聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答118~119 エペソ書1章9-10節「サービスの神」

2019-06-30 20:32:36 | はじめての教理問答

2019/6/30 エペソ書1章9-10節「サービスの神」はじめての教理問答118~119

 

 主の祈りを一つずつ味わっています。先週は二つ目の「御国が来ますように」でした。今週は三つ目の

「御心が天で行われるように、地でも行われますように」

です。「御心」とは「神様のお考え」という意味です。あなたの心、お考えが行われますように。それも天でのように、地でも行われますように、です。つまり、神様が天でなさっているように、この地、私たちが住んでいる世界でもなさってください、ということですね。

 皆さんは、どんなことをしていると思いますか。天ってどんなところだと思っているでしょうか。なんとなく、こんなイメージがあるかもしれません。

 雲の上で、羽根の映えた天使たちが音楽を奏でて、そこにいる人たちも皆きよらかでお上品で。でも聖書にはそういうイメージは出て来ません。ですから、主の祈りも、今のこの世界が天国みたいにすばらしく、いやなことが何もない生活になりますように、というようなことではないのです。「この世界が楽園のようになって、嫌なことがなくなり、嫌いな人や面倒くさいことが一切なくなりますように」という意味だと思ったら、勘違いのようです。「はじめての教理問答」では何と言っているでしょうか。

問118 第三の願いごとはなんですか? 答 第三の願いごとは「みこころが天で行われるように地でも行われますように」です。

問119 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とはどういう意味ですか? 答 天で神さまが仕えられているように、わたしたちも地において神さまに仕えるようにしてくださいという祈りです。

 「天で神様が仕えられている」。それが「天」だというのです。そして、今、この地では、人が神に仕えていない。私たちが考えるのも、自分が幸せで、自分にとって嫌なことがないことばかりで、神様のことを忘れている。神様に造られて、神様に生かされているのに、その神様をすっかり忘れています。ですから、「主の祈り」で神様の御心が行われますように、と祈る事は、何よりもまず、神様が神様とされること。私たちが心から神様に仕え、神様を賛美し、神様を神として生きるようになることを祈るのです。

 しかし、神様の御心は、神様ご自身がまず仕えること、です。神様は私たちに仕えてほしい、神に仕えないなんてなんて失礼だ、と怒っているのではありません。まず、神ご自身が、仕えるお方なのです。この世界を造られた時から、神様は喜んで世界に仕えておられます。イエス様は、マタイの福音書10章29節から30節で仰いました。

…二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

 雀だけでなく、私たちの髪の毛一筋も、野の花や木の葉っぱ、そして太陽も星も、すべては神様が一瞬も休まずにお世話をしてくださっているから存在しているのです。神様はすべてのものに仕えてくださっています。この世界を造られた時に、神様はそのすべてのお世話をも喜んでするつもりで造ったのです。神様は仕えるお方です。イエス様は、マルコの福音書10章45節で、こうも仰いました。

…人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。人の心が汚れてしまい、喧嘩をしたり、騙したり、虐めたりしている人の生き方を聖く洗って、癒やすために、イエスは来られました。そして、弟子たちの足を洗い、病人を癒やし、孤独な人に語りかけ、最後は十字架の死にまで自分を与えてくださいました。

 決して、「聖い人、わたしを礼拝する人、クリスチャンしか天国には入れてやらない」と天にいるお方ではありませんでした。むしろ、その天からこの地の罪の底に飛び込んで来て、人に語りかけ、ご自分が傷つくことをも厭わずに、命を与えてくださったのです。それが、神様の御心でした。仕えることが神様の御心だったのです。キリストは、天からこの地の最も低い所に来られて、人に仕えて、この地を神に結びつけてくださった。それこそが、神の御心の奥義だと、今日はじめに読んだエペソ書に言われていた「御心の奥義」です。

エペソ書一9-10みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 この言葉が言うように、神様は天と地とを切り離しては考えません。私たちが祈るのは、この地に御心が行われることです。

?

!

 今、地上では、神の御心よりも、自分の願いをぶつけあっていることが沢山あります。だから、もうこの世界なんて嫌だ、早く天国に行きたい、と考える人も沢山います。この地上から天国に行きたいとか、天国にしか幸せは無いと考える人は大勢います。でも、イエスは、私たちを天国に招いたのではありません。天からこの地に来られて、天と地を結び合わせてくださった。とても低い生き方をして、仕えてくださいました。今この地で、天の国、神の国の生き方を始めさせてくださったのです。

 そして、「あなたがたも互いに仕えなさい。御心がこの地で天でのように行われるようにと祈りなさい」と教えてくださったのです。それは、私たちの力では出来ません。イエスも「あなたがたが頑張って、地上を天国のようにしなさい」と仰ったのではありません。それは私たちの力ではなく、神の力です。そうしてくださいと私たちは祈るのです。でも、そう祈るようにと仰ったイエスは、その祈りに応えてくださらないでしょうか。神様に祈り、神様の御心が行われますように、と願う私たちに応えて、私たちに神様の御心を行ってくださるでしょう。

