聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問27「偶然ではない」使徒17章24-28節

2016-07-31 14:37:16 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/31 ハイデルベルグ信仰問答27「偶然ではない」使徒17章24-28節

 ご飯の片付けをしてお皿を洗っていて、うっかり落として割れてしまったら、皆さんは何と言いますか。日本人はすぐに謝るのが礼儀だと考えますけれども、国によってはすぐに謝るのは良くないという文化もあり、あれこれと言い訳をする人もいるようです。日本人はまず思いつかない発想ですけれども「この皿は割れる運命にあったのだ。私に責任はない」と堂々という人もいるそうです。そういう考え方は、神様を信じる私たちにとって、正しい理解なのでしょうか? キリスト者として、すべてを神が支配しておられると信じています。でも、お皿が割れたり、何かが起きたりした時に、全部を「神がこうするように定めておられたのだ」と考えても良いのでしょうか? そうではありませんね。私たちは、運命とか神の定めに縛られているとは信じません。そこにもまた、キリスト者の信仰の特徴があるのだなぁと思うのです。

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

答 全能かつ現実の、神の御力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康や病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

 前回は、神の創造についてお話ししました。創造と組み合わせて大事なのが、この「摂理」です。神は世界を創造されただけでなく、今もその世界のすべてを

「保ちまた支配しておられる」

のです。本当に全て、何一つ漏らすことなく、世界の一切が、神の御手によって保たれ、支配されている。そう信じます。ですから、木の葉の一枚一枚、草の一本一本から、雨が降るのも日照りになるのも、豊作の年も不作の年も、すべてのことが神のご計画の中にあるのです。けれども、大事なのは、それをなさったのが、愛の神である、ということです。神の

「父親らしい御手によって私たちにもたらされる」

ということです。この事を見失うと何か全てが神の決められた通りで、予め決められたレールの上を走っているだけのようになります。神が決められた脚本の通りに演じているかのようです。それならば、何をしていても白々しい気になります。

「どうせ神が決めたようにしかならないんだから」

と、いつも諦めていることになります。

 そういう諦めやひねくれた思いでみんなが生きることなど神は願っておられません。神は私たちの父です。私たちが

「神の子ども」

として、神に似た者、愛によって生き、心を尽くし、思いを尽くし、全力で、頭をフル回転させて、一生懸命生きる者となる事を願っておられます。なぜなら、神は私たちを愛しておられるからです。私たちに心や体力や脳味噌を下さった神は、それを精一杯生かすよう求めておられます。そのための創造であり摂理なのです。

「神様がしてくださるんだから」

と勉強もしないなら、せっかくの脳味噌を無駄にすることです。

「神が決めたようにしかならないさ」

と、運動もせず、不健康に生きて、病気になることなど、神の御心では決してありません。神の摂理とは、私たちが神を信頼して、神の愛の中で成長し、生き生きと動き、失敗や挫折や問題にもめげず、なにくそと歯を食いしばって立ち向かっていくようにさせることです。

 でも、私たちの回りには、どうしようもないこともたくさんあります。天気が日照りになり、作物が不作になることもあれば、病気になることもありますし、貧乏になることだって避けられない場合があります。そういう時に、

「こうなったのにも、天の父なる神の摂理があるのだ」

と思える事は、慰めだと思うのですね。勿論、苦しい時、どうしてこんなことを神が許されたのか、と分からずに悩むことはあります。でも、逆に「神は私たちの苦しみとは何の関係もないのだ。災いを止めることは出来ないし、神の与り知らない所で、私たちは苦しみに会うのだ」と思う方が、絶望するしかなくなりますね。摂理なんかなくて、神は放っておかれて、私たちの苦しみは偶然起きたのだ、というのなら、なんと寒々しい人生でしょうか。そうではない。偶然ではない。天のお父様は、摂理の神です。そう信じられる事が私たちを絶望から救ってくれます。

 或いは、摂理とは神の父親らしい御手によることです。災いが起きた時にすぐ、

「これは神のなさったことだ」

と言う時に、

「神の罰や呪いだ」

という意味でいう、とても怖い人たちがいます。

「自分たちの罪のせいだ。」

「誰かが問題を神が怒っておられるのだ」

と犯人捜しをする人がいます。でもそれも「摂理」とは違う、歪んだ信仰です。私たちの問題に応じて、罰や災いが下るような、そんないい加減なことを神はなさいません。もっと大きく、もっと深く、そして限りなく恵みに満ちた私たちに対するご計画から、神は世界を保ち、治めておられるのです。

