聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/12/29 レビ記19章1~4節「親と安息」 ニュー・シティ・カテキズム10

2019-12-29 16:10:45 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/12/29 レビ記19章1~4節「親と安息」             ニュー・シティ・カテキズム10

 「ニュー・シティ・カテキズム」では、十戒からお話しをしています。今日は、第四戒と第五戒をまとめてお話する、第十問です。十戒の第四戒は
「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」
第五戒は
「あなたの父と母を敬え」
です。「安息日」とは、一週間の七日目のことで、その日は丸一日、休むよう求められていました。十戒の中に、何かをしなければならない、という戒めがあるのは分かりますが、何もせず、休みなさい、と命じる戒めがあることはとても興味深いことです。また、「あなたの父と母を敬え」は「殺してはならない」よりも先に来る、両親を敬え、という戒めです。
第十問 神は、第四、第五戒に何を求めていますか?
答 第四戒は、安息日に私たちが公的に、そして私的に神を礼拝し、日々の労働から休み、主と人に仕え、そして永遠の安息を期待すること。第五戒は、私たちの父と母を愛し、敬い、彼らの敬虔なしつけと指示に従うことです。
 安息日は、公的に(教会などに集まって、他の人たちと一緒に)礼拝する。そこから今日、私たちは日曜日に礼拝に集まっています。これは「クリスチャンは日曜日に教会に行って、礼拝をしなければならない」ということではありません。その逆に、神を礼拝する時、私たちは毎日の仕事から解放されます。神を忘れた生活だと、自分が何かをしなければ、という声に外からも内側からもいつも駆り立てられています。人からの評価や承認をいつも追いかけて、一喜一憂してしまいます。神を信頼することを忘れて、自分が何かしなければ世界が壊れるかのように思い込まされています。だからこそ、教会に来て一緒に礼拝をすること、また、一日を聖なる安息の日として過ごす時、私たちは世界の造り主であり、私たちの天の父である神に気づかされて、大きく息をつくことが出来るのです。特に、旧約の時代は、安息日は土曜日でしたが、新約になって、教会は日曜日に集まるようになりました。それは、イエスが復活したのが、土曜日ではなく、日曜日だからです。イエスが私たちのためによみがえってくださいました。私たちを愛するイエスが、十字架に命を捧げて、よみがえって、私たちの救い、将来の安息も果たしてくださいました。まだ朝の暗いうちに、弟子たちが信じていない時に、私たちがイエスを知るより前に、イエスは先駆けて、私たちのために命を捧げて下さったのです。この事を覚えるのが、復活の日曜日の礼拝です。それは、私たちが自分であくせくすることを止めて、神を礼拝し、労働から休み、主と人に仕え、そして永遠の安息を期待する、解放の日なのです。安息日は、私たちの信仰を、身体で具体的に覚えさせてくれる戒めです。一見、形式的な戒めですが、実に私たちの神理解、世界観を造りもし、私たちの仕事、人との関わり、時間の使い方など、道徳的な生き方の土台となる戒めです。
 次の
「父と母を敬え」
は、お父さんとお母さんを敬う心、大切に思う心を求めます。それは、お父さんとお母さんの言うことを何でも聴きなさいという事ではありません。
「彼らの敬虔なしつけと指示に従うこと」
とありますが、「敬虔な」とは神への信仰に叶った、という意味です。もしも親が、泥棒をせよとか、嘘をつけと言ったり、ひどい体罰や虐待をしたりしても、それでも親の言うことを聞かなければならない、ということではありません。親が、神を恐れず、神への敬虔を失っているなら、従わないで、自分を守って下さい。親を怖がったまま、従え、とは神は言いません。それは「敬う」ことでさえないのです。神が求めているのは、親を敬う心の回復なのです。
 二つとも神が私たちに命じている戒めです。でも、この二つは全然別の事を言っているようにも思います。安息日と父と母を敬う? どう結びつくのでしょう。今日の
3それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 ここには第四戒と第五戒が並んで出て来ますね。しかも、順番が逆さまです。ここでは第四戒の安息日が後になっています。その上
「父と母」
ではなく
「母と父」
とひっくり返しています。こういう書き方は聖書の書かれたヘブル語の技法で、安息日と親を敬うことが強く結びついていることを示しています。しかも、母と父を「敬う」よりも強く
「恐れる」
という言い方をしています。聖書は、神を恐れよ、神だけを恐れよ、というのに、ここだけ
「父と母を恐れよ」
というのです。
 このレビ記19章は「聖潔律法」と言われて、神が聖であるように神の民も聖となれと言われています。その中で、18節に有名な
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
という言葉が出て来ます。神の民として、心から聖い生き方をする。それはどういうことかを学ぶ、大切な部分です。そしてその最初が、この「父と母を敬え」と「安息日を守れ」の二つなのです。これは大変意味深長です。
 第一戒から第三戒は、神の他に神々を持たない、偶像や自分のイメージで神を考えない、神の御名をみだりに唱えない、でした。目には見えない神との関係でした。それがこの第四戒で、一週間の過ごし方、第五戒で、自分を生んだり育てたりしてくれる親との関係、という身近な戒めになります。今よりも聖書の時代は家族の絆、大家族での生活が当たり前だった時代です。安息日も家族ぐるみで守ったでしょう。そして、家族だからこそ、衝突したりぶつかったりもあったはず。そこで、神が親との関係を心に留めてくださっている、という戒めは、とても大きな意味をもったことは十分想像できます。安息日も、時間の過ごし方で、神を忘れてしまいやすい私たちが、本当に何を神にしているのか、自分が働き過ぎていないか、休みやゆったり過ごすことのほうが大事ではないか、と自分中心から解放される。恵みに満ちた具体的指針です。
 さて、これは
「あなたの父と母を敬え」
です。親がわが子に「自分を敬い、従えと命じよ」ではありません。親は子どもを愛せよ、です。わが子が敬いやすいように、自分を整え、子どもを尊敬し、その関係を難しくしている問題を丁寧に取り除くべきです。何より、親も又、自分の親を敬い、親への複雑な思いを主に取り扱ってもらいましょう。その心からの姿こそ、自分の子どもに見せて上げられる、尊敬への道なのです。

「命を与える父よ。私たちはあなたの道を歩むなら、何をしても栄えます。創造主であるあなたが、人には安息が必要であることを教えておられます。ただ、闇雲に働くことで自分を確立させようとしないようにお守りください。また、私たちの父と母を敬う、謙った心が与えられますように。どうか、自分自身の考えではなく、あなたの戒めに従って歩むことができるように助けてください。アーメン」
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2019/12/29 マタイ伝6章1~4節「隠れたところで見ている神」

2019-12-29 15:49:15 | マタイの福音書講解
2019/12/29 マタイ伝6章1~4節「隠れたところで見ている神」

 マタイの福音書を読み進めてきて、今日から6章に聴いていきます。5章の結びが一つの山場でしたので、6章から語り口が変わります。1節
「人に見せるために人前で善行をしない」
で欄外注で「直訳、自分の義を行わないように」とあります[1]。5章の17節から最後まで「義」、神の前に正しい生き方のことが語られてきました。当時の宗教家たちが教える「義」よりもまさる義をあなたがたの義とせよ、と語られてきました。それが
「まず神の国と神の義を求めなさい」
に続く[2]、この山上の説教、マタイの福音書そのものの、大事なテーマです。「義」という主題は、変わりません。そしてそれを
「人に見せるためにしない」
と強く言われ、具体的に施しと祈りと断食という三つの事が語られます[3]。イエスはここで「人に見せるためにするな」という禁止するだけではありません。むしろ、そのことを入口として、もっと自由な、驚くほど喜びに満ちた、新しい在り方を示してくれるのです。
2ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。…
 この「偽善者」の施しが、実際に会堂や通りで行われて、そのたびに自分の前でラッパを吹くようなことだったのかどうかは、諸説があります。まさか、そこまであからさまではなかったとも言われます。あるいは、旧約の律法には、「ラッパの祭り」というのが毎年あるのです。第七の月の1日目に角笛を吹き鳴らす。それは、第七の月が特別な月だったからです。第七の月の十日には「大贖罪の日」という、大祭司が至聖所に入ってささげ物を備える年に一度の日があり、十五日から一週間は「仮庵の祭り」という喜びのお祭りがありました。その始まりを告げるのが、ラッパの祭り、というお休みでした。特に、貧しい人、施しを必要とする人にとってラッパは解放を告げる音でした。神の憐れみ、解放を告げるのがラッパの響きです[4]。しかしここでは、偽善者が自分の施しという憐れみを通して、神の憐れみへの賛美ではなく、自分への尊敬を得ようと企んでいます。ラッパはその皮肉かもしれません。
 しかしラッパは吹かなくても、今でもお寺や神社や大事業の後には、喜捨をした方の名前と寄附金額が大きく石柱になっていたり、様々な形で大書されたりしています。控え目にしたことでもお返しやお礼がないと、不平を鳴らす人がいます。ラッパとは違う形でも、施しや献金が、自分が誉められるため、有名になったり尊敬されたりするため、の手段になってしまうことがあります。それは善行を装った、自分の得、利益のための「偽善」です。
 良い行いがいけないのではありません。
「…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」[5]
 神は私たちを良い業に生きるように強めてくださいます。でも、ここでは神が崇められる(誉められる)ためではなく、自分が人にほめてもらおう(崇められよう)という、実に思い上がった計算がある[6]。そんな動機に動かされてしまう私たちです。それなら、
…まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 人に見せたくてした行為は、すでに人に見られた時点で報いを受けている[7]。そこで目的を果たして終わってしまう。それが「悪い」という以上に、「もう報いは受けて、終わっている」。
「まことに(アーメン)あなたがたに言います」
と強く念を押して、勿体ないではないか、と仰る。しかし、人から誉めてもらおう、人から立派だと思われたい、という動機に私たちは流されやすいものです。人がどう見ているか、が気になります。それは、私たちの自信のなさ、自己肯定感の弱さ、このままで十分ではない、という虚しさ、恐れの裏返しかもしれません。「人からの称賛など要りません。わざわざ善人の真似を人前で演じなくても、私は私」と思えたらいいのに、そうは思わない[8]。それは自分の精神の弱さという以上に、当時も今も社会の中にも、教会の中にさえも蔓延している、神の恵みに信頼しきれない考え方です。そこでイエスは言います。
3あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 これは文字通りには到底出来ません。周りの人に見せるどころか、自分でも自分のしたことを忘れてしまう、ということでしょう[9]。自分がしたことを忘れる[10]。確かにマタイ25章の「羊と山羊の譬え」では、終わりの日には何をしたか、覚えていないことが裁きの基準とされています。
「いつそんなことをしましたか」
と記憶にないこと、無意識でしたことこそ、最終的な評価になる。そのことにも通じる言葉です[11]。でもその続きは、もっと驚く言葉です。
4あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
 隠れた所で見ておられるあなたの父。1節や他では
「天におられるあなたがたの父」
と言っているのに、ここでは
「隠れたところにおられる父」
と言われます。神は天にいて、地上の事など上面しか見ていない、と思ったら大間違いで、天の下にある総てのことを、何一つ隠れるものはなく、ご存じです。私たちの心の奥までも。でも、私たちの心にあるのは何でしょうか。施しや善行、義を行いながらも、実は、人に見せたい、自分が誉められたい、という偽善です。神が隠れた所で見ているなら、自分はもう恥ずかしくて、生きていけないと思いそうです。しかし、イエスはそうは責めません。隠れた所を見ている神が私たちに報いてくださる、というのです。私たちの偽善や、隠れた罪の本性も周知の筈なのに、神が報いてくださると期待させるのです。
 だからこそ、人からの称賛なんて報いでは勿体ない。私たちの偽善も、自信のなさも、ご存じの神がなお私たちの「父」でいてくださる。その神の子どもとされた幸いにまだ飽き足らず、人からほめられようとしてしまう私の隠れた心もご存じである神が、なお私たちを施しや善い業に報いると励ましてくださる[12]。自分の不足感を補うために奉仕や善い行いをするのではなく、自分の過去も心の裏の裏まで全部ご存じの神の前に生きればよい[13]。私たちのなした手垢だらけの行いも、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
と神は誉めて喜んでくださる[14]。神が私の行いを喜ばれ、私を喜ばれ、一緒に喜ぼうと神が言ってくださる。喜ばれ、喜ばせ、喜ぶ。これこそ何よりの報いです。この喜びを、神は報いてくださるのです。
 「ラッパの祭り」は安息を告げる祭りでした。更に七年毎に「安息の年」が、その七倍の四九年毎には「ヨベルの年」がありました。それは角笛が吹き鳴らされて始まり、借金の形(かた)に差し押さえられた土地も元の持ち主の手に戻り、奴隷も解放される年です。あらゆる束縛や負い目から解放されて、喜ぶ祭りの始まりです。それは、神の解放のご計画を現していました。人の心に隠れる虚しさやプレッシャー、劣等感や妬み、偽善や恥の意識から、完全に解放してくださいます。そのために、神ご自身が負債を支払って、買い戻してくださるのです。ここで語っているイエス・キリストご自身が、人の罪も隠れた所の悪意もすべてご存じで、しかしそれを断罪するより、その報いである罰を私たちの代わりに既に受けて、むしろ神が私たちの良い行いに報いて下さると励ましてくださったのです。聖書のラッパは、その全き解放の前奏です。
 新年を迎える今日、イエス・キリストが既に「新しい年」を始めてくださったことを歌いましょう。今尚、偽善や虚栄によろめいてしまうとしても、そのような弱さも心の奥もすべてご存じの神が、なお私たちを解放してくださると約束し、報いてくださる、と言われています。自分のためにラッパを吹こうとするのでなく、主の憐れみと私たちの心からの解放を告げ知らせるラッパが世界に響く日が来ると信じて、私たちの業も心も、痛みもお捧げしましょう。

「主よ。この一年もともにいて、隠れた所ですべてを見ておられた主よ。全てをご存じのあなたが、私たちの醜い罪の罰を御子イエスに負わせ、あなたの美しい愛の中に受け入れ、励まし、栄光を現してくださることを感謝します。あなたの憐れみで私たちを包んでください。私たちを偽善から強いてでも救い出してください。私たちの罪や弱さ、ささやかな願い、私たちの営みの全てを、あなたの憐れみと栄光を告げ知らせる、喜びの角笛の響きに加えてください。」


[1] 「善行」ディカイオシュネー。5:6、10、20、6:33と続く、山上の説教の主要テーマ。

[2] 6章33節。

[3] 6章1節の冒頭には、接続詞δὲがあり、前節との連続性が明示されています。それは、もはや自分を義としようとしない、見られることを求めず、神に向かう生き方そのものの「義」です。人に見せるために善行を行うことは、実質的に、信仰による神の義を受けようとするのではなく(それだけでは足りないとして?)自分の行為によって自己義を立てようとする不信仰です。パリサイ人や律法学者にまさる義とは、神の前に生きる義であり、人の前に、人との比較の基準ではなく、見えない神の前に-完全な義を生きて、私たちの隠れたところを見ている神の前に-生きる義なのです。

[4] 「ラッパを吹き鳴らす」 ユダヤの「ラッパの祭り」や「安息年」「ヨベルの年」レビ記23章23-42節、25章、民数記29章1節、出エジプト記21章1-6節など。負債の解放のラッパが、金持ちたちには善行の計算になったろう。

[5] 5章16節。

[6] 「ほめてもらおうと」 ドクサゾー。5:16、父をあがめる、と言われていたのに、自分をドクサゾーすることが目的に。9:8、15:31「神をあがめた」

[7] 「報い」 5:12、16、6:1、2、5、16、10:41、42、20:8。「報いを望まで人に与えよ」という歌(賛美歌536番)もありますが、イエスは「報い」をハッキリと仰います。あの賛美歌も「水の上に落ちて流れし種も何処の岸にか生い立つものを」と、自分のしたことの報いが将来にあることで励ましているのです。

[8] とはいえ、人に見せるためにしない、というのはとても難しいことです。見られることを意識して、どう見られるかを考えます。考えていないと言っていても、人からほめられれば嬉しいし、ケチを付けるような事を言われたら腹が立つものです。それを意識するな、と言われれば、ますます難しくなります。

[9] 単純に文字通りとしては、「隠れた」思いは次の手を使うでしょう。右手のしていることを隠している事自体を自慢することがあります。それを人にではなく、自分に誇ることもあるでしょう。また、自分のしてきたことを自分の善行として、他者からの評価・報いを求めていることがあります。それは、地上で報いを求めることであって、神の報いは得られないのですが…。教会の中で、「お返し」を求める生き方をしない。「お返し」を礼儀とする文化を教会に持たない、ということも大事だと思っています。

[10] 「右の手」には、単なる左右ではない、「義の業」のニュアンスがあります。ここから、マルチン・ルターは「右の手の罪」(義を装った自己中心)という言い方をしています。カンタベリーの大司教の言葉「恩寵とは自分を忘れること、自分を笑うことの出来る人間になることである」が思い出されます。

[11] ローマ2章16節「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」

[12] この「報い」は、なした行為への正当な「刈り取り」という事でしょう。2節の「偽善者」は自分が誉められることを求めているので、それが「自分の報い」なのですが、神からの報いは、行為によって人格を評価するものではありません。神は私たちを既に神の子どもとしてこの上なく愛してくださっています。行為が人格への評価を決める、という発想そのものが、神ではなく、偽善的なものです。神が下さる報いは、その行いそのものへの正当な結果でしょう。

[13] ティモシー・ケラー『「放蕩」する神』の中に、「もし神の恵みが十分感じられないとしたら、最もしてはならないのは、奉仕や活動によって、その不完全さを満たそうとすることです」というような一文があったと記憶しています。が、確認できませんでした。

[14] 25章21節、23節。

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2019/12/24 マタイ1章18-25節「神が私たちとともに」クリスマス燭火礼拝

2019-12-25 09:51:13 | クリスマス
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

メッセージ 「神がわたしたちとともに」 古川牧師
 「神が私たちとともに」という今日のテーマは、今読みました聖書の言葉の中から取りました。イエス・キリストの誕生の前に、生まれてくる子どもは
「インマヌエル」「神が私たちとともにおられる」
と呼ばれる、と言われました。イエス・キリストは、神のひとり子ですが、私たちと同じ人間になり、人としての生涯を歩んでくれました。イエスの誕生は、神が私たちとともにおられることを、最大級に現した出来事でした。
 これは、クリスマスだけの出来事ではありません。「インマヌエル」という言葉を告げていたのは、旧約聖書の「イザヤ書」という書物。イエスの時代の600年前に書かれていた本です。もっと前の聖書の中にも、神がともにいてくださる、という言い方は要所要所で出て来ます。神は、わたしがあなた方とともにいる、わたしがあなたがたの隠れ家、住まい、家となる、そのように仰るお方です。神は、ご自分を名乗って
「わたしがいる」
という名前を告げました。「わたしはいる」と神は自己紹介されたのです。
 今月、アフガニスタンで働き続けた医師、中村哲さんが、一緒にいた現地の方5名共々銃撃されて亡くなりました。中村さんはキリスト者で、アフガニスタンでの働きをまとめた本を『天、共に在り』という題で書いています。『天、共に在り』とは、このインマヌエル「神は私たちとともにいます」を中村さん流に言った言葉です。中村さんは
「これが聖書の語る神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する」
と書いています[i]。また、そこからアフガニスタンでの活動や、大変な闘いの中でもハンセン病の治療や井戸掘り、用水路の大工事などに奔走したことも、そうした努力だけではなし得なかった、沙漠が緑になって何十万の人の生活を変えたのも、すべてを貫いているのが「天、共に在り」だというのです[ii]。
 もしどなたかに「キリスト教の神ってどんな神?」と聞かれたなら、私は「私たちと一緒にいてくださる神だよ」と答えます。また、聖書の最後の「黙示録」という本には「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」と書かれています[iii]。天国ってどんな所?と聞かれたら、「神様と一緒にいる所だよ」とお答えしたいなぁと思っています。
 でも、神がともにいる、と言われて、嬉しいと思う方もいるでしょうが、ちょっと居心地の悪い思いをする方も多いかもしれません。神と人間とじゃ、あまりにも違いますから。いいえ、人間同士でも、一緒にいるのは嬉しいばかりではありません。家族でも、一緒にいたくないと思う時があります。安心して一緒にいられたらいいなぁと思っているのに、なかなか難しいのです。聖書にも、人間が一緒にいるように造られたのに、その関係を壊してしまう、「罪」のことが書かれています。神から約束や祝福をもらいながら、神に背き、人間同士も傷つけ合い、争い、裏切り、女性たちや弱い者を貶めてきた歴史でした。聖書には、立派な人ばかりが出て来るかと思ったら大間違いで、人間の罪や失敗の繰り返しです。しかし、そうした人間にも神がともにいて、立ち上がらせてくださった、という出来事が聖書には満載です。そしてその末に、神のひとり子イエスが、人間となって来て下さった、というのが聖書の中心にある出来事なのです。

 その時もイエスの父親役を仰せつかったヨセフはたじろぎました。自分が、救い主の父親を果たすだなんて、無理だと思ったのです。自分に流れている血は、先祖たちの罪、人殺しや姦淫や裏切りの血だ。自分には、神に選ばれる資格はないと思ったのです。でも、神はヨセフの夢に天使を遣わして、
「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」
と仰いました。神は、人間の罪とか恥とか、人間同士でも一緒にいるのが難しい現実を十分ご存じです。そして、だからこそ、私たちとともにいるために来て下さった。それも、神々しいお姿ではなく、私たちが一番安心できる、生まれたばかりの赤ん坊にまで小さくなってくれました。そこまでしてでも、私たちとともにいることを選んでくださいました。それは、神が私たちとともにいて、私たちにどんな罪や恐れや闇や失敗があろうとも、神は私たちと一緒にいる、一緒にいたいと願い、一緒にいると約束してくださっている、という証しでもあったのです。

 ヨセフは、マリアを娶って、イエスの誕生を迎えました。聖書には、生まれたイエスに後光が差していたとか、まばゆく輝く笑顔だったとか、天使のように可愛かったとか、何も書いていません。周りでは驚く出来事が起きても、イエスご自身は書くべき特徴もない、普通の、本当に普通の、小さな赤ん坊だったのでしょう。イエスは神々しささえ捨てて、マリアとヨセフの所にいてくださった。暗い宿屋の飼葉桶にそっと静かにいてくださる。闇を真昼のように明るくはしませんでしたが、そのイエスがおられることがヨセフの心をどんな光よりも明るくしたでしょう。

 「天、共に在り」と知って生きた中村哲さんの人生は大変な生涯でした。神が共にいるなら、どうしてあんなことが、とも思えます。でも、中村さんは「天、共に在り」と信じるからこそ
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
と言いました[iv]。
「私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです」
と確信していました[v]。アフガニスタンでも日本でも、人は愛するに足り、世界は美しく、人生は生きるに値する。どんなことがあっても、そこでも、ともにいてくださる神がおられるとは、そんな光をくれます。小さな、しかし十分な光です。

「主よ。あなたは私たちに独り子イエスを贈ってくださり、今も私たちとともにおられます。あなたがともにいる事実が、喜びにはあなたへの感謝となり、困難でも生きる力を与え、互いにともにいることを祝い、罪の赦しと恵みによって結ばれる幸いをもたらしてくださいますように。今からのコンサートでもあなたが心の奥深くに触れて下さい」

[i] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;background:white;'>[ii] 「「天、共に在り」本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。これが、三十年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。」前掲書、246頁、本文結びの言葉。

[iii] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;background:white;'>[iv] 澤地 久枝、中村哲共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る――アフガンとの約束』岩波書店、2010年。

[v] 中村『天、共に在り』、5頁。

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2019/12/22 マタイ2章1~12節「王が生まれた」鳴門キリスト教会 クリスマス夕拝

2019-12-22 17:08:37 | クリスマス
2019/12/22 マタイ2章1~12節「王が生まれた」鳴門キリスト教会 クリスマス夕拝

 今週水曜日は25日、クリスマスです。クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするお祭りです。ですから、今日の夕拝は、特別に、イエスの誕生についてお話しをして、クリスマスを祝い喜ぶ夕拝にします。
 イエスが生まれた時、東の方から博士たちがやって来ました。そしてこう言いました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
 イエスが「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方と言われています。この博士たちは、東の方からやってきた人。つまりユダヤ人ではありませんでした。しかし、東の方に行ったユダヤ人たちがこう言っていたのです。「やがて、私たちの王がお生まれになる。その方が、世界を平和に治めるようになる。聖書には、その王のお生まれが約束されている」。そのユダヤ人の王のお生まれを聞いていた人たちが、東の方で不思議な星を見た時に、これはあのユダヤ人の王の星に違いない、と思ったのです。そして、そのお方を礼拝しよう、と旅支度をして出発し、何ヶ月もかかって、とうとうエルサレムにやってきたのでした。
 この「ユダヤ人の王」は、ユダヤ人だけの王ではないのです。ユダヤ人の王は、東の国の博士たちも、世界中の国の人も治めて、平和にしてくれる王です。だから、博士たちが遠い東の国からやってきたのでしょう。とても沢山の時間やお金がかかったでしょう。旅の途中は、今よりずっと危険で、簡単には帰れません。それでも博士たちがやってきました。その事から、お生まれになった王がどれほど偉大なお方かが分かります。
 しかし、この時すでにユダヤには王がいました。「ヘロデ王」です。ヘロデ王は、とても頭が良く、沢山の業績を残した人です。王になりたくて、当時のローマ帝国の皇帝に取り入って、王になり、人々にも王と呼ばせていました。しかし、ヘロデ王にとっては博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」という言葉は、ビックリでしたし、不安にさせるものでした。ヘロデ王は、自分が手に入れた王座を奪われることを恐れたのです。確かに、博士たちが言うように、本当のユダヤ人の王であり、ユダヤ人だけでなく、世界の全ての人の王となるようなお方が来るなら、ヘロデが王である事も終わります。その事実に、ヘロデはいてもたってもいられなくなりました。
 そこで、ヘロデは
「民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした」。
 彼らは王に言いました。
「…「ユダヤのベツレヘムです。預言者たちによってこう書かれています。
『ユダの地、ベツレヘムよ。あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
 この言葉は聖書の「ミカ書」という所にある言葉です。この言葉から、キリストの誕生はベツレヘムだ、と祭司長やヘロデは結論しました。でも、この言葉が言っているのは、ただベツレヘムの事だけではなく、神は「一番小さい」と見えるような所から、神の御業を始める-エルサレムやヘロデのような大きな所からではなく、小さな所から、神様は新しいことを始める、ということは目も留められませんでした。そして、ヘロデは博士たちをベツレヘムに送り出したのです。
 イエスが「ユダヤ人の王」であるのは、このミカ書の言葉の通り、一番小さいような所に来られたことに現されています。ヘロデとは違い、イエスは世界の全ての王であり、自分の立場を守るよりも、人を思い、私たちを愛し、最も小さい者を大事になさいます。ユダヤ人だけでなく、東の国の人も、日本人も、インドネシア人も、韓国人も、また国籍のない人も、世界中の人々を、支配してくださる本当の王です。「支配」というと嫌なイメージがあるかもしれません。

 でも、漢字をよく見て下さい。支配とは、えて慮すると書きます。王は、国や民を支えて、必要なものを配ってあげることが、支配なのです。イエスの支配は、私たちを支えて、必要な配慮をしてくれる支配です。それは怖いことではありません。けれども、いつしか支配とは恐ろしく、上から押さえつけるような、民に王を支えさせ、配慮させるような意味になってしまいました。王という言葉も尊敬や感謝を抱くよりも、我が儘で、贅沢で、下々の苦労は知らないイメージになりました。ヘロデもそのような「支配者」、悪い「王」になってしまったのです。
 イエスは、ヘロデや悪い王、政治を終わらせる王です。本当に民を支え、生かしてくれる王です。他の国々とも争うことを終わらせて、本当の平和な関係を広げてくださるのでしょう。イエスこそ、本当の王、本当の、支え、配慮する支配者です。約束されていた、世界の王、その方のお生まれを喜ぶなら、遠くまで旅をしても惜しくないような素晴らしい王、それがイエスでした。ヘロデはその誕生を恐れて、その王を亡き者にしようとしましたが、その企みも博士たちを助けて、ベツレヘムに彼らは行きました。すると、再び、あの星が現れて、博士たちを導いて、イエスのいる家に導いたのです。こうして博士たちは、イエスに出会い、その家に入って、幼子を礼拝しました。博士たちが星を見てから、2年ぐらい経っていたようです。もうイエスは飼葉桶の幼子ではなく、家で母マリアとともにいる二歳ぐらいの男の子だったのかもしれません。それでも、貧しく小さな幼子です。博士たちに何をしてくれるでもなく、その願い事を叶えてくれる神童でもありません。その幼子に、博士たちがひれ伏し、宝の箱を開けて、贈り物をしました。黄金、乳香、没薬。この三つの宝物も、博士たちの礼拝も、イエスが王である事を現しています。イエスはやがて神が王である「神の国」を伝えて回るのです。

 今年も様々な出来事がありました。その今年の呼び方、元号が変わり、平成から令和になったのも今年の大行事でした。新しい天皇の即位では沢山のお金を掛けて、式典やパレードや晩餐会などがありました。しかし、もっと偉大な本当の王、イエスがおいでになった時、豪華な食事も大がかりな行列もありませんでした。それは、イエスがどんな王であるかを現しています。自分のためにお祝いをさせるよりも、一番貧しい人を支え、配慮する王。自分の王位を守るより、幼子となってくださる王。私たちにクリスマスのような喜びの日、嬉しいお祝いをもたらしてくださったイエス。そのイエスこそ本当の王だ、この方が王として来られて、新しい時代が始まったのがクリスマスです。イエスは私たちに、幼子のような心で安心して歩める神の国をもたらしてくださるのです。

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2019/12/22 ルカ伝2章25~38節「イエスという光」 クリスマス礼拝説教

2019-12-22 17:00:01 | クリスマス
2019/12/22 ルカ伝2章25~38節「イエスという光」
 キリストの誕生をお祝いするクリスマスに今日読みましたのは、ルカ福音書のクリスマス記事を締めくくる箇所です。ここではシメオンとアンナという二人の老人が、イエスを祝います。羊飼いや博士の派手さはありませんが、クリスマス記事の締め括りに、二人の老人の登場は、実に美しく、相応しい出来事です。特に29節から32節の歌は本当に美しい歌です。

主よ。今こそあなたは、
おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光を。」[1]。

 シメオンは26節で
「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」
ので、イエスを見た時、
「今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださる」
と言います。しかしそれだけではなく、イエスを見たことを、
「あなたの御救い…
あなたが万民の前に備えられた救い…
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」
を見たとまで歌うのですね。これを聞いて両親は
「驚いた」
とあります。両親は最初からイエスがキリストだと知っていました。その事実が、エリサベツや羊飼いたちの口から告げられる体験もしていました。両親が驚いたのは、
「万民の前」「異邦人を照らす啓示の光」
とある言葉でしょう。ルカの福音書でも、イエスが
「民の救い」、「ヤコブの家を治める」
とは言われていましたが、
「万民…異邦人」
まで照らす救いと明言したのは、シメオンの歌が初めてなのです。
 勿論、ルカでは初めてということで、旧約では最初から、全人類の救いが視野に入れられていました。アブラハムが選ばれたのは、彼の子孫、イスラエル民族を通して、万民が神の民として回復されるためでした。旧約でキリスト(メシア)の誕生と働きをハッキリ語るイザヤ書でも、万民を照らす働きが述べられています。
「わたし、主は、義をもってあなた[主のしもべ]を召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする」
「主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」[2]。
 こうした言葉を踏まえてシメオンは歌っているわけです。しかし、ヨセフ、マリアだけでなく、イスラエル民族は自分たちの選民意識、「神の民だ」という特権意識にどっぷり浸かっていましたので、異邦人にまで救いが及ぶことは論外で、強硬な抵抗をする人も出ます。それがこのルカの福音書ではずっと語られていきますし、ルカが続きとして書いた「使徒の働き」では更に具体的に、イスラエル人を中心とした教会が、異邦人のキリスト者が増えていく現実に驚いたり、戸惑ったり、民族主義からの反対にあう歩みが、綴られていくのです。その事が、次の34節以下に書かれているわけです。
34シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。35あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
 重い言葉ですね。祝福、とは裏腹に、物騒な言葉が並びます。イエスが来たことで倒れる人もいれば、立ち上がる人もいる。人々の反対、神に対する強い反抗心が露わになるのです。35節後半の
「それは多くの人の心のうちの思いが、露わになるためです」
は34節に繋がる目的節で、前半、マリアに対する言葉は挿入文です。イエスに躓いて倒れたり、力を戴いて立ち上がったり、反対を受けるのは、人の心のうちの思いが露わになるため。実際、イエスが病人に「あなたの罪は赦された」と言われた時、律法学者やパリサイ人たちは心のうちで呟きます。
ルカ5:22イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。[3]
 イエスは異邦人をも照らす光だからこそ、人の心のうちの思いを露わにする。人の心にある冷たい考え、神の恵みとは違う本心、隠れた闇をも明らかになさる。それは、人にとっては躓きでもあれば、神との出会いともなるわけです。異邦人は異邦人で、自分たちの宗教や神理解、自分の思い描いていた神、宗教で聞かされる神仏よりも、遥かに大きく、遥かに人格的な神こそ神であることをイエスと出会って知らされます。私たちも異邦人として、イエスを通して初めて、神を知るのです。神の子でありながら、人となり、十字架に至る生涯を生きて、死んでよみがえって、今も私たちとともにいると約束された、そういう神である事を知りました。それは、私たちの人生や心のうちを照らして、絶望や諦めから救い出してくれる光でもあります。

 シメオンの言葉は、お祝いのクリスマスには相応しくない、不吉な予言とも言えます。けれども、人が生きる以上、苦難とか反対とか、倒れたり立ち上がったりは付き物でしょう。マリアに向けられた35節の言葉も、
「刺し貫く」
は「行き巡る」というありきたりの言葉で、何を指しているのか断定しづらいのです。イエスの十字架を見て、母マリアも深く心を抉られたのは間違いありませんが、その事を指しているとは言い切れない。むしろ、イエスがこれから光としての役割を果たす時に、人が躓いたり立ち上がったり反抗心をむき出しにする時に、母マリアも魂の中を剣が行き巡るような、心配や痛みや傷を覚えることになる、ということでしょう。どの母親もわが子の成長を見守りながら、ハラハラしたり心で泣いたり血がにじむような思いをします。そのわが子がイエスだったとしても、親の心労は避けられないのです。マリアはイエスの悲しみや反対を見ましたし、我が事のように辛い思いをする。その覚悟でした。
 シメオンはキリストを見るまでは死なないと告げられていました。どれ程の長生きだったのか。28節の
「幼子を腕に抱き」
は「曲げた二つの腕の中にみどりごを受け取った」という表現だそうです[4]。自分から赤ちゃんをもらうと危ないので、腕に置いてもらう。それほど高齢でした。「イエスを見たから、聖霊のお告げは果たされた。でももう少し生きていたい」とは言わない。
「安らかに去らせてくださる」
と満足しています。沢山の事があった人生だったでしょう。
 もう一人のアンナは結婚して七年で夫を亡くして、八四年。八十四歳とも訳せますし、八四年間、寡婦暮らしをしてきた、十才で結婚したとしても、百歳を超えていたのかもしれません。いずれにせよ、わざわざ彼女の経歴を書いたのは、ひと言では言えないその八十四年を思い巡らさせるためかもしれません。彼女も魂を剣が行き巡る思いをして生きてきたのでしょうか・・・。
 そのアンナやシメオンが、長い生涯の終わりに、イエスを囲んでいます。イエスを見たことを喜んでよしとしています。主を待ち望んでいる人々を励まし、異邦人も照らすイエスの将来を望み見ています。この二人自身、心刺されるような長い生涯を重ねてきて、マリアにこれから待つ生涯の厳しさを予感した上で、それでもイエスが来て下さったことを喜び、祝福し、イエスが異邦人をも照らす将来を待ち望んで、満ち足りています。どんな生涯でも、主に出会うことは人生をよしとさせてもらえます。「主を待ち望んで良かった」と思わせてもらえます。次の世代にも、「異邦人を照らす啓示の光」であるイエスを指差して人生を終える。終えたいものです。
 今年も鳴門教会に、沢山の方が立ち寄ってくれました。外国からも韓国、インドネシア、パプアニューギニア…。思い描いてください。そうしたゲストはたまたまの訪問者なのではなく、多様な人々が一緒に礼拝を捧げ、ともに神の家族となることこそ、イエスという光が始めた業です。私たちは差別や偏見を持っていたり、何か苦しみや痛みがあれば天罰だとか親の育て方だとか邪推をしたり、心の中で神を小さく考えている。そこにイエスが来られました。小さな私たちのために、小さな赤ん坊として生まれ、人として歩み、人の心の本心と向き合って生きて下さいました。私の心の反抗心も待ち望む思いも何一つ隠しようがなく知り尽くしている方が、私のために生まれてくださり、待ち望まずにはおれない将来のしるしとなってくださいました。私という異邦人の光となり、同じように、多くの国々の光となり、やがて私たちは一つの救いに与る。今既に、私たちも、その前味を祝うような出会いを、しばしば味わわせていただいているのです。「イエスとの出会いで、生涯の労苦も痛みも報われた」とは言えなくても、最期には安らかに去れる。クリスマスは、私たちも心からそう言わせてくれる出来事です。

「ひとり子イエスを与えられた主よ。小さな幼子イエスを包む、二人の老人の姿を通して、私たちの心を照らしてください。私たちの、貧しく小さな心をもあなたは蔑まず、照らし出してくださいます。ご自身の限りない謙りと、十字架に至る道を引き受けて、その先の復活を果たしてくださり、私たちにいのちを下さったことを感謝します。クリスマスが新しい始まりであったこと、イエスとの出会いから始まった新しい希望を、改めて味わい、御名を崇めます」


[1] ルカ2章29~32節

[2] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;'>[3] その他、6章7~11節「律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。8イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。9イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」10そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。11彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。」、9章46~48節「さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、48彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」

[4] 榊原康夫『ルカ福音書講解1』、395頁。

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