聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答22~27 創世記2章15~25節「神との契約」

2018-08-28 09:37:16 | はじめての教理問答

2018/8/26 創世記2章15~25節「神との契約」

はじめての教理問答22~27

 創世記の二章、神がエデンの園に人間を連れて来て、置かれて、そこを耕し、守らせたとあります。そして1つの禁止を与えました。

17しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

 さあ、この1つの約束はどのような意味があったのでしょうか。ここには、神と私たちとの関係を示す、非常に大事なメッセージが込められています。「はじめての教理問答」です。

問22 神さまは、アダムとエバをどのような状態に作りましたか?

答 神さまはふたりを、きよく幸せな状態に作りました。

 「聖く幸せな状態」。しかし、それはエデンの園という楽園で何もせず、のんびりブラブラ過ごしていた、という意味ではありませんね。エデンの園は魔法の世界で、アダムとエバが動物や木々とおしゃべりして、幸せに楽しく暮らしていたかのような想像をしたい人もいるかもしれませんが、そういうことを言っているのではありません。人はエデンの園を耕し、守る大事な責任を果たしていました。園の手入れをしなければ、木は枯れ、獣に踏み荒らされ、荒れ放題のジャングルになっていました。人はその世話をしていました。労働していました。それが、聖く幸せな状態でなされていたのです。

 その上で、神はアダムと不思議な約束を交わされました。

問23 神さまは、アダムとどのような契約をむすびましたか?

答 いのちの契約を結びました。

問24 契約とはなんですか?

答 神さまがわたしたちとのあいだに築かれ、みことばにより保証してくださる関係です。

 契約という言葉を聴いたことがありますか? どんな事を思い浮かべますか? あまり馴染みがないようですが、実は私たちの生活には欠かせないことです。皆さんがここに来る時の車もディーラーとの契約をして買ったでしょう。その保険も毎年契約を更新しているでしょう。皆さんの住んでいる家も契約をして購入、若しくは賃貸契約をしています。買い物もクレジットカードも、アプリのダウンロードも、ほとんどのものが契約を交わして使っています。だから安心して使うことが出来ますし、私たちも勝手な使い方をしたらいけないのだ、と分かります。私たちのお互いの関係そのものが、約束を土台としています。言葉を信頼できる、お互いを大事にしてくれる、約束を裏切らないと信じることが出来る・・・そうした安心感がなければ、とても不安です。

 何より、神ご自身が人間との最初の関係で、契約を結ばれました。契約とは

「神様が私たちとの間に築かれ、御言葉により保証して下さる関係」

と言われています。人と人との横の関係とは違い、神と人との縦の関係は対等ではありません。でも、その関係で上から頭ごなしに命令をすることを神はなさいませんでした。契約を結んで、従う事を求めて、その保証もしてくださったのです。神は人間に一方的に従う事を要求することはせず、自分から従う事を求められますし、契約によって、私たちに保証をしてくださっています。契約があるから、私たちは安心できるのです。ではその神の契約は?

問25 いのちの契約では、アダムはなにをおこなうように命じられていますか?

答 完全に神さまに従うことが命じられています。

問26 いのちの契約では、神さまはなにを約束しましたか?

答 もし完全に神さまに従えば、永遠のいのちを与えようと約束しました。

問27 いのちの契約では、神さまはどのような罰を教えていますか?

答 もし神さまに逆らえば、死の罰を与えると教えています。

 神はアダムに、神に従うことを命じられました。この場合、ただ善悪の知識の木から食べてはならない、ということだけではありません。園を耕すこと、守ること、どの木からも思いのまま食べて良いこと、最後に、善悪の知識の木から食べてはならないことが告げられたのです。つまり、人間はエデンの園の管理という大切な役割を与えられたのです。その上、園のどの樹からでも思いのまま食べて良いと仰った。実に太っ腹ですね。

 神の命令とは、禁止や絶対的服従といったもの以前に、驚くほどに豊かな広がり、チャレンジ、信頼をもたらしてくれるものです。この事を忘れると、何か善悪の知識の木が、毒の木か、魔法の木か、その木自体に力がある特別なフルーツだったように思うでしょう。そういう読み方もまた面白いし、神話が好むものですが、そうでなくても十分筋は通ります。大事なのは、人間が神の命令に従うこと、それも神への信頼から、神の言葉を大事にする思いから従うこと。そして、神に従わない自由もあるけれど、それは自分を命から切り離して死に至ることだと学ぶこと。そのために、たった1つの禁止事項が与えられたのです。

 その善悪の知識の木そのものには特別な力も毒も魔法もなかったでしょう。ただの何かの果樹だったのかもしれません。隣にあった「いのちの木」も特別な樹ではありませんでした。善悪の知識の木の実を食べたら死ぬ、と言う言葉を打ち消すような力が、命の木にあるわけではなかったのです。同じように、善悪の知識の木は、それ自体が特別な樹ではなく、この木の実を食べないという小さな約束で、神は人間との「いのちの契約」を与えられました。それに従えば、永遠のいのち、従わなければ死。そうして、神に従うことの大切さを教えようとなさったのです。脅すためではなく、神に従う事、神との契約の大切さを強く教えるために、従わないことが死だと仰ったのです。それは「死の契約」ではなく、

