[1] この呼称は、二世紀の教父テルトゥリアヌスが用いたことから定着しました。
[2] 著作年代も不明ですが、神殿破壊されたのであれば、9章などの記述が違ったでしょうから、紀元70年以前だと思われます。
[3] ヘブル人への手紙10:34(あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。)、13:3(牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。)
[4] 市川「執筆の動機・目的 キリストの十字架刑のつまずき、迫害の恐怖、再臨の遅延感など、信仰的失望や背教の危険性に直面していたヘレニズム世界のキリスト者に、キリストの贖いの全一回的、永遠的成就を旧約聖書との関連から論証し、終末的完成の希望とさばきの警告とを提示し、それによって彼らを牧会的に励まし、慰めるために執筆された。」『実用聖書注解』、1,378ページ
[5] 3章1節「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」、7章4節「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。」、12章2節「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」
[6] 4章14節「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」、8章1節「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」、10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」
[7] 他にも、2章14節「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、」、4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」など。
[8] 大祭司として、神と私たちの間に立って下さる。しかし、その祭司を私たちがしっかり握りしめる、というならまだ弱い。この大祭司キリストが、私たちの手を握りしめてくださって、決して離すことがない、それゆえ私たちの生き方そのものもふらふらしたり、不安に駆られた者から、信頼をもって神に仕え、見えないものを確信しつつ、将来の約束に希望をおいて、生きるよう変えられた。そこにまで、大祭司キリストのもたらす知らせの偉大さがある。イエスを偉大な大祭司として発見することは、私たちが偉大な契約の中で神に結びつけられ、新しくされ、罪の完全な赦しと新しいいのちを与えられていることの発見である。
[9] 創世記9章14節「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」、出エジプト記3章18節「彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」などに、そのようなニオイが漂っています。
[10] 29節「信仰によって人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」や、30節「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」の「人々」は、出エジプト記14章や、ヨシュア記6章を見ても、不平や背信に早く、ヘブル書3章4章8章で、不信仰の例として挙げられている人々そのものでもあります。人間を「信仰者」と「不信仰者」とに単純に二分することは出来ません。
[11] 大祭司がおられることが、愛と善行などの互いの生き方に結実すべきことも、ヘブル書で繰り返されている論理的帰結なのです。10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。25ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」、13章16節「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」
[1] この「信じる」は、写本に二種類の系統があり、「(一度)信じる」不定過去の時制であれば、未信者が信じることを主に差すでしょうし、「信じ(続け)る」未完了時制であれば、既にキリスト者である人々が信じ続けることに焦点があると言えます。どちらの写本が有力かは意見が分かれるところです。「新改訳2017」では欄外に「異本「信じ続けるため」」とあり、両方が併記されています。
[2] ジェームス・ブライアン・スミス『エクササイズ』(松本雅弘訳、いのちのことば社、2016年)では、「第7章 神はご自分を捧げるお方」の結びの「魂を鍛えるエクササイズ」で「ヨハネの福音書を読む」ことを勧めます。「ヨハネの福音書はユニークな福音書です。ロゴスすなわちことば、あるいは「人となって、私たちの間に住まわれた」神の子について語るプロローグをもって始まります。ヨハネは一連のユニークな物語を綴りながら、、イエスを垣間見せようとしていますが、ヨハネの福音書において最も重要なことは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点です。」(242ページ)
[3] ことばロゴス ヨハネで40回。1:1(初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。)、14(ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。)、2:22(それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。)、4:37(ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。)、4:39(さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。)、4:41(そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。)、4:50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:38(また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6:60(これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」)、7:36(『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」)、7:40(このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。)、8:31(イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。)、8:37(わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。)、8:43(あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。)、8:51(まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。)、8:55(あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。)、10:19(これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。)、10:35(神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、)12:38(それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」)、12:48(わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。)、14:23(イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」、15:3(あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。)、15:20(しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。)、15:25(これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。)、17:6(あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。)、17:14(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。)、17:17(真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。)、17:20(わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。)、18:9(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、18:32(これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。)、19:8(ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。)、19:13(ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。)、21:23(それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。)
ちなみに、以下の「ことば」はロゴスではなく、レーマ。3:34(神が遣わした方は、神のことばレーマを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。)、5:47(しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばレーマを信じるでしょうか。」)、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちレーマです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばレーマを持っておられます。)、8:47(神から出た者は、神のことばレーマに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」)、10:21(ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばレーマではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」)、12:47(だれか、わたしのことばレーマを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。)、14:10(わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばレーマは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。)、15:7(あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばレーマがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。)、17:8(あなたがわたしに下さったみことばレーマを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。)
[4] ヨハネの福音書9章。
[5] 七つの奇蹟:①カナの婚礼のぶどう酒(2章1-11節)、②役人の息子の癒やし(4章46-54節)、③ベテスダの池で、足の萎えた人を癒やす(5章1-9節)、④五つのパンと二匹の魚で五千人の給食(6章1-14節)、⑤水上歩行・嵐を鎮める(6章15-21節)、⑥盲人の癒やし(9章1-41節)、⑦ラザロの復活(11章)、そして復活と、ガリラヤ湖での大漁の奇蹟(21章1-14節)。
[6] ヨハネの福音書3章。
[7] 「永遠のいのち」17回。「天国」ではなく、イエスに結ばれた永遠の生き生きとした、新しい歩み。自力で獲得するのでなく、イエスが下さったことを驚き、喜び、生かされるのだ。
いのち、ゾーエー。ヨハネに36回。うち、17回が「永遠のいのち」。1:4(この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。)、3:15(それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)、3:16(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、3:36(御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。)、4:14(しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」)、4:36(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、5:21(父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。)、5:24(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、5:26(それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。)、5:29(そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。)、5:39(あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。)、5:40(それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。)、6:27(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、6:33(神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」)、6:35(イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。)、6:40(わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」)、6:47(まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48わたしはいのちのパンです。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:53(イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」、6:63(いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。)、6:68(すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。)、8:12(イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」)、10:10(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。)、10:15(ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。)、10:17(わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、10:28(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。)、12:25(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、12:50(わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」)、13:37(ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」)、14:6(イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。)、15:13(人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。)、17:2(あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。3永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。)、20:31(これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。)
生きる ザオー17回。4:10(イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。)、50(イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。51彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。)、4:53(父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。)、5:25(まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。)、6:51(わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」)、6:57(生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」)、7:38(わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」)、11:25(イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」)、14:19(あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。)、
[8] エゴー・エイミー(わたしは○○です):①いのちのパン(6章35節)、②世の光(8章12節、9章5節)、③羊の門(10章7節)、④よい牧者(10章11節、14節)、⑤よみがえり、いのち(11章25節)、⑥道、真理、いのち(14章6節)、⑦まことのぶどうの木(15章1節)
[9] そこでヨハネが強調する特徴の一つは、聖霊の働きです。風のようであり(3章)、慰め主であり(14、16章)、復活のイエスは「聖霊を受けなさい」と弟子の派遣を聖霊と直結します(20章)。
[10] 掲載の順番は、ヨハネの黙示録が一番最後ですが、緒論としては、ヨハネの福音書、および、ヨハネの手紙第一から第三が、最も遅く書かれたと考えられています。
[11] そして、ヨハネ伝の21章は後から付け足されたようにも読めますし、半ばの7章53~8章11節までの「姦淫の女の石打」のエピソードは、明らかに後代に書き足された、本来はなかったものです。福音が固定・完結した閉じたものではなく、オープンである面をこのヨハネの福音書は、そうした成立史からもほのめかしてるのでしょう。
[1] ヘブル語ハーグの複数形。
[2] エズラ記4章4~5節「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」
[3] エズラ記5章1節「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。」、6章14節「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。」
[4] 彼らが自分の歩みを考えたら、板張りの家に住むとか、多くの種を蒔いて豊作を見込むとか、自分の家のために走り回る事でした。でもそこに神の家がなかった。それは生ける神ではなく、富とか暮らしを神として、生活や時間を献げて、幸せになろうとする事でした。それは虚しい事です。神を神としないなら、何かを「神」としているのです。自分の住居、暮らし。何にお金を掛け、何に時間を費やしているか。何のために犠牲を惜しまず、何を今、気に掛けているか。それこそあなたの「神」です。「主なる神を、イエス・キリストを通して礼拝する」と言いつつ、私たちはその神の顔を何に見えているでしょうか。神は、地上の何かの形に、自分を形作るな、と仰せられます。それは私たちの神ではないのですから。主は生ける、力ある神で、人が主を神とするなら、それを喜び、栄光を現すと約束してくださいます。私たちが自分の家や生活のために走り回るとしても、それを拝むのではなく、神を礼拝すること。それは、私たちのためにも、ただ一つの第一のことなのです。
[5] 「よく考えよ」(に心を備えよ。欄外) 新共同訳「自分の道に心を留めよ」1:5、7。2:15、18も。
[6] 主はご自身のために、立派な宮を建てよとは求めません。山に上って運んでくる木で良いのです。
[7] エズラ記では3章10~13節にこう記されています。「3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。12しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」 しかし厳密には、これは最初の神殿建設が中断される直前の記事です。ですから、ハガイ書2章の出来事そのものではありません。18年前に、この比較と嘆きがありました。それも、神殿再建を中断されたまま放置した、心理的な要因と絡んでいるのかもしれません。その反省もなく、今ここでも、せっかく始まった再建工事に水を差す声として、ハガイ書2章3節は読まれるべきなのかもしれません。いずれにせよ、神が、大きさにかかわらず、神殿を建てることを命じて、その基礎作りを祝われているのに、人間のほうが、「まるで無いに等しい」と嘆いている、という奇妙なことが起きているのです。
[8] エレミヤ書25章11節「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」、29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」、ダニエル書9章2節「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
[9] 第三回バビロン捕囚において神殿が破壊されたのが紀元前586年。その後、新興のペルシアによりバビロン帝国が滅ぼされたのが、紀元前539年。翌年、ペルシア王クロスによりイスラエル人の希望者による捕囚帰還(538年)。その後、18年の中断を経て、工事が再開され、ゼルバベル政権下で神殿が再建されたのが前515年です。
[10] イエス・キリストこそ、私たちといつもともにいますと仰いました。言いかえれば、キリストを信じる信仰者の共同体こそ、主の宮とされました。暮らし向きも違い、生きてきた時間も違う者たちも、ただこの真ん中に主がおられるゆえに、一つの聖霊の一つの宮です。建物や場所ではなく、私たちキリスト者を、神ご自身が生ける石として、宮としてくださいました。私たちが犠牲を献げることによってではなく、イエスご自身が唯一のいけにえとなって、礼拝を全うしてくださいました。その事を覚えるために、私たちは礼拝を第一とするのです。主がここにいますことを覚える事で、私たちは生活を偶像とせず、ともに歩むことが出来るのです。
[11] 鳴門キリスト教会も、皆さん一人一人も、この一年、大きな変化を予想しています。そうでなくても、時間の中で多くの事は変化し、予想もつかない出来事が起きるものです。その時の流れの中で、私たちは自分で時を見てしまい、神の時をも決めたくなります。でもそれは逆です。神こそが、時を支配しておられます。変わる時をも益に変えて、祝福を用意されています。その神を信頼するために、私たちにとって礼拝を第一とするのです。そうして、ともに生きることが出来るのです。主をともに礼拝する事が、新しい2022年の歩みを方向付け、支える祝福なのです。神殿再建を促すハガイの言葉は、私たちにも何度も何度も再出発を促してくれます。