聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記三二章22~32節「神を見た」

2015-09-30 17:15:35 | 創世記

2015/09/27 創世記三二章22~32節「神を見た」[1]

 

 「神を見た」というタイトルで、皆さんは何を思われたでしょうか。「自分も神を見たい。神を見ることが出来たら、信仰がハッキリ持てるのに」と思われた方もいるかもしれません。今日ご一緒に聴きました聖書の言葉では、ヤコブという人物が、一晩中ある人と闘い(英語の聖書ではレスリングをしたと訳しています)、最後に「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言いました。ヤコブはその人が神だと気づいた。だからその所の名を「ペヌエル(神の顔)」と名づけました[2]

「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」

という意味です[3]。ヤコブは、神とレスリングをし、神の顔を見て、神の祝福を戴いたのです。しかし、

「ヤコブが神を捕まえてレスリングをし、粘りに粘って、遂に念願の神の顔を見て、祝福をもぎ取った、羨ましい」

と考えるなら、誤解です。そういう読み方をする方もいますが、この話はそうではありません。24節を読むと分かるように、「ある人」が突然現れて、ヤコブをとっ捕まえて、彼を一晩かかって組み伏せたというのです。ヤコブが神を離さなかった、ではなくて、神がヤコブを離さなかった、と言った方が正しいのだろう、と思うのです。むしろ、ヤコブは神からも自分の人生からも、逃げて逃げて逃げ続けて来ていた、卑怯者でした。

 これまでヤコブの人生はごまかしだらけでした。自分よりも兄を偏愛している父の前で、兄のフリをして祝福を横取りするなど、卑劣な過ちをいくつも犯してきました。ヤコブという名前自体、「押しのける者」という意味でした[4]。ヤコブは押しのけた兄の怒りを買って、家を出ざるを得ず、遠い所で再出発します。願い通り一目惚れした妻と結婚し、その間に念願の息子も与えられました。沢山の家畜や財産も手に入れました。しかし、その過程で彼は、妻の姉も娶り二人の侍女との間にも子どもを設けた、いびつな大家族を持ってしまいます。そして、親に偏愛されて傷ついたはずのヤコブも、自分の子どもを偏愛して、兄弟関係を歪めてしまうのです。結局、美しい妻も、可愛い子供も、沢山の財産も、彼の問題は解決しませんでした。

 この三二章でヤコブは二〇年ぶりに故郷に戻ってきながら、兄の復讐を恐れています。あれこれと策を巡らして、贈り物を用意し、逃亡手段も考え、神頼みもして助けを祈りますが、それでもやはり落ち着きません。今日の箇所、22節から24節では、夜中に落ち着かずに起き上がり、妻や子ども、最愛の家族であった彼らさえ川を渡して、独りになったとあります。ヤコブは、行き詰まったのです。困惑してどうしたらよいか分からず、今まで築き上げてきた財産も大家族も、自分の口のうまさや知恵も頼れない、途方もない孤独の状態があるのです。そんな夜に、神が現れて、ヤコブをとっ捕まえ、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。

 もっと前の方で神が約束されたのですが、神はいつもヤコブと共におられたのです。見えない形でも、ヤコブとともにいつもいてくださったはずなのです。でも、ヤコブ自身が、人を妬んだり、無い物ねだりをしたり、幸せにしてくれる何かを神以外に求め続けて、自分自身から目をそらしている限り、神がともにおられ、自分を祝福してくださる事に気づかず、神の祝福を求めることはなかったのです。今、行き詰まったヤコブに、ようやく神は取っ組み合うことになさったのです。この神との格闘は、口八丁手八丁で勝てません。一打ちしただけで、股関節を外してしまうような恐ろしい相手です。そこで、彼はこの方に遂に降参するのです。祝福してください、と縋り付くのです。

「兄のふりをして祝福を求めたけれど散々だった。美しい妻を得るために必死に働き、財産を殖やして幸福になろうとした。けれど、孤独で空っぽな自分だった。そうした虚しい生き方を止めて、今、あなたに縋り付きます。あなたの祝福が得られないなら、死んだって構いません」。

 そういう心境に行き着いたのではないでしょうか。

 今まで、嘘八百を並べ立てて、財産を増やし、兄を傷つけ、四人もの妻を抱えてみんなを傷つけてきたヤコブなんか、神は見捨てても良かったんではないでしょうか。自業自得だと罰して、置き去りにしても良かったはずでしょう。でも、神は、そのヤコブの魂が開くタイミングをずっと待っておられたかのように、この時ヤコブに取り組んでくださったのです。神はこういうお方です。私たちにもそうです。自分から逃げ続けていても、それでも神は私たちを見捨てたりせず、命を与え、よいものを下さいます。けれども、神が願っておられるのは、この、神に降参して、神を神としてあがめ、求める関係を私たちとも結ぶことです。神と取引しようとか、自分をごまかしたまま幸せだけもぎ取れろうという上っ面の関係ではなくて、私の嘘や弱さや過ちもすべて知った上で、私を一打ちで殺す事も出来るお方が、私を生かし、真剣に向き合ってくださる、その方との関係に降参することを神は待っておられるのです[5]

 この関係に入った時、神はヤコブに新しい名を下さいましたね。「イスラエル」という名です。それは

「神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」

と言われます。でも、25節ではこの方はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブの股のつがいを打ったのですよね。股のつがい、とは上品ですが、股関節であり、急所のことですね。そこを打たれたなら、ヤコブはもう神には勝てなかった筈です。でも、私はこう思えます。神はヤコブに勝たれたのです。そしてヤコブも神に勝ったのです。神が私たちとなさる勝負は、最後には神は必ず勝たれますし、私たちも勝つのです。

「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」

ですが、愛の関係とはWin-Winです。どっちかが敗者になったらダメなのです。ヤコブが神に勝とう、自分の弱さを認めまいとする限り、彼は負け惜しみを言うしかありません。しかし、自分の限界とこれまでの間違いを認めて神に降参したとき、それは神がヤコブを勝ち取ってくださったことであり、ヤコブも勝利を告げられたのです。そして、この後も、ヤコブは自分の人生に取り組み始めます。まだまだ失敗をしますが、それでも彼は感謝を持って生涯を閉じるのです[6]

 この後も、聖書には、人間が神の顔から逃げ続け、神は人間の所に来て、様々な方法で、人間を捕らえてくださるお方である話が出てきます。人間にも痛い思いをさせられますが、神ご自身も身を低くし、忍耐し、痛みをさえ厭わずに、人間のそばにおられるのです。遂には、神の御子イエス・キリストが人となり、体を引き摺って、十字架への道を辿られました。キリストは、ご自身が痛みや孤独を知っておられます。

 神は私たちが痛みを通してだけでなく、ご自身の最大限の犠牲をも払って、私たちとの関係を回復させて下さるお方です。神はヤコブとは違う形でしたが、私にも出会ってくださいました。そしてそれは、やはり痛みや願いたくない経験でしたが、かけがえのない人生にしていただいたなぁと思います。

 ヤコブと同じく、神は私をも見捨てません。私の人生にも介入して、ともにいて下さいます。プライドやごまかしを捨てて神を求めて、神の祝福に与って、私の人間関係も人生そのものも真実にしようと、神は導いてくださいました。キリスト教は、死後の事や道徳以上のものです。イエス・キリストに捕らえて戴くとき、私たちの家庭、仕事、人生が、深い所から変えられていきます。イエスに向き直り、降参して、祝福を願う時、私たちも「神の顔を見る」者とされた生涯を歩むのです。

 

「主が、ここにいるお一人お一人の歩みを捉えて、魂の底を揺さぶられるような出会いへと導こうとされていることを信じます。格別、心満たされないまま生きている思いをしている方、あなたを見たいと願い始めている方、痛みの中で足を引きずるような思いで今日ここにいる方が、どうかあなたの顔を拝して、今生かされていると告白する日を一日も早くお恵みください」

 



[1] 大阪キリスト教会の週報に載せた「説教要旨」は次の通りです。「 「神がいるなら見てみたい」と言うなら、ヤコブは「顔を合わせて神を見た」体験をした人です。しかし、ヤコブが神を見た、というよりも、神がヤコブをとっ捕まえてくださった、といった方が正しいでしょう。これまでの彼の人生は、ごまかしだらけでした。祝福を求めてはいたものの、嘘、逃避、計算高い人生でした。一目惚れの妻とその息子、そして大勢の財産を手には入れましたが、彼の人生は問題だらけで、心には怯えがありました。今、二〇年ぶりに故郷に帰ろうとしていますが、父をだまし、兄の祝福を奪い取って激怒させた彼は、おびえて落ち着かず、どんなに策を巡らしても落ち着くことが出来ません。そんな夜に、神がヤコブを捕らえて、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。彼が自分を否定し、真実から逃げて生きようとしている限り、神に会うことはあり得ませんでした。神は、ヤコブが自分の間違いを認め、行き詰まって限界を悟り、神に祝福を求めてすがりつくように、働いておられたのです。

 神に向き合い降参したとき、ヤコブは新しい名をもらいました。そこには「神と戦い、人と戦って、勝った」という意味がありました。「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」と言いますが、愛の関係とはそういうものです。プライドを捨て、神に降参するとき、私たちは本当の祝福によって、家族・人間関係も変えられるとヤコブ物語は約束しています。」

[2] 「ペヌエル」とは「ペニ」が顔、「エル」は神の意で、神の顔を指しています。

[3] これは、「神の顔を見たけれど、死なないで生きている」というよりも、「神の顔を見た。そして、今、私は神の顔を見たものとして、新しく生きている」という意味でしょう。

[4] そんな名を付ける親も酷いとは思います。父は兄を溺愛して弟のヤコブを軽んじていましたし、母がヤコブを愛したのも夫婦仲の問題を息子たちの奪い合いに投影していたわけです。そんな中で息子ヤコブの心が生涯歪んだのも無理はないとも思います。しかし、いずれにせよ、ヤコブはそこで身に着けてきたものを脱ぎ捨てて、神との絆に生きるようになるため、人生の最後まで神によって訓練されます。ヤコブの晩年は、そのことへの感謝と信頼の告白です。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日までずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。…」(創世記四八15-16)

[5]出エジプト一5欄外注「腰から出た者」という説明を踏まえると「イスラエルの民は、この主が打たれたことを原点とする民である」とも言うことが出来ます。主が打たれなければ、強情で狡猾で、ずるがしこく逃げ続けて、神からも自分自身からも顔を隠し続けたでしょう。しかし、主が打って下さることで、ようやく私たちは謙り、神に立ち帰り、自分が神ではないことに気づくことが出来る。そのようなことを、聖書の繰り返すメッセージとして、私たちは聞き取ることが出来ます。

[6] 創世記の終章へ向けて、ヤコブが神に取り扱われ、彼の言葉が鍛えられていく様子は、顕著に見ることが出来ます。

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問79-81「満ち足りた心で」ヘブル13:5

2015-09-30 17:08:21 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/27 ウェストミンスター小教理問答79-81「満ち足りた心で」ヘブル13:5

 聖書の律法というと、あれもしてはならない、これもしてはならない、という堅苦しいだけの形式的な規則だと考えていないでしょうか。今日の、第十戒はそういう私たちの思い込みを引っ繰り返すような命令です。

問79 第十戒はどれですか。

答 第十戒は「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です。

問80 第十戒では、何が求められていますか。

答 第十戒は、隣人とその人に属するすべてのものに対して、正しい、思いやりの気持ちを持ちつつ、私たち自身の境遇に十分に満足することを求めています。

問81 第十戒では、何が禁じられていますか。

答 第十戒は、すべて、私たち自身の生活状態に満足しないことと、隣人の幸福をねたんだり、悲しむこと、また、隣人のいかなるものに対してであれ、すべて法外な欲求や愛着を抱くこと、を禁じています。

 三千年以上前のイスラエルの社会ですから「男奴隷、女奴隷、牛、ろば」などと書かれています。今は、お隣の人の奴隷や家畜を持っていることはないでしょうし、だからそれを欲しがる事もないでしょう。

でも周りの人の暮らしが物凄く羨ましくなったり、友だちのゲームや服を自分も欲しくて堪らなくなったりしないでしょうか。何かに付けて「あいつはいいなぁ」「うちもこうだったらいいのになぁ」が心の中での口癖になっていないでしょうか。勿論、人のものを見て、ちょっとでも欲しいと思ったらダメだ、ということではありません。「あ、あれはいいな。ウチにも必要かな。」そう考えることがきっかけで、暮らしを少し楽にしたり気持ちよく過ごせるようにすることはありますね。でも、そこで考えて「これはなくてもいいな。あれも欲しいこれも欲しいと言っていたら切りがないから、止めておこう」。そう思う事も大切でしょう。ところが、なくてもいいものも、なければ自分が惨めな気持ちになってしまって、際限なく物を増やす、ということもありますね。実際に買わなくても、本当は「欲しいなぁ、格好良い車や、素敵なスタイル、自分とは違う暮らしが出来たらいいのに」と惨めな気持ちや、ねたましい心を強く持っていることもあるのです。それが、この第十戒で禁じられている「ほしがる」という強い思いです。イエスは仰いました。

ルカ十二15「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 「どんな貪欲にも」です。お金、財産、暮らしのもの、人の奧さんや旦那、親や子ども、見た目や健康、仕事や性格…。いろんなものが、私たちには妬みや貪欲の対象になります。そして、私たちの周りのテレビや日常会話、コマーシャルなどでは、「これを買えば幸せになれるよ」「私たちの商品はあなたの生活を変えますよ」と、上手な宣伝をして、私たちに何かを買わせようとします。裏を返せば、自分たちの生活が物足りないような気にさせて、その解決の手段として、憲法を変えるとか、強い軍隊を持つとか、人の暮らしからもぎ取ることを唆して来るのです。

 でもイエスは仰いました。私たちのいのちは財産にあるのではない、と。では、私たちのいのちはどこにあるのでしょうか。それは、この十戒の序言でこうありました。

出エジプト記二〇2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 主が私たちの神となってくださいました。私たちを、何かに縛られて奴隷にされた生き方から、力強く救い出してくださって、いつまでも主の民として祝福を注ぐという契約を立ててくださいました。だから、与えられた生活を改善させたり、開拓したり、努力や精一杯生きる責任はあるのですが、人のものを羨んだり、あれもないこれもないと不平をブツブツ言いながら生きる心は捨てなければならないのです。

ヘブル十三5金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 この方が、この主だけが私たちを満たし、祝福してくださるのです。神が下さったのは、「満ち足りる心」です。それ以外のもので、自分を満たそうとしても決して上手くはいかないのです。神ならぬもので心を満たすことは出来ません。パウロは言います。

エペソ五5むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

 人のモノを欲しがっている人は偶像礼拝者だ、というのです。四世紀の主教アウグスティヌスという人はこんな事を言いました。

「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。

 神さまだけが私たちの心を満たせるのです。満ち足りた心をくださるのです。でも、神から離れた人間は、心の深い所で不足や渇きを持つようになってしまいました。

 満たされない心を満たそうと、人のものや神さま以外の色々なもので満たそうと思っても、満たされたと思うのは一瞬だけで、決して満たせません。

本当に深い飢え渇きを、私たちの心は抱えているのです。自分でもどうしようもない、無意識の、深層心理での渇きです。ですから、「むさぼってはならない」と言われても、もうこれからは満足して生きていきます、などとは誰も言えません。

 私たちが神に向いて生きる時にのみ、人のモノを欲しがって憧れる勘違いした生き方から、深い所で満たされ、感謝する生き方へと帰られる神の御業が始まります。そうです。主イエス・キリストの福音は、ただの道徳や規則ではありません。私たちの生き方の、心の、どうしようもないほど深い渇きまでも潤そうという恵みなのです。私たちが、不平や不満から自由にして、感謝をもって生きるようにならせたい。その神への信頼を土台として、生かされ、働き、必要なものを考え、モノは増やさない。人との関係でも妬んだり競争せずに、つきあえる。そんな軽やかな心で生きるようにと、十戒は私たちを招いています。

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問76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

2015-09-20 21:16:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/20 ウェストミンスター小教理問答76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

 

 嘘つき大会で優勝したのは、「私は今までで一度も嘘を吐いたことがありません」という「大嘘」だったそうですが、確かに今まで一度も嘘を言ったことがないという人はいないでしょう。そして、嘘を吐かれて悲しかった、という思いも、みんなが持っているはずです。嘘は人との関係を傷つけますし、神との関係も歪めてしまいます。

問76 第九戒は、どれですか。

答 第九戒は、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。

問77 第九戒では、何が求められていますか。

答 第九戒は、人と人との間の真実と、私たち自身および隣人の名声を維持し、促進すること、―特に証言を行うに際して―を求めています。

問78 第九戒では、何が禁じられていますか。

答 第九戒は、真実をゆがめたり、あるいは、私たち自身や隣人の名声を傷つける一切のことを禁じています。

 ここで「特に証言を行うに際して」とありますが、ただ「嘘をついてはいけない」ではなくて、「あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」という言い方は、裁判など正式な場所でのことを考えた言い方をしています。裁判の時に「嘘を言いません」と誓ったり、もし嘘を吐けば「偽証罪」という罪を犯したことになったりします。それだけ裁判での証言は、重いのですね。なぜなら、その嘘に基づいて、罪のない人が有罪になって一生が狂わされたり、罪のある人が無罪になってまた悪いことをしてしまったりして、正義がない滅茶滅茶なことになってしまってはならないからです。

 とはいえ、裁判でなければ嘘を言ってもいい、ということではありません。私たちが普段から話すことは、どれも何かしらの結果を生み出します。ちょっと意地悪で、遠回しに言った言葉が、人から人に伝わって、私たちについてのイメージを造り上げてしまったりするのです。ですから、私たちは、普段の会話から、嘘を吐かないこと、噂話をしないこと、無責任なことを言わないようにしなければなりません。

 けれども、正直なほうがいい、とはみんな分かっているでしょう。それでも、毎日の生活では、本当のことが言えない、言わない方がいいんじゃないかと思う事があるのです。「正直者が馬鹿を見る」という言い方のほうが賢いような気がするのです。何でもかんでも馬鹿正直に言っても損をするだけだ、誰も傷つけるわけじゃないからと言ったりするのです。そして、私たちが本当の事を言うのには、とても勇気が必要なのです。

 確かに、ケースバイケース、ということもありますが、今日のここでは、ただ正直であれ、と解説されていないことを心に留めましょう。嘘をつかない、ではなくて、「名声を守る」ということだ、というのですね。もちろん、嘘で守るような「名声」ではないです。神は真実なお方ですから、少しの偽りも憎まれます。また、神の光はすべてを真実の下に引き出します。隠れて行った盗みも、内緒で囁いた悪口も、すべてを神は見ておられます。私たちの心の中にある醜い妬みや嫌らしい考えも、残酷な妄想もすべてを、神はご存じです。もしそれを、全部私たちが見られたらどうでしょう。人の心の声や考えや、影でしていることを全部見たり聴けたりしたら、私たちは耐えられないでしょう。自分の考えやしていることが、全部みんなに見られるとしたら、とても恥ずかしくて生きていけませんね。そんなことは隠してごまかして、ないことにしましょうか。

 神は、その全てを見ておられます。全部ご存じです。嘘も、意地悪な考えも、腹立ち紛れにやったことも、うまく隠したと思っていることも、全部見ておられて、なお私たちを愛されています。嘘や悪い思いを捨てることを望まれるのも、私たちを愛しておられるからです。私たちが言ったりしたりしたことがどんなに酷いことで、穴があったら入りたい、恥ずかしすぎて死んでしまいたい、と思ったとしても、神は私たちに、もう穴に入っていなさい、死んでしまった方がいいね、とは言われません。私たちをなお愛されて、私たちが心も言葉も生き方も変えられて行くことをお考えなのです。心が愛で満たされ、語る言葉は真実になるように。それが神さまの願いなのであり、そのために、イエスは私たちのために十字架にかかって、私たちの贖いの業を果たしてくださいました。私たちに「嘘つき」とか「本当はダメな人」というような名前ではなく、神の子という良い名前、名声を下さるのです。この名声を、私たちも維持していくのです。

 ですから、正直になることを迷うときがあったら、こう考えてみましょう。これは、本当の意味で、神さまに喜ばれるでしょうか。神さまの下さった「神の子」としてどうすることが正しいでしょうか。もっと具体的には、自分のした間違いは、隠したりかばったりせず、認めて誤ったほうが絶対に良いです。けれども、言う必要のない相手に何でも話す必要はありません。また、もう解決している問題のこともほじくり返さないほうがいいこともあるでしょう。それでもやはり、大切な人との間には、隠し事はしないことです。なぜなら、私たちも、隠し事をされていると、本当に安心した信頼関係は決して持てませんね。正直に言ったら、確かに怒らせたり、気まずくなったり、問題になるかもしれません。でも、隠しておいて後からバレるほうが、お互いの関係に与えるダメージは大きいのです。そして、いつか必ずすべての事はバレます!

 今日の聖書の箇所で、パウロは言いました。

15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 愛のない冷たい心で本当のことをズケズケいうのでもなくて、優しくしようと思う余り本当のことを胡麻化すのでもなく、愛をもって真理を語るようになっていく。それは、私たちの成長の大切な一面です。そして、それは私たちが聖書の御言葉を学び、知っていくことを通してなされます。なぜなら、神さまの言葉は何一つ嘘でも大袈裟でもなく、すべてが真実だからです。御言葉の約束は、天地が滅びても、永遠に果たされるほどのものです。私たちのすべての罪を赦し、私たちを神の子どもとして、素晴らしい名を与え、その名にふさわしくいつまでも扱ってくださいます。そして、嘘を嫌われ、ごまかしを望まれず、勇気をもって正直な告白をするときに、必ず祝福してくださるのです。そのお約束を疑わないためにも、私たちの中で嘘を育てず、真実を愛して行きましょう。

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ルカの福音書二三章8~12節「奇蹟を見たいと考えても」

2015-09-20 21:14:41 | ルカ

2015/09/20 ルカの福音書二三章8~12節「奇蹟を見たいと考えても」

 

 ヘロデ、という名前だけで、何となく「いかにも極悪人」のような気がするのは私だけではないでしょう。これは、クリスマスに登場する、二歳以下の男の子を皆殺しにしたあのヘロデ大王の息子、国主ヘロデ・アグリッパです。その名に反して立派ではない人で、今日の記事でも、ひどく傲慢で意地が悪く、性根まで腐ったというイメージを持ってしまいます。なにしろ、この人にイエスは何も仰いませんでした。ルカでは、イエスが誰かに話しかけられても何一つ応えなかった、というのは、このヘロデ以外にいません。他はみんな何かしらお答えをなさるのに、ヘロデにだけは何もお答えにならないのです。ヘロデの頑なさが偲ばれます。

 8ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

 ヘロデはイエスに会いたいと考えており、この時は「非常に喜んだ」のです。これはイエスが十字架にかけられようとしているその日の朝のことです。ユダヤ議会は、イエスの処刑を総督ピラトに訴えましたが、ピラトは責任を回避するため、祭りのために上京していたガリラヤ領主ヘロデに、ガリラヤ人イエスの処遇を盥回しにしようとしたのです。そうして、今イエスはヘロデの前に立っています。そして、ヘロデはイエスを見て、大変喜んだのです。歓迎ムードだったのです。どうでしょうか。この時、主イエスは、ヘロデの前で奇蹟を一つか二つやって見せてあげてもよかったのではないでしょうか。そうして、ご自分の無罪を訴え、説教をする手もあったのでしょう。十字架を免れることは論外としても、ご自分が、神の贖いの生贄として死ぬ事や、ヘロデにも悔い改めや信じて救われることを説き聞かせることも出来たでしょう。そのために、ちょっとヘロデの喜ぶ奇蹟をしてみせてもよかったのではないでしょうか。

 しかし、それは、主イエスの方法ではないのです。この時だけではありません。十一章16節や29節以下で、イエスに自分の出所を証明するような「天からのしるし」を見せるよう求める人々がいたことが記されています[1]。主イエスはそのような態度を「悪い時代」の証しとして非難されました。そして、イエスがなさる何か特別な奇蹟というよりも、イエスが来られ、教えておられるそのこと自体が与えられているしるしなのだと仰いました[2]

 イエスの奇蹟は、神の国のしるしでした。決して、ご自分が楽をするためや、周りの人たちの気を惹くために、パフォーマンスとして奇蹟をしたことはありません。それは、神の栄光の力であり、憐れみ深い神が訪れて、世界を癒やし、命を与えて豊かに養ってくださるしるしでした。人々を驚かせただけでなく、その人の信仰を根底から問い直し、価値観を新しくするものでした。全能の力と深い憐れみの神が、私たちに関わられ、信じて従う事を求めている、というメッセージでした。自分が王や神になって生きることをもう止めて、人生を神に明け渡すことを迫るものでした。イエスの奇蹟とは決して、ただの見世物や演出ではなかったのです。

 ヘロデがイエスにあって喜んで、奇蹟を見たいと考えたのは、それとは正反対の理由でした。自分は大きな椅子にふんぞり返ったまま、ショーでも楽しむようなつもりからでした。そして、

11ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。[3]

 ヘロデのやることはここでも力関係ですね。侮辱や嘲り、嫌がらせに派手な衣を着せる。そういう腹いせの仕方自体、ヘロデの考えが、人間を力や上下関係でしか見ていないからです。影響力とか称賛とか偉そうにすることが大好きで、侮辱や嫌みや惨めな思いをさせることで、イエスに「身の程を思い知らせてやった」つもりなのです。

 しかし、主イエスは派手な衣を着せられて傷つかれたのでしょうか。本当はスゴい奇蹟で鼻をへし折りたいのに、それをグッと堪(こら)えて、我慢されたのでしょうか。いいえ、私たちの主イエスは、ご自分から、神の御子としての栄光を脱ぎ捨てて、この世に来られ、貧しくお生まれになったお方です。有名になるとか、顔に泥を塗られたくないとか、誤解されたり馬鹿にされたりせず人に感銘を与えたいとか、そんな虚栄を一切求めず、ただご自分を差し出してくださったのです。ヘロデの挑発にも最後まで黙ったまま、何もお答えにならなかった事自体が、ヘロデの生き方に対する挑戦であり、力や上下関係がすべてとする考えへの大胆な否定でした。

 私たちはどうでしょう。「奇蹟を見たい、祈りに応えて欲しい、どんな事でも出来る神さまなんだから、少しぐらい自分の願いを叶えてくれたらいいのに…」。願うような神さまのパフォーマンスがないと、御言葉が何を教えているかに聞く気も失せてしまうことがあります。奇蹟の証ししている、神の国の現実を受け入れるよりも、目の前の出来事が変わってくれなければ、イエス様への評価もなんとなく低くしているのです。しかし、私たちが信じるのは、神の全能の御力です。主イエスが私たちを愛して、今も私たちに力強く働いておられることです。ヘロデや世間が喝采を送るような、アッと目を見張る奇蹟とは違います。無理が通ったり、私たちが楽をしたり、世間が注目したりするような神業でもありません。祈りや信仰の力で、派手な驚くべき出来事が起き、すべてがトントン拍子に丸く収まる、なんてチープな物語であってもなりません。主イエスは、私たちがそのような生き方に囚われることをよしとはなさいません。だから、そのような上面(うわつら)の考えや身勝手な人間の心を変えて、イエスのように、神に信頼し、侮辱されたり挑発されても、父の愛の中で生きる者に造り変える。そういう奇蹟です[4]

 12節に、ヘロデとピラトは敵対していたのが仲良くなったとあります。神に敵対したまま、損得で人と着いたり離れたりする上辺の関係でなく、神は私たちに決してなくならない絆を下さいます。神に敵対している人間のために、キリストはご自身を捧げてくださいました[5]。その御愛によって、私たちの心や考えを変える御業こそ、すばらしい奇蹟ではありませんか。自分でイエス様のように黙っているとか馬鹿にされても気にしなくなるのは、無理です。そうではなく、主の愛が私たちのうちに注がれて、私たちは心を打たれて、私たち自身徐々に変えられて行くのです。「神の力を示して見よ、奇蹟や癒やしやインパクトのあることをして神を証明して見せろ」という挑発は、私たちの外からも、私たちの内からも、絶えず聞こえます。今この世界に蔓延(はびこ)っているのは、神の力を試したり、無力な者を馬鹿にする考えです。しかし、本当の王であるキリストは、ご自分がまず惜しみない犠牲を払って私たちのためにすべてを捧げてくださいました。そうして主は、私たちを、すべての罪から清め、既に神の子としてくださいました。それを否定したり証拠を見せろと言われたりしても、動じる必要はありません。やがてすべてが新しくされる日が訪れます。今はその日に向けて、私たち自身の考えが大胆に変えられ、主イエスに倣って下へ下へと謙る生き方を愛するようにされている途中です。まだまだ不完全です。でも、その途上にある私たちの存在そのものが、神を証ししているのです。

 

「主よ。ヘロデの前から十字架の上に息絶えるまで多くの挑発を受けて、最後まで黙々と耐え忍ばれた主のお姿もまた、私たちのためでした。あなたには不可能はありません。困難を解決するだけでなく、困難を通して栄光を現されることも、その困難を尊く愛されることさえもです。どうぞ私たちの心をあなた様への信頼で満たして、語る勇気も黙る平安も与えてください」



[1] ルカ十一16「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」、29節以下「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。30というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。…32ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

[2] 「奇蹟」セーメイオンは、ルカでは九回使われています。二12(布に包まって飼葉桶に寝かされているキリスト)、二34(イスラエルの人々が反対を受けるしるし)、十一16(イエスをためそうとして、天からのしるしを求める者もいた)、29-30(悪い時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしだけが与えられる)、二一7(世の終わりの前兆はどんなことが起きるのでしょうか。11、25節)

[3] ヘロデはなぜイエスを直接侮辱罪で殺さなかったのでしょうか。洗礼者ヨハネのように、首をはねてもよかったではないでしょうか。それをしなかったのは、彼の心に殺したヨハネや、イエスの力に対する恐れが残っていたからか、ピラトに面倒なことは押しつけてやろうというイタズラ心なのでしょうか。いずれにせよ、ヘロデでさえも、イエスに処刑するだけの理由があるとは思わなかったのは確かでしょう。

[4] ヘロデとピラトの友情(フィロス、仲間)は敵対関係からの変化でした。しかし、またいつ敵対に戻るか分からない、政治的な和合にすぎません。いずれにせよ、彼らにとって、イエスのいのちはさほど関心ではなかった、ということです。ピラトはヘロデにイエスのことを決めて欲しかったが、ヘロデはそれについては何もしません。ヘロデに言わせると、この問題はピラトの職掌であることは明らかでした。それでもピラトはヘロデを恨まず和合しました。両者に共通しているのは、祭司長や律法学者たちに煩わされた、というだけですが、それでも彼らはここで和解を得た、というのです。イエスのことなど彼らには些細なことでした。そのような、いのちを軽視した和合の罪を、ルカは使徒の働きで問いただします。四27「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」

[5] ローマ五8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」、五10「もし敵であった私たちが、ミ子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

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問73-75「盗むなんてもったいない」

2015-09-13 20:45:11 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/13 ウェストミンスター小教理問答73-75「盗むなんてもったいない」 エペソ四章28節

 今日の聖書箇所を読むと、疑問が湧きます。

エペソ四28盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

 エペソの教会には、盗みをしている人がいたんでしょうか。泥棒や強盗がいたのでしょうか。たぶん、そんな堂々とした盗人はいなかったと思います。でも、意外と、私たちは「盗み」としているんではないでしょうか。この御言葉は、聴いているみんなに、自分の生き方を見直すようにと呼びかけているのです。

ウェストミンスター小教理問答73 第八戒は、どれですか。

答 第八戒は、「盗んではならない」です。

問74 第八戒では、何が求められていますか。

答 第八戒は、私たち自身と他の人々の、富と財を合法的に獲得し、増進させることを求めています。

問75 第八戒では、何が禁じられていますか。

答 第八戒は、私たち自身や隣人の、富や財を不当に損なったり、そうする恐れのある一切のことを禁じています。

 持ち物があることが悪いのではありません。お金持ちであることがいけないのでもありません。私たちは沢山のものをもらっています。プレゼントされています。あるいは、働いて、お金を稼いだり、働いた見返りに何かを手に入れたりして、物を持つようになります。「あなたに」ともらったか、ちゃんと働いて手に入れたなら、それはその人のものです。それ以外の方法で手に入れること、それは盗みになるのです。「不当に」人のものを損なうこと。それはしてはいけないよ、というのが「盗んではならない」です。いわば、狡(ずる)をすることが禁じられているのです。フェアでありなさいといことです。

 勿論、フェアプレイといっても、駆け引きや相手の裏をかくことはしますね。盗塁は「塁を盗む」と書きますが、反則ではないし、ストライクと見せてボールを投げてもフェアプレイです。しかし、反則はしてはいけません。そして、ベンチで意地悪をしたり、出し抜きたい人のお弁当に毒を入れたりしたら、どうでしょうか。「汚い手を使いやがって!」と言われるでしょう。そうやって、こっそりでも狡い手を使うことは盗みになります。では、私たちは、毎日の生活でそういう「盗み」をしていないでしょうか。

 例えば、人のものを盗むのはもちろんダメですが、お父さんやお母さんや兄弟のものを勝手に使うのも、ダメでしょう。テストのカンニングは勿論、やらなかったことをやったふりをするのはどうでしょうか。もちろん、万引きは盗みですが、お店でサービスのものを必要以上にもらうのもオカシイですね。詐欺は盗みですが、騙されてお金を払う方に、ひょっとして「こっそりお金さえ払えば、問題が解決できるだろう」という計算があるとしたら、それはそれで「盗み」かもしれません。「正直な人は騙せない」とも言われるのです。仕事をしていても、サボっていたのに時給をもらうとか、仕事をするのもギャンブルや違法すれすれの方法で大金を稼ぐことも、神は喜ばれません。貧乏人がお腹が空いてパンを盗むと捕まりますが、そういう貧乏人や社会の貧富の差を生み出して、贅沢に暮らしている金持ちは、神の怒りと無縁なのでしょうか。そうやって、貧しい人から吸い上げて、懐を肥やしたこと自体に、もっと大がかりな盗みや搾取があったのではないでしょうか。もしそうだとしたら、それは正されなければなりません。お金持ちが陥りやすい、ケチも浪費も、どちらもそれは罪なのです。

 もうひとつ、聖書がハッキリと「盗み」だと言っていることがあります。■

マラキ書三8人は神のものを盗むことができようか。

ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。

『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』

それは、十分の一と奉納物によってである。

 つまり、ささげ物をしていないことはわたしのものを盗んでいるのだ、と神は言われるのですね。でも、注意してください。十分の一とか奉納物が神のものだ、とは言われていません。私たちの持っている物の十分の一とそれに加えたものは、神のものだ、ということではありません。それに、この後、マラキ書ではこう言われているのです。

マラキ三10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。

こうしてわたしをためしてみよ。― 万軍の主は仰せられる―

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を

あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 「わたしはあなたがたのために、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福を注ぎたいのだ」と仰っています。そこに背を向けて、私たちが自分の財産を、自分の物だと考えて、ケチケチしているのはもったいないですね。コソコソと狡をして、人に恨まれたり、良心の呵責を覚えたりするような道では人は豊かにはなれません。盗むことで人の心は貧しくなり、せっかくの人生が味気なくなります。神の祝福の素晴らしい関係からどんどん遠ざかるだけです。神は、この祝福の関係に私たちを立ち帰らせようとなさり、なんと神の御子イエス・キリストをこの世にお与えくださいました。それは、私たちが盗んだりケチをしたりすることはもう止めて、本当に私たちを惜しみなく愛し満たしてくださる神を信頼して、正しく生かしてくださるためでした。たとえ、みんながしている狡をしないために損をするとしても、神は私を喜び、愛して、豊かに祝福してくださる。盗みや狡を止めた私たちの正しい生き方は、恵みの神を証しするのです。

 ウェストミンスター小教理問答の初めで学んだのは、

問一 人間の第一の目的は何ですか。答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し(神の栄光を現し)、神を永遠に喜ぶことです。

ということでした。私たちは神に栄光を帰し、神を永遠に喜ぶべき存在です。私たちの丸ごとが、溢れる祝福で私たちを愛してくださる神のものです。この神に立ち帰って、盗みは悔い改めて、損も気にせず、正直に、晴れやかに、歩ませていただきましょう。

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