「いのちの契約」

です。

 次回、この契約が破られたことに入って行きます。そして人は死ぬようになりました。その事については次回以降詳しく見ていきます。1つだけ先取りをしておきましょう。それは、契約通り人は死ぬようになりましたが、皆さんがご存じのように、神はそれで終わりにはなさらなかった、ということです。人が死んで終わる、あるいは永遠に滅びることを神は自業自得だとは思われませんでした。かえって、その人間のために、神ご自身がひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架の死、すべての人の罪の罰を自ら担って下さったのです。神の人間に対する思いは限りなく誠実で、真剣です。人間に契約を与えたことも、そこで死を語られたことも、その契約を破った人間のために、その死の一番低い底にまで降りてくださったことも、神がいかに人間を真剣に愛され、励まされるか。私たちをどこまでも対等に扱われるかを語っています。

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マルコ伝16章1-8節「驚きのイエスの福音 マルコ伝」

2018-08-26 18:24:33 | 一書説教

2018/8/26 マルコ伝16章1-8節「驚きのイエスの福音 マルコ伝」

 今月の一書説教はマルコの福音書です。短いだけに、始めて聖書を読む人には、系図から始まるマタイよりも、このマルコから読むことを勧められることも多い書です。

1.「驚き」の福音書

 マルコの福音書は全16章、新改訳2017で41頁です。イエスの誕生(クリスマス)はすっ飛ばして、

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」

と書き出して本論に入る単刀直入な福音書です。一章の一頁に

「すぐに」

が10節12節と二回出て来ます。41回も「すぐに」を繰り返す、スピード感に満ちた福音書です。かといって、細かい所は端折った簡潔な書き方かというと、逆です。マタイやルカより詳しい記事が多いのです。背景の説明や、人物の描写はとても丁寧です。何よりイエスの感情が詳しい。あわれみ[1]、怒り嘆き悲しみ[2]、ため息をつき[3]、憤り[4]、愛しみ[5]、とイエスの感情表現が豊かです。また弟子たちの無理解を度々嘆く箇所があります[6]。神の子イエス・キリストは、本当に人間となってくださった。それも非の打ち所のない聖人ではなく、豊かな感情を持つ人であった。その不思議こそマルコの主題です。

 ですから、この福音書には驚きが満ちています。

「驚く」「驚嘆する」「恐れる」

といった言葉が27回も出て来ます。民衆がイエスの教えに驚き、イエスの癒やしに驚き、弟子たちもイエスが嵐を鎮めるのに恐れ[7]、嵐の上を歩くのに恐れ、不可解な十字架の予告に恐れ。そして最後の最後、十六章8節は、イエスの十字架の死から3日目、墓に駆けつけた女弟子たちが、イエスがよみがえったと知った時、彼女たちが驚き、恐れた姿で閉じるのです。

十六8彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 この終わりでは余りに中途半端だと、後から付け加えられた結びが何パターンかあって、それも聖書には載せられていますが、古い重要な写本は8節で終わっています。明らかに本来は8節の

「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

で閉じていたのです。勿論、実際そのまま黙していたはずはなく、立ち上がってイエスの復活を告げに行き、宣教が始まりました。でも、その前にどれほどイエスの復活に驚き、震え上がり、気も動転して、誰かに何かを言うどころではなかった。それぐらいの恐れ、驚きをマルコはまず大事にしたかった。神の子イエス・キリストが人となって来られた不思議に、十分驚き、恐れることを迫られます。

2.「仕えられるためではなく仕えるため」

 マルコの福音書は8章の最後が大きな分岐点になります。27節でピリポ・カイサリアに行ったとあります。これはガリラヤから更に北に50kmも上った所です。その北の町で弟子たちがイエスを

「キリスト」

と告白します。その後イエスは初めてご自分が

「多くの苦しみを受け…捨てられ、殺され、3日目によみがえる」

という衝撃の予告を告げるのです。そういう意味でもこのピリポ・カイサリアが大きな転換点です。でも弟子はイエスの苦難予告を理解できません。一番弟子のペテロは、キリスト告白した直後なのに、苦しみの最後を語るイエスを脇にお連れして諫め出すのでして叱られる。それでも弟子たちは理解できません。出来ないまま、イエスに着いていきます。着いていきながら弟子たちは

「誰が一番偉いか」

という議論を始め出します[8]。よいでしょうか。イエスは十字架の苦しみを引き受けよう、限りない謙りで、最も低く卑しくなるおつもりでいるのに、弟子たちはイエスが王様になったら誰が一番偉い地位をもらえるかを話題にしていたのです。そういう弟子たちに向かってイエスはこう仰います。

十43しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。44あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。45人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエスは仕えられるためではなく仕えるために、自分のいのちを与えるために来た。弟子たちにはピンと来なかったでしょう。それでもイエスはそのために来られ、真っ直ぐ十字架に進んで行きました。イエスが十字架に死んだ時、弟子たちは男も女も、それをあり得ないこととして深く悲しみに暮れました。ところがそれこそ神の子イエスの選ばれた道だ、自分たちが今まで慕い、馴れ馴れしくし、時には窘めたりもして一緒に過ごしてきたイエスが、本当に神の子だった。それもメシアとしての力を振るって敵も世界も従わせる英雄になる事も出来たろうに、気取らず私たちの友となり、徹底して仕え、自分のいのちを与える道を選ばれた。その事に驚き、震え上がりました。神観のどんでん返しでした。そして、「誰が偉いか」と背比べをする人生観もすっかり覆されたのです。

 『世界一孤独な日本のオジサン』という本では、現代の孤独の問題を解き明かしていました。男性が出世や仕事ばかりで生きてきて、強さや孤独が格好いいとされやすい。それで、コミュニケーション力や人との繋がりは避けたまま、気がついたら淋しい。それを見せるのも難しくて、悶々としたままますます孤独で不機嫌で病気になる、世界的な大問題です。そういう「男性社会」にとって、イエスは全く衝撃です。「偉くなるのが男」と思い込んでいた人生のルールが、実は全く逆だったと気づかされるのです。この世界を造られた神が、プライドも何もかも投げ捨てて飛び込んで、人の友となったというショッキングなメッセージです。

3.イエス、ペテロ、マルコ

 その代表格が一番弟子のペテロです。マルコはペテロの通訳をしていたと伝えられています。マルコの福音書はイエスの最も身近にいたペテロの説教集です。ペテロはかつてイエスを理解せず、逆の道、偉くなり、自分を誇示して尊敬されたい弟子でした。しかし最後にペテロは、「イエスなど知らない」と三度も否定してしまいます。背伸びをしてきた生き方がペシャンコにされた、立ち直りようのない挫折でした。しかしそういう人間の罪や鈍さ、頑なさや甘えも承知で、神の子であるイエスは低くなって人間となり、人に憤りや苛立ちも現しつつ、徹底的に仕えてくださいました。ペテロは挫折とともに、そのイエスを味わいました。自信、プライドが粉々に砕けた時、神の子イエスが全く反対の卑しい道を歩まれた。それも、この勘違いした自分のため、ボロボロの自分にいのちを与えるため、苦痛と屈辱と恐怖と絶望を味わうことを躊躇わないで十字架に死なれた。ペテロはこのイエスに仕え、イエスとともに仕える人生を歩んだのです。そのペテロの助手として通訳したマルコが、この福音書を書いたのです。

 そのマルコ自身、「使徒の働き」で明らかなように、伝道旅行の途中で戦線離脱した失格者でした。後からパウロに、あんな人材は連れて行きたくないと失格の烙印を押されたマルコでした。もう一つ、この福音書で、マルコが自分のことを書いたのではないかと言われる箇所が一つだけあります。14章51節52節に出て来る

「ある青年」

です。逮捕されたイエスについていったけれど、捕まりそうになって、まとっていた亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げていった。この裸で逃げた青年がマルコ自身かもしれません。そんな失敗や挫折をしたマルコにとっても、自分の恥や過去を受け止め、その自分のために恥も苦しみも厭わなかったイエスの姿は、驚きであり、慰めであり、何も言えなくなるような「福音」であったに違いありません。

 神の子イエスが私たちと同じ人となった。感情を持ち、苛立ち、憤り、人を愛しむ人間になってくださった。そして、十字架に死んでよみがえってくださった。教会はその事を「使徒信条」に告白して、私たちも毎週「使徒信条」を告白していますが、それは実に驚きに満ちたとんでもない告白です。そして、神の子イエスがそのようになった以上、私たちも偉くなろう、人にバカにされまい、背伸びしようとする生き方を変えられて、イエスに従うのです。イエスの福音は驚きであり、私たちの生き方にも新しい力と慰めをもたらす物語です。

「神の子イエス。あなたが仕えられることを願わず、私たちに仕えるために人となり、深く謙って十字架の死まで進まれたことに驚き、御名を崇めます。ペテロやマルコ、そして私たちを選ばれ、あなたの器としてくださいました。福音書を読み、そこに私たちへの限りない愛とチャレンジを受け止めさせてください。今も私たちに仕えてくださっている主の御名によって」



[1] 一41、五19、六34。

[2] 三5

[3] 七34、八12

[4] 十12

[5] 十21。

[6] 四13、八17~21など。

[7] 「非常に驚く」(エクサンベオー、マルコのみに四回。九15(群衆が下山したイエスを見て)、十四33(イエスが深く悩み、もだえ)、十六5(女弟子たちが御使いを見て)、6)、「驚く」(サウマゾー4回、五20(イエスの宣教に人々が)、六6(イエスが人々の不信仰に)、十五5(イエスの沈黙にピラトが)、十五44(イエスの死が早いのにピラトが))、「驚く・驚嘆する」(エクプレッソー5回、一22(人々がイエスの教え方の権威に)、六2(ナザレの人々がイエスの教えに)、七37(人々がイエスの教えの力に)、十26(弟子が金持ちが神の国に入るよりは駱駝が針の穴を通る方が易しいとのイエスの言葉に)、十一18(群衆がイエスの教えに驚嘆していた))、「驚く」(サンベオー3回、一27(人々がイエスの悪霊を追い出す権威に)、十24(弟子たちが金持ちが神の国に入る難しさを教えるイエスに)、32(弟子たちが先頭を進まれるイエスに)、「驚く」(エクシステーミ4回、二12(皆が中風の人が立ち上がる癒やしに)、三21(人々がイエスはおかしくなったと)、五42(ヤイロの娘の復活に口もきけないほど驚いた)、六51(弟子たちが嵐を鎮めたイエスに))、「驚嘆した」(エクサウマゾー1回、十二17(カエサルのものはカエサルに、の言葉で))。「恐れる」(フォベオー、四41(弟子たちが、嵐を鎮めるイエスに)、五15(人々がイエスが悪霊を追い出したのに)、五33(長血の女がイエスの言葉に)、六50(湖を歩くイエスに弟子たちが)、32(弟子がイエスの受難予告に)、十32(イエスが先頭を行くのに、弟子たちが)、十六8(イエスの復活に女弟子たちが))、「恐れる」(エクフォボス、九6(ペテロが山上の変貌に))、「口もきけないほどに恐れる、気も動転する」(エクスタシス、五42(ヤイロの娘の復活に人々が)、十六8)。

[8] 九33-37、十35-45。

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恵みを伝える 5つの愛の伝え方② ルカ伝4章16~30節

2018-08-19 21:23:31 | 愛を伝える5つの方法

2018/8/19 ルカ伝4章16~30節「恵みを伝える 5つの愛の伝え方②」

 先週から「愛を伝える5つの方法」をテーマに話しています。今日はその一つ目「肯定的な言葉」について見ていきましょう。キリスト教は愛を重んじる宗教ですが「聖書の宗教」でもあります。聖書という本=言葉を大事にし、神の言葉を聴く、「生きる言葉の宗教」なのです。

1.この聖書のことばが実現した

 このルカ四章の出来事は、イエスがその三年間の活動を始めたばかりの頃に故郷のナザレの会堂で礼拝に出かけた時の事です。当時のユダヤ人は地域ごとに会堂(シナゴーグ)を作り、土曜日には集会をしていました。皆で詩篇を詠い、代表者が立って聖書を朗読し、座って解説をしました。ここでも

「預言者イザヤの書が渡された」

とあります。聖書の言葉、神の言葉を聴き続け、そうして生きていたのです。神の言葉に聴き続けていた。これが聖書の民の姿です。

 そこにイエスは来られて、このイザヤ書の箇所を読み上げました。

18「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
19主の恵みの年を告げるために。」

 その後、座ったのは説教をするためです。皆がイエスに注目する中、イエスはこう仰います。

21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 主がわたしを遣わされた、というその言葉が成就した。つまりイエスは自分がそのイザヤ書にあった「わたし」だ。今日自分が来たことによってイザヤ書に書かれていた言葉があなたがたに実現したと言ったのです。聖書の言葉は、イエスにおいて実現しました。私たちが今ここで礼拝に来て聴き、毎日の生活でも聖書を開いて聴いているのは、ただの知識や道徳や神の命令や生きるヒントではないのです。イエス・キリストにおいて事実となった言葉なのです。イエス・キリストが実現して下さる言葉です。たとえ私たちが誤解したり、疑ったりしているとしても、それでも神は聖書に約束されている事をすべて果たして下さる。その事が、イエス・キリストがこの世界に来てハッキリとお示しになったことです。良い知らせ、解放、目が開かれること、自由、恵みの年。そういう良い言葉を、神は語るだけでなく、事実となさるのです。

 旧約聖書で「言葉」と訳された言葉で一番沢山使われるのは、ヘブル語のダーバルです。この単語には言葉の他に「事実・出来事」という意味があります。むしろ、神の言葉は事実や出来事と一体です。神が天地創造の初めに

「光、あれ」

と仰れば、光があったのです。言葉は事実を作りました。口ばかり、中身は空っぽというのは本来の言葉ではなく、嘘です。神の言葉は事実です。ヨハネの福音書はイエスを

「ことばが人となった」

方と紹介しています。

2.「捕らわれ人」のコトバ

 このように聖書には愛の言葉があり、イエスはその言葉を実現するため人となって下さいました。「だから私たちも愛の言葉を語り、愛に生きましょう」と言って済めばこんなに簡単なことはありません。そんな綺麗事は信じられない、というのも私たちの現実です。

 イエスの言葉を聴いたナザレの人々もそうでした。褒めはしたものの、直ぐに文句をつけ、証拠を求め始め、最後は憤って殺そうとするのです。イエスもそれをご存じでした。本来、言葉は事実と一つで、出来事を作り出すのですが、神の言葉を信じずに背を向けて以来、人間の言葉は事実とは違う、ただの言葉になってしまいました。皆さんの中でも、言葉で傷つけられた経験、裏切られたり振り回されたり、信じて損をした、言葉を信じるのに正直疲れてしまった、という思いがないでしょうか。人の言葉を聴いても素直に受け取りたくても出来ない。そうであれば、神の言葉の聖書を読んだり説教を聴いたりしても、どこかで「騙されたくない」と思うのです。

 18節の

「捕らわれ人」

には、社会的な束縛から何かの強迫観念に捕らわれている人まで入るでしょう。

「虐げられた人」

も深刻な虐待家庭で育った人や一時でも苦しい虐(いじ)めにあった人も含むでしょうか。言葉で「大丈夫、もう安心して」と言っても、到底無理になる経験です。心と体に染みついた事実と余りにかけ離れた言葉は、頭の上を通り過ぎるだけかも知れません。イエスは捕らわれ人、虐げられている人のそうした深い傷、言葉を信じるのが難しい痛みをよくご存じでともに深く痛んでおられます。だから「ただ信じなさい」と仰るのでなく、自分がその言葉の実現となって、人の中に飛び込んで来て、神の良い知らせとなってくださいました。神の恵みを告げ、聖書の約束が本当であることを体現してくださいました。そうすることで、イエスは人を深く解放され、自由を吸い込ませ、主の恵みを体験させてくださるのです。そうして主の恵みに根差すことで、私たちの語る言葉も、本当の言葉になります。それも本当だけど偉そうで威圧的な思いがにじみ出る言葉でなく、神の恵みに目を向ける者として語るよう変えられるのです。イエスが仰った

「主の恵みの年」

は、一人一人にとってだけでなく、互いにも恵みを語り合う時の始まりであるはずです。今はまだ無理でも、そこに向かっているのです。

3.主の恵みから語る

 私は聖書の言葉を大事にして、自分の言葉も大事にしたいと思っている牧師です。同時に、「言葉は不完全な道具だ」という事実も大事な気づきだと思うのです。言葉は難しい、誤解されるし、伝わりにくいし、本当に言いたいことが上手く言えなくて、その場凌ぎで言わなくてもいいことを語ってしくじった経験ばかりです。でもそれは自分が悪いとか相手が悪いとか、「もっとうまく言えれば失敗がなくなる」、ではありません。ヤコブ書三章は

「2言葉で失敗しない人はいない。…舌を制することができる人は、だれもいません」

と断言します。イエスもここで誤解され、憤りを買いました。言葉は不完全な道具です。だから大事なのは、どう語るかより、まず静かに聴くことです。言葉を出す以前に、まず自分の心の不安や恐れ、罪の思い、荒んだ思いを認めて、主の恵みの言葉に十分聴くことです。私たちの足りない不完全な言葉よりも大きな主の愛に静かに聴くのです。心が弱いまま必死に語ることを一旦止めて、自分がしゃべらなくても良い主との交わりの中で落ち着くのです。自分の中に恐れや諦めに捕らわれていた思いに気づかされ、罪責感や批判の虐げから自由にされる。神に代わって、自分が人や自分の主になろうとしていた、そして雁字搦めになっていた罪から救い出される。そういう事実が私たちの中で積み重ねられるときに、言葉もまた命が通って来るのです。

 創世記一章で主がアダムに与えられた命令は、禁止は一つだけで、後はすべて肯定的な言葉でした。

「生み、増え、地を治めよ、休み、耕し、すべての美しい果樹から思いのまま食べよ」

と惜しみない祝福でした。神はダメを並べるのでなく、生きる意味、大いなる使命、信頼、祝福を語られました。そして私たちも互いに、ケチや義務や揚げ足とり以上に、喜びや励ましの言葉こそ届け合うよう勧められています。私たちはつい気になることに焦点を当ててしまいます。言わなきゃ良いことを言って、ギスギスさせてしまいます。神も批判や禁止を言っていると思い込みやすいのですが、しかし主が語られたのは、命の言葉です。私たちの舌も命の言葉、恵みの言葉を掛け合うようにと与えられています。そして、主はそうしてくださるのです[1]

 言葉がどれだけ大事かは、人それぞれに個人差があります。そしてお互いにうまく伝わらないもどかしい経験をし続けるでしょう。しかし、そんなぎこちない私たちのキャッチボールも主の大きな恵みの手の中にあります。主がこの世界の真ん中に来られて、解放、自由を始めてくださいました。恵みの年が来ると宣言されました。その恵みの年に向かって、私たちは歩んでいます。御言葉に励まされ、聖霊に導かれ、不完全な言葉を精一杯使いながら、思いを伝え合い、不完全な言葉の奥にある思いを受け取り合っていくように、召されているのです[2]

「主よ、あなたは人となった神のことば、あなたのうちには嘘も限界も何一つありません。言葉を信じることが難しいこの世界で、あなたは恵みの言葉を力強く語られ、私たちを解放し、あなたのものとして取り戻してくださいました。この約束を私たちが静かに聴き、また互いに届け合えるよう助けてください。私たちの唇もあなたの恵みの器としてどうぞお用いください」



[1] 問題がある場合もあります。その時も、頭ごなしに否定せず、一緒に考え、励ましや大事にしたい思いを伝える。それも肯定的な伝え方です。言葉はまだまだぎこちなく、失敗もするでしょうが、そういう私たちに主は恵みの年を告げて下さいました。だから、焦ることなくゆっくりと恵みの言葉を紡いでいきたいのです。

[2] 聖書にも身の回りのメディアにも沢山のヒントがあります。言葉という、不完全でも大事な、素晴らしい道具を生かしていきましょう。それもただ世渡り上手になるためではなく、主の恵みを告げて、励まし、生かすために使いましょう。

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「永遠の人」伝道者3章1~11節

2018-08-12 16:31:34 | はじめての教理問答

2018/8/12 「永遠の人」伝道者3章1~11節

はじめての教理問答16~21

 夕拝では「はじめての教理問答」からお話ししています。今日はその四回目ですが、最初にお話しした問1は「あなたを造ったのはどなたですか? 答 神さまです」でした。今日は神がどのように人間をお造りになったのか、を問16から21でお話しします。

問16 わたしたちの最初の祖先はだれですか?

答 アダムとエバです。

問17 神さまはどのようにしてひとを造りましたか?

答 神さまは、ご自身のかたちにしたがって、ひとを男と女に作りました。

問18 神さまはわたしたちの最初の祖先を、なにから作りましたか? 答 神さまはアダムの体を地のちりから作り、エバの体をアダムのあばら骨から作りました。

 ここで言われている事は、聖書には神さまが最初にアダムとエバを創り、神さまご自身のかたちに、神さまに似たものとしてお造りになったことが書かれています。これは、学校の理科の授業で学ぶ内容とは随分違うと思うかもしれません。

 確かに、科学では神はあまり扱いません。そして、神を語らずに世界が今までどのように形作られてきたのか、宇宙の始まりから今に至るまでの出来事を研究しています。人間は、神が造られたのではなく、原始的な生物から進化して、今の姿になったのだと考えています。一方、聖書は神が世界を造られて、人間をどのようなものと見ておられるかを詳しく書いています。中には、聖書を信じる創造論が真実か、神なしの進化を語る科学が本当か、二つの意見を対立させて、裁判をしたり激しく争ったりしている人たちもいます。それはとても悲しいことだと思います。

 それと同時に、神を信じるキリスト者で科学の最先端の研究をしている人たちもいます。そうした人たちの本が日本語でも読めるようになりつつあります。私は進化論だけで人間の誕生を説明することが出来るとは思えませんが、科学を十分に調べて研究している人たちのことも尊敬したいと思います。そして、科学の発見も驚いたり楽しんだりしながら、科学だけでは分からない聖書のメッセージに気づいていくことは出来ると信じています。そして、聖書は神が人間を、ご自身に似た者として、特別にお造りになったことを記しています。

 人間は、神さまが特別な関係にお造りになり、神さまの形に従って創造されました。それは、男と女に作る、という在り方でした。ですから人は、男と女同士、お互いを大切にしあわなければ、神のかたちを壊すことになります。そして、神さまは人間を作るのに、何から作られたでしょうか。男性を「地の塵」から作られ、女性をその男性の肋骨から作られたとあります。これは、人間が世界との関係、世界に対する切り離せない責任や使命を持っている、ということですし、男性と女性との関係もとても強いことを教えているのです。地の塵なんて詰まらないとか、男性よりも女性の方が劣っているとか、そういう優劣や競争の関係で考えるのは、本来の神の意図では全くありません。その何よりの証拠は、神が私たちに体だけでなく、永遠に続く魂を下さるという、特別なプレゼントに現れています。

問19 神さまはアダムとエバに、体のほかに何を与えられましたか?

答 神さまはふたりに、永遠に続くたましいを与えました。

問20 あなたにも体のほかにたましいがありますか?

答 はい。わたしの魂も永遠に続くものです。

問21 どうして、あなたの魂が永遠に続くことがわかりますか?

答 聖書がそう教えているからです。

 この聖書の箇所の一つが、先に読みました伝道者の書三章です。

11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

 神は人の心に永遠を与えられた。体は死にますが、心は永遠を与えられています。神になるわけではありませんが、神は人を永遠に続く魂、心を持つ存在としてお造りになったのです。それは私たち皆に言えることです。あなたにも体だけでなく、魂が与えられており、それは永遠に続くものなのです。いつまでも続くものです。私たちは、いつか必ず死にます。それがいつ、どんな形であるかは誰も予想できません。しかし、それは私たちにとっての終わりではありません。体は朽ちても、いつか新しい体を与えられて、永遠に歩むようになる。そう聖書は教えています。人間の魂には永遠が与えられているのです。ですから、私たちの命にはとてつもない価値が与えられています。私たちの毎日は、永遠の中での貴重な一頁です。永遠があるから、一日ぐらいどうってことない、ではなくて、一日をどう過ごしたかの記録は永遠に残るのです。それがどんな歩みだろうと変えたり消したりすることは出来ません。ただ、どんな過去であっても、それを挽回したり、反撃してもっと大きな物語の一部にしたりすることは出来ます。そして、神様はそうさせてくださるのです。

 ここでも、人の心に永遠を与えられた、の前に大事なことが言われていました。それは

「神のなさることはすべて時にかなって美しい」

という言葉です。

 神はこの世界を作られて後は放っておくお方ではありません。世界を長い時間を掛けて、作られて、整えて来られたお方です。科学は、その神の世界に対する壮大な関わりを発見しています。その中で、人が生まれ、植えたり泣いたり出会ったり別れたり、様々な出来事が綴られていきます。私たちは精一杯生きて、考えて、行動を起こしますが、そういう人生を与えてくださった神は神で、長い時間をかけて、神様のご計画を進めておられるのです。人間から見える世界と、神が教えてくださる世界の見方と両方があるのです。科学と聖書は、それぞれに大事なことを教えてくれます。そして、科学が明らかにするように、神は世界を長い時間をかけて作り出しておられます。

 神は人に永遠を与えられました。その永遠をかけて、私たちは神がなさる

「時に叶って美しい」

御業を観ていきます。神はその永遠を賭けて紡いでいく美しい物語に、私たちも参加させるために、私たちを作られたのです。だから私たちは今を大切にします。今がどんな時でも希望を失いません。一人では難しくても、神が一緒に歩ませてくれる教会や家族や友人たちと、それを励まし合っていきます。そのような神への信頼と、お互いとの日々を積み重ねていきます。それが、長い時間をかけて何一つ無駄なくされていく。その末に、永遠をかけて神の美しい物語が作られていくと聖書は語っています。

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イザヤ書43章1-4節「愛を届ける言葉」

2018-08-12 16:21:46 | 愛を伝える5つの方法

2018/8/12 イザヤ書43章1-4節「愛を届ける言葉」

 今日から新しい説教シリーズです。ここ数年、聖書が語っている物語を全体像で捕らえようとするアプローチが盛んです[1]。長老教会の関係でも『神の大いなる物語』が出ています[2]。これを取り上げたいと思っていました所、先月の小会で「愛を伝える方法」(のテーマを「説教でも話してほしい」と言うことになりましたので、ここを切り口に始めて行きたいと思います。

1.『愛を伝える5つの方法』

 イエス・キリストは「最も大事な戒め」を聞かれ、

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

と仰いました[3]。私たちを愛される神を私たちも愛し、互いに愛し合う。それがキリスト教の最も重要な柱です。ではその愛をどのように表していけば良いのでしょうか。立派な答よりも、教会で、またそれぞれの家庭、夫婦、親子でさえ愛の伝え方が分からないということは多くあるのではないでしょうか。私はこの『愛を伝える5つの方法』で随分助けられました。著者は牧師で結婚カウンセラー、夫婦のコミュニケーションを「愛の5つの方法」という切り口で整理しています[4]

 具体的には、肯定的な言葉、充実した時間、贈り物、助ける行為、スキンシップです。大きく分けて愛にはこういう豊かな方法があります。私たちはお互いに違う者ですが、こうした表現を用いて愛を伝え、受け取っているのです。詳しくは来週から見ていきますが、肯定的な言葉をかけること、一緒に時間を過ごすこと、何かプレゼントをすること、お手伝いをすること、手を繫いだりハグをしたりする。そうした形で、見えない思いを届けることが出来ます。

 そして厄介なことにその伝え方も人それぞれです。方法は原文ではランゲージ(言語)。日本語と英語、スワヒリ語と中国語といった外国語はお互いに全く違います。愛の伝え方は5つだけでも、大事にしている方法が違えば会話にならないのです。親が「子供のために一生懸命働いて稼ごう、一緒にいられなくてもお金や必要なものは買えば分かるだろう」と思っても、子供は「うちの親はお金をくれるばかりで一緒にいようともしないから自分のことは愛していないのだ」と孤独であることがあります。夫が何かと妻を誉めても、妻は「家事を手伝って欲しいのに口ばっかり」と怒ることがあります。かとおもえば、口べたな夫が「妻のためならどんな犠牲も厭わない」と思っていて、妻が「あの人は何も話したり手を繫いだりしてくれない」と傷ついている。そういう悲しいすれ違いがあり、大きな断絶になることもあるのです。

2.神の愛の伝え方も

 そのすれ違いを解決する話の前に、人との関係も大事ですが、愛の源泉は神ご自身です。神の愛の豊かさを十分に味わい切れていないとしたら、そこから始めようではありませんか。今日のイザヤ書43章4節

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

はよく知られて愛されている箇所です。この言葉がこれほどよく使われるようになったのは40年も経たないのではないかと指摘されていますし[5]、前後を読むとイザヤ書当時の歴史的な複雑な事情も伺えます。しかしそのような文脈はさておいて、この言葉が取り上げられて、頻繁に引用されること、そして実際本当にこの言葉を瞑想すると深い慰めや力をもらえる事実は、主が聖書で私たちに愛の言葉を語って下さっている証しです。聖書には主の愛が沢山語られています。肯定的な励ましや希望が語られています。「価値はないけれど愛している」ではなく「高価で尊い」という言葉があります。そうした希望の言葉が聖書に貫かれています。

 では「充実した時間」はどうでしょうか。ここでは

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

と言われています。どんな時も主はともにいる、と言われます。同じイザヤ書46章には

ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

と語られています。マタイの福音書はイエスをインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と紹介して、最後28章20節をイエスの

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

の約束で結んでいます。

 「贈り物」は…贈り物だらけ、です。この体も命も、食べ物、家族や友人、自然や健康、美しい音楽、爽やかな風。私たちを支えるもの、必要なもの、私たちを喜ばせ、成長させてくれるものはすべて神からの贈り物です。イザヤは天地の造り主なる神を繰り返して語りますし、山々や木々や鷲や羊が神のメッセージだと語っています。イエスは太陽も雨も神の惜しみなく無条件のあわれみだと言いました。何よりイエスご自身が贈り物で、聖霊も贈り物です。[6]

 また、

「神は私たちの助け」

です[7]。私たちを背負い、執り成し、万事を益となるよう[8]働いておられます。罪の汚れを洗い去り、逃れの道を備え、髪の毛も数え、心の呻きも拾い上げてくださいます。イエスは私たちに仕えるために世に来ました。礼拝もサービスといいますが、人が神にする奉仕ではなく、まず神ご自身が私たちに仕え、十字架の贖いによって、私たちを今ここにおらせてくださる。しもべとなって私たちを助け、支えてくださる神への礼拝なのです。

 最後のスキンシップもイエスを思い起こしましょう。イエスは私たちと同じ肉体を持つ人間となりました(受肉)。言葉だけで癒やせるのに、病気の人の肌に触れました。子どもたちをハグして祝福されました。今も「主の聖晩餐」という触って味わう儀式で体感させてくださるのです。

3.愛ならぬものでなく愛を

 私はこの5つの視点で神の愛がグッと身近になりました。そして、神の愛を豊かに味わう時、その愛が本当に一方的な愛、無条件で無制限で、聖なる愛だと確認しました。私たちが人に伝えるのもそのような愛、主イエスが下さった愛を土台とする生き方であるはずです。神の無条件の愛を土台として夫婦や親子の関係も本当に「相手を愛したい、大事にしよう。それでもうまく行かない」という時は「5つの方法」はヒントになります。しかしその前に、私たちが神の愛から離れて鈍感になっている問題があります。自分が神に愛されている者、色々あっても「高価で尊い者」ではなく、努力や業績、時には嘘や力尽くででも価値を手に入れなければ愛されないと思い込まされています。大事な夫婦や親子、教会の中でも「愛を伝えたい」はずなのに、愛のようで神の愛とは違うものを届けてしまう事が多いのです。愛してくれない寂しさや非難の方が大きくて、かえって関係をこじらせてしまう事が多いのです。あなたには愛がないとか、何か良いことをして条件を満たせば愛される、というメッセージは愛ではありません。人の生き方を土台として神の愛がもらえるのではなく、神の惜しみなく一方的な愛が土台になり、だからこそ罪を捨てて、神の家族として生きていこう、それなら愛のメッセージです。

 聖書は、神の愛から離れて、お互いにも傷つけ合っている人間の歴史が記されています。しかし、その人間をも神が愛されて、神の愛に気づかされていく歴史です。その愛に気づくことで、人も互いに愛し合い、赦し合い、ともに歩むようにと招かれる物語です。その1つの手がかりとして、皆さんは自分がどんな方法で愛を表しているか、どんな方法で愛を一番感じられるか、また皆さんの周りの大事な(でもちょっとぎこちなくなっているかもしれない)人が自分とは違う表現の人ではないか、考えてみてください。そして、お互いの違いを残念だと思わずに、その違うお互いが神に愛され、イエスの愛を注がれている者として見るようにしていただきましょう。違う私たちが、お互いの違いを受け入れ、不器用ながらも愛し合うようになっていく。そういう小さな見えない所での回復によって、神の国がまた一頁前進するのです。

「大いなる、そして本当に細やかで惜しみない愛の主よ。あなたが私たちを愛して、言葉や時間や贈り物を下さり、私たちに仕えてくださっていることを感謝します。まだまだあなたの愛を知り、気づくに足りない私たちが、十字架と復活の主を仰ぎ、その恵みを至る所に見ながら、お互いの関係をも育てていくことが出来ますよう、知恵と恵みの聖霊によってお導きください」



[1] ベルンハルト・オット『シャーローム 神のプロジェクト』(いのちのことば社、杉 貴生 (監修)、 南野 浩則 (翻訳)、2017年)、子供向けには、サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブルストーリー 旧新約聖書のお話』(いのちのことば社、廣橋麻子訳、2009年)。また、W・ブルッゲマン『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(日本キリスト教団出版局、鎌野直人、2014年)も。

[2] ヴォーン・ロバーツ『聖書の全体像がわかる 神の大いなる物語』(いのちのことば社、山崎ランサム和彦訳、2016年)。本書の出版は、日本長老教会のグレースシティチャーチ東京のプロジェクトによるものです(あとがき「本書について」参照)。

[3] マルコ伝12章29-31節。

[4] 本書は、アメリカ長老教会の牧師ティム・ケラーが『結婚の意味 わかりあえない2人のために』(いのちのことば社、廣橋麻子訳、2015年)の第五章で引用しています(187、218、221頁以下)。なお、以下のサイトには、本書の「5つの言葉」のどれが自分の「第一言語」かのテストがあります。http://www.ijcchawaii.org/message/The%20Five%20Love%20Language/The%20Five%20Love%20Languages.htm

[5] 後藤敏夫『神の秘められた計画 福音の再考 - 途上での省察と証言』(いのちのことば社、2017年)113頁。

[6] ルカ伝十五31「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。』」もどうしても見ておきたい言葉です。

[7] 詩篇四六1「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」他。

[8] ローマ八28。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

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