聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/6/27 マタイ伝21章28~32節「思い直して行けばいい」

2021-06-26 13:36:51 | マタイの福音書講解
2021/6/27 マタイ伝21章28~32節「思い直して行けばいい」

 徳島も葡萄の収穫の時期を迎えたとのニュースを目にするようになりました。今日の箇所も「葡萄園」、次の33節からも、20章でも葡萄園が出て来ます[1]。聖書の舞台では、私たち以上に葡萄は生活の必需品、葡萄畑は日常的だったでしょう。父親が息子に
「子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ」
と言い、息子が応えるのはよくある親子の会話かと想像できます。
29兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。30その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。31二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。…
 以前の日本語訳は、兄は「行きます」と答えたが行かず、弟が「行きたくありません」と答えたのに行った、としていました[2]。欄外にある通りそんな写本もありますが、今ではこちらが本来だと考えられています。「兄だから気難しい、弟だから調子が良い」なんて読み方は危ういと痛感する変更です。大事なのはどちらにしても後からでも思い直して出かけることです。
 この話が語られているのは、都エルサレムの神殿でのことです。イエスが宮で教えていたところに、祭司長や律法学者、当時の宗教界の指導者、権威たちがやってきて、イエスを厄介払いしようとした時です。イエスは逆に彼らの心の頑なさを責めました。それに続いて、今日のこの単純な兄と弟の二つの対応から、イエスは祭司長たちの問題を鋭く問われたのです。
31…「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。32なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人や遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
 取税人や遊女、当時の社会では最も卑しい生き方とされた人たちは、伝えられた義の道を信じた[3]。それは後からでも父の願ったとおりにした、先の兄と弟の話の兄と同じ。あなたがたは後から思い直すこともしていないではありませんか、と考えさせているのです。
 兄がどうして「後になって思い直し」[4]たのかは分かりません[5]。理由はともかく、思い直したのです。ただ悪いと思った、行動を変えた以上に、考えを変え、見方を変えたのです。もしかしてこの話を聞いて「行きますと言って行かないより、行きませんと言って行く方がましだ。でも、最初から「行きます」と言って行くのが一番だ」と思っていないでしょうか。それこそ律法学者たちの教えでした。我々は最初から従っている。取税人や遊女、汚れ仕事をする人、律法を守れない人は恥じ入り、懺悔し、後悔すべき。そういう「思い」でした。それでは取税人や遊女は踏み込めません。『反省させると犯罪者になります』という本もある通りです[6]。
 これとは違う「義の道」を洗礼者ヨハネは示しました。それは、どんな過去がある人も招く神の福音でした。神が王となってくださる。だから立ち帰り、洗礼を受けなさい。新しくしていただいて、神の子どもとして生きなさいと招きました。律法学者から教えられていた、過去が烙印になるような「思い」そのものを、神の「思い」へと思い直させてくれました[7]。再出発がある、思い直して歩み始めればいい、決して「最初からそうしたら良かったのに」などと責めない。そういう神の「思い」に触れて、取税人や遊女、最も蔑まれる生き方をしてきた人々は、ヨハネやイエスが語る生き方に踏み出して、変わることが出来たのです。悔い改めとは、自分を責めることではなく、神の思いを知らされて、考えを変えて戴くことです。神がそのようなお方だと知る時、私たちの思いが直されて、生き方が変わります。神の元に帰るだけでなく、神の元から送り出されて、堂々と生きていくことが出来るようになります。
 父の言葉は「私の所に来なさい」より
「ぶどう園に行ってくれ」
でした。ぶどう園なんて私たちには特別な仕事か観光ですが、当時は日常的で、大切で、でも楽ではなくて「行きたくありません」とも思う、けれど後には喜びの収穫が待つ出来事でした。この言葉をイエスは示されます。イエスは「わたしに来なさい」とも言われますが、私たちを日常へと送り出される方でもあります。毎日の仕事、生活へ、「行って働いてくれ」と遣わされます。神が創られたこの世界で、葡萄やいのちを育て、人が養われ、罪ある者もやり直してともに喜んで生きる。その神のいのちの働きを私たちも担うのです。「神の愛を信じます、神の働きを信じます」と言うだけでなく、神がいのちを育て、罪ある者を何度でも再出発させる方の「行って働いてくれ」を聞くのです。正直に「行きたくありません」と言いたい思いも、主は受け止めてくださいます。そのような主だからこそ、私たちは自分も、取税人や遊女、罪人や烙印を押された人も、愛し、遣わしてくださる恵みに思い直して、毎日、起きて自分の生活に出て行けるのです[8]。

