聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

2018-06-24 20:40:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/24 ハ信仰問答128「強く善きあなたの王」マタイ6章9~15節

 

 今日はいよいよ「主の祈り」の結びの言葉をお話しします。来週は一番終わりの「アーメン」をお話しして、ハイデルベルグ信仰問答も最後になります。けれども、気づいたでしょうか。先に読みました、マタイの福音書の6章、主の祈りをイエスが教えてくださった箇所では、普段の主の祈りと何かが違いましたね。13節の

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

で終わっていたのです。聖書の本文を読むと、13節の最後に*マークが二つあって、欄外の13節に

**「後代の写本に〔国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。アーメン〕を加えるものもある」

と書かれているのです。聖書が書かれてから、千五百年以上するまで、写メやコピー機は勿論、印刷機もありませんでした。聖書を広めるための方法は、書き写すことでした。修道院での大切な仕事の一つは、聖書を書き写すことでした。とても気が遠くなるような仕事ですが、当時はそれ以外に方法がなかったのです。そして、手作業で書き写すときには当然、書き間違いが起きます。言葉が飛んだり、入れ替わったりします。時には、写しながら、善かれと思って書き換えたり、書き加えたりして、それを沢山の人が写して、そちらのほうが広まってしまうこともあるのですね。そうしたことを丁寧に比べて、もともとはどの文章だったのかを調べる研究もあるのです。そして、そういう研究によると、主の祈りの最後の「国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」は元々はなくて、後から書き加えられて広まったと考えられているのです。

 しかし、それより前に「主の祈り」が礼拝で祈られていたことは知られています。その時既にこの結びの言葉が使われていたのです。誰かが勝手に書き加えたのではなく、既に教会の礼拝で祈られていた祈り方を、マタイの福音書に書き加えたのでしょう。ですからこの言葉は安心して、祈って善い。そして、どうしてこのような言葉を教会の礼拝で付け加えて祈るようになったのか、言葉を味わって祈れば良いのです。

問128 あなたはこの祈りをどのように結びますか。

答 「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」というようにです。すなわち、わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたがわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべてのよきものをわたしたちに与えようと欲し またそれがおできになるからであり、それによって、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が永遠に賛美されるためなのです。

 主の祈りを私たちが天の父に祈るのは、天の父が

「私たちの王」

だからです。それも、すべてのことに力あるお方だからです。その事を確認するのです。神を自分の願い事を叶える奴隷や何かのように考えて、呼び出して、願い事を押しつける、というのではないのです。心から、神を神として、王として崇める恭しく、謙った思いの言葉です。

 祈りは、神に対する命令ではありません。自分の願いを押しつけて何とか叶えてもらおう、という思いが強すぎて、祈っている相手が神である事を忘れてしまっては、祈りとは呼べません。神は大いなる王です。力あるお方です。ですから祈る時、私たちは白旗を挙げるような思いをよくします。

「国と力と栄えとは永久にあなたのもの」

 私のものじゃありません。私たちは自分が王様のようになりたいと願います。力が欲しいのです。自分の栄光(名誉、称賛、面子)を求めてしまいます。だからこそ、主の祈りの最後にもう一度、「国と力と栄えとは永久にあなたのものです。私のものじゃありません。」と祈る事で、自分の軌道修正をさせてもらえるのだと実感しています。

 そして、天の父には本当に力があります。私たちの思いも付かない力があります。全ての善き物を私たちに与えようと欲してくださいますし、そうすることが出来るお方なのです。だから、私たちは安心することも出来ます。希望を持つことが出来ます。神さまに掲げる白旗は屈辱や諦めの旗ではありません。期待して、助けを求める白旗です。信頼して、お任せする白旗です。喜んで、降参して、神に王となっていただくのです。

 三つの目の

「栄え」

 栄光、輝かしさ、素晴らしさ。まさに、世界の全てが素晴らしいのは、それをお造りになった神の栄光の作品だからです。そして、神の栄光は、世界の全ての栄光を足したよりも無限に大きいのです。けれども、その神の栄光は、どんな栄光でしょうか。格好いい奇跡をなさったり、神々しい姿で圧倒したりする栄光だったでしょうか。いいえイエスの栄光は十字架の愛でした。

 イエスが十字架に架かる直前、イエスはこう言われました。

ヨハネ十二27「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」

 イエスの十字架は神の栄光でした。最低に格好悪く、最大級に犠牲を払って、自分を完全に与える愛、私たちに対する惜しみなく限りない憐れみ。それこそ、神の栄光です。そして、それこそが本当の栄光です。永遠に輝く栄光です。天の御国でも、神の栄光は神さまが偉そうにしている栄光ではないのです。神が永遠に私たちを生かし、愛し、仕えて、必要ならば愛を洗い続けてくださる、そういう栄光をまざまざと、永遠に見せて頂くのです。それこそ本当の神の素晴らしさであり、そして、私たち人間も求める価値のある栄光です。競争して人を押しのけたり、偉そうにしたりしても、中身が伴っていなければ、虚栄でしかありません。本当に人を大事にして、嘘や背伸びのない美しい心の栄光を、神はイエスの十字架において現されました。その事を思うときも、私たちは自分が考えたり求めたりしていた

「栄光」

をすっかり引っ繰り返されます。神の栄光の深さ、大きさを思い巡らして、それが永遠にあなたのもの、と静かに言うのです。

 教会は、主の祈りの最後にこの言葉を加えて結ぶようになりました。それは、私たちの祈りが、賛美と確信で満ちるためです。この祈りを受け取った私たちが、神に全ての栄光を帰するためです。今はまだ、この世界の国や権力者が力を振るって、栄光を輝かせているように見えるかもしれません。でも、それは永遠には続きません。遅かれ早かれ廃れるのです。そのような廃れる力もやっぱり小さな事ではありませんから、私たちは祈りますし、悪からの救いを祈り求めます。それでも私たちは希望を失いません。永遠の王である神の無限の力、測り知れない栄光を信じて、祈り続けるのです。

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ヨシュア記1章1-9節「雄々しく強く ヨシュア記」

2018-06-24 20:37:43 | 一書説教

2018/6/24 ヨシュア記1章1-9節「雄々しく強く ヨシュア記」

 今月の一書説教は「ヨシュア記」です。旧約聖書で六番目の書。申命記までの五冊は「モーセ五書」と呼ばれますが、モーセの生涯が終わり、その後を引き継いだヨシュアが約束の地に入って行くのです。モーセが果たせなかった役割を完成したのがヨシュア。名前の意味は「主は救い」、ギリシャ語の発音だとイエス。救いを完成して下さったイエスを指し示す人物です。

1.「ざんねん」なヨシュア記

 イスラエルの民が四〇年荒野を放浪してきた後、遂にヨルダン川を渡って、カナンの地に入って行き、そこに住むようになっていく、というのがヨシュア記の大まかな話です。特に最初の六章までには、エリコの街にスパイが侵入したり、ヨルダン川を渡るときに川の水が奇蹟的に堰き止められたり、エリコの街を七日間掛けて回ったり、というドラマが描かれます。後半はむしろ地味で、土地を分けていく記述が退屈に続いていきます[1]。そして、最後は晩年のヨシュアの演説で、ヨシュアの死後も主の民として歩むことを改めて誓約するのです。

 ヨシュア記を勇敢な戦記、約束の地を占領していく征服記と読むことも出来ます。

「強くあれ、雄々しくあれ」

という言葉は何度も繰り返され、勇敢な男たちの歴史が書かれていると読みたくなるでしょう。それとは反対に、カナンの地を侵略して、先住民を町ごと皆殺しにする記述に強い嫌悪感を持つ人もいます。平和や友好より、容赦ない戦い、征服、虐殺が許されるのでしょうか。それを神が「聖絶」と呼んで命じた事を、どう理解すれば良いのでしょうか。

 いくつかの解決策があります。カナンの先住民族は本当にひどい残酷な民族で、神が長年忍耐した末に裁かれた、という一面もあります[2]
 またそうした歴史的な問題を棚上げして、信仰的なメッセージだけを聞き取る。これも一つの読み方です。
 もう一つ、時代感覚が今とは全然違う、という価値観の違いを踏まえることも必要です。今から三五〇〇年も前です。百年前でさえ日本は戦争をしていました。今も世界のあちこちに、戦いでの抵抗、実力行使は権利としてなされています。まして三千五百年前、民族が違えば戦いますし、血も涙もない扱いは普通。そういう時代から何千年、戦争の歴史を重ね、世界と繋がった経験値を持つ私たちの「国際平和」という考えを押しつけるのは、全く筋違いかもしれません[3]

 これとともにヨシュア記そのものを読んでも、私はヨシュア記の意外なメッセージに気づくのです。ヨシュア記が勝利で進む間にも見えてくる民の問題があります。確かにカナンの住民の罪も非難されています。しかし、そこに入って戦っている内に、イスラエルの民も神から離れて、欲をかいたり怠け出したりする。実に残念な現実が浮き彫りになります。そして、ヨシュア記の後、将来この地でイスラエル人も人を抑圧し、貧富の差別や暴力に染まって、やがては追い出される最後に突き進んでいく歴史の残念さを予感させて終わっているのです[4]

2.聖書全体の流れの中で

 ヨシュア記だけを切り取って教訓にしたり戦争を正当化すると、聖書全体の流れを無視して、とても偏ってしまいます[5]。むしろ民は約束の地に入って、他民族を一掃した後、その轍を踏んでいく。

 私たちもよく「あの人たちがいなくなれば問題は解決するのに、状況が変われば幸せになれるのに、ここで勝てば万事上手くいくのに」と思いがちです。問題は状況や相手のせいではなく、自分の中にある場合が多いものです。勿論、神は憐れみ深い方ですから、私たちのその願いに答えもなさり、私たちが幸せだと思い込んでいる基準にもある程度は付き合ってくださいます。優勝とか高級品とか人も羨む立場を与えて下さることも大いにあります。イスラエルの民も約束の地を勝ち取りました。その途上で彼らの問題が露わになっていくのです。

 ヨシュア記は単純な「イスラエルは正義でカナン人は悪」という図式を崩していきます[6]。その一つがエリコの町の遊女ラハブの存在です。エリコの町を七度回って城壁が崩れたドラマは有名です。けれどもその町を最初に偵察した時、助けてくれた遊女ラハブは生き残ります。お客をとって体を売っていた女ラハブが、その家族を救い、イスラエル民族に迎えられたのです。そしてユダ民族のサルマという男性と結婚します。息子ボアズが生まれ、モアブ人ルツと結婚し、そのひ孫がダビデ王。そして、ダビデ王の末裔が、もう一人のヨシュア、イエスです[7]。新約聖書の一頁に書かれたイエスの系図には五節に

「ラハブによって」

と書かれています。カナン人の遊女の名前が、聖書の肝心な歴史の中にしっかりと刻まれているのです。

 民族と民族が互いを人とも思わずに、殺すか殺されるか、というサバイバルだった時代です。結局その占領計画は成功したようでいてイスラエルの民も馬脚を現していく一方、敵民族の遊女ラハブを通して、神はダビデ王家に続く歴史を紡ぎ出されるという思いがけない出来事にもなったのです。そして、その末に来られたもう一人のヨシュアは武力ではなく、徹底的に平和な神の国をもたらされました。遊女にも罪人にも、病人にも異邦人にも友となりました。武力よりも強力な、真実の愛を武器として人間に向かわれました。それが、ユダヤ民族も異邦人も、過去の蟠りを越えて一つ神の家族とされる教会の始まりでした。ヨシュア記を盾に戦争を正当化したり、神が罪を怒って罰して滅ぼす恐ろしい方だと脅したりしてはなりません。武力では勝利できない、神の民も心から変わるしかない、とヨシュア記は語っているのです[8]

3.強く雄々しいヨシュア

 三千五百年前のヨシュア記を非難できない私たちです。ラハブを受け入れられますか。性的マイノリティ、障害者への偏見があり、パワハラや虐待の被害がようやく声を挙げています。数十年前「エイズ」が知られた頃、教会は同性愛への裁きだと言いました。心が病むのは信仰がないからだとか、自殺は赦されない罪だという暴言がありました。全く悪気なく自分の「常識」を押しつけて誰かの心を殺してしまう事もあります[9]。そうした偏見を、どうして主が止めてくださらなかったのか、私には説明できません。ただ、そういう私たちに主がともにいてくださいます。御自身が非難されようとも、主は失敗だらけの人間とともにいてくださいます。ヨシュア記は自分の過去の失敗を知り、謙る者の書です。そして本当のヨシュア、イエスが小さき者とともにおられ、ユダヤ人と異邦人とを和解させてくださった御業に、私たちともともにおられて、武力や争いに寄らない和解や新しい関係を信頼させくださると期待するのです。

 信頼。最後に

「強くあれ、雄々しくあれ」

というヨシュア記で繰り返される言葉を「信頼」と結びつけましょう。今も戦争には「強くあれ、恐れるな」と勇敢さが求められます。しかし、それは勝つための「勇敢さ」です。「臆病者は滅びる」と脅されて「怖くない」と言うのです。「ウィークネス・フォビア(弱さへの嫌悪)」という言葉を知りました[10]。弱いのはダメだ、「怖いんだろ」と思われたくないというひどい圧力です。ヨシュア記の

「強くあれ、雄々しくあれ」

はそういう脅しめいた言葉なのでしょうか。いいえ、イエスがともにいてくださるから、恐れなくてよいのです。信頼に基づく「恐れるな」です。人間の弱さや失敗、多様性や一人一人のデリケートさを無視して、恐れないと意気込むのではありません。自分の弱さや過去のしがらみ、将来どうなっていくか分からない不安、予測できない未来、日常を引っ繰り返される恐れ。イエスはそうした人間の脆さ、間違いやすさを十分に汲み取り、深く理解してともにいてくださいます。そのイエスへの信頼ゆえに、私たちは恐れないで歩めます。暴力的な思いや言葉の武器を取り上げていただくのです。「恐れたらダメだぞ」と脅さず「イエスがおられることを信じよう」と言います。「障害は罪のせいだ」でなく「神の栄光が現れるためだ」と告げるのです。イエスを信頼して、急ぐことなく、立ち止まりつつ静かに祈りつつ、ゆっくり一歩ずつ希望をもって進むのです。私たちは弱くても、イエスは強く雄々しい方だからです。

「主よ。ヨシュア記の時代との隔たりに戸惑いつつ、しかし今の自分にもどれほどの間違いがあるかを顧みます。どんな人も、そして自分自身に対しても、断罪ではなく信頼を贈らせてください。恐れではなく感謝から喜んで行動できますように。今ここに置かれた私たちの歩みが、主の長いご計画の中で、赦しと悔い改め、癒やしと回復をともにする旅路となりますように」



[1] もちろん、現代の読者にとって「退屈」であるだけで、聖書の中では「土地」が与えられることには、アブラハムの契約以来の悲願であり、旧約を貫く大事な概念です。イスラエル人は今も、イスラエルの地が神からの相続地だとの考えから行動しています。イエスが「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ十四3-4)と仰った事のリアリティもここに通じます。念のため。

[2] 創世記十五16、レビ記十八24-30、二〇23、など。

[3] そもそも、当時に行けば、食生活、衛生概念、コミュニケーション、すべてが異質。私たちにはその匂いに一分たりとも居たたまれないはず。逆に、彼らも現代に来たら、このプレッシャーや汚れた空気に居たたまれないでしょう。

[4] イスラエルの歴史にとっては、ヨシュア記の勝利よりも、その後の堕落(士師記)と、バビロン捕囚という自らが招いた裁きの方がリアルであり、確かな教訓。

[5] 大きな聖書の文脈では、神の民の選びは、地の全ての民族の祝福が目的です。創世記十二3、出エジプト十四4-6など。

[6] ヨシュア記の戦いの合間には意外な出来事が出て来ます。その一つが、九章に出て来るギブオンの住民です。彼らは、他の町々がイスラエルを潰しにかかろうとしている時に、これは勝てないと見切りをつけて、和を講じようとするのですね。それも拒絶されないようにと、遠くの町から来たと騙して、講和条約を結びます。イスラエルはその後で騙されたことに気づきます。不平も出ますが、しかし、この後が肝心です。自分たちは主に賭けて彼らと和を講じたのだから、いくら騙されたと言ってもその契約を反故にしたら、主の怒りが自分たちに下る。そう考えて、ギブオンの人々を生かすのです。更に、その後、ギブオンが攻撃された時には助けに駆けつけますし、主もそれを後にも先にもない奇蹟で応援してくださるのです。これは、単純な民族主義の物差しには合わない記述です。そして、そこにこそ、ヨシュア記のメッセージがあります。また、七章の「アカン」の背信と裁きの記事も、ホセア書二15で「アコルの谷」(アカンが石打ちにされた谷)が「望みの門となる」という、信じられないような希望へと続くのです!

[7] ルツ記四18-22、マタイ伝一5を参照。

[8] 過失で殺人を犯した犯人が匿われる「逃れの街」も作ります(20章で六カ所)。つまり、将来の過ちも想定されています。24章は、今後、神を神とし続ける歩みが確認される。将来への方向性の確認であって、野放図な民族主義や地権者の保証ではない。

[9] 一例を挙げると、この結婚率の下がった時代に「結婚して子どもを産むのが女の幸せ」「離婚は傷もの」とか、発達障害に「親の育て方が悪い」とか、レイプ被害者に「あなたにもスキがあったのでは」とか…きりがありません。

[10] https://wan.or.jp/article/show/4692。「恐れてはならない。戦いてはならない」という「男らしさ」が一人歩きをして、問題や負の側面を隠して、「美談」だけを奨励する風潮を助長してきたのではないか。ヨシュア記を見ると、そのような面だけではなく、民の傲慢、慢心が十分に警戒されているのに。

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問127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

2018-06-17 21:27:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/17 ハ信仰問答127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

 

 「主の祈り」を一つずつ取り上げていますが、今日は最後の願い「私たちを試みに遭わせないで悪からお救い下さい」です。最後の願いだけに、ここだけは心を込めて祈る祈りかもしれません。また、言葉もとても分かりやすい、入りやすい願いです。

問127 第六の願いは何ですか。

答 「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」です。すなわち、私たちは自分自身あまりに弱くて、一時も立っていることさえできないのに、そこへ私たちの恐ろしい敵である、悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてきますので、どうかあなたの聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるようにしてください、ということです。

 「試み」は「誘惑」とも訳されますが、どうでしょうか、私たちは「誘惑と悪」というこの祈りから、こんな絵が浮かぶのではないでしょうか。

 お金とかケーキとか異性からの誘惑とか…。そういう誘惑は勿論生活のあちこちに潜んでいます。「バレなければちょっとぐらい羽目を外して楽しんでもいいじゃないか」という誘いも勿論、墓穴を掘ることになりますから、注意した方がいいのは当然です。けれども、そういう事ばかりを考えると、どうもキリスト教信仰というのはやっぱり固いなぁ、「誘惑」とか「悪」とかを警戒する真面目で清らかなものだなぁ、と思うかもしれませんね。しかし今日のハイデルベルグ信仰問答では、そういうことは全く言っていません。むしろ、もっと大きく豊かな言葉を言っています。「誘惑を避けるとか悪に怯えて」必死に祈るよりも、もっと明るく、大きく息をつけるようなことを言っているのだなぁと教えられるのです。

 第一に、私たちは

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るようにイエスから教えられています。これはキリスト者の祈りです。「救われたければ信じなさい。信じたらもう救われて、戦いや苦しみはないよ」ということではないのです。キリスト者として生きることには、いつも戦いがあるのです。イエスは戦いのない生活を保証なさいません。また、戦いがあるのは信仰が足りないからだ、とは仰いません。誘惑に負けるのはあなたがダメだからだ、とも言われません。私たちが弱いことをイエスはご存じです。自分の力で誘惑に勝ち、悪に勝利できるはずだ、と高望みして、私たちにプレッシャーをかけることもなさいません。私たちは弱い。そして、私たちへの誘惑や戦いは強いのです。

「悪魔やこの世、また自分自身の肉」

と並べられるような、強力な力があるのです。それは私たちの信仰が弱いせいではありません。私たちは

「お救いください」

と恥じることなく祈ります。天の父に守られ、救って頂く必要がある現実をそのまま認めて、祈れば良いのです。神様の恵みがなければ、一時も立っていられないことを十分にご存じでいてくださるのです。これが第一の慰めです。

 しかしそれだけではありません。

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るよう教えてくださった方は、私たちを試みに遭わせず、悪から必ずお救いくださる。私たちは自分の力では到底勝てませんが、私たちは弱いから神様に助けてもらっても勝てるわけがない、でもないのですね。

「聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、私たちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるように」

と祈るのです。なんという力強い言葉でしょうね。確かに祈ったからと言って、すぐに助けられる場合ばかりではありません。完全なる勝利は「遂に」とあるように、まだまだ先でしょう。でも、その「遂に」に向けて進むのです。

 また、聖霊の力は私たちに割って入って守るばかりではありません。

「私たちを保ち強めてくださり…激しく抵抗し」

と言われています。私たちが強くされ、抵抗するよう成長することを願うのです。これを誤解してしまうと、神が守って助けて下さる事に甘えて、戦おうとしない。自分の問題を見つめなくなり、信仰を言い訳にしてかえって誘惑に抵抗しようとしなくなる。そういう事もよく起きるのです。これは本当に悲しく、問題になる誤解です。それは神様の守りに対する大きな誤解です。神は天の父で有るからこそ、私たち自身を助け、成長させ、抵抗すべき事には抵抗させて下さるのです。人間の父親でもそうでしょう。いつも子どもを守って、スーパーマンのように助けるのが父親ではありません。父親は子どもを育て、自分の力を伸ばして、能力を発揮できるように助けるのが役割です。呼ばれたから出しゃばって、助けていたら、結局子どもはいつまで経っても抵抗することができません。それは子どもには勇気が必要で、泣いて甘えるかもしれませんが、賢い親はバランス良く受け止めつつ、成長を励ましていくのです。私たちは神に助けを求めるよう祈ります。そして、神が助けてくださることを信じて、精一杯抵抗し、勝利を確信して、何度しくじってもまた立ち上がるようになる。そういう希望を持つ。それがこの祈りのもう一つの素晴らしい面です。

 先にはエペソ書の六章「神の武具」の箇所を読みました。ここにも、聖書の道が楽で祝福に満ちた歩みではなく戦いであることが現されています。

 一つ、この装備の「盾」についてお話ししましょう。当時のローマの盾は細長い長方形でした。そしてそれは自分一人で使うためではなく、他の兵士たちと一緒に並べて使うためだったのだそうです。

 これはとても大切なメッセージです。私たちの生活には戦いがあります。それに自分で勝とうとしては失敗することが多くあります。エペソ書でパウロが言った「神の武具」はそのようなあり方自体を正してくれます。神は私たちに、自分一人で戦って勝って欲しいのではない。ともに力を合わせて、助け合って、力を発揮してほしいのです。一人では勝てないのがダメなのではなく、一緒に

「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈って、助け合っていく。そういう成長を神は私たちにさせたいのです。

 私たちを試みに遭わせず悪からお救い下さい。試みも悪もいつもあります。まるで人生は大きな冒険です。信仰があっても色々なことが起きます。予想が裏切られる展開も冒険にはつきものです。でも独りではありません。助けを求めてご覧と言って下さる神が一緒におられます。また、こう一緒に祈り続ける私たちは旅仲間です。弱さを受け止め合い、一緒に戦ってくれ、勝利を喜び合い、失敗も分かち合います。そして、最後には遂に完全なる勝利を収める日に向けて、一緒にいられることを嬉しく思っています。

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使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

2018-06-17 21:24:25 | 使徒の働き

2018/6/17 使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

 新約聖書の三割の著者で、最大の伝道者で神学者である使徒パウロが、以前は教会の最大の迫害者だった事実はそれ自体、最大級のメッセージです。だからでしょう、使徒の働きではパウロが迫害者だった真っ最中にキリストに出会った出来事が三度記されています。今日の箇所はその三回目、パウロが

忍耐をもってお聞きくださるよう」

と話し始める証しです。

1.若い頃からの望み

 パウロの話は三回とも微妙な所で結構違います。話す相手や状況に応じて、伝え方を変えています。いつも紋切り型の同じ話も悪くないでしょうが、パウロは相手に合わせてアレンジした人です。特に今日の所では、目が見えなくなった事や、アナニヤが来て祈ってくれて視力が回復した事は端折っています。では強調点はどこでしょう。それはパウロが今キリスト者として持っている

「希望」

だと思います。神が約束して下さった望み。23節の最後では

「光」

とも言い換えられます。「希望の光」です。そしてパウロはそれを、自分が若い時、パリサイ人として厳格に生きてきたときから待ち望んでいた約束だと言っています。更には、この弁明を取り仕切っているアグリッパ王も、ユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるのだから、あなたにも分かるはずだ、と言っているのです[1]。いや、むしろアグリッパ王が、ユダヤ人の文化や聖書の知識にもかなり通じているからこそ、その聖書の希望を接点として、自分の証しをアレンジして、希望という切り口の話に仕上げて語りたい気持ちが伝わってくるのです。

 パウロ自身、今キリストから希望を頂いていますが、最初はそれが分からず、ナザレのイエスの名に対して、徹底して反対すべきだと考えていました。教会を猛烈に弾圧して、激しい怒りに燃えていた。そうしてダマスコへ向かう道、真昼に太陽よりも明るく輝く光に打たれて、「サウロ、サウロ」と自分に語りかける声を聞いたのです。

14「…サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」

15私が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、主はこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

16起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

17わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。

18それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」

2.神に立ち返る歩みの始まり

 パウロは神を信じて聖書の希望を待ち望みつつも、その希望を成就してくださったのがナザレのイエスだとは信じられませんでした。だから一生懸命迫害していました。それをイエスは

「棘の付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」

と仰います。これは「天に向かって唾を吐く」、つまり自分に帰ってくる、というような諺でしょう。キリストに反対するのは、結局、自分が痛い思いをすることでしかないのです。しかし主が現れたのは、パウロを責めたり怒ったりするためではありません。パウロがキリストを知り、キリストを信じる信仰によって罪の赦しを戴いて、その事を他の人にも伝えるよう、主はパウロを遣わすためだったのです。

 神は人間を

「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」

てくださいます。イエスを信じれば、罪の赦しだけでなく、多くの人と一緒に聖とされ、一緒に神の相続人にさえして頂くのです[2]。神は私たちに「お帰りなさい」と言って迎え入れてくださる方です。私たちが神に逆らい、神に唾を吐いたり蹴りつけたり不届きな生き方をしていても、神はキリストをこの世界に送ってくださいました[3]。22節23節では、預言者やモーセ、つまり聖書に書かれてあるのは

「キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになる」

という知らせだと言っています。パウロは若い頃から聖書を学んで、聖書に厳格に生きようとしていました。しかし聖書でもっと大事なことは、神御自身が人間の所に来られて、苦しみを受けて、死にまで謙ってくださって、そこから復活されて、光となってくださる、というメッセージです。それこそ預言者やモーセの予告していた事です。

 そうして神の側から来られたキリストを信じて、神に立ち帰るのが「悔い改め」です。罪を反省する以上に、神に立ち帰ることです。そして、そうして神の元に帰る時、それに相応しい生き方が始まります。神がお帰りと言ってくださっている。自分には永遠の居場所がある。自分の闇も苦しみも、間違いも全部知った上で受け入れてくださる神がおられ、また、同じように神にお帰りと言ってくださる大勢の人たちの中に自分がいる。そう知った者としての相応しい生き方、新しい歩み方、人との関わり方を励ますのが、パウロの宣教でした。

3.私のようになってほしい

 二六章後半で、パウロの弁明を聞いていたフェストゥスもアグリッパ王も、パウロの言葉に激しく抵抗を見せますね。それに対してのパウロの最終的な答が29節にあります。

29…私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」

 今パウロの前にいるのは王や総督たち、有力者たちです。彼らに対してパウロは

「私のようになってくださること」

を神に願っているというのです。パウロは鎖に繫がれた惨めな未決囚です。過去を振り返れば、教会を激しく迫害して、暴力的に御名を汚させたり徹底して多くの聖徒を苦しめた、消えない負い目を持っています。今でも自分は罪人の頭だと自認しています。それでも「私のようになって」ほしいと言います。そういう私にキリストが出会ってくださり、誰もが望んでいる希望を下さった。努力とか王や総督の地位や財力でも決して手に入らない希望を頂いた。それゆえパウロは「自分のようになってほしい」と思えました。

 断じて自分のように伝道して説教して、立派に生きて、という自慢ではないです。彼は自分の問題や悲しみにもとても率直です[4]。そういうのです。希望よりも怒り狂って生きていた自分にキリストが出会ってくださいました。自分の帰りを大喜びして迎えてくださる神と出会った、その一点です。立派な偉人とか道徳的に完璧とかではなくて、欠けも限界も、変えられない過去もあって、将来も失敗や間違いをせずには生きられない自分だけれど、そういう自分にも帰る家がある。お帰りと受け入れて下さる神がおられる。そうして神に立ち帰らせてもらった時、生き方も変わりました。かつては人を断罪して怒って責めなきゃという生き方でした。自分は異邦人でなくて善かった、という生き方でした。それがここで異邦人にも落ち着いて語り、心を込めてキリストとの出会いを願うように変わっています。「あなたのようでなくて善かった」という上から目線でなく、自分の失敗も後悔も鎖も差し出しながら「キリストの光をいただいた私のようになってほしいなぁ」と願うのです。

 誤解を恐れず言えば、キリスト者になると「私のようになってほしい」と思える人になるのです。神は私たちにそう思って欲しいのです。「『私のようになって』と言える立派なキリスト者になる」とは違います。立派ではなく、正直言えば、問題や傲慢も悩みもあります。鎖や病気や大変な目にも遭います。キリストに従い切れない自分に悩まずにおれません。でもそのままの自分を迎えてくださるキリストとの出会いが有り難い。その希望に立ってどんな問題にも絶望せずに向き合える。その鎖は別、あれやこれの「別にして」は沢山あっても、それでも本当にキリストと出会って善かった。それをどの人にも分かち合いたいと願って行きたいのです。

「主よ。あなたが私たちの人生をも照らして、最高の希望を下さいました。闇から光に立ち帰り、罪から神に立ち帰らせてくださいました。本当に有難うございます。キリストの苦しみと私たちへの光を深く味わわせて、この世界にあってこの世界のものではなく、光を心に戴いたものとして生かしてください。そうすることによって私たちをあなたの光としてください」



[1] パウロの弁明は、キリストが下さる望みが、キリスト者だけの特権や独占的なものではなく、ユダヤ人やアグリッパ王もよく知っているはずの希望だ、というアプローチを取っています。人の罪を責め、そこから神に立ち帰る、という「糾弾型」のアプローチではありません。「共通善」から説き起こし、その「善(希望)」こそ福音によって与えられるものである、という論法です。

[2] ユダヤ人だから救われるとか、善い行いをすれば罪が赦されるとかではない。神に立ち戻る人、教会に来る人なら良くして上げよう、というのではない。神の方から人間の所に来られて、あるいはパウロを遣わされて、神に立ち返らせてくださる。主を信じる信仰をもらって、もう罪を赦された者として、神が将来のご計画を相続させて下さる希望を持って生きるようにしてくださる。そういう神なのです。

[3] 神の光に背を向けて、世間の成功や幸せや楽しさを求めて生きています。サタンと言われるように、悪い力、間違った考えにどっぷり浸かっています。皆に希望を与えることも出来ないし、希望を下さる神がおられると伝える事もない、闇の中に生きているのです。

[4] 自分だけでなく、どの人にもそういう約束が届けられる。誰でもそういう希望に憧れているなら、キリストから頂けます。苦しい思いをしなくても、キリストが代わりに苦しんでくださってプレゼントしてくださるのです。

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問126「赦し以上の幸せ」マタイ18章21-35節

2018-06-10 17:03:05 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/10 ハ信仰問答126「赦し以上の幸せ」マタイ18章21-35節 

 今日のマタイの福音書では、「赦さなかった家来のたとえ」のお話を読みました。一万タラントの借金を赦してもらった家来が、自分が100デナリを貸していた人を赦さなかった、というのです。

 一万タラントはどれぐらいかというと、二十万年分のお給料だそうです。100デナリは100日分のお給料です。三ヶ月チョット働いて返せる額です。でも、一万タラントは二十万年かかる、べらぼうな大金です。つまり、返せるわけがない大金です。それだけの莫大な借金をどういうわけか、無謀にも作ってしまった人だというのです。それだけの借金を、清算しなければならなくなっても到底返せませんから、王様は自分も家族も持ち物も全部売り払うよう命じました。それだって、1万タラントには全く足りないでしょうが、せめてそれが精一杯だということでしょう。

 今日のお話は、主の祈りの第五祈願です。

「私たちの負い目をお赦しください」

で始まる、主の祈りで最も長い文章です。古い言葉では「罪」と言っていましたが、正確には「負い目」という言葉です。もっと正確には「借金」という言葉です。今日の「赦さなかった家来のたとえ」でもイエスは「赦し」を借金に例えていました。そして、第五の祈願について教えている解説の殆どで、この「赦さなかった家来の譬え」が引用されるのです。私たちも、神に到底返せない借金を負っているもの。それを赦して頂いたのだから、私たちも互いに赦し合うことを、この譬えはよく教えてくれています。

問126 第五の願いは何ですか。

答 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちの内にあるあなたの恵みの証しとして、わたしたちもまた真実な思いをもってわたしたちの隣人を心から赦しておりますから、ということです。

 「私たちの負い目をお赦しください」

と祈る。新改訳2017になって、これはハッキリしました。文語訳では何かまず「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と自分が誰かを赦すことを持ち出してから、「我らの罪をも赦したまえ」と願うかのような文でした。元々の言葉はもっとハッキリしています。

「私たちの負い目をお赦しください」

です。イエスはここで「私たちに負い目があれば」とは教えません。「負い目がない」と言える人はいません。「負い目をお赦しください」と祈るよう、イエスは例外なく命じられたのです。私たちには

「あらゆる過失(実際の間違った行動)」

があり、更に

「今尚私たちに付いて回る悪」

があります。神様からお預かりして委ねられた人生や生き方、心、様々なものを、無駄にしたり壊したりしてしまうものです。どうしたって、神に対して借りのない生き方など出来ません。とりわけ、人間はアダムとエバの堕落以来、罪を持っています。その歪んだ自己中心のせいで、沢山の間違った行動を取って、とりかえしがつかないことをしてしまいます。本当にひどい事をしてしまう事さえあります。そういう大きな問題はなかったとしても、神の前にはその根が人間の心にある事の方がずっと深刻な問題です。私たちは、神に赦して頂かなければなりません。

 しかし、その赦しは

「キリストの血のゆえに」

 キリストが十字架で死んでくださった償いのゆえに、いただける赦しです。神が下さる赦しなのです。そうではなく、私たちが償ったり何か別の事で埋め合わせをしたりして赦していただけるでしょうか。いいえ、それは先の一万タラント借金がある家来が

「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」

と言ったのと同じです。彼は自分でもまた闇雲に口走っただけか、あるいはどうせ返せないのだから、ダメ元で踏み倒せたら儲けものだと口から出任せを並べ立てたのか、どちらかでしょうか。それでも、そんな無責任な事しか言えない家来を王様は憐れんで、一万タラントの借金を全部免除してしまったのです。家来の本気に免じたとか、泣き落としに引っかかったとか、そういう事ではなくて、ただただ可哀想に思われたからですね。借金の損は自分が引き受けるから、今度こそ借金から自由な生き方をしてほしかった。返しきれないほどの借金を抱えるような生き方ではなくて、もっと大事な、本当に新しい生き方をさせてあげたかったのですね。つまり、赦しは、赦し以上の憐れみがあるから与えられるのです。赦しが与えられたのは、赦しだけではなくて、赦し以上の新しい生き方が与えられたのです。

 イエスが私たちのために十字架に架かって下さったのは、罪を赦すためだけではありませんでした。十字架は、自分のことしか考えず、罪を罪として見つめない生き方から方向転換して、神との和解に生かしてくださるためでした。イエスの十字架に、私たちは罪の赦しだけでなく、神の愛を見ます。神御自身が私たちを罪人として怒り、罰するお方ではなく、私たちのために御自身の命を犠牲にする事も厭わず、私たちを愛してくださるお方でした。その命を私たちはもらったのです。ですから私たちは、自分の借金を認めて、返しきれない負債を更に重ねる愚かさを肝に銘じつつ、神の大きな恵みの世界で生きるのです。その恵みを私たちは既に頂いている。ただ

 「自分が赦されて善かった、得をした」

だけで

 「人の事は赦さない、ただじゃ済ませない」

 そういう生き方では勿体なさ過ぎるのです。人との過去のしがらみで、苦々しい思いを抱えた心も、癒やして頂いて、憎しみや赦せない心を手放す。そういう生き方を戴いていくのです。

 ですから、決して

「赦す」

とは「不問に付す・大目に見る」という事ではありません。罪は罪として責め、間違いは間違いとして認めるのです。また、その問題の解決のために先走らずに、丁寧になる必要もあるでしょう。直ぐに喧嘩や暴力沙汰になる関係は、距離を置く必要があるかもしれません。深い傷がある人は、まず十分に安心できる環境で、十分にケアされなければなりません。それぐらい罪は深いものだからです。それを認めないまま、安易に問題に蓋をしようとするのは、赦しとは全く逆です。罪は、二十万年架かっても返しきれない負債以上のものです。神はそれを指摘なさいます。しかしそれは、私たちを責めるためではありません。赦しを用意しておられるからです。罪や罰以上の幸せがあるのです。赦しは困難なプロセスですが、その長いプロセスをかける甲斐のある、素晴らしい幸いがあるのです。赦しはその幸いを戴くための扉なのです。

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