2015/09/27 創世記三二章22~32節「神を見た」[1]
「神を見た」というタイトルで、皆さんは何を思われたでしょうか。「自分も神を見たい。神を見ることが出来たら、信仰がハッキリ持てるのに」と思われた方もいるかもしれません。今日ご一緒に聴きました聖書の言葉では、ヤコブという人物が、一晩中ある人と闘い(英語の聖書ではレスリングをしたと訳しています)、最後に「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言いました。ヤコブはその人が神だと気づいた。だからその所の名を「ペヌエル(神の顔)」と名づけました[2]。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」
という意味です[3]。ヤコブは、神とレスリングをし、神の顔を見て、神の祝福を戴いたのです。しかし、
「ヤコブが神を捕まえてレスリングをし、粘りに粘って、遂に念願の神の顔を見て、祝福をもぎ取った、羨ましい」
と考えるなら、誤解です。そういう読み方をする方もいますが、この話はそうではありません。24節を読むと分かるように、「ある人」が突然現れて、ヤコブをとっ捕まえて、彼を一晩かかって組み伏せたというのです。ヤコブが神を離さなかった、ではなくて、神がヤコブを離さなかった、と言った方が正しいのだろう、と思うのです。むしろ、ヤコブは神からも自分の人生からも、逃げて逃げて逃げ続けて来ていた、卑怯者でした。
これまでヤコブの人生はごまかしだらけでした。自分よりも兄を偏愛している父の前で、兄のフリをして祝福を横取りするなど、卑劣な過ちをいくつも犯してきました。ヤコブという名前自体、「押しのける者」という意味でした[4]。ヤコブは押しのけた兄の怒りを買って、家を出ざるを得ず、遠い所で再出発します。願い通り一目惚れした妻と結婚し、その間に念願の息子も与えられました。沢山の家畜や財産も手に入れました。しかし、その過程で彼は、妻の姉も娶り二人の侍女との間にも子どもを設けた、いびつな大家族を持ってしまいます。そして、親に偏愛されて傷ついたはずのヤコブも、自分の子どもを偏愛して、兄弟関係を歪めてしまうのです。結局、美しい妻も、可愛い子供も、沢山の財産も、彼の問題は解決しませんでした。
この三二章でヤコブは二〇年ぶりに故郷に戻ってきながら、兄の復讐を恐れています。あれこれと策を巡らして、贈り物を用意し、逃亡手段も考え、神頼みもして助けを祈りますが、それでもやはり落ち着きません。今日の箇所、22節から24節では、夜中に落ち着かずに起き上がり、妻や子ども、最愛の家族であった彼らさえ川を渡して、独りになったとあります。ヤコブは、行き詰まったのです。困惑してどうしたらよいか分からず、今まで築き上げてきた財産も大家族も、自分の口のうまさや知恵も頼れない、途方もない孤独の状態があるのです。そんな夜に、神が現れて、ヤコブをとっ捕まえ、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。
もっと前の方で神が約束されたのですが、神はいつもヤコブと共におられたのです。見えない形でも、ヤコブとともにいつもいてくださったはずなのです。でも、ヤコブ自身が、人を妬んだり、無い物ねだりをしたり、幸せにしてくれる何かを神以外に求め続けて、自分自身から目をそらしている限り、神がともにおられ、自分を祝福してくださる事に気づかず、神の祝福を求めることはなかったのです。今、行き詰まったヤコブに、ようやく神は取っ組み合うことになさったのです。この神との格闘は、口八丁手八丁で勝てません。一打ちしただけで、股関節を外してしまうような恐ろしい相手です。そこで、彼はこの方に遂に降参するのです。祝福してください、と縋り付くのです。
「兄のふりをして祝福を求めたけれど散々だった。美しい妻を得るために必死に働き、財産を殖やして幸福になろうとした。けれど、孤独で空っぽな自分だった。そうした虚しい生き方を止めて、今、あなたに縋り付きます。あなたの祝福が得られないなら、死んだって構いません」。
そういう心境に行き着いたのではないでしょうか。
今まで、嘘八百を並べ立てて、財産を増やし、兄を傷つけ、四人もの妻を抱えてみんなを傷つけてきたヤコブなんか、神は見捨てても良かったんではないでしょうか。自業自得だと罰して、置き去りにしても良かったはずでしょう。でも、神は、そのヤコブの魂が開くタイミングをずっと待っておられたかのように、この時ヤコブに取り組んでくださったのです。神はこういうお方です。私たちにもそうです。自分から逃げ続けていても、それでも神は私たちを見捨てたりせず、命を与え、よいものを下さいます。けれども、神が願っておられるのは、この、神に降参して、神を神としてあがめ、求める関係を私たちとも結ぶことです。神と取引しようとか、自分をごまかしたまま幸せだけもぎ取れろうという上っ面の関係ではなくて、私の嘘や弱さや過ちもすべて知った上で、私を一打ちで殺す事も出来るお方が、私を生かし、真剣に向き合ってくださる、その方との関係に降参することを神は待っておられるのです[5]。
この関係に入った時、神はヤコブに新しい名を下さいましたね。「イスラエル」という名です。それは
「神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」
と言われます。でも、25節ではこの方はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブの股のつがいを打ったのですよね。股のつがい、とは上品ですが、股関節であり、急所のことですね。そこを打たれたなら、ヤコブはもう神には勝てなかった筈です。でも、私はこう思えます。神はヤコブに勝たれたのです。そしてヤコブも神に勝ったのです。神が私たちとなさる勝負は、最後には神は必ず勝たれますし、私たちも勝つのです。
「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」
ですが、愛の関係とはWin-Winです。どっちかが敗者になったらダメなのです。ヤコブが神に勝とう、自分の弱さを認めまいとする限り、彼は負け惜しみを言うしかありません。しかし、自分の限界とこれまでの間違いを認めて神に降参したとき、それは神がヤコブを勝ち取ってくださったことであり、ヤコブも勝利を告げられたのです。そして、この後も、ヤコブは自分の人生に取り組み始めます。まだまだ失敗をしますが、それでも彼は感謝を持って生涯を閉じるのです[6]。
この後も、聖書には、人間が神の顔から逃げ続け、神は人間の所に来て、様々な方法で、人間を捕らえてくださるお方である話が出てきます。人間にも痛い思いをさせられますが、神ご自身も身を低くし、忍耐し、痛みをさえ厭わずに、人間のそばにおられるのです。遂には、神の御子イエス・キリストが人となり、体を引き摺って、十字架への道を辿られました。キリストは、ご自身が痛みや孤独を知っておられます。
神は私たちが痛みを通してだけでなく、ご自身の最大限の犠牲をも払って、私たちとの関係を回復させて下さるお方です。神はヤコブとは違う形でしたが、私にも出会ってくださいました。そしてそれは、やはり痛みや願いたくない経験でしたが、かけがえのない人生にしていただいたなぁと思います。
ヤコブと同じく、神は私をも見捨てません。私の人生にも介入して、ともにいて下さいます。プライドやごまかしを捨てて神を求めて、神の祝福に与って、私の人間関係も人生そのものも真実にしようと、神は導いてくださいました。キリスト教は、死後の事や道徳以上のものです。イエス・キリストに捕らえて戴くとき、私たちの家庭、仕事、人生が、深い所から変えられていきます。イエスに向き直り、降参して、祝福を願う時、私たちも「神の顔を見る」者とされた生涯を歩むのです。
「主が、ここにいるお一人お一人の歩みを捉えて、魂の底を揺さぶられるような出会いへと導こうとされていることを信じます。格別、心満たされないまま生きている思いをしている方、あなたを見たいと願い始めている方、痛みの中で足を引きずるような思いで今日ここにいる方が、どうかあなたの顔を拝して、今生かされていると告白する日を一日も早くお恵みください」
[1] 大阪キリスト教会の週報に載せた「説教要旨」は次の通りです。「 「神がいるなら見てみたい」と言うなら、ヤコブは「顔を合わせて神を見た」体験をした人です。しかし、ヤコブが神を見た、というよりも、神がヤコブをとっ捕まえてくださった、といった方が正しいでしょう。これまでの彼の人生は、ごまかしだらけでした。祝福を求めてはいたものの、嘘、逃避、計算高い人生でした。一目惚れの妻とその息子、そして大勢の財産を手には入れましたが、彼の人生は問題だらけで、心には怯えがありました。今、二〇年ぶりに故郷に帰ろうとしていますが、父をだまし、兄の祝福を奪い取って激怒させた彼は、おびえて落ち着かず、どんなに策を巡らしても落ち着くことが出来ません。そんな夜に、神がヤコブを捕らえて、一晩中、取っ組み合ってくださったのです。彼が自分を否定し、真実から逃げて生きようとしている限り、神に会うことはあり得ませんでした。神は、ヤコブが自分の間違いを認め、行き詰まって限界を悟り、神に祝福を求めてすがりつくように、働いておられたのです。
神に向き合い降参したとき、ヤコブは新しい名をもらいました。そこには「神と戦い、人と戦って、勝った」という意味がありました。「よい夫婦喧嘩の秘訣は、相手を負かさず、双方が勝つことを目指す」と言いますが、愛の関係とはそういうものです。プライドを捨て、神に降参するとき、私たちは本当の祝福によって、家族・人間関係も変えられるとヤコブ物語は約束しています。」
[2] 「ペヌエル」とは「ペニ」が顔、「エル」は神の意で、神の顔を指しています。
[3] これは、「神の顔を見たけれど、死なないで生きている」というよりも、「神の顔を見た。そして、今、私は神の顔を見たものとして、新しく生きている」という意味でしょう。
[4] そんな名を付ける親も酷いとは思います。父は兄を溺愛して弟のヤコブを軽んじていましたし、母がヤコブを愛したのも夫婦仲の問題を息子たちの奪い合いに投影していたわけです。そんな中で息子ヤコブの心が生涯歪んだのも無理はないとも思います。しかし、いずれにせよ、ヤコブはそこで身に着けてきたものを脱ぎ捨てて、神との絆に生きるようになるため、人生の最後まで神によって訓練されます。ヤコブの晩年は、そのことへの感謝と信頼の告白です。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日までずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。…」(創世記四八15-16)
[5]出エジプト一5欄外注「腰から出た者」という説明を踏まえると「イスラエルの民は、この主が打たれたことを原点とする民である」とも言うことが出来ます。主が打たれなければ、強情で狡猾で、ずるがしこく逃げ続けて、神からも自分自身からも顔を隠し続けたでしょう。しかし、主が打って下さることで、ようやく私たちは謙り、神に立ち帰り、自分が神ではないことに気づくことが出来る。そのようなことを、聖書の繰り返すメッセージとして、私たちは聞き取ることが出来ます。
[6] 創世記の終章へ向けて、ヤコブが神に取り扱われ、彼の言葉が鍛えられていく様子は、顕著に見ることが出来ます。