聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

2018-02-25 20:49:22 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/2/18 ハ信仰問答113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

 十誡の最後、十番目の戒めをお話しします。

あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない

です。とても具体的ですね。ここでは「欲しくなって盗ったらいけない」と言っているのではありません。盗ったらいけないのは勿論です。けれども、盗らなくても、欲しがるだけでいけない、といいます。心の中で、人のものを欲しがる、自分のものになればいいのに、と考える。あの人にあって、自分にないことで、怒っている。そういう思いを、神様は厳しく窘められています。ただ、何も欲しがってはいけないのではありません。人が格好を見て、自分の身なりに気を遣うとしたら、自分にとっても良い場合が多いでしょう。この「欲しがる」という言葉はとても強い言葉です。心を何かにくっつける、その事ばかり考える。隣人のものを見て、あれが自分のものならいいのに、と願う強い欲望です。ご近所や友だちや回りを見て、自分にはあれがないとすごく損をしている気になる。今の時代は、奴隷や牛やろばでなく、「お隣の家はいいな。お隣の家族はいいな。あの車かっこいいな」、そういう妬みや欲は尽きませんね。そんなことを考えていたら、いつまで経っても決して幸せにはなれません。だから神様は、そういう妄想を禁じます。たとえ心の中で考えているだけでも、禁じられるのです。

問113 第十誡では何が求められていますか。

答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんのささいな欲望も思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ、かえって、わたしたちが、あらゆる罪に心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。

 この戒めは、神が私たちの心を見ておられるお方だとハッキリ教えています。聖書以外の宗教や国家にも戒めや法律はあります。とても厳しい罰を決めている法律はたくさんあります。けれども、こんなふうに、心の思いにまで踏み込んだ法律は、聖書以外にないそうです。それは、聖書の神が私たちの心まで見ておられ、心の聖さこそを求めておられるお方だと、この戒めからハッキリ教えられます。また、今まで

「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない」

とあった戒めも、そうした間違った行動の根っこには、心の中の間違った欲望が原因だ、ということでもあります。心の中にある

「欲しがる」

思い、自分のものにしたいと強く思い込む間違った願い、それが、殺人や姦淫や盗みやウソになるのです。

 今日読んだローマ人への手紙で、パウロは律法が「人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょうと言っています。欲しがってはならない、という十戒の戒めがなければ、パウロはとても真面目な人でした。見た目では、聖く立派な生活を送っていると自他共に認めていたのです。私は盗んでもいない、騙してもいない、ちゃんと生きている、と言えたのです。けれども「欲しがってはならない」と言われて、自分の中を覗いた時に、欲しがったり自分のものにしようとしたりする思いがありました。心の中にある冷たく強い欲望を否定することが出来ませんでした。しかも、それを言われて自分の心を静めようとしても、一向に拭うことの出来ない、拭いがたい強い思いがあることで、自分の罪を認めざるを得なかったのです。

 けれどもパウロはその後で、このようにも言っています。

15私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。

 自分がしたいと願うことはせず、自分が憎んでいることを行っている。本当は、律法が言うように生きたい。人のものを見ては欲しがったりせずに生きたいんだ。人のものを妬んで欲しがって、生きても決してそれで自分の心は満たされない。私たちが本当に慕い求める正しい生き方は、人のものを全部持てる暮らしではないのです。人のものを欲しがったりしない生き方、心に損や文句を持ったりしないで、心から喜んで、自分の生き方を賢く作ったり、人と分け合う生き方こそ、人の本当の願いなのです。だから神様は、欲しがってはならないと言って下さいました。欲しがってもそれは私たちの本当の願いを叶えてはくれないと思い出させてくださいました。本当に本当に心が願っている聖い生き方、心と行動が一致した生き方へと、私たちを変えてくださるのです。

 あるクリスチャンが言っています。

「共感の欠如が、搾取を生む」。

 誰かと心と心でつながっていることがないから、人のものが欲しくなる、と言い換えられるでしょうか。妬ましくなるのは、本当は寂しい心の穴を埋めたいからなのかもしれません。もし十分幸せと思えたら、余所の家のものを欲しいとは思わないでしょう。幸せは、私たちが人と比べることを止める時に始まります。私たちの心は、神様と繋がり、人と心で繋がることを一番必要としています。それがなくて、いくらものがあっても、誰よりも沢山のものがあっても、誰よりも幸せな人ではなく、誰よりも淋しい人になるだけです。

 イエスは言われました。

マタイ六33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 この「求めなさい」は強い言葉です。人のものを羨むのでなく、でも無欲になるのでもなく、神の国と神の義を強く求めなさい。強く強く、素晴らしい事を、人との繋がりを、神の御心を貪るように求めなさい。比較に囚われない神の国の生き方を強く願いなさい。神の恵みに感謝して、赦し合い、助け合い、分かち合う生き方を慕い求めなさい。イエスからこの心を戴いて喜んで生きなさい。

 何かが欲しくなる時、それは本当に自分に必要なんだろうか、自分が本当に本当に欲しいものは何だろうか、考えてみましょう。私たちを本当に幸せにしてくれるのは、比べたり妬んだりする友達ではなく、私たちをあるがままに愛してくれる神様です。そして、お互いの違うままを大事にし合う人、心と心で繫がれる仲間です。そんな関係のほうがみんな幸せです。