 この世界は、神様が、神様の御心を行うためにお造りになった世界です。この世界で、天でのように御心が行われることは、神様のご計画です。神は私たちに仕え、食べ物をくださり、美しい自然や、楽しい思い出や、慰めを下さっています。人の心の闇や悪い行いにも光を当てて、悔い改める心や、癒やしや回復を下さっています。イエスの恵みを十分に戴きましょう。人や自分が諦めそうになっても、神様は必ず、この地で御心を始めていると信じて祈りましょう。私たちの今週の歩みでも、天の神が御心を行ってくださいますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

2019-06-30 20:26:54 | 一書説教

2019/6/30 Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

 今月の一書説教は、サムエル記第二です。第一の途中で登場した少年ダビデが、正式に王として即位し、統治していきます。そのダビデの四十年にわたる統治の出来事を二四章まで伝えていく内容となっています。ダビデほど詳しくその生涯が伝えられている聖書の人物は、イエス以外にいません[1]。詩篇の祈りの多くもダビデに結びつけられて、信仰や賛美、怒りや叫び、人間らしい正直な言葉に、私たちは慰めや励ましをもらうのです。Ⅱサムエルも実に人間らしいドラマです。ダビデは幼子のような温かさも見せ、随所で失敗も犯します。そしてダビデの息子たちの過ち、とりわけ今日の18章のアブサロムの謀反が、読む者の心を打つ書です。

 ダビデは一国の王である以前に一人の人、一人の父親でした。クーデターを起こして父王を葬ろうとするアブサロムに対しても、王として憎しみや政治的な判断よりも、父としての息子への愛が勝るのです。18章でダビデ軍はアブサロム軍と衝突しますが、そこでもダビデは息子の命が気がかりで、最初から

「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」

と懇願して戦場から伝令が走ってくるのを待っていました。戦闘でダビデ軍が勝利し、アブサロムは打たれて死にます。それを伝える伝令が駆けてきた時、最初一人が見えると、

25ただ一人なら、吉報だろう」

と言い、もう一人が見えても

「それも吉報を持って来ているのだろう」

と言い、最初の伝令がアヒマアツみたいだと言うと

27あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」

と。何の根拠もないのに、「縁起を担ぐ」ダビデの親心です。戦いの勝利よりも、ダビデに気になるのは

「若者アブサロムは無事か」

です[2]。アブサロムの死が伝えられて、

33「わが子アブサロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム…」

 この悲痛な叫びが、第二サムエル記でも最も耳に焼き付いて離れない嘆きとなるのです。

 この言葉は私たちの心に響きます。特に大事な人を失った方には刺さります。この台詞(せりふ)にも、ダビデがアブサロムにもっと早く思いを伝えていたら、という後悔があります。ここまで、ダビデはアブサロムとの関係をギクシャクさせてきました。父として向き合わなかった後悔がここに迸(ほとばし)っています。王として反乱を鎮める義務は当然でも、それでも人として悲しい、叫びたい、自分が代わってやりたい、そういう心をサムエル記は汲み取っているのです。「聖書に書いてあるのだから、ダビデのしたことだから、間違いはないはずだ、バテ・シェバへの過ち以外はダビデは正しかったのだ」と思うことはありません。

 私たちの生活でも、何かあると自分か誰かの責任だろうとか、正しく生きていればひどい事は起きないはずだとか考えたがりますが、でも現実はもっと思いがけず、不条理です。サムエル記はそういう複雑な現実の鏡です。

 Ⅱサムエル記の最初、逃亡生活から戻った時、ダビデの部下は六百人[3]。それが、最後24章での人口登録では百三十万の兵士を数えるまでに大国化していました[4]。サムエル記を通じて、徐々にダビデが権力を得て、民族が王国となり、身分の格差を生じさせる激動が垣間見えます。それでもその頂点にいるダビデが満たされることはありませんでした。経済的に豊かになり政治が安定し、妻を多く娶っても、ダビデの心が向いていたのは、家族や人のぬくもりでした。失敗し、臆病になり、慰められ、教えられる。そういう率直な姿をサムエル記は描くのです[5]

 7章には、主がダビデに

「永遠の家を建てる」

と約束されます。「ダビデ契約」です。でもその後ダビデや息子たちの問題が続々起きます。特に11章の姦淫と殺人は有名です。部下の妻バテ・シェバを寝取って、隠蔽を図り、最終的にはその部下と他の兵士も巻き添えに戦死させるのです。主は預言者を通してダビデの罪を責めます。ダビデは自分の罪を認めますが、主はダビデの犯した罪の結果は引き受けさせるのです。最初の子は死ぬのです。でも、その罪だけを余りに道徳的に捉えないでください。「ダビデがバテ・シェバと罪を犯したために、その子どもたちが強姦や殺害、そして、アブサロムのクーデターまで引き起こした」とすべての原因をダビデの姦淫に見るのは極端でしょう。「子どもの罪は親のせいだ」とか、「あの最初の罪さえなければその後はもっと順調で幸せだったのだ」などと単純に結論できはしないのです。

