聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」

2022-03-26 00:15:43 | 一書説教
2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」[1]

 ピリピはマケドニアの都市です。「使徒の働き」16章にパウロのピリピ伝道の様子が伝えられています。その後、パウロが他の都市を巡回した間もピリピ教会はパウロを支えました。この手紙はピリピから献金を届けたエパフロディトを介して、パウロが持ち帰らせた手紙です。

1.「喜びの書簡」

 ピリピ書は「喜びの手紙」と言われます。日本語聖書だと16回も「喜び」が言われます[2]。

二18 …喜んでください。…
四4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 こんな勧めが6回も繰り返されます。でも喜べと命じる以上に、パウロが喜んでいます。6回の勧め以上に、9回の「喜び」は、パウロがどれほど喜んでいて、喜びを大事にしていたか。また、ピリピ教会の人々を喜んでいたか、を溢れるほどに物語っているのですね。

一4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、…
二17…私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
四1…私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。…

 パウロは喜びに生きた人です。聖書が差し出すのは喜びの宗教です。神も喜びの神であって、

四18私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。

と言われます。実はこの元々の言葉だけは他とは違う「喜び」の形容詞なのです。新約で9回出て来ますが、
「みこころにかなう」
とも訳されます[3]。確かに「喜ぶ」とは「心にかなう」、人としての願いが満たされること、私たちの求めに沿う何か嬉しいことがあった時の感情です。

四19…私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 だからその恵みに与る時、喜びがわき上がります。でも人は、心とは無関係に笑顔や明るさだけを取り繕ってしまうこともあります。喜びだけがいい、涙や辛さを感じまいと心を麻痺させるなら、結局、喜びさえ感じられません。心こそ命の泉です[4]。神は私たちの行動の変化以上に心を甦らせ、あわれみ、思いを新しくなさいます。パウロは涙や心配も隠しませんし[5]、

四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。…[6]

 主が私たちの心を深く知って、必要を豊かに満たしてくださる。だから、この時パウロは牢獄にいたり[7]、ピリピ教会も様々な課題があったりしても、喜びを持てるのです。

2.キリスト賛歌

 本書には素晴らしい言葉が沢山あります。中でも美しいのは今日の「キリスト賛歌」です。

二6~
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。…

 この詩はパウロの文章と言うよりも、初代教会で歌いかわされていた最初の讃美歌だったとも考えられます。神の御姿であるキリストが、ご自分を空しくして、低くして、死にまで従われました。そのキリストの姿に心打たれて、最初の信徒たちが歌い上げていたのでしょうか[8]。

 そこまでなさったキリストを知った時、パウロは他のすべてを損と思うようになったと言います[9]。パウロは新しい思い、恵みを与えられました。その中でも代表的なのが3章20節です。

三20
しかし、私たちの国籍(市民権)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 多くの宗教は天国へのパスポートを得られる方法を語ります。聖書は私たちが既に天に国籍(市民権)があり、今ここで神の国の市民として生きることを語るのですね。今この寄留者としての地で、悩みや悲しみはあっても、この世界の不条理も死もすべて味わってくださったキリストを覚えて、そのキリストが私たちにくださった新しい市民権を手に、旅を続けるのです。

3.「最も人間味あふれる手紙」

 ピリピ人への手紙は、パウロ書簡十三の中で「最も人間味溢れる手紙」です[10]。パウロが個人的に非常に良く知る教会で、ピリピの信徒らもパウロを愛し、支援を続けていました。この時はパウロが投獄されたと聞いて心配し、エパフロディトに献金を預けて遣わした、人間味ある交流がうかがえます。同時に、大きな罪は(コリント教会のように)なかったようですが、4章2節では教会内のいざこざも透けて見えます。派遣したエパフロディトが思いがけず病気になって心配しています[11]。決して問題のない教会(そんなものは元々ありませんが)に向けて、教会の一般的な義務を教える教科書のような書簡ではありません。むしろ、日常の交流や精一杯の献金や奉仕もしながら、人間同士、対立してしまう教会の姿の中で、キリストを見上げさせてくれる書簡です。先ほど読んだ、2章のキリスト賛歌は、教会の日常の心がけを語ったのに続いて、引き出された「キリストのうちにある思い」でした[12]。2章2~5節です。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

 これは「キリスト・イエスのうちにある思い」、受肉と十字架に現された神の心でした。そして神はそのキリストを引き上げてくださった。神は世界の中に働いて、喜びとは真逆のような事をも喜びと変えてくださいます。パウロの投獄はそこでの新しい出会いと宣教になり、教会に確信を与えました[13]。エパフロディトの瀕死の病気は主の憐れみによって癒やされました。二人のご婦人の対立は、主にあって同じ思いを持つようにとチャレンジされました。

三1最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

 「喜ぶ」ことは安全になります。我慢とか喜びのない「べき」なら、どうしても対立してしまいます。主に心変えられて、喜びに生きる時、困難にあっても希望を持てるし、対立する時にも拘りを捨てる柔軟さが持てます。喜びを持つ、必要を豊かに満たしてくださる主を味わいながら生きている。「喜びなさい」とは、私たちを苦々しさから守ってくれる言葉です[14]。

 今日はピリピ書からお話ししました。いつものまとめと違い、喜びの理由を三つ整理して結びます。
 1つ、喜びは心の願いや必要が満たされるからこその感情です。神は私たちの必要をすべて豊かに満たしてくださいます。私たちが心を深く取り戻して、必要が豊かに満たされていると気づくから、喜べるのです。
 2つ、キリストを知る喜びです。そして、キリストご自身が私たちを喜んで、ご自身を卑しく低くすることも厭わずに捧げて、私たちに天の市民権を与えてくださいました。この初代教会最初の讃美歌を、私たちも歌いましょう。
 3つ、今この現実にも神は働いてくださいます。私たちの予想とは違う形で、良いことをなさる。だから形や手段に拘らず、お互いの益や喜びを柔軟に選べるのです。最も人間味ある「喜びの手紙」ピリピ書から、私たちの道を示されて、「喜びに生きる民」として歩ませていただきましょう。

