聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

2021-04-03 12:57:30 | ルカ
2021/4/4 ルカの福音書24章1~12節「復活を思い出しなさい」

 今日はイースター、復活祭。イエス・キリストが、十字架の死の三日目、週の初めの日の朝に復活されたことをお祝いする、一年で一番嬉しいお祭りです。その事は、新約聖書の四つの福音書が揃って伝えている、キリストの御生涯のクライマックスです。今日はルカを読みます。この朝、まだ復活を知らない女弟子たちが墓に来ました。十字架から取り下ろされた亡骸に塗るための香料を持って来たのです。しかしお墓に着いてみると、入り口の石が転がされ、中にあるはずのイエスの体がない。そこに「まばゆいばかりの衣を着た人」が二人、近くに来て、
5「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。6ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」8彼女たちはイエスのことばを思い出した。
 イエスの復活を最初に知らされたのは女性たちでした。彼女たちは復活したイエスを見たわけではありません。また、イエスの復活を期待していたわけではありません。この二人が
「ここにはおられません。よみがえられたのです」
と言ったから、「そうか」と簡単に信じたのでもありません。この二人が
「主がお話しになったことを思い出しなさい」
と言われて、イエスの言葉を思い出した。必ず罪人たちの手に引き渡されて、殺されて、三日目によみがえる、イエス様が仰っていたのはそういう事だったのだ[1]。その事を思い出したのです[2]。

 復活という奇蹟そのものは確かに信じがたい事、途方もない事です。そして、エルサレムの都に来る以前からずっとイエスはこの事を語っていました。ご自分が、人の手に引き渡されて、重罪人か、生きている価値のないかのように十字架で殺されて、三日目によみがえる。そんな途方もないことをイエスはずっと語っていました。この「必ず」という言葉は、神の救いのご計画の中で、こうするように定められている、必然である、という意味の言葉です。イエスは、人間を救う神のご計画の実現のために、人間の最も深い闇にまで降りて来られました。それによって、人を闇や死、罪や破綻から救い出して、神との関係を回復してくださるためでした[3]。

 この「必ず」という言葉を、ルカの福音書は18回も使っています[4]。続きの「使徒の働き」では22回[5]、合わせて40回も繰り返す、大切な言葉です。イエスはご自分が、神のご計画の中で、必ず神の国を宣べ伝え、最後は必ず十字架の死にまで自分を明け渡し、そうして必ず三日目によみがえる。それが神のご計画だ、という意味で「必ず・~ねばならない・することになっている」と語っていました。
 それだけではありません。その「必ず」には、18年も病気で腰が曲がっていた女性の
「束縛を解いてやるべきではありませんか。」
と言い[6]、放蕩して無一文になって帰ってきた惨めな息子を大歓迎して、
「いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」
と言い[7]、町中で嫌われていた取税人ザアカイに向かって
「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
と言う[8]。どれもこの「必ず」という言葉なのです。貧しい人を引き上げ、失敗した人を迎え入れ、嫌われ者の客になる。それがイエスの「必ず」でした。その究極の「必ず」が、イエスご自身が人に好き勝手に扱われて、ゴミのように殺されて、三日目に復活するという「必ず」です。その言葉通り復活されたのなら、他の「必ず」も、本当に成るのです。人には信じがたいことを、神がなしてくださる。人には出来ないことを、イエスは果たす。壊れていたものを修復して、死んだものをよみがえらせて、捨てられたものを喜びで満たしてくださるのです、必ず。
 この時の女弟子たちの報告を聞いても、使徒たちは信じませんでした[9]。でもその弟子たちにもイエスは近づかれたことが13節以下に伝えられます。イエスは彼らを追いかけてくださる。そして、夕食の席でパンを取って、裂いて彼らに渡されます。それはイエスが死の前夜、最後の晩餐でなさった行為、聖餐式を思い起こさせます。主は私たちにご自分を与えるため、十字架で裂かれました。そして三日目に甦られて、神の「必ず」に私たちを与らせてくださいます。死んだらおしまい、失敗したら弾かれる、過去は消せない、そういう人間の限界をひっくり返して、イエス・キリストは甦えられたのです。その事が、イエスが小さなパンを裂いて、弟子たちに渡した事で思い起こされました。このイエスこそ、私たちの神、世界の王です。

 この朝、彼女たちが用意した香料は不要でした。ある意味では無駄になりました。でも、その香料を用意してイエスの亡骸に塗りたいと思ったからこそ、彼女たちは最初に復活を知らされました。男の使徒たちは戯言(たわごと)のように耳を貸しませんでしたが、彼女たちこそ復活の最初の証人名簿になりました。彼女たちの思いは、香油のように豊かに香ばしく、主が喜びとしてくださった。
 私たちは小さく、分からないことだらけです。その私たちを、主イエスは愛して、私たちの罪も恐れも知って、私たちを命へと救ってくださいます。人のあらゆる苦しみも死も知る方として、そして、その死から復活された方として現れてくださいました。主は私たちの手にあるもの、俯(うつむ)いた歩み、諦めている現実にも、本当に真実に働いてくださいます。何一つ無駄とはなさいません。神だけが私たちになしうる不思議なことを必ずなしてくださいます。

「復活の主よ。死からよみがえり、あなたの言葉が必ず果たされることを覚えて、御名を褒め称えます。この世界の力や争い、また、私たちの心に染みついている予想よりも、あなたは力強く、深い慈愛に満ち、私たちの唯一の王であられます。主の善き御支配を信じて、私たちも良い心をもって、一つ一つのことに向かわせてください。ひとときの現実に打ちひしがれる時も、大きなあなたの御手に希望を置かせてください。主のパンと杯を戴いて、あなたを思い起こさせ、恵みに与らせてください。死や墓の前で泣く時も、復活の約束に慰めてください」

[1] ガリラヤにいた時の予告としては、9章22節(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)と同44節(「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」)の二つが当てはまります。ルカではもう1カ所、18章31~33節(さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。32人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」)も受難予告ですが、これはガリラヤではなくエリコ目前での言葉です。

[2] 23節「自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた」。

[3] そう決まっているからと渋々諦めて、十字架の死と復活を語っていたのではありません。

[4] 「必ずデイ」 ルカで18回(福音書の中では最多です。マタイ8、マルコ5、ヨハネ10。)2:49(すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」)、4:43(しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」)、9:22(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)、11:42(だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、12:12(言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」)、13:14(すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」)、16(この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」)、33(しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』)、15:32(だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」)、17:25(しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。)、18:1(いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。)、19:5(イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」)、21:9(戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」)、22:7(過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。)、37(あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」)、24:7(人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」)、26(キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」)、44(そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」)

[5] 使徒の働き1:16(「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。)、22(すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」)、3:21(このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。)、4:12(この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」)、5:29(しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。)、9:6(立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」)、16(彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」)、14:22(弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。)、15:5(ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。)、16:30(そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。)、17:3(そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。)、19:21(これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。)、36(これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。)、20:35(このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」)、23:11(その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。)、24:19(ただ、アジアから来たユダヤ人が数人いました。もしその人たちに、私に対して何か非難したいことがあるなら、彼らが閣下の前に来て訴えるべきだったのです。)、25:10 すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことをしていません。)、24(フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です。)、26:9(実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。)、27:21(長い間、だれも食べていなかったが、そのときパウロは彼らの中に立って言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて[直訳:聞き入れるべきだった]、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。)、27:24(こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』)、26(私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」)

[6] ルカ13章15節。

[7] ルカ15章32節。

[8] ルカ19章5節。

[9] 「使徒」は、ルカで6回出て来ますが、マタイ、マルコは1回ずつ。「使徒の働き」に繋がる、教会の歴史として、ルカは最初から「弟子」たちを(将来の)使徒と呼んでいます。6:13、9:10、11:49、17:5、22:14、24:10(24:11は意訳)。しかし、その使徒が最初の復活の知らせを信じず、最初の証人は女たち(当時、女性は証人として認められませんでした。)であった事実は、スキャンダルであり、教会を謙虚にならせる記述です。

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ルカの福音書24章13~35節「本当に主はよみがえった」イースター礼拝

2018-04-01 15:58:17 | ルカ

2018/4/1 ルカの福音書24章13~35節「本当に主はよみがえった」イースター礼拝

 主イエス・キリストがよみがえられた。そのお祝いがイースター(復活節)です。これはキリスト教会の信仰の中心であり、キリスト教の福音の核心です。毎週日曜日がイエスの復活のお祝いなのですが、イースターは特にその事を味わい、覚え、召天者記念と重ねる礼拝です。

1.近づかれるイエス

 聖書に書かれてある伝道の様子を見ていきますと、使徒パウロやペテロが

「イエスと復活を宣べ伝えた」

という言葉が何度も出て来ます[1]。またコリント人への手紙第一にはハッキリと

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(1コリント十五3-5)

と書かれています。キリスト教は、ただ神の愛とか「十字架を信じれば救われる」以上に、キリストが私たちのために十字架に死に、よみがえられた復活が土台です。キリストの復活なしのキリスト教なんて、何の意味も無いのです。キリストが私たちのために十字架の苦しみまで味わって死なれて、その三日目に本当によみがえられた、これがキリスト教の福音です。

 今日のルカの二四章でも、復活の午後にあったエピソードを語りながら、その復活のエッセンスが綴られています。しかしそれが、高尚な事実とかキリスト教の奥義というものではなく、もっと温かい、生き生きとした出会いだったと、ユーモアさえ込めた語り口で伝えてくれます。キリストがよみがえられたことは、信じがたい奇蹟ですし、恐れ多い神の勝利でもあり、語り尽くせない意味があります。けれども小難しく近寄りがたいことではなく、実に、キリストが私たちに近づいて、私たちとともにおられる、という、身近で頼もしい告白です。私たちの暗く塞いだ思いを、心燃やされて、喜んで駆け出させずにはおれないようにしてくれることです。

 復活は決してセンセーショナルに、派手に知らされたのではありません。むしろ、この二四章は墓が空っぽで、弟子たちが戸惑うところから始まっています。そして、その中から一抜けたとばかりに離れていく二人の所に、イエスがそっと近づいて、一緒に歩いてくださって、話しかけ、丁寧に御言葉を教えて、気づかせてくださるのです。信仰の篤い、疑いや迷いのない者ではなく、この二人にイエスは近づいて、引き戻してくださった。この話そのものが、私たちにとって自分を重ねることが出来る、恵みに満ちたものなのです。

2.聖書全体に苦しみと栄光が

 この二人は最初イエスが分かりませんでした。

「二人の目はさえぎられていて」(16節)

というのはイエスだと分からない、というだけでなく、弟子たちの考えが神の深いお考えとは全然違う方を向いている状態のことです。神から離れた人間の考えは、神がその目からさえぎるものを取り除けてくださらない限り分かりません。ですから19節から24節で弟子たちはイエスがなさったことをかなり正確に伝えているのですが、復活の知らせ以前に、十字架の死も不可解だと言っています。それに対してイエスは25節から

「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

と仰います。イエスの言い方は強く感じますが、イエスによれば、預言者、つまり聖書全体が、キリストは必ず苦しみを受けて、それからその栄光に入るというメッセージを語っているのです。神は苦しみや十字架とは無縁の方ではなく、人間のために苦しみ、御自身に痛みを引き受ける事を通して、私たちを救ってくださるお方です。苦しみをすっ飛ばして、栄光を輝かせる、という苦労知らずの栄光ではなく、これ以上無い苦しみや屈辱、裏切りや孤独さえ味わい知ってくださって、そこから命を初めてくださることこそが、神の栄光なのです。イエスは、こんな事を道々教えるよりも、さっさとご自分がイエスだと正体を明かされた方が、手っ取り早い説得になったと思うのですが、最後まで正体を明かさず、丁寧にさえぎられた目を開いてくださるのです。

 しかし、目的の村まで来てもイエスの話は終わりません。まだ先まで行きそうです。イエスは彼らの鈍感さに、どこまでも付き合われるつもりだったのでしょうか。しかし彼らが

「一緒にお泊まりください」

と強く勧めてイエスは宿に入られます。ここには二人の弟子が、暗い顔つきで仲間から去ろうとしていた二人が、何か強い願いを持つようになった。イエスに「あんたは知らないのか」と言った二人が、イエスの話をもっと聴きたいと、強く願って引き止めるように変わったことが窺えます。私たちが神を信じる、というのも、神がなさることに委ねて、ただ従順に、無責任になるのではなくて、強い願いを持つ、時に食い下がってでも行動を起こすようになることです。そういう変化が、この二人の中にも起きています。

 そして、イエスはそこで食卓に着くと、パンを取って神をほめたたえ[2]、裂いて彼らに渡されました。すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かったのです。ここでは明らかに、今日も私たちがこの後します「主の聖晩餐」「聖餐式」に通じる言葉が使われています。イエスがパンを取って、祝福し、裂いて、彼らに渡された。それは、イエス御自身が十字架でその体が裂かれる死を経験なさったこと、そして私たちがその死に与って、命を戴くことの証しです。

3.心燃やされる

 弟子や私たちはそれがよく分からないとしても、これをなさるイエスは十分に理解しておられたはずです。イエスがパンを取って裂かれる時、御自身の十字架の苦しみ、痛み、恐ろしい体験を思い出されたでしょう。それは

「祝福」

「神をほめる」

気分とは真逆のようです。しかしイエスはパンを取って裂かれて、弟子たちに与えながら、そこにこそ神の御業を託されたのです。神は苦しみを避けるより、御自身を与えることで私たちに命を下さる。神の栄光は、神が御自身を惜しみなく私たちに与えて、私たちのためにご自分を分けて与えてくださることも厭わない方であることにあります。私たちのために、御自身が痛みを負うてくださって、それによって私たちを救われる。私たちのために御自身を差し出して、私たちが命を得る。ここでイエスは、どんな思いでパンを裂き、弟子たちに与えられたのか。それは決して苛立ちでも押し売りでもなくて、祝福、神への賛美だった、ということに深く思いを巡らされます。

 そして、このパンを受け取った時、弟子たちの目が開かれました。イエスだと分かりました。するとイエスの姿は見えなくなってしまいます。なんとまぁ、です。しかし二人は言います。

32…「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 イエスに出会う前、暗い顔だった二人はイエスが聖書を説き明かしてくださっている間に、心燃やされるようになっていました。もう日も暮れていたでしょうに、直ちに立ち上がって、夜道をエルサレムに引き返したら、そこにいた弟子たちもイエスの復活を知って喜んでいる姿がありました。イエスが二人に近づいてくださったことで、彼らはこの仲間に引き戻されて、自分たちの体験も分かち合うことが出来たのです。ルカの福音書が最後に示すのは、弟子たちが神をほめ称える姿です。その神は、どこか遠くで全世界を支配することに忙しい神ではありません。私たちのためにこの世界に来られて、命を与えてよみがえったイエスです。イエスの十字架と復活は、神が私たちの中に来られて、私たちに近づいて、命へと導いてくださる、という証しなのです。今からその主を覚える聖餐式をします。主が御自身を裂かれて、そうして私たちに命を下さった事を、どなたもご一緒に覚えて、その愛に心燃やされたいと願います。

「私たちを愛したもう命の主よ。あなたは十字架と復活によって栄光を現されました。惜しまない御愛が、私たちの心を生き返らせることを明らかになさいました。今からの聖餐によって、そしていつもともにおられて、この恵みを教え続けてください。そして苦しみや悲しみに砕かれるこの歩みでも、私たちが心から自分を差しだし、命を活かす御業に携わらせてください」



[1] 使徒四2、十七18、他。

[2] 新改訳2017は「神をほめたたえ」ですが、他の翻訳ではほとんどが「パンを取って祝福し」です。原語の「ユーロゲオー」は「ほめたたえる」「祝福する」のどちらにも訳せます。Blessと同じです。対象が神だと「ほめたたえる」、人間やものだと「祝福する」と訳せます。(もちろん、人間を「ほめたたえる」という意味にもなり得ます)。「新改訳2017」はここを「神をほめたたえ」と理解しています。このような解釈は他の翻訳聖書には見られませんので、その理由を現在問い合わせています。

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受難週夕拝説教「イエスの祈り」ルカ22章39-46節

2018-03-25 20:59:06 | ルカ

2018/3/25 受難週説教「イエスの祈り」ルカ22章39-46節 

 ハイデルベルグ信仰問答では先週から「祈り」について学び始めました。そこで受難週の今日は、十字架をイエスの祈りからお話しします。最初は十字架前夜の祈りです。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

 イエスは、十字架の前夜に「最後の晩餐」の後、郊外の「ゲッセマネの園」で祈られました。十字架は本当に残酷な処刑道具です。手足を釘で打たれ、裸で十字架にぶら下げられて放って置かれる刑です。人間の-私たちの-残酷さ、憎悪や暴力性が暴露されています。しかも、そこでイエスは、十字架にかかる誰もが味わう苦痛だけではない、神の子としての特別な痛み、私たちの贖いの生贄という大変さも味わうことをご存じでした。それは私たちには想像も説明も出来ない、何かとんでもない痛み、悲しみ、恐れです。イエスは決して痛みにも平気な超人ではありません。ヘラクレスやアキレスとは違い、私たちと同じ人間でした。痛み、苦しみ、悲しみを感じるお方でした。そしてイエスは、その思いをここでも正直に、率直に、父なる神に祈られたのです。

 私たちも率直に自分の思いを、天の父に打ち明けることが出来ます。今更のような願いさえそのまま祈って良いのです。叶って困る祈りは止めた方が自分のためですが、迷いや不安もそのまま祈ることを教えられます。それは不信仰ではなく、神への信頼故に可能なことです。だからこそ私たちも

「しかし、私の願いではなく、あなたの御心がなりますように」

とも祈るのです。正直に祈りつつ、神はもっと尊いご計画がおありだ。「御心がなりますように」と祈る時、私たちは自分の肩の重荷を下ろすのです。

 次に、イエスが十字架で祈られた祈りを三つ見ましょう。まず有名なこの祈りです。

ルカ二七34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

  十字架で痛くて苦しい時です。体がねじ曲がる激痛に加え、人々は嘲ったり、自分の服をくじ引きしたりしています。その時、イエスがどんな断罪や罵りを吐くことも出来たでしょう。何も綺麗事や格好付けなんて出来ない苦しみなのです。しかしイエスはこう祈られました。それはこれこそイエスの本心、本音だったからです。人間が何をしているか分かっていない。あらゆる暴力、人を嘲り傷つけ、罪人を罰するのが正義だと思っている、そういう暴力的な人間のただ中に、イエスは来られました。傷つけ合い、孤独で望みのない人たちと一つになってくださいました。人の間違いや上辺の生き方よりも、その底にある無意識の私たちの存在そのものを、赦して欲しい、父に受け入れて欲しい、それを本心から願っておられました。十字架の恐ろしい苦悶に、理性や建前が引っぺがされた所で、イエスは私たちの赦しを祈ってくださいました。

 この祈りの中に包まれて私たちは今ここにいます。自分が何をしているのか、何を祈っているのか、謙虚に省みながら、祈りたいと思います。また、私たちも他者を赦す祈りをし、執り成して祝福を祈るよう招かれています。

 三つ目のこれも有名な言葉です。

マタイ二七46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 これも不思議な言葉です。私は、先のゲッセマネの祈りを重ねて、このままに読んでいます。十字架の苦しみで、イエスは、救い主として私たちの代わりに神に見捨てられなさった。神に見捨てられる孤独が、どんなに恐ろしく、淋しく、堪らないものであるか、私には想像も出来ません。ただ、この時イエスがその叫びを短く叫ばれました。十字架の上で最初から最後までずっと祈ったり愚痴ったり恨めしがったりもしてはいませんでした。しかし、その中でも最後に、大声で

「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ばずにはおれない出来事があって、それをイエスは憚ることなく祈ったのです。そこに、私は限りない慰めを見出すのです。

 時に、神に見捨てられたような思いになることがあります。その時、私たちはどう祈れば良いのでしょう。イエスとともに

 「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」

と祈って良い。そんな祈りは不信仰だと神を怒らすんじゃないかとか、こんな祈りを他の人が聞いたら躓かせるんじゃないかとか、そんな考えをせずに、そのまま祈れば良いのです。イエスと一緒にそう祈れば良いのです。そして、イエスと一緒に祈る以上、私たちは決して神に見捨てられてはいないと気づくのです。なぜなら、本当にイエスは私たちの代わりに神に見捨てられてくださったのです。イエスが私の代わりに神に見捨てられた以上、私は決して神に見捨てられることはない。そう信じるのです。

ルカ二七46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 最後にイエスの十字架で息を引き取られた時の祈りです。イエスの最後の言葉がこれでした。これをイエスは大声で叫ばれました。決して、穏やかにお淑(しと)やかにではありません、絶叫したのです。私たちの最後の時、穏やかに微笑みを浮かべて、神に「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と祈れたら、それはそれで良いでしょう。しかし、そんな平安はどこにやら、不安や死にたくない思いなど複雑な色々な思いに襲われるても、それでも私たちは

「父よ、私の霊を御手に委ねます」

と必死に祈るような、そんな祈りでも良いのです。どんなボロボロな時にも、その私たちの霊を受け取ってくださる方がいる。死の時だけではなく、今ここでの歩みでも、私の霊をその手に委ねることの出来るお方がいてくださいます。実際この祈りは初代教会最初の殉教者ステパノが、石打ちで殺される間際に真似て祈りました。そこからも、イエスの祈りは、私たちのための祈りだったと分かります。イエスの祈りを通して、私たちの祈りの筋道を知るのです。

 主イエスの四つの祈り。

 私たちも正直に心を打ち明け、「御心がなりますように」と祈りましょう。

 自分のしていること、願っていることを吟味しつつ、そして私たちも他者のために赦しを祈りましょう。

 神に見捨てられそうな思いもイエスが引き受けてくださったことを覚えましょう。

 私たちを受け取ってくださる方に委ねて祈りましょう。

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ルカの福音書22章39~53節「剣でなく癒やしを」棕櫚の主日

2018-03-25 20:53:09 | ルカ

2018/3/25 ルカの福音書22章39~53節「剣でなく癒やしを」棕櫚の主日

 もう14年前、イエスの最後の12時間をリアルに再現した映画「パッション」が公開されて話題になりました。リアルすぎたあの映画ですが、その冒頭は、このオリーブ山で祈るイエスのお姿からでした。今日の逮捕の場面から、主の十字架の死に直接結びつく道が始まります。

1.オリーブ山で

 ここでイエスを取り巻いて盛り上がっていた、威勢の良い弟子たちもサッと姿を消してしまい、イエスが一人残されて、敵対する勢力に取り囲まれていく、そういう大きな曲がり角です。

 このイエスが祈っていた場所の名前は、このルカの福音書には記されていませんが、マタイとマルコの福音書では

「ゲッセマネ」

と名前が伝えられています。他にもルカの福音書には省かれていることがたくさんあります。43節44節も括弧や星印がついて欄外にも

「初期の写本には43、44節を欠くものが多い」

とあるように、ルカの福音書には元々なかった。後から、「ここはもうちょっとイエスの苦しみを強調しなければ」と写字生が書き加えたようです。逆に言えば、ルカはそれぐらいイエスの祈りの苦しみではないものを強調したかった。地に伏して、苦しみもだえて祈ったとか、一時間ずつ、三度も祈った、という事は省略します。代わりに、イエスが凜として祈っている姿に、私たちの目を向けさせます。そして、祈った後、弟子たちの所に行くと、彼らは眠り込んでいましたが、それも

「悲しみの果てに」

ととても同情的です。眠っているのが怠惰だとか不信仰だとか失望したとは仰いません。悲しみの果てに眠り込んでしまったのですが、悲しみの果てにこそ誘惑に陥りやすいので、起きて祈っていなさいと言われます。それは、弟子たちを本心から思ってのお言葉です。イエスはこのゲッセマネでも弟子たちのことを深く心にかけておられます。イエスこそは実際、本当に担いきれないほどの苦しみ、悲しみ、恐れに向き合っておられますのに、イエスは終始、弟子たちを思いやり、憐れみ、大切に思われている。そういう姿が、ルカではとても印象づけられるのです。

 弟子たちのことだけではありません。そこにやってきた群衆、捕らえるために押しかけてきた人々に対してもイエスは、人と人として向き合うのです。ユダは十二弟子の一人でしたが、イエスを裏切って先頭に立ち、イエスに口づけしようとしてきました。でもイエスはユダに言われます。

「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」。

 口づけ、友情や愛の挨拶に見せて、それはイエスを売り渡し、群衆に逮捕させるための方法でした。その偽善、欺きをユダに投げかける。しかし、もっと厳しい非難や罰の言葉だって言えたでしょうに、ユダのあり方を深く問う、その心に気づきを求める、こういう言い方をなおイエスはなさるのです。

 私たちの発想はこうではありません。それはこの弟子たちの姿です。剣を取り、斬り掛かる。そしてそれがイエスにとっても当然だと思い込んでいます。しかし、イエスは

「やめなさい。そこまでにしなさい」

と言われて、その人の耳に手を伸ばして、その耳を癒やされました。

2.剣でなく癒やしを

 それは耳を斬られた本人にも、弟子たちにも全く意外な展開でした。決してイエスは「優しくて人のいい方」ではありません。非常にストレートです。52節からでは押しかけてきた指導者たちに

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。

53わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手を掛けませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

と仰います。恐れることなく、でも恨みがましい皮肉でもなく、ストレートに彼らの矛盾、恐れ、暗闇の深さを指摘されます。それと同時に、イエスは剣に剣で返したりせず、裏切りに罵倒を返したりせず、まっすぐな言葉で問いかけられました。手を伸ばして癒やしを与えられました。癒やしの力がある方には、この人々の健康や命を取り上げることも朝飯前でした。しかしイエスは彼らに真っ直ぐに向き合われます。剣よりももっと強力な武器、憐れみで暴力に抵抗なさるのです。

 ここでは、イエスの意志、ブレのない確固たる姿勢がとても強く感じられます。しかしそれは、強く頭ごなしの、「上から目線」の権威ではありません。人を愛され、だからこそウソや暴力や傷を放っておけない憐れみが、ぶれないのです。人の罪と戦うよりも、人の罪に真っ直ぐ踏み込んでこられて、そこで苦しむ私たちと一つとなるイエスです。それは簡単なことではありません。とてつもなく苦しく恐ろしい体験です。だからイエスは先に

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」

とも正直に祈っています。恐れもあり、緊張やプレッシャーに押し潰されそうな思いも隠されません。しかし、それとともにイエスは父の御心を最優先しておられます。それは、ご自分がこれから命を十字架に捧げ、ご自分の死という犠牲によって、神と人との間の和解、罪の赦し、新しい命を下さる御心です。父が私たちを愛されている御心。力や暴力や嘘の闇から悔い改めて、神に向き直り、本当の口づけや友情、本当の癒やし、本当にイエスと一緒にいる交わりを与えたい。それがイエスの強い願いでした。

3.「わたしの願い」と「みこころ」

 イエスはここで、裏切り者のユダや剣や棒を持つ群衆、本性を現した祭司長たちにさえ、真摯に語りかけています。それは真っ直ぐな非難です。この場での悔い改めとか回心も期待していません。いつか気づく日を願うような、一石を投じるような真摯な言葉でした。ユダの裏切りを知りつつ、ユダに「裏切り者」のレッテルを貼りません。群衆をも「敵」と見なさず、傷ついてもいい存在とは思われません。ご自分の逮捕や苦難、十字架の苦しみ、そして、死に至らせようとしている相手と分かっていながら、イエスはそれでも人を敵と見なしません。

 勿論、ユダの行為は裏切りです。群衆の行動は反逆です。私たちが神を神とせず、神ならぬものを崇める生き方は重大な冒涜や背信です。神の怒りに値する罪です。しかし神は人間に怒りの鉄槌を下されません。人間を「罪人」「敵」とレッテルを貼りません。それよりもそのレッテルを剥がすために、神は御子イエスを遣わして、十字架に至る道を歩ませました。神の側でとんでもない犠牲を払ってでも、私たちを回復することを選ばれるのです。問題を不問に伏すのでなく、神が全ての犠牲を払うことで、私たちとの問題を解決なさるのです。そのイエスの十字架によって、私たちには「イエスによる神の子ども」という立場が与えられたのです。

 眠りこけたり、悲しみに暮れたり、祈りを忘れて誘惑に陥る…その私たちを、イエスは見捨てるなんて思いもよらず、神との関係に立ち戻らせてくださいます。私たちを愛されて丸腰で近づいてくださり、それによって私たちが恐れて強張っている暴力を武装解除なさいます。そして自分にも他者にも「敵」「ダメな奴」とレッテル貼りを止めさせてくださいます。自分を守るために力や知恵は必要ですが、恐れから剣を振り回す暴力は解決より傷を生むだけです。

 世界は罪で深く病んでいます。信じて裏切られたり、宗教に騙されたり、結局最後は暴力でも仕方ないと思うのも無理はない出来事が多々あります。イエスはそういう人間の世界に来られ、裏切られ、敵意を向けられる歩みまで飲み干されました。絶対一口も飲みたくない苦いその杯を、イエスは飲み干され、人の心の奥深い苦しみをともに味わって、そこから癒やしを始められます。復讐とか不信感に閉じ籠もりそうな人の所に、イエスは来られ、ともにその痛みを味わわれます。人の罪や孤独、悲しみや恐れのどん底でもともにおられ、そこから癒やしを始められます。私たちにも、見せかけや敵対心を捨てて、正直になり、祈るように言われます。剣や言葉で傷つけるより、手を差し伸べ、人として向き合うあり方を示されました。それが十字架の道への踏み出しでした。イエスの十字架は、神の愛だけでなく、弟子や群衆や私たちの考えにも、本当に深く新しく尊い解決、癒やしを示す道だったことを味わいましょう。

「主の十字架への道は、弟子も敵対者も、驚くような決断でした。そしてそれが、あなたの人間への限りない愛と憐れみから来ていたことを今日端々に覚えました。その主の憐れみに気づかされて、あなたの御言葉に問われながら、あなたの御手に癒やされながら歩ませてください。私たちをあなたの平和の器として、心も唇も目も手も言葉も愛と知恵で強め、用いてください」

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ルカの福音書19章37~48節「神の涙」 四旬節説教

2018-03-18 21:03:06 | ルカ

2018/3/18 ルカの福音書19章37~48節「神の涙」四旬節

 今日から三回、「使徒の働き」から離れます。聖書の春の祭り「過越の祭り」は、キリストが十字架に架かる日となりました。その三日目にキリストはよみがえって、今に至るまで、過越祭を基準として、その週を受難週、次の日曜日を復活祭として教会は祝っています。来週がその受難週ですが、今日はその始まりに当たるキリストのエルサレム入城を見たいと思います。

1.王の凱旋

47祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていた。

 彼らは木曜の夜中にイエスを逮捕して、金曜に十字架刑を果たします。まだこの時点、日曜日は平和で、イエスがエルサレムに近づき、弟子たちは喜んで、今こそイエスがエルサレムで王となられると期待に溢れていました。そこで彼らは大声で神を賛美して、歌い続けました。

38こう言った。「祝福され、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 弟子たちはイエスを

「主の御名によって来られる方、王」

とハッキリ言っています。神が遣わしてくださると約束している王、メシヤ、平和を完成させてくださるお方だ、と歌っています。まだこの時点では彼らの理解は不十分でした。勘違いしていることもまだまだありました。けれども精一杯、幼稚なりに精一杯、イエスが王だと信じて、イエスに期待しています。ここに加わった人々は、金曜日にはイエスから逃げていきました。逮捕されて余りに惨めな姿を見て失望して、憎さ百倍に

「十字架につけよ」

と叫び続けた人もいたでしょう。十字架につけられたイエスを見て、嘲った人々もいたようです。教会でもこの時の

「祝福あれ」

と叫んだ人が金曜には

「十字架につけよ」

と罵声を浴びせた事実を取り上げて、自分たちの信仰や賛美はどうかと振り返ることを大事にしてきたように思います。それはそれで大事なことです。同時に、聖書はそうした冷めた見方ではなく、この不十分な歌を受け止め、大切なものとしています。

39パリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。

40イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

 この弟子たちの言葉を黙らせようという声にはとても強い言い方で撥ね付けるのです。この弟子たちの賛美をイエスは真実なものとして受け入れておられるのです。つまり、イエスは王であり、平和をかなえて、栄光がいと高き方(神)に捧げられるようにしてくださる方です。ただそのやり方は、パリサイ人や祭司長や、弟子たちや私たちにも思いも付かないものでした。

2.イエスは泣いて

 エルサレムに近づいただけでも興奮した弟子たちは、エルサレムを目にして、神殿の輝きも見えて、感極まったでしょう。しかし意外にもイエスは

「泣かれ」

ます。そして言われます。

42もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」

そして、やがてエルサレムに敵が攻めてきて、エルサレムを粉微塵に打ち壊して、その全ての石も、中にいる子どもたちも地に叩き付けられる日が来る。

「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」

 そう言われるのです。実際これは紀元70年にローマ軍に包囲されて、エルサレムが陥落して現実になりました[1]。その時、すべての石が崩されて、大きな音がしたでしょう。40節の

「石が叫びます」

はその事なのでしょう。平和の王であるイエスを受け入れず、その声を黙らせようとした結果、エルサレムは戦争に完敗して、石が崩落の叫びを響かせる日が来る。それをイエスは嘆かれて、泣かれたのです。

 イエスはこの将来を見据えて、涙を流されました。決して、彼らの不信仰へのさばきとか、のろいとして冷たく宣告されたのではありません。泣かれたのです。平和に背を向けている人間のために、涙をほとばしらせて、嘆かれる。それがイエスという王です。平和の王イエスは問題をたちまち解決して、敵を打ち倒したり戦争を力尽くで止めさせたりすることも出来るでしょうに、無力な人間のようにさめざめと泣いておられます。イエスは上辺に隠れた人間の思い、願い、頑なさ、プライドや自己中心、平和とは相容れない心を見て泣かれます。神は全知全能で、悲しみや悩みとは無縁の方と思いきや、恐れ多いことにイエスは涙される王です。人の不十分さを受け入れ、人の罪のもたらす悲惨のために慟哭されるのです。

 しかし、そこにこそ平和の鍵があります。神がこの世界のために心を裂かれている。私たち人間の問題のために悲しみ、嘆いておられる。だからこそ、イエスはこの世界に人となって来ることも厭われませんでした。そして人間の痛みの最も深い所にまで降りて来て、十字架の苦しみや恥や孤独、恐ろしさを味わい尽くされました。それは、イエスが私たちを本当に愛しておられるからです。私たちが平和の道でなく、滅びや争いに生きることを真剣に嘆き、本気で嘆いて下さっているのです。その憐れみこそ私たちの希望です。神の涙には力があります。

3.「わたしの家は祈りの家」

 イエスはこの後、宮に入って、神殿で商売をしていた人々を追い出し始めます。神殿では、献金のコインや生贄の動物が、高い値段で売られていました。それ以外のものは受け入れられなかったので、ボロ儲けでした。そしてその両替商や家畜商人たちの店が広く場所を取って、外国人や遠くからの巡礼者たちを塞いでいたのです。それに対してイエスは激しく怒られて、

46「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にした。

と非難されるのです。

「祈りの家」

 これは旧約聖書イザヤ書56章7節の言葉ですが[2]、そこでは外国人も宦官も、どんな人も主がその礼拝を受け入れ、ご自分の所に喜んで迎え入れて祝福してくださると言われています。

「わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる」。

 ここでの「祈りの家」は、そこで親しく神様と語らい、そこが自分の居場所、「我が家」としていつまでも住まう、という意味でしょう。誰からも邪魔者扱いされず、誰をも余所者扱いしないで、神が受け入れてくださった家族として過ごす。「ここは永遠にあなたの祈りの家であり、私の祈りの家。一緒にお祝いしましょう」そういうあり方です。それこそ

「平和」

の姿です。

 実際のエルサレム神殿でなされていたのはその逆で、商売であり搾取でした。祭司長やエリート、権力階級と結託した金儲けの構造でした。神が約束された平和は表向きだけになって、その町が歩んでいたのは、平和への道ではなく、自分たちの繁栄、権力構造の安定への危なっかしい道だったのですね。でもそれは最後には破滅になるだけです。それをイエスは知っておられたからこそ、遠慮なく商売人たちを追い出されたのです。そして、宮の中で人々に神の平和を教えられました。権力者には耳障りな話でしたが、民衆は熱心に耳を傾けました。それは人に「私の祈りの家」を与えて、私たちが互いに受け入れ合い、生かし合う、本当の平和を下さりたい方の言葉でした。

 イエスという王は、人のために嘆き、聖書の御言葉を与え、平和へと導いてくださる王です。私たちはイエスを王として告白します。理解は不十分で、まだ間違った期待もあるでしょう。今でも平和よりも繁栄を、苦しみより楽や自分の安全を求めるものです。神のなさることに戸惑い、反発するでしょうし、この世界の戦いで翻弄されることもあるかもしれません。その度に私たちは、キリストが御自身の命を捧げてくださった意味を再確認するのです。主が来て下さった。王として来られ、涙を流され、十字架の死をも引き受けて下さった。その方がよみがえって、今も生きておられ、私たちを治めておられます。私たちとともにおられ、平和の道へ導いてくださる。その約束を確認する受難週としたいのです。

「平和の王、私たちの主、力あり私たちのために涙も命も惜しまれない主よ。あなたが私たちの人生に来られた意味も、最初はよく分かりませんでしたが、あなたが平和の道を示し、ともに歩んでくださることを感謝します。どうぞ私たちの生活も心も整えて、永遠の家への道を、ともに生かし合い、ともに泣き、ともに喜びながら、平和の器とされて歩ませてください」



[1] その時にイスラエルの国家は終わって、ユダヤ民族は二千年近く放浪を続けたのです。その放浪の始まりとなったのがエルサレムの崩壊でした。

[2] イザヤ書五七章4~8節「4なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

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