 確かにダビデの罪は厳しく責められました。最初の子は死にました。でも次に生まれたソロモンは、主が

「エディデヤ(主に愛された者)」

と名付けるのです。そして、やがてダビデの王位を継承するのは、他の、曰(いわ)くの少ない子ではなく、ソロモンなのです。「ダビデ契約」は、ダビデの罪によっても反故にされることはありません。むしろ、ダビデも最初から様々な過ちを犯していたし、子どもたちも他の人たちも様々に悪をしでかし、禍を招いてしまう。そういう中に主がなおいてくださる。恵みが注がれ、悔い改めへと導かれる。ハッキリ「主が」と語られなくても、いつもダビデは助けられてきました。それも、思いがけない人物や一回しか登場しない人を通して、主は隠れて働いておられるのです[6]。「罪を犯せば罰せられる」とか「人の信仰に応じて神が祝福する」といった道徳的枠組には収まらない人間と、その中で悔い改めさせ、赦し、回復、慰めてくださる主の恵みが、サムエル記には聞こえてくるのです。

 交読しました22章は、ダビデが読んだ詩です。長い詩で、主を誉め称えています。この賛美がサムエル記の最後に置かれています。ダビデの大きな罪も十分知った上で、そのもたらした混乱や悲しみも十分見据えた上で、ダビデは自分を責めるよりも、主を誉め称えます。

28苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。

29主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。

 この言葉一つ一つが、ダビデの口から発せられたと思うと、不思議な美しさを持って来ます。バテ・シェバの事だけでなく沢山の罪を犯してきたダビデ。一国の王である前に、一人の人間であって、夫としても父親としても不完全で、罪のもたらす取り返しのつかない後悔も数えきれない程引きずっている。そのダビデは、「主が自分の神として私に良くしてくださった。主が私を導いてくださった」と言い切ることが出来ました。それでも、最後24章で、ダビデは不必要な人口調査をして民に禍を招いてしまう。晩節を汚してしまうのですが、そこで主の憐れみを求めて祭壇を築いて、生贄を捧げたことでサムエル記は結ばれます。その祭壇の場所が、後のエルサレム神殿の場所となるのです。私たちの礼拝は、ダビデの偉人伝や生活の聖さの上に成り立つのではありません。うわべの奥にある闇や恐れ、あるがままの危ういダビデをも愛し、ダビデに向き合い、憐れみ、支えてくださったことに、聖書の礼拝はあるのです[7]

 ダビデは傲慢なわが子アブサロムをも愛して、

「私が代わって死ねばよかったのに。」

と嘆きました。同じように、神は私たちを愛しておられます。やがて、ダビデ契約を果たすため、イエス・キリストが来られました。ダビデを責め、人の罪や愚かさを恥じるどころか、新約聖書の一ページ目の系図で、「ダビデの子」と呼ばれることも厭わず、人の中に来られました[8]。イエスは、私たちのうわべの行いや悪を見るのでなく、心の迷いや恐れ、罪や悲しみ、呻きを知る王です。そして、私たちを「わが子」として愛して、私たちに代わって死んでくださいました。ご自分の威厳を保つよりも、私たちを失う方が耐えられないのだと、命を捨てて、私たちを神の子どもとなさいました。その深い愛に基づいて、私たちはここに集まって礼拝をしています。そして、その無条件の愛に基づいて、私たちは真っ直ぐに生き始めることが出来ます。道徳やうわべの奥に欲望や身勝手を隠した一触即発の生き方でなく、心を見ておられる主の前に、自分の罪や悲しみや恐れに正直になって、御言葉に従って生きたいと願えるのです。[9]

 Ⅱサムエル記は、複雑な人の社会の中で生きる現実を描きつつ、どこにも主が確かに働いておられることを語ります。主は、決して私たちを恥じたりせず深く憐れんで立ち上がらせてくださる。私たちがいつも主を見上げて、自分に正直に生きることを励ましてくれるのです。

「ダビデの子なる主よ。Ⅱサムエル記を感謝します。時代が変わり、家族が翻弄され、自分の変化にも戸惑っている私たちが重なります。ダビデを愛し、ソロモンを愛し、私たちを愛される恵みに感謝します。その深い赦しと憐れみを歌わせてください。自分のあるがままも、あなたの恵みも正直に告白させ、あなたの慰めを伝える一人として私たちの人生も用いてください」



[1] Eugene H. Peterson, The Book of Samuel 1 and 2, Westminster Bible Commentary.

[2] 最初の伝令アヒマアツは、アブサロムを殺したヨアブのそばにいたので、アブサロムの死を知っていました(十八9~23)。ヨアブの行動に反感を抱き、ダビデを慕うからこそ、既に伝令が駆けだした後なのに、自分もと走ってきたのですが、ダビデを思いやるからこそアブサロムの死を伝えることが出来ません。

[3] Ⅰサムエル記25:13、30:9など。

[4] Ⅱサムエル記24:9「イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。」

[5] ダビデの参考文献として推薦する本を三つあげます。マックス・ルケード『ダビデのように』(佐藤知津子訳、いのちのことば社)、村田美奈子『冷たく燃える火』(フォレストブックス)、ジーン・エドワーズ『砕かれた心の輝き 三人の王の物語』(油井芙美子訳、あめんどう)。

[6] 「癒やしの能力にではなく、癒やされる必要の中に現存」している。ジャン・バニエ『梯子を降りて』

[7] ダビデの最晩年と死去は、次のⅠ列王記一章二章に跨がります。区切りとしては、ダビデの生涯の最後で締めくくった方がまとまりは良さそうですが、ダビデの生涯ではなく、人口調査と悔い改めの生贄の出来事で締めくくる所に、ダビデの英雄視よりも、ダビデ(とイスラエルの民)の罪に対する主の憐れみを主題としたい、サムエル記のメッセージの視点があると言えましょう。

[8] マタイ伝1:1はじめ、9:27、12:23、他多数。

[9]「正しくあることが間違いであるときもある:キリスト教倫理とは、自分の立場を明確にすること以上に、美しいものを体現することであるのはなぜか。」中村佐知訳「クリスチャンにとっての道徳とは、神の美しさを受けとめ、その美しさを他者に差し出すような生き方と切り離すことはできません。しかし私の専門であるキリスト教倫理では(そしていわゆるプログレッシブか保守かにかからわらず、あまりにも多くの教会において)、道徳的生活とは善や感嘆や美しさから切り離されてきました。なぜなら、私たちは道徳性を神のいのちに参画することとして考えてこなかったからです。学術界においても、教会の会衆のあいだにおいても、道徳は神や罪について正しい考えを持つこと、あれやこれやの「問題」に正しい立場を持つこと、自分たちにとって疑わしい道徳観を持つ人たちを黙らせるための武器として「愛」や「従順」や「正義」、「解放」といった原則を行使することになっていました。…そのため「倫理を行う」とは、公的な場やソーシャルメディアなどで抗議を表明することで自分の立場を明確にし、自分自身の正しさを主張することを意味するようになりました。.....  西洋では、倫理の探求とは、善や真実を考慮することから、権利や意見がぶつかりあうときにどうすべきなのかを議論することに移行してしまったのです。…あなたによく考えてもらいたいことはこれです。私たちの社会や、いくつかの教会は、道徳的正しさにみせかけた病にかかっているのです。それは、CSルイスの『天国と地獄の離婚』に登場する地獄のようです。「あの」考えを持っている人や、無神経で無知な物言いをする人は耐えられないからと、他者とのつながりを切り捨てるのです。(もちろん、何が無神経で無知だとみなされるかは、各人のもつイデオロギーや道徳観によって異なります。私は、地獄は保守派もリベラルもどんな立場の人に対しても、同じように開かれているのではないと思うのですが、どうでしょうか。)私たちは自分の言葉で自らの首を絞めています。さらに困ったことに、他者の首も絞めています。ほかのクリスチャンたちだけではありません。ノンクリスチャンのこともです。さまざまな公的議論や消費主義の泥沼の只中で、今日の分断された社会という穴の中から自分たちを引きずりあげてくれるような良い知らせや、とても不思議で素晴らしいものといった、そういうものを求めているノンクリスチャンのことでさえもです。見せかけの態度だけの倫理は私たちを醜くします。人間としての私たちを奇形にします。しかしキリストはこのウィルスに対する解毒剤を差し出しておられます。キリストは、美しい行為の中で自分を失うように、と招いておられるのです。その美しい行為とは、私たちの体をキリストご自身の体と一体にするがゆえに「道徳的」である行為、不公正や死のグロテスクさにやがて必ず勝利することになる美しさに投資するために行う行為や努力です。…イエスは言った。「そのままにしておきなさい。 なぜこの人を困らせるのですか。彼女は私のために美しいことをしてくれたのです。(マルコ14:6 NIVからの和訳)…私もここ[マルコ14章]での弟子たちと同じでした。どうすれば自分のいのちをここでのイエスに結びつけることができるだろうかと、問うことをせずにきました。むしろ私は、「権力者にいつでも真実を語る」といった原則を握りしめていたのです。「自分自身の正しさではなく、イエスの御支配と正しさから来る力に信頼するような形でそれをするには、どのようにしたらいいだろうか?」「倫理とはイスラエルの神に関することであると、他の人たちに指し示すことのできる形でそれをするにはどうしたらいいだろうか?」「神の善の不思議さを指し示すことで人々の心を惹きつけるには、どうしたらいいだろうか?」「自分自身の勇敢さを宣言したり、自分自身の賢明さをひけらかすための機会にするという誘惑に抵抗するにはどうしたらいいだろうか?」と問うことはしなかったのです。私は、真実を語るときに周囲から受ける敵意を、自分のプライドの紋章のようにすることさえありました。ときには、周囲から批判や非難を受けるのは、私の言葉が預言的であることの証拠だとさえ思うのです。しかしそれは、自らにも周囲にも、苦味と高慢をもたらすだけの愚かしいことです。…これら弟子たちの嘲りにもかかわらずこの女性[マルコ14章]を動かしていたのは、自分の正しさを証明したいという願いではありませんでした。彼女にとって、これは自分に関することとは無関係でした。彼女の情熱的な願いは、十字架に向かうイエスの危険な行動に自ら連なり、そこに自分の財産を投資することだったのです。彼女は、しようと思えばいくらでも(貧しい人に施すための)効果的な行いをすることができましたが、それでも彼女はあえて、官能的で無駄とも思えることをしたのです。イエスに連なりたいという願いに動かされ、彼女はこの高価な贈り物をこのように用いたのです。貧しい人に施すときの確固たる原則に動かされたわけではありません。イエスの死についての言葉を理解した唯一の人物としての、不動の地位を得ようと思ったわけでもありません。私はと言えば、自分と同じような考えを持つ人たちからの賞賛や、私を嘲る人たちからの叱責の言葉を自分の正しさの証拠として受け取ってきました。ただイエスにだけ見つめ、イエスの生き方の美しさに自分のいのちを連ならせ、自分の持つすべてを投資するために今この瞬間に何をすべきか、と考えることをしてこなかったのです。」 MEMO on キリスト教倫理

