「私たちの父よ(お父さん)」と呼びかける。神様が私の天のお父さんになってくださった。そういう素晴らしい関係があることを、祈りは思い出させてくれるのです。

 

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ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

2019-07-28 06:22:01 | 聖書の物語の全体像

2019/7/21 ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

 聖書の物語の全体像をお話しして、しばらく「モーセ契約」を見ています。神は、エジプトで虐げられていたイスラエル人を救い出し、神の祝福を受け継ぐ民としてくださいました。それは、イスラエルだけを救うためではなくて、全世界に対する祝福を現す模範としてでした[1]

 神はイスラエルに、新しい生き方を示す「十の言葉(十戒)」を初めとする律法だけでなく、「幕屋」という建物を下さいました。それは、間口4m半、奥行き13m、高さ4m半の聖所(この会堂だと、礼拝堂の長椅子の両端ぐらいと、奥行きが礼拝堂より少し長いくらいです)。そして、その聖所の前に洗い場の水溜(洗盤)と生贄を焼く祭壇があり、周りを44m×22mの幕で覆って庭としている構造でした(鳴門教会の敷地があるブロックの三分の二ぐらい)。

  出エジプト記は、この幕屋の設計図や建設のことが詳しく記されています[2]。エジプトを脱出するまでの経緯や、十の言葉のような律法(規則)よりも詳しく、丁寧にたっぷりと書いているのです。それぐらい、幕屋はモーセ契約にとって大事ですし、今日のヘブル書によれば、新約の時代の私たちにとっても、幕屋は大切なことを教えてくれるのです。

 何よりも、モーセ契約は、神が戒めを与えるだけでなく、幕屋(そして大祭司)を与える契約でした。御言葉を守れない人間の限界も十分に弁(わきま)えて汲(く)み取る契約でした。勿論、律法そのものが人間の間違いや社会のいざこざを想定しています。決して規則だけで縛ってはいません。聖書は、神の民がユートピアであるとは思わず、イスラエルも教会も、人の集まりである以上、いつも問題に対処しなければならない現実を前提としています。幕屋は祭司たちが生贄を捧げて、人が罪を犯したらそこにいって決められた償いをして、主の赦しを得るようにしていました。罪を犯した時だけでなく、朝晩、生贄が捧げられ、毎週、毎月、毎年と折々に儀式や記念のお祭りがありました。また、秋には「贖いの日」という大きな祭りがあり、すべての罪の赦しのために、大祭司が聖所の奥にまで入ることになっていました。こうして、主の大きな恵みの中に自分たちが支えられている。主の憐れみがあって、今ここにある事実を、幕屋の儀式を通して、目で見るように思い起こしていたのです。

 幕屋で大祭司が生贄を捧げることは、自分たちに罪があることを認めさせるものでした。そして、その罪は適当に解決して済ませるのではなく、神の前に持って行くことが必要だとも幕屋は示していました。そして、幕屋の中の「第二の垂れ幕」の後ろの至聖所には、大祭司でさえ一年に一度しか入れなかったのです。それは人間の罪が、聖なる神の前に相応しくないからですし、幕屋そのものが持っている限界をも示していました。先のヘブル書にこうありました。

ヘブル9:7…第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。

 当時の大祭司は、自分も罪がありましたから自分のためにも生贄が必要でしたし、その生贄もまた動物の生贄で、神の前に完全な生贄ではあり得なかったので、至聖所に入るには中途半端でしかなかったのです。ですから、繰り返して動物の生贄が捧げられ、大祭司も年に一度しか奥の至聖所にまで入ることは出来ませんでした。それでも幕屋は、人々に対して、神が私たちに罪があるにもかかわらず、私たちを受け入れてくださること、私たちの罪を怒って罰するのではなく、赦しや解決、和解を備えてくださることを確かに示していました。手続きはいろいろあるにせよ、主は赦そうと待っていてくださる。悔い改めるなら、受け入れてくださる。その事を、モーセ契約は幕屋を通して語っていました。モーセ契約の結び、申命記には、

申命記33:27いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。…

 神は私たちの家となってくださり、私たちの下に永遠の腕があって、何があっても私たちを支えてくださる。そんな安心を告白することに、幕屋は繋がったのです。「幕屋」という言葉自体が「住む」から来た言葉です[3]。神が私たちの内に住んでくださる、私たちの中に幕屋を張って、ともにいてくださる。まだ神と私たちとの間には解決しなければならない罪や様々な問題があるけれども、それでも神が私たちと一緒にいてくださる。そう示されたのです。

出25:8「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」

 幕屋は神の「家」でした。神がご自分の家を、私たちの中に造れと言われたとは、驚くべきことですね。特に、その至聖所の手前の幕には、ケルビムという御使いの模様が織り込まれていました。それは、エデンの園でアダムとエバが神との約束を破って追放された時、エデンへの道をケルビムが塞いだことを思い起こさせます。神がこの世界を造られた時のエデンの園、神と親しく交わり、罪がなかったエデンの園を思い起こさせる幕屋は、聖書の最初の天地創造へと記憶を呼び覚まして、将来には、再び神との親しい交わりが、エデンの園が現していたこの世界の姿が完成される日が来ることを待ち望ませるものでもあったのです。

 この幕屋は、後に神殿という立派な建物にとって変わられますが、それ自体は主から命じられた事ではなく、ダビデやソロモンの思いつきで、功罪両面がありました。主のために立派な神殿を建てたい、という動機は純粋であっても、やがて建物そのものが偶像になりかねませんし、実際、イエスがおいでになった時には建物が誇られていましたし、初代教会は、神殿を冒涜したという罪状で捕らえられたり殉教に至ったりしたのです。しかし、本来の幕屋は、キリストがおいでになることを示していました。祭壇の犠牲や「第一の幕屋」での儀式は、イエスがご自分をおささげになったことによって完了しました。イエスが、十字架に架けられて、息を引き取った時、神殿の幕が裂けたとあります。幕屋の覆い、隔ての垂れ幕が裂けたのです。

マタイ27:50しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、…

 大祭司も年に一度しか入れなかった、神との間を仕切る聖所の幕が裂けて、私たちは今イエスによって神のおられるところに近づくことが出来るのです。神殿や幕屋は、イエスの十字架によって、その役割を果たし終えたのです。しかし、幕屋のイメージは新約でも続いています。

ヨハネ1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た…[4]

 この「住まわれた」は「幕屋を張る」という言葉なのです。イエスのおいでが、私たちの間に幕屋を張って住まわれる、イエスご自身が私たちの幕屋というイメージなのです。また、

ヨハネの黙示録7:15「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。」

21:3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」[5]

と幕屋のイメージで、神が私たちとともにいることが語られます。幕屋はエデンの園を振り返らせもし、将来の黙示録の描く終末にまで広がる、神がともにおられる事のシンボルです[6]。思い描いてください。イエスが来て私たちの上に幕屋を広げて、一緒に過ごそうと仰る。神は私たちといてくださる。私たちの問題や、神や自分をどう考えていようと、神は私たちとともにいたい。天の御殿や宮殿にデーンと住まうよりも、私たちとともにテント暮らしをしたい神。私たちに色々問題はあっても、神の子イエスが命を捧げて、その問題の片を付けて、私たちが幕屋の奥まで入れるようにしてくださった。そういう願いを、主イエスが来る一千五百年も前から、幕屋に託して伝えておられました。ここにも、主の贖いの物語が見事に現されています。

「主よ、幕屋において示された、あなたの臨在、罪の赦しの必要、そして将来の約束を有難うございます。あなたは私たちとともに住まうことを喜ばれ、約束してくださいました。今ここでも、主が私たちと旅を共にしてくださっています。下には永遠の腕があることに励まされ、御言葉に従い、神の民として歩ませてください。あなたの愛によって日々新しくしてください」



[1] 出エジプト記19章3~6節「モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。4『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」」

[2] 出エジプト記が、1~15章「エジプト脱出」、16~23章「律法付与」、そして24章から40章までを「幕屋建設」に当てている構造、とも読めます。この読み方ですと、32~34章の「金の子牛」の出来事さえ、「幕屋」との関係の中で見ることになります。興味深い視座です。

[3] ヘブル語「ミシュカン」の語根は「シャーカン(住む)」です。申命記34:27の「住む家」は違うヘブル語ですが、33:28「こうしてイスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉だけが穀物と新しいぶどう酒の地を満たす。天も露を滴らす。」は、シャーカンです。

[4] ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

[5] その他、ヨハネの黙示録12:12「それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」」、13:6「獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。」、

[6] ヨハネの黙示録では、21:22-23「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」と、神殿も太陽も、神と子羊(イエス)とがおられることで無用となると言われています。それを援用すれば、「幕屋」も神がともにいますことの表現に他ならないでしょう。

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はじめての教理問答122~123 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」

2019-07-14 15:27:01 | はじめての教理問答

2019/7/14 マタイ18章21~35節「誤解の『赦し』」はじめての教理問答122~123

 

 今日も、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」のお話しをします。

問122 第五の願いごとはなんですか? 

答 第五の願いごとは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」です。

問123 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」とはどういう意味ですか? 