 勿論、私が歩きスマホをしていて交通事故に遭ったり、人を怪我させたりしたら、それを神の摂理で片付けてはなりませんね。自分が悪いのです。そして、神の摂理を信じるなら、そこで自分がちゃんと自分の非を認めて、謝り、責任を果たすべきです。いい加減だった思い上がりを認めて、謙虚になり、自分の生き方を変えるべきです。そして、そのように悔い改めて、神に従って行こうとする生き方を、天の父は必ず支えてくださいます。罪人が悔い改め、もう一度やり直そうとする歩みを、必ず祝福し、助けて下さいます。それこそが、神の摂理なのです。それは、私たちの責任を投げ出す口実ではなく、私たちの最善を励ましてくれ、なおかつそれを自慢したり思い上がったりしないように守ってくれる、確かな信仰なのです。

 何より、神は創造や摂理を、全能の力で苦もなく成し遂げられたのではありません。イエス・キリストを思い出してください。神の御子が私たちに御自身を与え、十字架にかかり、あの苦しみを通ってくださったのです。神のご計画とは、私たちの理解を超えた、神ご自身の努力と犠牲と悩み、苦しみの上に与えられているものです。私たちがその摂理に与ることは、決して怠惰や無責任とは相容れません。そうした所から引きずり出して、私たちを生き生きと生きる神の子どもたちをするための「摂理」なのです。

ローマ八28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々[つまり、神の子どもとして成長していくご計画に入れて戴いた私たち]のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

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使徒の働き(二八章23-31節)「扉は開かれている」

2016-07-31 14:28:19 | 使徒の働き

2016/07/31 使徒の働き(二八章23-31節)「扉は開かれている」

1.「使徒の働き」 教会という珍道中

 今日は、新約聖書の五番目の書、「使徒の働き」(使徒言行録)のことをご紹介しましょう。これを書いたのは、三つ目の福音書「ルカの福音書」と同じルカです。ルカは福音書で、イエスのご生涯をクリスマスから十字架と復活、そして昇天まで書きました。その続きが「使徒の働き」です。イエスのご生涯の続きとなる、教会の最初期の三〇年ほどを、第二巻として書きまとめたのが「使徒の働き」です。福音書と「使徒の働き」は「歴史書」だとも言えます。

 勿論「歴史書」といっても、ただ歴史を年代順に追うわけではありません。ルカは、イエスのご生涯と教会の歩みとを続けて書きながら、読者である教会にメッセージを語っています。皆さんも、ともかく「使徒の働き」を最初から最後まで読んで戴きたい。その物語を楽しみ、味わって、読んでくださるのが一番です。どんな感想を皆さんもたれるでしょうか。

 私は「使徒の働き」を読む度に、教会の歩みは一筋縄ではないなぁ、珍道中だなぁと感じます。結果的に教会は拡大し、成長していきます。エルサレムから始まって、サマリヤやアンテオケへ広がり、パウロは小アジアとギリシャに伝道旅行をし、最後はローマです。驚くべき拡大です。しかし、決してそれは順調な旅路ではありませんでした[1]。迫害があります。使徒ヤコブは殺され、ペテロもパウロも殺されかけます。船旅をすると嵐で船は木っ端微塵になりました。その旅は、迫害や躊躇いで行きつ戻りつし、最後は強制的に辿り着いたものでした。

 教会の中も、盤石ではありませんでした。麗(うるわ)しい交わりが生まれたかと思えば、見栄を張って嘘の献金の申告をする夫婦が現れ、貧しい人への配給の問題で文句が出て来ます。ユダヤ人ばかりだった教会は、異邦人への宣教など考えつきもしません。そういう所に、エチオピア人やローマ軍の百人隊長が信仰を持って、教会はついて行くのがやっとです。そして意外も意外なことに、教会を迫害しているサウロにキリストが現れます。キリスト者を苦しめ、殺しさえした責任者が、イエスに出会って洗礼を受けます。そればかりか、彼は伝道者となり、使徒の働き後半の中心的存在となるのです。そして、彼の旅も常に予測のつかない展開でした。勝利主義なんかではなく、福音の広がりに躊躇い、異邦人との出会いに戸惑い、余計なことをいって分裂仕掛ける。教会の歩みは珍道中です。ドタバタと人間的な面を見せながら、しかし、不思議な事に主に導かれ、宣教に携わり、エルサレムからローマにまで来てしまった物語です。

2.中途半端な終わり方

 今日読んで戴いたのは「使徒の働き」の最後の部分です。どうでしょうか。ローマまで囚人として連れて来られたパウロが、イエスの教えられた「神の国」の福音をユダヤ人に語ったけれど、信じる人と信じない人で意見が分かれて、パウロはイザヤの聖書を引きながら、

28ですから、承知しておいてください。神の救いは、異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう。」

30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、

31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

 これで終わりです。

「少しも妨げられることなく」

と言っていますが、一応囚人だったのですね。ある程度の自由はあったとはいえ、思うままにならないことも多かった筈です。そして、パウロはこの後どうなったんでしょう。どれほどの人が信じたんでしょう。そういう疑問は宙ぶらりんです。話のまとめを失敗したようで、呆気なさ過ぎる幕切れにも思えます。ですから、「ルカは何かの事情でこの不本意な結びにせざるを得なかった」と説明する人もいるのです。

 けれどもルカはあえてこう結んだのだと思います。パウロの生涯とかオチを付ける話を書きたかったのではないのです。教会の歩みはまだ終わりにはなっていません。今も続いている。皆さんも自分の証しを話す時、オチを付ける必要はないのですね。「神様がこうして下さって感謝です。」と結べる時もありますが、多くの場合はまだ生活は進行中で、まだ悩みは残っていたり、気持ちが整理しきれなかったり、この先違う展開があるかもしれません。人生はまだ途中です。「使徒の働き」はハッピーエンドで閉じるより、まだ教会が続いていることを感じさせる、開かれた、オープンな文章でルカの筆は置かれました。それが教会だからです。

使徒の働き一1テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、…

 イエスが行い始め、教え始められたことは、十字架や昇天で終わったのではなく、今も教会を通して行い続け、教え続けておられる。イエスは生きておられ、教会が迫害されたり衝突や間違いをしたりしても、それでもそこに働いておられる。使徒の働きを読んでいくと、主がこうなさった、という記述が多くあります[2]。だから最後も、教会を通して主はなお働いておられる、と結ぶのです。だから、私たちも「来る人たちをみな迎え入れて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」続けていくのです。

3.働き続けておられるキリスト[3]

 使徒の働きが語る教会の歴史は、真っ直ぐではありません。エルサレムからローマまで宣教が前進した、と単純に片付けることは出来ません。人種や国境を越えて広がる事自体、ペテロも最初の信徒たちも抵抗したのです。教会がビジョンを大きく掲げて、その願い通り成長したというよりも、教会自体が神の御支配の大きさに驚き、自分たちの無知や罪に戸惑いながら、新しい出会いや新しい展開に絶えず驚きながら歩んで行ったのでした。福音を宣教する教会そのものが福音に驚かされ、福音によって変えられながら、世界を広げられていったのです[4]。誰も異邦人と家族になるなんて考えていませんでした。誰も、サウロが回心し、喜んでイエスを証しするなんて、想像も期待もしていませんでした。エルサレムからローマへ旅をしながら、教会そのものが変えられ、成長していくのです。それが主の教会の歩みなのです。

 「初代教会は純粋で理想的な教会だった。神の臨在と力に溢れていた」

と考える人もいます。

 「使徒の時代の教会に戻ろう」

というスローガンもよく聞きます。よく「使徒の働き」を読めば、最初から穴だらけだった教会が見えます。もし私たちが一世紀の教会に行けば、天国かとウットリするより、日本人でもキリスト者なんだと分かってもらうのに苦労するでしょう。民族の壁を越えて心から受け入れてもらうのにどれほど骨を折るかしれません。今も、昔も、教会は人間の集まりである以上、限界があり、旅人です。道を間違え、新しい環境に適応するのに苦労します。珍道中と呼ぶにはあまりにも辛い出来事だって起きます。それでも、主が私たちとともにいて旅を導かれ、常に扉を開いてくださること。そして、この道の終わりには、主が正しい裁きをなさり、王となられる栄光の御国があることを信じ、証ししていくのです。

 使徒の働きは私たちのための、慰めと気づきに溢れた物語です。キリストは教会をこの世におかれて、その不完全な私たちが変えられていく歩みを通して、福音を証しなさるのです。今も、皆さんの体験する一つ一つが、与えられた新しい出会いや、目から鱗が落ちる体験、或いは思ってもいないチャレンジであって、無駄ではないのです。一筋縄ではいかない人生に、神は思いも掛けない扉を開いて、私たちを導いてくださり、私たちを通してこの世界に挑戦しておられるのだと信じるのです。「使徒の働き」を読み、これを「私たちの物語」としましょう。

「教会のかしらなる主よ。「使徒の働き」を通して、今も続いている教会の歩みに、光と慰めを与えてくださり、感謝をします。あなたが始めて下さった御業に与らせてください。あなたは私たちの思いもかけない所に、扉を開いておられ、私たちを新しくし、更に深く、広くされます。恥をさらしながらともに歩む私たちの旅路ですが、どんな人生であろうとも、旅のゴールであるあなたの御国と、ともに歩んでくださるあなた様とを証しするものとしてください」



[1] ウィリモンは、ルカの神学を「楽観主義」「勝利主義的教会論」と評する人を紹介していますが、それは間違っていることも言明しています。今回は、ウィリモン『使徒言行録 現代聖書注解』を大いに参考にしました。

[2] Acts 29(使徒二九章)という宣教運動があります。「使徒の働き」は二八章で終わっていますが、私たちはその続きの「二九章」を書く歩みをしているのだ、というユニークなネーミングです。

[3] 「使徒の働き」(口語訳では「使徒行伝」)は、「使徒」たちよりも「聖霊」が働いておられる「聖霊行伝」である、と言われることもあります。しかしよく読めば、聖霊の記述よりも、主の記述が多いのです。イエスが始められたこと(一1)が、今も続いているし、パウロのローマ滞在でも、その死でも終わらず、今に至るまでイエスは教会を御自身の証しとされるという理解です。それは、聖霊の働きを通してではあるのですが、聖霊が独自に働いておられたかのような誤解をしてはなりません。そういう意味でも「聖霊行伝」というようなネーミングは慎んだ方が賢明です。

[4] そして、その教会の存在そのものが、当時の社会には脅威となりました。和解や希望、赦しと全世界的な福音は、民族主義・為政者たちにはそれだけで脅威となったのです。キリスト教は、その本質からして「対抗文化的」な存在でした。それ自体が政治運動ではないのですが、社会に挑戦するものでもあったのです。ユダヤ人との軋轢(十三45など)、異教徒(十九26)、権力者(十七7)。エルサレムでもエペソでも大騒動。「世界中を騒がせる」(十七6)と言われる存在でした。現代も、キリスト教は日本にあって、それ自体の「閉じた社会」であることを止め、日本の文化・伝統を一新するほどの、自由で大胆な存在であることを求められています。

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問26「神が父となるために」ローマ8書15-17節

2016-07-24 18:00:24 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/24 ハイデルベルグ信仰問答26「神が父となるために」ローマ8書15-17節

 

 アメリカにナイアガラの滝という大きな滝がありますね。

 小鳴門大橋よりも長い、670mもの幅がある世界最大の滝の一つです。ここに明治時代、木村清松という日本人の牧師が訪れたそうです。

彼を見たアメリカ人が言いました。「おい日本人、お前の国にはこんなデッカイ滝はないだろう?」すると木村清松はこう答えたそうです。「なにを言うか。これは私のお父さんのものだ」。話しかけた人はびっくり。「お前はインディアンの子孫なのか?」木村牧師は答えました。「私の父は天地を創造された全能なる神である。私はクリスチャンとなってからその子供とさせていただいた。ゆえにこの滝も、わが父、天のお父様のものである!」この言葉に感心したこの男は言いました。「ぜひ来週の日曜日、私たちの教会に来て話しをしてくれ」。こうして、木村牧師を迎える教会は、こんな見出しの看板を掲げました。

「ナイアガラの滝の所有者の息子、わが教会にきたる!」

 木村はアメリカの各地で、こう呼ばれてお話しをしたそうです。

 さて、木村さんは「私の父は天地を創造された全能なる神である」と言いました。どこかで聞いた言葉ですね。そうです、使徒信条の最初の、

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

です。夕拝ではハイデルベルグ信仰問答をお話ししています。ハイデルベルグ信仰問答は、問23から「使徒信条」を信仰の要約として取り上げています。今日は、その最初の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。

問26 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を信じているのですか。

答 天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。

 木村牧師だけではなく、私たちキリスト者はみな、

「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

と告白します。言い換えると、私の父は天地を創造された全能なる神ですと、ナイアガラの滝も太陽も銀河系も、全ての持ち主は、私の父です、と言うことです。なんと大胆で、すばらしい告白でしょうか。

 使徒信条を告白する時、神が天地の造り主で、全能であると考えて、御子イエスの父なる神というぐらいに、さっと読み流していることも多いのではないでしょうか。勿論、それも一つ一つ、大切です。神は、天地の造り主です。世界を作られたのは神です。神は全能です。世界を作り、治めておられる程に全能です。でも、聖書に書かれているように、世界が六日間で作られたと決めつけることはありません。科学者でもクリスチャンの方は沢山います。聖書は聖書として信じつつ、科学でハッキリ分かることは、それもまた受け入れていったらいいのです。神が世界を作られたのであって、神なくして世界が存在したとか、世界の中に神と呼ばれるものは色々あるとは私たちは信じません。天地の造り主、全能の神はただお一人です。殺されても、他の神々に頭を下げたり、礼拝や祈りを捧げたりはしない。これはキリスト者の大事な基本です。

 しかし、それだけではないのです。その大いなる神が、私たちの父となってくださった、というのがキリスト教会の告白なのです。イエス・キリストが下さったのは、この確かな絆です。神に背き、神など知らずに生きてきた者が、神の御子キリストが私たちの身代わりに死んでくださったことによって、神の子どもという関係を頂いた。そう信じるのです。天地の造り主が全能である、というだけでなく、その方が私の神、私の父である。ナイアガラの滝の所有者の息子、というだけでも大胆不敵ですけれど、天地の造り主、全能の父なる神、とは、なんと限りなく偉大で、限りない近さでしょう!

 …わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。

 そうです。この告白は、私たちの毎日の体と魂の必要なものが備えられている、という安心、感謝になります。心配や文句ばっかりいう生き方はもうしないのです。そして、たとえ悲しみの谷間とか、災いが下されるとかいうような事が起きても、神は私たちのためにそれを益としてくださる、というのですね。

 人は、実際頭の中にどんな神を思い描きがちでしょうか。白い髭のお爺さんとか、何でも出来るけど、耳が遠くて、なかなか人間のことは構っていない神ではないでしょうか? 色々なことは出来る力はあるけれど、世界を作ったわけでも、その一つ一つを支えているわけでもない神ではないでしょうか? お父さんになってほしくもないし、悲しみや災いがあった時には、神がいるなんて信じられなくなるような、そんな程度の神ではありませんか。私たちはこんな神は信じません。

 天地をよく知らず、ぞんざいに扱う神は信じません。年を取って、杖を突き、人間に呆れたり、諦めたりしている神は信じません。なんでも出来るけれども、私たちを遠くから見ているだけのような神は信じません。私たちは、天地の造り主、全能にして、私たちの父なる神を信じるのです。イエス・キリストが来られたのは、私たちを神の子どもとするためでした。神は天地を造られただけでなく、この広大な世界で取るに足りないような小さな人間の父となろうとされるお方です。そのために、神がひとり子イエスをこの世にお遣わしになり、犠牲を払うことをも厭われませんでした。

 ですから、

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

る私たちは、この世界が神の作品であり、ナイアガラの滝も悲しみも災いも、神の御手の中で受け止めるのです。そして、この神だけを拝み、礼拝を献げるのです。

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申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

2016-07-24 17:49:11 | 申命記

2016/07/24 申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

1.大きな変化の中で

 申命記は、荒野での四〇年の放浪から、カナンの地に入って行こうとしている時に語られたモーセの遺言説教です。遊牧の生活から定住の農耕生活になる、大変化です。加えて、モーセからヨシュアに指導者が替わります。そういう変化の中で、人間は誘惑に弱くなります。道を見失い、神から離れがちです。この三一章は、そうした変化を感じさせますが、それだけに私たちにもとても身近な章です。私たちも変化の中で不安になります。時代の流れや生活が変わる中で、孤独や焦りを覚えることがあります。逆に、「昔は良かった」と過去を美化して懐かしむ事に逃げ込むかもしれません。モーセの言葉はそういう後ろ向きな所がありません。

 6強くあれ。雄々しくあれ。…恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれる…。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 特に、ここでは、若い指導者ヨシュアに向けて励ます目的で語られています。新体制を意識した言葉です。そこでも、主がともにいてくださるのだから、強く、雄々しく、恐れず、自分の責任を果たしなさい、と言われますね。また、9節以下では、レビ人や長老たちに、これからも七年ごとに、この申命記の言葉を繰り返して朗読し続けるよう命じられます。それは、その規則を形式的に守り行わせるためではありません。12節13節で繰り返されるように、

「あなたがたの神、主を恐れ」

て生きるためです。その根拠は、主がともにおられることなのです。

2.三一章のテーマは「主がともにおられる」(3、6、8、17、23節)

 環境は変わり、生活も一変しても主はともにおられます。新しい指導者ヨシュアが、モーセのようなカリスマ性や経験や資質がなくても、モーセを懐かしんだり比較したりせず、主を恐れて新しい体制を受け止めるのです[1]。なぜなら、主以外のものは、生活も人間も環境も時代もすべては変わっていくからです。でも、そこでも主がともにいてくださるのです。この三一章の9節には

「契約の箱」

が出て来ます。神の臨在のしるしであり、律法の板が納められたあの聖なる箱ですね。14節には

「会見の天幕」

が出て来ます。これも、神がモーセと語られた、特別な幕屋のことです。でも、

「契約の箱」

「会見の天幕」

も、申命記ではここだけしか出て来ないのですね。14節で主がモーセに語り掛けられますが、主が直接語られるのも、申命記では初めてです。今まではずっと、モーセが説教をしてきたのです。モーセの引用ではなくて、主が直接語られるのは、申命記では初めてのことです。そして、15節で主は雲の柱のうちにモーセとヨシュアに語り掛けられます。つまり、この三一章は、契約の箱、会見の天幕、雲の柱のうちから主ご自身が語られる、主の臨在が強調されるのです。

 でも、一方で、その主が16節以下で語られるのはどんなことでしょうか。主の民がカナンの地に入ったら、ほどなく偶像の神々に浮気をして、主との契約を破るつもりでいる、と見抜いておられる予告なのですね。それじゃダメだ、なんとしてでも御言葉を守れ、といきり立つのではなく、もう今彼らの中に、主に逆らう悪意が芽を出している、というシビアな言葉なのです。モーセもこの言葉を受けて、最後の26節以下でイスラエル人に直接、言っていますね。

29私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行い、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。

 けれども、その時のために、と主が語っておられたり、三二章の「歌」を授けたりするのは、何のためでしょうか。予防線を張るためでも、後悔させるためでもないのです。

17その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』というであろう。

 いいや、そうではない、神がおられないからではない、神はおられる、そして、人間が神に逆らい、祝福を慢心に変えて、神に背を向けることも知っておられて、罰を下された。そして、その罰の末に、彼らが自分たちの間違いに気づいて、神に立ち戻るため、歌を授ける、というのです。神がおられない、ではなく、神こそ私たちとともにおられ、この神以外に自分たちとともにいます神はいない、と思い出す。私たちが恐れたり疑ったりして、主から離れて、勝手な道を歩んで、その報いを我が身に招いたとしても、そこでも主は私たちとともにおられ、私たちを待っておられる。そのことを思い出すために、三二章の歌が伝えられるのです[2]

3.歌なら忘れられない(19-21節)

 三二章の歌、どうぞ皆さん次までに読んでみてください。三千五百年も前の歌と、現代の演歌やJポップとは簡単に比較は出来ませんが、たぶん私たちがそれぞれに忘れがたい思い出の歌を持っているように、この歌も記憶に刻まれるには最適な方法だったのでしょう。そして、そのようにしてまでも主が思い出させたかったのは、主が私たちの中におられる、という現実でした。御言葉を守らなかったために罰が下った、という非難や自嘲ではないのです。もう主は私たちとともにおられない、と突き放すためではないのです。主がおられるとは到底思えないどん底でも、主はともにおられると思い出させたい。そのために、歌なら忘れられないからと、この歌まで用意してくださったのです。そうして、主がともにおられることを思い出して、心から主に立ち返って、心から主の言葉に従わせたい。どんな時も、主は私たちを見捨てず見放さないと悟ってほしい。強く雄々しくあってほしい。恐れずおののかず、先立ってゆかれる主に従って欲しい。それは、私たちの日常においても変わらない、主の願いなのです。

 先週から、青年会と中高科で「あしあと」という歌を歌っています[3]。マーガレット・パワーズというアメリカの長老教会の方が書かれた、有名な詩です。

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 イエス・キリストの生涯は「神は我らと共にいます」のメッセージでした。私たちの所に来て、ともにおられる愛を生涯掛けて、いのちも捨てて、示してくださいました。私たちが一番辛い時、孤独な時。その時こそ、主が私たちを背負ってくださいます。だから、私たちは、恐れないでよいのです。人や環境が変わろうと、死が近づこうと、主は私たちとともにおられます。違いに直面しても、今までのやり方や伝統や常識を握りしめ、押しつけ、拘るのでなく、柔軟に変わることが出来ます。主は私たちに変化や違いを楽しみ、喜ばせてくださるのです。

「主は私たちとともにおられ、道を示し、勇気を、歌を授けてくださいます。どんな環境の変化も、願いに反する現実にも、あなたはともにおられます。自分自身の失敗や、体が衰え死を迎える時、そこにもあなたはおられ、私たちを導かれるのです。朽ちる物の中で生きる私共を、どうぞ、変わらないあなたの御臨在を、共にいます愛を証しする存在とならせてください」

 

今日は、夏期学校でした。14名の子どもたちといっしょに、「空の鳥を見よ」のメッセージ、モビール工作、そして「鳴門教会スペシャルホットサンド」を食べました!

[1] モーセに代わる指導者ですが、しかし、モーセと同じだけのリーダーシップはヨシュアにはありません。モーセと同じような預言者が将来現れることは、一八章18節以下で約束されていましたが、それは少なくともヨシュアではないのです。

[2] ヨシュアに対して語られるのも「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」(23節)、これを聞かせることが、主がヨシュアを呼んだ理由でした。この先に多くの心配もあり、民が背信していくこともハッキリ分かっているのに、これだけが、主のヨシュアに対する言葉でした。ヨシュアは、民の背信を止めることは出来ません。そのように努力する必要もありませんし、その努力を後押しするために、「強く、雄々しくある」のでもありません。ヨシュアもまた、困難な中で、主がともにおられるゆえに、どんな状況でも、強く、雄々しくあることだけを求められたのです。これは、ヨシュア記のテーマにそのまま通じていきます。

 

 

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問24「すべては神の愛に」ガラテヤ五章3-6節

2016-07-17 20:29:41 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/17 ハイデルベルグ信仰問答24「すべては神の愛に」ガラテヤ五章3-6節

 「チームワーク」という言葉を知っていますか。一人ずつ別々やバラバラに行動するのではなくて、何人もが集まってチームを作り、役割を分担しながら、協力してスポーツや活動をすることですね。例えば、家族で、お父さんとお母さんが、手伝って家のことをするのも「チームプレイ」ですね。野球でボールを外野が拾ってセカンドが中継をしてキャッチャーに送るのも、チームプレイです。そして身近な所では、私たちの体にしても、頭が考えた事が手や足に伝えられて、体が全部違うように動きながら、歩いたり走ったり、色々な活動をしているのも、見事なチームワークですね。他にも、ダンスや研究、ありとあらゆる場所で、よく準備されたチームワークを見ると、ワクワクしてきます。チームワークは美しいです。なぜなら、それは世界の秘密を現しているからだ、と思うのです。今日から「使徒信条」を学んで行きます。

問24 これらの箇条はどのように分けられますか。

答 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。

問25 ただ一人の神がおられるだけなのに、なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。

答 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。

 使徒信条にも、チームワークがあります。それは、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神との共同作業です。神が三人おられる、というのではありません。聖書は神はただ一人だと繰り返して言っています。神が三人おられるのではなく、ただおひとりの神だけがおられるのです。でも、同時に聖書には、イエスも神として礼拝され、聖霊も主と呼ばれています。イエスも、聖霊も、別々のお方であり、それぞれに永遠であられます。そして

「父と子と聖霊の御名」(マタイ28章19節)

という言い方では、ひとつのお名前を、父と子と聖霊が共有しておられるのです。そういう書き方を考える時に、

 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。

としか言いようがないのですね。神はお一人でありつつ、父も子も聖霊も、唯一のまことの永遠の神。そう聖書に啓示されているから、そうだと信じます。それは、宇宙よりも大きなお方の事ですから、私たちのちっぽけな脳味噌では到底理解できない神秘です。

 しかし、嬉しい事に、三位一体とはどういう事かは大きすぎて分からないのですけれど、その三位一体の神が、それぞれに抜群のチームプレイをなさったことに、私はワクワクします。嬉しくて嬉しくて堪らなくなります。

 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。

 使徒信条は、確かにそうですね。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

と言います。第二に、

「我はそのひとり子我らの主イエス・キリストを信ず」

と言います。その後、イエス・キリストについて述べた後、

「我は聖霊を信ず」

と言います。こうして、父なる神が、天地の造り主であることを知り、御子イエス・キリストが、私たちの救いの御業を成し遂げてくださった事を知り、聖霊なる神が、私たちを聖化してくださることを知る、という三段構えになっていますね。本当は、父なる神も主イエスも聖霊も、創造も救いも聖化も、全部に関わっておられます。父なる神は創造だけ、子なるキリストは救いだけ、聖霊は聖化だけ、ではありません。そういうチームワークではなく、父なる神がすべてを計画され、子なるイエスはそれを実行に移し、聖霊なる神はそれを世界に適用してくださったのです。創造も、救いも、私たちの聖化も、すべて、父なる神の御心を、御子イエスが実行し、聖霊なる神が適用してくださった、そういうチームプレイになっています。

 なんだか楽しそうじゃありませんか。かけ声をかけたり、「まかせてくれ」と言ったりするような、そんな連係プレーを神ご自身がなさったのです。

 聖書は神が愛であると言っています。もし、神がおひとりだけで、イエスや聖霊は神ではなかったなら、永遠の昔から神がおられて、「わたしは愛だ」といっても何の意味があるでしょうか。何を愛しているのでしょうか。愛する相手もいないのに「わたしは愛だ」と言うなら、淋しいことです。しかし神が三位一体で、父、子、聖霊が永遠からおられて、愛し合っておられるのなら、

「神が愛です」

というのも、腑に落ちるのです。神は愛の関係をお持ちです。神の中には、生き生きとした愛の交わりがあります。その愛に喜び溢れて、世界や私たち人間をお造りになったのです。この方が遥かに分かりやすいのです。そして、その神が、世界を作るに当たっても、それぞれに役割分担をされ、助け合うことになさったのです。

 父なる神は、世界の創造とすべてのご計画をされました。

 御子イエスは、私たちの救い主として、特にこの世に来られて、十字架にかかり、よみがえるという部分を担当してくださいました。

 そして、聖霊なる神は、その救いを私たちに届けてくださって、私たちが今ここで、恵みによって成長し、新しくされるように、私たちに直接働く部分を引き受けてくださいました。

 それが全部、神の愛によって、なしておられるチームワークなのです。その愛の神は、私たちを愛されるばかりか、私たちも又、愛し合うことを目指して、働いておられるのです。

 この絵は三位一体を現した絵です。御使いの姿で神が描かれています。この絵で三人は、こちらに場所を空けるように座っています。三人だけで内側に向かい合うような、閉ざされた座り方ではないのです。私たちをお客として招くような、開かれた座り方をされています。三位一体そのものは、私たちの理解を超えています。でも、一人の神である父・子・聖霊が、互いに愛し合うばかりか、私たちのためにも、それぞれに役割を分担して、私たちを神の愛の交わりの中に、迎え入れてくださるのです。この神の愛をますます知りましょう。父と子と聖霊の見事なチームワークの中で、生き生きと成長し、神の愛のわざを現す歩みをさせていただけるよう、自分を差し出していきましょう。

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