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

2019-06-25 14:32:38 | 聖書の物語の全体像

2019/6/23 出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

 聖書の物語は、天地創造から始まり、楽園の追放やノアの大洪水、バベルの塔、などいくつもの大事な出来事が続きますが、エジプトで奴隷のように踏みにじられていたイスラエル人を神が救い出してくださった「出エジプト」の事件は、どの出来事より詳しく記されている大きな山場です。そして、この出来事は、やがてイエス・キリストがおいでになって、人を救い出してくださることの準備(難しく言えば「予型」、砕いて言えば「ままごと」)でした。前回は、出エジプトが何からの解放だったのかをお話ししました。それは「ともにいる」と言われる神の世界とは真逆の、人を奴隷とし踏みにじるような社会や心の在り方に、神が入って来られた事でした。主は人を奴隷社会から救い出し、人とともにいる歩みを始めてくださいました。

 今日は、その解放が

 「過越」

と呼ばれている事を心に留めます。主なる神はイスラエルの民を解放しないエジプトの王ファラオに「十の禍」を下します。その最後が、すべての家の長子を打つという禍でした。その禍の前に主がモーセを通してイスラエルの民にこう命じたのです。

2:3…この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。

その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。…その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

11…これは主への過越のいけにえである。[1]

 そうした家は主が「過ぎ越す」。エジプトの家々の長子を打つために主が来られても、過越の子羊を屠って、その血を玄関に塗り、その肉を焼いて食べた家は過ぎ越す、と約束しました。

12:12その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。

13その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。

 そして29節以下、エジプトの長子が打たれ、イスラエル人は、追い出されるようにして、遂に解放されるのです。この過越を記念して、毎年「過越の祭り」を祝われるのです。その時、

26あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、27あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

 こう伝え続けるのですね。12章は出エジプト記で最も長く、この過越の大事さを現しています。やがて、1500年後、イエス・キリストがおいでになって「最後の晩餐」をなさったのが「過越の祭り」でした。この食事の席で、イエスは「主の聖晩餐」を設けたのです。

 ただ、「イスラエルの長子は生贄を身代わりにして免れる」のではありません。次の章で、

13:2「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」

とあります。エジプトもイスラエルも、一家の大黒柱である長子さえ、他の誰のものでもなく、主のものです。アブラハムが長子のイサクを捧げた通りです。そして長子が主のものなら、その家全体が主のものなのです。私たちはみな主のものなのです。イサクもファラオの長子もすべての命は、主に帰する命です。

 ところが、人が神から離れてから、自分たちが神のものだということは否定され、忘れられてしまいました。それどころか他の人の命まで自分の思いのままにする関係を造るようになってしまいました。エジプトのファラオは当時イスラエルの人の命を虫螻(むしけら)のように扱っていました。生まれた長子だけでなく男子は皆ナイル川に投げ込ませていました。人を人と思わない国家ぐるみの暴挙がありました。自分の長子を犠牲にすることも厭わずに、頑固だったのです。

 主は、誰かを犠牲にする暴挙を終わらせました。命を造られた主は、人が人として扱われない悪を必ず終わらせます。でもそのために、主ご自身が犠牲を払って下さることによって、私たちを回復してくださいます。主は人に犠牲を求めません。ご自分のために人を犠牲にする方でもありません。神ご自身が私たちのために、命の代価を払って下さる。私たちはそれを戴いて、信じるだけ。それが、神の救いの方法なのです。

 この出来事が示している神の御業の大原則は

《神の救いの方法は命の代償による》

ということです。神はイスラエルの民の叫びを聞いてくださいました。その声なき声に耳を傾けて、解放してくださいました。しかしそのために、子羊の生贄を命じました。私たちは自分で自分を救えませんし、神も自浄努力を求めません。人は「私は無価値。何か、犠牲(努力、神妙さ、善行)をしなきゃ」と思います。ところが、神はそうはハナから考えていません。

 「あなたのためにわたしが犠牲を払う」

と仰るのです。それほど尊んでくださるのです。私たちは、自分の力によってではなく、神が代価を払ってくださることで救われるのです。子羊は、主の怒りを避けるための「妥協策・救済策・代案」ではありません。過越こそ、主が示してくださった、いいえ、主が命じてくださった、「私たちの家々を救ってくださった」御心です。神の側から、人間に子羊の命を生贄とする新しい関係が命じられました。よい行いや神妙な悔い改めでもなく「償いをすれば、子羊を食べて良い」でもありません。ただ、子羊を屠り、血を門の枠に塗り、肉を食べよと命じました。この神の恵みの前に、人は謙虚になり、感謝して恵みを戴くだけです。聖書の契約は、終始一貫、主の一方的な恵みによる回復なのです。それが「十戒」に凝縮された、神の民としての生き方です。出エジプトもひたすら神からの恵みが先立っての救いです[2]。その後も毎年、過越を祝い、この出来事を思い出すのです。「自分たちが良かったから、従ったから、頑張ったから」でなく、主から子羊を生贄とし、それを食べよと仰った。後に洗礼者ヨハネはイエスを指して、

ヨハネ1:29…「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

と言いました。イエスご自身、最後の晩餐の食卓で、種なしパンの食事を指して言われました。

「取って食べなさい[取れ、食らえ]。これはわたしのからだです。」[3]

 使徒パウロもイエスを「過越の子羊」と言います[4]。神はイエスを私たちのために捧げてくださった。神ご自身が長子を亡くす、愛する子を失う思いをしてまで、私たちを解放してくださいました。私たちは、神の子羊であるイエスの代価で買い取られた、尊い命とされました。

ローマ5:8…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 神は初めから、私たちのために身代わりとなる犠牲を惜しまず払うお方でした。その神ご自身からの惜しみない犠牲があるから、人は安心して神に立ち戻ることが出来ます。その神の恵みへの信頼を出発点として、神の民は歩み出す。その一方的な恵みに繰り返して立ち戻りつつ、神の民とされた新しい歩みを踏み出していく。私たちが犠牲を払う必要もありません。人に犠牲を求めたり、代償を要求することも終わりました。私たちの命は、神の子羊であるイエスが代価となって買い取られた命なのです。それゆえに、私たちはお互いの尊い命を、決して踏みにじらないのです。自分の命も他者の命も、大事に育てて行く。誰をも馬鹿にしたり嘘で誤魔化したりせず、私たちのためにご自身を捧げてくださった主を見上げつつ、ともに歩むのです。

「主よ、あなたが初めから贖い主であり、人に恵みの救いを差し出しておられたことを感謝します。そのあなたの憐れみによって、禍は過ぎ越し、あなたのものとされて歩んでいける幸いを感謝します。それなのに、まだ私の犠牲が足りないかのように考えたり、人を裁いたりしてしまうのも、途上にある現実です。どうぞ、私たちを主の糧によって養い、思いを新たにし、私たちの交わりを生き生きと生かされるよう、愛と癒やしと知恵とを与え、育んでください。」



[1] 11節「あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。」

[2] 十戒の序文が「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」であるように(出エジプト記20章2節)、決して《十戒や律法を行うから救われる、行えなければ旧約の時代は救われなかった》ではありません。

[3] マタイ伝26章26節「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」」

[4] Ⅰコリント5章7節「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめての教理問答116~117 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」

2019-06-25 14:27:12 | はじめての教理問答

2019/6/23 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」はじめての教理問答116~117

 神様は、私たちに聖書を与えてくれました。聖書は、長い年数をかけて、たくさんの人が書いてきた神様の言葉をまとめた本です。イエス・キリストも聖書の言葉を使いました。ですから、教会では聖書を基準に物事を考えます。皆さんにも、毎日、聖書を読むことをお勧めしています。それと同時に、教会が大事にして来た、三つの文書があります。「十戒」「主の祈り」「使徒信条」です。その一つが「主の祈り」です。イエス・キリストが教えて下さった、六つの願いからなる、お祈りのお手本です。これもぜひ、皆さんの毎日に取り入れてください。そして、主の祈りをただ繰り返すだけでなく、そこから自分の願いや周りの必要のためにも祈ってください。先週から、主の祈りを一つずつ見ています。今日は第二の願いですが、まさにこの願いは、私たちが自分のためにも、人のためにも、この世界全体のためにも祈るように教えてくれる祈りです。■

問116 第二の願いごとはなんですか?

答 第二の願いごとは「御国が来ますように」です。

 「御国が来ますように」の「御国」とは、神様の国のことです。また「国」とは王国(キングダム)という言葉です。神が王として治めてくださる国です。神様、あなたの国が来ますように、と祈るのです。私たちは今、日本に住んでいます。世界には沢山の国があります。国によって言葉も考えも、いろんな事が違います。けれども、その全ての国の人が、自分の国よりも大きな「神の国が来ますように」と祈るのです。

 今から二千年前、イエス・キリストが来られた場所は、ユダヤという国です。今のイスラエルという国のある辺りが聖書の舞台です。そしてイエス・キリストがおいでになった時、ユダヤの国は当時ローマ帝国という大きな国によって支配されていました。ローマの国は強くて、豊かでした。しかしユダヤの人たちは、ローマ人ではないので、馬鹿にされたり税金を沢山払ったり、悔しい思いを沢山していました。ですから、ユダヤの人たちは、神様がローマを滅ぼして、自分たちの国をまた建て直してくださるよう、願っていました。一方、ローマ帝国は、皇帝が治めていて、反逆する人たちは容赦なく殺されていたのです。強い国が弱い国を治めたり、戦ったりしている。それは、昔も今も世界中で見られている状態です。そういう中で、イエス様は