「喜びの神よ。獄中で書かれた喜びの手紙を感謝します。新しい歩みへと踏み出す今、もう一度祈ります。私たちの苦しみや悔しさを知る主が、病気や悲しみの耐えがたさを知る主が、ご自身ひととなり死も十字架さえも味わわれた主が、私たち一人一人を憐れみ支え、すべてを働かせて益としてください。喜びを受け取らせてください。また私たちが主の思いによって心から一つとならせてください。そうして私たちが喜びの民として成長する日常としてください」

脚注:

[2] ピリピ書における「喜び」は、名詞カラ5回、動詞カイロー9回、スンカイロー(カイローに「ともにスン」がついた合成語)2回、ユーアレストス1回。使用節は、次の通り。1:4(あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、)、18(しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。)、25(このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。)、2:2(あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。)、17(たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます[スンカイロー]。18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んで[スンカイロー]ください。)、28(そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。)、2:29(ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。)、3:1(最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。)、4:1(ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。)、4:4(いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)、4:18(私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んでユーアレストス受けてくださるささげ物です。)
[3] ユーアレストスの新約における他の箇所は次の通りです。ローマ12章1、2節(ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、14章18節(このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。)、Ⅱコリント5章9節(そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。)、エペソ5章10節(何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。)、コロサイ3章20節(子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。)、テトス2章9節(奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、)、ヘブル13章21節(あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。)
[4] 箴言4章23節「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」
[5] 2:27「本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。」、3:18「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
[6] 4章6~7節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
[7] ピリピ人への手紙1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。)、1:13(私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。)それが使徒の働きの結びにあるローマでの投獄なのか、使徒の働き20章でエペソにいた三年間での出来事なのか、判定しがたいのですが、いずれにせよパウロは投獄されていました。
[8] 聖なる神は「御心に叶う」のでないことは決してなさいません。何によっても嫌々、無理やり何かをさせられることはありません。その神の子キリストが、神のあり方を捨てて空しく謙り、仕えてくださいました。それが神の心であり、栄光でした。それほど神は私たちを喜ばれるお方です。
[9] ピリピ3章2~11節「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。4ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
[10] 伊藤明夫、『実用聖書注解』より。
[11] 2章25~30節。
[12] 2節と5節の「思いを抱く」は同じ言葉フロネオーです。この語は、1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。),2:2、5、3:15(ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。)、19(その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。)、4:2(ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)でも出て来るキーワードの一つです。
[13] ピリピ1章12~14節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。13私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」
[14] 「喜びこそ我が家だ。神は私たちを喜んで創造し、喜びに向けて創造し、私たちをその喜びから切り離すものは何もない」Frederick Buechner, The Great Dance, 240 , from “Luke 2:8-11, REJOICING, by Rev.Dr. Lindley G. DeGarmo

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2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

2022-02-26 00:04:03 | 一書説教
2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

 一書説教として、新約聖書の最後から2番目の「ユダの手紙」を取り上げます。[1]

1. ユダの手紙の執筆事情

 このユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別です。イエスの弟の一人で、マタイ13章55節に名前があります。十字架の前には、この弟たちの誰もイエスを信じませんでしたが、復活後、一番上の兄ヤコブはエルサレム教会の中心的リーダーとなり、末の弟のユダも、教会の指導者となった。そしてこの手紙を書いているのでしょう。この手紙を書いたのは、

 3…聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。

 こういう事情で、ユダは緊急性を感じて、この短い手紙を書いたのです。この手紙は宛先が特定されていないのも特徴です。テモテやテトスへ、○○教会へ、という個別の宛先はない。ただ旧約聖書の引用があちこちにあります。また9節や14節は聖書には書かれていませんが、当時読まれていた旧約聖書の外典「エノク書」「モーセの遺訓」が下敷きになっています。ユダの手紙は聖書や当時のユダヤ文学に親しんでいた人を念頭に置いています。けれど、それは、

 1…父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々…

 即ち、私たちも含めたすべてのキリスト者を直接想定している、珍しい書です。そしていつの時代にとっても、神の恵みを放縦に変えて、キリストを実質的に否定する危険はあるのです。

 8…この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。…16彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。

 また、17~18節では使徒たちも、こういう将来を予告していたことを思い出させます。

18…「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

 具体的には、淫行とか利益、権威に逆らう、暴言…といった事が出て来ますが、根本的には、嘲りの心です。心の奥深くには、強い支配欲、思い上がった嘲りがある。それは神の恵みを否定してしまう危険です。ユダはそのために戦うよう、必要に迫られて本書を執筆したのです。

2. 非戦の戦い

 だからこそユダは「恵みを否定する不敬虔な人々と戦え」とは言いません。戦えよりむしろ、

 9御使いのかしらミカエルは、…ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました。

戦わない態度を思い起こさせるのです。その後18節まで、非常に激しく毒づく非難が続きますが、それもまるで「彼らの悪は目に見えている。その愚かさや行く末は明らかで、最後には裁きで明らかになる。分かっているから。」と代弁して毒づいているのでしょう。だから、

20しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 これが、ユダがこの手紙を急いで書いて伝えなければならないと残した命令です。自分自身を築き上げ、自分自身を守る。といって、それは自分の努力や頑張りという事でもない。

