聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/1 ローマ書6章4節「見える化された福音」ニューシティカテキズム43

2020-10-31 23:58:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/1 ローマ書6章4節「見える化された福音」ニューシティカテキズム43
 昨日は「宗教改革記念日」でした。今から500年前、一五一七年10月31日、ドイツのマルチン・ルターが『九十五箇条の提題』を発表し、聖書の福音を取り戻す「宗教改革」が進みました。聖書の福音、聖書に書かれているキリストの御業が、教会の中心であると確認された、大きな出来事でした。この宗教改革は聖書を取り戻した運動ですが、聖書の説教だけではなく、聖礼典を大事にしました。福音の説教と、聖礼典の正しい執行。この二つが、教会が教会であるしるしです。今日から「聖礼典」の話です。

第四十三問 聖礼典とはなんですか?
答 神により与えられ、キリストにより定められた聖礼典、すなわち洗礼と主の晩餐は、私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。これらを用いることにより、聖霊が福音の約束を、私たちに対してより完全に表して、確かなものとしてくれます。
 まず、聖礼典とは「洗礼と主の晩餐」という二つの儀式です。
 洗礼は、水で洗って、教会に加わる入会儀式です。

 聖餐は、その洗礼を受けた人たちが、パンと葡萄酒の杯をいっしょにいただく食事です。

 この二つの儀式が「聖礼典」です。
 この洗礼と聖餐の聖礼典は、主イエスがこれらのことを行うようにと命じられたもので、その後の使徒の働きや手紙を通して、実践していたことが分かるものです。
ローマ6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 このバプテスマを訳したのが「洗礼」という言葉です。この言葉から、手紙を書いたパウロも、ローマの教会でも、バプテスマ(洗礼)が行われていたことが分かります。同じように、主の晩餐についても、聖書の中でキリストが命じて、教会が実践していたことが分かります。ですから、私たちも、主イエス・キリストが命じられ、教会が行い続けてきたこととして、洗礼と主の聖晩餐を実践しているのです。なぜ、キリストは、この二つの聖礼典を教会に定められたのでしょうか。それは、このカテキズムでは、
…私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。…
と言われています。私たちは、キリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている。これは、キリストの福音のエッセンスです。キリストの死と復活は、私たちを新しい、また永遠のつながりへと私たちを入れてくれました。主イエスは私たちを、ご自身との新しい関係に入れて下さっただけでなく、その新しい関係に入れられた者たちとして、私たちをもお互いに新しく、永遠の「神の家族」として出会わせ、結び合わせてくださっているのです。主イエスが下さった戒めはこれです。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節
 主が私たちを愛し、私たちを私たちのままで受け入れ、喜び、尊んでくださったように、私たちもお互いを受け入れ、喜ぶ。互いに操作したり、裁いたり、比べたり、馬鹿にしたりも妬んだりもしない。押しつけ合ったり、縛ったり我慢したりせず、お互いに自由で、お互いに最善を図り、尊び合っていく。そういう家族に私たちは入れられて、やがて完全にそうなろうとしています。まだその途中で、問題や失敗があり、取り組むべき課題はありますが、やがて、私たちは完全に和解して、主にあって一つとされます。それが、キリストが私たちにしてくださったことです。その信仰の共同体として結ばれている事の、目に見えるしるしであり、証印であるのが聖礼典なのです。

 私たちにとって大事な正典は聖書です。聖書は、神のいのちの言葉です。聖書は、私たちに知識をもたらします。私たちの知性に語りかけ、私たちの考えを新しくします。でも、その言葉や知識を耳で聞くだけで、見えない真理を信じれば良いのでしょうか。いいえ、聖書そのものがそうは言っていません。主イエスご自身が、その教えと言葉を耳で聞くだけでなく、目も手も口も舌も使っていただく聖礼典を定めてくださいました。
 そこで、私たちは、言葉や教えだけではピンとこない福音を、聖礼典という見える形で五感を使って味わうのです。洗礼の水は、ヒヤッとしたり頭や全身が濡れたりします。聖餐では、パンと杯を見て、手に取って、口に入れて味わって、飲み込んでおなかに下っていきます。そして、その食事を一緒に食べている会衆が周りにいてくれます。その事を通して、
「ああ、本当に、私は罪を洗われて、神の子どもの一人にされたんだ。私のために、主イエスは十字架に掛かって肉を裂かれ、血を流され、そして私たちにご自身を与えてくださったんだ。私を受け入れてくれる神の家族がここにいるんだ」
と味わうのです。頭の知識に加えて、体で、目で、手で、舌で福音を味わうのです。ですから、聖礼典は福音を見える形で私たちに示す「しるし」であり、私たちの全感覚で福音が刻み込まれる「証印」なのです。主イエスがそれを定めてくださり、主イエスの聖霊は聖礼典を用いて、私たちに福音を味わわせ、刻みつけてくださるのです。

 そうです。私たちは、主イエス・キリストの福音が完全であり、聖霊がそれを間違いなく私たちに届けてくださることを信じます。福音が不完全だから聖礼典が補うのではなく、私たちが鈍感だから、主イエスは私たちを思いやって、聖礼典を定め、私たちに福音を確り届けてくださるのです。
 今、新型コロナウイルスの蔓延で、鳴門キリスト教会でも聖餐式は半年以上ずっと行っていません。それはとても寂しいことです。でもそのような私たちの弱さ、限界、一緒に食事が出来ないウィルスの問題も、主イエスはご存じです。私たちの弱さを思いやって下さる主イエスが、今の時も私たちの信仰を支え、私たちを養い、また相応しい時に再開させてくださるでしょう。
 そして、やがて、本当に目に見える形で私たちは主イエスとお会いし、神の民として永遠を喜ぶのです。

「福音を与えてくださる神よ。あなたは私たちが見て、感じて、味わうことのできる恵みのしるしを与えてくださいました。どうか私たちがあなたの命令に従ってこの聖礼典を守り、自分自身ではなくあなたの救いの御業に目を向けることができるよう助けてください。しるしそのものを崇めて、その先にある救い主の姿が見えなくなってしまうことのないように、どうかお守りください。アーメン」

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2020/10/25 ローマ書6章4節「聖書は人を作る」ニューシティカテキズム42

2020-10-24 12:42:24 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/25 ローマ書6章4節「聖書は人を作る」ニューシティカテキズム42

 今週31日は、「宗教改革記念日」です。今から五百三年前、1517年の10月31日に、ドイツの修道士マルチン・ルターが「九十五箇条の提題」という文書を張り出しました。その事から、ヨーロッパ中の社会が大きく揺さぶられて、「宗教改革」という歴史的な大改革が始まっていきました。それまで、キリスト教はヨーロッパに広まって、教会は社会の中心になっていましたが、いつのまにか、神のことばよりも、教会の教えの方が大事になっていました。ですから、ルターは、当時の教会の教えはおかしいと言ったのですが、それだけではなく、聖書の言葉を大事にするように願って、聖書を初めてドイツ語に翻訳したり、聖書から説教をしたりする事も、そこから始まっていったのです。

 今週は「宗教改革記念日」を迎えますので、この日曜日を「宗教改革記念礼拝」とします。聖書の言葉の大事さを、今日の第四十二問で、確認していきましょう。

第四十二問 どのように神の御言葉を読み、聞くべきですか?
答 私たちが信仰をもって受け入れ、心に蓄え、私たちの生活において実践していくことができるために、努力、準備、そして祈りをもってです。

 まず、ここで「神の御言葉」と言われているのは、聖書の事です。聖書は、神の御言葉です。聖書は、何百年もかけて、何十人もの人が関わって書かれ、まとめられてきた書物ですが、それは同時に、神が多くの人を動かして、長い時間をかけて書かせた書物です。聖書は、ただ人間が、神について書いたものを集めた本ではなく、神ご自身が書かせて、人間に与えられた書物なのです。聖書そのものが、神からの贈り物、神から人間への手紙でもあり、物語であり、語りかけなのです。
聖書はすべて神の霊感によるもので、… Ⅱテモテ3章16~17節
 「聖書はすべて神の霊感によるもの」。この「霊感」とは、神の霊が働いて、という言葉です。神の息が吹き込まれている、というニュアンスもあります。私たちが持っている日本語の聖書は、その神が霊感された元々の言葉を翻訳したものです。ですから、翻訳された聖書には何通りもあって、訳した言葉には違いもあります。見直す内に、もっと良い訳に直した方がいいものもあるでしょう。それでも、元々の聖書は、神がご自身の息を吹き込んで、人間に書かせて、今も私たちに手渡されている言葉-神の霊が書き下ろされた、私たちに送られた書物なのです。宗教改革を始めたルターが取り戻したのは、この神の言葉の権威でした。人間の言葉よりも、聖書において神が語られている真理の教えこそ、私たちの土台です。教会のあり方を決めるのは、聖書に示されている道筋です。その事を回復したのが宗教改革であり、私たちはその伝統に立っています。
 その「神のみことば」は何のために読めばいいのでしょうか? ここには、聖書は、
すべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
と目的が書かれています。この「神の人」とは誰か特別な人のことではありません。神様のものとされた人、私たちのことですね。私たちを教え、戒め、欠点を矯正し、正しさを訓練してくれる、それが聖書が神の言葉だということです。私たちが、聖書によって教えられて、良い働きにふさわしく、整えてくれる。それが、神が私たちに聖書を与えてくださった目的です。ですから、読む私たちは、そのための態度をとって読みましょう。神が私に教えようとしていることが分かりますように、私を戒めてくださることを素直に受け入れていくことが出来ますように、そういう信仰と祈りで読むのです。
答 私たちが信仰をもって受け入れ、心に蓄え、私たちの生活において実践していくことができるために、努力、準備、そして祈りをもってです。
 私たちの毎日の生活や、趣味や楽しみのために、努力や準備を惜しまないでしょう。旅行に行くには、下調べをしたり、荷物を作ったり、天気を調べたりします。体調を崩さないよう、健康に気をつけて、よく眠っておくでしょう。同じように、聖書は私たちを整えてくれる神の言葉なのですから、時間をとって学んだり、疑問を調べたり、準備をするのです。
 何よりも、祈りです。「神様、私が聖書の言葉をよく分かりますように、受け入れることが出来ますように、心に蓄えて、生活の中で実践していくことが出来ますように」と祈るのです。神が多くの人に聖霊を働かせて、聖書の言葉を書かせたように、それを聴く私たちも、聖霊が働いて下さって、聖書を理解できるように、そして、心に深く蓄えて、私たちが変えられて、生活に実践させていただけるよう祈りましょう。

 最後に、聖書が神の言葉であることを、生き生きと思い描いて終わりましょう。聖書は、昔、神が書かれた言葉だとは言わず、聖書が神の言葉であるとは、神が昔から今も、そしてこれからもずっと語っておられるということ、神がその言葉によって、この世界を造り続け、御心を造り続けておられる、ということです。イザヤ書55章10~11節に、
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。-主のことば-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

 聖書が神の言葉であると打ち出したルターの宗教改革は、神の言葉の力を表した出来事でした。聖書を下さった主は、今も、その言葉を通して働いておられます。神の言葉が世界を新しくています。この世界に、神のご計画を成し遂げ、成功させられます。とりわけ、私たちに聖書において語りかける主は、私たちが主の御心を知り、神の子どもとして成長するよう働いてくださいます。私たちを神の人として作り、育てて、整えておられます。宗教改革をなされた主は、今もこの世界の中に働いておられ、私たちを変え、世界に御心を成し遂げています。それが、聖書が神の言葉であるという信仰です。

「みことばを下さった主よ、私たちがみことばを他の何にも勝る宝とすることができるように助けてください。どうか私たちの思いと唇に、みことばがいつもありますように。みことばによって私たちの考えが変えられ、私たちの生き方が新しくなりますように。あなたの完全なみことばに倣う弟子、忠実なしもべとさせてください。アーメン」
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2020/10/25 ローマ書1章16~17節「神の義は人を生かす」宗教改革記念礼拝

2020-10-24 12:40:24 | ローマ書
2020/10/25 ローマ書1章16~17節「神の義は人を生かす」宗教改革記念礼拝

 今週末まで、黒とオレンジで彩られた、南瓜やお化けの絵で見かけるハロウィン商戦が続きます。その後は一挙にクリスマスカラーに様変わりする景色もお馴染みになりました。今よりもっと違う形で五百年前に行われていたこのハロウィンに、この諸聖人の記念のお祭りに託(かこつ)けて「贖宥状」の大商戦が張られました。それに対してマルチン・ルターが「九十五箇条の提題」を出して、宗教改革が始まりました。10月31日はプロテスタント宗教改革記念日です。
 マルチン・ルターは「宗教改革を始めよう」と思っていたわけではありません。彼はただの修道士で、その数年前から大学で詩篇やローマ書を教えていただけです。そのローマ書の授業の準備の中で、ルターを大きく変えたのが、このローマ書1章16~17節の言葉です。
16私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 福音には神の義が啓示されている。ルターは
「神の義」
に悩み続けていました。人間よりも遙かに正しく、絶対的に歪められる所のないのが、神です。神の義、神の道です。では、その絶対的な義である神の前に、罪人である自分が受け入れてもらうために何をしたらいいのか。どんなに苦行を積み、懺悔を繰り返しても、神の怒りの顔を宥めることは出来ない。その事にノイローゼ気味になっていたルターが、聖書研究をするうちにこの言葉に出会いました。
「福音には神の義が啓示されて」
いる。神の義と福音とは相容れない、と思っていたのに、福音において啓示されているのが「神の義」だと気づいたのです[1]。神の義は、福音という、
…信じるすべての人に救いをもたらす神の力…
において啓示されている、という事です。人間の義(さばき)は、罪を罰し、罪を犯した者を滅ぼすことしか出来ないでしょう。神の義は、その延長ではないのです。福音、信じるすべての人に救いをもたらす福音において、神の義というものが啓示されている。罪人が救われない神の義ではなくて、救いをもたらす神の力にこそ、神の義が表されている。
 言い方を変えれば、ここでパウロは
「私は福音を恥としません」
と言います。かつてのパウロは潔癖症なパリサイ派でした。その彼には、十字架にかけられたイエスが救い主だなんて、恥・冒涜、許せない信仰でした。教会を迫害しながら、「恥を知れ」と思っていたでしょう。しかしパウロは、キリストがこの福音を恥じなかったことを知りました。義なるキリストが十字架を恥じなかった。罪人のために、屈辱や呪いや誤解を一人で受けることも躊躇わなかった。もっと言えば、ユダヤ人もギリシア人も、人から「あの人は救われようがない」と思われている罪人も、自分で自分を恥じている人も、取りも直さず、私自身を恥じず、私のために十字架に着くことを恥じなかった、ということです。キリストが私たちを恥とせず、福音を恥じず、私たちのための十字架の恥をも忍ばれました[2]。だから、パウロも福音を恥じないのです。
 そして続く18節
「というのは、…」
と繋いでこの後、福音とはどんなものか、主イエス・キリストの福音がどれほど完全で十分で、その救いとはどんな新しい生き方なのかを語ります。パウロ自身の内面の葛藤や恥も吐露します[3]。お互いに裁き合う現状に対して
「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を」
あなたの意見で滅ぼさないでほしい[4]。そう展開しながら、ローマ書全体、十六章までかけて、福音を本当に豊かに、力強く論じていくのです。
 聖書を読んで、この福音に気づいたルターは、イエス・キリストの十字架と復活だけでは不十分であるかのような「贖宥状」や当時の教会儀式には抗議せずにはおれませんでした。この「九十五箇条の提題」をきっかけに論争が始まり、段々とルターの考えが深まり、大きな宗教改革運動になりました。しかしそのきっかけになったのは、いわばほんの小さな一語。
「神の義」
が「神だけが持っている義」の「の」なのか、「神が私たち罪人を赦して義として下さる」の「の」なのか、その差だったとも言えます[5]。その小さな、しかし大きな「神の義」の違いが、ルターを
「信仰に始まり信仰に進ませ」
たのです[6]。信じて受け取るだけでは不十分で、まだ私たちの努力や何かが必要に思う心につけ込むやり方に抗議して立ち上がる力を得ました。信仰を育てられて、その後も様々な妨害や混乱に揺さぶられながらも、神の言葉の福音を語り続けました。恵みは、私たちを怠惰にするどころか、私たちを新しくする力です[7]。
 宗教改革記念日に、この神の義に立ち戻ります。福音は、私たちを救うのは神であり、自分の正しさや信仰ではないとの告白です。正しくない私のために主イエスが死んでくださり、よみがえってくださいました。罪を赦し、更にいのちを与えて生かし、力づけて、新しくしてくださいました。その福音が世界の人に届くよう、神は働いておられ、私たちにも届けられました。教会が間違い、大きく道を逸れかねない、自分たちの危うさ、不完全さも謙虚に認めます。そして、そこにも主が働いて、恵みの福音に立ち戻らせ、救いを得させてくださるのです。

「教会のかしら、イエス・キリストの父よ。あなたが宗教改革によって『神の義』の素晴らしい知らせを回復して下さり感謝します。なおも誤りやすく、日々みことばによって新しくされ、喜びの知らせを届けていけますように。福音を恥じそうになる時、自分を恥じそうになるとき、あなたが私たちを決して恥とせず、主イエスが十字架の辱めを受けてくださったことを思い起こさせてください。私たちの歩みを通しても、恵みに溢れるあなたの栄光を現してください」

脚注:

[1] それは、3章21節以下と読み比べると分かります。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。23すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」

[2] ヘブル書に2カ所、この言葉があります。2:11「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

[3] 七章。

[4] ローマ書14章4節「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」

[5] 神学校時代の恩師、丸山忠孝氏の解説でした。文法的には、「所有的属格」か「主格的属格」か、と言います。

[6] 罪を罰し、怒るだけの神であれば、信仰は持てません。信頼より恐怖です。しかし、神の義は罰するより、救いをもたらす義です。

[7] 当時の教会は、ルターにこう反論しました。「神の恵みだけで救われる、行いは要らないなどとしたら、人々は怠惰に生きるようになって、とんでもないことになる」。しかし、聖書そのものが教えているのは、その逆です。救われるために行いが必要なら、それは偽善です。ただ、神の恵みによって私たちを救い、私たちが魂の手である信仰でそれを受け取るだけでいい。その神の義によって、私たちのうちに信仰が、神への心からの信頼、安心、憧れ、従おう、お任せしようという信仰が始まるのです。そして、神の義が私たちを支えて、ますます信仰を養われていくのです。

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2020/10/18 マタイ伝12章15~21節(9~21節)「傷んだ葦を折らない王」

2020-10-17 09:15:19 | マタイの福音書講解
2020/10/18 マタイ伝12章15~21節(9~21節)「傷んだ葦を折らない王」

前奏 
招詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈祷
賛美  讃美歌82「広しとも広し」①②⑤
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇1篇(1)
賛美  讃美歌132「恵みに輝き」①②③
聖書  マタイの福音書12章15~21節
説教  「傷んだ葦を折らない王」古川和男牧師
賛美  讃美歌132 ①④⑤
応答祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌545上「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 マタイ12章15節からを読みました。
イエスはそれを知って…
とあります。「それ」とは、何でしょうか。9~14節では、イエスが片手の萎えた人を癒やされた記事がありました。その結果、聖書の律法を真面目に守ることに熱心なパリサイ人たちは、ある相談を始めたのです。
14パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
 このイエス抹殺の相談が始まったことが
イエスはそれを知って…
の「それ」です。パリサイ人や当時の権威者たちがイエスを殺す相談をしたのは、これが初めての事です[i]。その末に十字架が起きるのですが、自分を殺す相談が始まったとイエスが知った。その時、イエスは-神の子であり、癒やす権威も滅ぼす権威も持っているイエスはどうするでしょうか[ii]。
15…そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。
16そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。
 癒やされたことを黙っていさせたことは何度もあって、伝道させるために癒やしたのではなく、その人との関係が大事だったからです[iii]。とはいえ、なぜまだそんな地道なことをなさるのでしょうか。当時の人々が期待していたキリストは、天から雷を降らせてでも敵を一気に成敗してくれるメシアでした。私達もそういうヒーローが好きで、ドラマなら勧善懲悪に悪者を成敗する話にスカッとします。それなのに、イエスはその場を立ち去りました。どうしてこんな行動を取られたのか、不可解な展開に、人は色々な説明をするでしょう。歯がゆい出来事に、あれこれ邪推をするものです。だからこそ、ここに預言者イザヤの言葉が光を当てるのです。
17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。[iv]
 イエスが、暗殺計画を知って立ち去ったことに、人は逃げ腰だ不可解だと好き勝手なことを言うとしても、その行動こそ、イエスが、預言者の語ったメシアだという証拠でした。
18「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。
 3章17節での洗礼の時も、神はイエスに
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
と告げました[v]。今この時、イエスを殺す相談が始まってイエスが立ち去った時も、イエスの土台はこれでした。イエスは人を恐れたり人の敵意に怒ったりせず、父なる神が選び、心から喜んで遣わした、「わたしの愛する者」として遣わされた務めを果たしているのです。だから、
19彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。
 抹殺計画に対しても、向きにならず、黙って素直に立ち去ったのです。イエスは言い争われません。また、大声や力で抑え込んでは「神の正義」は果たされないとご存じです。むしろ、
20傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。
 殺される相談が始まっている中でも、大勢の群衆がついてきたら、彼らを癒やされました[vi]。「傷んだ葦」とありますが、葦は弱い植物ですから、傷みやすかったのでしょう。また、真っ直ぐ伸びる葦は「物差し」に使われたものですが、傷んでしまえば役に立たない。また、「葦を折る」とは、裁判で有罪判決を表す所作だったとも言われます。「葦を折らない」とは、イエスが人を断罪しない、という事かもしれません。人の弱さ、まっすぐに生きられなかった人、そのような人をもイエスが労る、というイメージが浮かびます。
 「くすぶる灯心」も、色々な意味で人間の弱さ、悩みと重なります。燻る灯心はいっそ消した方が手っ取り早い。かといってただ放っておいてもいずれ消えます。急いで煽り立てても消えてしまう。手で囲い、丁寧に位置を直して、小さくても一番良い状態で点ることが出来るようにしてあげる。それが「くすぶる灯心を消すこともない」ことでしょう。無力さ、失敗、上手に出来ない、そんな人間をイエスは決して諦めず、関わり(ケア)をなさいました。

 それが、
「さばきを勝利に導くまで」。
神の裁き(正義)は、傷む人、虐げられた人を受け入れ、じっくりと癒やすことで勝ち取られる。イエスが敵意から退いて、群衆を癒やし、それを人々に話さず、しまっておくよう言われた道こそ、イザヤ書の預言の成就。神の裁きを勝利に至らせる唯一の道です。そういうイエスと出会って、そういう「神のさばき」との出会いによって、神のご計画は実現する。イエスを憎む人の憎しみは変わらなくても、痛む人や異邦人にまで、もっと広がっていく。だから、
21異邦人は彼の名に望みをかける。」
のです。
 イエスの働きはすごく遠回りでひっそりに見えます。神のすばらしい恵みを語っても、誤解され逆恨みされます。逃げたと思われるような変更をして、なお近づく一人一人との関係を大事にされます[vii]。その遠回りの道、仕返しや争いをせず、良い関係を育てる道。人が誤解や憶測でなんと言おうと、神の
「わたしの愛する者」
という言葉に立っていた主。傷んだ葦を折ることなく、燻る灯心を消さずに、主は私達とともに働き続けている。そうしてさばきを勝利に導かれる。この主に、私達は望みをかけて、今を生きていけるあのです。

「主よ。あなたは人の声や大勢の声に流されず、御父の愛に立ち、しなやかに生きてくださいました。あなたの憐れみが、世界に正義と平和をもたらします。あなたの回り道は、必要な、そしてかけがえのない回り道です。その事を信頼し、私達もあなたの深い癒やしに預からせてください。まだ燻りながらも、小さな者を愛おしむあなたの御業に、預からせてください」

脚注:

[i] 厳密には、2章でイエスが生まれた時点で、ヘロデが幼子キリストの暗殺を謀っています。それは、イエスの生涯が、民によって憎まれ、退けられるものであることを予告するものでもありました。また、10章の弟子の派遣では、弟子たちへの迫害・殺意の予告に、イエスも迫害され、殺されることが匂わされていました。それは踏まえつつ、権威者の側が、明確にイエスを殺そう(原文では「滅ぼそう」)と相談をしたのは、この12章14節以降です。

[ii] この言葉は「殺す」というより「滅ぼす」という言葉です。10章28節「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」の前半の「殺す」ではなく、後半の「滅ぼす」という言葉です。「神に代わってイエスを滅ぼしてしまおう」という思い上がり、横暴さを感じます。しかも、イエスの教えは、神は人を滅ぼす権威も持っているけれど、神の御心は真実の愛、罪を赦し、人を癒やす、滅ぼさずに救うことだという教えでした。そのために、安息日にこそ人を癒やされたのです。でも、それをきっかけに、パリサイ人はイエスを滅ぼす相談を始めました。自分たちがふっかけた論争に負けて、自分たちの間違いを認めるよりも、逆上しての殺してしまえ、という横暴です。しかも、その相談自体、安息日だったのでしょう。内容も勿論、相談という労働も、彼らが振りかざした「安息日にしてはならない」労働です。

[iii] 8章4節、9章30節、17章9節など、「ご自分のことを人々に知らせないように」と仰有ったのは、ここだけではありません。しかし、特にここでは、ご自分の抹殺の相談まで始まった段階で、人々が癒やされた嬉しさでべらべらしゃべったら、彼らも危険に晒されることを配慮してのこともあったかも知れません。少なくとも、イエスが人を癒やされたのは、ご自分の力を誇示するためとか、働きを広げるためにではなかったことは明らかでしょう。癒やされたのは宣伝させるためではなく、本当に癒やしたかったから、憐れまれたから、でした。

[iv] イザヤ書42章1~4節「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。2彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。4衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」 マタイが言い換えたり、省略したりしている相違も注目に値します。マタイは、4章の洗礼後の言葉との整合性を強調し、「異邦人」と訳せる言葉を反復して、ユダヤ人を読者の念頭としているマタイの福音書において、異邦人への福音という世界的な視点を主張しています。

[v] 公の活動を始めるに当たって、受ける必要も無いはずの洗礼を受ける、罪人の列に加わって、蔑まれ、苦難の道を歩み出すに当たって、天の父はイエスに承認の言葉を語られました。

[vi] 遡っては、片手の萎えた人を癒やしたら、火に油を注ぐと分かっていても、彼を癒やすことが「良いこと」だとイエスは確信していました。空腹の弟子たちが穂を摘むのを責めませんでした。疲れた人を招き、重荷を負っている人を休まようといってくださいました。そういうお方がイエスです。

[vii] そして、イザヤ書のこの言葉だけで無く、イザヤが語っていたもっと大きな約束、希望-神の御心が完成して、世界が必ず修復され、新しくなるというご計画ともつながります。世界の回復・完成の道のりは、言い争いや力ではなく、燻る灯心を消さず燃え上がらせてくださる、イエスの地味な、隠れた働きがなければ、なされないのです。イザヤ書39章から42章、そして43章や66章まで続いていく、全体をぜひ読んでみてください。

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2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

2020-10-10 12:53:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

招  詞  ヨハネの黙示録19章5~7節
祈  祷
賛  美  讃美歌79「褒め称えよ造り主を」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇130篇(31)
賛  美  讃美歌54「喜びの日よ」 ①②
聖  書  マタイの福音書12章1~8節
説  教  「真実の愛、安息の主」古川和男牧師
賛  美  讃美歌54 ③④
応答祈祷
報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌544「天つ御民も」
*祝  祷

 前回は、マタイ11章28~30節、
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
を読みました。それに続いて12章
「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。」
と今日の出来事が紡がれて、イエスが下さる「休み」、またイエスが「心が柔和でへりくだっている」方として豊かに現されていきます。
 「安息日」とは当時の土曜日で、聖書の律法では、一切の労働を止めて、神を聖とする日でした。現在、日曜日が休日のカレンダーがあるのも、私たちが日曜日に礼拝に集まるのも、この規定の延長でのことです。しかしここで弟子たちが
「穂を摘んで食べ始めた」
事が、
「安息日にしてはならないこと」
と非難されています。当時「安息日にしてはならない」項目が二三四も造られていて[1]、穂を摘むのは収穫行為、それを揉んで籾殻を取るのは脱穀として禁じられていたそうです[2]。仕事を止めて礼拝する、より、仕事とは何か、にずれてしまったのです。
 3しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、4どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
 これは、旧約聖書のⅠサムエル21章の記事です。後に王となるダビデは、逃亡中、神の前に備えられていた「臨在のパン」、一週間ごとに交換した後は祭司だけが食べる事を許されていたパンを、祭司からもらいました[3]。祭司以外は食べてはならない、という規定より、ダビデと供の者たちの空腹を、祭司は考慮してくれたのですね。また、5節では、
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる…
 神殿で仕える祭司は、安息日にも働いているわけですから、労働を禁じる律法は適用されないのです[4]。この事を持ち出して、イエスはパリサイ人の批判に応えました。この後、
 6あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
 以前の聖書の訳では「宮よりも大いなる者」でした[5]。者、つまりイエスが宮よりも偉大だ、という理解です。新しい訳、また他のほとんどの翻訳聖書も「もの」、つまり、誰かのことではなく、何かの事としています。ではその「宮よりも大いなるもの」は何かというと、
 7『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
 「宮よりも大いなるもの」、いけにえよりも主が喜びとするのは、
「真実の愛」
です。神が喜ぶのは、安息日の規定や様々な義務を死守することだ、空腹でも我慢して神に従うのだ、という犠牲的な信仰かと思いきや、主は
「わたしが喜ぶのは真実の愛」
と仰有るのです[6]。
 欄外に「あるいは「あわれみ」」とある通り、「憐れみ」という言葉なのですが[7]、元々の旧約聖書ホセア書6章6節の言葉が「真実の愛」、変わらない恵み、強い誠実さ、神の本質を現す強い言葉なのです[8]。私たちは、この「真実の愛」の神が、世界を造り、私たちを救い、回復してくださることを信じます。そして、神がこの世界を創造された事と、その神である主が奴隷であった民を解放して贖ってくださった事を覚えるのが安息日でした[9]。真実の愛を喜ばれる主が、この世界を作って、今も支え、人を奴隷生活から解放してくださった。それを覚えるために人は、週に一日、仕事や雑用を離れて主を見上げるのです。仕事に追われて、重荷を負うて、何かしら「生け贄」(犠牲)や非難が当然な社会で疲れていても、一週間に一日は主の前に行き、安息をいただく。そして、私たちに犠牲を求めるのでなく、喜んで変わらない愛を注いでくださる神、私たちのためにひとり子イエス・キリストが犠牲となってくださり、そして、死から日曜日の朝、よみがえってくださった主イエスを覚えるのです。その主の言葉に生かされて、残りの六日に送り出される。何があっても私を変わらず愛して安息を与えてくださる神の言葉に生かされて、「~しなければ」という言葉だらけの生活に出て行くのです[10]。
 なのに、腹ぺこで麦の穂を摘んで食べずにおれない人を見て、「安息日を破った」と鬼の首を取ったように責めるのでは全く逆です。むしろそういう杓子定規な信仰、神が喜ぶのは真実の愛よりも犠牲や規則の遵守であると振りかざして、咎のない者たちを不義に定めている、そっちの罪の方が重い。あなたがたは聖書を読んではいても、その意味を分かっていない、と指摘されたのです。主が喜ばれるのは、まず私たちが主の真実の愛を受け取ること、そして、私たちも互いに、規則や犠牲を要求するのでなく、真実の愛の中に見ていくようになることです。
 最後8節
「人の子は安息日の主です」。
 イエスは「安息の主」です[i]。私たちに命を与えて、安息を与えて、ご自身を「臨在のパン」として与えてくださったお方です。人の空腹や疲れ、重荷を負い、咎を負わされている辛さを深く憐れみ、
「わたしのもとに来なさい」
と招いて、休ませてくださる主。私たちを非難や、犠牲や規則から解放してくださった方。そのために命を捨て、そして日曜の朝に復活して、今も生きて働いておられるます。
 「安息の主」と仰有った主イエスが、この復活の日曜に、私たちの重荷を下ろさせ、色々な柵からも解放して、安らがせてくださいますように。

「主よ、この日曜日、私たちはあなたの素晴らしい創造と、主イエスの復活と、聖霊の降ったペンテコステを祝って、ここに集められました。本当に、あなたは私たちに真実で、恵みを注いで止まないお方です。私たちを罪や咎、冷たい心から救い出し、あなたの愛の中に安らがせてください。安息の主が、私たちを休ませ、私たちをその安息を運び届ける器としてください」

脚注:

[1] 横浜指路教会礼拝説教 「日曜日は誰のものか」 伝道師 矢澤 励太 より。

[2] そして、パリサイ人がそれを指摘したのは、単なる杓子定規な適用という以上に、目障りになってきていたイエスをやり込める狙いだったのでしょう。

[3] 後のダビデ王が命を狙われて追われていて空腹だった時、神の箱が置かれていた幕屋に行った時の事です。サムエル記第一21章1~6節「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。」 このパンについては、レビ記24章に記されています。「2「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。3アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。5あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。6それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。7それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。8彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。9これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」 この言葉から、ダビデが「臨在のパン」を食べたのが、安息日だったことも推測できます。

[4] 民数記28章9-10節「安息日には、傷のない一歳の雄の子羊二匹と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それに添える注ぎのささげ物。10これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」

[5] 口語訳、新改訳、また英訳聖書のKJV、NKJVは「宮よりも偉大な者one (who is) greater than the temple」と理解しています。新共同訳、聖書協会共同訳、ESV、NASV、RSVは「物something greater than the temple」とします。旧来の「偉大な者」から、「偉大な物」への移行をうかがえます。

[6] この「喜ぶ」は「御心とする、意思する、願う」という意味のセローです。ホセア書の原語も、求める、願う、喜ぶというハファーツ。神を喜ばせるために、私たちが真実の愛があるかどうか、ではなく、神ご自身の御心の本質、方向性が「真実の愛」ということです。

[7] ギリシャ語「エレオス」。なお、こちらも参考に。「真実の愛」と訳された根拠について

[8] ホセア6章6節「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 これは、マタイが9:13でも引用していた、旧約理解のキーワードです。

[9] 出エジプト記20章8~11節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」 一方、申命記5章12~15節では「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中の中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」と、エジプトの奴隷生活から導き出された事が安息日の根拠とされ、それが、奴隷の労働をも免除する義務と結びつけられています。

[10] その「真実の愛」を覚える礼拝のために、祭司は安息日でも仕えて働くのです。

[11] 「人の子」というのはメシア(キリスト)を指す聖書の用語の一つで、イエスはご自分がメシアであることを現すのに、この言葉を専(もっぱ)ら用いました。

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