 「前からちゃんとしておけばよかったのに」と言われたら、誰も立つ瀬はありません。神もそう仰るお方ではなく、思い直すことを喜ばれ、助けてくださるお方です。どんな人ももう一度、何度でも、歩み出させてくださいます。その道をともに歩いてくださいます。私たちの思いが、過去に囚われるより、思い直すことを喜ばれる神の思いに向くなら、同じように生活し、働いているようでも、それは深い所でどんなに大きく変えられるでしょうか。この恵みに何度でも思いを立ち戻らせ、ここから行って働いてきてくれ、とイエスは言われます。「行きます」と言う言葉より、「行きたくない」なら正直に言って、本当に出て行くのを待っています[9]。

「造り主なる主よ、私たちの唇も足も、心も目も、日々新しくしてください。間違いにも赦しにも開かれた柔らかな心を下さい。行きたくない思いをもあなたは受け入れておられます。生きる辛さ、赦しの難しさもご存じです。だからこそ主よ、あなたが贖い主、癒やし主であり、今も創造者、私たちを変え、養う方であるとの告白に立ち戻りたいのです。世界には生きる価値があり、私たちそれぞれの働きがあなたの祝福を担うと信じて、ここから出て行きます。」

脚注:

[1] 20:1(天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。)、21:33(もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。)とここの三回、イエスはぶどう園を例え話の舞台設定にしています。ぶどうのモチーフは9:17(また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」)と最後の晩餐の26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」)でも繰り返されます。マタイ以外では、有名なのがヨハネの福音書15章です。15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。4わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

[2] 欄外注参照。新改訳聖書は第三版まで(29兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。30それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。)、口語訳聖書もこちらの本文を採用していました。新共同訳、聖書協会共同訳は、この新改訳2017と同じ本文を採用しています。

[3] 取税人や遊女たちが信じた。欄外ではルカ7:29、37-50、3:12が引用されている。マタイでは大前提? 詳述はどこにもありません。

[4] 「思い直すメタメロマイ」は、27章3節(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。)で「後悔」と訳されているのと同じ言葉ですが、「後悔」とは大きくニュアンスは異なります。

[5] 父親に悪いと思ったのか、父に従うべきだと思ったのか、葡萄畑の仕事の大切さを思い出したのか、は問題にはされていません。そもそも、最初に「行きたくありません」と言った理由も分かりません。父親への反発か、別の用事があったのか、これまでぶどう園で嫌な思いをしたのか、それも問題ではありません。いずれにせよ、「後になって思い直し、出かけて行った」が大事なのです。

[7] 「これは「メタメロマイ」というギリシャ語で、『聖書と典礼』の注書きにもあるように「回心(メタノイア)」につながる言葉だそうです。前にも話しましたが、「メタノイア(回心)」とは「メタ」が超越、「ノイア」が自分の立つ位置という意味だそうで、そこから“視点を変える”こと、説明されます。しかも神の視点に立つことである、と。そして神の視点とは“いのちのいたみ苦しみを感じられる”もの、つまりは「人のいたみ苦しみを感じられるところまで自分の立つ位置を変える」ことが「メタノイア」であると言われます。その意味から「共感」と訳す聖書学者もいるほどですが、よく出てくるほかの訳語は「悔い改め」です。が、これは誤訳としか思えません。日本語で「悔い改める」とは、ああ自分はなんていけない人間なんだ、もっと立派な人間にならなければ‥と、つまりは意識が自分に向いている状態のことなわけで、“人のいたみ苦しみが感じられる”ためには、意識は自分の外側に向いていなければならないからです。」主任司祭の説教その13

[8] この後の33節以下でも、ぶどう園を舞台にした譬えが語られます。そこでは、ぶどう園に来た主人の息子は農夫たちに殺されます。世界という神のぶどう園に遣わされたイエスこそ、「行きたくありません」と言わずに(「行きます」と言いながら、行かない、という道も選ばずに)、来て下さいました。「わたしは葡萄の木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15章)と言われ、葡萄酒の杯に託して「これはわたしの血です」とご自身を差し出されました。

[9] この箇所へのバーバラ・ブラウン・テイラーの黙想がありました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/6/27 創世記29-30章「ヤコブとラケル」こども聖書⑳

2021-06-26 13:03:26 | こども聖書
2021/6/27 創世記29-30章「ヤコブとラケル」こども聖書⑳

 今日の話には出て来ませんが、このヤコブという人は、神様から新しい名前を与えられます。それはイスラエルという名前です。今のイスラエル共和国や、そこに住むユダヤ人、そして聖書を読む全ての人にとって、原点とも言えるのが、このヤコブなのです。
 しかし、ヤコブは決して立派な人、模範にしたい、優れた人ではありません。父の愛を独占する、長男エサウを妬み、母親と一緒になって、父も兄も欺した人です。激怒した兄の怒りを逃れるため、母親の故郷に逃げる旅に出かけたのが、先週のお話しでした。そんなヤコブに、主は夢の中で語られて、必ずこの地にヤコブを帰らせて、ヤコブと子孫たちに、この地を与え、世界のすべての部族があなたによって祝福される、と約束してくださったのです。立派ではないヤコブ、問題だらけのヤコブを、神様は選ばれて、イスラエル、神様の民の先祖としてくださいました。イスラエルとは、神様が人を変えてくださり、祝福のご計画を果たされるお方だ、ということを思い起こさせる名前です。

 さて、そのヤコブが旅の目的地、ハランの地についた時、ヤコブは井戸の所で、ラケルに会いました。ようやく旅を終えて、無事に到着して、ホッとしていたでしょう。そして、井戸の周りにいた羊飼いたちに、自分の叔父さんの名前を言ったら、「よく知っています。ほら、娘のラケルが羊を連れてやってきます」と、なんてタイミングだろう、と思って飛び上がりたいほど嬉しかったことでしょう。ヤコブは、羊飼いたちが三人いても動かさずに待っていた井戸の蓋の大きな石を、一人で動かしてしまいます。
10ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石を転がし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。11そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。
 ヤコブはよっぽど嬉しくて、ホッとしたのでしょうね。そして、このラケルを好きになってしまいます。もしかしたら、自分のお母さんもこの井戸の所で、自分のお祖父ちゃんのアブラハムのしもべと運命的な出会いをしたことを思い出したのかもしれません。だから自分も、ハランの井戸で出会った、この美しい女性、しかも願っていた同じ部族の女性との結婚が、運命に違いないと思ったのかも知れません。

 けれども、そんな簡単なことなのでしょうか。自分のお母さんがここで運命的な出会いをした時、お父さんのしもべはまず神様に祈っていましたが、ヤコブは一言も祈っていません。しもべは、我慢をしましたが、ヤコブはすぐにラバンの家に行って、お客になってしまいます。どっちがいいか悪いかは言えませんが、決して同じではありません。ですから、聖書にあることと、自分のことが、似たようなことであっても、決して同じではない、聖書から何か原則を引き出して、形ばかりの幸せや成功を当てこもうとすることは出来ない。それこそが、聖書の原則なのだと心に刻んでおきたいのです。
 その通り、ヤコブがラケルと結婚したくて「ラケルと結婚したいから、七年間あなたにお仕えします」と言ったのはラブロマンスのようでもありました。すべてが薔薇色に見えました。七年後、ヤコブは遂にラケルとの結婚式をしてもらいます。土地の人たちがみな集まって、祝宴をしてくれました。夜、ヤコブが妻を迎えて床に入り、大興奮して、幸せの絶頂を味わった思いでいました。しかし、翌朝明るくなって、ヤコブが隣の妻を見ると、ラケルではなく、姉のレアだったのです。ヤコブの描いていた幸せは一気に崩れました。ヤコブはビックリして、ガッカリして、ラバンに怒鳴り込みました。
25朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」

 でも思い出せますか。ヤコブ自身が同じことをしたのです。お父さんに兄のふりをして近づき、祝福を騙し取ったのです。お兄さんを怒らせ、お父さんを絶望させたのはヤコブでした。ここまで逃げてきたものの、ヤコブは同じ事をされたのです。それが、神様の裁きとか罰とは言われていません。神様の意地悪ではないのです。ただ、ラバン叔父さんの意地悪であって、ヤコブも同じ事をしたのです。そこで、ヤコブはもう七年、ラバンに仕えることにして、ラケルも妻として迎えます。つまり、姉のレアと妹のラケル、二人とも自分の妻にする、というとてもおかしな家族を作ってしまうのです。
 兄を妬んだヤコブは、自分もレアよりラケルを贔屓して、二人も妻を持つ。この後、ヤコブと、レアとラケル二人の妻、そして、その子どもやおつきの女性たちも絡んで、とても複雑な物語が続きます。聖書の創世記29章から31章、そして、最後の50章まで、ヤコブの家族のドラマはゴチャゴチャで、ここで簡単に紹介することなど到底できません。ロマンスどころかドロドロ劇になってしまう。こんな歪(いびつ)な家族が、イスラエルの民族の始まりでした。どうぞ、それぞれに読んでみて下さい。来週は、そこの息子のヨセフの話に飛びますが、その37章までの間には、これが聖書かと思うような出来事が記録されています。でも、そんな歩みをするヤコブたちにも、神はともにいてくださり、働いて下さって、やがて約束通り、彼らをあの夢を見た場所に連れ戻してくださるのです。それが、この聖書の不思議な物語です。神は、このヤコブをも愛されており、そして私たちも、どんな問題や失敗や足りない所があろうとも、愛されています。