 「最も聖なる信仰の上に」とはどういうことでしょう。私たちが信仰を聖なるものに引き上げるのでしょうか。いいえ、聖とは神ご自身の本質です。その神を信じる信仰、聖なるイエス・キリストを信じる信仰は、聖なる信仰なのです。私たちが聖なる神を告白し、聖なるイエスの、最も聖なる御業である十字架と復活を信じ、聖徒とされた。そうして下さるのは聖霊。私たちの信仰は「最も聖なる」信仰です。その上に自分自身を築き上げる。聖霊によって祈る。神の愛のうちに自分自身を保つ。主イエスの憐れみを待ち望む。それこそが、恵みを引き下げて、欲望のままに振る舞う人々に流されず、信仰を守る「戦い」なのです。不敬虔や悪、不品行を憎み、裁きや罰を宣言するだけなら、そこには違う嘲りや、妬みが入ります。ユダの手紙は誘惑を警戒するからこそ、もっと大事なこと、いただいた信仰の尊さ、神の愛の素晴らしさ、もっと言えば今日の説教題の通り、聖なる神への憧れに立ち戻ること。この戦いを諭すのです。そして、その上で、他の人にそれぞれに接することが、22~23節で始まります。敵だとか、対立的に、一律に観るのではなく、ひとりひとりに、憐れみをもって接する。それこそ、ユダが勧める戦いなのです。

3.「ユダの手紙」

 もう一つ、「ユダの手紙」だからのことがあります。ユダという名前は、イスラエル十二部族の一つでもあります[2]。聖書には7名のユダが出て来ます[3]。十二使徒にもひとりユダがいます。なのに、「イスカリオテのユダとは違うユダ」と言われて少しホッとしたり、それでもモヤモヤしたりして、余り「ユダの手紙が好き」という人はいません。それぐらい「ユダ」という名前は「裏切り者」と結びついて、一人歩きして毛嫌いされています。英語では、イスカリオテのユダはJudas、このユダはJude(「Hey, Jude!」のジュードです)と区別したりします。違うと思う事で安心しようとします。でも、元々のヘブル語やギリシャ語では同じなのです。

 このユダ自身、イエスの弟なのに、長いこと兄を信じませんでした。いつイエスを信じたのかは分かりませんが、いつか何かがあったのです。彼はイエスと血が繋がった弟だなんて誇りは少しも匂わせず、神の恵みを語っています。自分の兄とまでなってくれた恵み、それをも信じられなかった自分をも変えてくれた恵みを味わい知る者として、この手紙を書きました。ユダという名は、母ラケルが嫉妬から解放されて「今度は、私は主をほめたたえます」とつけた「賛美」の名です[ⅳ]。彼がホントは書こうとしていた「救いについて」の手紙とはどんな素晴らしいものだったのでしょうか。奔放に生きるチャンスにするには余りにも勿体ない恵みです。

 このユダはあのユダとは別人です。でも、このユダもイエスを理解せず、見捨てた一人でした。そのユダを変えたのは神の恵みです。私たちも同じです。このユダのこともあのユダのことも、他人事ではないのです。その恵みを知るならば、私たちも誰かをその名前やほんの僅かな情報だけで裁いたり、争い、嘲ったりすることで戦おうとしてはなりません。私たちの戦いは、自分を「最も聖なる信仰の上に築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエスの憐れみを待ち望む」ことです。それは、私たちの業という以上に、神ご自身の恵みの業です。この恵みの神への憧れをもって、私たちの生き方を建て上げていくのです。

「聖なる神よ。あなたが下さった信仰は、何よりも聖く麗しい信仰です。新約の最後に、短く載せられたユダの書が、あなたの美しい救いの御業を証ししています。しかし私たちが恵みを引き下げ、欲に流され、人やあなたを蔑み、好戦的になりやすいことも教えられます。どうぞ、あなたの戦いはあなたに委ねて、私たちが自分たちを信仰の上に、神の愛のうちに建て上げていく戦いに立ち戻れますように。麗しいあなたご自身への憧れを増してくださいますように」

脚注:

[2] ユダ(Judah)、イェフーダー(ヘブライ語: יהודה‎ Yehûdâh)もしくは ジューダス(英語: Judas)、ヘブライ語で「ヤハウェに感謝する」という意味の人名。(Wikipedia)
[3] ネヘミヤ記12章8節、使徒9章11節、15章22節。
[4] 創世記29章35節「彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。」
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2022/1/30 ヘブル書12章1~3節「イエスがいてくださるから 一書説教 ヘブル人への手紙」

2022-01-29 12:39:38 | 一書説教
2022/1/30 ヘブル書12章1~3節「イエスがいてくださるから 一書説教 ヘブル人への手紙」

 「ヘブル人への手紙」と呼ばれますが[1]、手紙というより説教だと言われる内容です。誰が、誰に宛てて書いたのか、ハッキリ書かれていないので分かりません[2]。しかし、旧約聖書の引用が戸惑うほどに多く、著者も読者も旧約聖書に精通していたと窺えます。旧約からの聖書の民ユダヤ人は、ヘブル人とも呼ばれて、ヘブル語を話し、旧約聖書も殆どがヘブル語で書かれています。ユダヤ人で、キリストを信じた人々が読者なのでしょう。そして、本書には、「牢に入れられた」とか「財産を奪われ」といった言葉も出て来ます[3]。苦しみ、訓練という言葉も目立ちます。この手紙はユダヤ人キリスト者たちが困難な状況にある中で、書かれたのでしょう[4]。そしてキリストについての説明を、詳しく書いて、キリスト論を発展させた書です。

1. キリストは大祭司

 本書の最初には、御子イエス・キリストの偉大さ、特別さについて詳しく書かれています。一章では「御使いたち」と比べていますから、まだこの時代にはイエスを天使と同列に考える人たちもいたのかもしれません。ヘブル書は、御子が御使いよりも遙かに優れたお方であり、御使いよりも偉大な業、即ち低く、私たちと同じ人となって、私たちを救い出す、尊い救いをなしてくださることを説き明かしていきます。そうしてイエスを「大祭司」として紹介します。キリストが大祭司だと明言するのは新約でここだけです。これが前半十章までの要約なのです。

八1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。

 祭司は、神と人間との間に立って結びつける存在です。大祭司はその長です。キリストは神と私たちの間をつないでくださる唯一の方です。旧約時代モーセが立てた律法の制度も、祭司やその儀式を詳しく定めていましたが、それは不完全でした。それはやがて完全な大祭司が来られるまでの制度でした。その唯一の大祭司として、イエスがおいでになりました。罪のない完全な大祭司であり、動物の生贄という借り物ではなくご自身を捧げた本物の大祭司でした。御使いや人と同列ではない、確かな執り成しを、ヘブル書は説き明かしてくれるのです。

2. 大祭司がおられるのだから

 キリストが「私たちの大祭司」として説き明かしながら、それは私たちの生き方に直結するものとしてヘブル書は適応します。

「大祭司のことを考えなさい」[5]
「大祭司がおられるのですから」[6]

という言い方を繰り返すのです。イエスが偉大な大祭司だ、というと、私たちは自分には遠い、恭しくしなければならない恐れ多い方、と思うかもしれません。しかし、

二17…神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。[7]

 大祭司は、神と人間との間を取り持つため、すべての点で私たち人間と同じようにならなければならない。本当に人間になって、自ら試みを受け、苦しみを知り、ただ耐えただけで無く心から私たちの辛さや悲しみを知る、本当に憐れみ深くあるからこそ、私たちと神とを繋いでくださる大祭司であられる。そういう方が私たちにいてくださるのです。
 言わばキリストは神と私たちとの間に立つだけでなく、私たちの手をギュッと握ってくださっている大祭司。勿論、父なる神の手も離すことはなく、私たちの手をも優しく、確りと握りしめて、決して離すことはない大祭司です。そのような大祭司がいてくださる。それはヘブル書を受け取る読者に、救われるかどうかがあやふやな生き方から、もっと高く確かな生き方をもたらします。[8]



 「ヘブル人」とは元々、「川向こうの」「流れ者」という意味で、自分たちで名乗るより、「あいつはヘブル人だ」というような呼び名、もっと言えば蔑称だったようです[9]。主は、得体の知れない流れ者のアブラハムやイスラエル人、「ヘブル人」と一括りにまとめられるような人々の神となりました。「ヘブル人への手紙」は、人の目には非力で得体が知れず、迷いやすい者に御子が大祭司となってくださったことを丁寧に歌い上げていきます。それは、救いだけでなく、遙かに高く積極的な生活、仕事、結婚、教会の集会に対する姿勢をもたらすのです。

3. 多くの証人に囲まれて

十二1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 「こういうわけで」という直前の12章には、

「信仰によって…信仰によって…信仰によって」

と22回も重ねて、聖書の登場人物たちの生き方が想起されていました。神は私たちの目には見えないけれども、私たちが見える以上、考える以上のことを確かにしてくださるお方です。その神からの信仰を戴いた人たちが、地上で誠実に歩みました。ノアは箱舟を作り、モーセの両親はファラオの命令を恐れずにモーセを匿いました。見えない神を信頼して、大胆に生きた多くの証人が、雲のようにいます。またヘブル書以来、教会の歴史においても私たちの今の世界においても、信仰に生きた人々の尊い証しは数え切れません。
 どの人も完璧な聖人でも完全な信仰でもありませんでした。11章には直ぐに神を疑うイスラエルの民や[10]、不完全なヤコブ、サムソン、ダビデらも含まれています。それでも神が下さる信仰によって人は一歩を踏み出し、良い業を行ってきました。
 キリストが私たちの大祭司としておられる。だから、私たちは今見える現実だけに囚われずに、希望をもって生きることが出来ます。苦しみや死があっても、その苦しみや試みをも味わい知って、私たちとともにいてくださるイエスがおられます。だからもう私たちは罪の完全な赦しと神の祝福を信頼して、愛の業を踏み出していけるのです。[11]

 今日はヘブル人への手紙を、三つのポイントから概観しました。
 一つ目、ヘブル書はキリストの偉大さを「大祭司」という表現から教えてくれる、新約で唯一の書です。
 二つ目、ヘブル書は、大祭司が私たちと同じ人となり、私たちと同じように苦しまれた、言わば私たちの手を握るほど確りと私たちと神とを結びつけて下さる、憐れみ深い大祭司として伝えます。私たちには、大祭司イエスがいてくださる。だから、私たちの生き方は新しくなるのです。
 三つ目、その見えない神を信じる信仰によって生きた人は、雲のように大勢います。困難や諦めそうな現状の中で、神からの信仰によって状況を切り開いた人々は大勢います。だから、ヘブル書の読者たちも、私たちも、目の前の見える状況がどうであれ、励ましを戴いて、信仰と希望を持って歩めます。そうさせて下さるのも大祭司イエスです。このイエスがいてくださるのです。

「主よ、ヘブル人への手紙を感謝します。御子が私たちの大祭司であると知らされました。人であるとはどういうことか、私たちと同じく、いえ私たち以上にご存じの主が、私たちを愛し、憐れみ助けてくださいます。ご自身のいのちを捧げて、私たちの罪を赦し、祝福に預からせてくださる主が、苦難の中で忍耐や希望をも与えてください。あなたがいてくださることに勇気づけられ、互いに励まし合わせてください。この礼拝も教会も、大祭司なるあなたのものです」

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。 (ヘブル書13章20-21節)

ヘブル書のことば ピックアップ

7:25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

8:1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、2人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。

11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

13:1兄弟愛をいつも持っていなさい。2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

4結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。5金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

8イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

アウトライン:
1.イエス・キリストの至高性 1章~4:13
  キリストは御使いより優れている。 1:1~2:18
  モーセより優れている 3:1~4:13
2.大祭司キリストによる真の贖罪 4:14~10:18
3.希望の下にある信仰の道 10:19~13:17
4.結語 13:18~25


脚注:

[1] この呼称は、二世紀の教父テルトゥリアヌスが用いたことから定着しました。

[2] 著作年代も不明ですが、神殿破壊されたのであれば、9章などの記述が違ったでしょうから、紀元70年以前だと思われます。

[3] ヘブル人への手紙10:34(あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。)、13:3(牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。)

[4] 市川「執筆の動機・目的 キリストの十字架刑のつまずき、迫害の恐怖、再臨の遅延感など、信仰的失望や背教の危険性に直面していたヘレニズム世界のキリスト者に、キリストの贖いの全一回的、永遠的成就を旧約聖書との関連から論証し、終末的完成の希望とさばきの警告とを提示し、それによって彼らを牧会的に励まし、慰めるために執筆された。」『実用聖書注解』、1,378ページ

[5] 3章1節「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」、7章4節「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。」、12章2節「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」

[6] 4章14節「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」、8章1節「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」、10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」

[7] 他にも、2章14節「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、」、4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」など。

[8] 大祭司として、神と私たちの間に立って下さる。しかし、その祭司を私たちがしっかり握りしめる、というならまだ弱い。この大祭司キリストが、私たちの手を握りしめてくださって、決して離すことがない、それゆえ私たちの生き方そのものもふらふらしたり、不安に駆られた者から、信頼をもって神に仕え、見えないものを確信しつつ、将来の約束に希望をおいて、生きるよう変えられた。そこにまで、大祭司キリストのもたらす知らせの偉大さがある。イエスを偉大な大祭司として発見することは、私たちが偉大な契約の中で神に結びつけられ、新しくされ、罪の完全な赦しと新しいいのちを与えられていることの発見である。

[9] 創世記9章14節「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」、出エジプト記3章18節「彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」などに、そのようなニオイが漂っています。

[10] 29節「信仰によって人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」や、30節「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」の「人々」は、出エジプト記14章や、ヨシュア記6章を見ても、不平や背信に早く、ヘブル書3章4章8章で、不信仰の例として挙げられている人々そのものでもあります。人間を「信仰者」と「不信仰者」とに単純に二分することは出来ません。

[11] 大祭司がおられることが、愛と善行などの互いの生き方に結実すべきことも、ヘブル書で繰り返されている論理的帰結なのです。10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。25ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」、13章16節「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」

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2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

2022-01-23 12:09:58 | 一書説教
2022/1/23 ヨハネ伝1章1~5節「初めに「ことば」あり 一書説教 ヨハネの福音書」

 ヨハネの福音書はユニークな福音書です。その前のマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の三つは、イエスの活動と十字架、復活に至るストーリーを、割合似た語り口で、同じような出来事を使いながら伝えています。この三つは「共観福音書(観点が共通している福音書)」と呼ばれます。それに比べてヨハネは独自です。十字架に至る数年と十字架の死、復活は同じでも、九割が独自なのです。この書だけは「第四福音書」と呼ばれるのです。

 どうしてこの書が書かれたのでしょう。その目的をハッキリ書いてくれているのも特徴です。

二〇30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。[1]

 この目的から書かれたのです。既に、マタイ、マルコ、ルカの福音書は書かれていて教会では読まれていました。主イエスの御生涯や奇蹟、教え、十字架と復活は語られていました。イエスが神の子キリストであることはそこでも語られ、信じられていました。しかし教会が既に知っていると思っているイエスの物語に、異なる角度から光を当てて、イエスが神の子キリストであることをますます信じて、そしてイエスにあるいのちを得て欲しい。それが、この書の目的でした。私たちが「もう知っている」と思っているイエス様の姿、聖書の物語に、違う所から光を照らして、イエス様との新しい出会いをくれる。それがヨハネの福音書です[2]。

 マタイなど共観福音書が書かれたのは紀元60年代前後、それから30年以上した紀元90年代がヨハネの福音書の書かれた時期のようです。30年の間に教会の内外でも変化があったのでしょう。私たちの信仰の歩みでも、何十年と馴染んできたつもりの信仰理解やイエスのイメージに、神が光を投げかけてくださることがあります。今までが間違っていた、という意味ではなく、知っていると思ってきた事が全てでは無かった、改めて神と出会う、イエスを知る。そういう思いを、神はさせてくださるお方です。そういう再出発を願ってくださるのです。

 そう願って書かれた本書の書き出しが
「初めにことばがあった」
でした。どう語り始めるか、ヨハネは慎重に考えたのでしょう。それがこの
「初めにことばがあった」
です。イエスを「ことば」なるお方として紹介するのです。初めにおられたことばなるお方、として[3]。

 聖書の最初、旧約聖書の第一巻の創世記は
「はじめに神が天と地を創造された」
と書き出します。ヨハネはそれをもじります。そして、その初めに
「生まれた、創造された」
でなく、既にその時におられた、もう既にいらしたお方。そう紹介して、書き出していきます。そうして、登場するイエス様は、福音書の中でも一番饒舌です。おしゃべりなイエス様なのです。

 その言葉が「初めからあった」と私たちは信じているでしょうか。その御言葉は、素晴らしい、高尚だ、恐れ多いとは思っていても、イエスの言葉こそ最初からあったとは思っているでしょうか。私たちの心にまずある言葉は、どんな言葉、どんな考えでしょうか。この福音書9章には、生まれつき目の見えない人を見たとき、弟子たちも含めて誰もが「この人が盲目に生まれついたのは、この人か両親の罪のせいに違いない」という言葉に囚われていました[4]。しかしイエスの言葉は
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
でした。そんな奇蹟を七つ記すのも本書の特徴です[5]。
 また、ユダヤ教の立派な教師も、人は老いてから生まれ変わることは無理だという言葉を口にしました[6]。それに対して語られたのが、ヨハネの福音書で最も有名な言葉、聖書のエッセンスとも言える、
三16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。[7]
の言葉です。これは、単なる感動的な名セリフではありません。初めからおられた神とそのひとり子のイエスがこの世を愛されている。そのために、父は御子を与えてくださった。神は世を愛するお方である。そういうとんでもなく大胆な言葉です。それを見せてくださったのが、ひとり子イエスです。沢山の言葉を教え、
「わたしはいのちのパンです。…世の光です…良い牧者です。…ぶどうの木です」[8]
と仰って豊かに示されます。貧しい結婚式を祝福し、男性不信の女性を喜びに溢れさせて、治る気の失せた病人を立ち上がらせてくださる。そんな実例を通して、イエスの言葉の力を見せます[9]。そして最後の晩餐の席で、弟子たちの汚れた足をイエスご自身が奴隷のように身をかがめて洗って下さる。その晩イエスは捕らえられ、十字架にかけられた後、よみがえって弟子たちに現れてくださるのです。

 このイエスこそ初めからおられた方です。私たちが何かをなす前に、先におられるお方です。また、この「初め」は時間の最初という以上に、原理とか根源という意味でもあります。初めはイエス様の言葉だけど、それを私たちが裏切ったり信じなかったりしたら、台無しにしてしまうんじゃないか…それも私たちの思い込みやすい言葉でしょう。有り難い事に、そうではないのです。初めにイエスがおられ、今もこれからもまずイエスがいてくださる。この方の言葉、約束が私たちの思いに先立ってある。私たちの心や頭には、違う言葉、違う予想、イエス様抜きの考えが染みついているとしても、その闇は光に打ち勝つことはありません。
 ヨハネの時代、紀元90年、ローマの迫害が強まった頃でしょう。教会の中にも疑問や諦めがあったらしい。そんな中で書かれたヨハネの福音書は、教会にイエスを新しい光で照らします。そして、イエスと出会って、その言葉によって生き生き生きるよう変えられた人たちの姿を証しします。

 ヨハネの福音書は新約でも一番最後に書かれたと考えられる書の一つです[10]。勿論これで聖書は完結し、書き足されることはありません。それでもヨハネが、三つの福音書にもう一つを書き加えてまで、イエスを新しく知らせようとしたその情熱は、私たちにも届けられるはずです[11]。信仰生活何十年、教会生活が何年であっても、私たちを取り巻く環境に私たちは戸惑い、心が涸れたように渇いてしまう時がある。そういう私たちに、聖書がもう一度イエスとの出会いを与えてくださり、主を信じさせて下さる。初めにあった言葉が、もう一度私たちに豊かないのちを注いでくださる。ヨハネの福音書が証しする恵みが皆さんにありますよう祈ります。

「造り主であり命の主である神様。あなたの御子イエス・キリストの御生涯は、神の栄光を豊かに現しています。私たちのいのちはイエス様から来ます。どうぞ、その深い恵みを現してください。私たちの貧しく細い理解にも、御言葉の光が新しく差し込んで、主の命に預からせてください。私たちのためにご自分を捧げてくださった神を告白し、私たちも又、そのような捧げ合い、真実な生き方へと、命溢れる日々へと、ともに励まし合う教会であらせてください」


アウトライン:
1章 プロローグ
2~10章 奇蹟的なしるしと議論
 2~4章 ユダヤ教の四つの事柄:2a結婚式の祝宴;2b神殿;3章ラビ;4章聖なる井戸
 5~10章 ユダヤでの四つの聖なる日:5章安息日;6章過越の祭;7~10章a仮庵の祭り;  10章b ハヌカ
11~12章 ラザロのよみがえり
13~17章 イエスの最後のことば:13章弟子たちの足を洗う;14~17章イエスの説教と祈り
18~20章 イエスの死と復活:18章aイエスの逮捕;18b-19章十字架刑;20章よみがえり
21章 エピローグ

脚注:

[1] この「信じる」は、写本に二種類の系統があり、「(一度)信じる」不定過去の時制であれば、未信者が信じることを主に差すでしょうし、「信じ(続け)る」未完了時制であれば、既にキリスト者である人々が信じ続けることに焦点があると言えます。どちらの写本が有力かは意見が分かれるところです。「新改訳2017」では欄外に「異本「信じ続けるため」」とあり、両方が併記されています。

[2] ジェームス・ブライアン・スミス『エクササイズ』(松本雅弘訳、いのちのことば社、2016年)では、「第7章 神はご自分を捧げるお方」の結びの「魂を鍛えるエクササイズ」で「ヨハネの福音書を読む」ことを勧めます。「ヨハネの福音書はユニークな福音書です。ロゴスすなわちことば、あるいは「人となって、私たちの間に住まわれた」神の子について語るプロローグをもって始まります。ヨハネは一連のユニークな物語を綴りながら、、イエスを垣間見せようとしていますが、ヨハネの福音書において最も重要なことは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点です。」(242ページ)

[3] ことばロゴス ヨハネで40回。1:1(初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。)、14(ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)、2:22(それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。)、4:37(ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。)、4:39(さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。)、4:41(そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。)、4:50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:38(また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6:60(これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」)、7:36(『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」)、7:40(このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。)、8:31(イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。)、8:37(わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。)、8:43(あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。)、8:51(まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。)、8:55(あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。)、10:19(これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。)、10:35(神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、)12:38(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、12:48(わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。)、14:23(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」、15:3(あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。)、15:20(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、15:25(これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、17:6(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、17:14(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。)、17:17(真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。)、17:20(わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。)、18:9(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、18:32(これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。)、19:8(ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。)、19:13(ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。)、21:23(それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。)

ちなみに、以下の「ことば」はロゴスではなく、レーマ。3:34(神が遣わした方は、神のことばレーマを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。)、5:47(しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばレーマを信じるでしょうか。」)、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちレーマです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばレーマを持っておられます。)、8:47(神から出た者は、神のことばレーマに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」)、10:21(ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばレーマではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」)、12:47(だれか、わたしのことばレーマを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。)、14:10(わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばレーマは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。)、15:7(あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばレーマがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。)、17:8(あなたがわたしに下さったみことばレーマを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。)

[4] ヨハネの福音書9章。

[5] 七つの奇蹟:①カナの婚礼のぶどう酒(2章1-11節)、②役人の息子の癒やし(4章46-54節)、③ベテスダの池で、足の萎えた人を癒やす(5章1-9節)、④五つのパンと二匹の魚で五千人の給食(6章1-14節)、⑤水上歩行・嵐を鎮める(6章15-21節)、⑥盲人の癒やし(9章1-41節)、⑦ラザロの復活(11章)、そして復活と、ガリラヤ湖での大漁の奇蹟(21章1-14節)。

[6] ヨハネの福音書3章。

[7] 「永遠のいのち」17回。「天国」ではなく、イエスに結ばれた永遠の生き生きとした、新しい歩み。自力で獲得するのでなく、イエスが下さったことを驚き、喜び、生かされるのだ。

いのち、ゾーエー。ヨハネに36回。うち、17回が「永遠のいのち」。1:4(この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。)、3:15(それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)、3:16(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、3:36(御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。)、4:14(しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」)、4:36(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、5:21(父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:26(それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。)、5:29(そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。)、5:39(あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。)、5:40(それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。)、6:27(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、6:33(神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」)、6:35(イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。)、6:40(わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」)、6:47(まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48わたしはいのちのパンです。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:53(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。)、8:12(イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」)、10:10(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。)、10:15(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、10:17(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、10:28(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。)、12:25(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、12:50(わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」)、13:37(ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、14:6(イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。)、15:13(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、17:2(あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。3永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。)、20:31(これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。)

生きる ザオー17回。4:10(イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。)、50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。51彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。)、4:53(父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。)、5:25(まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:57(生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」)、7:38(わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」)、14:19(あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。)、

[8] エゴー・エイミー(わたしは○○です):①いのちのパン(6章35節)、②世の光(8章12節、9章5節)、③羊の門(10章7節)、④よい牧者(10章11節、14節)、⑤よみがえり、いのち(11章25節)、⑥道、真理、いのち(14章6節)、⑦まことのぶどうの木(15章1節)

[9] そこでヨハネが強調する特徴の一つは、聖霊の働きです。風のようであり(3章)、慰め主であり(14、16章)、復活のイエスは「聖霊を受けなさい」と弟子の派遣を聖霊と直結します(20章)。

[10] 掲載の順番は、ヨハネの黙示録が一番最後ですが、緒論としては、ヨハネの福音書、および、ヨハネの手紙第一から第三が、最も遅く書かれたと考えられています。

[11] そして、ヨハネ伝の21章は後から付け足されたようにも読めますし、半ばの7章53~8章11節までの「姦淫の女の石打」のエピソードは、明らかに後代に書き足された、本来はなかったものです。福音が固定・完結した閉じたものではなく、オープンである面をこのヨハネの福音書は、そうした成立史からもほのめかしてるのでしょう。

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2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

2022-01-01 09:50:27 | 一書説教
2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

 2022年の元旦、預言者ハガイの書を読みます。まだ一書説教で取り上げていなかったハガイ書で、初めて開いた方もいらっしゃるかも知れません。ハガイとは「祭」の意だそうです[1]。イスラエルのお祭りの時に生まれたのでしょうか。新年最初のお祝いに、本書を読みます。
 ハガイの時代は、イスラエルの民が、捕われていたバビロンから帰って来て、再出発していた時代です。エルサレムに帰り、破壊された神殿も建て直して、主を礼拝する民として歩もう。そう決めて帰ったものの、周囲からの反対や諸事情によって、神殿再建が中断されていました。この辺りの経緯は、エズラ記が詳しく伝えています[2]。エズラ記にこのハガイも登場します[3]。中断されていた神殿再建を、18年ぶりに、民の心を奮い立たせて再開させた預言者。その一人がハガイでした。彼は神殿再建に、いいえ、神の民の再出発そのものに大きく貢献しました。

 一つ目は礼拝の大切さです。神を第一とする礼拝を回復する事です。主は言われます。

2…「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」

4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」

 18年前、神殿再建を志ながら、それが中断されたのは民の不信仰や怠慢のせいではありませんでした。外から妨害されてのどうしようもない中断でした。しかし、その後、事情が変わって、民の暮らしもよくなって板張りの立派な家に住めるようになったのに、神殿建設は放ったらかしになっている。主を忘れて自分の家のために走り回っている生活は、結局、生活や仕事や神ならぬものを神とする生き方です。空回りした、虚しい、本当の神のいない歩みです[4]。

7万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ[5]。8山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ[6]。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。-主は言われる-

 ハガイは民に、まず主の宮の再建を促すのです。それは主が既にともにおられるからです。

13…「わたしは、あなたがたとともにいる-主のことば」

 これこそハガイ書で、宮の再建の呼びかけを通して思い起こさせたいメッセージです。礼拝を通して、主がおられる幸いを覚えます。他の事ごとに振り回されないために、主を主とする恵みに預かります。そして、慌ただしい中でも、生活の中心に主がともにおられることを覚えるのです。これこそが、聖書の中心にあるメッセージです。私たちに与えられた告白です。

 もう一つハガイ書から見えるのは「時の中での変化」です。工事に立ち上がった一月後、二章で言われるのは、民の中に、七〇年前に破壊されたソロモン神殿と比べての不平でした。

二3「あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。…あなたがたの目には、まるでないに等しいのではないか。

 70年前に壊された神殿をその目で見たことのある老人たちもいました。彼らは今ようやく工事の始まった新しい神殿を見ても、かつての輝く神殿と比べて嘆いてしまう[7]。「昔は良かった、以前はもっとああだった」と比べて、折角の今に水を差す声を上げました。
 更に二ヶ月後、10節以下では、造った神殿や献げる生け贄そのものに価値があるかのように慢心してしまったようです。僅か四ヶ月でも、民の心が揺れ動く。時間とともに人は、心も環境も良くも悪くも変わります。その事に私たちは鈍感です。七〇年前の神殿、かつての栄光を取り沙汰して今と比べたりしてしまいます。時とともに多くのもの、自分の心や見えるものは変わる。その事をもハガイ書が浮き彫りにします。その中で、主は民に力強く仰いました。

4しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。-主のことば-エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。-主のことば-仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。

 この聖書を貫くメッセージが繰り返されて、こう主は言われるのです。

 7わたしはこの宮を栄光で満たす。-万軍の主のことば-8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。-万軍の主のことば-9この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。

 宮が銀や金で出来ていなくても、主はすべての金銀財宝の所有者です。その主が、この宮のこれから後の栄光は先のものにまさる。それは、主がこの場所に平和を与えると約束される事です。その「平和」こそ、黄金の建物やどんな立派な過去の栄光にもまさる、新しい栄光です。

 人は時間の中で変わっていきますが、神はその変化のただ中に、働いてくださいます。人が「まだ時は来ない」と言い切っている所に、神は新しいことを始めてくださいます。逆に人が焦っても、神は18年、七十年、いや千年をも一日のように待たれる神でもあります。時の中での移ろいさえ用いて、神は私たちを教え、導かれます。ハガイ書の5年後、小さな神殿が再建されました。それは、かつてのソロモン神殿が破壊されてから70年後のことです。かつて、預言者エレミヤは、バビロン捕囚を七〇年と預言していました[8]。それがこの神殿破壊から再建まで、と見ることも出来ます[9]。だとすると、預言の70年は、中断されていた18年も含めています。主は、人の妨害や諦めの時間さえ、神のご計画のうちに含んでくださって、民を運んで下さる。その主を第一にして、主を礼拝する民としてともに歩むことが何よりの土台です。

 たった二章の、たった四ヶ月の間のハガイの預言。私たちが、時間の中で、時を超えた主を見上げながら、自分たちの変わりやすさと、その中に働かれる主を見上げさせてくれる書です。忙しい中でも、この短いハガイ書を通して、主を礼拝する幸いを確認し続けていきましょう。

「時を治めたもう主よ。新しい年、鳴門キリスト教会も、私たち一人一人も大きく変化します。移りゆく時を強く実感します。社会も人も自分自身も、変わり続ける現実に、振り回され、戸惑います。その中で、あなたは変わることなく、私たちの変化をも益とし、見えない祝福を用意され、ともにおられます。インマヌエルなる主が、私たちをあなたの宮として整えて、一人一人が主の前に静かに立ちながら、ともに歩ませてください[10]。そうして、私たちのこれからの歩みを通して、先の恵みに勝る栄光を現してください。」[11]





脚注:

[1] ヘブル語ハーグの複数形。

[2] エズラ記4章4~5節「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」

[3] エズラ記5章1節「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。」、6章14節「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。」

[4] 彼らが自分の歩みを考えたら、板張りの家に住むとか、多くの種を蒔いて豊作を見込むとか、自分の家のために走り回る事でした。でもそこに神の家がなかった。それは生ける神ではなく、富とか暮らしを神として、生活や時間を献げて、幸せになろうとする事でした。それは虚しい事です。神を神としないなら、何かを「神」としているのです。自分の住居、暮らし。何にお金を掛け、何に時間を費やしているか。何のために犠牲を惜しまず、何を今、気に掛けているか。それこそあなたの「神」です。「主なる神を、イエス・キリストを通して礼拝する」と言いつつ、私たちはその神の顔を何に見えているでしょうか。神は、地上の何かの形に、自分を形作るな、と仰せられます。それは私たちの神ではないのですから。主は生ける、力ある神で、人が主を神とするなら、それを喜び、栄光を現すと約束してくださいます。私たちが自分の家や生活のために走り回るとしても、それを拝むのではなく、神を礼拝すること。それは、私たちのためにも、ただ一つの第一のことなのです。

[5] 「よく考えよ」(に心を備えよ。欄外) 新共同訳「自分の道に心を留めよ」1:5、7。2:15、18も。

[6] 主はご自身のために、立派な宮を建てよとは求めません。山に上って運んでくる木で良いのです。

[7] エズラ記では3章10~13節にこう記されています。「3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。12しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」 しかし厳密には、これは最初の神殿建設が中断される直前の記事です。ですから、ハガイ書2章の出来事そのものではありません。18年前に、この比較と嘆きがありました。それも、神殿再建を中断されたまま放置した、心理的な要因と絡んでいるのかもしれません。その反省もなく、今ここでも、せっかく始まった再建工事に水を差す声として、ハガイ書2章3節は読まれるべきなのかもしれません。いずれにせよ、神が、大きさにかかわらず、神殿を建てることを命じて、その基礎作りを祝われているのに、人間のほうが、「まるで無いに等しい」と嘆いている、という奇妙なことが起きているのです。

[8] エレミヤ書25章11節「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」、29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」、ダニエル書9章2節「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」

[9] 第三回バビロン捕囚において神殿が破壊されたのが紀元前586年。その後、新興のペルシアによりバビロン帝国が滅ぼされたのが、紀元前539年。翌年、ペルシア王クロスによりイスラエル人の希望者による捕囚帰還(538年)。その後、18年の中断を経て、工事が再開され、ゼルバベル政権下で神殿が再建されたのが前515年です。

[10] イエス・キリストこそ、私たちといつもともにいますと仰いました。言いかえれば、キリストを信じる信仰者の共同体こそ、主の宮とされました。暮らし向きも違い、生きてきた時間も違う者たちも、ただこの真ん中に主がおられるゆえに、一つの聖霊の一つの宮です。建物や場所ではなく、私たちキリスト者を、神ご自身が生ける石として、宮としてくださいました。私たちが犠牲を献げることによってではなく、イエスご自身が唯一のいけにえとなって、礼拝を全うしてくださいました。その事を覚えるために、私たちは礼拝を第一とするのです。主がここにいますことを覚える事で、私たちは生活を偶像とせず、ともに歩むことが出来るのです。

[11] 鳴門キリスト教会も、皆さん一人一人も、この一年、大きな変化を予想しています。そうでなくても、時間の中で多くの事は変化し、予想もつかない出来事が起きるものです。その時の流れの中で、私たちは自分で時を見てしまい、神の時をも決めたくなります。でもそれは逆です。神こそが、時を支配しておられます。変わる時をも益に変えて、祝福を用意されています。その神を信頼するために、私たちにとって礼拝を第一とするのです。そうして、ともに生きることが出来るのです。主をともに礼拝する事が、新しい2022年の歩みを方向付け、支える祝福なのです。神殿再建を促すハガイの言葉は、私たちにも何度も何度も再出発を促してくれます。

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