聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問60「喜び溢れる今日!」

2015-07-30 18:47:27 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/07/26 ウェストミンスター小教理問答60「喜び溢れる今日!」

 

 夕拝でお話ししているウェストミンスター小教理問答は、問一の言葉で有名です。

問一 人間の第一の目的は何ですか。

答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し(あるいは、神の栄光を現し)、神を永遠に喜ぶことです。

 私たち人間の存在の目的、ゴール、使命は、神の栄光(自分の栄光ではなく)を現し、神に栄光を帰しながら、神を永遠に喜ぶことです。そのために人間は造られ、それが人間の義務です。それが、人間にとっての本来の幸せであり、救いとは私たちが神の栄光を現す者として回復されていくことです。そして、それはただの道徳とか冷たい義務ではなくて、喜びであり、永遠の喜びです。

 この問一の、人間の目的(人間を方向付ける言葉)に、ウェストミンスター小教理問答はいつも基礎を置いています。今、十戒を一つずつ辿っていますが、ここでもやはり、私たちが神の栄光を現し、神を永遠に喜ぶことが念頭に置かれているのですね。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の三回目ですが、ここでは、このように言われています。

問六〇 安息日は、どのように聖別されなければなりませんか。

答 安息日は、他の日には合法的であるこの世の仕事や娯楽からも離れて、その日丸一日を聖なる休みとし、必要な業とあわれみの業に用いられる時間を除き、全時間を、公的・私的な神礼拝の営みをして過ごすことによって聖別されなければなりません。

 平たく言えば、週に一度、日曜日を安息日として聖別しなさい。

 神様を礼拝する日として、仕事や娯楽のためにではなく、神を礼拝する一日としなさい、と言われています。しかし、神を礼拝する日、という言葉を、堅苦しく、つまらない規則のように考えないようにしましょう。
 礼拝とは、言い換えれば、神に栄光をお返しし、神を喜ぶことです。決して、きちんとした服を着て、真面目腐った顔をして教会に座り、敬虔そうな顔をして、聖書を読み、讃美歌を歌い、楽しいことはいっさいしない…。そんなつまらない事が言われているのではありません。

それは、神に栄光を帰することにはなりませんし、神を喜ぶのとも程遠いことです。日曜日を、窮屈で、気取ったものにし、息が詰まるような冷たい日としてしまうなら、それは最悪の安息日違反だと言えます。

 しかし、これこそは、今日読んだ、イエス様の時代の状況でした。イエス様がおいでになった紀元一世紀。ユダヤには「パリサイ人」と言われる、大変真面目で宗教心に篤い人たちがいました。この人たちは神の前に正しく生きようとして、楽しいことを我慢したり、難しい規律を守ったりして、なかなか出来ないほどのキチッとした生き方をしていました。

 そして、安息日は、働いてはならない日だから、一切労働はしない。でも、その労働とは何だろうか。何歩歩くなら許されるだろうか。どんな行為は、どれぐらいまでならやっていいか。そういう規則集を作ったのです。そして、この箇所にもあったように、安息日には病人が医者に治療をしてもらうのは、仕事になるから、次の日まで待たなければならない、と決めてしまったのです。

そして、イエス様に対しても、安息日は仕事をしてはいけないと言われているのに、癒やしをしてもいいというなら、律法を無視したといって、訴えてやる、と考えたのですね。

 これに対してイエス様は、自分の羊が穴に落ちたら、安息日だって引き上げてやるじゃないか。人間はそれよりも遥かに神にとっては価値がある。その人間を病気の苦しみからいやしてあげるのは、よいことであって、正しいのです、と言い切られたのです。当時のパリサイ人たちの考えとイエス様の考えとは、全く反対でした。パリサイ人たちは、安息日の規則を守ることを考えていました。イエスは、安息日こそは素晴らしい日であることを考えておられました。

 十戒では、安息日は、仕事や遊びを休めて、神を礼拝する日だと言います。そうして、私たちは、世界を造られ、私たちのいのちと愛を注いでくださる神の前に静まります。普段は仕事や毎日の生活に追われて、神を忘れてしまうことが多いですね。神の偉大さ、私たちに対する測り知れない恵み、よいご計画、確かな導きというものを忘れて、自分の仕事や努力が全てであるかのように思ったり、誇ったり、焦ったり、人と競争したり、虚しい思いを抱きがちです。だから、主は、私たちに七日に一度は休みなさい。手を休めて、わたしを礼拝しなさい、と言っておられます。

 それは、丁度、親子や恋人、夫婦のような関係です。忙しく働いたり、勉強したり、目の前のことで必死に生きてしまうあまり、人間関係や愛する人の心を後回しにすることがよくあります。実際、折角、大事な家族がいるのに、家族のためにと思って働いているつもりでも、仕事に振り回されていっぱいいっぱいになり、気がつけば、家族との関係が冷え切り、深く子どもの心が傷ついて取り返しがつかなくなっていた、ということは多いのです。そういう仕事中毒になりがちな人に、妻や夫が、「こっちに来て、ちょっと休んで、一緒にお喋りをしましょうよ」「お茶でも飲みましょう」「もっと大切なことを忘れてないかい?」と話しかけるようなものです。

