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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ17章11~19「神をあがめるために戻って来た」

2014-06-23 17:17:08 | インポート
2014/06/22 ルカ17章11~19「神をあがめるために戻って来た」(#273 )

 先回、私たちは、弟子たちに対して、イエス様が仰った言葉を聴きました。

 6…「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら…言いつけどおりになるのです。

 信仰は、信じる私たちの側の信じる力が弱いとか小さいとかいう問題ではない。そう断言されました。ですから、続く今日の癒やしの記事でも、

 19…あなたの信仰が、あなたを直したのです。

と結ばれるのも、この感謝するために戻って来た人の信仰が立派だったから、それだけ優れていたから、というような事ではありません。「この人は、私たちよりも優れた信仰を持っていたのだ-私たちはこの人ほど感謝も足りないし、立派な信仰でもない」と引け目を感じたり卑屈になったりするとしても、そこで終わってはなりません。私たちの信仰は、からし種のように最も小さいものに喩える他ないとしても、その信仰さえ神様からの賜物であり、神がその信仰を通して豊かに働いて下さることを信じるのです。自分の信仰は貧しくとも、私たちの神である主は力強いと信じるのです。そして、その通り、ここでも、当時は不治の病としてどうしようもなかった病気、汚れているとして町中に住むことさえ認められなかった病をさえ、イエス様は癒してくださったのです 。

 しかし、この十人の患者たちは、最初イエス様を見た時に、

13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

とあります 。「癒して」ではなく「あわれんでください」でした 。ただ病気が癒えるだけではなく、社会からも疎外され、宗教的には汚れていると見做されて、身を寄せ合って暮らしていた。彼らは遠くから、叫んで、憐れみを乞い求めたのです。イエス様が彼らに、

14…「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」…

と言われた時、彼らは祭司の所に向かいました。祭司は、「汚れ」として扱われていたこの病気がきよくなったかどうかを判断し、宣言する役目を負っていたのです。ですから、祭司に見せることで、社会的な回復が始まるのです 。彼らはそこに行きました。癒されてから、ではなく、癒される前に、イエス様の言葉を信じて進みました 。そして、その行く道の途中で、彼らはきよめられていることに気がつきました。そして、

 15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
 16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

というのです。「サマリヤ人」とは、エルサレムのあるユダヤと北のガリラヤとの間に挟まれたサマリヤの地域に住む人々ですが、彼らはアッシリア捕囚の時に連れて来られた人々とイスラエル人との混血で、宗教的にも異教徒の習慣が混じったものを身につけていました 。そうした歴史を背景にして反発し合っていた間柄です。それが、同じ病気のため追い出されていた者同士、この時は十人で一緒に暮らしていたようです。ところが、イエス様を通して病気がきよめられたことに気付いた時、

 18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

とイエス様を嘆かせることになってしまいます。求めた憐れみをいただいて、病気を癒されただけでなく、祭司にきよいと言ってもらって社会復帰も果たせそうです。でも、その憐れみを感謝するために戻って来たのは一人だけ、このサマリヤ人でした。
 私たちはこういう癒やしの記事から、「感謝を忘れてはいけません」というような「正論」めいた説教を引き出すだけなのでしょうか。イエス様に直接お願いして、こんな奇蹟に与る話自体、私たちとは別世界の話のようです。その溝を感じたままなら、感謝や、癒される信仰、などといくらひねくり回しても、こんな箇所は、何の役にも立たないのです。

 でも、イエス様も別の意味でここに一つの見切りをつけられたのです。この奇蹟の後、イエス様は癒やしをなさるのは二度だけ、十八章の最後と、ゲッセマネの園でペテロが耳を切り落とした人の耳を癒された、その二回だけです 。奇蹟が信仰を引き起こすわけではないことは、十六章31節でも明言されました。癒やしや奇蹟のあるなしが問題ではありません。問題は、私たちが、私たちを憐れんで下さる主を求め、その恵みに感謝するかどうか、です。ここでも、このような憐れみ深い癒しさえ人を神に立ち返らせるのではない事が教えられているのです。奇蹟がないからと主を捨てる人は、奇蹟があっても感謝するために引き返しては来ない。それは、救いに至る信仰ではないのです。

  あなたの信仰が、あなたを直したのです。

 これは、正しくは「救った」と訳すべき文章です 。それも、完了時制ですから、
  あなたの信仰が、あなたをもう救ってしまったのです。

という言葉です。ルカはこの言葉を4回も繰り返します 。けれども、先にも言いましたように、自分を救えるほど立派な信仰だ、というのでは決してないのです。この言葉を言われるのは、罪深い女、長血の女、サマリヤの病人や物乞いをしていた目の見えない人。いずれも、敬虔さを求める人々の眼中にはないような人でした。そういう人が、イエス様に憐れみを乞い求めたとき、そのイエス様に縋る信仰は、救いを得させる信仰だと言われます。自分の信仰がどれだけ熱心か、純粋か、という問題ではなく、ただイエス様を求めるという対象が正しかった故に、彼らは思いがけず、救いにさえ与ったのです。

 でも、こうして新たに立ち上がって行く時、人々は好奇の目で見るでしょう。かつて汚れていたもの、というレッテルは生涯つきまとうかも知れません 。主イエスへの信仰故に迫害も受けたはずです。やがてまた病にかかったでしょうし、確実に死にました。主は、人生のあらゆる問題を解決して、いつまでもバラ色になさる方ではありません。癒やしだけで満足した残りの九人は、感謝を忘れただけでなく、癒された事自体忘れたでしょうか。それとも、癒やしが人生を明るくするわけではないことにいつか気付いて、戻って来たのでしょうか。奇蹟や癒やしを求める以上に、病や困難を通して、憐れみ深い主に出会い、賛美する者となることが幸いなのです。戦いや虚しさに塞ぐような人生の旅路をも、すでに救われた喜びを歌いながら歩めることにこそ、幸いがあるのです。

 午後にコンサートがあります。多くの讃美歌作者たちは、目が見えなかったり、愛する人を亡くしたり、病や鬱に悩みました。その中で、主イエスに出会い、本当に明るい讃美歌を書きました。その尊い財産を今も私たちは歌っています。奇蹟や癒やしは過去のことではありません。次回見ますように、今も、主の御業は私たちのただ中で続いています 。

「憐れみ深い主が、私共の魂の深い必要を満たし、あなた様のもとにひれ伏し感謝する信仰を与えて、賛美の歌を歌わせてくださいます。願いが叶わなくとも、主イエス様のもとに帰って御名を崇め感謝する者とならせて下さい。私たちの人生そのものを、死の影の谷を通りながらも天の故郷に帰って行く旅路とし、その喜びの歌を歌い続けさせてください」


文末脚注

1 讃美歌273「わが魂を」「アメリカの説教者ヘンリー・W・ビーチャーという方が、次のような有名な言葉を残しているそうです。「地上に君臨したあらゆる帝王の名誉を勝ち得るよりも、ウェスレーのこの曲のような賛美歌を書きたいものだ。ニューヨーク一番の金持ちになるよりも、このような歌の作曲者になりたいものだ。金持ちは、しばらくすれば人々の記憶から消え去る。その人について何一つ話されなくなる。しかし人々は、最後のラッパの音とともに天使の群れが遣わされるときまで、この賛美歌を歌い続けることだろう。さらに神のみ前で、誰かがきっとこれを歌うことになると思う」
2 この律法は、私たちに罪や汚れを、自分のこととして考えさせるためのものであって、この病気にかかった人が特別に「汚れている」と差別されてはならないものでした。つくづくと、自分の汚れ、きよめの必要、憐れんで戴く他ない惨めさを思い、神にすがるため。今も私たちは、様々な形で「あわれんでください」と祈らされるのは、罪を抽象的にでなく、リアルに思い知る恵みである。感謝へと引き上げられるお取り扱いである。
3 「先生」エビスタテースは、ルカだけが6回使う言葉。いずれもイエスに対して。五5、八24(×2)、45、九33、49、十七13。
4 「あわれんでください」は、ルカが、十六24(金持ち)、十七13、十八38、39(エリコの盲人)だけで使い、神やイエスに対してのみ用いる、信仰的な言い方。しかし、その言い方が救いに至る信仰を保証するのではないことは、今日の箇所と十六章の金持ちの台詞が裏付けています。憐れみを求めるとは口だけで、憐れんでもらったら、もう忘れてしまうことがあるのです。憐れまれた、だから、感謝だ、憐れんで下さった神に栄光を帰します、というのが救いに至る信仰です。
5 ツァラアトの言及は、ルカでは、四27、五12前後、七22とここだけですが、四章と七章の2箇所は、教えの中なので、実際の登場はここと五章の2回です。
6 行くだけの信仰はあった。期待もあった。信じていた。でも、求めていた者が得られた時、感謝や賛美には心が行かなかった。信仰の弱さ、ではない。信仰の目的・本質が違っている。
7 Ⅱ列王十七24~41、参照。
8 この前の癒やしは、十四章1-6節の「水腫をわずらっている人」の癒しです。
9 「直した(救った。ソーゾー)」 六9、七50、八12、36、48、50、九24、56、十三23、十七19、33、十八26、42、十九10、二三35、37、39。
10 ルカ七50、八48、十七19、十八42。そして、いずれも時制は、後述の「完了形」です。
11 新改訳聖書は、第二版で「らい病」としていたのを、第三版で「ツァラアト」と音訳にしました。詳しい経緯に触れるには十分な紙面が必要ですが、ハンセン病のために苦しみ、差別を受け、人生を断絶された方々の深い苦しみに対して、教会も鈍感であり残酷であったことの反省をともなった変更です。今でも、第二版を使ったり、第三版を使いながらも「これは「らい病」のことです」と無邪気にも言ってしまったりする神経に対して、教会はもっと敏感でなければなりません。ハンセン病、また、精神障害者、犯罪加害者、同性愛者、被差別出身者、またそうした方を身近にしながら、それを公に出来ないでいる苦しみがあります。それに対する教会の鈍感さに、他人事めいた差別意識があることを真摯に認め、悔い改め、学び、変わっていかなければなりません。
12 憐れみを求め(キリエ)、恵みをいただき(福音説教)、栄光を帰し(グロリア)、感謝をささげ(祈りと献金)、派遣される。これは礼拝のパターンそのものです。

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マルコ15:22~47「まことの神の子」

2014-04-16 10:10:24 | インポート
2014/04/13 マルコ15:22~47「まことの神の子」

 今週は、世界中のキリスト教会が、イエス様が十字架にかかられたのと同じ時期、同じ季節として、ともにイエス様の御苦しみを思い、また、来週は三日目の復活を喜ばしくお祝いしますイースターです。今日と、金曜日の受難日礼拝、そして、来主日と、マルコの福音書の記事を続けて聴きたいと思います。特に今日は、イエス様が十字架にかかられた、まさにその箇所を開きました。
24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
と、読み飛ばしそうなぐらい短く書かれています。しかし、十字架刑とは、十字に手を広げた囚人の両手と両足を釘で打つのですから、凄まじく残酷な拷問でした。そして、そのまま十字架を地に立てて吊すのですから、囚人たちは想像を絶する激痛に悶え苦しみ続けなければなりませんでした。そうした苦しみに加えて、辱めや嘲りもイエス様は味わわれたことが分かります。むしろ、そちらの方が詳しく記されています。24節に
そして、誰が何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。
とあります。つまり、イエス様は裸で十字架につけられたのです。十字架を描いた名画はたくさんあっても裸のイエス様というのは余りにも冒涜的ですから、たいてい腰布はまとうか、隠すように描いていますが、実際のイエス様には隠せなかったのではないでしょうか 。また、29節以下には、通行人と祭司長たち、そして、両隣の強盗もまた、イエス様を罵(ののし)り、嘲(あざけ)った、と書かれています。本当に酷い侮辱でした。
29「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31…「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
 こうして、裸で苦しみ続けるイエス様を嘲笑(あざわら)い、挑発したのですね 。けれども、イエス様は十字架に留まられました。その、想像を絶する苦しみと、酷い辱めや嘲笑にも耐えられました。むしろ、マルコは、そのイエス様の沈黙の方を強調しているのですね。十四章でイエス様が逮捕されてから、裁判の席でもイエス様は、何も答えず黙ったままでおられた、と言われます 。ただ、ご自身が神の子キリストであるとの証言だけを力強くなさいました 。それによって、大祭司はイエス様を冒涜罪で死刑とする事を決議します。そして、十五章に入り、ピラトのもとに連れて行かれても、2節で、
「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
と言われた以外は何も言い返されないので、ピラトは驚いた、とわざわざ5節に書かれている程でした。それからもイエス様はずっと口を開かれません。十字架の凄まじい苦しみのど真ん中でも、人々からの辱めや嘲笑に対しても、抵抗しようとせず、そのすべてを引き受けておられます。でも、マルコは、イエス様が十字架で発せられた言葉を一つだけ記して伝えています。
33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 イエス様が十字架にかかられたのは、朝の九時から午後の三時までですが、後半は全地が真っ暗になったのです。それは、イエス様のお言葉から分かるように、神から「見捨てられる」ことを表していました。私たちには、神から見捨てられ、神との間が完全に断絶してしまうことがどんなに恐ろしい事か想像すら出来ません。私たちにとっては、空気があるのが当たり前で、空気がなくなったらどんなに苦しいか、体験してみないと分かりません。朝が来ないかも知れないという恐怖や、正常な判断が出来ないという恐ろしい感覚は、味わってみないと分かりません。私たちの全てを支えておられる神が、私たちに完全に背を向けてしまわれるのがどんなことか、私たちには想像できません。神様の無限の怒りを注がれ、神様の無限の慈しみを奪われるだなんて、私たちの経験や考えを遙かに超えたことです。ただ、そのような体験をイエス様が十字架で味わわれた事、それを「全地が暗くなった」現象が象徴している事、そして、今まで沈黙されていたイエス様が、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばずにはおれなかった程であったこと、だけが伺われます。イエス様は、十字架という残酷な刑でも、嘲笑する人々ばかりに囲まれた孤独の底でも、耐えておられました。驚かれるほど黙っておられました。そのイエス様が、神に見捨てられるという苦しみ-それこそは、十字架刑という肉体的な苦痛以上に中心となる、私たちの身代わりとなったイエス様の苦しみでしたが、-には、苦しみを叫ばずにはおれなかったのです。
 けれども、それは、イエス様にとって、絶望だったのでしょうか。最後に、ギブアップして、父なる神様に恨みや文句を叫ばれたのでしょうか。また、父なる神様も、本当にイエス様を憎み、見捨ててしまわれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様はこの時を最初から予告しておられました。これは、想像を絶する事ですけれども、父なる神様とイエス様は、初めからこの断絶を御計画なさって、地上のご生涯をスタートなさっていたのです。ですから、イエス様も、この苦しみの中で、なお天の父なる神を、
「わが神、わが神」
と呼び求めています。苦しみと悲しみの真っ暗な中でも、神をわが神とお呼びし、信頼しておられます。私たちが表現する事も想像する事も出来ない、神の御怒りを受けながら、なお神を信頼し抜き、神を呼び求めて、希望さえ持っておられます。37節で、
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
とあるのも、力強さ、勝利、完成を思わせますね。弱く、息果てた、というのではなく、力強さです 。十字架は敗北ではなく、イエス様は負け犬ではありませんでした。本当に恐ろしく辛い苦しみをも敢然と全うされて、贖いの使命を果たされたのです。
 イエス様の死は、二つの奇蹟を引き起こしました。一つは、38節にあるように、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。神と人とを隔てる幕が破られました。もう一つは、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
ことです 。これは不思議なことです。イエス様はずっと黙っていらっしゃいました。神の子と呼ばれるのに相応しい、神々(こうごう)しいことをなさったのでもなく、人々から嘲笑われるような、弱々しく惨めで裸の恥をさらすようなお姿でしかありませんでした。マルコがたった一言記すイエス様の言葉は、神に向かって、なぜ私をお見捨てになるのですか、という悲しみの叫びでした。しかし、そこにこそ、百人隊長の心を開く、イエス様の「神の子」としての栄光がありました。イエス様は、痛みを撥(は)ね除(の)ける超人ではありません。敵をバッタバッタと薙(な)ぎ倒(たお)す勇者でもありません。でも、そうした苦しみから逃れようともせず、嘲笑に腹を立てることもされなかった。神に見捨てられるという恐ろしい体験をされながら、なお、神への信頼をされました。その信頼を貫かれたお姿をもって、この百人隊長が、
「この方はまことに神の子であった」
という告白が発せられたと言うのです。
 イエス・キリストは、本当に私たち同じ人間となってくださいました。私たちが味わう痛みや苦しみを同じように味わい知っておられます。人の心ない言葉で心を裂かれるような思いも十分に(完璧に)知っておられます。でも、私たちは、イエス様が私たちのためにどれほど苦しまれたのかを完全に知ることは出来ません。十字架の痛みだって何とか想像するだけです。辱めや侮辱も何とか推し量るのが精一杯です。しかしそれよりももっと計り知れない、神の怒り、神に見捨てられるという体験をされたことの重さ、凄絶さは、私たちには決して理解できません。私たちのためにどれほどの苦しみを味わわれ、犠牲を払って下さったのか、その一番肝心な所を私たちは知りません。そして、イエス様の救いに与ったなら、私たちは滅びを免れるのですから、永遠にそれを知ることはないのです。
 今私たちは、私たちが神に見捨てられることは決してないと信じることを許されています。私たちに代わってイエス様が、尊い十字架の死によって、神の無限の御怒りを引き受けてくださったからです。どんなに辛い事や悲しい思いをしても、それは神が私たちを見捨てられたからではありません。人に見捨てられ、信頼していた人に裏切られても、神様は決して私たちを見捨てず、「わが神」として、ともにいてくださいます。私たちは、いつでも、神様の慈しみと最善の御計画とを信じ、告白して、生きる者とされているのです。

「早まって、あなた様に捨てられたと思い込み、自分こそ神を捨て兼ねなくなる私たちです。主イエス様が暗闇の中、十字架で叫ばれた御声を心に刻ませてください。どんな時もあなた様が親しくそばにい給う事実を感謝します。その信頼をもって日々歩ませてください。そんな歩みが、少しでも、イエス様が神の子と呼ばれたに似た証しとなりますように」


文末脚注

1 しかし、ある方は、「イエスは裸ではなかった。濡れ衣を着せられたのである」と言っています。これもまた、言い得た真理です。http://blogs.yahoo.co.jp/manasseh_0001/13214739.html
2 イエス様は神の御子ですし、今までも嵐を沈めたり、病気を癒やしたり、死人をよみがえらせたりなさったのですから、十字架から降りようと思えば降りることは出来ました。しかも、十字架にかかられたのが、ご自分のためではなくて、私たちのため、罪人である人間のためですのに、その当の人間たちからこんなふうに馬鹿にされたら、「やってられない」と降りたってよかったのではないでしょうか。
3 十四60、61。
4 十四62。
5 ルカは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」が最後の叫びの台詞であったことを伝えます(ルカ二三46)。ヨハネも、「完了した」が絶句であったと伝えます(ヨハネ十九30)。しかし、マタイもマルコも、最後に何を言われたか、より、大声で叫ばれて死なれたという事実そのものを伝えています。「十字架上の七つの言葉」という数えられ方もなされますが、マタイとマルコが、そのうち一つしか伝えていない事実もまた、重視したいと思います。
6 イエス様が神から見捨てられた結果、神殿の幕が裂け、私たちと神様との間の隔てが取り除かれました。また、そのもう一つの表れとして、百人隊長がイエス様を「この人はまことに神の子であった」と告白するに至りました。百人隊長は、イエス様が亡くなった瞬間に神殿の幕が裂けたのを見たから、「この人はただものではない」と驚いてこう言ったのではありません。そういうことではなくて、イエス様の死は、神殿の幕も、百人隊長の心を覆っていたものをも力強く破ったのです。

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マルコ14:1-11「できたのに」

2014-04-16 10:09:16 | インポート
2014/04/06 マルコ14:1-11「できたのに」(#130、138、391) 召詞 イザヤ五五6-8

 受難週を前にして、四月を迎えました。今週と来週は、イエス様の死を、改めて御言葉に教えられて、第三週はイースターのメッセージを聞きましょう。第四週から、ルカの福音書を続けて聞きたいと思います。
 イエス様が十字架におかかりになる三日前のことでした。ひとりの女が、イエス様に高価な香油を注いだ、という出来事が起きたのでした。この香油は、5節で、売れば三百デナリ以上になっただろう、と言われるくらい、非常に高価な香油でした。一デナリが当時の一日分の労賃ですから、ざっと一年分の年収ほどにもなろうという、大変貴重な香油です 。当時、お客さんへのもてなしに、香油を注ぐという習慣はあったようですが 、この女性は、イエス様のために、最高級の香油を惜しみなく捧げたのです。これに憤慨したのが、何人もの弟子たちでした。
 4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
 5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
 7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。…」
 この女性のしたことは、無駄ではない、立派なことだ、なぜなら、それは間もなく死なれるイエス様の埋葬の用意となったのだ。そうイエス様は仰います。だから、この人のしたことを無駄だと、三百デナリもの台無しだと決めつけてはならない。そう仰います。
 ところで、イエス様が亡くなられることはイエス様ご自身が何度も予告して、証ししてこられたことですが、まだこの時は弟子のうち誰一人として悟れていなかったのですね。それは、どの福音書もその最後の復活で強調していることです。もっと弟子たちが考えて、イエス様の言葉を真に受けていれば分かったのに、というようなレベルのことではなく、復活の後でなければ誰一人理解できなくて当然の「神秘」だったのです。ですから、この時も、油を注いだ女性もイエス様の死に気付いていたのではないでしょうし、埋葬の用意のつもりで油を注いだのではないでしょう。彼女は、そこまで考えなくて、ただ出来る限り、愛するイエス様のために、ない知恵を絞って精一杯したことが、実はイエス様の埋葬の用意にもなるような大切な意味を持っていた。そう考えた方がよいようです。
 ですから、大事なのはこの女性がすごいとかその洞察が鋭かったとかではないのです。
 9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
とは言われても、この女性の名前も明らかではありません。それはこの人が立派だというよりも、もっと大事なのが、イエス様が亡くなられて葬られる、という事だからなのですね。この高価な香油注ぎをした女性以上に、この高価な香油注ぎを受けたイエス様が、私たちのために死んで下さったお方であることが、世界中に宣べ伝えられる「福音」なのです。この女の人の名前ではなく、どんな高価な香油を注がれても惜しくはない、尊い死を遂げられたイエス様の名前が、今も私たちに届けられているのです。
 もっとも、この女の人の行為、姿勢も大きな意味を持っています。それは、弟子たちが気付いていない、イエス様との生きた交わりを深く語っています。そのキーワードが、今日の説教題として選びました、5節の「できたのに」という言葉ではないかと思います。貧しい人を助けることが出来たのに。無駄にするより、もっと違う使い方、効果的なやり方、有名になる使い道、有効な過ごし方、神様からも人からも褒められるような人生が出来るのに…。イエス様のためだなんて勿体ない、もっと華やかで、立派な活用方法が出来るのに…。そう、人は考えやすいのではないでしょうか。でも、そういう声の裏には、本当に人を大切にして、神様の愛に生きることを「無駄」と考えるような、真っ暗な落とし穴が空いているように思います。貧しい人たちを助けるのだって、お金が沢山あっても、難しいことです。大規模な支援計画を実行することが出来ても、それが本当にそこにいる人を生かして、助けて、独り立ちさせるよりも、ただ大規模で、何百人助けたという数字や統計で自己満足するということだってあるでしょう。そして、あまり助けても役に立たない人は切り捨てる、ということだって起きるのです 。
 誤解しないで戴きたいのですが、だから教会やキリスト教の活動のために一杯献金しなさい、というのでは決してないのです。むしろ、私がここで教えられるのは、この女の人が高価な油を注いだのは、イエス様を喜ばせようとか、イエス様のお役に立ちたい、そんな計算でしたのではなかった、ということです。それはある意味では本当に「無駄」だったのです。香油は注げば終わりなのですから。それがイエス様の御用に役立つとか、他の人のために使ってもらう、ということを考えるなら、本当に三百デナリを持って来たのだと思います。でも、そうはしなかった。それを「無駄」と考えなかった。そこに、この女性の信仰がある、いいえ、イエス様への愛というものを見させられるのです。
 無駄かどうかで考えるなら、誰かを愛することは出来ません。見返りとか自己満足を計算するなら、愛から行動することは出来ません。教会でも、献金をちゃんと管理して、正しく使うという責任はありますけれども、一番基本的なことは、私たちが献金に託して自分を神様に捧げてしまう、という信仰を確かめることです。だから、たとえわずかコイン二枚しか捧げられないとしても、「この僅か分でも立派な働きが出来ますように」と考えるのでもなく、「これぐらい捧げなくても大差はないだろう」と考えるのでもなく、そこに託して自分を神様におささげするのです。日曜日や奉仕も、人や神を喜ばせるため、ほめられるため、ではなく、捧げる事、計算無しにおささげしてしまうこと、無駄なようでそれこそが最も尊い使い方だとするところに、自己中心でない、愛の心が現れるのです。
 実は、イエス様にも、同じ事が言えます。イエス様は、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。それは「無駄」ではなかったのでしょうか。ご自分がお造りになった宇宙の、本当に小さな小さな小さな存在である人間なんかのために、神のあり方を一時(いっとき)でも棚上げして、同じ人間になり、こんなに鈍感で、無理解で、勝手な計算や綺麗事ばかり並べ立てる人間のために、ご自身を犠牲にする事は、無駄ではなかったのでしょうか。でも、イエス様は、それを無駄とはお思いになりませんでした。それは、私たちを救ったら、私たちがすごい事が出来るから、役に立つから、費用対効果が高いから、ではありませんでした。ただ、私たちを愛して、私たちを尊いと思って下さったから、です。私たちが、どれほど弱く、無力で、罪深くても、私たちは、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス様がおられるという「福音」を聞くことが出来るのです。
 この話の前後を挟んでいるのは、1節2節でイエス様をどうしたら捕らえて殺せるかと必死に考えていたユダヤ当局が、10節11節で、十二弟子の一人イスカリオテ・ユダの裏切りによって、イエス様を捕らえるチャンスを得て喜んでいる、という経緯です 。それは、この油注ぎの出来事こそ、イエス様の死をもたらした決定的な出来事だったと言っているように思うのです。ユダはイエス様にどんな期待をしていたのでしょうか。弟子たちは、イエス様を救い主だと信じてはいたのですが、どんな救世主の働きを望んでいたのでしょうか。それは、貧しい人たちを救うことが出来、自分たちの人生や財産を大いに実り豊かにし、力やお金、時間、影響力などを無駄にしない、輝かせてくれる存在だったと言えるでしょう。だから彼らはこの女の人のしたことに憤慨した。それを尊び、無駄を無駄と思わないイエス様に、ユダは愛想を尽かしたと、ここに言われているのではないでしょうか。人の惜しみない愛を理解できない心は、イエス様の惜しみない愛も理解できないし、イエス様を十字架に殺す心なのだ、と言われているのではないでしょうか。
 私も、立派な事をしたと褒められたい。後世に名を残すとか、デキる人だと見られたい、「勿体ない、馬鹿な生き方だ」と思われたくない一人です。でも、イエス様がそういう基準で生きられていたら、私たちのために、人となられ十字架に殺されはなさらなかった。イエス様は私たちのために、ナルドの香油どころではない、ご自分の尊い血潮を注いでくださいました。それを、無駄とは思われなかったのは、私たちが何かを出来るからとかではなく、私たちを尊び、愛されたからでありました。私たちが神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられたのは、このイエス様の、惜しみない愛、尊い死によることなのです。

「私たちのために死なれた主が、今も生きておられて、私共に尊いいのちを与えて下さっています。その愛が世界中に宣べ伝えられています。私共もまた、主に自分自身を捧げ、奉仕や礼拝や献金を心からささげることを通して、主の十字架の尊さを、計り知れない福音を証しさせてください。不器用ではあっても、精一杯の献身を、喜び合わせてください」


ヨハネの福音書十二3の平行記事では、この香油の量が一リトラ(328g、新改訳本文では「三百グラム」)であったとしています。一グラムが一デナリ、とも言える高価さです。
ルカ七46参照。
8節にも「この女は、自分にできることをしたのです」とありますが、この言葉は「自分にあることを」と訳してもよい、5節とは別の言葉が使われています。むしろ、7節に「あなたがたがしたいときは、いつでも彼ら[貧しい人たち]に良いことをしてやれます」とあるのが、5節と同じデュノマイです。更に、この言葉はマルコ十39では、ヤコブとヨハネが、イエス様の(苦難の)杯を飲むことが出来るか、との問に「できます」と答えた時や、十五31で十字架につけられているイエス様に「他人は救ったが、自分は救えない」と嘲笑した時に使われています。「できる」という発想は、イエス様の道への無理解を象徴する言葉の一つだと言えるでしょう。
この前の、十一章十二章と、イエス様を言い負かそうとしてきた祭司長、律法学者たちは、逆に完全に論破されてしまって、もう正攻法ではダメだと悟ったのです。だまして捕らえる以外にない、と思ったのです。

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2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」

2012-11-19 15:05:21 | インポート
2012/11/18 ローマ書六19―23「神の下さる賜物は」
エゼキエル書十六19―23 詩篇十六篇

 六章の最後の部分になりますが、ここでパウロは、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。…」
という言い方をしています。この前後でパウロは、奴隷制を引き合いに出して語っています。神様の恵み、救い、自由は、地上の出来事の何によっても例えることは出来ないものです。けれども、それを奴隷制に準えて知らせようとしているのです。「恵みによって救われるのだから罪を犯そう」というような詭弁に振り回されるような幼稚さ、弱さを慮(おもんばか)って、パウロは人間的な言い方をして、身を屈めて分からせようと順応しているのです。そしてもう一度、
「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」
と、奴隷の譬えを展開します。完璧な譬えには程遠いのですが、しかし、思い切ったこの例証によって、罪の生き方を捨てるようにと言っているのです。
 何度もお話ししてきたように、決してパウロは、罪の生き方を捨てることによって、神の奴隷(しもべ)となりなさい、と命じているのではありません。むしろ、神の恵みによって既に罪から救い出された、もう既に神の奴隷であるという事実を言っており、その事実に基づいて、罪に生きるのではなく、義に生きなさいと言っているのです。私たちは、なお罪を犯してしまうものです。罪の奴隷であるかのように、傲慢や欲や感情に振り回されてしまうことはあります。しかし、罪の奴隷であるかのように生きてしまうことはあっても、罪の奴隷となってしまうのではありません。この区別はとても大切です。
 パウロは20節以下でもこう言います。
「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
 罪の奴隷であった時、とか、その当時、という言い方が示しているように、それは過去の生き方なのです。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となっている、なのです。もう以前とは違うアイデンティティ、立場、身分、肩書きがあるのです。それは、神のしもべ、神のものである、という私たちであるのです。
 「義については、自由にふるまっていた」
というのはどういうことでしょうか。自由に義を行っていた、という意味ではないのは明らかです。ここでは、「自由」と「奴隷」とは反対ですから、罪の奴隷であったということであり、義に従わずに生きてきた、愚かで不正な生き方を指しているのです。それは喜ばしい自由だったのでしょうか。そこに良い実りがあったのでしょうか。いいえ、何もなかったのです。今にして思えば、罪を楽しむ生き方とは、恥じる外ない生き方であり、何の良い実もない不毛な生き方であり、死に向かっていたのです。
 「行き着くところ」
と21節と22節にありますが、この言葉は「終わり・最後」とも「目的・ゴール」とも訳せる言葉です 。罪に従う生き方は、死を目的地・終着駅としています。これは、肉体的な死、最後は心臓が止まって死ぬ、という意味に限らないでしょう。神に従う生き方も、からだの死は避けられないのです。むしろ、神のいのちに逆らい、生きながらにして死んだ者となっている、「霊的な死」と言うべき状態を指しているのでしょう。この世の欲や権力の虜(とりこ)となり、誰よりも長生きをしているとしても、いのちの主である神に逆らったその歩みは既に死んだものなのです。
 主イエス・キリストは、私たちをそのような、死へと向かう生き方から救い出してくださいました。神の恵みによって、私たちはもう神のものとなっているのです。そして、だからこそ、私たちは、
 「聖潔に進みなさい」
と命じられています。罪の方にではなく、聖なるものとされることを願い求めなさいと言われるのです。
 次の23節では、このことを纏めてこう言います。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
 ここには、「死」と「永遠のいのち」とが対照されています。先に、罪のゴールは死、神に従う道のゴールは永遠のいのち、と言われていたのをもう一度纏めています。けれどもやはりここでも、私たちが神に従うことによって、永遠のいのちをいただく、とは言われていないのですね。死は罪の報酬と言われていましたが、いのちは神の下さる賜物です。プレゼントです 。人間が神に従った結果としていのちをいただくのではないのです。これは、神様からの贈り物です。
 これは少し考えると、アンバランスな対比ではないか、とも思えます。義に従いなさい、罪を犯すのはやめなさい、と勧めながら、しかしそのように生きる結果・報いを語っているのではないのです。罪は死をもって報いるのですが、義がいのちという報いをもたらす、と言うのではないのです。義の根拠である、神と主イエス・キリストが示されるのです。パウロが指さすのは、恵みの神です。そこから、私たちが、罪が恥ずべきものであり、そして不毛でしかない現実を見させられて、手足を義にささげることが出来るのです。そこには、
 「聖潔に至る実」
も結ばれるのですが、しかし、それさえも、私たちが頑張って結べるわけではなくて、神の恵みがもたらした実なのです。
 さて、14節でパウロは、
 「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」
と言いました。そして、恵みの下にあるということを口実に、開き直って罪を犯そうとする人がいることを想定しました。しかし、パウロが考える「恵みの下」とは、罪を犯しても赦してもらえる、という意味での「恵みの下」ではなかったのです。その恵みは、私たちを聖潔に至らせ、永遠のいのちへと向かわせる恵みだったのです。恥ずべき罪を恥じさせてくださり、不毛なもの、いくら手に入れても決して心を満たされることないものを追うことを止めて、神の義を求めさせてくださるのが、恵みの神なのです。
 しかし、それほどの恵みを約束されていながら、パウロがそのような屁理屈を想定しなければならなかったのも現実です。私たちの中にもまた、神の恵みを、卑しく自分勝手に、歪めて考えてしまう思いがあるのです。自分の罪を大目に見てくれ、都合の良いようにあれこれと楽をさせてくれる、それが神の恵みだと思う自分がいるのです。
 パウロはそのような幼さを、
 「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」
と言っていました。奴隷という譬えが不完全であるとは分かりながら、幼いキリスト者に分かって欲しくて、こういう言い方をしたのです。
 言い換えれば、キリスト者として成人していく、幼く弱い者から、成人した強い者へと成長していくということは、恵みをも口実として自分にとって居心地のよい生き方に温々としていよう、というのでなく、神に仕え、神のものとして生きることを喜び、本当に納得して、義に従って行くようになる、ということでもあるのでしょう。イエス・キリストにある永遠のいのち、恵み、賜物、といったことが、罪の思いと戦うようにされて、イエス様のように自分をささげ、御心に従ういのちであると悟っていくこと。あれもこれもあったらいい、と手足を伸ばすのではなく、自分の手足も持っているものすべてをも捧げる者とされていくのです。そのような、心の底における変化が、
 「聖潔に至る実」
を結ばせるのです。
 ボンヘファーは、従うことを願わないキリスト者が考えているものを「安価な恵み」、服従へと招く恵みを「高価な恵み」と呼びました 。私たちがキリストに従うことは真に高価な、そして本物の恵みです。その恵みのいのちへと至らせるために、キリストは十字架にかかってくださったのです。

「私共の心を開いて、あなた様に従う幸いを悟らせてください。主イエス・キリストが歩まれたしもべの道にこそある自由を求めさせてください。まだ弱く、幼い者です。だからこそ、あなた様が忍耐をもってお語りくださっている招きに従わせてください。永遠のいのちへと至る道を、いよいよ身軽に、いよいよ惜しまぬ心で、進ませてください」


文末脚注

1 ギリシャ語「テロス」。ローマ書では、十4に「終わらせられた」、十三7で「義務」と訳されています。
2 ギリシャ語「カリスマ」。恵み「カリス」の複数形であることにも、これが報いや資格に基づくものではなく、恵み(一方的な贈り物)であることが表されています。
3 「安価な恵みとは、説教、原理、体系としての恵みのことである。一般的真理としての罪の赦しのことである…安価な恵みとは罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない…安価な恵みとは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである…高価な恵みは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがするゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈物として与えるがゆえに恵みである」ディートリッヒ・ボンヘッファー『キリストに従う』より

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2012/9/23 ローマ書五20―21「恵みが満ち溢れる」

2012-11-08 13:05:19 | インポート
2012/9/23 ローマ書五20―21「恵みが満ち溢れる」
Ⅱ列王記二二章 詩篇一一九65~80

 イエス・キリストのみわざによって、私たちも含めた多くの者が、罪赦され、義とされて、救いの恵みに与る。このことを、パウロはずっと語ってきています。繰り返し、繰り返し、このことを語っている。今日の箇所は、その、ひとつのクライマックスとも言えるでしょう。
「20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
 ただし、この言葉もまた、前後のつながりを無視して読んではなりません。特に直接に繋がるのは、13節です。
「13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」
 アダムから、律法が与えられるモーセまでの間、律法がなかったために人類が罪を認めることは曖昧で済ませられていました。規準がなければ、罪や違反もハッキリとは分からないものです。しかし、その時にも、アダムから入って来た罪が人類を支配していました。すべての人が死んだ、ということに、罪の支配が見て取られたのです。ひとりひとりが犯罪を犯したかどうか、ではなしに、人類の代表としてアダムが神様との契約を破った故に、人類は罪と死の支配下に置かれたのです。
 けれども、それは、実はイエス・キリストが第二のアダムとして来られて、神様の前に完全に忠実な歩みを果たされて、贖いの契約を完成されたとき、そのキリストの契約に入れられた民がみな確実に救いに与る、ということの「ひな型」であって、私たちを断罪し絶望させるどころか、キリストへの確信と希望に満たすものだ、と言ってきたのです。そういう流れで、今日の箇所、
 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。…」
という言葉が語られるのです。多くの人は、律法が与えられたのはそれをちゃんと守ることで、神様に認めてもらい、救いに与るために違いないと思っています。そうではない。人間がすでに堕落して、罪と死の支配下にあったことを、律法によってハッキリと認めさせて、違反の事実を積み上げて、人間に目を逸らさずに諭させるためだったのです。今更、人間に善を行うことを期待されていたのではありません。むしろ、そういう甘い見通しを弄(もてあそ)んでいる人間の目を覚まさせるために、神は律法をお与えになったのです。自分の罪に気づかせる。ただの偶然とか不運とか個性とか弱さ、だれでもあること、ではなく、神に背いている罪が問題なのだ、そう気づかなければならないのです。
 ロイドジョンズという説教者はここで言います。「地上最悪の罪人とは、自己満足し、自己完結している、善良で、道徳的な人々であり、今の自分のままで神の御前に立つにふさわしいと信じている人々である。…全宇宙で最悪の罪人とは、自分にキリストの血が必要であることを全く見てとったことのない人である。それより大きな罪はない。-殺人も姦淫も不品行も、それと比べれば無に等しい。」
 そうして、神様に背を向けたまま、自分が少しでもマシだと自惚れている心が律法によって砕かれるのは、人間を絶望させ貶めるためだったのでしょうか。いいえ、そうではなく、
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」
 神様が人間に律法を与え、違反を積み上げて示されるのは、それによって人間が本当に謙り、悔い改めて、神様のもとに行くためです。自分がした事への報いなんかではない、ただ神様からの一方的な恵み、価のないものがいただけるプレゼントとしての永遠のいのちをいただくためだったのです。
 この「増し加わる」と「満ち溢れる」の対比に注意してください。この後歌います、三〇六番は、聖歌七〇一番を新しくしたものですが、聖歌では「罪汚れはいや増すとも主の恵みもまたいや増すなり」としていました。罪が増しても、その分、それにまさって恵みが表れる。それもまた確かに真理です。私たちは、人間の罪の現実を見、自分の罪に直面させられる時、そこでまた新たに、一層深く大きな主の恵みを味わい知らせていただく、という経験をします。どんな罪も、主の恵みよりもまさるものはありません。これは本当に大きな恵みであり、不思議で尊い主の憐れみです。
 けれども、教会福音讃美歌では「罪の痛みいや増しても主イエスの恵みはなお溢れる」としました。こちらの方がいいし、今日はこちらを是非歌いたいと思ったのです。罪の痛みは一層増す。しかし、それに対する恵みは、「満ち溢れる」という強い言葉です 。「いや増す」は比較級ですが、「満ち溢れる」は、これ以上ない、溢れてしまう、という、最上級です。罪よりも一歩か二歩、恵みの方が常に先立つ、というのではない。罪よりも遥かに深く豊かで強い神の恵みが露わにされるのです 。
 「律法」というのは、旧約聖書の中の規程のことだけではなく、旧約聖書そのものを指す言い方でもありますから 、旧約聖書の歴史がまさに、罪の歴史であると共に、満ち溢れる恵みの歴史である、とも言うことが出来るでしょう。神様の御心に背き続けた人間の姿。そこに怒り、聖なるお取り扱いを露わにされるとともに、主は、真実な恵みをもって民を導かれ、また、預言を与えたり、奇蹟を表したり 、恵みを満ち溢れさせてくださったのです。そういう告白もたくさんあるのです 。
 人は、罪の現実を見ようとせずに、神の愛だけを語り、人間の救いや希望を語ろうとすることを好みます。罪に目を瞑れば、恵みも見えなくなる、と今日の箇所は教えています。律法が入って来たのは、違反を明白にすることによって、恵みを満ち溢れさせるためでした。
「21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
 罪が死によって支配する、とは、罪が人類に死をもたらして死すべき存在という運命を決定づけた、という客観的な面と、人間は死を恐れるようになり、死への恐怖から罪を犯してしまう、という主観的な面があります。同じように、恵みが、義の賜物によって支配する、というのも、神の民を、義とし永遠のいのちを与える、という客観的な面。そして、私たちの生きる動機が(死への恐れや不安からではなく)義の賜物をいただいた-報いとか功績のゆえにではなく、主の測り知れない、一方的な御愛とみわざのゆえに-という感謝、賛美となる、という主観的な面があるでしょう。決して脅迫とか押しつけがましさによってではなく、恵みは、主イエス・キリストのゆえに私たちを、感謝と賛美に押し出されて生きる者としてくれるのです。それが、恵みの支配ということです。外側からの強制ではなく、かといってあやふやで甘いものでもなく、恵みが私たちを支配する。心の内側から、賛美と感謝に動機づけられて歩む者となるようにと支配してくれる。罪のどんな強力な力にも勝って満ち溢れる、恵みの支配の中に私たちが今入れられている。これは何という恵みでしょうか。
 けれども、これが神の御心です。理想とか希望という、果たされないかも知れないものではなく、これこそ神の目的であり、ご計画です。恵みは罪よりも深い。神の愛は、どんな悪よりも強い。だから、人間が堕落したならその回復のためには、ご自身が十字架のような苦難を引き受けるほかないとご存じでも、神様は堕落の可能性をさえ引き受けられたのです。人間がどんなに罪を重ねても、神様はそこに恵みを満ち溢れさせて、私たちをいよいよ恵みに生きる者としてくださるのです。
 そして、私たち一人一人も、本当にこのような主の御心のうちにあることを感謝したいと思います。罪を抑え付けて正しく歩むことを求められているのではなく、自分の罪をまざまざと知らされるときに、そのような自分であることを百も承知の上で、神が私たちを選び、イエス・キリストがこの私のために人となり、十字架にかかりよみがえってくださったことを思い、いよいよ謙らされます。
 ですから、私たちは、恵みならざるもの-恐れや不安、自分の損得や他者を操ろうとする心-から完全に自由にされ、本当に恵みによって支配されることを求めたいと思います。神様は、私たちを恵みによって支配させるために、律法を与えてくださいました。恵みの支配に成長したければ、御言葉を読むことです。それも、知識や温々(ぬくぬく)とした恵みを蓄えるためではなく、自分の罪を知るためです。それも重箱の隅を突(つつ)くように道徳的な問題を自虐的に論うのではなく、神の前に自分が何者かでもあるかのように、人よりも正しいかのように、恵みに縋り付かなくとも生きていけるかのように思い上がっている罪に気づかされて、悔い改め、主の満ち溢れる恵みに立ち帰るのです。

「私共の罪よりも遥かに大きな恵みに導かれている幸いを感謝します。自分の罪を認めれば立つ瀬がないように思うのでなく、ただ主の恵みに治められていることを喜ばせてください。私共を、この強く熱き恵みに、満ち溢れさせてください。私共は小さな器ですが、人を赦し愛する、あなた様の溢れる恵みに満たされた土の器とならせてください」?


文末脚注

1 D・M・ロイドジョンズ『ローマ書講解5章 救いの確信』(渡部謙一訳、いのちのことば社、2009年)519頁。
2 ヒュペルペリッシューオー。ここと、Ⅱコリント七4でしか使われない、強意の動詞です。
3 この路線で、パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(八37)などと言い得たのです。
4 特に最初の五書(創世記から申命記まで)を「律法」と言いますが、旧約聖書全体は「律法(トーラー)と預言者(ナビーム)と詩篇(ケスビーム)」(ルカ二四44)と言われ(それぞれの頭文字を取って、「タナハ」と言われたりもします)、それをさらに短くして、「律法と預言者」と言ったり、「律法」と呼んだりしたのです。
5 ヨシュア記、士師記、列王記など、暗黒の時代にこそ、主の奇蹟は相次ぎました。
6 詩篇一一九篇やイザヤ書など、多数。


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