答 キリストのゆえに私たちの罪を許し、また私たちがほかのひとを許せるようにしてくださいという祈りです。

 私たちの罪の赦し、ということをイエスは祈るように教えてくださいました。今日はその赦しについてイエスが教えてくださった、大事なお話、マタイの福音書の18章をお話しします。それは、王様と、家来たちのこんなお話しでした。

 王様が家来たちに、貸していたお金のことをちゃんと調べておく時が来ました。王様から借りていたお金をどう使っているか、確かめておくのです。そこで、王様の所に家来たちがひとりずつ集められることになりました。
 ところが、最初に連れて来られた家来は、一万タラントの借金がありました。一万タラントとはどれぐらいでしょう? 一タラントは20年働いたぐらいのお金だそうです。そうすると、一万タラントは…20万年働かなければ返せないような大変なお金でした。こんな大金、どうやって返すのでしょうか。
 家来に聞くと、彼は「お返しするお金は持っていません」と言うのです。そこで王様は、自分も家族も皆、身売りしてそのお金で返すようにと言いました。すると慌てた家来は、ひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』とお願いしたのです。とてももう少し待っても返せるようなお金ではないのに、必死にいう家来を、王様は見つめていました。
 そして、王様は家来を可哀想に思って、その負債を免除することにしました。そう、あの一万タラント、20万年分の借金を、王様は全部帳消しにすることにしたのです。周りもビックリしました。一番ビックリしたのは、この家来だったでしょう。驚いて、それから喜んで、王様に「ありがとうございます」と何度もお辞儀をして、出て行きました。ところが、です。

28その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った…。

 一デナリは、一日働いただけの賃金です。だとすると、100デナリはどれぐらいですか?? そう、100日分の賃金です。それぐらいを貸して上げていた別の仲間に出会ったのです。それだって、決して少しではないでしょう。この人はその仲間を捕まえて、首を絞めて

「借金を返せ」

と言ったのです。乱暴ですね。すると彼の仲間は、

29ひれ伏して『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。

30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。

 さっき同じようなことをして、自分が赦してもらったのに、この人は仲間を赦さずに、牢屋に放り込んでしまいました。自分が赦されたのは、一万タラントです。100デナリと一万タラントは何倍ぐらい違いますか。二〇〇〇倍ですね。そんなに免除されたのに、彼は仲間を赦さずに、可哀想に思う事もなく、牢屋に入れてしまったのです。これを他の仲間たちが見ていました。彼らはとても悲しんで、王様に知らせました。

31彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。

32そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。

 王は、家来が「返しますからもう少し待って下さい」と必死にお願いする姿に、心を動かされて、負債をすべて肩代わりしてくださいました。それなのに、彼は、仲間が懇願する言葉にも耳を貸さなかった。その事を王は、怒るのです。

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

34こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

 王は家来の借金を免除しただけではなく、家来の生き方に変わって欲しかったのです。それなのに、自分だけ赦されて良かった、人の借金は赦してやらない、では王は怒ります。だから、彼は牢屋に入れられて、働かされることになってしまったのです。このお話しをした後、イエスはこう仰って、私たちに赦す事を教えました。

35あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈るのも同じです。私たちは神に赦されている。だから私たちも人を罰したり虐めたりせず、赦す。憎しみや恨みや懲らしめてやりたい思いを捨てて赦すのです。

 でも誤解しないでください。赦しは、すべて帳消しにするだけではなく、新しい関係を造ることでしたし、それを踏みにじる家来は懲らしめられたのです。問題に目を瞑ったり、大目に見たりすることではありません。このマタイ18章の直前、15節では、誰かが罪を犯した時には、その人の所に言って指摘しなさい、それがダメなら、何人かで一緒に行きなさい、と厳しく向き合うことが言われています。決して、赦しは「許可」ではありません。赦しは、憐れみが生み出せるもので、相手の心にも本当の関係を回復させていくものなのです。

 ここに「赦しとは何で無いか」が七つあげられているリストがあります。

  1. 赦しとは我慢ではありません。
  2. 怒らないことでもありません(怒って良いのです。)
  3. 結果をする無視することでもありません。(やったことに伴う結果の責任も引き受けさせます)。
  4. 信頼関係が元通りになったということでもありません。
  5. 諦めることでもありません。
  6. 忘れてあげるという上辺の約束でもありません。
  7. それは一度赦せばいいということではありません。生涯掛けて、赦し続けること、怒りや痛みがありつつも、それでも相手との関係の修復を望む、生き方なのです。

 主の祈りで「私たちの負い目をお赦しください」と祈るごとに、私たちは赦してくださる父の愛に立ち戻ります。また、赦しがなければ、今ここにいることは出来ない程、沢山の問題や神様に対する罪もある事実に、素直にならされます。それでも、赦されている以上、私たちも他の人を赦さないではおられません。生きていれば、人とのすれ違いや衝突は絶えません。だからこそ、怒りや悲しみを素直に現しながら、問題を越えて、すべての人との関係が、憎しみや恨みから自由にされ、回復されるよう祈りましょう。

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