 人は人、私は私。イエス様が下さるそんな豊かな心こそ、みんなで慕い求めたい宝です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

2018-02-25 20:39:31 | 一書説教

2018/2/25 Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

1.手紙を書くヨハネ

 ヨハネの手紙は、紀元一世紀末、新約聖書の中でも最も遅くに書かれたとされる三つの手紙です[1]。宛名はありませんけれども、このヨハネの手紙を読むと、決して不特定多数を漠然と念頭においた一方的な文章ではありません。ヨハネは読者に対して

「私の子どもたち」「愛する者たち」

と親しく呼びかけています。読み手を想いながら、慕いながら書いたのです。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。……私たちの喜びが満ちあふれるためです。

とある率直な表現からも感じられる息づかいです。ヨハネが願うのは親しい交わりなのです。

 これはたった五章の短い手紙ですが、

「愛」

という言葉が52回も出て来ます[2]。聞いたエピソードですが、日本で最初に聖書を印刷した時、印刷屋の「愛」という活字が足りなくなって、他の印刷屋に借りに行ったそうです。印刷屋の想定も越えていますが、神の愛は人間の理解を超えています。神の私たちに対する愛をヨハネは丁寧に語ります。とても深く、理解が難しい所もありますが、愛についての大事な忘れがたい言葉がいくつもあるのもこのⅠヨハネです[3]

 この手紙は

「初めからあったもの」

と始まります。これは新しい事ではなく、もうあなたがたが知っていることだ、と繰り返します。神が私たちを愛し、御子キリストをこの世に送ってくださった。だから私たちも光の中を歩み、互いに愛し合おう。言わば、それだけです。それをヨハネは改めて手紙に書いて送るのです。その必要がありました。間違った教えが入り込んで来た背景もありました。けれども単純な応用ですが、私たちも、神の愛やキリストの十字架の愛、そして互いに愛し合うことを生涯教えられ、ここに立ち帰る者です。何百回と繰り返して、愛の手紙を読んで養われるのです。もう分かった、知っていると思わず、絶えず繰り返して、神の愛に立ち帰る必要があります。愛の言葉をたっぷり聴かなければ、私たちは枯れてしまいます。いつも神の言葉を聴いて、愛の言葉を戴いて、主の恵みに潤されたいのです。

2.光の中を歩む

 この手紙も、ぜひそれぞれにじっくりと読んで戴きたい、というのが今日の結論ですが、その時に大事なのは、ヨハネが圧倒的な神の愛を大前提として語っている事実に気づくことです。そうでないと断定的な言葉に躓いて、苦しくなってしまうかもしれません[4]。ヨハネは私たちの罪を責めたり、無理な聖い生き方を要求したりしたいのではありません。まず神が私たちを愛して下さった。まずイエスが人となって来て下さった。それによって、私たちはもう永遠のいのちを戴いた。だから、私たちも自分に閉じ籠もらず、互いに交わりを持つ生き方をしよう。裁き合ったり憎み合ったりせず、愛されている者として愛し合おう、というのです。

 今日読みました1章5節から2章2節の段落でもそうです。神は光だから、私たちも隠したり装ったりせず、互いに交わりを持って生きる。それは罪がない、完璧な生き方をするという意味ではありません。むしろ、罪を認めて、告白しながら、キリストの赦しを戴きながら、安らいで、正直に生きていこう。なぜなら、この方こそ、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のために、御自身を捧げ物としてくださったお方なのだから、というのですね。

 新しい翻訳「新改訳2017」では、Ⅰヨハネの二章12~14節が改行と字下げをして、詩文と分かるようなレイアウトになりました[5]

12子どもたち。
私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
13父たち。
私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
14 幼子たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。
父たち。
私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、
あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。

 四章7~10節の有名な箇所も同じです。

7愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8愛のない者は神を知りません。
神は愛だからです。
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。

 この言葉はヨハネが考えたというより、当時の教会で既に歌われていた詩を引用したという事でしょう。教会は一世紀末、既に詩や歌がありました。罪が赦された恵み、神を知った喜びを歌う歌がありました。ヨハネは独特な言い回しをしていますが、その姿を、歌いながらこの手紙を書いていると想像してみてください。イエス・キリストに現された神の愛の素晴らしさを思い出してほしくて、この手紙を書いている。そういう様子が「新改訳2017」ではグッと迫るような気がします。ヨハネ自身、神の愛への感動が冷めず、それを分かち合いたい。そうした動機を心に留めて読むと、全部は分からなくても、神の愛が更に心に深く響いてくるでしょう。

 ヨハネが若い頃、イエスからつけられたあだ名は「雷の子」でした。短気で怒りっぽかったのでしょうか。その彼がイエスに愛されました[6]。「雷の子」がイエスの愛を戴いて、その後も半世紀以上かけて「愛の手紙」を書く「愛の使徒」になったのですね。教会には沢山の課題があって、厳しい人生を経てきたはずです。でもだからこそ、彼は神の愛に留まる大切さを繰り返して言うのです。その愛の人ヨハネがこの手紙で厳しく言及するのが、キリストを否定する「反キリスト」でした。4章には

