聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問1 「神の栄光を現すために」ローマ十一33~36

2014-04-26 21:02:10 | ウェストミンスター小教理問答

 2014/04/27鳴門キリスト教会夕拝説教ウェストミンスター小教理問答1

「神の栄光を現すために」ローマ十一3336

 聖書の最初の言葉は、「初めに神が天と地を創造した」です。神が天地を創造したことをスタートラインとする聖書の信仰を、今日のところではこう言い換えています。

36…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 天も地も、すべてのことが神によって造られ、神によって存在し続けており、神を目的としている。そういう偉大な神様を、永遠に栄光をお受けになるお方として賛美することが相応しい。そういう告白を、私たちも常に確かめて、深めていきたいと思います。

 私たちも、神様によって造られました。神様が、この世界をお造りになったと同じ、御計画と不思議な力をもって、私たちをお造りになり、生かしておられます。ですから、私たちは、神様の尊い作品です。

「人のおもな目的は、何ですか。答人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」

 ウェストミンスター小教理問答という本の一番初めの言葉です。私たち人間の何よりの目的(ゴール)は、神の栄光を現すことだ、というのですね。幸せになること、でも、有名になる事とも言いません。友達を沢山造ることや人の役に立つ事も、それはそれで大切です。でも、それが目的ではないのです。世界が存在しているのは、神様がお造りになったからです。私たち人間も、神様がお造りになったものです。神様は、私たちを通して、神様の素晴らしい栄光を輝かせたいと思われたのです。

 クリスチャンは、人間の罪を確かに強調します。イエス様が十字架に掛からなければ赦されようがなかったほどの、罪の重さを薄める事なく信じます。けれども、聖書は私たちが元々罪人で愚かで、汚れて、価値がないと言っている、と考えるなら、それは誤解です。そうではありません。聖書は、私たちが、天地をお造りになった神の作品である、と教えます。原点は、その栄光ある神様です。もしも、その神様の作品を、人が「私なんか、詰まらない、ダメなものだ」とばかり言っているなら、謙遜のつもりでも、造り主なる神様に対して、失礼なことを言っていることになりますね。神様も、失敗したのかもしれない、と言いますか。それもまた、神様に対して、失礼ですね。

 勿論、人間が罪人となったのも事実です。でもそれは、神の栄光を現すべき目的を捨てて、神を疑い、神に背いたから、そこにあった本来の素晴らしい価値がなくなった、ということです。電球や蛍光灯には、電気の力で光り輝くという大事な使命があります。それなのに、コンセントを抜いてしまって、いくら自分の長さを自慢したり、ピカピカに綺麗にしたり飾ったりしても、何にもなりません。まして、人間は、この世界の中でも、神様のかたちに造られて、神様との親しい関係を与えられて、神の素晴らしさを輝かせるために造られたのに、その神様との関係を切ってしまったのなら、いくら人間の間で褒められるようなことをしようと頑張ったり、有名になったりしても、何の価値もありません。だけど、それはその人にもともと価値がない、という意味ではなくて、その逆に、もともとは物凄く価値があるのにその価値を放り出して、違うことを目的としている、そんな事に人の価値はない、それは本来の価値からしたら何の意味もない、という意味です。

 このローマ人への手紙を書いたパウロ自身、この言葉を深い感動をもって書いているのだと思います。以前のパウロは、イエス様を知りませんでした。とてもマジメに、一生懸命、神様を喜ばせようと思って、正しいと思った事ばかりしていました。誰よりも頑張って神様に褒められようと思っていました。でも、そうやって燃えていた時に、イエス様が彼に現れてくださいました。そして、自分がやっていた事の間違いに気付きました。でもそればかりではありません。自分が一生懸命、人一倍頑張る事で神様が喜ぶのではない、と気付きました。イエス様は、神様に背いた人間のために、十字架にかかってくださいました。イエス様にそうしてもらうだけの良いところが人間にあったのではありません。むしろ、滅ぼしてしまった方がいいような反逆者たちでした。でも、イエス様は、その人間たちの救いのために、限りなく低くなられて、十字架にまでかかってくださいました。その神様の大きな愛は、私たちが何かをしたから、良い事をするから、もらえるような、そんなちっぽけなものではありません。主イエス・キリストが示されたように、本当に大きく、深い愛でした。そして、パウロは、自分が正しく生きよう、人より頑張って遮二無二生きるという生き方から、一八〇度変わって、正しく生きようとしても人を傷つけて、間違ってしまう、そんな私をも愛して、考えられないほどの犠牲を払ってくださった神様の、赦しの恵み、大きな愛を証しするようになりました。自分をピーアールするのではなくて、神様の栄光を伝えるようになったのです。

 神様の栄光を現す、というのは、何かすごく立派な事や、ビックリするような特別なことをする、ということとは違います。神様は、この世界をお造りになるぐらい、力があり素晴らしい方ですが、人間がいくら強がったりすごい事が出来たりしても、そんなものは神様の偉大さを現すというには儚はかなすぎます。神様が人間に望まれたのも、そういう大きさではなくて、むしろ、神が愛なるお方、慈しみ深く、真実なお方である、という面を現すために人間をお造りになったのです。教会が立派な大会堂を建てたり、沢山の立派な人たちが集まる華やかな社会になったりしても、神様の栄光は輝かせません。むしろ、私たちが、心から受け入れ合い、違う者同士、尊重し合うようになることから、神様の栄光を現す事が始まるのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分のように愛することが、最も大事な命令だとイエス様は仰いました。それは、神様が人間をそのような者としてお造りになったということです。

 私たちの周りには、色々な雑音が溢れています。幸せになるためには、あれも必要、これも必要。神様よりも、お金の方がいい。神様なんて助けちゃくれない。人生を無駄にして、負け犬になるな。どれも、神様から私たちを引き離そうとします。でも、イエス様を見上げましょう。イエス様は、神様から離れたこの世界のまっただ中に来て下さいました。そして、十字架で死なれて、三日目によみがえられたのです。神の子イエス様は、私たちが神様に背いていた時に、すでに私たちのために犠牲を払って下さいました。そのイエス様の言葉に、耳を傾けるとき、私たちは自分が神様に造られた、尊い者である事を知らされて、安心することが出来ます。神の栄光を現すために何かをする、というよりも、イエス様によって、神様の限りない栄光を既にいただいている。その恵みに喜び溢れて、聖書に従って生きることが、神の栄光を現すのですね。それが、イエス様の福音です。

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ルカ十六1-13「あなたがたに、まことの富を」

2014-04-26 20:50:53 | ルカ
2014/04/27 ルカ十六1-13「あなたがたに、まことの富を」

 ルカの福音書に聞き続けます。前回十五章が、「放蕩息子」という、分かりやすく、心を打たれる例え話でした。この十六章は一転して、イエス様の例え話の中でも最も評判の悪いものではないか、と思います。どうしてイエス様は、こんな狡(ずる)をした管理人の話などされるのでしょうか。どうして、こんな不正な管理人が褒められるのでしょうか。私たちも、仕事を胡麻化して自分の保身を計った方がいい、ということなんでしょうか。
 まず、イエス様の例え話には、こういう思い切ったものもあるんだ、と知ることが手がかりだと思います。十八章の「不正な裁判官の譬え」も一例ですし、他の譬えだって、イエス様は結構極端な例を出されています。事細かに意味が秘められているような譬えもありますが、要点を浮き彫りにするために、あえて思い切った設定や展開をお話しになることもイエス様の話法なのですね。ですから、ここでも、主人の財産を使い込んでいる管理人が出て来ます。その彼が、首を切られた再就職先にと、債務者の証文を書き換えさせる、なんて大胆なことをしでかします。そして、
 5…『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
 6その人は、『油百バテ』と言った。…」
 油百バテってどれくらいですか。欄外に「一バテは三七リットル」とありますから、百バテとなると三トン以上です。次の7節の、
「小麦百コル」
は、更に十倍で、重さは二十トンぐらいになるんでしょう 。そんなべらぼうな借用書を出して見せて、それぞれに「はい、五十に書き換えなさい。はい、八十と書き換えちゃいなさい」と運んでいる辺り、実用的というよりも滑稽な、あり得ない話なのですね。ちょろまかす、なんてものではない、オーバーな話なのです。そして、
 8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
 むしろ、「賢いやり方で」という意味ですが 、この管理人が不正でもいいとか、同じようにしていい、というような話ではもともとないわけです 。ただ、この大袈裟なお話しによって、イエス様が仰りたいのはこれです。私たちは、「光の子ら」として、もっと賢く生きなければならない。その抜け目なさに学んで、この世の富よりも遙かに尊い、神の国を待ち望んで、忠実に働きなさい、ということなのです。
 9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
 この場合の「不正の富」とは、文字通りの、汚れた富、不法な手段で得たお金、という意味ではなくて、「この世」とか「小さい事」と並んでいる通り、現在の世界の事ですね 。その社会において私たちが使える富・チャンスというものがあります。でもそれは、9節で言うように、いつか必ず、なくなる時が来ます。ですから、その時のために、この世の富を用いてでも準備をしておく方が賢明です。
10小さい事に忠実な人は、大きい事に忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12また、あなたがたがた他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
 「小さい事に忠実なら大きい事にも忠実」は一般論としてもそうですけど、イエス様は、今の世界に忠実である事が、永遠の将来への忠実さと見做される、と仰っているのです。この世のことは小さな事、本当に私たちのものとは言えない「他人のもの」だけれど、これを忠実に使うかどうか、が「永遠の住まい」の「大きい事」、「まことの富」として私たちが任せていただけるものへの忠実さに直結するのです。ただ、その忠実さとは、「光の子ら」としての忠実さです。永遠の住まいに迎え入れてもらえる「友」を作るような忠実さです。つまり、結論となる13節でこう言われる通りです。
13しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
 つまり、神に仕えているつもりでいながら、富にも仕えている。自分としては、富を楽しみ、お金を使って、大いに活用しているつもりでいながら、結局、富に使われ、富に仕えて、振り回されている生き方を、イエス様は読者に警告しておられます。9節では、この世の富を抜け目なく用いている人に見習って、あなたがたも抜け目なくなれ、と言われていました。でもそれは、金銭に無頓着でいるな、富を無駄遣いしない賢い者となれ、という意味ではなかったのです。賢くなれ、抜け目なくなれ。汚職して罷免される管理人さえ例に出されてイエス様が警告されたのは、私たちが純朴すぎるから、愚かなほど無欲だから、ではありませんでした。まだまだこの世の金銭・富を神と並べて崇めている。永遠に続くかのように、私たちを幸せにする、まことの富であるかのように考えているから、なのです。この世のことに淡泊で、無欲に生きているつもりでいながら、結局は、この世の価値観に染まっていることに気付かず、富を信じている。神に仕えているつもりが、結局、金銭を崇めている、というところが私たちにもあるんじゃないでしょうか。
 前の十五章の「放蕩息子」とはずいぶん違う話のように思えます。でも、十五章から十六章への繋がりは実にスムーズで、断絶してはいません。そして、1節で「主人の財産を乱費している」とあったのは、十五13で、放蕩息子が「放蕩して」とあったのと同じ言葉なのです 。そういう事を考えても、これは別々ではなくて、一貫したメッセージがあると見えるのです。私たちは神に仕えている、真の神を知っている、取税人や罪人、この世界の不正とは違う、と言いながら、でもまだ富に使われている。お金があれば強くて偉くなったような気がするとか、お金がないから幸せになれないとか、ないでしょうか。放蕩息子は最初、お金で幸せになれると思って、財産をねだり、それをもって遠くに飛び出していきました 。でも、放蕩して何もかも使い果たした末、友達はみんな去ってしまって、卑しいとされた豚飼いにまで身を落としました。ひもじさで死にそうになった末に、「我に返って」 、父のもとに帰ろうと考えました。それは、本当の悔い改めとは程遠かったものの、父のもとに帰るなら、飢え死にしないで済むという現実に気付いたのです。同じように、不正な管理人も、乱費(放蕩)した末に首を切られると分かった時、
 4「ああ、わかった、こうしよう。」
と気付いて、乱費をやめて、立場を有効に用いました。放蕩では幸せにはなれません。いいえ、神よりも富に頼り、人生や将来をお金で買おうとしているなら、どんなにうまくいっているようでも、「乱費(放蕩)」に過ぎません。テレビや宣伝に振り回されて、通販だの安売りだのに心が奪われている限り、神に仕えず、失われている生き方なのです。放蕩息子の兄も、父のもとにいても、結局は、「自分には子ヤギもくれなかった、弟は身代を食い潰したのに、あんな弟のために肥えた子牛を屠るなんて」と、やっぱり算盤勘定をしていました。父に仕えていたはずなのに、本当に父親のもとにいる幸せを見失っており、父と一緒に喜ぶ宴会に入れませんでした。これを聞いていたパリサイ人たちもでした。
14…金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
 怒ったり笑ったりして抵抗したいくらい、人にとって富の魅力は強く、抜き取りがたいのです。だからイエス様は語ってくださっているのです。富を神にしていないか。神が手段で財産が目的にはなっていないか。富は使うものであって、愛するには値しない。真の神だけを愛し、この方に仕えなさい。そのために今お預かりしたものを忠実に生かし、そうして永遠への準備をする生き方をしようと、主は私たちを招いてくださっているのです。
 天の父は、私たちを永遠の住まいに迎えてくださいます。私たちのささやかな忠実さえチャンと見ておられます。いつか死んで、すべてのものを手放さなければならなくなっても、実はそれはどれも「他人のもの、正義ならざる富」に過ぎなくて、その先にこそ、天の父が「まことの富」「あなたがたのもの」を用意しておられます。神様の恵みの豊かさ、祝福の計り知れなさにこそ目覚めて、この方が、この方だけが、私たちを幸いにして下さるのだと心得たい。富にフラフラし、どこかでがめつくなってしまうなら、富を神とする偶像崇拝をしているのだと気付かされたいと思います。そして、その失われた生き方の愚かさに気付いて、我に返るために、イエス様は今もあらゆる方法で語り続けておられます。ご自身を十字架に与えて果たされた贖いは、そのようにしても私たちに届けられるのです。

「この世にある限りお金やモノと無縁では生きられません。だからこそ、富の奴隷や幻想から解放されつつ、主からの預かり物、賜物として賢く活かすことを教えてください。今ここで主のために、忠実に働く者とならせてください。生活の隅々まで新しくしてくださる贖いの御業を感謝します。永遠の真の富を望み、喜んで仕える者とならせてください」



文末脚注

1. 小麦の重量を、比重0.55で計算してみた場合。ただし、これは「小麦粉・強力粉」の比重を参考にしたものです。
2. 8節で「抜けめがない」(形容詞)「抜けめなく」(副詞)と訳されている語は、同語根の単語ですが、これは、十二42で「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう」とあった「賢い」と同じ言葉です。
3. ただし、この管理人のした事自体、合法的であった、との見方が優勢です。「しかしデレットによると、ユダヤ教世界においては同胞に対して利息をとることは禁じられていた(中略)が、しかし金銭や食物などによる商行為において、取引きの場合には利息を含めて貸借をする習慣があった。(中略)相互に利益になる交易は禁じられてはいない、というわけである。(中略)たとえば取引証書には百石の麦を貸すとした場合、その全量の返却を当然要求されるが、その中の二〇石は実は利子分である。しかしそれは証書には記されない。通常こういう取引きはいちいち主人に報告せず、家令の裁量で行われていた。/この解釈によると、このたとえは家令が解雇に直面して、取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように彼らに書き改めさせた、ということになる。つまり割引いたのは利子分であった(その利子分は家令の取り分だとする者もある)。彼は主人の取り分を窃取して将来の自分の地位、身分の安全を負債者からあがないとった。しかし主人はここで利子分は別として実質的に何も失わなかった。のみならず、律法に則して友人の便宜をはかり援助したということで、主人は栄誉を受ける。…」関田寬雄「ルカによる福音書第十六章一-一三節」『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ ルカによる福音書』(日本基督教団出版局、一九八九年)、四一〇頁。
4.  神様の正義に背いて、自分たちの基準で作り上げられたこの社会、と言えばいいでしょうか。
5. また、十五章の始めは、イエス様の周りに大勢の取税人、罪人たちが近寄って来たのを見て、パリサイ人、律法学者たちが呟いた様子でした。イエス様は、失われた羊と銀貨、そして放蕩息子の話をなさいました。それに続けて、今日のこの話を特に弟子たちに向けて話されたのですが、十六14「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」と繋がるのです。
6. この繋がりを考える時、「放蕩息子」の話においても、弟息子が失われていたのが、金銭の奴隷となっていたからであった、という原因と、それが実に鋭い指摘であるという現代的なメッセージ性とが、もっと強調されるべきだと考えます。
7. ルカ十五17「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」


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マルコ十六1~8「よみがえられました」

2014-04-20 15:06:03 | 聖書
2014/04/20 イースター礼拝 マルコ十六1~8「よみがえられました」

 今日の終わり方、気になります。イエス様の復活を伝えるのは、マルコだけでなく、マタイ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書全てが最後にすることです。しかし、マルコのように、
 8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 こんな書き方は他にはありません。続きの9節以降は、欄外を読むと書いてありますが、「異本九-二〇節を欠くものがある」。というより、大事な写本は8節で終わっていて、9節以下とのつながりはどうもしっくり来ない。やっぱり、マルコは最初、8節で終わっていたのだろう、と考えられています。
 不思議な終わり方です。イエス様の復活に、震え上がって、気も転倒して、恐ろしくって、誰にも何も言わなかった。そう終わります。でも、勿論、そのまま口を噤(つぐ)んだまま、墓場まで何も言わなかったのでは無いことは明らかです。それで、誰にも知られなかったのだとしたら、新約の教会は誕生しませんでしたし、マルコの福音書を受け取る教会も、マルコの福音書が書かれることすらなかったでしょうから。
 この女たちも、間もなく、7節で告げられた通り、弟子たちに、イエス様は先にガリラヤに行っておられて、そこでお目にかかれる、と伝えます。そして、弟子たちがイエス様と出会って、弟子たちもイエス様の復活を信じ、イエス様が天に帰られた後も、十字架にかかり三日目によみがえられたイエス・キリストを伝えて行くのです。そのキリストを信じる人たちがあちこちで起こされて、教会はローマ帝国中に広まっていきました。そうして、三十年近くが経った頃、マルコは改めてここで、よみがえりに出会った時の、驚き、恐れ、言葉を失うほどの思いを書きます。そこでこの福音書を書いていたペンを置いてしまう。それぐらいに、この驚きに立ち戻ることの大切さを言いたかったのだと思います。
 こういう終わり方をしていることは不思議です。でも、そこで起きた、イエス様の復活ということが本当に不思議で、驚くべき事、信じがたい事だったのですから、こういう反応は自然でもありました。もし、イエス様が復活された時、弟子たちが驚きもせずにすぐ喜んでお祝いしたとしたら、却って不自然です。そして、現代の人からは、「そんな非科学的なことはあり得ないよ。昔はともかく、医療や知識の発達した現代は、復活なんてあり得ないから信じられないね」と一笑に付されるでしょう。聖書は、迷信の時代にかかれたものではありません。人が死んだら生き返ったりはしないことぐらい、当時の人たちも分かっていました。イエス様がよみがえることを彼らが夢見ていた、その願望がこうした伝説を産んだのでもありませんでした。弟子たちは、イエス様の死に怯え、逃げてしまい、復活願望などなかったのですし、実際の復活に直面してさえ、喜んで信じたのではありませんでした。彼らは、まずひたすら驚き、恐れ、信じられず、震え上がったのです。
 それは、死人がよみがえった、という非常識への驚きだけではありませんでした。それを告げた、「真っ白な長い衣をまとった青年」の存在は、イエス様の神々しさを裏付けています。彼から言付けられた、
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」
という言葉は、イエス様が、十字架と復活の事を、前から話しておられた事実を思い出させます。ただよみがえった、というのではありません。十字架の死も、そこからの復活も、全部イエス様が初めから知っておられた事、見つめておられた事でした。イエス様はそういうお方だった、と改めて知ったのです。
 今まで彼女たちはイエス様をお慕いしていました。1節に名前の挙がる女性たちも、それぞれにイエス様への大きなご恩を感じていました。この時も、男弟子たちが逃げ出して不甲斐なくしている中、彼女たちは勇気を振り絞ってイエス様の亡骸に、せめて香料を塗って差し上げたいと、わざわざ出かけてきた。それぐらい、イエス様を敬い、かなりの信仰を持っていました。けれども、まだイエス様の十字架も復活も、分からないでいました。そこまで偉大なお方だと、語られてはいたのに、ピンと来ていませんでした。それが、この時に分かったのです。今まで、ずっと、「イエス様、イエス様」と親しみ、そばにいた方が、実は、十字架の死を自ら死なれ、三日目の今日よみがえられた方、死と戦って勝利された方なのだ。そう分かったのです。分かったけれど、だからすぐに「素晴らしい、ハレルヤ!」とはならずに、驚き、飲み込めずに、かえって恐ろしく、気も転倒してしまった。その、イエス様の大きさに打ちのめされた体験こそが、教会の原点だったのです。
イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
とあります。イエス様は、弟子たちの家であるガリラヤで、彼らを待っておられました。この「先に」というイエス様の「先回り」は、マルコの福音書が最初から特徴付けていたことと重なります。マルコの福音書は、イエス様に、「すぐに」という言葉を繰り返して使っています。すぐに、すぐに、とどんどん進んで行かれるイエス様の姿を浮かび上がらせます。先へ先へと、進まれるイエス様です。後半は、もっと顕著で、
十32イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。
とありました。そうして、先へ先へと、弟子たちが後を追っかけていくうちに、イエス様は捕まり、イエス様を裁判に掛けるピラトでさえ、イエス様の沈黙に驚き、一昨日見たようにイエス様の余りに早い死に驚いた、とありました。そして、ここではイエス様がよみがえられて、先にガリラヤに行っている、ということに驚き恐れた、というのです。誤解しないで下さい。イエス様は、あまり急いでおられて、私たちが追いつこうとしても無理なくらいだ、というのではないのですよ。却ってその逆です。私たちが考えもしなかったぐらい、私たちとともにいてくださる。私たちの歩みを、先に立って、そこで待っておられる。私たちの死をも、先に味わわれて、私たちが受けるはずだった苦難を、代わりに引き受けて味わわれてしまっておられた。私たちの手の届かない方ではありません。復活も、私たちが信じても信じなくても関係ないような大昔の出来事、遠くかけ離れた世界での出来事では決してありません。実に、イエス様は、神の御子なる尊いお方でありながら、私たちの本当にそばに来て下さった。私たちの歩みを先回りして導いておられる。その復活は、イエス様が私たちと本当にともにおられることのしるしです。私たちが死ぬから、イエス様も死なれたのです。イエス様がよみがえられた以上、私たちもまたよみがえると約束されているのです。
 7節で「お弟子たちとペテロに」とわざわざペテロが名指しされています。ペテロと言えば、十二弟子のリーダーで、最も有名な使徒です。けれども、イエス様が捕らえられた時、ペテロは卑怯にもイエス様を知らないと、三度関係を否認しました。臆病風に吹かれて、イエス様を繰り返して裏切り、呪いを掛けて誓ってまで、イエス様に背いてしまったのです。でも、そのペテロにも、いいえ、ペテロを特に名指して、ガリラヤで待っていると仰いました。イエス様は前からペテロの弱さをご存じでした。失敗しやすいことも承知しておられました。私たちもまた、どんな弱さがある事でしょう。どんなに思い上がってきたことでしょう。イエス様が私たちのために、どれほどのことをしてくださったか、どれほど愛してくださっているかを見ようとせずに、失礼なことや冒涜をしてきたことでしょうか。それでも、イエス様は私たちを知り、私たちを受け入れて、待っておられます。そのために、イエス様は、十字架と復活を通ってくださいました。そのイエス様の、余りに大きく、深い御愛に、私たちは驚き、言葉を失い、黙ってそのことを思い巡らすことが必要なのではないでしょうか。
 今、私たちは、自分や身近な人の死、また苦しみや悲しみ、人に裏切られたり、なかなか人生が展開しなかったり、そうした経験を通らされます。そうした生きていく上での経験を、イエス様も味わってくださいました。そこで、今、私たちが痛みや孤独を体験することは、その体験を通して、イエス様がどれだけ苦しみ、私たちとともにいてくださるかを知る意味を持ちます。傷を通して、イエス様に出会うのです。イエス様に助けてもらう、祈って状況を変えてもらう。それも大事です。でも、それだけだと、私たちが自分の人生をコントロールするために、イエス様や神様を利用するだけになります。主イエスは、そんなちっぽけな方ではありません。私たちが飼い慣らす事など出来ない大きな方、測り知れない方、この方が私たちのために死んでよみがえられたことを知る時に、私たちは、打ちのめされるような思いをし、驚いて言葉を失うはずです。自分の苦難を通して、そうした思いをじっくりとさせていただきながら、そこから、私たちの信仰も、教会も、伝道や証しも始めさせて戴きたいと願います。

「主のよみがえりに、言葉を失った女たちの姿に、私たちの信仰もまた、この驚きから始まるものであることを確認させられます。これほどの御業を知らされていながら、なお自分の迷いや嘆きの方が大きくなってしまうことがありますが、どうかその時にこそ、改めて主の恵みを深く味わい、静かに主の御愛を賛美させてください。主が常に先立ち、待っておられますから、この束(つか)の間(ま)の人生も、心を込めて、望みをもって、務めさせて下さい」

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マルコ十五44~47「もう死んだのか」

2014-04-18 08:26:59 | 聖書

2014/04/18 受難日礼拝 マルコ十五44~47「もう死んだのか」

 受難日の礼拝です。今から二千年ほど昔のこの時期に、イエス・キリストは十字架につけられて、その肉を裂かれ、その血を流し、人々の罪と罵倒を背負い、何よりも私たちの罪のために私たちが受けるべき神の裁きを一身に背負われて、亡くなられたのです。そのことを記念する受難日です。しかし、今は夜です。また、金曜の夜と言えば、それぞれの一週間のお仕事を続けられて、もうホッとしたいという時間でもあるのではないでしょうか。イエス様の激しい苦しみに心を馳せるのは、もう重すぎる気がするかもしれません。
 当時の人々も同じような事を考えました。午後の三時、すでにイエス様はその苦しみを負われて、十字架の上で息を引き取っておられました。夕方が近づいてきました。ここに出て来る「アリマタヤのヨセフ」は、苦しみ死なれたイエス様のお体を、そのまま十字架に晒したままにするには忍びないと考えました。律法の教えにも叶った事でしたし 、そのままにしておけば、鳥が来てイエス様の体を啄(ついば)み始めるに違いありません。同時に、ユダヤの時間では、一日は朝や真夜中からではなく、日没から日没までで数えます。
すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
とは、本当にもう間もなく、安息日が始まろうとしていた、という切羽詰まったカウントダウンを指しています。急いでピラトのもとに取り下ろしを願い出て、御体を十字架から下ろし、亜麻布で包み(ヨハネによれば、没薬とアロエを混ぜたものを30kgも混ぜ込んで)、墓に安置して、石を転がしかけた。そして、瞬く間に日は落ちて、夜になって、一息ついた頃でしょう。ですから今晩も、イエス様の死を(正視に堪えない激しい苦しみよりも、静かなイエス様の死を)夜に相応しく、静かに想わせていただきたい、と願います。
 しかし、ここには一つの驚きが書かれています。
44ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったのかどうかを問いただした。
 ピラトは、前もイエス様の常識外れの沈黙ぶりに驚いたのですが 、ここでもまた驚かされています。普通、十字架に掛けられた囚人は、何日にもわたって苦しみ続けました。手足を釘で打たれ、体中の骨は外れ、太陽が照り付けて、鳥も啄(ついば)んできます。しかし、致命傷は与えられません。ジワジワと苦しみ続けて、段々体が弱り、気が狂う事もあったそうです。そして、最後は窒息か心臓が限界に来て、死ぬのだそうです。でも、それまでには何十時間もかかるのが普通でした。ですから、ピラトは六時間で息を引き取ったイエス様の死に驚いて、百人隊長を呼び出して確認させた程、訝(いぶか)ったのです。ヨハネの福音書に寄りますと、兵士がイエス様の脇腹を槍で刺して、その死を確認したのです。つまり、イエス様は本当に死なれたのです。本当は亡くなっていなかったとか、仮死状態だったなどと言って、復活を説明しようとする人もいますが、イエス様の死はちゃんと確かめられた、確実な死でした。そして、本当に死なれたイエス様が復活なさったのでした。
 では、イエス様は、どうしてそんなに驚かれるほど早く死なれたのでしょうか。それは、イエス様が本当に人間となっておられたから、です。百パーセント神である方が、百パーセントの人間ともなられて、私たちと同じような体を持っておられたのです。スーパーマンのような、鋼のお体であったなら、イエス様はいつまでも、何日でも、十字架に留まっておられたかも知れません。それはそれでピラトを驚かせたとは思いますが、けれども、イエス様はそうした強さ、非凡さによってではなく、私たちと変わらない弱さ、低さを通して、神様の恵み、私たちに対する愛を現してくださるのです。私たちと同じ、痛み、苦しみ、飢え乾き、疲れ、お腹が空き、眠くもなる。そういう人間となってくださいました。
 それに加えて、イエス様のここまでの疲れは並大抵ではありませんでした。連日の説教に加え、前夜の「最後の晩餐」からは一睡もしていません。その間に、ゲッセマネの園では、汗を血のように流さずにはおれなかったほどの激しい祈りを、何時間も祈っておられました。裁判の後では、惨たらしいむち打ちで、背中は裂けていたでしょう。すでに、十字架を背負う段階で、イエス様はクレネ人シモンが助けに引き出されなければなりませんでした。それほど、イエス様はすでに疲労(ひろう)困憊(こんぱい)しておられたのです。
 それだけではありません。イエス様は、十字架の痛みを全部引き受けておられたのです。23節に、イエス様が、没薬を混ぜたぶどう酒をお飲みにならなかったとあります。これは、痛みを嫌がる囚人が、感覚を麻痺させられて、少しだけ痛みを忘れることが出来るように与えられた温情措置だったそうです 。それをお受けにならなかったイエス様は、十字架の苦しみから逃げようとはなさらなかったのです。十字架に掛けられた囚人は、痛みから少しでも逃れようと、僅かですが体を動かしたり、腰の所に張り出した板に体を載せたりするのだそうです。イエス様はそんなこともなさらなかったのではないでしょうか。十字架から降りてみろ、との挑発にも屈しなかったイエス様は、この苦しみからちょっとでも楽になろうとなどはなさらず、十字架の苦しみを最後の一滴まで舐め干して下さったのです。それもまた、イエス様の死が早かった原因ではないでしょうか。人としてのお体が早々と力尽き果てるぐらい、イエス様は私たちの苦しみを全身全霊で受け止めて、その命の火を燃え尽くされたのです。
 先に言いましたように、ピラトは、そのイエス様の早すぎる死にひどく驚きました。そして、イエス様のお体が人間離れした強さを持っていて、なかなか死ななかったとしても、それはそれで驚いたのだと思います。でも、もしそういう驚きだったら、彼はすぐに、そのイエス様の力を、なんとか手に入れたい、自分もそういう力に憧れていた、その力が欲しい、と思ったに違いないでしょうね。私たちもイエス様にそういう特別な、圧倒的な力を期待するところがあるでしょう。神様が、人をアッと驚かせるようなことをしてくださったらいいのに。苦しみを撥(は)ね除(の)け、特別な力を現してくだされば、自分も信仰が強くなるし、もっと沢山の人がイエス様を信じるだろうに。そんなことを考えます。イエス様が亡くなってさえも、その御体が特別なものだと思っていたい。クリスチャンの死は、世間の人とは違う。苦しい死とか、惨めな最期とか、そんなことはないと思っていたい。
 でも、イエス様はそんな方向で人を驚かせようとはなさいません。むしろ、本当に私たちと同じようになってくださり、私たちと一つになって下さった方です。その最後は「もう死んだのか」と驚かれる程早かったのです。それぐらい、人間としての限界の中に収まり、その限界を使い切ってくださいました。
 イエス様を十字架から取り下ろしたヨセフたちは、普通の死人を下ろすように、大変だったと思います。そこに、特別な奇蹟めいた出来事があったとは、聖書は記しません。イエス様の死が信じられない思いで、何か奇蹟を期待したかも知れませんが、そこにあったのは、普通の人と変わらない亡骸でした。けれども、それは虚しい死ではありませんでした。そこに何の奇蹟めいたことは見えませんでした。が、そのイエス様をお慕いし、勇気を振るってイエス様の体を取り下ろし、真新しい亜麻布に包(くる)み、墓に葬った人たちがいた、まさにそのことが、奇蹟だったのです。ピラトや人間をアッと言わせて魅了するような輝きなどない、驚くほど非力な死でした。しかし、逃げもせず恨みもせず、神様への信頼を真っ直ぐに貫かれ、死んでしまわれたイエス様を、今更ながらでも、堂々と引き取りたいと申し出て、丁重な埋葬をしようとした、ヨセフの姿こそ、奇蹟ではないでしょうか。
 十字架で亡くなられたイエス様の御体は、血と汗と涙でドロドロだったでしょう。自分の着物も汚れてしまいます。当時、死体を綺麗にしてあげるのは、女性の仕事でした。男性のヨセフがそれをした、それも、このイエス様のお体を取り下ろして、というだけでもこれは本当に奇蹟だと思います。有力な議員だと紹介されていますが、そんな地位も棒に振りかねない行為をしました。
 そして、そのヨセフの姿を通して、イエス様が驚くほどに丁重に葬られていることが窺えます。両脇の二人の囚人は果たしてどんな扱いをされたのでしょうか。イエス様は、通常の死刑囚とは全く異なる扱いをされました。それは、イエス様の死が、本当に尊い死であることを証しするようでもあり、また、早くもイエス様のよみがえりを証しするようでもありました。ここにも、私たちが心に思い巡らすべきメッセージがあります。
 私たちもピラトも、力や見栄えを重視する世界に生きています。神様に対しても、華やかな奇蹟とか、特別な体験を求めやすい者です。そうしたことがないと失望し、祈りも疎かになったり信仰生活に虚しさを覚えたりします。けれども、イエス様の十字架のお姿を仰ぎましょう。イエス様の死は、私たちとは逆に、謙り、仕え、手放し、低くなって、私たちと一つとなって下さった恵みを現しています。そのイエス様の栄光に触れられて、私たちもまた、謙って、砕かれたいのです。無いものを数えたり、感謝を忘れたりした生き方をするのではなく、神の子イエス・キリストが、本当に私たちとともにいてくださるのだと告白したいと思います。この恵みによって深く変えられる人生であれば、と願います。

「こうして受難日の夜に集まった今晩、夜が終わりではなく、新しい朝、栄光の朝に向けての始まりであることを心に刻みます。イエス様が十字架に死なれ、本当に私たちと一つとなってくださいました。その尊い死に、私たちが驚き、主の愛に心を満たされ、照らされて、希望を持って歩ませてください。主の時を待ちつつ、仕える者とならせてください」

文末脚注

  1. ヨハネ十九31「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを負ってそれを取りのける処置をピラトに願った。」とあります。これは、申命記二一22-23「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」との律法とも相まって、この日にとられた処置でした。
  2. マルコ十五5。
  3. もちろん、それは囚人のためというよりも、兵士たちが囚人を十字架に釘打つために扱いやすくするための措置でしかありません。
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マルコ15:22~47「まことの神の子」

2014-04-16 10:10:24 | インポート
2014/04/13 マルコ15:22~47「まことの神の子」

 今週は、世界中のキリスト教会が、イエス様が十字架にかかられたのと同じ時期、同じ季節として、ともにイエス様の御苦しみを思い、また、来週は三日目の復活を喜ばしくお祝いしますイースターです。今日と、金曜日の受難日礼拝、そして、来主日と、マルコの福音書の記事を続けて聴きたいと思います。特に今日は、イエス様が十字架にかかられた、まさにその箇所を開きました。
24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
と、読み飛ばしそうなぐらい短く書かれています。しかし、十字架刑とは、十字に手を広げた囚人の両手と両足を釘で打つのですから、凄まじく残酷な拷問でした。そして、そのまま十字架を地に立てて吊すのですから、囚人たちは想像を絶する激痛に悶え苦しみ続けなければなりませんでした。そうした苦しみに加えて、辱めや嘲りもイエス様は味わわれたことが分かります。むしろ、そちらの方が詳しく記されています。24節に
そして、誰が何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
とあります。つまり、イエス様は裸で十字架につけられたのです。十字架を描いた名画はたくさんあっても裸のイエス様というのは余りにも冒涜的ですから、たいてい腰布はまとうか、隠すように描いていますが、実際のイエス様には隠せなかったのではないでしょうか 。また、29節以下には、通行人と祭司長たち、そして、両隣の強盗もまた、イエス様を罵(ののし)り、嘲(あざけ)った、と書かれています。本当に酷い侮辱でした。
29「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31…「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
 こうして、裸で苦しみ続けるイエス様を嘲笑(あざわら)い、挑発したのですね 。けれども、イエス様は十字架に留まられました。その、想像を絶する苦しみと、酷い辱めや嘲笑にも耐えられました。むしろ、マルコは、そのイエス様の沈黙の方を強調しているのですね。十四章でイエス様が逮捕されてから、裁判の席でもイエス様は、何も答えず黙ったままでおられた、と言われます 。ただ、ご自身が神の子キリストであるとの証言だけを力強くなさいました 。それによって、大祭司はイエス様を冒涜罪で死刑とする事を決議します。そして、十五章に入り、ピラトのもとに連れて行かれても、2節で、
「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
と言われた以外は何も言い返されないので、ピラトは驚いた、とわざわざ5節に書かれている程でした。それからもイエス様はずっと口を開かれません。十字架の凄まじい苦しみのど真ん中でも、人々からの辱めや嘲笑に対しても、抵抗しようとせず、そのすべてを引き受けておられます。でも、マルコは、イエス様が十字架で発せられた言葉を一つだけ記して伝えています。
33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 イエス様が十字架にかかられたのは、朝の九時から午後の三時までですが、後半は全地が真っ暗になったのです。それは、イエス様のお言葉から分かるように、神から「見捨てられる」ことを表していました。私たちには、神から見捨てられ、神との間が完全に断絶してしまうことがどんなに恐ろしい事か想像すら出来ません。私たちにとっては、空気があるのが当たり前で、空気がなくなったらどんなに苦しいか、体験してみないと分かりません。朝が来ないかも知れないという恐怖や、正常な判断が出来ないという恐ろしい感覚は、味わってみないと分かりません。私たちの全てを支えておられる神が、私たちに完全に背を向けてしまわれるのがどんなことか、私たちには想像できません。神様の無限の怒りを注がれ、神様の無限の慈しみを奪われるだなんて、私たちの経験や考えを遙かに超えたことです。ただ、そのような体験をイエス様が十字架で味わわれた事、それを「全地が暗くなった」現象が象徴している事、そして、今まで沈黙されていたイエス様が、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばずにはおれなかった程であったこと、だけが伺われます。イエス様は、十字架という残酷な刑でも、嘲笑する人々ばかりに囲まれた孤独の底でも、耐えておられました。驚かれるほど黙っておられました。そのイエス様が、神に見捨てられるという苦しみ-それこそは、十字架刑という肉体的な苦痛以上に中心となる、私たちの身代わりとなったイエス様の苦しみでしたが、-には、苦しみを叫ばずにはおれなかったのです。
 けれども、それは、イエス様にとって、絶望だったのでしょうか。最後に、ギブアップして、父なる神様に恨みや文句を叫ばれたのでしょうか。また、父なる神様も、本当にイエス様を憎み、見捨ててしまわれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様はこの時を最初から予告しておられました。これは、想像を絶する事ですけれども、父なる神様とイエス様は、初めからこの断絶を御計画なさって、地上のご生涯をスタートなさっていたのです。ですから、イエス様も、この苦しみの中で、なお天の父なる神を、
「わが神、わが神」
と呼び求めています。苦しみと悲しみの真っ暗な中でも、神をわが神とお呼びし、信頼しておられます。私たちが表現する事も想像する事も出来ない、神の御怒りを受けながら、なお神を信頼し抜き、神を呼び求めて、希望さえ持っておられます。37節で、
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
とあるのも、力強さ、勝利、完成を思わせますね。弱く、息果てた、というのではなく、力強さです 。十字架は敗北ではなく、イエス様は負け犬ではありませんでした。本当に恐ろしく辛い苦しみをも敢然と全うされて、贖いの使命を果たされたのです。
 イエス様の死は、二つの奇蹟を引き起こしました。一つは、38節にあるように、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。神と人とを隔てる幕が破られました。もう一つは、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
ことです 。これは不思議なことです。イエス様はずっと黙っていらっしゃいました。神の子と呼ばれるのに相応しい、神々(こうごう)しいことをなさったのでもなく、人々から嘲笑われるような、弱々しく惨めで裸の恥をさらすようなお姿でしかありませんでした。マルコがたった一言記すイエス様の言葉は、神に向かって、なぜ私をお見捨てになるのですか、という悲しみの叫びでした。しかし、そこにこそ、百人隊長の心を開く、イエス様の「神の子」としての栄光がありました。イエス様は、痛みを撥(は)ね除(の)ける超人ではありません。敵をバッタバッタと薙(な)ぎ倒(たお)す勇者でもありません。でも、そうした苦しみから逃れようともせず、嘲笑に腹を立てることもされなかった。神に見捨てられるという恐ろしい体験をされながら、なお、神への信頼をされました。その信頼を貫かれたお姿をもって、この百人隊長が、
「この方はまことに神の子であった」
という告白が発せられたと言うのです。
 イエス・キリストは、本当に私たち同じ人間となってくださいました。私たちが味わう痛みや苦しみを同じように味わい知っておられます。人の心ない言葉で心を裂かれるような思いも十分に(完璧に)知っておられます。でも、私たちは、イエス様が私たちのためにどれほど苦しまれたのかを完全に知ることは出来ません。十字架の痛みだって何とか想像するだけです。辱めや侮辱も何とか推し量るのが精一杯です。しかしそれよりももっと計り知れない、神の怒り、神に見捨てられるという体験をされたことの重さ、凄絶さは、私たちには決して理解できません。私たちのためにどれほどの苦しみを味わわれ、犠牲を払って下さったのか、その一番肝心な所を私たちは知りません。そして、イエス様の救いに与ったなら、私たちは滅びを免れるのですから、永遠にそれを知ることはないのです。
 今私たちは、私たちが神に見捨てられることは決してないと信じることを許されています。私たちに代わってイエス様が、尊い十字架の死によって、神の無限の御怒りを引き受けてくださったからです。どんなに辛い事や悲しい思いをしても、それは神が私たちを見捨てられたからではありません。人に見捨てられ、信頼していた人に裏切られても、神様は決して私たちを見捨てず、「わが神」として、ともにいてくださいます。私たちは、いつでも、神様の慈しみと最善の御計画とを信じ、告白して、生きる者とされているのです。

「早まって、あなた様に捨てられたと思い込み、自分こそ神を捨て兼ねなくなる私たちです。主イエス様が暗闇の中、十字架で叫ばれた御声を心に刻ませてください。どんな時もあなた様が親しくそばにい給う事実を感謝します。その信頼をもって日々歩ませてください。そんな歩みが、少しでも、イエス様が神の子と呼ばれたに似た証しとなりますように」


文末脚注

1 しかし、ある方は、「イエスは裸ではなかった。濡れ衣を着せられたのである」と言っています。これもまた、言い得た真理です。http://blogs.yahoo.co.jp/manasseh_0001/13214739.html
2 イエス様は神の御子ですし、今までも嵐を沈めたり、病気を癒やしたり、死人をよみがえらせたりなさったのですから、十字架から降りようと思えば降りることは出来ました。しかも、十字架にかかられたのが、ご自分のためではなくて、私たちのため、罪人である人間のためですのに、その当の人間たちからこんなふうに馬鹿にされたら、「やってられない」と降りたってよかったのではないでしょうか。
3 十四60、61。
4 十四62。
5 ルカは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」が最後の叫びの台詞であったことを伝えます(ルカ二三46)。ヨハネも、「完了した」が絶句であったと伝えます(ヨハネ十九30)。しかし、マタイもマルコも、最後に何を言われたか、より、大声で叫ばれて死なれたという事実そのものを伝えています。「十字架上の七つの言葉」という数えられ方もなされますが、マタイとマルコが、そのうち一つしか伝えていない事実もまた、重視したいと思います。
6 イエス様が神から見捨てられた結果、神殿の幕が裂け、私たちと神様との間の隔てが取り除かれました。また、そのもう一つの表れとして、百人隊長がイエス様を「この人はまことに神の子であった」と告白するに至りました。百人隊長は、イエス様が亡くなった瞬間に神殿の幕が裂けたのを見たから、「この人はただものではない」と驚いてこう言ったのではありません。そういうことではなくて、イエス様の死は、神殿の幕も、百人隊長の心を覆っていたものをも力強く破ったのです。

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