 礼拝は、私たちが何かをするよりも、神がどんなに偉大な方で、憐れみに満ち溢れ、私たちを愛しておられるか、その方が遥かに大事であることに気づくときです。イエス・キリストにおいて現してくださった神の栄光を、心から賛美し、じっくり味わうのですし、また、そのような私たちの賛美や礼拝を、神が喜んでくださっている、その素晴らしい関係を感謝するのです。

 ですから、神様の御言葉を聴く礼拝は、やっぱり安息日の中心として大切なことです。でも、礼拝に出ることが安息日の戒めなのではなくて、そこで神の聖なる恵みを聴いて、私たちが心安らぎ、仕事や忙しさを手放して、重荷を下ろすことが大事なのですね。

 そして、礼拝のあとも、楽しく、喜びの時として過ごすのですね。自然を楽しむこと、お互いを喜ばせ、あえて無駄なことをすること、御言葉をゆったりと味わい、神様への感謝や賛美、祈りを合間に挟みながら、この日を喜びの日として過ごすのです。

 やがて、私たちが迎えられる永遠の御国は、永遠の安息日です。それは決して退屈でも窮屈でもない、溢れる喜びの永遠です。その喜びを、今の生活で味わいつつ、毎日の仕事そのものの意味も新しく変えてしまうのが、日曜日の素晴らしい一日なのです。

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ルカの福音書二二章39~46節「なぜ、眠っているのか」

2015-07-26 17:51:56 | ルカ

2015/07/26 ルカの福音書二二章39~46節「なぜ、眠っているのか」

 

 41節に

「石を投げて届くほどの所」

とあります。どれくらいの距離なのでしょう。人によって随分変わってくるのではないかなぁと思います。英語では「目と鼻の先」という意味で使う言い回しでもあるようですが、そういう表現は十六世紀から始まったともありました。ですから、一世紀のユダヤでは、そういう言い回しはなかったんではないか。ひょっとすると、石を投げることに意味があって、イエス様は、この時も、何か異変があれば、石を投げて知らせることが出来るぐらいの距離になさったのではないかな、とも思いました[1]。いずれにせよ、もう次の47節では、群衆がやって来て、イエスを逮捕します。

 ですから、今日の所で、最初と最後に二回、イエスが弟子たちに、

「…誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

と仰るのは、弟子たちに繰り返して仰った、最後の命令と言ってもよいわけですね[2]。祈っていなさい。誘惑に陥らないように、祈っていなさい[3]。しかし、そうは言われても、弟子たちは祈るのではなく、眠っていましたね。しかも、ルカは同情的に、

45…彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。

と言っています。イエス様の最後の言葉や、十字架を前にした普段とは違う思い、また、この時のイエス様の祈り自体が、汗を血のように滴らせながらの祈りでした。ヘブル書六7では「大きな叫び声と涙とをもって」とあります[4]。その祈りを見て、弟子たちはまだ理解は十分では全くないながらも、愛するイエス様の悲しみに、自分たちも悲しくなって、どうしようもなくなって、眠ってしまったのだ、と言います。決して、鈍感で、イエス様の苦しみなど知らずに、よくまぁ平気でスヤスヤと眠っておられたものだ、などとは言わないのです。悲しさの余り、でした。しかし、悲しさのあまり、とわざわざあるのに、イエスは言われます。

46…「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

 悲しみの余り眠ったのですが、イエス様は、それも承知の上で「なぜ」と言われるのですね。どうしてでしょうか。それは、悲しみのときこそ、誘惑に陥りやすいから、起きて祈る必要がある、ということですね。確かに余りに大きな悲しみの時は、心が麻痺をして、何もする気になれず、祈ることさえ出来ないのが私たちの体験です。どう祈ったら良いか分からなくなります。何も考えられずにいます。そして、そこに甘い誘惑や、絶望や疑いが囁いてくると、そちらに流されてしまい、もっとひどい状態に自分を陥らせるのです。だから祈りが必要なのです。

 けれども、そんなとき、どう祈ったら良いか分からない時、どうしたらよいのでしょうか。それこそ、イエス様がここでご自身の祈りによって示してくださっている模範なのです。この時もイエス様ご自身が、深い悲しみを背負っておられました。立って両手を上げて祈るのが普通の時代に、立ってさえおれずに、跪いて祈られたのです。そして、そのような悲しみの中で、

42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

と祈られました。この最初の「みこころ」とは、神様のご計画を表す「みこころ」です[5]。イエスはいつも、神のご計画を強調しておられました。「必ず成就する」とか「死ななければならない」という言い回しで、神のご計画の必然性が、人間の思いとは全く違った形で実現していくことを語っておられました。その神のご計画に叶うことであれば、自分の杯-十字架に至る苦しみ-を取り除けてください、と言われます。「ちょっと計画変更をお願いできますか、よろしければこの杯を呑まずに済ましていいですか」と言われたのではないのです。神の永遠のご計画を優先している言葉です。そしてそれを裏打ちするのが後半です。

「しかし」

という言葉は、「それ以上に」「何よりも」という接続詞です[6]。立っている事も出来ないほどの悲しみは取り除けて欲しいというのが、当然の「わたしの願い」です。しかし、その「わたしの願い」以上に「あなたの(願い)」-後半の「みこころ」はそういう意味です-がなりますように、と大きなご計画に委ねたのです。それは、人の悲しみの中からは出て来ない願いです。御使いが天から来て、イエスを力づけましたが、この祈りの言葉も、これほどの天の父への信頼も、人のうちからは出て来ないのであって、神から与えられる力ですね。それによって、主イエスご自身も、悲しみの果てに眠りこけたり、誘惑に陥ったりすることなく、汗を迸(ほとばし)らせながら、こう祈られました。立ち上がられたのです。これが、私たちに与えられた、悲しみや苦しみの中で、絶望に陥らず、誘惑に絡め取られてしまわないための手がかりです。

 簡単な言い方をすれば、私たちも、どう祈ったら良いか分からない時も、このイエス様の祈りの言葉をなぞって、そのまま繰り返してよいのです。そのためには、神が私を愛しておられる「父」であって、その「御心(ご計画)」が本当にどのようなもので、信頼するに足るものか、も知っていくことが助けになります。そして、祈りが叶えられるとか、父が聴いて助けてくださる、ということが、決して悲しみをなくすことでもない、私たちが失敗をしたり恥をかいたりしないようになることだとも限らないと知っておくことも大事でしょう。私たちは、今の自分は、そんなに信仰が強くないから、祈れません、悲しいと誘惑に負けます-そう言い訳したくなります。でも、イエス様のこの祈りのお姿を見てください。立ってもおれないほど悲しみに打ち拉がれています。天使に力づけられなければならないほど弱く、汗まみれで、叫んで、「臆病者」であることを隠されません。これほど激しく祈るほど、イエス様の信仰が素晴らしかった、だなんて大間違いです。これほど絞り出すような祈りをせざるを得ないほど、イエスにこの時のしかかっていた悲しみ・苦しみは重かったのです。そして、その重さは、私たちが地上で今、味わう全ての重荷や、私たち自身を背負ってくださった重さです。

 私たちが悲しみや苦しみの中にある時、神はそれを知らなかったり「祈って乗り越えよ」と言われたりするだけでしょうか。いいえ、私たちの主は、私たちとともにおられて、その苦しみを味わい知っておられます。愛とは相手の痛みから逃げるものではありません。ですから、私たちも信仰に成長し、もっと祈るようになれば、それだけ身近な人の痛みに敏感になり、もどかしさを痛感し、涙を流し、悲しむようになります。そしてそれだけ、自分の力でなんとかしよう、もう諦めよう、祈っても無駄だとか囁く強い誘惑にも一層曝されることになります。だからこそ、私たちは絶えず神を、天の父と呼んで祈り、神の善いご計画があることを思い起こすことが必要なのです。

 自分の願いよりも神の願いがなされるほうが確かであることを、思い出させて戴くことが私たちを守るのです。また、この父の前では、泣いたり叫んだり、祈る言葉も知らず、眠りこけ、ペテロのように大失敗さえしかねない、なりふり構わぬ弱さをさらけ出す必要があるのです。そういう私を主が担い、御心の中に生かし、この苦しみもまた神のご計画の中にあると信じさせていただける。祈りは、主から私たちへの命綱なのです。

 

「主が十字架を前に、苦しみ悶えつつ、なお弟子たちを憐れみ、励ましてくださったように、私たちを心にかけ、私たちを今も支えておられることを感謝します。弱い私たちだからこそ、あなたが私たちに祈りを与え、祈りの言葉も、御使いさえも送って、強めてくださいます。あなたの御心がなりますように。悲しみをも包み込んで果たされる、主の御業がなりますように」



[1] マタイもマルコも「少し進んで行って」という言い方をしています。(マタイ十六39、マルコ十四35)。「石を投げて」という言い回しは、ルカだけです。ここまでも見てきたように、ユダの裏切りや逮捕の緊迫感を最も強く伝えているのはルカの特徴ですから、ここもそういうニュアンスを込めたのかもしれません。

[2] 「祈り」は、ここだけでなく、ルカが福音書全体で18回も使う強調行為です。この短い中に四回繰り返されますが、これがルカでは最後でもあります。締め括りの言葉です。(使徒では16回)。またこれは、「求める デオマイ」ではなく、神との交わりの面の「祈り プロスキュネオー」です。

[3] これが、ルカでのテーマです。マタイやマルコでは、弟子たちへの言葉は、三度の祈りの合間に入れていますので、結果的に引き出された警告ですが、ルカは、この主イエスの弟子たちへの勧告を前提・枠組みとして最初に置いています。さらに、「園」やゲッセマネの言及もありませんし、主の祈られたのが三度であったことも記されません。強調点は、主イエスの苦悶の祈りそのものから、それが、祈るべき弟子たちとの繋がりという方向性に発展しているのです。

[4] ヘブル六7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

[5] 「みこころなら」ビューロマイは「目的・ご計画」。十22とここ。使徒では14回も。名詞ビューレーは、七30「自分たちに対する神のみこころを拒みました」、二三51「議員たちの計画には賛同しなかった」。使徒では七回。

[6] ギリシャ語の「プレーン」は、moreover, nevertheless, besides, exceptなどのニュアンスです。

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詩篇23篇「恵みが追ってくる」

2015-07-20 08:11:04 | 説教

2015/07/12 詩篇23篇「恵みが追ってくる」

 羊は聖書で最もよく登場する動物です[1]。しかし、現代の日本人にはあまり馴染みがありません。ここの「緑の牧場」「憩いの水の畔(ほとり)」などのイメージを膨らませて、アルプスのハイジのような、長閑(のどか)で牧歌的な光景を勝手に想像しています。私、初めて羊を見たときはショックでした。羊は可愛くて、羊飼いが緑の牧場に侍(はべ)らせている、ではなかったのです。主は羊飼いとして私たちを導かれ、旅をさせるのであって、羊の所に美味しい牧草を持ってきてくれるのではありませんね。それでは「主は私の羊飼い」ではなく「召使い」です。江戸っ子でもないのに「羊」を「執事」にして、「主は私の「執事」かい?!」とツッコまれるような勘違いです。

 この詩篇を読んだダビデは、若き日、自分自身羊飼いをしていました。そこで体験していた通り、羊を飼うことは苦労が多い仕事でした。荒野では、いつも牧草を捜して移動します。狼や熊が襲って来たら守らなければなりません。羊は、弱く、迷いやすい動物でした。群れたがり、一頭が間違えばみんなゾロゾロついていくのだそうです。食べ物には貪欲で餌に釣られると簡単について行く、というのも私たちと同じです[2]。頭は余り良くなくて近眼だ、という人もいますが、意外と知能は豚よりも高く牛並みで、聴力も視力もいいらしいです。いずれにしても、羊は羊飼いが居なければ死んでしまう、弱い動物です。そして、羊飼いは、苦労の多い羊の世話を精一杯して、羊を丁寧に養い、導き、鞭で守り、杖で促しながら旅をさせるのです。

 1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

は、羊のような自分の頼りなさ、貧しさと、その私を養ってくださる主への全面的な信頼と感謝を歌う言葉です。マックス・ルケードは、この詩篇二三篇を取り上げ、『心の重荷に別れを告げて』という本を書きました。この詩篇を一行一行紐解(ひもと)きながら、「疲れ、不満、心配、恐れ、悲嘆、絶望、罪責感、傲慢、寂しさ、恥、失望、妬み、疑い」といった「重荷」を丁寧に浮き上がらせます。私は乏しい、足りない、あれもないこれもない、と文句ばかり言いがちだったり、疲れて憩えない、心配事を抱えたり、後悔にいつも引っ張られてしまったり。あるいは、自分の死や、身近な人の死という「死の陰の谷」も通ります。人生には必ず起こる事です。禍や敵も襲って来ることがあるでしょう。恐れもあります。憎しみや、人を赦せない思いもあります。荒野のような人生には、沢山のストレスがあります。実際、詩篇を七つの範疇に分けると、最も多いのは「哀歌」で、六十以上あります[3]。その中に、この詩篇はあるのです。

 私たちは生きてゆくために、もっと賢く、強い羊になればいいのでしょうか。死の陰には近づかず、敵を作らないような処世術を身に着け、怒りや妬みや憎しみに流されない清い心を持てるよう修行をしたらいいのでしょうか。いいえ、この詩篇が言うのは、主が私たちの牧者でいてくださり、私たちを正しく導き、必要を満たしてくださる。ただそこにのみ、私たちの慰めと希望があるのだ、という信仰なのです。それは、イスラエルの王として、戦争や失敗、駆け引きや家庭の問題を抱えて生きてきたダビデの、経験に根差した深い確信です[4]

 6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 アブラハム・ヘシェルという方が、ここを「幸せが猟犬のように追って来る」と表現しています。幸せの方が私たちを追って来るのです。私たちは自分が幸せを追い求めていると考えます。自分の力で幸せになろうとします。そして、どうするのでしょうか。羊飼いである主のもとから飛び出して、違う所に幸せを求めようとするのです。ダビデ自身がそうでした。彼は、生涯に少なくとも九人の妻とそれ以上の側女(そばめ)を娶(めと)りました[5]。次々に妻を娶って、慰めを得ようとしました[6]。それでいて、彼は子どもたちを叱ったり躾けたりすることから逃げていました。ダビデの優しさの裏側には、「愛されたい」「嫌われたくない」という強い渇きがあったのだと思わずにはいられません。そして、有名なバテ・シェバの事件があります。部下ウリヤの妻バテ・シェバを見初めて子どもを孕(はら)ませてしまい、隠蔽工作にウリヤを、戦死を装って殺させ、他の部下たちも巻き添えにしてしまうのです。そのダビデの過ちは、ダビデの家庭もイスラエルの国家も深く傷つける羽目になりましたね。しかし、主はその深い渇きと闇を持つダビデにも、常にともにいてくださいました。ともにいるだけでなく、鞭や杖を振るわれて、間違いから強いてでも引き戻してくださいました。間違って夢見て追いかけた幸せではなく、本当の幸いである「いつくしみと恵みとが私を追って来る」という体験をしたのです。

 ダビデが王になったのが間違いだったわけではありません。私たちも、煩わしい荒野ではなく牧場に住んで幸せに暮らすことを願うとしたら、それは勘違いです。社会で生きるからには重荷や煩わしさは避けられません。疲れ、誘惑があるのです。だからこそ、主が私たちを羊飼いのように導き、いや、羊飼いの喩えでは収まらず、客をもてなす主人のように食事を整え、油を注ぎ、杯の飲み物も溢れさせて[7]、更には「いつまでも主の家に住まう」家族とさえしてくださる恵みに、繰り返して与ることが必要なのです[8]

 主なる神の前には「羊並み」の頭しかない私たちには分からないことだらけです。でも、ハッキリしていることは主に従って行く生活を通して、主は私たちに深い憩いを与え、私たちを生き返らせてくださるのです。そして、私たちには「死の陰の谷」としか思えない現実を通る時も、それも「義の道」であり、いのちへと続いているかけがえのない道であって、恐れることはないと信じるのです。なぜなら、主がともにいてくださるからです[9]

 この主が「インマヌエル(ともにいてくださる神)」としてこの世に来られました[10]。イエス・キリストは

「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。わたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。」

「わたしに従って来なさい」

と言われます[11]

「わたしはよい羊飼いです。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」

と仰ったのです[12]。良い羊飼いであるイエスに私たちが従うことは、この世界の真っ只中で、私たちを力づけ、生き返らせ、重荷を下ろした歩みをくれます。慈しみと恵みとが、私たちを追いかけるのです。

 主に従うことは、ただついていけば楽になれる、という約束ではありません。主は御言葉に表された神の御心に従って、正しく、愛をもって生きられました。その主に従うなら、私たちもまた御言葉に従い、自分を捨て、低くなること、愛する者へと変えられて行くのです[13]。そして、愛に対しても私たちは思い込みや誤解が多いですから、具体的にはどのように生きることなのかを教えられることも必要です。でもそれは、難しい要求や、新しい負担ではありません。主に従い、御言葉に学んで、生き方を変えられながら、自分という重荷を下ろすのです。主が私の羊飼いであり、私たちに具体的な助けも日々のいのちを下さる恵みを、深く味わわせていただくのです。私たちもまたダビデのように、感謝と信頼の歌を歌うのです。

 

「主よ。自分があなたに養われる存在であることを忘れて、迷いだし、死にかけてしまう私たちを、今日この詩篇によって引き戻し、導いてくださって感謝します。あなたが私たちを生き生きと生かそう、荒野や死の陰でも、ともにいて、私たちを慈しみと恵みで捉えてくださいます。今ここに、悲しみや死や、恐れや疑い、孤独や無意味さなどに捕らわれている方がいたら、どうぞ羊飼いなるあなたが、その歩みに格別に関わって、新しい希望と信頼を与えてください」



[1] 直接の羊や、比喩的な用い方もあわせると、五百回以上登場するそうです。

[2] 「…聖書でこの類推[羊飼いと羊に準えること]が頻繁に用いられたのは、私たちをおだてるためではありません! むしろ、その類推は私たちがあの偉大な羊飼いの優しい、愛のこもった世話をどれほど必要としているかを絶えず思い起こさせるために役立っています。」フィー、333ページ。

[3] 「…そのことはおそらくそれ自体で、私たちに共通する人間性について何かを語っています。」ゴードン・フィー、『聖書を』343ページ。個人的な哀歌(三、二二、三一、四二、五七、七一、八八、一二〇、一三九、一四二篇)と、集団的哀歌(例えば、一二、四四、八〇、九四、一三七篇)として紹介されています。

[4]  この詩篇二三篇は、「私たち」ではなく、「私」と一人称単数が最後まで貫かれます。願いも嘆きもなく、感謝と信頼の告白のみなのです。

[5] Ⅱサムエル3章2~5節には六名の妻の名が、子どもとともに挙げられており、5章13節には「ダビデはヘブロンから来て後、エルサレムで、さらにそばめたちと妻たち[複数]とをめとった。…」と書かれています。また、最初の妻であり、後に取り戻した、サウルの娘ミカルもいました(同3章13~16節)。あわせて、少なくとも九名です。

[6] 申命記十七章17節では、王が「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多く増やしてはならない」と明言されていました。

[7] 「私の杯は、あふれています」は、頭に注がれた油が杯にまでこぼれ溢れる、ということではありません。

[8] 羊飼い、と始まりましたが、5節では「食事に招かれた客と主人」になり、6節最後では「いつまでも主の家に住まいましょう」というのですから、客でさえなく、家人、家族となっています。羊飼いの喩えは、ユニークで含蓄に満ちていましたが、歌い続けているうちに、それでさえ足りなくなってしまう、というダビデの告白だったのです。

[9] 4節「あなた」は、ヘブル語で「アッター」という強調された代名詞が使われています。詩篇二三篇の単語は、ここまでが27字、この後が27字(表題の「ダビデの讃歌」を除く)。偶然かも知れませんが、ど真ん中、なのです。「あなたが私とともにおられますから」こそ、詩篇二三篇の中心的告白です。

[10] マタイ一23。

[11] マタイ十一28。

[12] ヨハネ十11。

[13] 主が導かれるのは、低くなり、自分を捨てていく道。弱さや死、破れや貧しさを受け入れ、主の養いに生かされていく道です。具体的には、共同体的に生きること、親離れや、責任ある行動、などが含まれます。そして、そうした生き方にこそ、いのちも憩いも回復もある。

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ルカの福音書二二章35~38節「剣が言いたいんじゃないのに」

2015-07-20 08:09:06 | ルカ

2015/07/19 ルカの福音書二二章35~38節「剣が言いたいんじゃないのに」

 

 最近も聞いた言葉ですが、教会に行っている人に対して、「あの人は、神様神様と言うばかりで、何もしない。神様が全部してくださるからと言って、自分では動こうとしない」と言う非難を聞きます。そう言われるからダメというものではありませんが、私たちキリスト者は、信仰を隠れ蓑にして「何もしなくても大丈夫」と逃げるのでなく、神を信じるからこそ、その神からお預かりした頭も手も力も大いに働かせる生き方を証しとしたいと思うのですね。

35それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」

 ここで最初に言われているのは十章4節で七十人の弟子たちをお遣わしになった時に、神様が必要を満たして下さることを全面的に信頼させるため、手ぶらで派遣されたことです[1]。実際弟子たちは、周囲の人々から歓迎され、何も足りないことがなかった、と確認されています。しかし、今からはそれとは違う時代が始まる、とイエス様はハッキリ言われます。

36そこで言われた。「しかし、今は、財布のある物は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。

 今は財布や旅行袋を持ちなさい、と言われます。財布を持つな、と言われた時代は終わったのです。勿論、最初の時に、本当に身一つで出かけたことは、それはそれで意味がありました。神様が、必要を満たしてくださるという大原則を肌で経験しました。そして、その原則は基本的には永遠に変わりません。今でも主は私たちが思い煩う必要がないほど、私たちを養い、必要を満たしてくださいます。神を当てにしてもダメだ、ということではありません。けれども、その逆に、何も持たなくてもいい、という段階はクリアして、次のステップに入っています。ですから、イエス様が「何も持たずに出て行きなさい」と言われた聖書の言葉だけを取り上げて、「神様に任せていけば、何も持たなくても大丈夫です。何かを持ったり心配したりするのは不信仰です」と教えるとしたら、それは聖書をよく読んでいないことになります。イエス様は仰いました。次のステップは、時代の厳しさを知る事ですよ、と。

 イエス様はここで財布を持ち、袋を持ち、剣を買いなさい、と言われました。実は、最後の「剣のない者は」は「剣」とは書かれていません。「ない者は剣を買いなさい」なのです。ですから、むしろ

「財布のある者は、財布も袋も持ち、ない者-つまり「財布のない者」は-着物[上着[2]]を売りなさい。そして剣を買いなさい」

と考えた方がスッキリします。何としてでも剣を買え、ですね。ただ、これも今とは違います。日本で剣を買うだなんて、特別な物騒なことです。でも、そういう私たちの状況が特別なのであって、世界の歴史では剣や武器は、護身のためにはもっと身近でした。だから、38節でも、その場所になぜか剣が、二振りだけとはいえ、あったくらいです。問題は剣ではないのです。

37あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。

 主イエスは、数時間後にイエス様は逮捕され、裁判にかけられて有罪とされます[3]。そして、犯罪人たちとともに十字架にかけて殺されます。それは、その時だけの事ではなく、イエス様がすべての罪人たちと同じように扱われ、それによって、私たちを救ってくださるためでした。イエスを憎んだ社会は、イエスの弟子たちをも憎み、今までのようなもてなしは滅多にしなくなり、殺そうとします[4]。そのような時代が始まったことを、覚悟しなければなりません。

 ただし、後の49節から52節では、イエス様は、敵に斬りかかった弟子の剣を納めさせ、傷つけた相手を癒されます。また、続編の「使徒の働き」でも、教会が武装蜂起することは決してありません。「剣」が登場するのは、最初の殉教者が殺された時と、ピリピの看守が絶望して自死しようとした時の二回だけです[5]。大事なのは、剣ではなくて、主イエスが、預言されてきたとおりに「罪人たちの中に数えられる」ことです。「必ず」と言い表されているように、それは神の救いの長いご計画の中で決められていた、恐れ多い最終段階です。主イエスに関わることが今すべて実現(完成・成就)しようとしている。それこそが、最も大事なことでした。

 けれども弟子たちはそれがサッパリ分かっていません。ですから、38節で、剣が二振りあります、と言うのです。剣を文字通りに受け取ったのだとしても、何という緊張感のなさでしょうか。たった二本で、どうやって十三人を守ろうというのでしょうか。イエスの真剣な思い、十字架を前にした緊迫感というものを弟子たちは全く分かっていないのです[6]

 今までもずっと弟子たちは、イエス様の警告を聞いていませんでした。裏切る者がいることも、サタンが篩にかけることも、聞いちゃいませんでした。何よりもそれは、イエス様が裁判や十字架や死といった道を通られることへの無理解でしたね。イエス様には強く無敵なキリストであって欲しかったし、自分たちも、そのイエス様に従うなら、必要は満たされ、勝利をし、偉い者として尊敬される英雄になるような道を歩めると信じて疑いませんでした。

 その期待とは逆に、イエス様は、罪人に数えられ、無力になり、名誉も報いも求めずに仕え切ることを、ご自身に実現されるべきとされました。そして、弟子たちに示されたのも、イエス様に従って行けば何もなくても大丈夫、という、現実離れした脳天気な態度でもなければ、決して文字通りに剣や軍事力で武装せよという警告でもありません。現実の厳しさを覚えつつ、イエス様が神のご計画を果たされたことを信頼するよう、語ってくださったのです[7]

 イエス様は、私たちの無理解も誤解も含めて、今も

「それで十分」

とそのままに受け止めてくださいます[8]。いずれにせよ、主は十字架に掛かられ、私たちもまた脳天気ではいられない出来事に出会います。その時に初めて、御言葉で繰り返し言われていたことが分かるのですね。たくさんの思いがけないことが起きます。予想していた出来事にさえ過敏な反応をして、意外なほど自分が弱く、臆病だったり、だらしなく、負けず嫌いだったりして凹んでしまったりするのです。でも、そういう人間の姿はすべて、聖書に書かれていますね。主はその私たちを包み、引き受けて、ご自身とともに歩む道を示してくださるのです。

 それは、文字通りの剣の道ではありません。「自分を守るために人を傷つけても仕方がない」という道ではありません。「もっと多くの剣を用意しておけ」とは言われません。私たちの戦いは、この主イエス・キリストのみに信頼を置いて、普通になすべきことをしていく、という戦いです。恐怖を煽り立てて、剣や力で打ち負かそうという誘惑そのものとの戦いです。剣ではなく、ご自身をささげてくださった主を信頼して、平和を築こうとする戦いです。自分の正義を貫こう、張り合おうとする代わりに、自分が罪人で、誤解も甘えもあり、お互いに間違いを抱えた、けれども主イエスによって愛されていることを祝う。そのような平和なのです。

 

「御言葉を、字面だけで誤解してしまう私たちも、主よ、あなたはご存じです。あなたは、何よりもご自身の十字架に謙る生き方を通して、私たちに、生きるべき道をお示しくださいました。どうか、その道こそが私たちに開かれたいのちの道であることを心に銘記させてください。厳しい時代にあってこそ、疑いや恐れに捕らわれず、主の平和と愛によって満たしてください」



[1] 九章に、十二弟子の派遣が記されていますが、その3節よりも、七十人を派遣した箇所の十章4節のほうが、言葉としては一致します。厳密にどちらか、ということではなく、両者共通のモチーフではあります。

[2] この「着物」は「上着」のことです。当然ながら、上品なキモノではなく、日常の必需品である上着です。それは、通常、大事なものですから、質に取ることも制限されていました。その大事な上着を売ってでも、剣を買いなさい、ということは、状況の緊迫性を現しています。

[3] 今日の箇所は、ルカが記す長目の「最後の晩餐」の会話としては最後のものです。そして、この会話はルカだけが記す独自のものです。こういう意味でも、今日の箇所は、最後の晩餐を特徴付けて、逮捕へと雪崩れ込んでいく、重要な意味を持っています。そこで描かれているのは、主イエスの死の決定性と、弟子たちの無理解です。

[4] イエスの犠牲や愛にみんなが感動して、イエス様を信じたり、イエス様の弟子たちを歓迎したりする時代とはなりません。

[5] 使徒十二2、十六27。

[6] 有名な事ですが、教皇ボニファティウス八世が打ち出した「二剣論」はここを根拠に、「神は、教会の権力と世俗の権力の『二つの剣』を与えられた。教会は、この世の権力を、世俗の支配者に貸し与えている」という理解を打ち立てました。しかし、これが、まったくのこじつけでしかないことは、十分お分かりになると思います。

[7] 「それで十分」と言って戴いている私たちです。ここで注意したいのは、道徳的に読み、「主の言葉を誤解なく理解できるようにしよう」という適用をしないことです。「もっと賢くなれ」「空気が読めるようになれ」という勧めとしてではなく、私たちが鈍感でしかあれない所で、キリストが憐れみと寛容をもって導いてくださっているのだと知りましょう。

[8] この言葉は、否定的に「もうたくさんだ」という意味でも使われますが、ここでは満足の意として「それだけあれば十分だよ」と受け止めて下さったと読んだ方が、自然です。

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問59「素晴らしい日曜日」 創世記1章1~5節

2015-07-20 08:05:19 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/07/19 ウェストミンスター小教理問答59「素晴らしい日曜日」創世記1章1~5節

 

 今日は安息日について教える、第四戒の二回目を見ましょう。前回もお話ししたように、特に夕拝の皆さんは覚えておいてください。自分はこの安息日の律法を守れていない、朝の礼拝に来なかった、とだけ考えて、負担に思わないでください。この律法は、私たちを、解放するために与えられたものです。「日曜日は仕事や用事を差し置いて、とにかく礼拝に来なければならない」という形式的な義務が命じられている、と思ってしまっていたら、それは逆です。神様は私たちに負担を与えたいのではありません。重荷を下ろして休みなさい、と言って下さったお方です。私たちを休ませたいのです。

 そう考えると、今日の問59は、更に分かりやすくなるのではないでしょうか。

問59 神は、七日のうちどの日を、週ごとの安息日に定めておられますか。

答 神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と定めておられました。そしてそれ以降は、引き続き世の終わりまで、週の第一日を安息日と定められました。これがキリスト教的安息日です。

 ここで直接問題にしているのは、曜日の変更、ということです。

 旧約時代は、安息日はずっと土曜日でした。第七日が「安息日」であって、今でもユダヤ教徒は、土曜日を安息日として守っています。今でもエルサレムに行くと、イスラム教徒の住む地区は金曜が安息日で、ユダヤ教徒の地区は土曜日が一斉にお休みになって、次の日曜日にはキリスト教徒の地区が店を閉める。そういう移り変わりを見ることが出来るそうですね。

 ここで問題になるのは、安息日はどうして土曜から日曜になったのか。教会が十戒を守ると言いながら、勝手に土曜日から日曜日に買えたことは理にかなっているのか、という疑問です。実際、セブンスデーアドベンチストという教団は、その名の通り、セブンスデー(七日目)を安息日として守っています。でも、教会は、その初期から、土曜日ではなく、日曜日を「主の日」と呼んで、自分たちが集まって礼拝をする日としていました。「週の初めの日に」献金を集めるように、という指示もあります。ヨハネの黙示録では、その啓示を与えられたのは「主の日」だったと書かれています。

 そして、何よりも、イエス・キリストがよみがえられのは、日曜日でした。

 聖書では繰り返し繰り返して、「週の初めの日のこと」と復活のことが書かれています。そして、その福音書が書かれた時には、キリスト教会の礼拝が日曜日に行われていたのだとしたら、マタイもマルコもルカもヨハネも、読者である人たちに対して、自分たちが毎週集まっている礼拝とキリストの復活とを結びつけてほしかったに違いありません。

 ユダヤ人の発想で言えば、キリストがよみがえるのは、自分たちの安息日である土曜日であるべきだったでしょう。あるいは、人が造られた金曜でも許せたかもしれません。しかし、キリストは金曜でも土曜でもなく、週の初めの日の朝によみがえられました。それは考えてみれば不思議なことでしたね。そして、聖書には、その日にイエスとすれ違って会えなかった弟子のトマスのために、イエス様はもう一度弟子たちのところに現れたとありますが、それもまた、翌日でも、金曜でも、土曜でもなく、一週間後の日曜日でした。

やっぱり、イエスはわざわざ週の初めの日を選ばれて、よみがえり、弟子たちに姿を現されたのだとしか思えませんね。

 イエス様がよみがえられたことは、物凄い奇蹟です。私たちのために十字架にかかって死なれ、よみがえられた、というのはとてつもなく大きな御業です。その日を覚えて、教会が週の初めの日に礼拝に集まり続けたことは、当然のことです。そして、その後の「週の初めの日」に、聖霊が弟子たちの上に注がれました。

さらに、ヨハネに新天新地の幻が示されたのも「週の初めの日」でした。

そして、もっと遡って、聖書の最初には、初めの日に、神が天と地を造られ、何もなかった世界に光を照らされたと書かれていますね。

 週の初めの日は、天地創造の日、光が作られた日、イエスが復活なさった日、聖霊降臨の日、そして、黙示録でヨハネに新しい世界の幻が示された日です。すばらしい日ですね! そして、私たちもまた、いまここで、主の日に集まっています。

 こうしたメッセージが合わせて示しているのは、神が天地を造り、光を与えてくださったことです。世界を作り、光を与えられた神は、今も私たちのうちに御業をなしておられます。私たちをその素晴らしい御業に与らせてくださいます。やがて新しい、永遠の天と地をお造りになります。その力を以て、途中にある私たちの中にキリストがおいでになり、十字架と復活というみわざを果たしてくださいました。それは、私たちを新しくするための創造のみわざです。

Ⅱコリント五17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 私たちが安息日を通して覚えるのは、この大いなる創造主であり、恵みに輝く主です。この方を礼拝するとき、私たちは、本当にこの方の偉大さに心を打たれます。私たちは、この神様をいつのまにか忘れて、自分の狭い考えに生きてしまうのではないでしょうか。神抜きの考えで毎日を生きて、働いて、イライラしたり、疲れたり、苦々しい思いで生きてしまいませんか。神が作られた世界であり、いのちなのに、私たちの社会は、神という王などいないで、勝手に動いているかのように思っています。ですから、主がイスラエルに命じられた十戒で、「安息日を聖とする」生活を命じられました。それは、決して、宗教的な命令ではありません。礼拝のための義務ではありません。むしろ、社会全体が、神を中心として営まれるという本来の姿、やがて始まる確実な現実を覚えるためです。そして、何よりも、私たちは、この世界に主イエス・キリストが来てくださり、十字架にかかり、日曜日によみがえってくださったことを、覚えて日曜日を迎えます。

 安息日に仕事を休んだり教会に来たりすることには、決して私たちを休ませる力はありません。ただ、イエスが、私たちを休ませてくださるのです。私たちの重荷を担ってくださるお方です。私たちに、「ここにおいで。休んで、わたしとともにおいで。わたしはあなたとともにいたいんだ。わたしとともにいるなら、あなたはわたしの喜びを持つ。自由になる。勇気と愛が与えられる。さあ、重荷を下ろして。あなたの心の闇に光を照らしてあげよう」そう言われるのです。この方の声に聴いて、安息をいただくことは私たちにとって、どうしても必要なことです。どうか、主の安息を大切にしましょう。

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