「神からの霊は、人となって来られたイエス・キリストを告白する」

「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません」

とあります。そして教会に混乱を引き起こして出て行ったのです。それは教会にとって痛ましい出来事だったでしょう[7]。だからヨハネはキリストが本当に人となって来られたと、確信を持って証言します

3.人となって来られたイエス・キリストを告白する

 この素晴らしい神秘こそキリスト教のユニークさであり中心的な信仰内容です。神の子イエスが私たちと同じ人間となって私たちの所に来られました。罪はない、聖なるまま、でも人間離れした聖人君子ではなく、本当に私たちと同じようになって下さいました。神の子がどんな意味で人となったか、小難しい事は分かりません。それ以上に、キリストが私たちの所に来られて、私たちに繋がってくださった。私たちとの深くて強い交わり・繋がり・絆をも下さったのです。キリストを否定して「反キリスト」と呼ばれている人々は、そんな事は馬鹿馬鹿しいと思ったのでしょう。神がこんな自分たち人間の世界を見て、近づきたいと思うだなんてあるわけがないと考えたのです。この手紙の中で一番強烈な言葉は四章20節かもしれません。

四20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 そうです、目に見える兄弟を愛するのは難しい。これを引っ繰り返せば、イエスだって綺麗事や理想論としての愛は言えても、人間を、私たち一人一人を見た時に、呆れて背中を向けるに違いない、反キリストや初代教会の異端はそう考えて、キリストの受肉を一笑に付しました。信じがたい事に、キリストは私たちを見て、呆れたり見捨てたりはなさらず、近づいてくださいました。私たちを無価値や敵とは見なさず、近づいて永遠の交わりに加えたいと考えてくださいました。その驚く他ない愛をキリストから戴いて、それゆえ私たちも、愛されている者同士、互いに愛し合う、というのです[8]。これが逆で、立派な道徳やノルマで愛し合う、というなら苦しいです。愛の努力をしなければならない世界で、愛の理想を追うなら疲れます。ヨハネが言うのはそうではありません。もう愛されている。もう神が交わりに入れて下さった。この世界は、愛の神によって始まって、愛から離れた世界にキリストが飛び込んで御自身を与えられ、やがて愛し合う世界を完成する約束がある。だから私たちも愛し合い、お互いを認めていく。キリストが神であることを止めずに人間になられたように、私たちも自分であることを止めずに、人に歩み寄って、助け合い、生かし合うのです。失敗もあって当然です。罪がないなんて言えません。そのあるがままに、神の愛の手の中で、焦らず、自分をも人をも敵だと思わずに、ともに歩み、支え合う。愛とはこの気づきから始まる関係です[9]

 自分には愛するのが難しい人も、主が愛された人です。自分自身、闇に隠れたい者です。でもその自分のために主はいのちを捨てられました[10]。こういう主の愛を味わい知った老ヨハネが教える遺言として、私たちもこの愛の手紙を受け取り、読み、愛を語り、生きたいのです。

「私たちを愛したもう天の神が惜しみない愛で私たちを愛し、罪の闇から恵みの光へと招いてくださいました。あなたの愛だけでなく、互いに愛し合い、愛される交わりを与えてくださり、感謝します。私たちが愛し合うことがあなたの御心だという大胆な言葉を繰り返し聞かせて、冷たく閉じた心を癒やし、裁く心や刺々しい言葉を手放して、互いに生かし合わせてください」



[1] ヨハネの手紙は、ヤコブの手紙とペテロの手紙とともに、宛先が指定されていない、教会一般に向けて書かれた「公同書簡」と呼ばれることがあります。

[2] 原文では、「愛」アガペーが18回、動詞「愛する」アガパオーが30回、名詞形「愛する者」が6回、です。

[3] 一例として、「三1私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」「三16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」「四7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」「三18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」などなど。

[4] 例えば今日読みました5-10節も、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行ってはいません」という言葉。これを「ああ、自分にはまだ闇がある。偽りがあって、真理に歩んではいないと読んで、自分を責め、ますます暗くなることも出来るでしょう。それとは逆に、5節で「神は光であり、神には闇が全くない」という言葉を心に止めるなら、神が光である以上、私は闇の中を歩んではいないのだ、と希望をもらうことが出来ます。8節から10節で「自分には罪がない」と言うなら、欺いていることになる、と言われるのも、自分には罪があるのだ、やっぱり自分は闇だ、と読むことも出来ますが、5節からの流れで言えば、罪がないふりをせずに、告白しながら歩むのが「光の中を歩む」という事なのです。自分を責めるのとは反対に、晴れやかになる言葉です。

[5] フランシスコ訳もそのようなレイアウトになっています。

[6] 福音書で彼は自分の事を「主が愛された弟子」と呼びました。

[7] 二章18~27節、三章7節、四章1~3節など。

[8] ヨハネはこのキリストを否定する教えにキッパリと「反キリスト」と言います。それは正しい教えに狭く閉じ籠もり、他者を切り捨てる頑固さではありません。キリストが人となって来られ、交わりを下さったのだから、私たちも互いに愛し合おう、関係を壊すような罪を捨てて、互いに愛し合おう、命を捨てることも惜しまず、困っているなら助け合おう。そういう互いへの愛へと踏み出していく生き方になったのです。目に見える人間、家族や教会の仲間、人を愛する。それは中々難しいことです。愛しやすい人を愛するのは簡単ですが、現実の人を愛するのは難しくなることがあります。ヨハネが言う「愛」は最初から理想論やヒューマニズムでの「博愛」ではなく、現実には難しい愛の事だと気づきます。この根拠も、キリストが私たちをまじまじと見て、心の奥まで知られた上で、愛してくださったに他ならない、恵みにあります。