 「御国が来ますように」

と祈りなさいと教えました。それは、ユダヤ人にとっては、復讐や反逆を投げ出す在り方です。そして、ローマ帝国にとっては、反逆と見られるような祈りでした。自分たちの国ではなく、神が王となる国が来ると祈るなんて、とんでもない、と思わせたのです。そういう大胆な祈りをイエスは教えたのです。今、私たちがこの日本で

 「御国が来ますように」

と祈るのも、実はとても大胆な祈りです。私たちは、本気で、神が王となってくださる事を待ち望んでいるのです。

 ただし、それは決して、革命とかテロのような方法によってはなされません。武力や政治や力によって、神の国を来たらせることは出来ません。

問117 「御国が来ますように」とはどういう意味ですか?

答 もっともっと多くのひとが神さまの福音を聞き、信じ、従うようにしてくださいという祈りです。

 多くの人が神様の福音を聴き、信じ、従うようになる。それが、神の国が来ますように、ということです。神様がおいでになって、みんなが慌てふためいて、嫌がる人は反逆者として虐められる。そんな出来事は人間の歴史ではよくありますが、神の国はそんな国ではありません。神が王であるとは、人が神に出会って、神を心から信じて、心から従って生きるようになる。そうなることなのです。

 イエス・キリストが今から二千年前に活動をしたのは、30歳の頃の3年間だけでした。イエスは

 「悔い改めなさい。神の国は近づいた」

という言葉から宣教を始めました。イエス・キリストは神の子、神の国の王です。イエス・キリストが来たのは、この世界に、神の国が来たことの始まりだったのです。そして、イエスは、人々の神の国がどんな国なのかを教えて下さいました。譬え話や、奇蹟や、病気の癒やしで、また一緒に過ごしたり、一緒に食事をしたりすることで、神の国がどんな国なのかを教えてくださったのです。ユダヤ人でもローマ人でも、日本人もインドネシア人も、韓国人もアメリカ人も、今どの国の人でも、誰一人、馬鹿にされたり苦しめられたりしないのが、神の国です。神は、国が争ったり、国が違うからと嫌な思いをしたりすることを終わらせます。神が王として来てくださる。その嬉しい知らせを信じて、私たちは生きていくのです。

 今日は、ヨハネの黙示録24章20節、聖書の一番最後の言葉を読みました。

20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

 主イエスよ、来て下さい。この祈りが聖書の結びにあるのです。この言葉は、教会でとても大切にされていました。そして「主よ来て下さい」という代わりに

 「マラナ・タ」

とも言われていました。イエスが話していたアラム語の「来たまえ(マラン)主よ(アタ)」を、そのまま教会の中で用いたのです。ローマ帝国で、ローマ市民もギリシャ人も他の国の人々も、片隅のユダヤ人の言葉で「マラナ・タ」と声を合わせて、「主よ、来て下さい」と祈っていたのです。どんな国の人も、一緒に「主よ、来て下さい」と願うようになった。そこに、もう、イエスが仰った「神の国が近づいた」という知らせが形になっていたのです。国も言葉も肌の色や文化も越えて、一緒に

 「神様、あなたの国が来ますように」

と祈るようになりました。素晴らしい始まりです。

 今、世界は随分仲良くなりました。世界の人たちと繋がるようになりました。でもまだ国が違うと争うことがあります。同じ国の中でも喧嘩や虐めがあります。その仕返しをしたり、心が憎しみや悲しみで一杯になったりしています。その心にも、イエス・キリストは来て下さいます。私たちを癒やし、また誰かを憎んだりバカにしたりする心を恥じるようにしてくれるでしょう。そうして、全ての人が、神の国の中でともに祝う時を迎えるのです。その時が来ますように、と祈ります。その時は必ず来ると、信じて祈ります。そして、その時がもう来ているかのように、今ここでも歩みましょう。本当の王である神様以外のものを恐れずに、神の御国の民として一緒に生きていきましょう。

God' Dream by Desmond Tutu

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

2019-06-16 15:38:26 | はじめての教理問答

2019/6/16 詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

 

 主の祈りを今日から6回で見ていきます。イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りのお手本は、第一の願いを「御名が聖とされますように」と祈るのです。

問114 第一の願いごとはなんですか?

答 最初の願いごとは「御名が聖とされますように」です。

問115 「御名が聖とされますように」とはどういう意味ですか?

答 わたしたちやほかのひとたちが、神さまをあがめ敬うように助けてくださいという祈りです。

 どうでしょうか、皆さんにとっての第一の願いは何ですか。私たちの一番の願いは、どんなことでしょうか。イエスは、私たちの願いには色々あるとしても、まず第一に

「御名が聖とされますように」

と祈るよう教えました。それは、ただそう祈るように、という礼儀の問題ではありません。本当に、それこそが一番大切な願いだし、私たちの、心からの願いを整えることなのです。心にはどんな願いがあっても、祈る時にはまず「御名が聖とされますように」と祈っておきなさい、という意味ではなく、本心からまず

「御名が聖とされますように」

と願うことを教えられたのです。

 私たちの本心は、大抵、神の御名よりも、自分の名前、自分の名誉、自分のことでしょう。それは自然なことでもあります。でも、自分のことで誰もが頭がいっぱいになった世界が、皆が自分のことより、神の御名が聖とされますように、と祈る世界になったら、どうでしょう。平和が身近な世界になります。「主の祈り」は、私たちが、第一の願いを神様のことにする人、世界に新しい変化をもたらす人にする祈りなのです。

詩篇一一五1私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに。

 それでは、私たちの願いや気持ちはどうでも良いのでしょうか。いいえ、そうではありません。神は私たちを愛して、私たちの必要や心の動き、気持ちをすべてご存知です。私たちを心を持つものとしてお作りになったのも神様です。そして、私たちに、自分の願いよりも、神の御名が聖とされますようにと祈るよう教えられた神ご自身が、神の御名が辱められ、踏みつけられることも構わずに、私たちの救いを願った方です。

「恵みとまこと」

のお方なのです。神は、私たちのために祈り、願うだけでなく、ご自身を捧げてくださいました。三位一体の神は、御子イエスの十字架によって、ご自身を私たちのために捧げてくださったのです。そのような恵みがあるから、私たちは心から、何よりもまず、神ご自身をほめたたえずにはおれないのです。

 「聖とされますように」

とは、実は、そのような意味です。神は、本当に恵みに溢れるお方、一切、利己心や傲慢さがなく、押し付けがましさや見返りを求めることなく、与えて与えて育ててくださるお方です。そういう、利己心のなさこそ、「聖」なのです。

ホセア十一8わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。

 夕拝で使う新しい翻訳の

「聖とされますように」

の方が元々の意味に近いのですが、朝の礼拝でも使っている今までの「主の祈り」は

「御名をあがめさせたまえ」

でした。「あがめる」というと、褒められる、すごいなぁと称えられる、というニュアンスです。それだけだと、私たちが神の御名をあがめる、賛美する、自分のことは後回しで神を褒めることを神は願っている、と思うでしょう。でも考えてみてください。私たちの周りでも、力が強かったり、能力に秀でて、一番になったり、金メダルを取る人も素晴らしいと思いますが、それ以上に、その栄誉よりも家族を大事にして、勝負を棄権する人こそが、賞賛されるのではありませんか。大豪邸に住むお金があるのに、そのお金で貧しい人を助けるため自分も貧しい暮らしをする人に、心を打たれるのではありませんか。大事な試合の真っ最中に、勝負を捨ててでも、誰かを助けるため、自分を犠牲にするような話に涙を流すのではありませんか。自分が一番だと偉そうにしている人が、命をかけてほかの人を守ろうとするドラマが沢山あるのは、そういう姿にこそ、本当の名誉、本当の尊さがあると、憧れているからなのかもしれません。

 神は、まさしく、自分への賛美を求める以上に、ご自身を惜しまずに与えて、私たちの最善を図ってくださるお方です。ご自身の恵みを現す舞台として、この世界を創造されたお方です。私たちは、この世界を見る時に、あちこちに神が聖なるお方であることを知ります。でも、それを忘れて、自分の損得や、自分が少しでも上に行くことばかりが盛んに言われていることも現実です。だから、私たちは

「御名が聖とされますように」

と祈るのです。すべてのことを通して、神様の聖なる素晴らしさが崇められますように。あらゆることが、神の素晴らしさを現しますように。神が聖であることを知らない人も、神の恵みに触れて、心から神を賛美するようになりますように。そうして、自分の事ばかり祈ったり、祈りさえ見せるためにしている人がいる世界が、神の恵みを喜んで、自分の見栄など忘れてしまう世界になっていきますように、と祈るのです。

 勿論、私たちには沢山の切実な願いもあります。病気になれば、治るように祈ります。犯罪に巻き込まれれば、解決を祈ります。悩ましい出来事が、無事に決着がつくように祈らずにはおれません。困った時にはその困ったことを祈ります。それでも、私たちはどのように祈れば良いか分からない思いをすることが沢山あります。そういう時にこそ「主の祈り」は私たちを助けてくれます。

「主よ、この事を通して、あなたの御名が聖とされますように。私の願いはありますけれど、それが一番ではありません。私ではなく神はあなたです。私の願いが神様のご計画とは違うとしても、どうか、この病気や悲しみや問題を通しても、神さまの御名が聖とされますように」。

 そう祈ることを教えられます。自分の願いや考えよりも大きな、神のご計画を見上げることが出来ます。だからこそ、自分の栄光よりも、神様が賛美されること、神の御名が誉め称えられることが大事な事、一番大切なことだと思い出させてもらえます。私は、そう祈ることによって、心配や怒りや穏やかでない心を静めてもらって、最後には平安を持つことが出来ます。

 第一の願いが、

「御名が聖とされますように」

という祈りであるのは、本当に素晴らしい恵みです。この祈りにいつも立ち戻りながら、歩ませていただきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする