聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問75「パン付き礼拝」マタイ26章26-28節

2017-06-26 10:25:02 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/6/25 ハ信仰問答75「パン付き礼拝」マタイ26章26-28節

 先週まで「洗礼」について見てきました。今週からは、もう一つの礼典「主の聖晩餐」について見ていきます。礼拝の中心にあるのが聖餐式です。ですから、この教会でも、朝の礼拝でも毎週聖餐式が出来たらいいなぁと思いますし、夕拝でも聖餐式が出来るようになれたら、と思います。それぐらい、聖餐式には豊かな恵みが込められているのです。ですから、今日のハイデルベルグ信仰問答75は長くなってしまいます。

問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。

 聖晩餐において、キリストとその恵みを思い起こす。この問は、既に問66~68で、聖餐と洗礼の二つの「聖礼典」について見た時の学びを前提としています。聖礼典は、キリストの十字架の贖いを思い起こすための、恵みの手段です。決して、この聖礼典自体に効力があるわけでも、キリストの贖いでは不十分だから聖礼典が必要なのでもありません。キリストの十字架上での犠牲とその全ての益にあずかっていることを思い起こし、確信させられる。それが聖餐においても、その意味であることを確認しましょう。

答 次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにとわたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ■。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのをわたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。

 ここでは、聖餐で思い起こすキリストの犠牲とその益を、二つのことにまとめます。第一は、主イエスの体が確かに私のために十字架上で裂かれて、血を流されたことです。イエスは聖餐の制定において、ただ聖餐を命じただけではありませんでした。

26…彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。

 わざわざパンを裂かれました。マタイや聖書記者も、その事をわざわざ伝えています。教会は初め、聖餐の事を「聖餐」とは言わず、シンプルに

「パン裂き」

と呼びました。聖餐では、皆さんの前で見えるようにパンを裂くのです。それは、キリストがパンを裂かれたのが、御自身の体が裂かれることを示しておられたからです。私たちが、パンを裂き、パンが裂かれるのを見るとき、そしてそのパンを頂くとき、私たちはキリストが十字架につけられて、その体も心も本当に裂かれて、血を流された事実を思い起こさせてもらうのです。本当にキリストは人となり、私たちのために死んでくださいました。世界を作られた大いなる神が、私たちのために私たちと同じ人となり、人の味わう苦しみや悲しみの極限の十字架で本当に死なれたのです。キリスト教は「良いお話し」ではありません。本当に起きた事実です。それゆえに、私たちの現実にもつながるのです。

 第二に、そのキリストの命によって、私たちが養われ、潤される。それも聖餐が思い起こさせてくれるメッセージです。パンはお腹の足しになります。葡萄ジュースは、喉の渇きを潤してくれます。パンと杯を頂くときに、同じようにキリストが私たちを養い、潤してくださったと思い出させられる、というのです。

 こういう深い意味と目的がある聖晩餐は、キリスト教会の礼拝の中心にあるのです。

 面白い事ですね。教会の礼拝の真ん中に、パンや杯をいただく食卓のイメージがある。礼拝中にお弁当やおやつを食べたら怒られそうですが、何と主イエス御自身が、パンを裂いて集まった人たちにパンを食べなさい、杯から飲みなさい、と、それも強く

「食べよ、飲め」

と命じて仰ったのです。礼拝中に食事なんて不謹慎だ、と窘めるどころか、礼拝でパンを裂いて、杯を配って、これぐらいリアルに、イエスは私たちのために肉を裂かれ血を流されたのだよ、そして、私たちはこのイエスの十字架の犠牲によって、養われ、潤されていることを思い起こす。それが礼拝なのだと言うのです。キリスト教会の礼拝は、講演会や音楽会や修行というより、イエスが招いてくださる食事です。イエスが私たちを食卓に呼び集める礼拝です。私たちは、イエスの十字架の死と、私たちを養ってくださる恵みとを覚えて、裂かれたパンをいただき、ここから出て行くのです。

 ここに

「奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に」

とあります。パンと葡萄酒を配る奉仕者(長老や配餐者)の手から受ける行為も、キリストを思い起こさせる、ということです。奉仕者や司式者がパンと杯で、キリストを届けるのではありません。もし奉仕者が「あなたにはパンはあげない」と言っても、牧師がおっちょこちょいで杯をひっくり返してしまっても、キリストが私たちを養い、潤してくださる恵みは決して損なわれません。思い起こす、なのです。

 教会の歩みではこの事を誤解したことが長くありました。聖晩餐で、イエスの犠牲が繰り返されるのだ、と考えたのです。パンと杯そのものに、御利益があると考えたのです。その典型的な現れが、司祭が会衆に背を向ける、という立ち方でした。司式者が、会衆に背を向けて、神にパンと葡萄酒を捧げて祈る、ということで、この聖晩餐の儀式を特別なものとしたのです。そうすると、キリストの十字架の犠牲だけで十分だったことを思い出すのではなく、キリストの十字架の犠牲では不十分だから、今もパンや杯をいただく、という意味になってしまいます。

 そうではないのです。だから、牧師は背を向けず、こちらを向きます。そうして、皆さんがキリストに招かれ、キリストが私たちのために御自身を裂いてくださったことを思い起こさせます。そして、本当にキリストが私たちを養い、潤し、ともにいてくださることを思い起こさせます。パンと葡萄酒に特別な力があるから、聖晩餐をするのではありません。目には見えないキリストが、しかし事実十字架にかかられた。そして、普段の食事や交わりや、あらゆる糧で私たちを今、養い潤してくださっていることを思い起こすのです。だから私たちも主にあって励まし合い、支え合うのです。

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「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

2017-06-26 10:24:21 | 聖書

2017/6/18 「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

 今月も聖書から一巻を取り上げます。祈りのカレンダーに従い「哀歌」を読みましょう。

1.哀歌 悲しみの歌

 「哀歌」は、旧約の時代の終わり近くに書かれた嘆きの歌です。エルサレムの都が異邦人に踏みにじられた頃、自分たちの国が陥ったこの上なく悲惨な状況を嘆いています。イスラエルの王国時代、民は神に従順であるより、逆らい、神から離れてきました。何世紀にもわたって、搾取や偶像崇拝をして、神に背いてきました。主は、たびたび預言者を送って、悔い改めを求めたのですが、イスラエル人の悔い改めはほんのひとときでした。長く複雑な歴史を経て、最終的には、紀元前六世紀に、遂に神は予告されていた通り、神の民を裁かれました。具体的には、首都エルサレムはバビロニヤ帝国に占領され、有力者たちがごっそりとバビロンに連れて行かれました。その残されたエルサレムがどんなに悲惨になっているかを、とことん嘆いたのが「哀歌」です。街は荒廃して、人々が飢え死にする。女性たちは陵辱されて、母親が幼い子どもたちを食べる。そういう様子が、特に最初の一章で嘆かれています。

 哀歌は短く、わずか五章の構成です。日本語ですと分かりにくいのですが、ただ悲しみ嘆いて、考えもなしに言葉を並べているのではなく、非常に考え抜かれた詩なのです。今日読んだ三章では、哀歌の真ん中です。悲惨のどん底から見上げる希望、主への信頼を歌います。しかし、それで四章でもっと希望や確信や信仰を深めるかというとそうではありません。また、嘆きや訴え、涙に戻るのです。そして、最後の五章はこう閉じます。

五21主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。

22それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか、きわみまで私たちを怒られるのですか。

 もっと確信や希望をもって閉じる方が聖書らしいと思いませんか。暗くて、重くて。もっと明るくて、楽しくて、ホッと出来る話のほうがいい。そう思って済む方は、あえて哀歌を読む必要もないとも思います。もう十分悲惨で心がボロボロ、という時に、無理をして哀歌の悲惨な話を聴かない方が良いかも知れません。広島の平和記念館は、すべての人が行ったらよいとは思いますが、あまりに疲れたり傷ついたりしている時は避けた方がよいでしょう。聖書をえり好みしてはいけませんけれども、それぞれの状況に応じた御言葉があるように、その状況には不適切な御言葉もあるのです。逆に言えば、哀歌のこの出口のない荒廃の中で嘆き、祈り、希望と嘆きを行ったり来たりする状況もまた、私たちの生き方には襲いかかるのです。そしてそれは、信仰があれば乗り越えられたり、変わったりすると決めつけてもならないのです。

2.「主に立ち返ろう」

 「哀歌」はエルサレムが廃墟となって悲惨な社会になっている理由を、自分たち民族の罪に対する裁きだと認めています。勿論、どんな禍も神の裁きだとか、人間のせいだと言うのではありません。このエルサレムの陥落は、ハッキリと以前から警告されていた事だったのです。その明らかな罪を悔い改めなかったために、裁きが下されたのは明らかでした。けれど彼は、原因が自分たちの罪のせいだと認めた上で、「だから自分たちが悪いのだ、こんなになっても、責任は自分たちにあるのだから、もうダメだ。諦めよう」とは言わない。ここが肝心です。

22私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

 確かに私たちのせい、罪の報いだとしても、それでも私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。今、滅ぼされずにここに生かされているのは、主の憐れみによる。そう哀歌は言います。そして、そこから主を待ち望み、主に帰ろうとします。「滅ぼされなかっただけでも有り難く思おう。後は神妙にしていよう」ではないのですよ。そんなケチな神ではない。憐れみの尽きない神にこそ立ち帰ろう。そして、自分の嘆きも悲しみも訴えるのです。

39生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。[1]

40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

41私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

 礼拝のジェスチャーとして手を上げるだけではなく、自分の心をも神に上げようと言います。それは神妙な、信仰深そうな事を言う、という意味ではありません。悲しみ、絶望し、涙を流し、自分の罪を思えば自責の念に押し潰されそうな、このボロボロの自分の心を、隠すことなくそのままに神に上げる、という事です。綺麗に飾った立派そうな心を、ではなくて、嘆きをそのまま神に捧げることが、

「手をも心をも神に上げる」

です。これは二19で明確です。

二19夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。

3.嘆く力

 こういう聖書の祈りを知らないままであれば、「神に祈るときは、綺麗な信仰深い言葉で祈らないといけない」と思い込んでいたでしょう。悔い改めと感謝、神の最善を信じ、神を賛美する、そういう立派な祈りをどんなときもしなければ、と思い込んでいたでしょう。哀歌や詩篇の多くの祈りはそんな私たちの思い込みを吹き飛ばすほどの、「憐れみの尽きない神」を示してくれます。私たちが勝手に神の顔色をうかがい、神の憐れみが尽きないことを忘れて壁を作るものですが、主に率直に大胆に泥臭く祈ることは、決して傲慢でも無礼でもありません。

 哀歌が嘆くのは個人レベルでの悲惨とか挫折ではありません。甚だしい暴力や、戦争の爪痕、壊滅的な無法状態です。特に、子どもたちが飢えて苦しんでいる悲惨です。今もこの世界にはそういう暴力が多くあります。沖縄、パキスタン、日本でも様々な蹂躙、人権無視があります。「そういう悲惨に比べたら私たちは恵まれている、贅沢をいうな」とは言いません。それぞれが嘆いて良いのです。でも自分のためだけ、自分が一番被害者だというような愚かな祈りは一蹴されます。

 嘆きの現実から目を逸らさずに、主の尽きない憐れみを求めて、しがみつくように祈りたいと思います。
 簡単に感謝をしたり、分かったような祈りを並べずに、嘆いて祈りたいと思います。
 悲惨から目を逸らして、明るいことばかり考えるのではなく、現実を見据え、主の憐れみを食い下がるようにして求める哀歌。
 それは、私たちの祈りでもあるのです。

 哀歌を聖書に入れられた主御自身、人の嘆きを不信仰と退けたりなさいません。世界の悲惨を説明せず、罪のせいだと片付けず、むしろ御自身の痛みとして受け止められました。主イエス御自身がこの地上に来、ともに嘆き、苦しみ、最も苦しい痛みを受け止めてくださいました。十字架は、人間の憎しみや暴力、残酷さ、孤独、絶望、自責の念、そうしたすべてをキリストが御自身のものとされた死です。神は私たちの心を、真っ正面から受け止め、私たちとともに嘆かれる方です。そうしてキリストが、私たちとともに嘆いてくださるゆえに、私たちも希望を持つことが出来ます。
 たとえ自分の招いた結果であろうとも、自分のせいだと呟くことを止めて、主に立ち返るのです。私たちの嘆きや胸の内を吐露することが出来るのです。心をそのままに祈るのです。

 いつか嘆きが完全に取り去られる日が来ると、主は約束されています。それまでは嘆かわしい現実があり、それを引き起こす罪が私たちの心には染みついています。だからこそその中で、哀歌があり、これがイエスの祈りでもあり、私たちもともに祈り、待ち望み、諦めずに訴えるよう招かれていることを、哀歌に気づかされようではありませんか。[2]

「罪の報いでも、あなたは責めるよりも、立ち返れと招いてくださいます。嘆きの心を、御前に上げる恵みを感謝します。罪の裁きを自戒しつつ、それ以上に、その末にさえ豊かな赦しで帰らせたもう主の憐れみなのです。本当に悲惨な現実をあなたはともに嘆いてくださいます。私たちもともに執り成して祈り、あなたの約束された大きな回復を切に待ち望ませてください」

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57章15節)



[1] 新共同訳では「生身の人間が、ひとりひとり自分の過ちについてとやかく言うことはない。」と訳しています。こちらの方が遙かに筋が通り、分かりよいです。

[2] 四日市キリスト教会の説教も参考に。http://yccme2015.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html

 

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問73「子どもたちも聖い」Ⅰコリント7章12~16節

2017-06-18 15:50:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/6/18 ハ信仰問答73「子どもたちも聖い」Ⅰコリント7章12~16節

 洗礼についてのお話しを続けていますが、今日が洗礼については最後です。そして、最後に取り上げるのは幼児洗礼ということです。幼児にも洗礼を授ける? 生まれてまだ理解も何も出来ない子どもに洗礼を授けるのはどういうことなのでしょうか。今日の問74では、この事を取り上げてこう教えています。

問74 幼児にも洗礼を授けるべきですか。

答 そうです。なぜなら、彼らも大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪からの救いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。それゆえ、彼らはまた、契約のしるしとしての洗礼を通してキリスト教会に接ぎ木され、未信者の子どもたちとは区別されるべきです。そのことは旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです。

 しかし、実はこの問答74の存在自体が、こう言わなければならなかった事情を反映しています。ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀、宗教改革が始まった時、中にはとても極端な改革をしようとした運動もありました。その一つが、幼児洗礼を否定する、という考え方でした。それまでは幼児洗礼を行ってきたヨーロッパ社会で、洗礼は、大人が自分で信仰告白をしたら授かるものだ、と言い出したのです。彼らは、幼児洗礼を止めただけでなく、全ての幼児洗礼を無効だと考えました。自分たちも幼児洗礼を受けていたのですから、それは無効であって、自分たちで洗礼を新たに授けることをしました。これが「再洗礼派」という急進的な立場です。この問74は、そういうラディカルな立場に対して応えよう、という事情があったのです。

 それから五百年近く経って、今はこの「ハイデルベルグ信仰問答」を大切にする人たちも、この問74に関しては注意深くコメントをしています。再洗礼派の人たちが言いたかった、幼児洗礼の問題にも一理あるのです。今まで見てきたように、洗礼そのものに救う力があるわけではないし、洗礼を受けなければ救われないわけでもありません。大事なのは、キリストの十字架による救いです。洗礼が救うのではなく、キリストの御業を聖霊が届けてくださるのです。その事を誤解したままの、当時の幼児洗礼は、やっぱり誤解されて、迷信のように行われていました。そんな儀式は止めよう、という再洗礼派の言い分も、あながち間違いばかりだとは言えません。まして、みんながみんな、教会に行っていた当時と、日本のようなキリスト教徒がごく少数の今とでは、かなり事情が違うことを考えなければなりません。

 しかし先に読んだⅠコリント書も、私たちと同じようなキリスト教が少数の町でした。教会はまだ少数でした。教会に来ているのが夫婦揃ってでなく、夫だけで妻は来ていない、妻だけで夫は来ていない。そういう家庭のことも触れていました。それも、私たちの教会と似ています。でも、そういう夫婦についても、パウロは言うのです。

Ⅰコリント七14…信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

 この場合の「聖い」とは言うまでもなく、心が清らかだとか性格が聖人みたいだという意味ではなく、言わば「特別扱い」というような意味です。ある人がキリストに結ばれているということは、その人だけのことではなく、その人の家族(夫や妻、また子ども)も含めて、神様の恵みの中で見るような目を与えられるのです。特に子どもは「現に聖い」と言われます。聖書はその最初から、人を個人主義でバラバラに見るのではなく、家族や共同体的なものとして見ています。神様の約束は、アブラハムに対して、

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

と仰っていました。星の数よりも多くの子どもを授ける、と約束されました。神様の契約は、その人とだけ、ではない。誰かが信仰を告白したら、その人だけを神の民としてくださる、というものではない。子どもも神の契約に預かっているのです。それが聖書の契約の豊かな慰めです。

 ハイデルベルグ信仰問答でもそう言っています。もう既に、神の契約とその民に属している、罪からの救いと信仰を生み出す聖霊が確約されている。だから、洗礼を授けて、教会の一員として正式に認めましょう。そのために洗礼を授けるのは何の問題もないのです、と言っています。洗礼を授けたら神の契約の中に入る、とは言っていません。洗礼を授けなければ救われない、とも言っていません。洗礼を授ける前から、既にキリストの約束の中にあると言うのです。だから、そのしるしとして施すのが、幼児洗礼なのですよ、ということをここでは言っているのですね。そして、神が契約の中に入れて下さっていることが、いつかその口から自分で信仰を告白する日にハッキリすることを期待するのです。でも、洗礼も救いも、その人の信仰に基づいて授けるのではありません。キリストの御業だけが、救いの根拠であり、信仰もまたキリストが私たちのうちに下さる恵みです。その事が、幼児洗礼をも可能にするのです。

 最初に見せたこの写真をもう一度見てください。以前の考えや再洗礼派が批判したような考えなら、子どもが救われるための儀式として幼児洗礼がなされていました。しかしそうではないのです。幼児洗礼は子どもと牧師だけのものではありません。家族も教会の方々もそこにいます。神の家族全体が、新しく生まれた子どもも、神の尊い祝福の中に受け止める時です。そして、一人一人が、自分もまた、信仰を告白する以前から、神の恵みの中に洗われ、聖い者と見なされて、今ここにあることを覚えて感謝するときです。

 私も幼児洗礼を行わない教会で育ったので、初めて幼児洗礼を見る時は、とても迷いました。ただの古めかしい儀式だと思い込んでいたのです。けれども、初めての幼児洗礼式は、子どもたちの祝福を祈り、教会全体でその子の信仰の成長のために祈り、教え、育てます、という誓約の時でした。その感激を今も忘れることが出来ません。

 主が私たちを契約の民とされたのは私だけのためではなく、周囲の人、とりわけ私たちの家族に祝福が及ぶためです。幼子も大人もキリストの恵みの中に入れられるのです。その約束をもう一度覚えましょう。そして家族を愛し、信仰を語り合いましょう。

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使徒の働き2章22-36節「ありえない話」

2017-06-18 15:34:06 | 使徒の働き

2017/6/18 使徒の働き2章22-36節「ありえない話」

 「使徒の働き」二章には聖霊を注がれた弟子の力強い最初の説教が書かれています。[1]

1.ペテロの説教[2]

 ペテロはここで、つい七週間前に起きたイエスの十字架を思い出させ、そのイエスの復活と、イエスこそ聖書に約束され、待ち望んでいたキリストであることを話しています。ここで詩篇十六篇と合わせて引用される詩篇一一〇篇は、新約聖書で最も多く引用される旧約の言葉です。

「主(ヤハウェなる神)が私の主(主人)に言われた。

35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

 この「わたしの右の座に着いている」とは、ただ座っている、というのではなく、神の右腕とも言うべき権威を与えられて、支配する、という意味です。のんびり座って休んでいる、ではなく、神の権威を帯びる主であり、その支配はすべての敵を「足台」とするほどの力強い立場です。そのような方のことは旧約時代から言及されていましたが、キリスト教会はそれがイエスのことだと信じ、告白しました。ここでもペテロは、聖霊降臨の出来事は、十字架に殺されたイエスが本当に復活され、天に昇られて、神の右の座に着かれて、そこから聖霊を注がれた出来事だという論証をしているわけです。イエスこそ主でありキリスト、神がずっと約束されていた王である。この事を宣言したのが、ペテロの説教でした。その結論が36節です。

36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 しかしペテロは「主ともキリストともされたイエスを、あなたがたは、事もあろうに十字架につけてしまったのだ」と責めたいのではありません[3]。23節でハッキリと「神の定めた計画と神の余地とによって引き渡された」とあるように、この十字架も神の側でのご計画でした[4]。人が神の子イエスを十字架に処刑したことは人の罪ですが、同時にそれは、神のご計画で、イエスが自ら飛び込んで引き受けられた死だったのです。そしてその十字架の死で終わらず、

24しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 主でありキリストでもある方が、死に繋がれていることなどあり得ない。死も終わりではなく

「産みの苦しみ」

であって[5]、そこからよみがえられた、というのです。

2.あり得ないキリスト

 しかし、イエスが死に繋がれていることなどあり得ない以前に、イエスが死ぬことだってあり得ないのではないでしょうか。主なるお方が人間となり、貧しくなることだって、あり得ないのではないでしょうか。これは、ユダヤ人には大きな躓きでした。イエスの力あるわざや不思議やしるしを見ながら、最後にはイエスを十字架につけて殺したのは、イエスの貧しさ、低さに躓いたからです。イエスが神なら、奇蹟を起こし、輝かしい勝利を起こせるはずだ。苦しんだり、貧しい人にそっと寄り添ったり、社会の除け者を顧みたり、そんな事ではなく、もっと華やかで正義の味方らしいことをしてほしい。そう願ったのです。十字架に死ぬようなイエスなんて要らない、それがキリストだなんてとんでもない冒涜だ、と思ったのです。これは「使徒の働き」で後々まで何度も争われる点です[6]。後に使徒パウロとなるサウロがキリスト者に激怒したのも、キリスト者が、十字架につけられたイエスなんかをキリストと呼ぶのは冒涜にも程がある、としか考えられなかったからです[7]。そのパウロは後に書きます。

Ⅰコリント一23…私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

 ギリシヤ人にとっても、神が人間になられたなんてナンセンスでした[8]。ギリシヤの哲学では「神の不可難性(不可受苦性)」という考えがあります。大いなる神は無限で永遠で不変であるから、その神を苦しめることは出来るはずがない。神が人間や被造物によって苦難を感じられるとしたらそれはもはや神ではない、と考えたのです。しかしどうでしょうか。キリストはこの世界に来られて十字架に苦しまれました。それどころか、人間の孤独や悲惨、迷って諦めた状態に深く心を痛められました。そして、その深い憐れみ、人間に対する愛故に、人から傷つけられ、十字架にかけられ、死ぬことをさえ自ら選ばれたのです。そして、ひとりの小さな人間が帰ってくる時に、九十九人の正しい人以上に喜ばれる方です。人間が自分の間違いに目を覚まし、生き方を改め、罪を告白して、新しく生きるようになるときに、その人以上に大喜びなさるお方です。確かに神は永遠で無限ですが、同時に大いなる愛のゆえに、私たちのために心を動かされ、人となり、十字架に苦しみ、血や涙を流され、御自身の聖霊を一人一人の心に注いでまで、私たちの歩みに深く深く働かれます。その無限の力によって、悲しみや問題をあっという間に解決する、というお方ではない。徹底して、人間の悩みや辛さを味わい知った上で、そこから私たちを慰め、喜びを満たしてくださる。詩篇一六篇で言われていた「いのちの道」「喜びで満たして」という約束を、悲しみや痛みの中で、果たしてくださるお方です。

3.あり得ないことをなさる神

 このペテロの説教は、人々をイエス殺害の責任を問うて責める非難ではありません。復活を根拠にイエスが約束のキリストであったと認めるだけでも終わりません。それは、人々の神理解を根本から覆すものでした。神は私たちの救いのために、仕方なく我慢して一度だけキリストの十字架の屈辱に甘んじたのではありません。神はご自身を偽ることが出来ないお方です[9]。人間が見捨てたキリスト、こんなキリストは要らないと十字架に捨てたイエスこそ本当のキリストでした。人間の身勝手で傲慢なその決めつけに、御自身が無残に殺されることも承知の上で、この世に来られ、死んで、そこからよみがえられたイエスであると知るときに、人は自分を責めるのでもなく、ただただ神の圧倒的な憐れみを思って、この神に立ち帰るだけです。

 この説教で三千人ほどが弟子に加わりますが[10]、ペテロはそう見越したとは思いません。聴衆が逆上し、冒涜だと激高して、弟子達全員殺されたかも知れません。それでもペテロがこの大胆な説教を語ったのはどうしてでしょう。人々を責めたかった? 怒りや憎しみが動機だったとは思えませんし、自分自身イエスを裏切り見捨てた責任は棚上げ出来ません。むしろペテロはその自分のために謙り、十字架の苦しみをも受けてくださったイエスこそ神だと知った驚きと感謝、感激に打たれていたでしょう。今まで、弟子の中で

「誰が一番偉いか」

と背比べをしていた自分たちの横で、本当に偉いお方イエスはその逆に、卑しい自分たちとともにおられました。世界の悲しみをパッと解決してしまうのではなく、御自身がその痛みをとことん味わい尽くしてくださった。神は大いなる神だ、冒涜してはならない方だと仰ぎ、恐れていた神が、実は、私たちとともにおられた。少しでも上になる力を求める自分が、どれほど神の心を傷つけていたか。自分の不満、怒り、批判、他者への軽蔑がイエスを十字架にかけたのだ。イエスは人間の悲惨の最も底に降りてこられる事も厭わなかった。そのイエスこそ神の心を現していたのです。そのありえないかたじけなさに心が溢れて、何人信じようが自分が殺されることになろうが構わずペテロは語ったのです。私たちのキリスト者生活の原点もここです。このイエスこそ神だというあり得ない恵みに驚き、立ち止まり、心を打たれて、歩むのです。

「主よ。人が思い描くよりもあなた様は遙かに熱く、深く、苦しみを知り、私たちの小さな歩みをも大いに喜ばれ、私たちをも喜びで満たしたもう方です。神の右におられるイエスが、私の心も生活も、隅々までともにいてくださいます。十字架と復活の主イエスを知って、私たちも主に似た者とされ、罪を捨て謙り、愛を頂き、喜びと慰めに満ちてともに歩ませてください」



[1] ただキリストの教えを弟子達が信じたり伝えたりし始めた、というだけではなかったのです。キリストが教えられたこと、十字架と復活において成し遂げられた救いが、その五十日後に聖霊によって弟子達にシッカリ届けられたのです。その時、弟子達が、臆病で逃げ出して、イエスを裏切った弟子達が、大胆にキリストを証しし始めました。それも、言葉の違う世界の人を包み込む、非常識な福音を示し始めたのです。

[2] ペテロの説教を大きく三つに分けましょう。22節から24節では、イエスの活動を大きく振り返っています。それはユダヤの指導者を動かすような大きな運動でしたから、その事を思い出させるようにして語り、最後には十字架につけたこと、しかし、神はイエスをよみがえらせたことを語っています。次に、25節から33節では、ダビデの作であるとされる詩篇16篇を引用して、それがキリストの復活を預言していたのだ、と言っています。そして、その預言の通りにイエスはよみがえられたのだ。それぐらいイエスの復活は、聖書が昔から約束してきた、大事な出来事で、そのイエスが聖霊をお注ぎになったのが私たちなのだ、というのです。最後の34節から36節ではもう一つ詩篇一一〇篇を引用し、イエスがここで言われている「私の主」だと言っています。36節で「神が、今や主ともキリストともされたこのイエス」と言う通りです。

[3] 新共同訳聖書では、この36節はこう訳しています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

[4] 私たちは、神のご計画と自分たち人間の側の責任とをいつも両面見ていくのですね。神のご計画があったから自分のせいではない、とは言わないし、神のご計画とは違うことを自分がしてしまった、と自分の責任を過大評価もせず、自分の判断や責任と神の摂理とをいつも両面考えるのです。そしてその典型的な出来事は、イエスの十字架です。

[5] 24節欄外注参照。

[6] 今日のペンテコステの説教では大勢の人が回心しますが、段々こういう勢いは巻き返されます。

[7] 更に、パウロの回心後、パウロはユダヤ人たちに、このイエスこそキリストであると弁明しようとした際、ほとんどの場合、ユダヤ人は反発します。特に22章では、この2章と同じエルサレムで、集まった大勢の群衆は、信じたり納得したりせず、パウロを殺そうとするのです。

[8] この事は17章のアテネ伝道でハッキリします。

[9] これは、哲学的な神概念ではなく、Ⅱテモテ二13で「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼には御自身を否むことができないからである。」という聖句で明確に教えられていることです。

[10] 41節。

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問72「神の遊び」使徒22章3~16節

2017-06-11 18:02:31 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/6/11 ハ信仰問答72「神の遊び」使徒22章3~16節 

 夕拝でテキストにしている「ハイデルベルグ信仰問答」では、今、洗礼についての箇所が続いています。

 洗礼というのはただの儀式ではなくて、そこにキリスト教信仰のエッセンスがこめられています。また、その洗礼を行う事が、私たちにそのキリスト教信仰をハッキリと教えて、確信させてくれることを、改めて教えられています。前回は問71で、イエス・キリスト御自身が洗礼を命じられたことを、聖書の箇所を取り上げて確認しました。そして二つの箇所では洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいることを取り上げました。それに続いて、今日の問72は、

問72 それでは、外的な水の洗いは罪の清めそのものなのですか。

答 いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみがわたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。

 当時も今も、洗礼の儀式への迷信はあります。洗礼が罪の清めそのものの力がある、という誤解はあります。洗礼の水に特別な力があると考えて、「聖水」と呼ぶ教会もあります。ここではそのような誤解を丁寧に、入念に退けます。

「洗礼ではなく、ただイエス・キリストの血と聖霊のみがわたしたちをすべての罪から清めてくださる」

と言います。洗礼という儀式や、水に力があるのではないのです。

問73 それではなぜ、聖霊は洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでおられるのですか。

答 神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪が、キリストの血と霊とによって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの真正な担保としるしとを通してわたしたちに確信させようとしておられるのです。

 キリストの血と霊とによって罪が除き去られることを、水の洗いの儀式でハッキリと示してくれるのが洗礼なのです。洗礼に効力があるのではなく、キリストに効力があることをハッキリ教えてくれるのが洗礼だ。ここを勘違いしないようにしましょう、というのです。この答は、同じ事を二回繰り返しているように思えますね。しかしこういう事でしょう。

「罪が除き去られる」

は、私たちの罪がキリストによって除き去られ、もう神の前に断罪されることがないこと。つまり、罪の赦しと義認です。キリストの血と聖霊のお働きは、私たちの罪を解決してくれました。神様に対する罪のとがめをイエスが十字架ですべて引き受けて下さったので、私たちが「罪人」という立場ではなく、赦された立場になった、ということです。まだまだ問題を抱えて、罪を犯すとしても、神は私たちを受け入れ、神の子どもとして扱ってくださる事実は代わりません。しかし、それだけではありません。後半の

「霊的に洗われる…現実」

は、私たちが現実に霊的に罪から洗われていくこと、聖化です。現実に私たちが罪から聖められ、考えや生き方が変えられていくのです。立派な聖人君子になるわけではありません。むしろ、そういう背伸びや「こうでなくちゃ」という思い込みから解放されて、もっと自由に、幼子のようになるのです。自分の失敗や苦しみや喜びを通して、神の恵みを体験して、神に対しても人に対しても、ますます素直になっていくことです。余計な気負いや装いも、洗い流されていくのです。そういう意味で「聖化」されていくのです。洗礼は、こういうイエスの血と聖霊との洗いを、私たちにハッキリと示し、確証させてくれます。

 もし洗礼の儀式や水そのものに何か特別な力があるのなら、儀式さえ受ければ、自動的に罪が赦されたり、心が清くなったり。簡単でしょうが、とてもつまらないし、人間くささがなくなってしまう気がします。こんな詩があります。

「勇気のカンヅメを買ってきた 長いあいだおいてあったが 意気消沈したぼくは ついにそれをあけてみた あけたけれどなにもなかった カンの底にはなにかかいてある ボクニタヨルナ!ヨワムシ!」

 私の好きな詩の一つです。人間は、勇気の缶詰とか、頭が良くなる薬とか、過去をやり直せる機械とか、色々な道具に憧れます。洗礼の迷信化は、そういう人間の考える傾向の「氷山の一角」に過ぎません。これは聖書の最初、エデンの園で神様が食べてはいけないと置かれた「善悪を知る木」でも始まっていました。神は、その木を

「食べてはならない」

ことを約束されただけなのに、蛇は

「その木の実を食べたら目が開けて神のようになる」

魔法の木だと変えてしまいました。それ以来、神様とは別に、そのものそれ自体に特別な力があるような考えは人の中に入っています。洗礼の水だけではありません。聖餐のパンや杯もです。ある人は、聖書を拝みます。聖書は神様からの特別な本ですから、大事に読んで下さいねと牧師が進めたら、次に訪問した時には、神棚に聖書が置いてあった、という話も聞いたことがあります。また、ここでイエスの血と聖霊が、とありますが、イエスの流された本当の血に特別な力があると考える人もいます。イエスの血に触れたら病気が治るとか、イエスを包んでいた布を拝めば祈りが聞かれるとか、そういう伝説も人間は好きです。しかし、イエスの「血」とはイエスが死なれ、命を与えてくださったことを指すのであって、「血」という液体のことではないのです。

 イエスの血や、洗礼という儀式に力があるのではありません。イエスが死なれ、聖霊によってそのきよめを私たちに確かに届けてくださるのです。そして、私たちを生涯かけて、聖くしてくださいます。私たちはそれでは足りないように感じて、何かに縋りたくなるかもしれません。あるいは、何か汚れたものに触れたり、ひどい体験をしたり、自分の中にある汚らわしい考えなどに、自分はきよめようがない汚れたものだとしか思えないこともあります。イエスはそのような私たちのために、ご自分が来て、十字架で聖い命を捧げてくださいました。どんな儀式や魔法や科学でも解決できない人間の心の深い汚れを、神の子であるイエスは引き受けて洗ってくださり、私たちと生涯ともに歩んでくださるのです。私たちを既に、聖いものと見て下さっています。そして、これからも何があろうと、どんな出来事や迷信や問題で私たちが自分を嫌おうとも、イエスは決して私たちから離れることなく、私たちを愛し、愛おしみ、ともに歩み、支えてくださると約束されました。洗礼はそのイエスの、私たちに対する約束のしるしです。

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