 神は、弟のヤコブを選ばれたように、ヤコブに愛されなかった姉レアを愛されました。六人の息子と一人の娘、あわせて七人もの子を与えてくださいました。それを見て、ラケルは妬みます。でもそのラケルにも最後は二人の子どもを神は授けてくださいます。全部で12人もの子どもは、イスラエルを悩ます事にもなります。でも、その子どもたちが祝福になります。私たちはヤコブの物語に、失敗の刈り取りと、そのことも祝福へとつなげてくださる神様の不思議とを、いつも両方見ていくことが出来るのです。
 そしてそのイスラエルの歴史の末に、イエス・キリストが来て下さいました。イエスはこの世界に、私たちの家庭に来て、妬みよりも祝福へと私たちを変えてくださいます。

「主よ、あなたはヤコブを愛し、レアを愛し、ラケルも愛され、私たちも愛されます。どうぞ私たちの歩みを導いてください。ヤコブの旅を導かれたように、私たちの心を探ってください。沢山の失敗だらけのイスラエルの旅が、イエス・キリストを迎える歩みとなったように、主イエスが私たちの歩みにも来て下さり、私たちに祝福を与え、私たちを通して、祝福と恵みを現してください。あなたの不思議な、良い御心に委ねます」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/6/20 創世記28章「ヤコブの夢」こども聖書⑲

2021-06-19 12:56:41 | こども聖書
2021/6/20 創世記28章「ヤコブの夢」こども聖書⑲

 今日のヤコブの夢のお話しは、ヤコブが旅に出ている途中での事でした。そこで、石を枕にして、とありますから、ホテルに泊まる優雅な旅ではなく、一人で寂しく大急ぎで出かけ、夜は野宿をしての危険な旅でした。というのも、前回見たように、ヤコブが旅に出たのは、お兄さんのエサウとお父さんのイサクを欺して、怒らせてしまったからでした。祝福を横取りされたエサウは、ヤコブを殺してやると息巻いて、ヤコブは花嫁捜しを口実に、母の故郷ハランへと旅をしたのです。
 家族から離れて、誰も守ってくれる人はいない。狩りよりも家の中にいるのが好きだったヤコブ。お母さんに溺愛されて、お兄さんのエサウを羨んで、お父さんはエサウばかり見て自分を見てくれない。そんな思いで生きてきたヤコブが、いきなり一人旅に出たのです。

 今のように、旅行会社や安全な移動手段があるわけではありません。旅は、危険で、無事に帰ってこられる保証などありませんでした。もう一度、家を見ることは出来ないのかもしれないのです。心は不安と、後悔で一杯だったと思います。そうして、日が沈み、ヤコブはその場所で一夜を明かすことにしたのです。石を枕に横になりました。
12すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
 不思議な夢です。天のはしごか階段かが、地から天に伸びていました。その上を、神の使いたちが上ったり降りたりしているのです。「神の使い」を、頭に輪っかがあって背中に白い翼があると考えるのは、聖書のどこにも書いていないので、そういう「天使」とは思わなくても良いのです。ともかく、神様からの使いです。天と地がはしごで繋がっていて、そこに神の使いが上り下りして、神様の御用を果たしている、というのです。
13そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
 「その上」とは、ハシゴの上なのか、ヤコブの「そば」のことなのか、どちらとも訳せます。いずれにしても、こんな夢を見られて、神様からの語りかけを聴けて、いいなぁ、羨ましいなぁとも思いますね。けれども、ヤコブはこの時まで、こんな夢を見たことも無く、神様から語りかけられたこともありませんでした。神は、ヤコブに初めての自己紹介として
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」
と名乗っています。まだ聖書もない時代です。神様の事を良く知らず、信じてもいなかったヤコブは、この旅に出た時も、神の守りなど知らず、神の導きなど考えたこともなく、本当にひとりぼっちで、見知らぬ土地にポツンといました。そこに、神は夢を通して、御使いがここにも遣わされていることを示し、ご自身がヤコブに出会ってくださったのです。ヤコブには、大誤算の旅の、野宿の場所は、神に出会う場所となりました。そして、今、枕をしているこの地を、神はヤコブに下さる、と仰います。この地、この場所だけでなく、ヤコブの子孫たちが増え広がるだけの広い土地が約束されます。
14あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
 今はここに家を建てて留まるのではありません。旅に出ていかなければなりません。でも、やがて必ずこの地にあなたを連れ帰ると主は仰って、約束されています。その途中、どこにいってもあなたを守ると仰います。そして、ヤコブの子孫を通して、地のすべての部族が祝福される、というのです。ヤコブはエサウを妬んで、祝福を横取りしましたが、主はヤコブを祝福することは、地のすべての部族を祝福するためだ、と仰るのです。主は、失意の中のヤコブに、こうして語ってくださいました。主を信じることもしていたかいないか分からないようなヤコブに出会ってくださいました。
16ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」17彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家に他ならない。ここは天の門だ。」
 わびしく、見知らぬ土地は、主と出会った場所になりました。この場所を主が与えると約束してくださった、将来の所有地となりました。いいえ、それ以上に、自分の土地というより、「神の家、天の門」だとなりました。あれほど、自分のための祝福を欲しがったヤコブが、家族からも逃げ出した自分と「わたしはあなたとともにいる」と仰る神と出会った時、祝福とは自分のものではなく、神からの贈り物だと告白するのです。

 こうしてヤコブは石の枕を立てて、柱に油を注いで、主に祈ります。初めて祈ります。こうして、ヤコブはまた旅を続けて、ハランへと行きます。この場所に帰ってくるのは、20年後になりますが、ヤコブは奥さんと大勢の子どもたちを連れて帰って来るのです。

 ヤコブだけではなく、ヤコブの子どもたち、イスラエルの子孫、そして、そのヤコブの子らを通して祝福に与る私たちも、この出来事を自分たちの物語として読むことが出来ます。私たちがどこに行こうとも、どんな苦々しい思いで行った所、神と会うことを予想するより、神のことを思い出しもしない時でも、そこでこそ主は私たちに会ってくださいます。いつも主は私たちとともにおられるのです。
 イエス・キリストは言います。
ヨハネ1:51「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
 今日のヤコブの出来事を引いて、私たちは、神が私と共におられること、この出来事が私たちのことだと見る、と言われるのです。それはどんな形かは分かりません。ヤコブのように、予想外の、全く場違いな時でしょう。神は、私たちとともにおられます。そして、私たちの旅を導いてくださるのです。それが、私たちの神です。

「主よ、ヤコブを導いたように私たちをも導いてください。地上の生涯は、旅のようで、先が見えず、心も揺れます。あなたの守りは、私たちの願うものとは違っています。それでもあなたは私たちを決して見捨てず、どこでもともにいて、あなたの祝福の器としてくださいます。その御心に信頼して、私たちの旅路を、誠実に踏み行かせてください」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/6/20 マタイ伝21章12~17節「神は幼子の口を通して」

2021-06-19 12:48:47 | マタイの福音書講解
2021/6/20 マタイ伝21章12~17節「神は幼子の口を通して」

 先週、私たちはイエスがロバに乗ってエルサレムの都に入られたことを見ました。それは、イエスが力尽くで治める将軍ではなく、柔和な王であることを示すしるしでした。その続きの今日の箇所は、イエスが柔和な王であることが三つのことを通して具体的に示されます[1]。
 最初は「宮きよめ」と言われる、イエスの御生涯で最も激しい行動、抗議活動です。
12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 宮で鳩を売っていたのは神殿礼拝での生け贄のためです。牛や羊を献げる余裕がない貧しい人は鳩を献げる決まりでした[2]。また遠くから礼拝に来る場合は、動物を換金して、現地で規定にあった動物を調達したのです[3]。この時も何十万人もの巡礼者は、宮で鳩を買うつもりだったでしょう。「両替人」も、ユダヤの貨幣に交換する欠かせない役割でした[4]。しかし、
13…「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
 「祈りの家と呼ばれる」の引用元、イザヤ書56章は、ユダヤ人の血を引いていない異邦人でも、様々な理由で去勢手術をしてしまった宦官も、
「自分は礼拝に招かれていない」
と言うな、主はすべての人を招かれるのだ、という言葉です[5]。主は異邦人も宦官も招かれる。
 もう一カ所引用する「強盗の巣」はエレミヤ書7章[6]。主の宮という建物に安住して、弱者を虐げ、暴利を吸い上げていると非難されたのです。この言葉をイエスは引用します。それは、イザヤ書、エレミヤ書同様、両替人も鳩売りも巡礼者たちの礼拝を助けるどころか、自分たちの利得のために礼拝を利用していたからです。神と弱者の間に立ち塞がっていたのです。しかしイエスは、巡礼者や鳩を献げるのが精一杯の貧しい人々の側に立って、彼らを責めるのです。
 両替人は一割から1.5割の手数料で、何十万の巡礼者からは巨万の富を得られました。それは礼拝につけ込んだ「強盗」行為です。またこの場所は、神殿でも一番外側、異邦人はそこまでしか入れない「異邦人の庭」でした[7]。厳密には宮の中ではないのです。宮の中に入れない異邦人がせめてそこまでだけでも、と集まってくる庭でも、商売人たちが大きく場所を占めて、自分たちの儲けのため、礼拝を阻んでいる。その事をイエスは憤られたのです。次に、
14また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
 かつてダビデがエルサレムを攻め落とそうとした時、当時そこに住んでいたエブス人はダビデを嘲って、「目や足の不自由な者でもお前を追い出せる」と侮辱しました[8]。そのせいで、障害者は神殿に相応しくないとされてきた。その人々が、イエスの御許に来て、イエスに癒やされました。イエスは礼拝がバリアフリーな場であると宣言されました。これは画期的な事で、15節では「いろいろな驚くべきこと」、とても強い、ここにしかない表現で言われるのです[9]。
15ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
 イエスの障害者歓迎は本当に驚きでした。でもそれを見ても、腹を立てる人々がいました。その上、子どもたちが、イエスと一緒に都に入ってきた群衆の口まねをして「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て、ますます腹を立てる。子どもが意味も分からずに、賛美の言葉を言うなんて冒涜だ、ということでしょう[10]。確かに、神殿では訓練されたレビ人の聖歌隊たちが美しく荘厳な唱和で賛美を献げていました。しかしイエスはここでも、詩篇の言葉を引き、
16…聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
 この元の詩篇八篇は、天、月や星や自然界の諸々を見て主を称えることで有名ですが[11]、2節では幼子、乳飲み子の口、力も知恵もない者を通して、神が事をなさるのだとも言っているのです。子どもたちの「ごっこ遊び」のような賛美さえ、神はそれを喜んで受け入れて、ご自身の誉れとされるのだ、と返されます。礼拝を司る権力者の上から目線を、礼拝されるべき神、本当の礼拝の司であるイエスは、下からの目線、万物の視点でひっくり返されるのです[12]。
17イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。[13]
 王であるのに、都に泊まらず、近くの村で泊まりました。弱者や異邦人が追い出されていたように、イエスも追い出されて、都の外に泊まりました。商売を怒る以上に、虐げられていた人たちと同じようになった王。祭司長たちの言いがかりをただすだけでなく、幼子たちや私たちの口からの賛美を喜ばれて、何事か、誉れあることを打ち立ててくださる。そうして、私たちが「こうでなければ」としがみついている思い込みの腰掛けを倒してくださるお方です[14]。

 ロバに乗って巡礼者たちとともに来られ、神殿に慣れ親しんだ人たちが受け入れがたい驚きで宮をきよめられた主は、私たちの人生や教会にも、全く予想外の形で入ってこられます。余りに意外で、困ってしまう事もあります。しかしその事こそ、主が何かを始められる出来事かもしれません。そこに主がどう働いているかを見ようとするよう、私たちが変えられる。そうして、人が神に近づくことを妨げる狭い神理解を砕かれて、柔和な者へと私たちが変えられていく。そのこと自体が、主が私たちの王として来られ、私たちをきよめてくださる事です。

「主よ、私たちにあなたの柔和な眼差しを与えてください。自分ではなく他者を変えよう、言い包(くる)め、排除しようとする傲慢から、まず自分があなたの似姿へと変えられる事を願い、ここですべての人がともにあなたに祈りを捧げ、住まうことを願う柔らかさを与えてください。今献げている賛美も、あなたが私たちの口に授けられたものです。私たちの唇を通して、あなたは何をなさろうとしているのでしょうか。どうかそれを成して、御名を賛美させてください」

[1] 「柔和」と「宮きよめ」とは対照的ではないのでしょうか? いや、これが貧しい人々、障害のある人々や子ども、異邦人らへの大胆な行動であることを思うと、この出来事も「柔和な王」の力だと覚えさせ得られるのです。因みに、マルコの福音書では、ロバに乗った入城の翌日(月曜日)に「宮きよめ」となっていますが、マタイは、その事には拘らず、「宮きよめ」を「エルサレム入城」と直結させています。

[2] レビ記1章14節(主へのささげ物が鳥の全焼のささげ物である場合には、山鳩、または家鳩のひなの中から、自分のささげ物を献げなければならない。)、5章7節(しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。)そして、5章11節には「もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。」とまで、次の策が規定されています。

[3] 申命記14章22~26節(あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。23主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。24もしあなたの神、主が御名を置くために選ばれる場所が遠くて、あなたの神、主に祝福していただくために運んで行くことができないほど、道のりが長いなら、25あなたはそれを金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行きなさい。26あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。)

[4] 各地のコインは像が刻まれていましたから、ユダヤ人の律法解釈では「偶像」と見なされたのです。

[5] イザヤ書56章2~8節「幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。3主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

[6] エレミヤ書7章2~11節(「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。8見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。)11わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。

[7] 神殿は、大祭司が年に一度だけ入れる「至聖所」と、祭司だけが入れる聖所を中心に、その回りに、ユダヤ人男性が入れる庭、その回りにユダヤ人女性が入れる「女性の庭」、そして、その外に、異邦人はそこまでしか入れない「異邦人の庭」という構造になっていました。これは、最も外側の「異邦人の庭」でのことです。これを今日の教会堂に適応するなら、「礼拝堂」では金銭のやりとりや飲食などを禁じる、ということではなく、玄関が「にわか」の人たちにとって入りにくくなっていないか、という問いかけとして聞くべきなのです。

[8] Ⅱサムエル記5章6~9節(王とその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行った。すると彼らはダビデに言った。「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」彼らは「ダビデがここに攻めて来ることはできない」と考えていたのである。7しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。8その日ダビデは、「だれでもエブス人を討とうとする者は、水汲みの地下道を通って、ダビデの心が憎む『足の萎えた者どもや目の見えない者ども』を討て」と言った。それで、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった。9ダビデはこの要害に住み、これを「ダビデの町」と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。) 聖書協会共同訳は、8節の「王宮」を「神殿」と訳しています。

[9] 「驚くべきことサウマシオス」(直訳:驚き)はここのみの言葉です。そしてそれゆえにこそ、この驚くべきことを見てさえ、祭司長たちは驚かなかった、それこそ驚くべき頑なさ、というよう。

[10] 16節の「子どもたち(フートイ)が何と言っているか」は意訳で、「これらが何と言っているか」という問いです。乱暴に訳せば、「これら」「こいつら」とも出来る、突き放した言い方です。

[11] 詩篇八篇「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。2幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。3あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに4人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。5あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。6あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。9主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。

[12] 神殿の商売で搾取されている人々、宮には相応しくないと排除されてきた目や足の不自由な人々、そして、賛美を口にすることも生意気だと思われていた子どもたち。こうした人々を、イエスは優先されました。その柔和さのゆえに、権力側の商売人を追い散らすことも厭わず、祭司長たちにも怯まずに子どもたちを庇われました。これが、イエスの激しい柔和さでした。神殿礼拝にとってこれは全く仰天ものでした。今の社会も、障害者が居づらく、裕福な人には優しく貧しい人には冷たい。私たちもそんな考えや差別意識の影響を否応なく受けて、教会を健康で似たような人がいて、活動を維持してくれる人の来会を期待してしまいます。礼拝や信仰でも、神のため、ふさわしい礼拝のためという大義名分が優先してしまいます。熱心が高じて、神や礼拝を代弁しなければ、と人を説得しよう、教えようと焦ることもあるでしょう。そうなればなるほど、私たちは柔和さとは逆の、怒りや頑固さに強ばってしまいます。

[13] 17節「泊まられた」アウリゾマイ ここのみ。アウレー(庭、屋根なしの空間)。26:3、58、69の派生語です。立派な神殿のある都は、イエスの泊まる場所ではなく、イエスにとっても「わたしの家」「祈りの家」ではありませんでした。イエスは、王でありながら、野宿同然にベタニアに泊まります。それは、8章20節で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と仰った通りで、また、多くの庶民が野宿したのと同じ生き方を選ばれた証しでもあります。

ベタニア 26:6でも。(さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、) ここでもイエスは、貧しい人の友となっている。

[14] イエスは、私たちが人生を計算し、貸し借りを書き留めた机をひっくり返してくださる。私たちのソロバンをひっくり返してくださる。支配が変わる時、通貨も古いものは紙切れとなる。ヨベルの年に、借金はすべてなくなり、財産も屑になる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/6/13 創世記27-28章「ヤコブ、エサウをだます」こども聖書⑱

2021-06-12 12:53:47 | こども聖書
2021/6/13 創世記27-28章「ヤコブ、エサウをだます」こども聖書⑱

 エサウとヤコブは、双子の兄弟です。けれども、エサウが先に生まれたのでお兄さん、ヤコブはちょっと後から出て来たので弟です。少しの違いで、エサウはお父さんの跡継ぎになって、神様からの祝福をもらい、ヤコブには何も残してもらえない。生まれた瞬間にそう決まってしまう。それは、なんだかヘンな話ですね。だから神様も、そんな話をよくひっくり返されます。
 エサウとヤコブの兄弟も、弟のヤコブの方がお父さんからの祝福を受け継ぐことを予告されていました。その時のお話しです。お父さんのイサクが年を取って、目が殆ど見えなくなった時、イサクはエサウを呼んで言いました。
27・2…見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。3さあ今、お前の道具と矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。4そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。
 こうしてエサウは狩りに出かけて行きました。ところが、その話を聞いていたお母さんリベカは、エサウよりもヤコブを贔屓にしていました。そこでヤコブに言うのです。
9さあ群れの所に言って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。10あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。
 そして、毛深いヤコブを演じさせるために、リベカは子やぎの毛皮を、ヤコブの両腕と首に巻き付けて、美味しい料理とパンをもたせて、ヤコブをイサクの所に行かせるのです。ヤコブを可愛がって、もう一人の息子も、自分の夫も騙してしまうのです。
 ヤコブがお父さんのイサクの所に行くと、目の見えないイサクは戸惑います。どうしてこんなに早く料理が出来たのだ? 声はヤコブじゃないか? 近くによって来てくれと呼び寄せて触ると、リベカがヤコブの腕に毛皮を巻き付けていたので、エサウのようにもじゃもじゃです。
「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。
 そして、もう一度、
24「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。…ヤコブは…「そうです」
 こうしてイサクは、妻が作ってくれたご馳走を食べました。そして、ヤコブに、
26…「近寄って私に口づけしておくれ、わが子よ」と言ったので、27ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。主が祝福された野の香りのようだ。…
 こういって、イサクはヤコブに、豊かな収穫も与えられて、他の国々もお前を伏し拝むように、そして、お前の兄弟の主ともなるように、と祝福を祈るのです。この後、ヤコブが出て行くと直ぐにエサウが帰って来ました。何も知らないエサウは、狩りの獲物で美味しい料理を作り、父のところにやってきたのです。お父さんはビックリです。だって、今さっき、エサウだと思って祝福を祈ってしまったのですから。エサウは、
34…声の限りに激しく泣き叫び、…「お父さん、私を祝福してください。私も」
 しかし、一度与えてしまった祝福は、簡単になかったことにできるようなものではありません。イサクとエサウは、ヤコブがしたことに気づき、どうにも出来ないままオロオロするばかり。最後にイサクはエサウのために、祝福の代わりに、いつか自由を取り戻すことを祈ります。エサウは、弟を恨み怒りに燃えます。お父さんが死んだら、弟を殺してやろう、と言います。それを知ったリベカは、自分の故郷にヤコブを行かせることにします。そして、ほとぼりが冷めた頃に、帰って来れば良い、と言うのです。
 こうしてヤコブは遠くハランの地に向かって旅立ちます。その話はまた来週にします。少しだけ先回りしてお話しするなら、ヤコブが帰ってくるのは、20年以上先のことになります。その時、死が近いと言っていたお父さんイサクはまだ生きています。反対にお母さんのリベカはもういません。リベカはヤコブと会えないまま亡くなったのです。

 この話では、出てくる全員の思惑は、大きく外れてしまいました。
 イサクは、妻よりも愛したエサウを祝福しようとして、妻リベカとヤコブに割り込まれてしまいました。
 エサウは、自分が祝福を受けるとホクホクしていましたが、自分が昔ヤコブと取引した結果を痛感しました。
 ヤコブは、お母さんの言うとおりにしましたが、父親を騙してドキドキしただけでなく、お父さんから自分だと気づいてもらえなかったこともショックだったでしょう。そして、妬ましい兄から当然恨まれ、何十年も逃亡生活をして、不安な生活を送ります。
 そして、母リベカは、可愛がった息子の顔を二度と見ることがなく、騙した兄息子と夫と過ごして、晩年を送ることになります。
 誰もが、神様からこの家族に約束されていた祝福を、ちょっとずつ自分に都合良く考えて、騙したり怒ったりしたために、大きなしっぺ返しを招き、この家族は辛い歩みをすることになりました。

 神様の祝福は、生きた、すばらしい贈り物です。でも、それを受ける人間が、自分に祝福を引き寄せようと欺し合ってしまうなら、痛手を被ります。火は良いものですが、遊んでしまえば、火傷では済まず、火事にもなる。でも、そういう甘えや嘘があるのも、人間の社会です。神の家族の中でも、それはあって、刈り取りに苦しむことがある。自分勝手や嘘、人を騙すことは、自分のために止めた方が良いことは変わりません。でも、そんな滅茶苦茶なことがありながらも、神様の約束は進んで行きました。贔屓や失敗や大誤算があるとしても、神様の祝福のご計画は、変わること無く進んでいくのです。

 神様の祝福とは、実は、兄弟が奪い合ったりする宝のようなものではありません。奪ったり欺したり、もらえなかったら殺してやる…そういう心自体を変えられて、私たちが神様の祝福を喜ぶ。そういうものだったはずです。神様がエサウを祝福されるなら、ヤコブも祝福されるし、ヤコブが祝福されるなら、エサウも祝福され、周りのすべての人が祝福される。そういう約束を神はしておられました。だからこそ、私たちは、自分の心にある、醜い暴力を捨てて、人と比べることからも救い出される必要があります。ヤコブとエサウのドロドロドラマが聖書の中にあることは、驚くべき慰めです。

「祝福の神。私たちはあなたの祝福がほしいし、愛する人を祝福してほしいと願います。それを求めて、却って禍を招いてしまうとしても、あなたは私たちに祝福を惜しみなく注ごうとしておられます。主よ、あなたの豊かな祝福に与らせてください。あなたは取り消すことの出来ない祝福を、私たちのためにも約束してくださいました。私たちを心から新しくし、私たちを通して周りの人も生き生きと輝く、その祝福を見せてください」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする