聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二章8~20節「救い主がお生まれになりました」

2014-12-23 18:34:28 | クリスマス

2014/12/21 ルカ二章8~20節「救い主がお生まれになりました」

 

 今日この夕拝に来ているのは、お昼のクリスマス礼拝に、何かの用事があって参加できなかったから、という理由が多いでしょう。クリスマス礼拝や祝会がどれだけ楽しかったかを聞いても、却って寂しい思いがするのでしょう。クリスマスは家族や恋人がステキな時間を過ごすというイメージがある分、一人の人や、家族と別れて過ごす人はいつも以上に寂しくなる時期でもあるそうです。「せっかくのクリスマスなのに、わびしいなぁ」といいたくなる事もあるでしょう。しかし、今日の聖書を読む時に、クリスマスは、そういう人のためにこそキリストがお生まれになったと告げ知らされることなのだと分かります。この夜、私たちにも、御使いが告げています。

10…恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 この知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは、

 8…野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

のです。そうです、彼らは仕事をしていました。他の人たちは、住民登録のために宿を取り、ごった返していた時に、彼らはその数にも数えられず、仕事を黙々と果たしていました。夜も、狼や盗人(ぬすっと)が来ないように交代で見張りをしながら、羊を守っていました。それは、単調ですが、気の抜けない、日陰の労働でした。羊飼いたちは何を思っていたのでしょうか。二千年前の彼らが何を思っていたかは想像も出来ません。でも、大事なのは、彼らが闇の中で何を思っていようと、そして、その心までもどんなに暗かったのだとしても、そこにキリストのお生まれの素晴らしい知らせが届けられた、という事実です。彼らの所に御使いが来たのは、偶然ではありませんでした。御使いは、

10…今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

と言ったのですから。彼ら羊飼いにこの素晴らしいニュースを知らせるために、御使いは来ました。神様が御使いを羊飼いたちに遣わしたのです。神様が、この知らせを真っ先に受け取る相手として、羊飼いたちを選ばれたのです。

 神様は、羊飼いたちが、この知らせを受け取るのに、一番相応しかったとお考えになりました。でもそれは、この羊飼いたちが、とてもよい心で、信仰も厚くて、仲が良かった、ということでしょうか。神様を待ち望んで、立派な人生を生きていたから、神様も彼らに、福音を最初に告げ知らされる特権を与えられた、ということでしょうか。

 いつの頃からか、クリスマスにはそういう考えが入って来ています。それこそがクリスマスの意味だと信じられています。だって、こう言うでしょう? 「良い子にしていたら、サンタさんがプレゼントを持って来てくれますよ」って。「良い子にしていないと、プレゼントがもらえませんよ」って、みんなが言っています。そして、プレゼントを貰うために良い子になったり、良い子でいてもプレゼントが貰えないと「クリスマスなんて楽しくない」とガッカリしたりするのです。

 もともとはそうではありません。その反対です。羊飼いたちも、「この民全体」も、ちっとも良い子ではありませんでした。神様から離れていました。けれども、その彼らを取り戻すために、イエス様が来てくださいました。人となってマリヤの胎に宿り、この夜、お生まれになりました。私たちが相応しかったから、ではありません。相応しい人を救うために、相応しい良い子達だけに与えられる「すばらしい喜びの知らせ」ではありませんでした。ふさわしい者など一人もいないのにも関わらず、神が、ご自身の民のために、主をお遣わしになりました。キリストが、自ら人となって貧しくお生まれになることさえ厭わずに、来てくださいました。この知らせの素晴らしさは、私たちが相応しくないのに、それでも神様が私たちにお与えくださった、救いだからです。

 御使いたちは、最後に神を賛美しました。

14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 この賛美が、御使いたちが私たちにくれた、新しい歌です。私たちは、いと高き所にいます、栄光ある神を忘れています。神に栄光を帰するよりも、自分の栄光や評判、世間体や自己充実を求めています。そして、神を忘れて、自分が神に成り代わろうとするような生き方をしていますから、地の上にも平和が作れず、争ったり、妬んだり、衝突ばかりしています。神様が与えてくださった人生を感謝することが出来ず、与えられた仕事を虚しい思いや不安、文句を言いながらこなし続けているだけ、という事になるのです。でも、キリストのお生まれの知らせは、この簡単な賛美へと私たちを救います。

14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 神に栄光を帰すること、そして、地の上で御心にかなう者とされ、平和にあずかる者とされること。それが、クリスマスに響いている、救いの歌です。この歌を歌わせるために、主イエスはお生まれになったのです。そして、実際、最後の20節で、

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

のです。神をあがめ、とは、神に「栄光」を帰するという言葉です。賛美も、御使いが賛美したように、でしょう。そして帰って行って、何をしたのでしょうか。やっぱり、羊を飼ったのでしょう。彼らは羊飼いなのですから。でも、羊飼いであって、羊を飼い、その後も野宿で夜番をすることはあっても、彼らは今までと同じではありません。神をあがめ、賛美しながら、羊を飼う者となったのです。素晴らしい喜びは、彼らが仕事をしている真最中に来たのですから、彼らの全生活がこの知らせで新しくなるのです。

 クリスマスは私たちに届けられた喜びです。忙(せわ)しい毎日、疲れた夜、孤独、そして神など忘れた人間の闇のどん底で「救い主がお生まれになりました」と言われたのです。

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ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

2014-12-23 18:31:51 | クリスマス

2014/12/21 ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

 

 今、読んで戴きましたルカの二章の直前、一章の最後、68節から79節に、「ザカリヤの讃歌」と呼ばれる歌が記されています。先ほど交読しました交読文44は、この部分の文語訳から持って来たものです。そこでは、美しく、力強く、神が賛美されます。全部は読みませんが、

一71この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

72主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

73われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

74、75われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、

 きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

とこのように、力強い救いが歌い上げられています。キリストがおいでになること、約束されていたメシヤがお生まれになることは、本当に喜ばしい、神様の御業だと歌っているのです。

 ところが、そのような前置きに続いて、今日の二章に入った途端、意外な言葉が始まります。

二1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

 2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 一世紀に、当時の地中海世界をローマ帝国としてまとめていた、初代皇帝アウグストゥスの勅令が全世界に告げ知らされた、と書き出します。いきなり、世界史や政治の話になってしまいます。初めにこれを聞いた人はどう思ったでしょう。神様の導きによってこの福音書を書いたルカにとって、ザカリヤの讃歌に続いて、他の書き方ではなく、皇帝アウグストゥスを登場させて綴っていくことは、とても意味があったことだろうと思うのです。

 もしかすると、それはユダヤの人々の愛国心を燃え上がらせたかも知れません。アブラハムに遡る神様の契約、イスラエル民族の歩みを振り返る時、いま自分たちがローマ帝国の属州に成り下がり、税金を納めなければならず、そのための住民登録をせよと言われても黙って従わざるを得ない、という事実は大変な屈辱でした。ローマからの解放を願い、神が送ってくださる救い主が来られたなら、たちまちにしてローマ軍を焼き滅ぼしてくれるのだと、軍事的・政治的なメシヤを待望していました。そういう期待は、後のイエス様の弟子たちの中にも強くあったことが分かっています。

 しかし、ここに出て来るのは、そうした巨大なメシヤではありません。

 4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

 5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

 7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここに出て来るキリストは、産着には包(くる)まれても、宿屋にはいる場所がなくて、飼葉桶に寝かされたような、貧しく、気にも留められない小さな存在です。皇帝アウグストゥスの勅令に翻弄されて、ナザレからベツレヘムまで行かざるを得ない、無力な存在です。また、本来、女性であるマリヤまで登録する義務はなく、まして身重の時期に長旅をするのは大変だったでしょう。それをヨセフが一緒にベツレヘムまで連れ上ったのは、正式な結婚をする前に、聖霊によってイエス様を身籠もったマリヤが、田舎村のナザレで好奇や非難の眼に曝されていて、一人残して自分が旅立つことが心配だったからでしょう。そこでもマリヤたちは、ご近所や身内からさえ理解されず、後ろ指を指されて耐えるしかない、理不尽さの中にいました。それは、当時の人々が期待していた、力強く、向かう所敵なしの救い主のイメージとは全く違っていました。神の権威と力を振りかざして、みんなを平伏させる方ではありませんでした。でも、この方こそは、真の救い主であり、私たちを救い出し、新しくしてくださるお方なのです。

 ローマでは、皇帝アウグストゥスが、主とも救い主とも言われていました。彼が「ローマの平和」という新しい時代を築き、世界を治める者として称えられ、全権を委任されていました。けれども、その「平和」は、重税に苦しむ民衆の貧しさや不満には目を瞑り、反乱が起きれば圧倒的な兵力で抑えつけることで成り立っていた平和でした。しかし、イエス様は違いました。上に立って権力を振るい、敵には剣を突きつけて言うことを聞かせる王ではないのです。

 主イエスは、私たちの世界に降りて来られ、人間となって胎に宿り、生まれ、貧しい人の子どもとなり、弱い者のようになってくださいました。そしてそれは、最初から、十字架に至る苦難と死へと向かって行く道行きでした。皇帝の力強く輝く栄華とは対照的に、主イエスは、ご自分に与えられた場所が飼葉おけであることを受け入れておられます。けれども、忘れないでください。主イエスよりも皇帝の方が強いのではありません。アウグストゥスが歴史を支配していて、キリストもキリスト者も教会も、それに対しては為す術がない、ということでは決してないのです。ここで言われているのは、この皇帝アウグストゥスが勅令を出しているただ中で、キリストはひっそりとお生まれになった。でも、飼葉おけに眠るこの方こそ、神の真実で力強い救いをなさる、真の皇帝であり、主の救いを成し遂げてくださる救い主だ、ということです。

 世界を作られ、支配しておられる神様は、偉大な栄光のお方であり、決して無力でも詰まらないお方でもありません。けれども、この神は、本当にこの世界の小さなものを愛しておられ、いる場所さえ与えられない者とともにいることを厭われないお方です。貧しく、小さな一人となることを通して、私たちに深く語りかけるお方です。上から頭ごなしに命ずるお方ではなく、私たちの心に深く語りかけることによって、形ばかりの平和ではない、本当の平和-一人一人が自己中心を捨てて、罪を悔い改めることから始まる平和-をもたらされるお方です。そのような神様のご計画こそが、世界の歴史を貫いて、神様が大切にされていることなのです。

 私たちは政治家に成り代わることは出来ません。神の力や知恵を授かって、人生の悩みや病気や悲しみを全部解決してしまうことも儚い望みです。でも、それは神様を信じても無駄だとか主イエス様が来られても何も変わらない、ということではありません。主イエスは、確かにこの世界の中に来られたように、私たちの所にも来られて、私たちの歩みを導き、私たちの心に住んで、私たちもこの世界をも深く導いておられます。

 この神に出会って、私たちが主を信じて礼拝する者となり、私たちがお互いに、精一杯助け合い、愛し合い、仕える者となっていくことは、神の前には、皇帝よりも尊く歴史を作る歩みです。私たちのためにお生まれくださった、この小さなイエス様は、救い主であり、真の王であられて、私たちの人生、政治や歴史を見る眼をも一変させ、神を仰ぎ、希望をもって共に歩ませるために来てくださったのです。

 

「主よ、あなた様はこの世界に、貧しく小さくお生まれになることによって、私たちの救いの御業を果たされ、神の御心を教えてくださいました。高く強くされることを夢見がちな私たちですが、あなた様を自分の心深くにお迎えし、愛によって癒され、新しくされることを願い、その御業に与らせてください。主の惜しみない御真実に希望と勇気をいただかせてください」

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へりくだつて行く勇気と愛を  賀川豊彦記念館クリスマス会

2014-12-23 18:28:17 | 説教

賀川豊彦記念館クリスマス会

「へりくだつて行く勇気と愛を」

2014年12月23日

 

 鳴門キリスト教会で、今年の四月から牧師になりました、古川和男と申します。昨年の丁度今頃、初めて、徳島の地を踏み、正式に引っ越したのが春です。まだ鳴門のことも徳島のことも知らないことだらけです。今日は、「クリスマス会で、クリスマスについてお話しを」と言うことで、喜んでお引き受けしました。折角ですから、この機会に、賀川先生が、クリスマスについてどんなお話しをされたのだろうか、クリスマスに教会で説教された資料はあるのだろうか、と調べて、いくつか読んでみることにしました。その中で見つけたのが、今日、タイトルにしました言葉、「へりくだつて行く勇気と愛とを」という言葉です。これは、賀川豊彦先生の文章です。「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」という文章の最後に、祈りが書かれていて、その中に出て来ます。全部を読んでみます。

 父なる神 煙突の立並ぶ世界に於ては、われらに魂の自由はなく、空が曇つて居るやうに我々の魂も曇り勝ちであります。願はくは父よ、星に導かれて、キリストを拝せし人々の如く、我々にキリストの光を照し給へ。あなた御自身を我々の魂の中に生れさす、真のクリスマスを経験させて下さい。キリストにつく一人一人を選び、キリストの代表者として使命のある処にキリスト精神をもつて化身し、へりくだつて行く勇気と愛とを与へて下さい。そして困つてゐる人々に常につくす愛を持たして下さい。/日本の闇は深うございます。どうか、いと小さきキリストとして化身することを得さしめ、各々に新しいクリスマスの意義を発見せしめて下さい。主によつて祈ります。アーメン[1]

 「へりくだつて行く勇気と愛」。これが、賀川先生のクリスマスを言い表している、と言っていいのではないでしょうか。

 ご存じではない方もおられるかも知れませんが、クリスマスとは「キリスト」の「ミサ(お祭り)」という意味です。キリストの誕生をお祝いするのですが、これも賀川先生自身が書いている文章があって、聖書に「キリストの誕生日は12月25日だ」と書いている訳ではない。これは、もともとローマの冬至のお祭りでした。冬至とは、一年で一番日が短くなる日です。そのお祭りを、キリスト教が広まっていった時に、止めさせてしまうよりも、キリスト教のお祭りに取り入れてしまおうとした、という説が一番有力なようです。ですが、大事なのは、キリストの誕生日がいつなのか、ではないのですね。神の子であるキリストが、人間の一人となってこの世界に来て、普通の人間と同じように母マリヤからお生まれくださったという事実が大切なのです。そして、それが昔の一度きりで終わりの出来事ではないし、私たちにとってはどうでもよい出来事ではなくて、神様はいつも人間を深く心に掛けておられ、私たちとともにおられるお方だ、と喜び祝ったのです。神は、謙ってくださるお方で、高ぶる者(自分を正しいとする者、人間の中でも偉いなぁスゴいなぁと崇められる人)よりも、助けが必要な弱い人、底辺にいる人、自分なんか駄目だと心が砕けた人、そういう低い人の所にまで降りて来てくださって、ともにおられる。そういう信仰がクリスマスの信仰なんだ、と言うのです。

 賀川豊彦先生が、神戸新川のスラム街に移り住んだのは21歳の時でした。徳島から神戸の神学校に入ったのですが、そこで喀血をし、死線を彷徨った末に、残り少ない自分の人生を貧民街での伝道に捧げようと決断した行動だったそうです。スラムの風紀は滅茶苦茶で、賀川の住んだ宿は一年前に殺人事件があった血痕も生々しく残っていて、喧嘩、売春、脅しは日常茶飯で、「もらい子殺し」という悲惨な現実もありました。親がわが子たちを虐待し、売り飛ばし殺すことさえあった中に、賀川は飛び込んだのですね。そこから、賀川の社会運動が始まったのだそうです。

 実は、彼が貧民街に入ったのは、1909年のクリスマス・イブのことでした。何も好きこのんでクリスマスにそんなことをしなくても、と言う人もいるかも知れません。今でも、クリスマスぐらいは家族で楽しく過ごしたい、好きな人と二人きりでデートしたい、という雰囲気がありますね。楽しみに出かけようとすると仕事が入ったりしたら、「折角のクリスマスなのに…」と言うのではありませんか? そういう感覚で言えば、賀川が貧民街に入るのも、クリスマスが終わってからにしてもいいんじゃないか、と同情を込めて思うでしょう。けれども、賀川先生にしたら、クリスマスこそ、相応しかったのではないでしょうか。「神の子が謙って、天から降りて来てくださった。そして、低い者を愛してくださった。だから自分も、スラムの人にキリストの愛を伝えよう。折角のクリスマスなのに、じゃなくて、クリスマスだからこそ、自分もそこに行こう」と思ったのではないでしょうか。

 賀川は、自分が特別なことをしている、という意識はありませんでした。既に、賀川より先に、キリスト教者会運動家の多くが、クリスマスの精神をもって、ロンドンの貧民街で働いていた。そのことに賀川は、深い感銘を受けていました。「へりくだつて行く勇気と愛」を持って生きている先輩たちがいたことに倣って、自分の生き方を決めました。そして、その賀川先生が残した足跡が今でもこうして記念されていますし、多くの人に影響を与えているのではないでしょうか。そういう人の存在そのものが、クリスマスって言うのは、浮かれて楽しむだけのものとは全く違うお祭りなのだと思い出させてくれています。

 もしクリスマスの意味を忘れて、ケーキを食べてプレゼントをもらって、ロマンチックに過ごせたらいいぢゃないか、と言っていたら、実は却って味気ないものになります。何かがあれば、「折角のクリスマスなのに」と気分を害されてしまうでしょう。病気になったり悲しいことがあれば、クリスマスを楽しんでいる人たちが目に入るだけでも、言いようのない苦しい気持ちになるでしょう。孤独がいつになく身に応える、一番キツい時になるでしょう。人生はそんなにハッピーな事ばかりではないからです。皆さんの中にも、今とても大変な思いをしている方がいるかもしれません。今年、大事な人が亡くなったとか、難しい病気になってしまったとか、家族が壊れそうだ、そんな人がいらっしゃって、ホントはクリスマスなんて気分じゃないんだよなぁと思いながらここに来られた方がいらっしゃるかも知れません。でも、賀川先生は言うのです。そういう人の所にキリストが来てくださったのがクリスマスなんだ。そして、賀川自身が、自分も貧民街に飛び込んでいったのですね。聖書の中に、クリスマスをこんな表現で伝えている言葉があります。

ヨハネ一5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 真っ暗な闇、墨を流したような漆黒の闇も、光を打ち負かすことは出来ません。決して出来ません。光は闇の中で輝きます。クリスマスは、闇に光が届いたこと。クリスマスの喜びは、何かによって台無しにされるようなものではありません。夢も希望も持てないような人間の所にこそ、キリストが来てくださった。そういう愛があるんだ。だから、どんなことが起きても、「せっかくのクリスマスなのに」ではなくて、「こういうことが起きる私たちの所に、キリストがお生まれになったのだ」と思うことが出来る。だから私たちもそこで、謙っていく勇気と愛を持っていこう、そう思わされるのがクリスマスなのです。

 今年103歳になられた、日野原重明先生がこんな文章を書いているのを見つけました。1959年に賀川豊彦先生が亡くなる前年のクリスマスの朝です。

「私は昭和34年12月25日のクリスマスの朝、先生をご自宅に往診しましたが(55年前、日野原先生が58歳のときの記録です)、その時、先生は米国の友人から送られたW. オスラーの内科教科書(16版)の扉に寝たままで、こう書かれていました。この字は先生の絶筆でしょうから、きわめて貴重なものだと思います。

 太陽は 世界隅々 照らし行けど、

 之を蔽う 罪の黒幕

 之を取り去る愛と従十字架

 感謝の1959年のクリスマス

 賀川豊彦」

 太陽は世界の隅々まで照らしているが、それを罪の黒幕が覆っている。でもそれを、取り去るのが愛と十字架がある。もう起き上がれない中、社会事業も奉仕も出来ない身で、「感謝のクリスマス」と記したのでしょうか。そうだとしたら、私たちもそういう心をもらえたらと思いますね。世界にある黒幕のような罪の闇はあるのです。でも、そこにキリストが来られたことに、賀川は希望を見ました。神様の愛のわざの始まりを信じました。でも、それを信じただけじゃありませんでした。自分もまた、勇気と愛を与えられて、その働きに参加して人生を送ったのですね。こういう感謝が賀川の絶筆だったのです。

 私にはとてもそんな真似は出来ませんし、皆さんにも、賀川の真似を勧めているのではありません。それに、ただ「真似」をするのだとしたら、それは「謙っていく勇気と愛」ではなくて、真似してスゴいなぁ、偉いなぁ、と言われたい、という動機でしているに過ぎないですね。犠牲を払う、人生を捧げるということが、結局、自分の名誉や充実感のためになされるのだとしたら、それは偽善でしかありません。少なくとも、クリスマスの示す方向とは反対なのです。一人一人、神様がどんな思いを与えて、どんな人生へと導かれているかは違います。社会事業に身を投じて、後世に名を残すというドラマを夢見るよりも、自分が置かれている自分の人生、家族や仕事、出会いやボランティアを、地味だとか詰まらないと思わないで、大切に受け止めることが必要なのかもしれません。そんな「地味だ、詰まらない、そんなことに人生を捧げるなんて勿体ない、意味がない」そう思われていたような人の所に駆け下りていった人がいる。それこそが、クリスマスなのです。

 こう言い換えてもいいでしょう。私たちは、賀川豊彦のような物語に触れると、「そういう人は素晴らしい、そんな人生は輝いている、それに比べて、自分はなんて詰まらない、価値のない人生を送っているんだろうか。自分も、もっと人から喜ばれたり誉められたりする人間にならないと生きている価値がないんじゃないか」とでも言うような思いを持ってしまいがちです。「人間の価値は、どんな事をしたか、どれだけの業績を成し遂げて、多くの人に感謝されたか、で決まる」…言葉にすれば、そんな考えに縛られていないでしょうか。社会事業や慈善活動が、そんな動機でなされていることは少なくないのでしょう。

 けれども、クリスマスが伝えているのは、私たちが優しくしましょう、困っている人を助けましょう、と発破を掛けるお説教ではないのですね。そんなことなら、いつでも言えるのですし、社会事業家を生み出すだけのメッセージ性もなかったでしょう。神の御子が私たちのために、謙って来てくださった。勇気と愛がなければ出来ないような謙りを、私たちのためにしてくださった。神様は、それほどに、私たちを愛しておられて、私たちを尊い存在、価値ある、かけがえのない一人として見てくださるのだ。そして、闇を闇で終わらせないし、私たちを光の子としてくださる。そういう喜びなのです。自分が何かをする、人から誉められたり感謝されたりすることは大切です。でも、自分の価値を見つけたくて-人から認められたくて、もっと言えば、愛されたくて-犠牲をも惜しまないのであれば、痛々しいです。そういう心は、いくら頑張ってもすぐに闇が戻って来ます。

 クリスマスは、そんな私たちの心の闇深くに神が降りて来てくださった。私たちと一緒に住むことを喜ばれた。闇しかないような心にも光をもたらしてくださった。何かをするから価値がある、出来なければ価値が下がる、そんな価値ではなく、今すでに愛されている者とされている、そこに喜ぶことが出来るのです。そして、その深い感謝、安心感、気づきから、私たちもまた、謙っていく勇気と愛をもって生きていくことが始まるのです。渇きとか恐れ、「何かしなくちゃ」という焦りや強迫観念からではないのです。クリスマスは私たちに喜びをもたらして、そこから、では私たちも、出て行こう、惜しまない心で生きていこう、恐れずに勇気をもっていこう、「こうしたらどう思われるかな、こんな人のために何かするのはいやだな」なんて思わずに愛をもって仕えていこう。そういう、痛々しくない奉仕を、賀川もさせてもらったのだと思うのですね。

 そして、もう一つ言えば、賀川先生も限界がありました。批判をする人もいますし、今からしたら理想主義だったな、と見えるところもあるのです。中傷するつもりではありません。むしろ、聖人ではなかったんだな、と分かってホッと出来るんだと思うのです。自分の限界を知らないで、何でもしよう、あらゆる期待に応えよう、自分が世界を変えよう、なんて思っていると疲れます。また、誰かのために何でもやってあげる人になると、甘えさせたり、頼らせてしまったりして、本当にその人を助けることにはなりません。善意であっても間違っていることもあるし、一生懸命やっても足を引っ張っているだけだったりする。みんなが謙って、勇気と愛をもって生きていくためには、自分が全部やろうとしてはいけないのですね。賀川の回りにも、すぐに助ける人たちが出て来ました。協力者たちが賀川を支えていました。自分の限界をちゃんと弁えて、人の助けを喜んで受け取ることも、謙遜と勇気と愛があるから出来ることでしょう。助けられることも、助けることも、喜んでいられたら幸せですね。

 神様が、私たちのために大事なひとり子イエス様を下さった。そのクリスマスを心からお祝いするには、私たちも、もらうことばかり考えるのがクリスマスではないと知ることがスタートです。プレゼントやケーキやロマンスを自分のために用意して、自分が幸せにしてもらうことばかり考えていては、本当にクリスマスを祝うことは出来ません。そうでないと、どうしても足りないことが目について、文句や不満になって、一番大切なイエス様の謙りがどうでもよくなってしまいます。だから、贈り物をし合いましょう。もらいましょうではなく贈りましょう、という習慣が始まりました。貧しい国、苦しい生活をしている人たちも、クリスマスはお祝いをして、贈り物を贈り合って、明るい気持ちで過ごそうとします。そうやって、キリストの愛を感謝しているクリスマスは、いいですね。

 皆さんも、賀川豊彦という尊い歩みから、彼を動機づけていた、キリストの謙りと勇気と愛を覚えていただけたら、そして、心に光をいただいて、謙っていく勇気と愛を覚えて戴けたらと思います。この話の続きを聞きに、ぜひ、お近くの教会にいらしてください。

 

 クリスマスの意義とは、一年中の一番日の短い最も暗い時を、最も明るい日にしようとする運動である。そしてそれが光の子の使命である。それでクリスマスには星が附きものになってゐる。…即ち最も暗い冬至に、星と光を持ち込まうとする運動であつた。[2]

 化身とは、上なる力を以て下界を引上げようとすることであつて、此処に真のクリスマスの意味がある。パウロは…イエスが、神の形を捨てて、奴隷の姿をとつたことを記してゐる。<ピリピ二・五-八>これが真のクリスマスである。そしてまたこれが近代に於るキリスト教者会運動の根本動機となつた。私は十七歳の時に…ピリピ書第二章のこの言葉から…感激を受けたことを今でも忘れない。キリスト精神とは即ちこれである。高い地位に居れる筈のものがわざわざ身を低くして、下々の人に仕へる為に天才も天分も自由も放棄する。…この天上と下界の隔を打くだいて、キリストが下降した所にローマ時代に曾て無かつた所の大運動が起されたのである。さうしてそれが今日にまで及んでゐるのである。[3]

 我々のクリスマスは、クリスマス・ツリーが無くてもいい。然しそれは魂のクリスマスであらねばならぬ。アンナとシメオンにとつては、キリストを理解し、キリストを信じた時がクリスマスであつたのだ。汚れた世界に光を見た時が、我々のクリスマスでなければならない。曲つた針がねのやうな世界に於て、しみなく、汚れなく、一点の責むべき所なきものとして、この世の闇を減ずる運動をしなくてはならぬ、世といふのは妙な所である。/パウロは『キリストの心をもつて心とせよ』と云つてゐるが、キリストが外側に居ては何にもならない。我らは『もろびとこぞりてむかへまつれ』と歌つた所で、自分の心が空つぽであるなら、何のクリスマスがあらう。私の魂にキリストが来てくれて、我々がキリストになるのでなくては駄目である。今日我々の心にキリストが生まれなければ、いくら千九百年前にキリストが来ても何にもならない。我々が現在の堕落した世界に対して、自ら神の子となり、生命の言葉を保ち、キリストの力を握つた代表者として、光の如く、この汚れた曲つた世界に輝かなくてはならない。ここに真のクリスマスの意義がある。[4]

 

 クリスマスは低い者が高まる喜びの時である。つまり母の地位、凡て女の地位、奴隷、無産階級の地位が高められるのがクリスマスである。それが革命運動によらず、精神的な、神が人間に接近してくれるといふ信仰から湧いたのである。『神は御腕にて権力をあらはし、心の念の高ぶる者を散し、権勢ある者を座位より下し、卑しき者を高うし』(ルカ一・五一-五二)即ち偉らさうにしてゐる学者や、利己主義者を蹴散らし、位ある者大臣などを引おとし、卑しき者を反対に上げる。[5]

 生まれたイエスが何をしたか。権力、金力によらず、愛と平和の道によつた。そしてその力で、ローマ帝国が滅びた。愛と従順の力で征服したのである。クリスマスはこの愛と従順が勝ち得ることを意味する。[6]

 私は思う、誕生日のお祭がクリスマスではない。クリスマスの本当の気持ちはむしろ、サンタクロースに尽きている。すなわち真のクリスマスの意味は、受肉化身の愛の運動を実行するところにあるのである。/そしてこれは、キリストの運動を措いてほかにないのであるから、その運動がキリストの生活を表現していないようなものであったら、それは無価値である。私は十二月二十四日の晩貧民街を訪ねて、クリスマスの気持ちを味わうことを楽しみにしている。どうかクリスマスを無意味に過ごさないで、身を捨ててキリストの生活にあやかるようにしたいと思っている。/父なる神/思想界の混乱に対して、我らにはっきりした意識を与えたまえ。我々はこの尊き愛を肉に現わし、わが持てるものを持たぬ人に与えることを教えたまえ。特に世界のうちにある嫉み争い暗い心を、あなたの御恩寵により、取り去り、キリストの精神を現わし得るよう、助け導きたまえ。主イエス・キリストによりて祈ります。アーメン。[7]

サービス 礼拝。しかし、神にサービス(仕える)以上に、神が私たちにサービス(仕えてくださる)という意味でのサービスなのである。



[1] 「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」「水の赤ん坊」447頁。

[2] 「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」「光明の運動」444頁。

[3] 同「化身主義運動」444頁。ただし、正確には「私は十七歳の時に明治学院の教室で、英国のキリスト教者会運動の先駆者である、フレデリツク・モーリスの運動の根本精神が、ピリピ書第二章のこの言葉から来てゐるのを学んで、感激を受けたことを今でも忘れない。」です。

[4] 同「神の子となる」446頁。

[5] 「マリヤの讃歌」256頁

[6] 「柔順の力」257頁。

 

[7] 「受肉化身の福音」『日本の説教Ⅱ 賀川豊彦』203-204頁

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ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

2014-12-20 13:16:39 | 説教

2014年12月6日(土)ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

ルカの福音書二章1~20節「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」

 

 「クリスマス感謝の集い」にお招きいただきまして、説教する特権を与えられて、感謝しています。ネタばらしになりますが、「みことばを伝えること」というテーマをと指定されました。ギデオン協会ですから当然なのですが、これをクリスマスに絡めるとなると、意外と一筋縄ではいかないのです。今でこそ、教会はクリスマスに、市民クリスマスだ、クリスマスコンサートだ、子どもクリスマスだ、とこの時とばかりの伝道を致します。そして、教会の外の人や、普段教会から離れている人にとっても、クリスマスは教会に来やすいのも事実です。ですが、聖書そのものを紐解きますと、マタイとルカが伝えるキリストの誕生記事には、おおっぴらに伝道するというよりも、むしろ逆に、密やかにクリスマスを祝わざるを得なかった、という雰囲気が貫かれています。

 マタイが伝えるように、マリヤが聖霊によって身ごもった時、夫となる前のヨセフは秘かに婚約を解消しようとしました。マリヤの出産は、余りにもスキャンダラスだったからです。博士たちがお生まれになったイエス様を礼拝した後、夢で告げられたのは、ヘロデに知られないようにこっそり東の国へ帰りなさい、という命令でした。ヨセフとマリヤも、幼子イエスとともにエジプトへ逃げるようにと言われます。その誕生は、大々的に言い広めたりしたら、皆殺しにされかねない脅威だったのです。

 ルカが伝えるのも、イエス様がお生まれになった時、喜ばれるどころか、

 7…彼らのいる場所がなかった…

という、飼葉桶の現実です。そして、その知らせは、ベツレヘムの郊外で羊たちを見守っていた羊飼いたちに対してでした。彼らは、住民登録をする義務からも外され、社会的には劣るとされていた人々です。その人々に、御使いが来て、彼らに言ったのです。

10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ここには、「この民全体のためのすばらしい喜び」と言われています。が、御使いはそれを羊飼いたちに告げることで十分としています。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに集中しています。そうです。社会の統計の数にも数えられなかったあなたがたのために、救い主がお生まれになりました、と断言するのです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

とあるのは、探すのは大変だろうけど、布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃんがいればそれで分かりますよ、それが見つけ出すためのしるし(ヒント)になりますよ、という意味ではありません。その、いる場所もなく、貧しく厩(うまや)に寝かせられているお姿に、この救い主があなたがたのためにお生まれになった事実の証しがある、ということです。それが、宿屋の人々やベツレヘムの町中の人ではなく、わざわざ郊外の野原にいた羊飼いたちに届けられた、しるしでした。

 実は、マリヤとヨセフも、いる場所がなかったとあったように、卑しい人、貧しい人たちでした。このルカの福音書は、この後のイエス様のご生涯全部が、そのような貧しい人たちに向けてのものだと繰り返しています。貧しい者、罪人や不品行な女、放蕩息子や取税人として嫌われていたザアカイ、そして、イエス様のそばで十字架にかけられた強盗。そういう人を並べながら、イエス様がおいでになったのが、立派な人や強い人のためではなく、貧しく、自分の惨めさを痛いほど知っているような人のためだと強調されるのです。それを明言するのが、

ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

というイエス様ご自身の言葉です。そのメッセージを、ここで羊飼いたちは聞いたのです。あなたがたのために救い主がお生まれになった、そのしるしが、布に包まって飼葉桶に寝ている赤ちゃんのお姿だ、ということでした。

 この知らせを聞いて、羊飼いたちはベツレヘムに急いで行きます。

16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

 でも、彼らは、みことばを伝えなさい、イエス様のことを伝道しなさい、と言われたから伝道したのではありませんでした。伝えなさい、などと言われていなかったのです。でも、彼らは御言葉を聞いて、従った結果、その約束の通りだったことの喜びの余り、人にもそのことを告げずにはおれなかったのです。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 確かに、この最初のクリスマスに、羊飼いたちは自分たちに伝えられた素晴らしい知らせを受け止めました。それは、本当に素晴らしい知らせでした。何と言っても、自分たちのために救い主がお生まれくださったという素晴らしい恵みでした。

 今日、ここにおられる方に、本当はこんな所に来るような気分じゃなかった、という方もおられるかも知れない。クリスマスのお祝いどころじゃない大変な中にいる方もいらっしゃるかも知れません。そのあなたがたのために、救い主がお生まれになりました。そう言われているのがクリスマスです。状況や気持ちがどんなに孤独で、絶望的でも、人が見捨てても、居場所がなくても、そのあなたがたのために、そこにキリストはご自身、低く低くなって、おいでになって、私たちを取り戻してくださるのです。

 この福音の喜びに、まず一人一人が深く、じっくりと立つことなしに、伝道、伝道と出て行くことは出来ません。この私たちのためにキリストがお生まれになった。そのかけがえのない幸いに心が潤されて、私たち自身が変えられ、喜びに溢れる。それ程の福音を受け取ることから始まるのです。それがおざなりのまま、伝道をしようとすると、自分が信じてもいないことを語ることになります。自分の達成感や充足感のため、伝道して成果をあげようとすることになります。結果が出ないと虚しさや怒りが出て来たり、自分がダメな人間であるかのように思うとしたら、それは、語っているのは福音だけれど、動機になっているのは福音の素晴らしさではなく、福音を装ったこの世的な価値観、成果主義、業績主義、競争心、自己義認だからでしょう。そんな伝道だと、見せかけとか胡麻菓子とか、お金の話が大きなウェイトを占めるようになります。そのようなものに目が眩んでいることこそ、神様の圧倒的な恵みから離れている姿でしょう。それこそは、「失われた」姿です。

 イエス様は、そんな失われた人を捜して救うためにこそおいでになりました。私たちのために、貧しく小さな赤ん坊となって、お生まれになりました。私たちがこの方を、私たちのための救い主のしるしとして受け入れる時、私たちもまた、失われた生き方から、見出された生き方へと立ち戻ります。この世の成果、出世、お金、地位、名誉、影響力や評判、あるいは、伝道とか教会の立場さえも、私たちの心を失わせることがありますが、そんなものを一切持たない赤ちゃんとなることをイエス様は選んでくださいました。それが、私たちのためのしるしです。このお姿に背を向けて、がんばって伝道するのではなく、この驚くばかりの出来事に、本当に私たちが心深く癒やされ、光を与えられて、変えられていくことから始まるのです。

 主の御言葉は、私たちに届けられています。私たちを取り戻す御言葉です。その御言葉の恵みに、いつも導かれていきましょう。主が私たちのうちにも宿ってくださって、御業を始めておられることに委ねましょう。その恵みを私たちの存在ごと携えて、口先や方法論やイベントではなく、私たちの存在が恵みの証しとなることを願いましょう。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 聞いた人たちが信じてくれたとか、何かをすることが出来たからとかではなく、ただ、神の御真実を見たことで、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。それ自体が、彼らの大きな変化でした。福音の証しでした。私たちも、今日、神をあがめ、賛美しながら、帰途につく時であれたらと願います。

 

「伝道とは溢れていることです。溢れていれば、存在そのものが伝道なのです」

「主よ、私たちもまた、福音を伝えられました。私たちのために惜しみない愛をもって謙り、尊いあなた様がおいでくださいました。この素晴らしいクリスマスのメッセージを、どうか私たちが慣れることなく、年ごとに初々しく、瑞々しく、聞き続け、恵まれ続けて行けますように。闇や悩みを経る毎に、ますます主の御愛に根ざして、溢れる思いで歩ませていただけますように。そのような私共の言葉と技を通して、御言葉が更にこの地に広まりますように」

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2014年こどもクリスマスのお話し

2014-12-20 13:14:59 | 説教

2014/12/14 ルカ2章11節

 

 クリスマスは、「キリストのお祭り」という意味です。イエス・キリストのお誕生をお祝いしましょう。そうやって、教会が始めたお祭り。それがクリスマスの始まりです。今は、そんなことは考えなくて、12月になればクリスマスだ、おめでとう、とパーティをしたり、プレゼントを貰ったり、ケーキやご馳走を食べたりしている人が多いです。だから、教会でクリスマスっていうと、「え? 教会でもクリスマスするの? 教会のクリスマスって何をするのかなぁ?」と思って今日来た人もいるかもしれません。折角だから、そういうお友達は、ぜひ知って帰って下さいね。クリスマスは、神様が、神の子イエス様を、私たち人間に贈ってくださった日。イエス・キリストが人間としてお生まれになった素晴らしいプレゼントを、お祝いする日です。それが本当に素晴らしい出来事だから、沢山の人が喜んで、イエス様のお祝いをして、今では世界中で、クリスマスがお祝いされているんですね。だって、みんなの中で今から何百年かしたら、自分の誕生日が世界中でお祝いしてもらえているなんて人いるかな? 世界一有名なキャラクターのミッキーマウスは11月18日、キティちゃんは11月1日だけど、そんなこと知らない人がほとんどでしょう?イエス様以外に、世界中でそのお誕生のお祝いをしてもらっている人なんて、他には誰もいませんね。それは、やっぱりイエス様がお生まれになったということが、何よりも、誰よりも、物凄いことだったから、なんですね。

 キリスト教会にとって、一番大事な本は聖書です。神様が人間に与えて下さった、大事な、大切なことが沢山書かれています。この中に、イエス様のお誕生のことも書いてあります。それが12月25日だった、とは書かれていません。でも、イエス様のお誕生のことが、いろいろと書かれています。今日は、この後で、そのクリスマスのお話しをペープサートでします。だから、お話しは、そちらで見て下さい。それを見る前に、お話しがもっとよく分かるためのポイントを一つ言わせてほしいので、よく聞いて、覚えておいて下さいね。

 それは、キリストのお生まれは、ずーっと前から約束されていた、ということです。聖書で、イエス様が登場するのは、半分よりももっと後です。その後が新約聖書、その前が旧約聖書、と分けられていますけど、イエス様が来られる前のお話しの旧約聖書にも、やがてキリストがおいでになるよ、私たちを助けてくださるお方、本当のよい王様、世界をよくしてくださるお方が来るよ。そういう約束があちこちに書かれているんです。そして、そのお約束を信じて、キリスト様が来てくださいますように、神様のお約束の時が早く来ますように。そんな思いで過ごしていた人たちが、イスラエルにはちゃんといたんです。イスラエルだけではありません。遠い遠い東の国に住んでいた人たちにも、そのことが伝わっていました。そういう人たちが、やがて、イエス様がお生まれになった時に、ある特別なしるしを見たときに、「そうだ、これはきっと、神様が約束されていた王様がお生まれになったに違いない。では、その王様を拝みに行きましょう」と、はるばる遠い国からエルサレムまで旅をしてやって来るのですね。

 また、羊飼いたちにもイエス様のお誕生は知らされますが、羊飼いたちはきっと神様の約束を覚えてはいなかったんだと思います。でも、「きょうダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」という言葉を聞いた時に、忘れていたお約束を思い出したんです。神様が、救い主を送ってくださるよと仰っていた。そのお方がおいでになったんだ、そう気づいて、この人たちもイエス様を捜しに行くんですね。

 羊飼いたちも東の国の人たちも、ずっと約束されていた神様の言葉を思い出しました。そして、イエス様を拝みにやってきました。神様が、私たちを覚えていてくださったんだ。神様が私たちの王様になってくださるんだ。それが嬉しくて、嬉しくて、イエス様を礼拝したのです。

 神様なんていないって言う人がいます。神様がいるかいないかなんて分からないって言う人もいます。神様がいてもいなくても関係ない、っていう人もいます。でも、クリスマスは、神様は本当にいらっしゃいますよ。そして、私たちの所に、神の御子イエス様が今から二千年前に本当に来てくださったんですよ。そうして、今でも神様は私たち一人一人を覚えていてくださいますよ。私たちのそばにいてくださいますよ。私たちの心を明るく照らしてくださいますよ。そう教えている日なんですね。

 それから二千年、たくさんの人がイエス様を信じました。自分勝手な悪い心をゴメンナサイと言ったり、とっても悲しい目に遭っても慰められたり、生きていたくないと真っ暗だったのに神様に愛されて生かされている喜びを持ったり、人を助ける生き方をするように変えられたり。ぼくも、今までずっとイエス様に助けられて来ました。イエス様は素晴らしいお方です。だから、イエス様が来てくださったお祝いが、世界中で行われるようになっています。皆さんも、イエス様に出会って、イエス様を信じる素晴らしい喜びを持って欲しいと思っています。

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