 

[9] 私たちが罪を犯しても、キリストが私たちのために執り成して、赦しと回復を与えてくださいます。罰やさばきを恐れて生きるのではなく、愛されている者として生きるのです。神が命じる生き方は、私たちの現実を知らない、理想論での聖い生き方ではありません。人となり、生きる現場を知り尽くし、人の心の機微も本当にご存じの方が、私たちを愛され、私たちとの永遠の交わりを約束され、その上で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と新しい生き方を示されたのです。

[10] 信仰から離れている人たちにも、主は歩み寄ってくださるとも信じる希望があります。ヨハネは「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」と言いますが、勿論、教会から出て行った人がみんな「元から本当のキリスト者ではなかった」なのではありません。人が教会から離れる大きく回り道をするには様々な事情があります。教会が「あいつは最初から偽者だったんだ」なんて言う集まりだったら帰って来たいと思わないでしょう。むしろ私たちは、私たちが神から離れ、遠く離れた歩みをしていても、主が命を捨ててまで来て下さって、神の子どもとなれる、そういう恵みを信じています。

 

ヨハネの手紙第一の「愛」リスト

 

 2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神のが確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。
2:7 する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。
2:10 自分の兄弟をしている人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
2:15 あなたは世も世にあるものも、してはいけません。もしだれかが世をしているなら、その人のうちに御父のはありません。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしいを与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟をさない者もそうです。
3:11 互いにし合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟をしているからです。さない者は死のうちにとどまっています。
3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちにが分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神のがとどまっているでしょうか。
3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもってしましょう。
3:21 する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いにし合うこと、それが神の命令です。
4:1 する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
4:7 する者たち。私たちは互いにし合いましょう。は神から出ているのです。がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 のない者は神を知りません。神はだからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神のが私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神をたのではなく、神が私たちを、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここにがあるのです。
4:11 する者たち。神がこれほどまでに私たちをしてくださったのなら、私たちもまた、互いにし合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いにし合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神のが私たちのうちに全うされるのです。
4:16 私たちは自分たちに対する神のを知り、また信じています。神はです。のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
4:17 こうして、が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
4:18 には恐れがありません。全きは恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、において全きものとなっていないのです。
4:19 私たちはしています。神がまず私たちをしてくださったからです。
4:20 神をすると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟をしていない者に、目に見えない神をすることはできません。
4:21 神をする者は兄弟もすべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方をする者はみな、その方から生まれた者もます。
5:2 このことから分かるように、神を、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちをするのです。
5:3 神の命令を守ること、それが、神をすることです。神の命令は重荷とはなりません。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

使徒の働き17章22-34節「手探りで求めるなら」

2018-02-18 16:13:33 | 使徒の働き

2018/2/18 使徒の働き17章22-34節「手探りで求めるなら」

1.「知られていない神に」[1]

 この17章の前半でパウロは、ピリピからテサロニケ、ベレア、そしてアテネに来たのです。アテネに来たのは迫害のための一時的な避難でしたし、ここに留まる気にもならずに、十八章でコリントに南下します。アテネは古代ギリシアでは大事な都市でしたが、もうパウロの時代には傾いて、宣教計画にとってもコリントの方が重要と見なされた過去の町だったのです。けれどもそこには町中に像が建ち並び、哲学者たちが議論に明け暮れており、人々は

21…何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。

 そうした様子を見てパウロは

「心に憤りを覚えた」(16節)

 そして会堂でも広場でも出会った人々と論じて

「イエスと復活を宣べ伝えていた」(18節)

のです。その話に興味を惹かれた人々がパウロに講演を依頼して、アレオパゴスに連れて行きました。欄外に「アレオパゴスの評議会」ともあるように、アレオパゴスという丘で開かれる評議会、大会議が大事な事を決めるアテネの最高決定機関だったのです。これがパウロのアレオパゴス説教です。

 22節以下のパウロの話は自分が道を通りながら、

「知られていない神に」

と銘打たれた祭壇があるのを見かけた話から始めています。町中に像や祭壇が溢れていましたけれど、街中の人はそれでもまだ拝み漏らしている神々があったら失礼だ、ご機嫌を損ねないように祭壇を作っておこう、としておいたのでしょうか。パウロはそこを切り口に、

23…あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。

24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。

25また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神御自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。

と説教をしました。まずパウロは神を、天地の主、世界を造られたお方で、人間が宮や祭壇を造らなければ困るとか、お供え物やご機嫌取りをしなければ臍を曲げるとか、そんなちっぽけな神ではないことを宣言しています。これは29節でも

「神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」

と繰り返しています。30節ではハッキリ「無知の時代」と言うように、パウロは

「知らずに拝んでいる」

ものから始めながら、アテネの人々の決定的な無知を問いかけたのです。哲学を論じ、世界の最高の知性を自負する人々に「あなたがたは一番肝心な神を全く知らない」と大胆に指摘したのです。

2.手探りで神を求めれば

 同時に、パウロが語っている非常に大胆な点は、その方が人間と関わりを求めておられるお方だ、ということです。これはアテネやギリシアの神理解にはないことでした。

26神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。

27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

 神は私たちに御自身を求めさせるお方。それぞれの時代、それぞれの場所に住み、生かされているのは、神を求めさせるため。そういう神をパウロは語りました。27節は「新改訳2017」では

「もし人が手探りで求めることがあれば」

となりました[2]。目の見えない人が手探りで必死に必要なものを求める、そういう動作です。神について探究する思想とか議論でなく、闇雲に手探りしてでも神を必死に求めるなら、神を見出さないはずがないと言うのです。神は私たちに御自身を求めるために、今ここでの人生を下さっています。言わば神の中に生きています。神の子孫とも言えるほどの強い関係があるのです。人間がそれに気づかず、金や銀や石や、人間の技術や考えで造り上げた神々について議論し、哲学という名のおしゃべりをしている時、実は、神は私たちの後ろに立っておられて、人間のその他の営みすべてを成り立たせておられます。そして、人間が神を求め、神に立ち帰って生きるのを待っておられます。いいえ、待っておられるだけではなく、神の御子イエス・キリストがこの世界の真っ只中に来たのです。

31なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」

 アテネの人の考えはこうではありません。神々のために数えきれないほどの像や祭壇を立てご機嫌を宥めながら、ここに集まり、いるかどうかも分からない神について議論を好むだけで、神が人間を求めておられるとは考えませんでした。ましてその神が人間になるとか、死んでよみがえるほど親しく、近い、情熱的な神などはお笑い種だと済ませたい人が大勢だったのです。

32死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。

 でもこういう反応も承知の上で、パウロは彼らに天地の神がどれほど偉大であるか、そして、どれほど私たちを求め、近くにおられるかを語り、この神を求め、立ち帰るよう迫ったのです。

3.新しい教え

 パウロの説教は、神が石や偶像でないだけでなく、人間に御自身を求めさせる神だ、手探りででも求めれば見出せる神、いや御自身から人間の死までも味わってよみがえられた方だ、という内容でした[3]。イエスは死をも味わわれ、人間の罪も悲しみも、無知も間違いも、すべて知った方として、そこから復活された主として、世界をお裁きになります。神とはそういう私たちに近いお方です。私たちは謙ってこの神を求めてこそ、本当に立つべきゴールに立てるのです。神について論じたりおしゃべりしたり、自分の意見に合わない人を笑い飛ばしたり、アテネの殿堂や、自分の居心地良い生き方に閉じ籠もっている生き方では勿体ないのです[4]

 パウロは死者の中からよみがえられた方、キリストを語りました。

「イエスと復活を宣べ伝え」

続けたパウロ自身、キリストに出会いました。キリストに逆らう自分にも近づいてくださる主と出会って、人生がひっくり返りました。そしてそのパウロが、ユダヤから飛び出して、アテネにまで来てイエスを宣べ伝えている。かつては異邦人だと見下していた人たちのために、心に憤りさえ熱く持って[5]、機会を生かして語って、歯に衣着せず、でも暖かく語っています。これ自体、生きたメッセージです。神について議論したり、自分の意見を主張したり、でも所詮は自分の殻に閉じこもって生きている…そういう生き方から、神と出会い、人と出会い、神が造られた世界の中で心開いて生きている。迫害されようと、笑われようと、でもそこで僅かでもイエスに出会う人がいることを喜んで、ここに来た甲斐があったと思うようになりたい。

 この方が私たちに命を与え、今ここでの人生を与え、神を求めて、神に立ち帰って生きるように、神の世界の中でともに生きるように導いておられます。その時代、その場所に置くことに伴うリスク、誘惑や悲しみや問題も全て、この方はご存じで、それでもなお、神は私たちの人生を引き受け、導いて、目には見えなくともそばにおられます。いつもともにおられます。人間が造り上げ願い求めるイメージの神ではありませんが、もっと近く、もっと素晴らしく、手探りででも求めるに値する神なのです。私たちを虚しい迷信や求める気にもならない冷たい神理解から救い出してくださる。そればかりか、私たちを通しても、キリストに出会う事が起きるように働いておられる。八百万の神が拝まれる日本で、イエス・キリストにおいて証しされたこの方こそ、世界を裁かれる素晴らしいお方だと確かに現されることが約束されています。

「天地の主、今も近くにいます主よ。力強い御業と測り知れない慈しみを知った恵みを感謝します。あなたを求めるよう計らい、御自身の犠牲も惜しまれない憐れみに感謝します。復活された主は、今も世界に働いておられます。この日本で本当の神と出会って、恐れや虚しさから多くの人が救われて、恵みによって共に生きるため、どうぞ私たちも整えてお用いください」



[1] 使徒の働き17章のこの説教は、パウロがアテネで全く聖書を知らない人たちを相手に語った、とても貴重な記録です。日本人にとっても現在の世界中の人にとっても、立ち帰って学ぶべき所のある内容ですし、また伝道する側の姿勢も多くを学ばされる大事な資料です。

[2] プセーラファオー。この「手探りで求める」とはひと言で新約に四回しか使われない珍しい言葉です。ルカ二四39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」、ヘブル十二18「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、19ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。…」、Ⅰヨハネ一1「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」

[3] 多くの方は16節の「心に憤り」とか31節の「義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです」をパウロがアテネの人の偶像崇拝が真の神への冒涜だ、本当の神はもっと偉大だ、裁き主だ、悔い改めないと裁かれるぞ、と憤ったのだと考えます。ですから22節の「あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。」も本心ではなく、口上やおべっか、皮肉だろうと言うのです。そうなのでしょうか。パウロが語るのが、そんな怖しい怒りっぽい神なら、そんな神を求める気にはなれませんし、求めて痛い目を見るような恐怖があります。

[4] それはまた、アテネのアレオパゴスやエルサレムやあちこちの役人や議員たちが駆け引きで判決を下していくような血も涙もない裁きでもありませんでした。

[5] パロクシュノー。ここと、否定形でⅠコリント十三5「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、」に出て来るだけです。神が冒涜されてけしからんと冷たく怒りより、このイエスを知ったゆえの激しい悲しみの情熱です。イエスの福音を知らず偶像を作り続ける町へのもどかしさ、激しさ、感じやすさです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問112「優しく真実を語る」エペソ4章22節―5章2節

2018-02-04 17:59:11 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/2/4 ハ信仰問答112「優しく真実を語る」エペソ4章22節―5章2節

 今日は十誡の第九戒

「あなたの隣人について偽証をしてはならない」

です。「偽証」とは「嘘の証言」のことです。本当のことを話すべき時に、嘘を言うことです。でもただ「嘘はいけません」というだけではないのでしょう。

問112 第九戒では何が求められていますか。

答 わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷する者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと、かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる行為においては真理を愛し、正直に語りまた告白し、さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです。

 偽りの証言をしないだけでなく、誰の言葉をも曲げない。陰口、中傷、根拠の曖昧な非難、そういうものまで遠ざけることだと言っています。ここまで言うのは、言葉というものがとても強い力を持っているからです。悪意の噂話で、社会から葬られたり、人生を狂わされたりしてしまうことは今でもたくさん起こっています。第六戒から、

「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」

と見てきました。殺人から偽証になって、神は軽い罪まで重箱の隅を突くような揚げ足取りをしているのでしょうか。いいえ、偽証という言葉の罪の方が、殺人と等しいダメージを広く世界に与えているのでしょう。決して、嘘の方が軽い、ということではないはずです。

 先のエペソ人への手紙でも「新しい人を着る」という事に続いての具体的な勧めで、

25あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。

29悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

31無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。32互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

五1ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

と言葉についての教えが繰り返されていました。自分の言葉から嘘や悪意を取っていく。でもここでも、ただ何でも本当のことを言いなさい、とは言っていません。よく「本当のことを言って何が悪い」という言い方を聞きますね。嘘ではなくて、事実だとしても、それが人を貶めるような冷たい事実なら、言ってはならない場合もあるのです。また、言う側の心が冷たくて、相手を憎んだり、怒りや踏みつけたい思いで語ったりするならば、それも

「偽証をしてはならない」

の精神とは反対のことなのです。

 とても難しいことかも知れません。傷つけても良いわけではないけれど、傷つけたらダメ、ということでもありません。本当の事を言うことを躊躇う場合もあれば、後から本当のことを言っておけば良かった、という場合もあるでしょう。ですから、やっぱり本当のことを言った方が良い場合が殆どです。正直が一番です。ただ、自分が言わなくてもいいことまでべらべらしゃべる義務は誰にもありません。そのためにも、普段から、あまりおしゃべりや調子を合わせた話はしないほうがよいのです。

 このエペソ書の言葉でも、ただ私たちに真実を語りなさい、嘘はいけません、というルールを言っているのではありません。

「私たちは互いに、からだの一部分なのです。」

とありました。

「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」

とありました。神が私たちを愛してくださり、一つの体のように強い結びつきをくださったのです。ですから、互いに生かし合う言葉を使うのです。お互いに役立つ言葉を使うのです。嘘で誤魔化したりもしないし、本当だからといって人を貶める言い方もしないのです。

 そして、とても大事なのは、私たちが神にすべてを知られた上で愛されていることを覚えることです。私たちが嘘をつくのはどんな時でしょうか。自分を庇う時、本当のことを言ったら困ると思う時でしょう。そして、自分の自信のなさや間違いが嫌だから、刺々しい言葉を吐いてしまうのです。嘘でも本当でも武器にして、自分を守るのです。

 そういう恐れはもう要りません。自分の弱さも失敗も、間違いも素直に認めたら良い。神は私たちの全てをご存じです。私たちが嘘や冷たい言葉で傷つけ合っていることもご存じです。そのような私たちを裁いて、脅して、切り捨てようとなさったでしょうか。いいえ私たちのために、神の子イエス・キリストはこの世に来て下さり、真実な言葉を語ってくださいました。愛の言葉を語り、神に立ち帰る幸せを約束してくださいました。そして、御自身のいのちを十字架に捨てて、その約束を果たしてくださいました。

 世界に最初に嘘を持ち込んだのは悪魔です。悪魔は人間に神様の言葉を疑う思いを吹き込みました。それ以来、人間は神様の言葉を信じられなくなりました。神の御真実や確かさや愛を信じないままなら、まだ騙されたままです。キリストが愛して下さっているのに「あんな人は誰からも愛されない」と言ったり、主が赦して下さったのに「こんなことをした自分はダメだ」と絶望したり、御言葉が慰めや約束を下さっているのに、「もうお終いだ」と人や自分に言うならば、それは嘘です。神様がイエス様においてハッキリ示して下さった恵みと愛こそ永遠の真実です。世界が滅びても、神の言葉は変わりません。私たちの中にはその事実が取り戻されていく途中です。まだ失敗したり、間違ったり、不安になったりします。そういう私たちに、聖書は変わらない真実を語ってくれます。神を天の父として信頼するよう招いてくれます。安心させてくれます。希望をくれます。だから、人にも優しい言葉をかけるのです。優しく真実を語るのです。

 そして、人と話す時に、私たちは正直でいましょう。背伸びをしたり知ったかぶりをしたりせず、分からないことは分からないと言い、間違っていること、嬉しかったこと、悲しかった気持ちを素直に分かち合いましょう。また、黙っている沈黙でもいいのです。イエス様がそこで聞いておられることを思いながら、正直に、希望をもって語りましょう。その安心感は、そこにいる皆を、嘘をつく必要はない、事実を曲げたり、恥じたり、人を責めたりせずに、焦って何かを話そうとしなくてもいい。ありのままの自分を語って、そのままの自分がいることが受け止めてもらえる。そういう恵みが始まるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

使徒の働き16章19-34節「あなたの家族も」

2018-02-04 17:23:24 | 使徒の働き

2018/2/4 使徒の働き16章19-34節「あなたの家族も」

 31節「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」

 この言葉に励まされ、また「本当にこの言葉通りになるんだろうか」と疑いながら、信仰の歩みを始めて、歩み続けて来た方は少なくないでしょう。改めてこの言葉のエピソードを味わいます。

1.ピリピの町で

 十五章の最後でパウロはバルナバと別れて、シラスとともに第二回伝道旅行に出発しました。第一回伝道旅行の開拓教会を再訪問して教会を力づけて、そして思いがけず、初めてエーゲ海を渡ってマケドニアに入り、ヨーロッパでの宣教が始まりました。その最初がマケドニアの主要都市の一つ、ピリピでの伝道です。今日の箇所は、そこでの出来事で紹介されている、投獄と地震と看守の入信という出来事です。そしてそこにあの31節が埋め込まれています。[1]

 パウロはこの直前に

「占いの霊」

に憑かれた女奴隷からその「霊」を追い出しました。すると彼女の主人たちは逆上してパウロとシラスを訴え、二人は鞭で打たれて牢に入れられます。鞭打ちで背中の皮がむけ、当然痛いのです。夜も眠れたものではありません。だから二人は真夜中にも起きていたのでしょうか。痛みで愚痴ったり呪いを呟いたりも出来たでしょうが、25節には

「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」

とあります。痛みを我慢して賛美していたというより、痛くて辛くて泣きたい思いも祈っていたかもしれません。パウロは呻きや苦しみを知っていた人です。それを神に祈り、神が聞いてくださる慰めを語った人です。そこから、神を賛美する歌が、口先でなく心から歌えます。そして二人は神を賛美していました[2]

26すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。

27目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

 囚人たちは逃げることも出来たのに、逃げようとしなかったのは、地震や鎖が外れたことへの驚きよりも、パウロとシラスが囚人でも神を賛美している歌のほうがもっと深い、聞き逃したくない衝撃だったからかも知れません。そしてパウロとシラスも逃げませんでした。不思議な地震だ、鎖も外れた、きっと神の導きだ、逃げるチャンスだとは考えなかったのか、まだ鞭打ちの傷が痛くてとても逃げられなかったからかも知れません。そして、パウロは自害しようとする看守に大声で呼びかけて、あの有名なやり取りになるのです。

 当時、囚人が逃げた場合、逃がした看守や番兵は責任を取って囚人達の受けるべき罰を身代わりに受けるのが決まりでした。看守は囚人が逃げたと思い、自分に全員の刑罰が降りかかることを考えたのでしょう。それならもう死んだ方が楽だと思ってしまったのでしょう。でも、パウロは看守が死んでもいいとは思いませんでした。大声で

「自害してはいけない」

と言いました。

「私たちはみなここにいる」。

 こう叫んだパウロの思いに胸が熱くなります。

2.「主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も」

 看守はパウロとシラスの二人に

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」

と言います[3]。この

「救い」

は明らかに自分の立場や処罰の問題ではありません。鞭打たれて奥の牢に繫いで構いもしなかった二人が、それでも神への賛美を歌っていました。逃げられる時にも逃げようとせず、かえって自分を案じてくれ、

「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」

と叫んだ。そこに彼は自分にはないものを見たのです。「仕事で大きな失敗をしたからもうおしまいだ」、そういう彼の常識や世界を引っ繰り返す強いものを見たのです[4]。彼は二人を「囚人何号」ではなく

「先生方」

と呼んで

「救われるためには何をしなければならないのか」

 つまり「あなたの持っている救いを私にも教えて欲しい」と乞うたのです。すると、

31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」32そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

 これは、

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます。あなたの家族もです」

という事です[5]。あなたが主イエスを信じさえすれば、自動的に家族も芋づる式に救われる、ではありません。だからパウロは32節で、彼だけでなく彼の家にいる者全員にも主の言葉を語りました。33節で家族全員が洗礼を受けました。34節で一緒に食事をしながら、

「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」

のです。家族も主イエスとはどういうお方で、そのお言葉がどういうものかを聴き、教わり、家族全員でそれを信じて受け入れて、洗礼を授かり、それを心から喜びました。決して、パウロは看守に、まだよく分からないまま「主イエスを信じるか」「はい信じます」では洗礼を授け、それだけで家族も、主イエスが誰で、救いとはどんな救いなのかもよく分からず、神を信頼すべき事も罪の悔い改めも願わないまま、救われる-そういうことはあり得ません。もしそんな無理矢理の「救い」なら、それ自体が喜びどころか暴力です。一人一人が主の言葉を聴き、その素晴らしさに心を打たれ、一緒に神を信じて本当に良かったと、心から言えるようになっていく、そういうプロセスがあるのです。

3.家族への広がり

 もっと大事なのは、

「あなたの家族も」

はパウロたちから言われたことです[6]。看守は「私が救われるためには何をしなければ」と聞いたのに、帰って来た答が「あなたの家族もです」。どんな思いになったでしょう。そして一緒に主の言葉を聴いて、一緒に洗礼を受け、一緒に食事をして、神を信じる喜びを分かち合う…それは彼が考え願った以上の「救い」でした。人が家族を案じるに先立って、主は家族にも働いてくださるのです。十六章前半のピリピ宣教でも、15節でリディアがその家族と一緒に洗礼を受け、パウロたちを家に迎えました。リディアだけでなく家族も新しくなりました。キリスト教は、自分の救いだけでなく、周囲にもその家族にもと喜びが広がる救いです。また、そのような大きな神の御手の中に、自分の家族を見るようになり、大事にするようになる変化です。ただの「魂の救い」以上に、今ここでの生き方や関わりも新しくされるほどの「主のことば」に教えられて、今ここで神を信じる喜びで生きるようになる。だから、私たちも自分の家族の救いを信じて期待できます。なかなか家族が信じてくれなくてもどかしい思いをして祈る時にも、私よりも先に救いを用意されている主を信じることが出来ます。「まだ信じていない頑固者」と裁くのではなく「主に招かれている尊い人」として見るように変わりたいですし、何があっても「自害してはいけない。絶望してはいけない。私はここにいるよ」。そう励ますよう変えられるのです。また、自分がその人に代わって信じることは出来ないのですから、その人が主を信じて、御言葉の素晴らしさを知って信じたくなるよう支える。そのように私たちが、主の大きな御愛で家族を受け止める「救い」です。

 パウロの第二回伝道旅行は、青年マルコを連れて行く行かないでバルナバと決裂して始まりました。新しい伝道計画が二度も禁じられました。恐らくパウロの病気のせいでしょう。そうして思いがけずエーゲ海まで来たことが、初めてのマケドニア宣教になりました。でもピリピで捕まって鞭打たれて、牢に入れられて。しかしそれがあったから、この看守とその家族の救いがあったのですね[7]。神の導きは順風満帆で穏やかではありません。人を育てる難しさ、意見の違いや方針転換、病気や回り道、非難や痛む体を押しながらの歩みです。そこでの出会い、その広がりにどんな意味があるのか、すぐには分かりません。自殺したくなる出来事だってあり、家族がいても孤独だったりします。そんな世界だからこそ、まず私が主に出会い、御言葉を聴き、喜びに与ったことが、決して自分独りの救いでは終わらない。家族や周囲への祝福となるために主が導いておられるに違いないと、信じて、祈って、喜んでいきたいと願うのです。

「主よ。あなたが私たちの家族や周囲の人々をも深い恵みをもって見て下さっていることを感謝します。私が自分のことしか考えられず、家族を忘れたり裁いたりしているとしてもあなたはもっと大きな愛と尊いご計画をもって導いておられます。どうぞ私たちの傷も、精一杯の歌声も、ここにいる存在をも用いてください。あなたの救いが届けられるのを待ち望んでいます」



[1] この他、10節で「私たち章節」が始まります。「使徒の働き」の著者ルカが同行したことを示す大きな変化です。こうした意味の多い十六章です。

[2] ここにわざわざ「ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」とあります。二人の歌が上手いとか美しくハモっていて聞き惚れていたではなく、鞭打たれて牢獄に繫がれて、なお神を賛美している二人に驚いて、興味津々で聞き入っていたのでしょう。

[3] 持っていた剣を灯りに代えて牢の中に駆け込んで、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、それから二人を外に連れ出して、という詳しい描写に、看守の心中の動きが現れています。それを伝えようと詳細に記すルカの意図も、人間の恐れ、不安、変化に向けられています。

[4] 看守は牢の外で鍵を持っていましたが、自分のほうが囚われていて、地震や奇跡でひとたまりもない生き方の奴隷だと気づいたのかも知れません。

[5] 「救われます」は二人称単数で「あなた」だけにかかっています。そして最後に「そして、あなたの家族も」と加えられる文章なのです。

[6] 看守が自害した時、家族のことは考えたのでしょうか。それまでも家族との関係はどうだったのでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます」で終わらず、

[7] この出来事は、主イエス御自身とも重なりますし、旧約での創世記終盤のヨセフ物語とも重なります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする