聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

2016-06-26 15:51:17 | 創世記

2016/06/29 創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

 月に一度、聖書66巻を一つずつお話しして、皆さんが聖書を読む足がかりにしたいと思います。ほんのさわりしかお話しは出来ませんが、それでも助けになるような紹介をします。

1.最初の書、創世記 神の民の原点

 聖書の最初に神が与えてくださったのが、創世記です。全部で五〇章あり、その中には天地創造やエデンの園、大洪水と箱舟、バベルの塔や族長たちの物語、様々な話が出て来ます。登場人物もアダムとエバ、ノア、アブラハム、イスラエルと大勢ですし、テーマも契約や礼拝など多岐にわたり、何日あっても話しきれません。皆さんが読む上での、さわりを紹介します[1]

 創世記は全部で五〇章ありますが、大事な節目は、十二章なのです。一章から一一章までは、天地と人間の創造、神に対する背信と追放などが書かれています。せっかく神が作られた世界で神に背いた人間が、殺し合い、暴君となり、神抜きの世界を築き上げてしまうのですね。そこで、大洪水が起こされて、ノアの家族だけが生き残ります。しかし、それによっても人の心が変わったわけではないので、残された人はまた増え始めるとバベルの塔を建てて、自分たちの王国を作り、世界に名を挙げようと、神を忘れたあり方をするのです[2]。それでは、人間は悪くなっていく一方ですから、神は人々の言葉が通じないようにして、全地に散らされる。これが、一章から一一章に書かれている物語です。人間は神からどんどん離れていき、自分勝手に歩むのか、世界はもう一度滅ぼされるしかないのか、神の創造のご計画は失敗だったのか。神はどうするおつもりなのか。そういう散々な状況が十一章まで綴られていくのです[3]

 神は、十二章で一人の人アブラハムを選ばれる。それも、子どものいない後期高齢者で、妻の尻に敷かれる男、枯れていた人でした。神は彼を選ばれて、彼の子孫を通して、世界を祝福すると約束なさいます。ただアブラハムが選ばれて、彼の子孫が繁栄するというのではなく、アブラハムの一族を通して、壊れかけた世界が祝福される、という約束ですね。そして、その後、アブラハムの子どもイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の子どもたちが与えられる。その十二人の子どもがエジプトで和解をしてともに住む姿が、この五〇章なのです。ただし、そこでも「めでたしめでたし」と終わるのでなく、神がこの先に、エジプトから再び故郷に帰る日をやがて下さるから、という開かれた結び方をしています。それは、創世記そのものが、完結した教えとか物語ではないからです。神が造られた世界に、祝福を取り戻すご計画が神にはある。それが、創世記であり、創世記から始まる聖書の物語なのです。

2.神は善い物を創造される

 今日読んで戴いたのは、創世記の最後の五〇章19節以下ですが20節にこうありました。

創世記五〇20あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 この「良い」というのは

[喜ばしい、すばらしい、富んでいる、大切な、美しい]

など豊かな意味を持っている言葉です。そして、これこそ創世記のキーワードの一つだと思います。創世記の一章で、神が世界を創造されたとき、たびたび「神はそれを見て良しとされた」とあります。七度も繰り返されるのです。神は世界を良いものとして創造された。この世界は神が造られた良い世界、素晴らしい世界、美しい世界だ。これが聖書の世界理解の出発点なのですね。他の多くの宗教や神話では、世界は何となく出来たとか、神が創造している間に邪魔が入って失敗してしまったとか、そういう展開なのだそうです。そうした中で、聖書は世界が、神の造られた尊い作品であり、そこには秩序と目的があると宣言するのですね。失敗作ではないし、この世界に置かれた人生には意味がある。仕事をし、社会を造り、家族を造っていくことは、良いこと、美しいこと、大切なことなのだ、と言い切るのです。

 先にお話ししたように、この創造された世界は、人間が神に背くことで暗礁に乗り上げてしまいます。そういう中で、神はなお世界を滅ぼされないのですね。そして、そこでアブラハムを選ばれて、彼らに世界の祝福となる使命と約束を与えられます。しかし、アブラハムは決して立派な人ではありませんでした。神を信頼しきった人でもないし、夫婦関係でもいくつもの間違いを犯した人です[4]。その影響は当然、その子どものイサクにも影を落としますし、孫のヤコブはもっと掴み所のない、いつも問題から逃げてばかりいる未熟な人でした。ヤコブの十二人の息子は、父親に依怙贔屓(えこひいき)され、溺愛されたヨセフを嫉妬し、憎んで、兄たちがヨセフを奴隷として売り飛ばす、という酷い展開になるのです。その二〇年後、不思議な神の計らいによって、ヨセフと兄たちはエジプトで再会し、和解を果たしました。本当に不思議な、神の御摂理でした。今日の五〇章の20節ではそのことをもう一度確認するのです。兄たちはヨセフに悪を計りました。しかし、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。兄たちがヨセフを憎み捕らえ売り飛ばしたのは確かに悪です。しかし、その悪をさえ、神は良い事になるようにしてくださいました。世界を良い物、美しいもの、素晴らしい世界としてお造りになった神は、その世界に悪が入り、人間が滅茶滅茶にしてしまったような中にも、人知を超えて働きかけてくださり、善いことへと変えることが出来るお方。神は世界の創造主であり、今も善いことを創造しておられる。それが、聖書を貫く信仰です[5]

3.予測不可能な世界に生きる

 創世記はその最初と最後で「良い」という言葉が共鳴していますが、途中にあるのは決して良いことばかりではありません。今日のテーマは、私たちに「素晴らしい人生」「神が問題を解決して奇跡を起こしてくださる」ドラマチックにハッピーエンドを約束はしていません。この五十章の言葉も、最初のヨセフの拉致事件から40年近くかかりました[6]。憎しみや裏切り、父を悲しませた罪の意識は、ある意味では最後まで癒やされません。

 もっと言えば、アブラハムが選ばれてからずっと、そこには家族の問題がいつもありましたけれども、家族が向き合い、自分の非を認めて和解するというのは、ここまで一度もないのですね。アブラハムもイサクもヤコブも、三世代は、問題があるのに黙ったり逃げたり間違った反応をしたりし続けたのです。決して創世記や聖書のエピソードの一つ一つが、問題が起きたけれど信仰持って祈ったら神様が最善に変えて下さった、なんていうドラマではないのです[7]。そういう表面的なハッピーなど約束しません。むしろ、神は人間の心に深く関わられます。時間を掛けて、じっくりと、何十年もかけて、深く歩みを導かれます[8]。自分を見つめさせられ、悲しみをも通らされます[9]。人生には、予測の付かないような出来事が次々と翻弄されて、思いもしなかった展開をしていくのであって、人間の思うまま、期待通りにはならない、と語るのが創世記なのです[10]

 神は最善をしてくださいます。善いことを創造しておられます。でも、それは神であって、私たちが思いやすい自分中心の善でもないし、もっと大きな善、神の愛です[11]。ここでヨセフが言うのも、自分たちの幸せではなく、多くの人々を生かしておくための仕事に自分が当たらせてもらったことを言っています。言わば、世界を祝福する使命を果たすために、ヨセフはそれまでのヌクヌクとした人生を一旦捨てた。それを神の善い計らいと呼んでいるのですね[12]

 こういう創世記を土台として聖書は展開していきます。天地万物の造り主であり、ただおひとり本当の神であられる主が、私たちを善い者となさるのです。やがてイエス・キリストがおいでになります。キリストの十字架と復活は、まさに人が計らった悪を善い事へと変えられた証しでした。そして神は今も善いことを創造なさっています。それは何よりも、私たち自身が、心から神に従い、神を喜び、神の祝福を人に分け与えるように造り変えられていくことです。

「世界の造り主なる神様。創世記を通して、あなたが世界を創造されたばかりか、今も御力をもって善をなさり、やがて素晴らしいご計画を完成なさると教えられ、感謝します。私たちはそのあなたの民です。どうぞ私たちがいつもあなたの最善を信じ、あなたを喜び、世界の罪と美しさとを見つめながら、あなたの祝福を運ぶよう、創世記の約束の通りに導いてください」



[1] 契約関係が与えられることも大事。救いの約束、人間の応答。こうしたことを無視した、漠然とした善なる神への信仰ではない。エデンの背信や、アブラハムの応答は神への応答を示している。しかし、ヤコブやヨセフにはその面は薄い。倫理的な正しさよりも、良き神への信頼に根差して生きることそのものである。「正しく生きれば祝福する」ではなく、「祝福の神への信頼をもって、それに応える生き方をする」。ここでも、始めに神、なのだ。

[2] ただし、創世記は、悪の起源についての説明はしていません。他にも途中で起きたこと一つ一つに、善し悪しを判断することは難しいし、出来ないのです。

[3] エルマー・マーティンズは、創世記1-2章に記されている「創造神学」を次のポイントでまとめています。「神を意味するエロヒーム(Elohim)という言葉は、多神教への挑戦となっている。」「7日という枠組みは、礼拝に由来している。」「体系的な記述は、秩序を表現している。」「創造物語には、理解不能な雰囲気がある。」「創造の頂点として人類が重要視されている一方で、創造物語は無生物にも生物にも注意を払っている。」『神のデザイン 旧約聖書神学の試み』(南野浩則訳、いのちのことば社、2015年)、352頁。

[4] そもそもアブラハムが選ばれたのが、彼が七十五歳の時。妻との間には子どもがなく、老い先も短い、枯れたような人でした。神の選びは、全く思いがけない人材を好みます。これもまた、聖書を一貫する視点です。

[5] 「神は世界を創造されたけれど、人間がそれを壊してしまい、ノアの洪水でわずかな人を残して、世界を滅ぼされた。その子孫も堕落して、世界はもう一度神の怒りで滅ぼされる」というネガティブでホラーな物語、だと思い込んでいないか。そうではない、ここにあるのは、世界を「よし」と見直し、この世界に生きる人間の傷、家族の問題、悲惨、理不尽などをすべて知り尽くした上での、「神はよいことの計らいとなさる」と確信する物語なのです。

[6] 再会までは20年もかかりました。その後更に17年経って、この言葉をもう一度ヨセフは兄にかけるのです。

[7] それは人間が好むような成功物語、英雄物語ではありません。そんな物語に隠した人間の万能感、支配欲、憎しみや破綻をも曝かれます。その典型が「バベルの塔の建設」の行き詰まりです。そういう心の襞、人間の繊細さも、創世記も聖書も十分に描いています。そういう人間の心の奥深くに、何十年もかけて、何世代もかけて、関わり、導き、「善いことの計らいとしてくださる」神を指し示すのが創世記です。

[8] 創造は(一瞬でも出来るのに)時間的なものでした。世界は時間的な世界です。神は時間をかけて作られた世界に、神の再生のご計画も時間がかかります。私たちは今をそのような目で見ることが出来ます。

[9] 創世記には多くの味わい深い達観が出て来ます。「事の善悪を論じないように気をつけよ」(神の台詞。三一24、29)、「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださったからです。」(ヤコブが自分が裏切った兄との和解を果たしたときに)、「私も失うときには、失うのだ」(四三14)、「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」(四五28)、「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(四七9)などです。創世記は、人間の喪失の物語であり、人間が人間であって神ではなく、限界を弁えなければならないことを語り続けます。しかし、そうして人間が神の前に心砕かれるときに、神がともにおられることに気づくのです。わが子を失うまいと握りしめ、その喪失を嘆き続けていたヤコブが、「私も失うときには失うのだ」と自分の物語を手放したとき、彼は失ったはずのヨセフをさえ取り戻します。

[10] 「一つの物語であれ、一つの節であれ、全体から切り離された部分は、そのもともとあった大きな物語の中で占めていた位置よりも高めて強調してはいけません。聖書におけるよい大きな物語、すなわち最も中核となる物語とは、無償で与えられる一方的な恵みの物語であり、人間の罪深さをもってしても妨害されることのない愛をお持ちの神の物語であり、罪人のためにいのちを捧げられたキリストの物語です(ローマ5・8)。それ以外の小さな物語は、どちらの意味にも取れる〔二つ以上の解釈の可能性がある〕、あらゆる物語の一部にすぎないのです。」ジェームズ・ブライアン・スミス『エクササイズ』126頁。

[11] 世界は、善き物である。しかし、人間は「自分の願い」を基準に考え、それ以外のものには目を留めることが出来ない未熟さがある。素晴らしいプレゼントを次から次に開けているのに、自分が欲しい小さなプレゼントがないために、いつまでも満たされない子どものよう。私たちの願いよりも大きな神の「最善・最高」を信じる。そのためには、善い物を数えてみる訓練、祝福に目を留める訓練が必要。

[12] 最後は、ヤコブが目に入れても痛くないと可愛がって甘やかしていたヨセフが、失われた先で外国での奴隷生活、冤罪での投獄、無謀な大臣という責任を経て、しもべとなり、赦し、成長していた姿です。私たちも、自分の手に握りしめているものを失いつつも、すべてを握っておられる神が、私たち以上に善くしてくださると約束されているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記三二章22~32節「神を見た」

2015-09-30 17:15:35 | 創世記

2015/09/27 創世記三二章22~32節「神を見た」[1]

 

 「神を見た」というタイトルで、皆さんは何を思われたでしょうか。「自分も神を見たい。神を見ることが出来たら、信仰がハッキリ持てるのに」と思われた方もいるかもしれません。今日ご一緒に聴きました聖書の言葉では、ヤコブという人物が、一晩中ある人と闘い(英語の聖書ではレスリングをしたと訳しています)、最後に「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言いました。ヤコブはその人が神だと気づいた。だからその所の名を「ペヌエル(神の顔)」と名づけました[2]

「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」

という意味です[3]。ヤコブは、神とレスリングをし、神の顔を見て、神の祝福を戴いたのです。しかし、

「ヤコブが神を捕まえてレスリングをし、粘りに粘って、遂に念願の神の顔を見て、祝福をもぎ取った、羨ましい」

と考えるなら、誤解です。そういう読み方をする方もいますが、この話はそうではありません。24節を読むと分かるように、「ある人」が突然現れて、ヤコブをとっ捕まえて、彼を一晩かかって組み伏せたというのです。ヤコブが神を離さなかった、ではなくて、神がヤコブを離さなかった、と言った方が正しいのだろう、と思うのです。むしろ、ヤコブは神からも自分の人生からも、逃げて逃げて逃げ続けて来ていた、卑怯者でした。

 これまでヤコブの人生はごまかしだらけでした。自分よりも兄を偏愛している父の前で、兄のフリをして祝福を横取りするなど、卑劣な過ちをいくつも犯してきました。ヤコブという名前自体、「押しのける者」という意味でした[4]。ヤコブは押しのけた兄の怒りを買って、家を出ざるを得ず、遠い所で再出発します。願い通り一目惚れした妻と結婚し、その間に念願の息子も与えられました。沢山の家畜や財産も手に入れました。しかし、その過程で彼は、妻の姉も娶り二人の侍女との間にも子どもを設けた、いびつな大家族を持ってしまいます。そして、親に偏愛されて傷ついたはずのヤコブも、自分の子どもを偏愛して、兄弟関係を歪めてしまうのです。結局、美しい妻も、可愛い子供も、沢山の財産も、彼の問題は解決しませんでした。

 この三二章でヤコブは二〇年ぶりに故郷に戻ってきながら、兄の復讐を恐れています。あれこれと策を巡らして、贈り物を用意し、逃亡手段も考え、神頼みもして助けを祈りますが、それでもやはり落ち着きません。今日の箇所、22節から24節では、夜中に落ち着かずに起き上がり、妻や子ども、最愛の家族であった彼らさえ川を渡して、独りになったとあります。ヤコブは、行き詰まったのです。困惑してどうしたらよいか分からず、今まで築き上げてきた財産も大家族も、自分の口のうまさや知恵も頼れない、途方もない孤独の状態があるのです。そんな夜に、神が現れて、ヤコブをとっ捕まえ、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。

 もっと前の方で神が約束されたのですが、神はいつもヤコブと共におられたのです。見えない形でも、ヤコブとともにいつもいてくださったはずなのです。でも、ヤコブ自身が、人を妬んだり、無い物ねだりをしたり、幸せにしてくれる何かを神以外に求め続けて、自分自身から目をそらしている限り、神がともにおられ、自分を祝福してくださる事に気づかず、神の祝福を求めることはなかったのです。今、行き詰まったヤコブに、ようやく神は取っ組み合うことになさったのです。この神との格闘は、口八丁手八丁で勝てません。一打ちしただけで、股関節を外してしまうような恐ろしい相手です。そこで、彼はこの方に遂に降参するのです。祝福してください、と縋り付くのです。

「兄のふりをして祝福を求めたけれど散々だった。美しい妻を得るために必死に働き、財産を殖やして幸福になろうとした。けれど、孤独で空っぽな自分だった。そうした虚しい生き方を止めて、今、あなたに縋り付きます。あなたの祝福が得られないなら、死んだって構いません」。

 そういう心境に行き着いたのではないでしょうか。

 今まで、嘘八百を並べ立てて、財産を増やし、兄を傷つけ、四人もの妻を抱えてみんなを傷つけてきたヤコブなんか、神は見捨てても良かったんではないでしょうか。自業自得だと罰して、置き去りにしても良かったはずでしょう。でも、神は、そのヤコブの魂が開くタイミングをずっと待っておられたかのように、この時ヤコブに取り組んでくださったのです。神はこういうお方です。私たちにもそうです。自分から逃げ続けていても、それでも神は私たちを見捨てたりせず、命を与え、よいものを下さいます。けれども、神が願っておられるのは、この、神に降参して、神を神としてあがめ、求める関係を私たちとも結ぶことです。神と取引しようとか、自分をごまかしたまま幸せだけもぎ取れろうという上っ面の関係ではなくて、私の嘘や弱さや過ちもすべて知った上で、私を一打ちで殺す事も出来るお方が、私を生かし、真剣に向き合ってくださる、その方との関係に降参することを神は待っておられるのです[5]

 この関係に入った時、神はヤコブに新しい名を下さいましたね。「イスラエル」という名です。それは

「神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」

と言われます。でも、25節ではこの方はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブの股のつがいを打ったのですよね。股のつがい、とは上品ですが、股関節であり、急所のことですね。そこを打たれたなら、ヤコブはもう神には勝てなかった筈です。でも、私はこう思えます。神はヤコブに勝たれたのです。そしてヤコブも神に勝ったのです。神が私たちとなさる勝負は、最後には神は必ず勝たれますし、私たちも勝つのです。

「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」

ですが、愛の関係とはWin-Winです。どっちかが敗者になったらダメなのです。ヤコブが神に勝とう、自分の弱さを認めまいとする限り、彼は負け惜しみを言うしかありません。しかし、自分の限界とこれまでの間違いを認めて神に降参したとき、それは神がヤコブを勝ち取ってくださったことであり、ヤコブも勝利を告げられたのです。そして、この後も、ヤコブは自分の人生に取り組み始めます。まだまだ失敗をしますが、それでも彼は感謝を持って生涯を閉じるのです[6]

 この後も、聖書には、人間が神の顔から逃げ続け、神は人間の所に来て、様々な方法で、人間を捕らえてくださるお方である話が出てきます。人間にも痛い思いをさせられますが、神ご自身も身を低くし、忍耐し、痛みをさえ厭わずに、人間のそばにおられるのです。遂には、神の御子イエス・キリストが人となり、体を引き摺って、十字架への道を辿られました。キリストは、ご自身が痛みや孤独を知っておられます。

 神は私たちが痛みを通してだけでなく、ご自身の最大限の犠牲をも払って、私たちとの関係を回復させて下さるお方です。神はヤコブとは違う形でしたが、私にも出会ってくださいました。そしてそれは、やはり痛みや願いたくない経験でしたが、かけがえのない人生にしていただいたなぁと思います。

 ヤコブと同じく、神は私をも見捨てません。私の人生にも介入して、ともにいて下さいます。プライドやごまかしを捨てて神を求めて、神の祝福に与って、私の人間関係も人生そのものも真実にしようと、神は導いてくださいました。キリスト教は、死後の事や道徳以上のものです。イエス・キリストに捕らえて戴くとき、私たちの家庭、仕事、人生が、深い所から変えられていきます。イエスに向き直り、降参して、祝福を願う時、私たちも「神の顔を見る」者とされた生涯を歩むのです。

 

「主が、ここにいるお一人お一人の歩みを捉えて、魂の底を揺さぶられるような出会いへと導こうとされていることを信じます。格別、心満たされないまま生きている思いをしている方、あなたを見たいと願い始めている方、痛みの中で足を引きずるような思いで今日ここにいる方が、どうかあなたの顔を拝して、今生かされていると告白する日を一日も早くお恵みください」

 



[1] 大阪キリスト教会の週報に載せた「説教要旨」は次の通りです。「 「神がいるなら見てみたい」と言うなら、ヤコブは「顔を合わせて神を見た」体験をした人です。しかし、ヤコブが神を見た、というよりも、神がヤコブをとっ捕まえてくださった、といった方が正しいでしょう。これまでの彼の人生は、ごまかしだらけでした。祝福を求めてはいたものの、嘘、逃避、計算高い人生でした。一目惚れの妻とその息子、そして大勢の財産を手には入れましたが、彼の人生は問題だらけで、心には怯えがありました。今、二〇年ぶりに故郷に帰ろうとしていますが、父をだまし、兄の祝福を奪い取って激怒させた彼は、おびえて落ち着かず、どんなに策を巡らしても落ち着くことが出来ません。そんな夜に、神がヤコブを捕らえて、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。彼が自分を否定し、真実から逃げて生きようとしている限り、神に会うことはあり得ませんでした。神は、ヤコブが自分の間違いを認め、行き詰まって限界を悟り、神に祝福を求めてすがりつくように、働いておられたのです。

 神に向き合い降参したとき、ヤコブは新しい名をもらいました。そこには「神と戦い、人と戦って、勝った」という意味がありました。「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」と言いますが、愛の関係とはそういうものです。プライドを捨て、神に降参するとき、私たちは本当の祝福によって、家族・人間関係も変えられるとヤコブ物語は約束しています。」

[2] 「ペヌエル」とは「ペニ」が顔、「エル」は神の意で、神の顔を指しています。

[3] これは、「神の顔を見たけれど、死なないで生きている」というよりも、「神の顔を見た。そして、今、私は神の顔を見たものとして、新しく生きている」という意味でしょう。

[4] そんな名を付ける親も酷いとは思います。父は兄を溺愛して弟のヤコブを軽んじていましたし、母がヤコブを愛したのも夫婦仲の問題を息子たちの奪い合いに投影していたわけです。そんな中で息子ヤコブの心が生涯歪んだのも無理はないとも思います。しかし、いずれにせよ、ヤコブはそこで身に着けてきたものを脱ぎ捨てて、神との絆に生きるようになるため、人生の最後まで神によって訓練されます。ヤコブの晩年は、そのことへの感謝と信頼の告白です。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日までずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。…」(創世記四八15-16)

[5]出エジプト一5欄外注「腰から出た者」という説明を踏まえると「イスラエルの民は、この主が打たれたことを原点とする民である」とも言うことが出来ます。主が打たれなければ、強情で狡猾で、ずるがしこく逃げ続けて、神からも自分自身からも顔を隠し続けたでしょう。しかし、主が打って下さることで、ようやく私たちは謙り、神に立ち帰り、自分が神ではないことに気づくことが出来る。そのようなことを、聖書の繰り返すメッセージとして、私たちは聞き取ることが出来ます。

[6] 創世記の終章へ向けて、ヤコブが神に取り扱われ、彼の言葉が鍛えられていく様子は、顕著に見ることが出来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

2014-09-28 17:38:01 | 創世記

2014/09/28 創世記四一章「苦しみの地で実り多い者と」

 

 父ヤコブに溺愛されていたヨセフが、兄たちの妬みを買ってエジプトに奴隷として売られ、更に、無実の罪で監獄に投げ込まれて十三年。今日の四一章では、エジプト王の見た不思議な夢をヨセフが説き明かすことになり、なんとエジプトの大臣に任命されます。あのパロ(ファラオ)に、

40「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

と言わしめるのです。

 本当に不思議な展開です。私たちはここに、神様の摂理というものをまざまざと思い知らされます。妬みを買って、奴隷に売り飛ばされる。大好きな父親から引き離されて、言葉も何も分からない異国に来て、慣れない労働に明け暮れ、その挙げ句に冤罪でぶち込まれ、臭い飯を食わされる。そんなヨセフの不条理な歩みにさえ、神様はともにいてくださり、思いがけない展開を用意しておられました。私たちも、それぞれに痛い目をしたり、夢にも思わなかったような人生の曲がり角を曲がったりすることがあります。大事な人を喪失したり、理不尽な汚名を着せられて生活を変えざるを得なかったりした方もおられるでしょうか。神の民とされた、私たちの先輩たちも絶えずそのような人生を通らされてきました[1]。しかし、その苦難は、苦しむための苦しみや、耐えるしかない暴力ではありません。このヨセフに真実であられたように、インマヌエルの神が私たちとも共におられて、苦難を通らされながらも、測り知れないご計画をもって、導き、時にかなったご計画を進めておられるのです。

 勿論、みんながみんな、ヨセフのようにエジプトの大臣となる程の、大河ドラマのような展開があるということではありません。私たちも思うでしょう。「ヨセフが奴隷や囚人からエジプトの大臣になったなんて、神様はスゴい!ヨセフの物語は素晴らしい! でも、私はエジプトの大臣でなくてもいいから、もっと身近な、自分の身の丈にあった幸せがほしい」。そうです。当の本人だって大臣になれて嬉しかったのでしょうか。私はいつもここを読むと、パロの言葉が胡散臭(うさんくさ)く聞こえるのです。ヨセフを褒めそやし、大きな権威を与えます。絶賛して、信頼しきっているようです。でも、内心、ホッと胸を撫で下ろしていたのではないでしょうか。

55やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

 「責任や面倒臭いことは全てヨセフに押しつけます。問題が起きれば、ヨセフのせい、夢を説き明かしたり不吉な話を持って来たりした怪しいこのヘブル人のせいにしてしまえばいいのです。七年間の豊作の間、その食糧を集めるのだって反対はあったでしょう。飢饉の時の分配はなお大変です。パロの宮中での権力争いやあったでしょう。大臣なんてなるもんじゃない。大統領や総理大臣を見たって、大変なんてもんじゃなさそうですから、そう思います。そのような大変な責任だったのです。神の摂理は、ヨセフを奴隷から大臣に引き上げましたが、それはドラマとか名誉挽回という以上の、重い使命でした。ヨセフ自身、後に言います[2]

四五5「…神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

 それは、格好いいとか英雄的なものではなくて、泥臭い、誘惑と葛藤に満ちたものです。でも、神は、いのちを救うために、ヨセフをここまで導かれ、訓練し、鍛えておられたのです。53節以下で、飢饉の七年が始まります。これは、本当に大変な禍でした。備蓄がなければ、エジプトだけではない、全世界が滅びる所でした。56節、57節では「ききんは全世界に」と繰り返して、この大災害の規模を印象づけていますね[3]。実は、創世記には以前も全世界を覆った災害がありました。そうです。ノアの大洪水です。創世記の研究者は、ノアの大洪水とヨセフの大飢饉とには重なるものがある、と言います。ノアが箱舟を造ったように、ヨセフは食糧の備蓄をしました。ノアが家族を救ったように、ヨセフは家族を救い、そして、エジプトや世界の人々に食糧を求めて来た時に穀物をあげていのちを救うのです。神様の世界大のご計画の要として、ヨセフはノアのような使命を担うのです。

 でも、そのためにはヨセフ自身がノアのように、神とともに歩み、恵みを得て、相応しく整えられる必要がありました。神様のご計画は、世界の創造、大洪水や大飢饉というダイナミックなものであると同時に、アダムの罪、アブラハムの献身、ヤコブとの格闘など、一人一人の心の奥深くに関わられるものです。その両面が結びついています。ここでも、ヨセフがそうでした。パロはヨセフに「ツァフェナテ・パネアハ」というエジプトの名前をつけます。でも、彼はその名前を一度も使いません。自分のヘブル人としてのアイデンティティに留まります。そして、ヨセフが家族を得て、その子等に名前をつけたとあります[4]。その名前の意味が、

51…「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」…「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」…

と言うのですね。ヨセフの内面の吐露です。静かですが、深い言葉で、ヨセフの今までの労苦、家から引き剥がされた悲しみの深さを物語っていますね。同時に、新しい家族を得たことが、ヨセフにとってどれほど大きな慰めであったかとしみじみと思わされます。しかし、忘れたと言いつつ、この名前も、エジプトの名前ではなく、ヘブル語の名前なのですね。彼は、エジプトにあって、エジプトに流されることなく、なお神と共に歩み続けたのです。過去の労苦や現在の苦しみは大きくても、神がそれを乗り越えて、私を今導いておられる、という告白に生きています。ヨセフの成熟を深く思わされます。

 大臣となって得た権力、立場があれば、家族の元に飛んでいって、兄たちに復讐をすることや父親に会うことも出来たでしょう。あの家にいたときに、麦の束や星々が自分を拝むという夢を、自分の力で実現させて、兄たちを平伏させることも出来たでしょう。しかし、彼はそのような行動は取りませんでした。主は、ヨセフの心から復讐心の棘を抜いてくださっていた。そして、思いも掛けない形で、この時の精一杯の慰めを下さっていました[5]。これで終わり、ではありません。次章から全世界の命を救うという大仕事が始まります。そして、兄たちとの和解、父との再会という本当の回復が待っていますが、ヨセフはそれをまだ知りません。今はここで、新しい家族が与えられることで、精一杯の、十分な慰めが与えられたのです[6]

 主イエス・キリストが十字架と復活において果たしてくださった御業は、神が創造された世界の回復と完成であると同時に、私たちをすべての罪からきよめ聖なる者とする事でした。私たちに対する神様の御心とか摂理は、様々な苦難や事件をも巻き込みながら、全てを働かせて益としながら前進していきます。でもそれは「ハッピーエンド」とか「無駄なことは何もない」とか言う以上に、私たち一人一人を変えて、成長させるご計画です。人に仕えること、怒りや恨みを手放しつつ、深い所で癒され、慰めを戴くのです。過去に失ったものを取り戻すことは出来ませんが、そこからでなければ始まらなかった今、新しい自分の歩みに、完全ではなくとも、十分な恵み、出会い、務めがあって、それをしっかり受け止めて歩み出すのです。神様の、世界大のご計画は大きくて、私たちには今自分がどこで何をしているのか、何をすべきなのかもよくは見えません。けれども、今私たちを仕える者として鍛えられ、心の底に触れつつ導いていてくださる主が、長い大きなご計画を実現しつつあることを信じるのです。

 

「天地万物の造り主よ。今もあなた様が世界を治め、私達の心の襞(ひだ)までご存じで、全てを働かせて益となさるとの約束をヨセフの生涯にも教えられて有難うございます。私達はこの世界にあって鍛えられ、どんな時もともにいて最善をなしてくださる主を信じ、その主の御真実を現すしもべとして、共に新しくされている群れです。この恵みにますます与らせてください」



[1] 旧約の時代でも、初代教会でも、いつの時代でも、信仰があることが癒やしや奇蹟を保証するわけではなく、熱心な祈りが苦しみや喪失の免除となることもありませんでした。聖書は、神の民の試練や、世にあっては艱難があることを、これでもかと言わんばかりに強調しています。

[2] 「父と母を離れ(創世記二24)」るべきヨセフが、父の家を「忘れた」ことは、人としての自立・大きな成長・不可欠な成熟を示唆する。「あなたの父の家を忘れよ」(詩篇四五10)

[3] 54-57節で、「すべてコル」が8回も使われ、全世界的な規模を強調しています。

[4] 本章での命名は実に意味深長です。ヨセフが与えられた「ツァフェナテ・パネアハ」という名前の意味は「神語る、彼生きん、大地の糧は生命、生命の支え手」などが提唱されています。(小畑進『創世記 講録』711頁)。しかし、この名前は二度と登場しないのです。名前を与えたり、変えたりすることは、創世記では特別な意味を持ちます。アダムの動物に対する命名(二19)、神がアブラムをアブラハムに、ヤコブをイスラエルにと変名されたこと。いずれも、新しい出発、性質の改変。しかし、ヨセフはパロによっての命名(それがどんな意味であろうと!)を聞き流し、二度使用しないのです。ヨセフは自分のアイデンティティに留まります。55節では、パロ本人でさえ、ヨセフを自分がつけたエジプト名ではなく、「ヨセフ」と呼びます。また、アブラハムも、イサクも、ヤコブの十二人の子どもへの命名も、いずれも妻によってなされ、夫(父親)はしませんでしたが、ヨセフが自らわが子に命名するということも特筆すべきことです。

[5] 42節で「そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、そのクビに金の首飾りを掛けた」とあるのは、父からもらい兄たちにはぎ取られた長服や、ポティファルの妻の手元に残した上着を思い起こさせます。

[6] ここでは「忘れた」と言えます。しかし、主は後に思い出させるのです(四二章。特に、9節)。四〇23でいえば、忘れさせることも主の御業であり(ただし、ここで使われている「忘れる」という動詞は、別々の単語です)、忘れて癒されることもあるのでしょうが(そうするしかない場合も)、しかし主がヨセフに用意されていたのは、真の和解であって、忘却ではなかったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記四〇章「忘れてしまった」

2014-05-24 21:07:39 | 創世記
2014/05/25 創世記四〇章「忘れてしまった」(池戸キリスト教会講壇交換)(#508,290)

 創世記の最後四分の一は、このヨセフの生涯を辿る内容になっています。後に、エジプトの大臣になるヨセフは、兄たちの憎しみを買って奴隷として売り飛ばされ、侍従長の家で仕えていました。しかし、折角ご主人の信頼を得たのに、その妻のしつこい誘いを断った結果、無実の罪を着せられて、その家の監獄にぶち込まれていました 。けれども、そこでも主がヨセフとともにいてくださって、ヨセフは監獄の長の信任を得て、囚人たちの管理をするようになったのでした。今日の話の後、四一章1節には、

  それから二年の後、

とあります。ヨセフ30歳、ともあります 。そうすると、今日の5節の時点でヨセフは28歳ぐらい。奴隷として売られたのは17歳の話でしたから 、10年余り。故郷を離れて、言葉も文化も違うエジプトで奴隷として働かされた挙げ句、濡れ衣を着せられて監獄に入り、もう十年。でもヨセフはそこでも忠実に働き続けていました。

 ヨセフの話をご存じの方は、もうじきヨセフは監獄から出て、人生の大転換を迎えるのだ、と思って読むでしょう。また、献酌官長がヨセフの事をパロに話すのを忘れた、という23節に、じれったいような、やりきれないような思いを持ちたくなります。けれども、ヨセフにはそんな未来が待っているとは分かりませんでした。まだまだ先なのか、どんな展開があるのか、まったく分かりません。14節を見る限り、まずはこの家から出られたら、という願いが精一杯だったのでしょう。10年、主がともにいてくださって、監獄で、任された仕事をしてきました。そして、今ここに新しく二人の廷臣たちが拘留されてきて、ヨセフが世話をすることになった、それだけだったのではないでしょうか。ヨセフが彼らのことを気に掛けていた心遣いは、6節7節から窺えます。

  6朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
  7それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。

 囚人なんですから、苛ついたり不機嫌になったりなんて珍しくはなかったでしょう。苛ついて、ふて腐れてる方が普通だったはずです。でも、ヨセフのこの言葉は、彼が普段から囚人仲間の表情や心境を気遣い、少しでも明るく過ごせるようにと気を配っていたことを伺わせます 。それにはヨセフ自身が、先の見えない監獄生活でも、苛(いら)つかず、表情や心を曇らせずに過ごしていたはずです。そうしたヨセフの無心の積み重ねが、今ここで二人の廷臣からの信頼になり、夢の解き明かしに繋がっていくのでした。

 勿論、そのヨセフの思い自体、ここまで主がヨセフとともにおられて、支えてくださった思いであり、主によって鍛えられて、社会人として揉(も)まれて、成長してきた証しです。夢の解き明かしの最後に自分のことを話してくれるよう頼む時も、

 15実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。

と言うに留めています。兄たちに売られて、とか、ここの侍従長の奥様が、などと複雑な事情を洗いざらいぶちまけたら、かえって警戒されて、話が進まなくなることを考えたのでしょう。余計なことは言わず、無難な表現にした所に、ヨセフの機転が窺えます。17歳の時、兄たちの前で、恨みを買うのは目に見えている言い方で、自分の見た夢をベラベラと喋ったヨセフは、世間の裏を歩いて、賢明さを身につけていました。

 ですから、もう一人の廷臣、調理官長が自分の夢を話した時、その残酷な解き明かしをも率直に告げています。媚(こ)びたり、顔色をうかがったりせず、ストレートです。パロに罪を犯した結果が簡単に恩赦になるものではありません。まして、神がその夢を調理官長に見させられた以上は、率直にその意味を告げなければならない、と心得ていたのでしょう。そして、実際、三日目に、献酌官長はヨセフが解き明かした通りに復職してパロの手に酌を献げ、調理官長もヨセフが解き明かした通りに木に吊されたのでした。

  23ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

 この最後の言葉は、思い出さず、忘れてしまった、と諄(くど)く強調しています。いかにも意外、という風に印象づけます。献酌官長としては、パロの恩赦を、「実は夢で見て、ヘブル人の若者が解き明かしてくれた」などと言おうものなら逆鱗(げきりん)に触れかねない、と言い出しかねたのかも知れません。でも、確かに二年後、パロは自分が夢を見たからこそ、ヨセフの話に耳を貸せるのです。だとすると、この23節が「思い出さず忘れてしまった」と繰り返すのは、献酌官長を責める以上に、そこにも神が働いておられたと言うことです。献酌官長が思い出さないでくれて良かった。忘れてくれたこともまた、主の摂理だった。その時は分からなくても、御計画の中にあった。そう言いたいのだと思います 。

 人は忘れたり、罪を犯したり、薄情だったりします。糠喜びしてガッカリすることは尽きません。でもそれは、主までも私たちを忘れてしまわれた、という証拠ではありません。人が忘れても、主は私たちを覚えておられる。人は思い出さない、いや思い出したとしても余計な先回りをして却って足を引っ張ることだってある。でも、主は私たちを覚えていてくださり、私たちの最善をなしておられる 。遠回りのようでも、忘れたように思えても、実はもっと大きな最善を用意しておられる、との約束を信じさせられます。

 いいえ、主は私たちを覚えておられるだけではなく、人の夢にまで御心をお示しになるほど私たちの思いの奥深く、深層心理にまで関わられるお方で す 。ただ私たちの名誉挽回やドラマティックな人生の筋書きを用意される、なんてことではなく、私たちを深く深く取り扱われ、十年、二十年、一生を掛けて、私たちを鍛えられるお方です。甘えた坊ちゃんだったヨセフが無実を確信しながらも牢獄で、よい顔色を保ちながら仕え、他者を世話し、気遣って、でも決してご機嫌をうかがって真理を曲げることはせず、誠実に、賢明に、そして神に栄光を帰しながら語っている姿に、自分を重ねたいと思うのです。

 神に罪を犯していた私たちは、いつか必ず神の前に呼び出されて木に吊(つる)されるしかなかった者でした。でも私の代わりに、主イエスはご自身が十字架に吊(つる)されてくださいました。その尊い尊い慈しみによって、主は私たちの全生涯に、心の底にまで関わり、私たちを取り扱い、厳しいようでも最善の人生を過ごさせ、人と関わらせておられます。その意味が今は見えなくても、これから先、いつどうなるかが分からず、待たされても忘れられても、置かれたその場で、目の前の人に誠実に関わりたい。自分や他人の足りなさも主の御手の中にあることに平安を戴いて、よい顔色をいただいて歩む者でありたい、と願います。

「私たちを決して忘れたまわぬ主よ。あなた様の奇しい御計画の中、この人生を与えられています。ヨセフに託した約束を自分のものとさせていただき、私共の心の奥深くまでも取り扱われる主の御声に聞かせて戴きたく願います。失望や挫折を通しても、恵みを施してくださるあなた様を一層見上げて、待ち望み、心も顔も輝かせていただけますように」?


文末脚注

1. 4節「侍従長」とは、三七36で「パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った」とあったとおり、ポティファルのことです。
2. 創世記四一46、参照。
3. 創世記三七2、参照。
4. F・B・マイヤー、小畑進『きょうの力』(いのちのことば社、32ページ)より。
5. この時忘れていたならなおさら、二年後にはもうサッパリ忘れている可能性だってあったのに、二年後に思い出したことが奇蹟です!
6. 14節のヨセフの言葉「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください」は、新改訳欄外注にもあるように、ルカ二三42にある、主イエスの隣で十字架にかけられていた強盗の一人の台詞とかぶります。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。小畑進『創世記講録』(いのちのことば社、2003年)706ページ参照。
7. 勿論、今は、夢による啓示ではなく、聖書が私たちに与えられた啓示です。夢を神様からのメッセージかもしれない、と深読みする必要はありません。しかし、昔も今も、夢が人間の心の奥深く、無意識のレベルにまで関わっていることは変わらないのです。しかも現在の心理学では、夢を思い出すこと自体が難しく、そこにもまた心理的な(無意識の)操作が入って、正確に思い出す事自体まれであることが分かっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする