聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

2018-07-01 16:15:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/7/1 ハ信仰問答129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

 今日でハイデルベルグ信仰問答の最後になります。「主の祈り」の最後の「アーメン」の話です。祈りの最後「アーメン」と言います。そう言わなければならない訳ではありませんが「アーメン」と付け加えます。「アーメン」は「これで終わりです」という意味でしょうか? お祈りの最後の挨拶とか、「いいね!」だと思っている人もいました。そして、キリスト教といえば「ああ、アーメンか」と言われて、ちょっとカチンときた経験もあるかも知れません。しかし、このハイデルベルグ信仰問答も、アーメンで結ぶのです。それはキリスト者にとって、アーメンが一番相応しいから、と言うようです。

問129 「アーメン」という言葉は何を意味していますか。

答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めているとわたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

 アーメンとは「真実です・本当です・確実です」という意味です。嘘ではありません、心からの願いです、という意味だとも言えます。そうすると、祈りの最後にアーメンと言うのは、今まで祈ってきた事が本当です、私の心からの願いです、という意味かと思いそうになります。けれども、ここではそうは言いません。むしろ、

「これらのことを神に願い求めていると私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」

と言います。私たち祈る者たちの真実さのアーメンではなくて、神さまご自身の真実さを指して、アーメンというのです。神が真実であられます、そういう意味でも、最後の言葉

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」

とセットになっている

「アーメン」

です。「あなたのものだからです、本当に」なのです。

 聖書には「アーメン」という言葉が何カ所にも出て来ます。そして、イエスが何度も仰っているのです。新約聖書はヘブル語でなく、ギリシャ語で書かれているのですが、ヘブル語のアーメンが、旧約聖書の何倍も多く出て来ます。そして、その多くがイエスの言葉でした。日本語の聖書では「まことにまことに」と訳されていますが、イエスが繰り返して仰ったのが、本当に、という言葉での念押しでした。弟子たちに何度も「まことにあなたがたに言います」とゆっくり、力強く、丁寧に仰ったのです。

 そこで、後に沢山の手紙を書いたパウロは、イエスの事を真実な方と呼びます。

Ⅱコリント一20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

 神の約束が、イエスにおいて事実になった。イエスは、本当に神の約束そのもので、その言葉には何一つ偽りがなかった。だから、私たちが「アーメン」というのは、神に栄光を帰することです。神が真実な方でいらっしゃることを告白する賛美なのです。今読みましたⅠコリントの一章ではこのような言い方をしていました。

Ⅰコリント一8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

 神は真実です。神は真実です。この真実な主が、私たちをイエス・キリストとの交わりに入れて下さって、最後まで堅く保って、終わりの日にも責められる事がない者としてくださる。それは、私たちが真実であれば、という私たちの真実さ次第、私たちの信仰さえあれば、という事ではなく、神が真実なお方だから、なのです。黙示録にも

黙示録三14また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる-。

 イエスの名前が「アーメンである方」と言われています。イエスは、神の約束をすべて果たしてくださいました。口先で「まことにまことに言います」アーメン、アーメンと繰り返しただけでなく、ご自身が主の約束を本当にしてくださいました。

 人間が大切な手紙を書いた最後に、自分の署名をしたり、印鑑を押したりするのは、この内容が本当に嘘偽りないことを誓います、という意味ですね。誓約です。ここで偽りがあると、「公文書偽造罪」という罪に問われる場合があります。私たちが祈りの最後に「アーメン」というのは、これとは違います。私たちの側の嘘偽りなさを誓うのではありません。私たちの願い以上に、イエス・キリストが真実であられます。神が王であられます。だから、そのイエスの真実にお任せして、私の祈りや願いも、生き方や人生、私そのものもあなたにお捧げしますと祈るのです。そして、神が私たちの願いを聞いてくださる。私の側の問題や不十分さを責めて、公文書偽造罪を正されるのではないかと恐れなくて良いのです。この私の祈りも、イエス・キリストのゆえに聞いて戴ける。

 主の祈りは祈りの土台です。御名が聖とされますように、御国が来ますように、御心が天でのように地で行われますように、日毎の糧を与えてください、負い目をお赦しください、試みに遭わせず悪からお救いください、と祈りました。その祈りを授けてくださったイエスご自身が真実な方、アーメンのお方です。本当にそうなるのです。御名が聖とされ、御国が来る。皆にパンが与えられ、罪が赦され、互いにも赦し合い、悪から救い出されるゴールなのです。聖書の約束は、すべて確実に成就します。私たちがそれを信じられなくても、私たちが神の約束を十分理解できていないとしても、老人になって忘れたり何も覚えていなくなったりしたとしても、イエスは神の約束を果たしてくださる。この世界の歩みも、この宇宙そのものも、神の約束の完成に向かっています。

 人の言葉は変わります。人の言葉を信じて騙された経験があるでしょうか。親切そうな言葉や強い言葉が流行しては消えていくうちに、私たちは神の言葉もどこかで疑ってしまいます。けれども、そういう私たちの体験には収まりきらないほど、神の言葉は真実では。神は決して私たちを裏切りません。神の素晴らしい約束は今も変わりなく、やがて完全に現されます。そして私たちもそこに確実に入れられる。そういう約束を神は下さっています。アーメンは、祈りの結びだけではありません。私たちの人生の最後にも、この世界の歴史が終わる時にも、神は真実であられた、アーメンと言う日が来ます。神の真実がすべてを新しくする日が必ず来ます。その事を信じる告白でもあるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

2018-06-24 20:40:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/24 ハ信仰問答128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

 

 今日はいよいよ「主の祈り」の結びの言葉をお話しします。来週は一番終わりの「アーメン」をお話しして、ハイデルベルグ信仰問答も最後になります。けれども、気づいたでしょうか。先に読みました、マタイの福音書の6章、主の祈りをイエスが教えてくださった箇所では、普段の主の祈りと何かが違いましたね。13節の

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

で終わっていたのです。聖書の本文を読むと、13節の最後に*マークが二つあって、欄外の13節に

**「後代の写本に〔国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。アーメン〕を加えるものもある」

と書かれているのです。聖書が書かれてから、千五百年以上するまで、写メやコピー機は勿論、印刷機もありませんでした。聖書を広めるための方法は、書き写すことでした。修道院での大切な仕事の一つは、聖書を書き写すことでした。とても気が遠くなるような仕事ですが、当時はそれ以外に方法がなかったのです。そして、手作業で書き写すときには当然、書き間違いが起きます。言葉が飛んだり、入れ替わったりします。時には、写しながら、善かれと思って書き換えたり、書き加えたりして、それを沢山の人が写して、そちらのほうが広まってしまうこともあるのですね。そうしたことを丁寧に比べて、もともとはどの文章だったのかを調べる研究もあるのです。そして、そういう研究によると、主の祈りの最後の「国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」は元々はなくて、後から書き加えられて広まったと考えられているのです。

 しかし、それより前に「主の祈り」が礼拝で祈られていたことは知られています。その時既にこの結びの言葉が使われていたのです。誰かが勝手に書き加えたのではなく、既に教会の礼拝で祈られていた祈り方を、マタイの福音書に書き加えたのでしょう。ですからこの言葉は安心して、祈って善い。そして、どうしてこのような言葉を教会の礼拝で付け加えて祈るようになったのか、言葉を味わって祈れば良いのです。

問128 あなたはこの祈りをどのように結びますか。

答 「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」というようにです。すなわち、わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたがわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべてのよきものをわたしたちに与えようと欲し またそれがおできになるからであり、それによって、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が永遠に賛美されるためなのです。

 主の祈りを私たちが天の父に祈るのは、天の父が

「私たちの王」

だからです。それも、すべてのことに力あるお方だからです。その事を確認するのです。神を自分の願い事を叶える奴隷や何かのように考えて、呼び出して、願い事を押しつける、というのではないのです。心から、神を神として、王として崇める恭しく、謙った思いの言葉です。

 祈りは、神に対する命令ではありません。自分の願いを押しつけて何とか叶えてもらおう、という思いが強すぎて、祈っている相手が神である事を忘れてしまっては、祈りとは呼べません。神は大いなる王です。力あるお方です。ですから祈る時、私たちは白旗を挙げるような思いをよくします。

「国と力と栄えとは永久にあなたのもの」

 私のものじゃありません。私たちは自分が王様のようになりたいと願います。力が欲しいのです。自分の栄光(名誉、称賛、面子)を求めてしまいます。だからこそ、主の祈りの最後にもう一度、「国と力と栄えとは永久にあなたのものです。私のものじゃありません。」と祈る事で、自分の軌道修正をさせてもらえるのだと実感しています。

 そして、天の父には本当に力があります。私たちの思いも付かない力があります。全ての善き物を私たちに与えようと欲してくださいますし、そうすることが出来るお方なのです。だから、私たちは安心することも出来ます。希望を持つことが出来ます。神さまに掲げる白旗は屈辱や諦めの旗ではありません。期待して、助けを求める白旗です。信頼して、お任せする白旗です。喜んで、降参して、神に王となっていただくのです。

 三つの目の

「栄え」

 栄光、輝かしさ、素晴らしさ。まさに、世界の全てが素晴らしいのは、それをお造りになった神の栄光の作品だからです。そして、神の栄光は、世界の全ての栄光を足したよりも無限に大きいのです。けれども、その神の栄光は、どんな栄光でしょうか。格好いい奇跡をなさったり、神々しい姿で圧倒したりする栄光だったでしょうか。いいえイエスの栄光は十字架の愛でした。

 イエスが十字架に架かる直前、イエスはこう言われました。

ヨハネ十二27「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」

 イエスの十字架は神の栄光でした。最低に格好悪く、最大級に犠牲を払って、自分を完全に与える愛、私たちに対する惜しみなく限りない憐れみ。それこそ、神の栄光です。そして、それこそが本当の栄光です。永遠に輝く栄光です。天の御国でも、神の栄光は神さまが偉そうにしている栄光ではないのです。神が永遠に私たちを生かし、愛し、仕えて、必要ならば愛を洗い続けてくださる、そういう栄光をまざまざと、永遠に見せて頂くのです。それこそ本当の神の素晴らしさであり、そして、私たち人間も求める価値のある栄光です。競争して人を押しのけたり、偉そうにしたりしても、中身が伴っていなければ、虚栄でしかありません。本当に人を大事にして、嘘や背伸びのない美しい心の栄光を、神はイエスの十字架において現されました。その事を思うときも、私たちは自分が考えたり求めたりしていた

「栄光」

をすっかり引っ繰り返されます。神の栄光の深さ、大きさを思い巡らして、それが永遠にあなたのもの、と静かに言うのです。

 教会は、主の祈りの最後にこの言葉を加えて結ぶようになりました。それは、私たちの祈りが、賛美と確信で満ちるためです。この祈りを受け取った私たちが、神に全ての栄光を帰するためです。今はまだ、この世界の国や権力者が力を振るって、栄光を輝かせているように見えるかもしれません。でも、それは永遠には続きません。遅かれ早かれ廃れるのです。そのような廃れる力もやっぱり小さな事ではありませんから、私たちは祈りますし、悪からの救いを祈り求めます。それでも私たちは希望を失いません。永遠の王である神の無限の力、測り知れない栄光を信じて、祈り続けるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

2018-06-17 21:27:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/17 ハ信仰問答127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

 

 「主の祈り」を一つずつ取り上げていますが、今日は最後の願い「私たちを試みに遭わせないで悪からお救い下さい」です。最後の願いだけに、ここだけは心を込めて祈る祈りかもしれません。また、言葉もとても分かりやすい、入りやすい願いです。

問127 第六の願いは何ですか。

答 「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」です。すなわち、私たちは自分自身あまりに弱くて、一時も立っていることさえできないのに、そこへ私たちの恐ろしい敵である、悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてきますので、どうかあなたの聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるようにしてください、ということです。

 「試み」は「誘惑」とも訳されますが、どうでしょうか、私たちは「誘惑と悪」というこの祈りから、こんな絵が浮かぶのではないでしょうか。

 お金とかケーキとか異性からの誘惑とか…。そういう誘惑は勿論生活のあちこちに潜んでいます。「バレなければちょっとぐらい羽目を外して楽しんでもいいじゃないか」という誘いも勿論、墓穴を掘ることになりますから、注意した方がいいのは当然です。けれども、そういう事ばかりを考えると、どうもキリスト教信仰というのはやっぱり固いなぁ、「誘惑」とか「悪」とかを警戒する真面目で清らかなものだなぁ、と思うかもしれませんね。しかし今日のハイデルベルグ信仰問答では、そういうことは全く言っていません。むしろ、もっと大きく豊かな言葉を言っています。「誘惑を避けるとか悪に怯えて」必死に祈るよりも、もっと明るく、大きく息をつけるようなことを言っているのだなぁと教えられるのです。

 第一に、私たちは

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るようにイエスから教えられています。これはキリスト者の祈りです。「救われたければ信じなさい。信じたらもう救われて、戦いや苦しみはないよ」ということではないのです。キリスト者として生きることには、いつも戦いがあるのです。イエスは戦いのない生活を保証なさいません。また、戦いがあるのは信仰が足りないからだ、とは仰いません。誘惑に負けるのはあなたがダメだからだ、とも言われません。私たちが弱いことをイエスはご存じです。自分の力で誘惑に勝ち、悪に勝利できるはずだ、と高望みして、私たちにプレッシャーをかけることもなさいません。私たちは弱い。そして、私たちへの誘惑や戦いは強いのです。

「悪魔やこの世、また自分自身の肉」

と並べられるような、強力な力があるのです。それは私たちの信仰が弱いせいではありません。私たちは

「お救いください」

と恥じることなく祈ります。天の父に守られ、救って頂く必要がある現実をそのまま認めて、祈れば良いのです。神様の恵みがなければ、一時も立っていられないことを十分にご存じでいてくださるのです。これが第一の慰めです。

 しかしそれだけではありません。

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るよう教えてくださった方は、私たちを試みに遭わせず、悪から必ずお救いくださる。私たちは自分の力では到底勝てませんが、私たちは弱いから神様に助けてもらっても勝てるわけがない、でもないのですね。

「聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、私たちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるように」

と祈るのです。なんという力強い言葉でしょうね。確かに祈ったからと言って、すぐに助けられる場合ばかりではありません。完全なる勝利は「遂に」とあるように、まだまだ先でしょう。でも、その「遂に」に向けて進むのです。

 また、聖霊の力は私たちに割って入って守るばかりではありません。

「私たちを保ち強めてくださり…激しく抵抗し」

と言われています。私たちが強くされ、抵抗するよう成長することを願うのです。これを誤解してしまうと、神が守って助けて下さる事に甘えて、戦おうとしない。自分の問題を見つめなくなり、信仰を言い訳にしてかえって誘惑に抵抗しようとしなくなる。そういう事もよく起きるのです。これは本当に悲しく、問題になる誤解です。それは神様の守りに対する大きな誤解です。神は天の父で有るからこそ、私たち自身を助け、成長させ、抵抗すべき事には抵抗させて下さるのです。人間の父親でもそうでしょう。いつも子どもを守って、スーパーマンのように助けるのが父親ではありません。父親は子どもを育て、自分の力を伸ばして、能力を発揮できるように助けるのが役割です。呼ばれたから出しゃばって、助けていたら、結局子どもはいつまで経っても抵抗することができません。それは子どもには勇気が必要で、泣いて甘えるかもしれませんが、賢い親はバランス良く受け止めつつ、成長を励ましていくのです。私たちは神に助けを求めるよう祈ります。そして、神が助けてくださることを信じて、精一杯抵抗し、勝利を確信して、何度しくじってもまた立ち上がるようになる。そういう希望を持つ。それがこの祈りのもう一つの素晴らしい面です。

 先にはエペソ書の六章「神の武具」の箇所を読みました。ここにも、聖書の道が楽で祝福に満ちた歩みではなく戦いであることが現されています。

 一つ、この装備の「盾」についてお話ししましょう。当時のローマの盾は細長い長方形でした。そしてそれは自分一人で使うためではなく、他の兵士たちと一緒に並べて使うためだったのだそうです。

 これはとても大切なメッセージです。私たちの生活には戦いがあります。それに自分で勝とうとしては失敗することが多くあります。エペソ書でパウロが言った「神の武具」はそのようなあり方自体を正してくれます。神は私たちに、自分一人で戦って勝って欲しいのではない。ともに力を合わせて、助け合って、力を発揮してほしいのです。一人では勝てないのがダメなのではなく、一緒に

「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈って、助け合っていく。そういう成長を神は私たちにさせたいのです。

 私たちを試みに遭わせず悪からお救い下さい。試みも悪もいつもあります。まるで人生は大きな冒険です。信仰があっても色々なことが起きます。予想が裏切られる展開も冒険にはつきものです。でも独りではありません。助けを求めてご覧と言って下さる神が一緒におられます。また、こう一緒に祈り続ける私たちは旅仲間です。弱さを受け止め合い、一緒に戦ってくれ、勝利を喜び合い、失敗も分かち合います。そして、最後には遂に完全なる勝利を収める日に向けて、一緒にいられることを嬉しく思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問126「赦し以上の幸せ」マタイ18章21-35節

2018-06-10 17:03:05 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/10 ハ信仰問答126「赦し以上の幸せ」マタイ18章21-35節 

 今日のマタイの福音書では、「赦さなかった家来のたとえ」のお話を読みました。一万タラントの借金を赦してもらった家来が、自分が100デナリを貸していた人を赦さなかった、というのです。

 一万タラントはどれぐらいかというと、二十万年分のお給料だそうです。100デナリは100日分のお給料です。三ヶ月チョット働いて返せる額です。でも、一万タラントは二十万年かかる、べらぼうな大金です。つまり、返せるわけがない大金です。それだけの莫大な借金をどういうわけか、無謀にも作ってしまった人だというのです。それだけの借金を、清算しなければならなくなっても到底返せませんから、王様は自分も家族も持ち物も全部売り払うよう命じました。それだって、1万タラントには全く足りないでしょうが、せめてそれが精一杯だということでしょう。

 今日のお話は、主の祈りの第五祈願です。

「私たちの負い目をお赦しください」

で始まる、主の祈りで最も長い文章です。古い言葉では「罪」と言っていましたが、正確には「負い目」という言葉です。もっと正確には「借金」という言葉です。今日の「赦さなかった家来のたとえ」でもイエスは「赦し」を借金に例えていました。そして、第五の祈願について教えている解説の殆どで、この「赦さなかった家来の譬え」が引用されるのです。私たちも、神に到底返せない借金を負っているもの。それを赦して頂いたのだから、私たちも互いに赦し合うことを、この譬えはよく教えてくれています。

問126 第五の願いは何ですか。

答 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちの内にあるあなたの恵みの証しとして、わたしたちもまた真実な思いをもってわたしたちの隣人を心から赦しておりますから、ということです。

 「私たちの負い目をお赦しください」

と祈る。新改訳2017になって、これはハッキリしました。文語訳では何かまず「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と自分が誰かを赦すことを持ち出してから、「我らの罪をも赦したまえ」と願うかのような文でした。元々の言葉はもっとハッキリしています。

「私たちの負い目をお赦しください」

です。イエスはここで「私たちに負い目があれば」とは教えません。「負い目がない」と言える人はいません。「負い目をお赦しください」と祈るよう、イエスは例外なく命じられたのです。私たちには

「あらゆる過失(実際の間違った行動)」

があり、更に

「今尚私たちに付いて回る悪」

があります。神様からお預かりして委ねられた人生や生き方、心、様々なものを、無駄にしたり壊したりしてしまうものです。どうしたって、神に対して借りのない生き方など出来ません。とりわけ、人間はアダムとエバの堕落以来、罪を持っています。その歪んだ自己中心のせいで、沢山の間違った行動を取って、とりかえしがつかないことをしてしまいます。本当にひどい事をしてしまう事さえあります。そういう大きな問題はなかったとしても、神の前にはその根が人間の心にある事の方がずっと深刻な問題です。私たちは、神に赦して頂かなければなりません。

 しかし、その赦しは

「キリストの血のゆえに」

 キリストが十字架で死んでくださった償いのゆえに、いただける赦しです。神が下さる赦しなのです。そうではなく、私たちが償ったり何か別の事で埋め合わせをしたりして赦していただけるでしょうか。いいえ、それは先の一万タラント借金がある家来が

「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」

と言ったのと同じです。彼は自分でもまた闇雲に口走っただけか、あるいはどうせ返せないのだから、ダメ元で踏み倒せたら儲けものだと口から出任せを並べ立てたのか、どちらかでしょうか。それでも、そんな無責任な事しか言えない家来を王様は憐れんで、一万タラントの借金を全部免除してしまったのです。家来の本気に免じたとか、泣き落としに引っかかったとか、そういう事ではなくて、ただただ可哀想に思われたからですね。借金の損は自分が引き受けるから、今度こそ借金から自由な生き方をしてほしかった。返しきれないほどの借金を抱えるような生き方ではなくて、もっと大事な、本当に新しい生き方をさせてあげたかったのですね。つまり、赦しは、赦し以上の憐れみがあるから与えられるのです。赦しが与えられたのは、赦しだけではなくて、赦し以上の新しい生き方が与えられたのです。

 イエスが私たちのために十字架に架かって下さったのは、罪を赦すためだけではありませんでした。十字架は、自分のことしか考えず、罪を罪として見つめない生き方から方向転換して、神との和解に生かしてくださるためでした。イエスの十字架に、私たちは罪の赦しだけでなく、神の愛を見ます。神御自身が私たちを罪人として怒り、罰するお方ではなく、私たちのために御自身の命を犠牲にする事も厭わず、私たちを愛してくださるお方でした。その命を私たちはもらったのです。ですから私たちは、自分の借金を認めて、返しきれない負債を更に重ねる愚かさを肝に銘じつつ、神の大きな恵みの世界で生きるのです。その恵みを私たちは既に頂いている。ただ

 「自分が赦されて善かった、得をした」

だけで

 「人の事は赦さない、ただじゃ済ませない」

 そういう生き方では勿体なさ過ぎるのです。人との過去のしがらみで、苦々しい思いを抱えた心も、癒やして頂いて、憎しみや赦せない心を手放す。そういう生き方を戴いていくのです。

 ですから、決して

「赦す」

とは「不問に付す・大目に見る」という事ではありません。罪は罪として責め、間違いは間違いとして認めるのです。また、その問題の解決のために先走らずに、丁寧になる必要もあるでしょう。直ぐに喧嘩や暴力沙汰になる関係は、距離を置く必要があるかもしれません。深い傷がある人は、まず十分に安心できる環境で、十分にケアされなければなりません。それぐらい罪は深いものだからです。それを認めないまま、安易に問題に蓋をしようとするのは、赦しとは全く逆です。罪は、二十万年架かっても返しきれない負債以上のものです。神はそれを指摘なさいます。しかしそれは、私たちを責めるためではありません。赦しを用意しておられるからです。罪や罰以上の幸せがあるのです。赦しは困難なプロセスですが、その長いプロセスをかける甲斐のある、素晴らしい幸いがあるのです。赦しはその幸いを戴くための扉なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問125「必要を満たす神」申命記8章1-11節

2018-06-03 17:26:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/3 ハ信仰問答125「必要を満たす神」申命記8章1-11節

 「主の祈り」は六つの願いを持っています。四つ目から「私たち」の祈りです。その第一は

「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」。

 朝の礼拝でも使っている古い文語文の祈りでは

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

です。当たり前ですが「日用」とは日曜日の事ではなく、毎日のとか今日のという意味ですよ。考えてみると、日曜日、礼拝に来た時に、みことばの糧を戴くのが信仰で、イエスが教えて下さった祈りも、教会で魂を養われるよう「日曜日の糧を与えたまえ」でも可笑しくはないかもしれません。そう思うと、イエスが教えてくださったのが「日曜日の糧」ではなく「日毎の糧」、月曜日から土曜日までも含めた、毎日の食事の事だったのは、とても不思議だとも言えます。英語では「Give us today our daily bread」、私たちの毎日のパンを与えてください、です。本当にパンという言葉です。日曜日の魂の糧、という高尚な祈りではなくて、毎日のパン、ご飯、食事を求めなさい。そうイエスは教えてくださったのです。

問125 第四の願いは何ですか。

答 「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」です。すなわち、わたしたちに肉体的な必要のすべてを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそよきものすべての唯一の源であられること、また、わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。

 ここではハッキリと教えられています。私たちが神に、自分に必要なすべてを備えてくださるよう祈る。そうする事によって、私たちは、天の父こそ良きものすべての唯一の源であられることを思い起こすのです。こう祈るのは、私たちが毎日の食事に困っているからではありませんね。今日食べるパンがあっても、明日や明後日の食事にさえ困らなくても、それでもこの祈りを祈るのです。衣食住の心配が全くない時こそ、神様抜きに自分の力で食べ物を手に入れているとか、食べるものや今の生活があるのが当たり前かのように思う事なく、祈るのです。私たちが祈るより先に、私たちに必要な全てのことを天の父が下さったのです。私たちが祈らずに食べていた今日のパンも、神が与えてくださっていたパンだったのです。着る物も、住む家も、健康も、私たちの肉体的に必要な全てを備えてくださったのは天の父です。決して当たり前ではありません。そのようにして、私たちが、神の養いの中に日々、一歩一歩あることを認めるのです。

 今日読んだ申命記の言葉では、モーセがイスラエルの民にその事を思い出させていました。イスラエルの民がエジプトを出てから四十年、荒野をさ迷った末に、いよいよ約束の地に入るに当たって語られたのが申命記です。そこでモーセは四十年を振り返って神が下さった、

「マナ」

という食べ物の事を思い出させます。毎朝、イスラエルの民の周りにはマナが降りて来て、その日その日の食糧になりました。それは、主がイスラエルの民に、人が生きるのはパンではなく、主によってなのだと、身をもって教えるためだったのだ、と言われています。そしてその証左に、着る物や履き物が丈夫に守られてきたことを挙げています。更には、これから入って行く土地が、豊かな穀物や果物、オリーブなどを生えさせている地であることも視野に入れていました。主が毎日、必要なものを下さった。それを覚えていなさい。その事はイスラエルの民だけでなく、私たちにも言われていますね。私たちの毎日の食事も、神が下さったものなのです。「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」の祈りは、その事を思い出させてくれる祈りです。

 それは神に向かい

「あなたこそ良きもの全ての唯一の源であられる」

という告白でもあります。神は私たちを、食べ物がなくても生きられる強い存在として作られることをせず、人間が食べたり眠ったり、愛されたり認められたり、安心したり成長したりすることを必要とするようにお造りになりました。

 以前もお話ししたように、人間には九つのニーズがあるとも言われています。パンだけで良いのではなくて、色々な必要を持っています。もしこうした関係を抜きにパンだけ与えられても、赤ちゃんは生きていけないのだそうです。神は私たちをそうした様々なニーズに支えられて生きる存在としてお造りになりました。そして、それを私たちに下さるお方です。主こそ、私たちに必要を下さる

「良きもの全ての唯一の源」

であられます。そして、私たちがこのような必要を戴く事を通して、ますます神に信頼し、神の子どもとして成長し、助け合い、生かし合い、良いものを分け合っていくようになる。パンを通して、ニーズが満たされることを通して、ますます天の父を信頼し、天の父をほめ称えるようになるのです。

 もし、この主への信頼無くしてパンだけを求めるなら、それは私たちを益しません。

 …わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください…

 主が祝福して下さるとは、私たちがパンや食べる物、欲しい物を全て戴く事ではありません。食事や健康やお金、私たちの心配や労働や、神様からの贈り物でさえ、それだけを私たちがもらうだけで抱え込んでしまうならば、それは神様の豊かな祝福を拒み、結局は自分を益することがありません。

 もしあなたが欲しい物があったら全て祈って下さい。「こんな事を祈るのは恥ずかしい」と思うような事であれば、そう思う事で手放すことが出来るでしょう。無くてはならないわけではない物は無くても良いのだと思えることはとても大事なことです。

 主の祈りで私たちはいつも

「私たちの日毎の糧」

「私たちの天の父」

と祈ります。「私の」ではないのです。自分のためにだけ祈って、必要が満たされれば良いとするような祈りを主は教えられませんでした。「私たちの」ために祈る祈りを、自分だけでなく、他の人、天の神を「天にいます私たちの父」と呼ぶ全ての人とともに祈る祈りを授けてくださいました。そうした祈りを私たちが祈る時に、私たちは天の父を見上げるだけでなく、周りの人も見えてきます。とりわけ、食べ物がない人のことが見えてきます。食べ物があっても、心が飢え渇いている人もいます。イエスは自分のためだけでなく、人とも手を繫いで、必要を満たす生き方へと私たちを招かれます。その変化こそは、私たちにとって必要な、本当に益となる祝福なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする