聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

2022-03-26 12:00:29 | こども聖書
2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

 夕拝で読んできた「こども聖書」は、旧約聖書のエピソードが先週で終わりました。今日は、その中になかった大切な話を『ジーザスコーリングバイブル』から選びました。それがこの「建築家ネヘミヤ」、旧約の結びにある、捕囚から帰還した出来事です。



 先週まで見てきたダニエル、エステルの出来事は、エルサレムから遠く離れたバビロンやペルシャでの出来事でした。イスラエルの民は、神である主の言葉に背き続けたため、遠くバビロンへと連れて来られたのです。



 しかし、七〇年したら、再びエルサレムに帰る、という約束をお与えになっていました。七〇年、決して短くはありませんが、そんな先のことを言われても信じがたいのに、神様は歴史を大きく支配されて、遠いバビロンからイスラエルの人々を連れ戻してくださると約束されていました。そして、そのバビロンでも主はイスラエルの民とともにおられました。そして、七〇年後、本当に、彼らはバビロンから帰ってきた。帰還したのです。それは、紀元前538年と、紀元前458年の2回に亘りました。今日のネヘミヤは、その二回目の出来事です。

 ネヘミヤが、二回目の帰還でエルサレムに行ったのは、エルサレムの城壁が敵に焼かれてボロボロだと知ったからでした。ネヘミヤはペルシャの王宮で、よい地位を得て、仕事をしていましたが、故郷エルサレムの悲惨な知らせに一大決心をして、王の元に行き一時帰国を願ったのです。



 ペルシャの王アルタクセルクセスは、ネヘミヤの願いを受け入れてくれました。必要なものすべてを揃えてくれて、ネヘミヤの推薦状まで持たせてくれます。こうして、ネヘミヤはペルシャを後にして、エルサレムに向かいます。帰って来てから、ネヘミヤは焼け崩れた城壁を見て回った後、言います。

2:17私は彼らに言った。「私たちが直面している困難は見てのとおりだ。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ。さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」

 このネヘミヤの言葉に励まされて、民は再建に取りかかります。しかし、反対する人たちもいて、ネヘミヤの働きはなかなか簡単には進みません。ネヘミヤは腹を立てます。悩み、祈り、神様に愚痴ります。一緒に働いている人たちも、段々疲れたり、狡くなったりして、ネヘミヤは頭を振り絞って、指揮に当たります。そうして、敵や裏切り者の攻撃をかわして、民の心を奮い立たせたりしながら、城壁は再建されたのです。



六15こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。16私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。

 工事の完成の後、お祝いの礼拝をしました。



 そして、エズラという学者が聖書の戒めをまとめて、皆の前で読み上げました。なぜなら、本当の再建は、城壁や建物が建て直されることではないからです。神の民としての再出発は、見えない心で、神様に立ち帰って歩み始めることだからです。だから、エズラは聖書をまとめて、皆に聞かせました。



 しかし聞いている人々は泣き始めました。聖書に書かれた神の命令や、人間の罪が心に刺さったからでしょうか。自分たちの悪、ボロボロだった都、神様の御心に背いた過去に、心が責められたからでしょうか。



 その民を見て、ネヘミヤとエズラは言いました。
八9-10
「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」

 主の言葉は、確かに人の罪を責めます。しかし、責められるだけなら絶望です。責めるだけなら神様でなくても、人間でもできます。神は、責めるしか出来ない方ではありません。建て直してくださるお方です。バビロンの捕囚からも民をエルサレムに帰還させてくださいました。敵たちがボロボロにして、建て直すなんて無理だと嘲った城壁を再建させてくださいました。その神の言葉を知る時、自分の罪や失敗を気づかされて泣くことはあるとしても、その私たちの失敗や後悔から、神がもう一度、立ち上がらせて歩み出させてくださると知ります。それこそが神だと励まされて、喜び祝い、互いに励まし合う。それが神の下さる信仰です。主が、愛する人々を建て直してくださる事こそ、敵を恥じ入らせる裁きです。その主を喜ぶことこそ、あなたがたの力、私たちの力です。

 ここまで旧約聖書を見てきました。その最後にあるのがネヘミヤとエズラの再建です。旧約の歴史全体が再建の繰り返しでした。主は、人間がご自身に背いても、何度でも何度でも、決して諦めずにやり直させてくださった。ノアの方舟、出エジプト、ダビデも、ダニエルも、神の回復の力を証ししています。それが旧約聖書です。



 そして、その旧約聖書全体が指し示していたのが、やがてキリストが来られる。私たちを心から癒やしてくださるお方。私たちを建て直してくださるお方。私たちが諦めたり、もうこんなもんだと決めつけたりしていても、キリストが来られて、新しいことをしてくださる。私たちを神様に結びつけてくださる。私たちを責めたり脅したりする人間とは違う、本当に聖なるお方、罪から救い、喜びを与えてくださるお方。そのために、命を捧げてくださるお方が来ると約束していたのです。この方がイエスです。この方を信じていいのです。

 『ジーザスコーリングバイブル』は、ここにこんな神からの呼びかけを載せています。

ジーザス・コーリング
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
マタイによる福音書5:17 新共同訳聖書

神さまを第一に愛しなさい、そしてほかの人々をあなた自身のように愛しなさい。これがもっとも大切な神さまのきまりです。しかし、イスラエルの人々は神さまのきまりに従うかわりに、まわりの国々の罪に従うことがよくありました。そのとき、イスラエルの人々はすべてを失いました。なぜなら、まことの神さまだけを信じる信仰がなかったからです。神さまはネヘミヤを用いて、何人かのイスラエルの人々をエルサレムにもどされましたが、彼らは救い主が必要でした。神さまの民は自分自身で自分たちを救うことができるほど立派になることができません。それで、神さまは神さまのひとりご--唯一の神の民をとこしえに救うことができるわたしをつかわしたのです。
(『ジーザスコーリングバイブル』137ページ)

 ネヘミヤが城壁を建てたように、この教会堂も世界中の会堂も、情熱を持った人たちが建てました。何かを建てる、それ以上に壊れたものを立て直し、修復しながら、誰もが生きていきます。それは、神ご自身が建て直すお方だからです。イエス様が命がけで世界を再建し、私たちを癒やしてくださる。そして、やがて必ずその工事は完成し、永遠にお祝いする日が来るのです。私たちが何かを造り出す事は、その一環を担う事です。



「造り主であり作り直される主である神。あなたがこの世界を完成される創造主であり、私たちをもそのあなたの栄光を現すものとしてお造りくださったことを感謝します。私たちの世界や心にある破れを、諦めを、約束通りどうぞ繕い、時間をかけて癒やしてください。あなたを小さく考える罪から、あなたを喜ぶ力へと、私たちを造り変えてください。そして、私たちの生涯の業すべてを、あなたの大きな再建の業に用いてください」
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2022/3/6 ダニエル書6章「ダニエルとライオン」こども聖書㊾

2022-03-05 12:36:02 | こども聖書
2022/3/6 ダニエル書6章「ダニエルとライオン」こども聖書㊾

 先週に続いて、ダニエル書です。
 旧約聖書の終わり頃、イスラエルの民は、イスラエルの地から遠く離れたバビロンに連れて来られていました。しかし、そのバビロンでも、神である主は変わらず神でした。バビロンは神ではなく、やがてペルシャが帝国になったのです。その王がダリヨス(ダレイオス)でした。彼もダニエルを大臣にしました。

1ダレイオスは…ダニエルを含む三人の大臣を置いた。…3…ダニエルは、ほかの大臣や太守よりも際立って秀でていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからであった。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。

 これは、他の大臣や太守には面白くありません。何とかして粗探しをしようとします。しかし、ダニエルは忠実で、何の怠慢も欠点も見つかりませんでした。そこで、

5そこでこの人たちは言った。「われわれはこのダニエルを訴えるための、いかなる口実も見つけられない。彼の神の律法のことで見つけるしかない。」

 神の律法は、神である主だけが神であることが根本にあります。ダニエルは、バビロンに来ても、この神の律法に従って、神である主だけを礼拝して、いつもこの神に向かって祈っていました。それを悪用することにしたのです。大臣たちは、ダレイオス王に、

7…今から三十日間、王よ、いかなる神にでも人にでも、あなた以外に祈願をする者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれる…

という法令を提案しました。



 こんな法令はおかしい、何か裏があるに違いない、などとも思わずに署名をしてしまいました。これで、今から三十日の間、誰でも、王以外のものに祈願をしたら、ライオンの穴に投げ込まれることになってしまったのです。

10ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。

 ダニエルは色んなことを考えたのでしょうが、何があったにせよ、家に帰り、エルサレムに向けて、以前と変わらず、神に祈りました。それも、感謝を捧げました。



 さあ、それを見ていたのは、あの大臣たちです。彼はダニエルが法令を破っているのを確認すると王の所に行きます。そして、あの法令をダニエルが破ったと告げたのです。

14このことを聞いて王は非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った。そして彼を助け出そうと、日没まで手を尽くした。

 欺されたとようやく気づいたのです。でも自分が言ってしまったことを取り消す勇気はありませんでした。大臣たちに迫られて、遂に諦めて、命令を出してしまいます。



16…ダニエルは連れて来られて、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「お前がいつも仕えている神が、お前をお救いになるように。」

 穴は封印されます。王は何も食べずに一睡もせず、朝を迎えます。

19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。20その穴に近づくと、王はダニエルに悲痛な声で呼びかけ、こうダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか。」

 するとダニエルの声が聞こえます。これはこの章で最初で最後のダニエルの台詞です。

21…「王よ、永遠に生きられますように。22私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」

 ダニエルの仕えている神は、獅子の口からダニエルを救い出してくれました。一晩、ライオンといてもダニエルは安全でした。ダニエルの仕える神は、私たちが仕えている神です。この日本で、他の神々を拝んでいる人が多くて、時には聖書や教会の礼拝が否定されるようなこともあるとしても、私たちは、堂々と主だけを礼拝します。同時に、この日本でもどこでも、ただ主だけがすべての人の神です。ダニエルは、神の前に自分が潔白であることと、王にも何も悪いことはしていません、と言ました。たとえダレイオスが間違った法律に署名をして、神を差し置いて自分に祈るよう求めてしまったとしても、そのダレイオスを非難したり、イジメ返そうとしたりはしませんでした。自分は神だけを礼拝しましたが、他の人たちの礼拝や宗教まで非難はしなかったのです。

 ダレイオスは決めてしまった法令は法令だから、とダニエルを獅子の穴に投げ込みました。しかし、ダニエルを助け出した後、ダレイオスは言います。

25…「あなたがたに平安が豊かにあるように。26私はここに命じる。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。この方こそ生ける神、永遠におられる方、その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。27この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の口からダニエルを救い出された。」

  ダレイオスは法を変えるのです! そうです、法令は間違って人を殺しかけたら、間違いを認めて改め、法よりも大事ないのちを守るため、法を変えよう」と言えばいいのです。大事なのは決まりよりも命です。

 ダニエルの神、私たちの仕える生ける神は、私たちの命を守ってくださるお方です。獅子をも静まらせる力ある神は、私たちの命を救うため、神の栄光を投げ打ってくださいました。ご自分を拝まない人間を罰したり地獄に投げ込んだりするより、ご自分が人間、イエス・キリストとなり、十字架にかかり、「神を冒涜する者」との汚名を着せられました。死んで葬られ、その墓は石で封印がされました。
 しかし、石で封じられた墓は開かれ、イエスは生ける神として現れてくださいました。イエスは、神の救いの力の証しです。そして私たちに、神を愛し、互いに愛し合う歩みを下さるのです。

「主よ、ライオンで脅したり、戦争を仕掛けたり、今も人を踏み躙られる事が続きます。あなたが私たちの神であり、私たちを愛される王です。ひとり子イエス様は、私たちを取り戻すため、命を捧げてくださいました。人が考えるよりも遙かに尊く、力強く、私たちに仕えてくださる神に、私たちも仕え、互いに仕え合う歩みで証しさせてください」


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2022/2/27 ダニエル書3章「燃える炉」こども聖書㊽

2022-02-26 12:35:22 | こども聖書
2022/2/27 ダニエル書3章「燃える炉」こども聖書㊽

 今日のお話は、旧約聖書の残り四つのお話しの一つです。旧約聖書の歴史の終わり頃。

「王の時代から長い長い年月が経ちました。イスラエルはバビロンという国と戦って、負けてしまいました。そしてイスラエルの人はみんな、バビロンに連れて行かれました」

とあった通り、イスラエルの人々は遠くバビロンに移されたのです。



 バビロン捕囚の時代です。そして、バビロンの王ネブカドネツァルは、本当の神を知りません。そして、

ダニエル3:1
ネブカドネツァル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた。

 これはメートルに直すと、高さ26.4m、幅が2.64mちょうどこの講壇の半分ぐらいの幅で、高さはその十倍。


 マンションの九階ぐらいの高さです。鳴門図書館はその半分ぐらい。



 どうやってそんな大きな像を造ったのでしょう? それを平野に建てて、何の役に立つのでしょう? それは多くの国々の人々が、王の命令に従い、自分たちの宗教よりもバビロンの命令に従うための試金石だったのかもしれません。そのお披露目の式典も仰々しいものでした。なんとも大袈裟で、自慢したがりな空っぽさがギラギラしています。しかし、集まった大勢の人々は黙ってこの命令に従いました。巨大な金の像と、大がかりなセレモニーで、圧倒されて、言われるがままになったでしょう。従わない人がいるなんて、誰も思わなかったでしょうか。ところがイスラエルの若者三人は違いました。ある人々が訴えます。

12…王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。」


 王は怒り狂って、三人を脅し「金の像を拝むならそれでよい。拝まないなら、火の燃える炉に投げ込むぞ。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」と脅しました。これに、あの三人は、きっぱりと答えました。

16…「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。17もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。18 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」

 私たちの神は、救い出すことが出来ます。しかし、たとえそうでなくても(神が私たちを火の中から救い出されないとしても)私たちはあなたの神々や金の像を拝むことはしません。こう言い切るのですね。私たちが仕える神だけが、私たちが拝む神です。王が造る金の像はいくら巨大でも、救いも滅ぼしも出来ません。今この金の像はどこにあるかも分かりません。抑も、たった三人の若者が拝まないだけで、怒り狂う。脅しても言うことを聞かせられないで、ますます怒り猛り、三人を火に投げ込むことも、王も金の像が、無力で、偽物の神で、虚しいことの証拠に他なりません。

 怒りに満ちたネブカドネツァルは、炉を何倍も熱くして、三人を投げ込ませます。彼らを連れて行った屈強な兵士たちさえ、その火に焼き殺されてしまいました。三人は、縛られたまま、炉に投げ込まれてしまいました。



 しかし、そこで驚くことがおきます。

24そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。…25…だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」



 何の害も受けていない。王は唖然として、三人に出て来るよう命じます。

27…三人を見たが、火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった。

 三人は救われたのです。
 この時は王もイスラエルの王を認めました。とはいえ、その後も彼はまた思い上がって、神を忘れます。その後も今日まで二千年以上、人間が神を造ったり自分を拝ませたりする出来事は続いています。逆らうなら命を奪う、と脅して、多くの人を強いてきました。日本の国でも、天皇陛下を神として拝ませて、逆らう人が酷い目に遭わされることが、80年にもならない前にあったのです。ですが、そうして無理やり人を従わせようとすること自体が、そして、それでもみんなを従わせることは出来なかった事自体が、どれも本当の神ではない、無理があることの証しです。

 本当の神は無力どころか、世界のすべてを創られました。火の中からも救い出せます。いつも私たちと一緒にいて、支えてくださり、「たとえそうでなくても人間や偶像は拝みません」という勇気も与えてくださいます。三人と一緒にいた四人目の誰かは、きっと神様でしょう。見えない神がともにいたのです。預言者イザヤも言いました(43:2)。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 こう約束した主は、本当に彼らとともにいてくださいました。そして、ともにいることを最も現して下さったのは、御子イエス・キリストです。イエス様は、火の中どころかこの世界に飛び込んでこられました。人間の思い上がりや冷たさ、非難や裏切りに身を焼かれるような生涯を歩まれました。最後まで、その苦しみから救い出せる天の父を信頼しつつ、救われないで十字架に息絶えるまで、私たちのため、ご自分を与えきってくださいました。それは、本当に私たちとともにいてくださることの証しです。


 この本当の神を知れば知るほど、私たちは人の脅しや無理な要求にもノーと言えます。世界中が神ならぬものにひれ伏しているようでも、私たちは決して一人ではありません。仲間がいます。イエスがいてくださいます。だから、私たちが勇気をもって本当の神を告白して、神ならぬものに頭を下げないことは、出来ます。どんなに脅されても、私たちの心の自由は、決して奪われることは出来ません。その行動で、大勢の流れを変えることが出来るのです。そういう勇気ある生き方も、本当の神が下さるのです。



「本当の神である主よ。遠くバビロンの地で、三人の若者が見せた真っ直ぐな信仰に、あなたがともにおられる神であることを励まされます。生きて働かれる主よ、そのあなた以外の何者も神ではないことを、私たちの生き方に貫かせてください。あなただけを礼拝する生活により、この世界の暴走を食い止め、風穴を開ける私たちとしてください。私たちと常にともにいて、恐れから救い出し、今ここであなたを礼拝させてください」
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2022/2/13 Ⅱ列王記5章「ナアマンを助けたエリシャ」こども聖書㊼

2022-02-12 12:23:40 | こども聖書
2022/2/13 Ⅱ列王記5章「ナアマンを助けたエリシャ」こども聖書㊼

 預言者エリシャは、旧約聖書で最も多くの奇蹟を行った人です。今日の「ナアマンの癒やし」はそのエリシャの預言でも真ん中に、一番詳しく描かれているエピソードです。

1アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。

 アラムはエリシャの国、イスラエルの民にとっては当時、敵対関係にありました。そのアラムの将軍がナアマンです。彼は地位も、将軍としての実績もありました。しかし、彼の体はツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。この病気は、直ぐに死ぬとか苦しむとか、人に感染するというような恐ろしい病気ではありません。しかし、見るからに病気と分かるので、とても恥ずかしく、嫌われるような病気だったのです。

 この人の家に、イスラエル人の少女がいました。彼女は、ナアマンが最近、イスラエルの地からさらわれてきたのです。とても悲しく寂しく、ナアマンを恨んでいたとしても不思議ではありません。でも、彼女はナアマンの病気を見ても「いい気味だ」と喜んだりはしませんでした。その反対に、ナアマンの奥さんにこう言ったのです。

3…「もしご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

 この少女の言葉は、どんなに勇気と恵みの満ちた言葉でしょうか。

 この言葉を聞いたナアマンは早速、王の所に行き、イスラエルに行くことにしました。アラムの王も手紙を書いてくれて、ナアマンは銀340kg、金70kg、晴れ着十着、沢山の贈り物を持ってイスラエルに行きました。



 しかし、彼がまず行ったのは王の宮殿でした。そこにエリシャはいませんでした。ナアマンはエリシャの所に行きました。しかし、エリシャは、

10…彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」



 こう言っただけで、家から出ても来ませんでした。ナアマン将軍は激怒して去ります。

11…言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。

 エリシャの対応は、将軍ナアマンにとってはプライドが許さないことでした。顔を見せもせず、汚いヨルダン川で体を7回洗え、それだけ? もっと神々しく、自分も敬われて、奇蹟を見せてくれていると思っていたのに! でも私たちもそんなことを思いがちです。神のなさることは派手な事ではありません。何より大事なのは、私たちがプライドを捨てて、謙って、神を神として受け入れることです。その時、彼の僕たちが、

13…近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」



 そうだ、難しいことを言われたら、それをしただろうに、簡単だからと怒るなんておかしな話です。プライドで腹を立てて拒むなんて、損で愚かな話です。こう部下たちが言ってくれたことでナアマンは思い止まり、近くのヨルダン川に降りていきます。彼は、

14…神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。



 主の力によって、ナアマンのツァラアトは完全に良くなりました。彼は引き返します。

15…「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」



 しかしエリシャはこれを受け取りません。エリシャはナアマンに、自分が癒やされた事が神様からの一方的な贈り物だと知って欲しかったのです。エリシャが贈り物を受け取ってしまったら、そこで終わってしまいます。敵同士の関係だったはずのアラムの将軍ナアマンを、イスラエルの神、主が癒やしてくださったことへの驚きが見えなくなってしまいます。だから、受け取りませんでした。しかし横にいた僕ゲハジは違いました。随分遠くに行ったナアマンを追いかけていって、贈り物をもらってしまったのです。そのゲハジに対して、エリシャは言います。

26…今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。

 主の民イスラエルが、神を侮って混乱していました。アラムに連れ去られた少女の方が優しさを見せ、そこからやってきたナアマンのほうがイスラエルの王よりもずっと信仰的でした。そのナアマンの行動を助けたのは、ナアマンの部下たち。この異邦人たちの行動は、本家本元のイスラエルを恥じさせ、主への信仰に立ち戻らせるはずでした。銀や金や晴れ着をくすねようとする、そんな小さながめつさより、イスラエルの人々の心を主が清めてくださって、病んだ心を癒やしてくださるよう求めるべき時でした。

 預言者エリシャはエリヤよりも目立ちません。しかし、そのエリシャこそ最も多く奇蹟を行った預言者です。また、エリシャ(わが神は救い)の名はイエス(主は救い)にも通じます。エリヤに続いたエリシャは、エリヤの再来でもあったバプテスマのヨハネに続いたイエス様と重なります。そして、イエスもヨルダン川に降り、川に入りました。ナアマンと同じように、イエスもヨルダン川で、洗礼を授かり、弟子たちにも洗礼を授けたのです。

 もっと綺麗な川もあるのに、イエスはヨルダン川に下りました。将軍よりも尊い神の右に座する方が、謙ってくださいました。その名誉を守る、もっとましな選択も出来たのに、汚れる道に踏み入りました。それは、私たちをきよめてくださるためでした。ヨルダン川は綺麗ではなくても、イエスはそこで弟子たちに洗礼を授け、ご自分も洗礼を受けられました。その恵みを映し出すゆえに、美しい川となりました。私たちの心を新しくし、思い上がったプライドから、自分ではどうしようもない恥から、救い出してくださり、喜びと感謝の道を行かせてくださる。私たちは洗礼を通して、キリストの謙りに与り、プライドや金銀よりも尊いもののために生きる歩みを生き始めているのです。



「主よ。エリシャとナアマンの話を有り難うございます。あのナアマンが身を浸したヨルダン川で、あなたも洗礼を授けられ、弟子たちに洗礼を授け、新しい生涯を始めさせました。来週の夕拝で洗礼式を行いますが、ここにナアマンと主の謙りを覚えて、私たちもともにあなたに与えられた新しい人生の道を確かめ、ともに祝う時としてください」
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2022/2/6 Ⅰ列王記19章、Ⅱ列王記2章「エリヤとエリシャ」こども聖書㊻

2022-02-05 12:31:21 | こども聖書
2022/2/6 Ⅰ列王記19章、Ⅱ列王記2章「エリヤとエリシャ」こども聖書㊻

 先回まで、預言者エリヤの話を見てきました。エリヤは、時の王に立ち向かって、干ばつを宣言し、彼が祈ると天から火が下る奇蹟まで起きました。しかし、その華々しい奇蹟によっても、王や民が回心して、主なる神に立ち戻ることはありませんでした。失意の中で、主がエリヤに示されたのが、若いエリシャに、後を継がせることでした。

Ⅰ列王記十九16…シャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

 最初にエリヤがエリシャを見つけたとき、エリシャは畑で耕していました。

19エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。…

 十二軛とは十二対、二十四頭の牛を持っていたのですから、エリシャの家はとても裕福であったのかもしれません。アハブ王でさえ干ばつで家畜を生き延びさせるのに頭を抱えていたのですから。ともかくエリシャは畑を耕していました。それでも構いません。

…エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、20エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」



 「外套」を掛けられたエリシャは「あなたに従います」と言いました。今でも、自分の仕事着、ユニフォーム、また服を、自分の後継者に与える、という仕草はありますね。エリシャはエリヤから、外套を着せられたのです。こうしてエリシャはエリヤとともに数年間、預言者としての訓練を受けました。その間にあの王アハブは死に、その子も死んで新しい王になりました。エリヤももう世代交代です。主はエリヤに二つの町を回らせました。エリシャは待っているようにと止められても、エリヤから離れませんでした。二つの町は、どちらにも預言者の仲間たちがいましたから、エリヤは彼らに最後の挨拶をして、エリシャをよろしく頼んだのかもしれません。二つの町で、預言者の仲間から、

3…ベテルの預言者の仲間たちが…5…エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。

 エリシャとエリヤの関係は「あなたの主人」と言われるほど、親しかったのです。だから主がエリヤを取り上げられると分かっていても、「黙っていてください」と言ったのでしょう。そうして、二人はヨルダン川へ行き、川の向こうに渡りました。

9渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。

 「二倍の分」とは、欄外に参考箇所として挙げられている申命記21:17では、

長子として認め、自分の全財産の中から二倍の取り分を彼に与えなければならない。その子は父の力の初穂であるから、長子の権利は彼のものである。

 長男は「二倍の取り分」をもらう。今では不公平に思える規定ですが、当時はとても必要な規定でした。誰が家の後を継ぐのかは、とても大事な事だったのです。エリシャが「あなたの霊のうちから二倍の分を私のものに」と願ったのは、エリヤの長子としてください。あなたの後継ぎとして私を祝福してください、という意味でした。エリヤは嬉しかったでしょうか。その大変さを思って心が痛みもしたでしょうか。

10エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」

 エリヤは自分が取り去られると知っていました。しかし、その時、それをエリヤが見ることが出来るかどうかは分かりません。この事は主とエリシャに任せたのでしょう。

11こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。




 さてエリシャはエリヤが取り去られた時、エリヤを見ることが出来たのでしょうか? そう、見えなくなる前に見た、のですね。ですから、エリシャの願い通り、彼はエリヤの霊のうちから二倍の分をもらう、つまりエリヤの長子・後継者となりました。その証拠に、最初にエリヤから掛けられた外套が、エリシャには残されました。

…彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。13それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。

 こうしてエリシャはエリヤの外套を着、働きを引き継ぎました。難しい、大変なこと、辛い別れも伴う事でしたが、その業が後々にまで引き継がれ、私たちに手渡されています。難しく、辛い別れもある、でも、主の働きをするこの尊い働きを受け継いでいます。そうして、今ここから派遣されます。「でも、エリシャは火の戦車を見たけれど、私たちにはいないもの」と言いたくなるでしょうか?後に町が敵に包囲されて、召使いが恐怖に絶望した時、エリシャはこう言いました。

Ⅱ列王記六章16節…「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」
主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

 見えなくても、火の馬と戦車が私たちを山と囲んでいる。ワクワクしませんか。主は、見えない守りや一瞬の励ましで取り囲んでくださいます。だから、勇気と希望をもって、主を証し出来ます。やがて私たちも次の世代に、この証しを手渡していくのです。



「エリヤの神、エリシャの神、そして私たちの主イエス様。エリヤからエリシャへと働きが受け継がれた中にも、尊いドラマがありました。どうか、あなたが委ねてくださっている働きも、あなたの恵みの中で輝かせてください。難しいことをもあなたが許されるならば果たされます。どうか、力を与えてください。一瞬の励ましをも見させてくださって、あなたの御業を証しさせ、また次の世代へと引き渡していかせてください」
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