聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/4/26 マタイ伝6章19~24節「あなたの心を置ける場所」

2020-04-25 11:48:28 | マタイの福音書講解
2020/4/26 マタイ伝6章19~24節「あなたの心を置ける場所」[1]

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      詩篇66篇1、20節
 祈  り
*賛  美      讃美歌23「来る朝ごとに」①②③
*主の祈り
 罪の告白      招き(マタイ11:28-30)・祈り・沈黙
 赦しの確証    ヨハネ3:16-17
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌23 ④⑤
Ⅱ.みことばの宣教
 聖  書      マタイの福音書6章19~24節
 説  教      「あなたの心を置ける場所」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌513「天に宝」
 ささげもの
 報告・牧会祈祷
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌546「聖なるかな」
*派遣・祝福

 「地上に宝を蓄える」
 お金や財産、仕事や地位、健康とか美しさとか、「地上の宝」というと他にも沢山のものが思い浮かびます。将来への夢とか、自分の楽しみとか、生き甲斐とか、色々なものがあるでしょう。この地上には、神が沢山の祝福や喜びを下さっています。それ自体は神からの贈り物です。でもそれは、虫やさびで傷物になったり、盗み取られたり失われてしまうものでもある。それを宝として蓄えるのは止めて、天に宝を蓄えよ、と言われるのです。
 この
「天に宝を蓄える」
は前回までの流れでの言葉です。山上の説教は、天の父の子どもとして生きよとのメッセージです。天とは何よりも神がおられる場所です。恵みの神が支配しておられる所です。イエスは私たちに「神の子どもとして生きよ」と仰います。富に頼るより、持ち物を生かして、ともに分かち合う。神が隠れた所におられるから、私たちも隠れた所を大事に歩む。それがここで
「天に宝を蓄えなさい」
と言われるのです。イエスは天のすべての富を捨てて謙り、私たちの所に来て下さり、私たちを宝のように愛する歩みを生きてくださいました。私たちが心に闇を抱えたまま、朽ちるものを宝として縋(すが)り、また失われていく生き方から救い出すため、ご自身が命を捧げ、闇の中で死んでくださいました。私たちを、イエスは命がけで愛して、尊んでおられます。天地の神が、私たちの父となり、私たちを神の子どもとしてくださっている。これが、天が示した生き方です。このイエスに従うこと自体が
「天に宝を積む」
生き方です[2]。その土台は、神が既に私たちの天の父となってくださった恵みです。「私が善い行いをする、地上や天上に財産を蓄えるために働く」という、自分が土台なのとは大違いの生き方です。神の大きな愛が土台です。だから、虫に食われたりさび付くこともなければ、盗まれたり失われることも絶対にありません。だから、心から安心できるのです。
21あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。[3]
 地上の宝が壊れることは悲しいし困惑することですが、その中でも、動かされることのない神の大きな恵みが私たちの命である事は、心に大きな平安と自由さを与えてくれます。逆に、自分の宝を、地上の稼ぎとか金メダル、人間関係、あるいは牧師が教会の人数とかに置いていたら、いつも心が浮き沈みしてしまいます。虫に食われたりさび付いたりしないように工夫はします。泥棒に取られないようにシッカリしまうことも大事です。でも狡賢い盗人の手口や、不慮の事故で傷物になることは悲しい事に避けられないですね。
 今も、半年前まで大丈夫と疑いさえしなかった生活がすっかり変わりました。ウイルスを用心して精一杯注意しますが、それでも感染や失業や問題が降りかかることはあります。傷がつき盗まれたり壊れたり、悲しみ困りますが、それは罰とか不幸とかではなく、避けられない。それを「宝」として、自分の心の置き場所には出来ない。むしろ、生活や頼りにしているものも壊れるような中で、天の父を見上げながら、私たちがともに生きていく。モノが傷ついても、神は私たちを傷物とは見られません。私たちの命を決して盗ませず、宝のように守ってくださる[4]。その事を覚えて、私たちが互いの命を大事にし合い、知恵と思いを戴いていく。今、出来ることをして、希望を胸に生きていく。それこそが、本当の意味で、「自分のために」宝を蓄える生き方になるのです。
22からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
23目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。[5]
 目は光を取り入れる窓です。目が何を見ているかは、全身に影響しますね。何を宝とし、どこに心を置いているか、そこにいつも目を向けています。天の私たちの父に目を向け、今ここで赦しや愛、誠実さ、隠れた所を大事にして生きるなら、全身が明るくなります。しかし、壊れるモノを宝として心の目を向けていれば、そうはいきません。私たちの内には光がなく、闇しかないのに、内なる闇を満たすために、傷になるしかないものに目を向けても、闇は深くなるだけです。しかし、目を天に向けるなら、私たちの内には光を迎え入れることが出来ます[6]。
24だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
 私たちの主人は神です[7]。この世界を造り、私たちを治めている神。富とか宝とか、病気とか政治家がほしいままにしているようでも、神だけが全てに働かれ、この壊れやすい世界の、小さな私たちに目を留めて、父となっておられます。そして、私たちがお互いに助け合い、尊び合う生き方こそ、私たちのための宝だと言われます。私たちをこの礼拝に招いたイエスは、ここから出て行く場、色々なものが傷物になり失われる世界で、神にある、朽ちない宝を持つ者として私たちを遣わされます。主が、この世界の中で、尊い御業を為して下さると信じます。

「天の父よ。多くの祝福を惜しみなく下さり、今日まで支えて下さった慈しみに感謝します。それらが朽ち、傷つき奪われることは悲しみであり恐れですが、私たちの宝はあなたの他にありません。今、多くのことが変わり、苦しみ悩みがありますが、その中でもあなたが働き、命の業がなされてもいます。どうぞ、主イエスが約束されたように、私たちの心をあなたのうちに置き、内なる闇を照らしてください。そして、あなたの光の子どもとしてお遣わしください」

脚注:
[1] 「19自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」。ヤコブ5:1-6はこの注解。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。5:2 あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、3あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。4見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。5あなたがたは地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、屠られる日のために自分の心を太らせました。」
[2] この事は誤解される事が多いでしょう。地上に宝を蓄えずに、天に宝を蓄える、と言うことが場所だけの違いで、天国に報酬を積むために、良い行いに励んだり、神が喜ばれるような奉仕や献金をしたり、という読み方もあります。しかし、「天に宝」という言い方は、マタイ19:21でもう一度出て来ます。「イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」。この19:21も、「完全になる」ことと「天に宝を持つ」ことを結びつけています。それは、施しという代価で天に宝を積むことというよりも、施しをすること、手放すこと、いのちを捨てることそのものが、神に似ることを言っています。参照、マタイ5:48「48ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
[3] 英語と同様、「心」は心臓とも訳せます。宝がある所は自分以外の場所ですが、そこに心・心臓もある、という非常に面白く、含蓄のある言い方です。心臓も目も、私たちの内側では完結せず、外にあるのです。
[4] 心の置き場所として安心できるのは、天、神ご自身以外にありません。そして、神は私たちが神に差し出せる何かを持っているか持っていないかにかかわらず、私たち自身を受け入れて、心の置き場所となってくださる。神が私の宝だと思って生きていける。これは、心を明るく、喜びで満たす幸いです。
[5] 「目が健やか」には、新改訳2017では欄外に「あるいは「澄んでいる」」とあるように、まっすぐに目が見えることを思わせます。また、箴言22:9「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。」とある「善意の人」は「目が良い」というここの表現です。反対に、箴言23:6「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。」は「目が悪い人」という直訳です。目が健やかとは、善意であること、目が悪いとは、物惜しみすること。世界の見方が、善意の眼鏡か、物惜しみの目か、という言い方です。
[6] でも、それが出来ないこともここで明らかになっているでしょう。地上の朽ちる宝に心を置いてしまう。しかし、その私たちとイエスはともにいて、導いてくださる。宝が朽ちないようにするよりも、天に心を置かせてくださる。目を輝かせてくださる。これが、イエスの言葉が、道徳ではなく権威であるということです。
[7] 仕える(デューロオー)はマタイでここのみ出て来る言葉です。ですから「私たちが仕える行動の大事さ」、というよりも、神と私たちとの「関係性」が強調されていると読むべきでしょう。富をもらうため-それが地上の富であれ、天国の報いであれ、その「富」のために、神に「仕える」のであれば、神は手段に過ぎなくなります。そして、その「富」は決して神ご自身に成り代わって、私たちを健やかにしてくれることは出来ません。
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2020/4/19 マタイ伝6章16~18節「油を塗り顔を洗え」

2020-04-18 15:16:25 | マタイの福音書講解
2020/4/19 マタイ伝6章16~18節「油を塗り顔を洗え」[1]

 私たちは「断食」には馴染みがありませんが、聖書には断食が度々出て来ます。非常に苦しい時、また自分の罪を嘆いて悔い改める時、また旧約の律法では、年に一度の「贖いの日」という大きな祭りで断食をしました[2]。新約聖書でも大事な決断で断食をした記録があります[3]。日本長老教会「礼拝指針」にも「断食と感謝の日」の項目があります[4]。断食は聖書の習慣です。しかし一方で、断食に対する注意や強い警戒も出て来ます。人に見せるためのパフォーマンスになったり、苦行が信仰を強めるという間違った信仰に走ったり[5]。そういう傾向が預言書でも新約時代の教会にも指摘されて、厳しく諭しています[6]。イエスもこう言いました。
マタイ6:16あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 断食とか苦行そのものに価値がある、という考えを聖書は一蹴します。断食して祈る人の信仰は立派だとか、断食祈祷は神を動かす効果がある。そういう考えには価値がないとします。
 でも断食そのものが禁じられているのではありません。では、なぜ断食をするのでしょうか。それは「せずにおれないから」しかありません[7]。食べ物も喉に通らない程、苦しい。自分の罪の重さに打(う)ち拉(ひし)がれている。大きな決断を前に身震いする。悲しい時、どうすればいいか分からない時、食を断つのは自然なことです。その時に断食したり、髪をバッサリ切ったり丸坊主にしたり、楽しみを捨てたりする。それは将に今ではないでしょうか。
 今、私たちは本当に大きな脅威の中にいます。また一人一人、コロナの影響でぶつかった問題や悩みは千差万別でしょう。この御言葉は今、新しい響きをもって聞こえてきます。(世界福音同盟(WEA)では、新型コロナのことにあわせて、国際断食祈祷として、3月29日に祈りの日を設けていました。今日はその祈りをともに祈ります。)
 私は皆さんに断食を呼びかけるつもりはありません(それよりもしっかり食べて(食べ過ぎず)体力をつけてほしいです)。そうでなく、皆さんの感染の心配、仕事が多忙になったり閑古鳥が鳴いたり、家族と会えず、予定が立てられない。ご飯が喉も通らない程の不安や緊張を、大丈夫なふりをせず、出来る形で表現して良いのです[8]。私も友人が紹介してくれた賛美を聞いていて思いがけず涙が湧いてきてしまって、「ああ、自分もどこかで涙を抑えていたなぁ」と思いました。小さな断食でも、賛美でも、どんな形でも良い。その私たちの表現の奥にある痛みを、主は受け入れてくださるのです。私たちがどう祈れば分からない時も、御霊は深い呻(うめ)きでとりなしてくださいます[9]。
 断食は、人に見せるためでないばかりか、神が求める犠牲でもありません。決して「神に犠牲を払わないと怒る」とか「神は神妙な悔い改めを求めている」はイエスの福音とは違います。他の神々なら、苦境は罰です。「もっと神妙になれ、質素に慎ましくしろ」、「暗い顔」が敬虔さの表れとされます。断食とか苦行とか奉仕とか敬虔な行い、神妙さを求めます。勿論、悲しみのあまり、自発的に暗い顔になるかもしれません。聖書には、頭に灰を被ったり髪を振り乱したり抜いたりする嘆きの表現があります。しかしイエスはその反対を言われます。
17断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
 頭に油を塗るのは日常的な身だしなみや、来客に対するもてなしでした[10]。正装ではなく、ちょっとしたお洒落という所でしょうか。今なら、髪や身だしなみを整え、清潔にする。顔を洗えばサッパリします。やつれた顔をしてみせるのではありませんが、本当に断食してやつれていれば、そのままに見せます。やつして見せるのでもなく、元気そうに見せるのでも無く、素を見せる。「偽善者」という言葉は、仮面をかぶった役者を表すそうですが、仮面をかぶらずに顔を洗って、素でいくのです。人に敬虔そうに見せようなんて考えを捨てて、本当に悲しければそれもそのまま。人がどう見るか、ではなく、自分で自分の世話をし、小(こ)綺(ぎ)麗(れい)にする。もっと言えば、悲しみや悩みもあるままの自分の生活を愛するのです[11]。
 人がどう見ようと、天の父が隠れた所で見ておられ、私たちの苦しみに寄り添ってくださっている。人目につかない悲しみを知っていてくださる。見えない奥にある、大きな緊張をご存じなのです。イエスの言葉に従って仮面を脱いで顔を洗い、自分自身をケアして生きていく時、見えてくるのは、お互いが見えない痛みを持っているという事実です。表には見えてこない悲しみや、苦しみを皆が持っています。どう見せなきゃと気に病んでしまう、そういう人の心もイエスはご存じです。見えるうわべの奥に、天の父とその人だけが知っている、他のだれも触れてはならない世界を、私たち一人一人が持っています[12]。そういう人として全ての人を見るなら、自分を良く見せよう、敬虔そうに見られなきゃ、なんて考えはアホらしくなるでしょう。
 たとえその禍が明らかに自分の罪のせいだとしても、断食や自分を罰する苦行を天の父は求めない[13]。その罰はイエスが代わりに受けてくださいました。イエスが十分な償いをしてくださいました。そのイエスが、断食の偽善を禁じるだけでなく、断食せずにおれない私たちに天の父を示してくださいます。あなたに求められているのは自罰ではなく、天の父に信頼して悲しむことです。その私たちに、天の父は報いてくださる。それは、偽善を避けるよりももっと深く豊かな、天の父を信頼するというゴールです[14]。今、私たちの痛みや必要を飾らずに主に祈りましょう。顔を洗い、手も洗い、自分を十分にケアしながら、お互いの見えない痛みを思いやりましょう。それがイザヤの言う断食です[15]。行政に訴えかけ、周りの困った人に手を差し伸べ、主がこの大きな変化の中を導いてくださることを祈りましょう。

「天の父。あなたの憐れみを乞い求めます。余りに大きな変化に戸惑い、困惑しています。生活の必要がいかに多かったかを痛感しています。いかに豊かな恵みに支えられてあったか。断食や犠牲を喜ばず、恵みと真実を喜ばれる主よ。どうぞ、顔を洗い手を洗いながら生きていく私たちを、全ての人も特別な恵みで支えてください。支え合う心と知恵と手をお恵みください」

[1] 久し振りに、マタイの福音書の続きに戻ります。ずっとマタイを読んで来て、特にこの6章では「主の祈り」について丁寧に見てきました。思い出していただきたいのですが、6章は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」と始まって、施し、祈り、そして今日の「断食」と三つの善行に触れながら、「人に見せるために人前でしないように」と具体的に語ってきたのです。今日は「断食」です。
[2] レビ記16:31「これがあなたがたの全き休みのための安息日であり、あなたがたは自らを戒める。これは永遠の掟である。」 この「自らを戒める」は断食のことです。同じく、レビ記 23:29、民数記 29:7。後のバビロン捕囚の帰還後には、年四回に増えました。ゼカリヤ書8:19「万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」」
[3] 使徒の働き13:2「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。3そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」、14:23「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」
[4] 日本長老教会「礼拝指針」12章 断食と感謝の日
(根拠)12-1 断食の日と感謝の日を神の摂理と導きによって守ることは、聖書的であり、理性にもかなっている。
(範囲)12-2 断食の日と感謝の日は、個々の信者・家庭・特定の教会・近隣諸教会・中会内の全教会、大会内の全教会などによって守られる。
2 これらの日の選定は、それぞれの個人・家庭・小会・中会・大会の判断に任される。
(断食の日および断食の方法)12-3 断食の日には、この日を守ることを必要とした事柄について、普段よりも熱心に祈り、自覚した罪を悔い改める。
 2 断食は、水分を除くすべての食を断つことによって行われる。
[5] ルカ18:12「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」、ローマ14:1~23「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。2ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。3食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。4他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。13こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。20食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。21肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。22あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。23しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」、コロサイ2:16「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。17これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。18自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、19かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。20もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、21「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。22これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」、Ⅰテモテ4:3「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。」
[6] コロサイ4:21「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。…23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」、Ⅰテモテ4:3「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。
[7] レビ記10章では、大祭司アロンが、二人の息子がささげものを禁じられていた方法でささげたために焼き殺された時、大祭司として食するべき肉を食べませんでした。最初モーセは怒りましたが、アロンの理由が、息子への悼みであり申し訳なさだと告げられた時に、それをよしとしました。
[8] 嘆きたいとき、八つ当たりをして憂さ晴らしをしたりやけ食いに走ったり、楽しいふりをする人も多い。信仰の世界では、神に解決を求めることで、問題から逃げようとすることがある。しかし、断食は、自然発生的な嘆きとして、私たちの在り方を戒める。断食することが、神への訴求力を強めるのではない。神はそんな外見を見はしない。ともに、その真実の悲しみを嘆かれるのだ。
[9] ローマ8:26~30「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。27人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。29神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。30神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」
[10] ルツ3:3「あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。」、マルコ6:13「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」、ルカ7:46「あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」、10:34「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」、ヤコブ5:14「なたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」、
[11] 伝道者の書9:7~10「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。
[12] 周りの人にも、隠れた祈りがあり、隠れた施しがあり、隠れた葛藤・うめきがある。見える所で平気のように思えても、それだけで判断しない。観察を解釈にしない。自分には見えない、その人と神との交わりがある。自分は決して神のようにその人を見えるわけではない、という弁え。またそれは、私たち自身にも言える。自分をうわべで判断しない。もっと悲壮感が無ければ、もっと善人でなければ、もっとこう見せなければ、ではないし、神が見ているのはうわべではなく、奥の自分に断食や懺悔などの行為を求めるお方でもない。自分をうわべで決めつけない。
[13] 人に自分を立派に見せようとか、神にもパフォーマンスをしなければ、とか、そういう考えから、イエスは救い出してくださいます。
[14] ここでは、6章の最初から言われているのは、偽善にならないこと以上に、天の父への信頼です。天の神が私たちの父となっておられる。そして、見えない神は、隠れた所におられて、私たちの見えない所を見ておられる。その事を覚えること、私たちの見えない所を見ておられる父の前にあることを信頼することです。
[15] イザヤ書58章3~8節「『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。4見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。5わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。6わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。
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2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

2020-04-11 11:57:39 | 説教
2020/4/12 イースター礼拝 Ⅰコリント15章1~11節「最も大切なこと」

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      Ⅰペテロ1章3節
 祈  り
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」①
 主の祈り
 罪の告白      招き(コロサイ3:1,5,6)
                    祈り・沈黙
 赦しの確証    ローマ書4章25節
 平和のあいさつ
*賛  美      讃美歌148「救いの主は」②
Ⅱ.みことばの宣教
 牧会祈祷
 聖  書      Ⅰコリント15章1~11節
 説  教      「最も大切なこと」
Ⅲ.みことばへの応答・献身
*賛  美      讃美歌154「地よ声高く」①
 ささげもの
 報  告
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌154「地よ声高く」②
*派遣・祝福    ヘブル書13章20-22節

 世界の教会が今日、主の復活を祝っています。教会に集まらなくても、主が私たちのために十字架にかかり、三日目によみがえらされ、今も生きて私たちとともにおられる。この知らせを味わい、お祝いしています。私たちは今年、この事実をかつて無かった程噛みしめています。
 十字架と復活は、今日のⅠコリント15章でパウロが確認している「最も大切なこと」です。
15:3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
 キリストの私たちのための死と復活は、聖書に書かれていた、最も大切な事です。それは聖書後半のクライマックスですが、その前の3分の2、旧約聖書でもずっと語られています。やがてキリストが来て、私たちを回復して下さる。それも、神の圧倒的な力によるのではなく、キリストご自身が死なれ、葬られ、命を捧げて下さる。また、それで終わりではなく三日目に甦って、弟子たちや多くの人に現れたのです[1]。教会はこの「福音」を最も大切な事として語ってきましたし、世界のキリスト教会、キリスト者はこのことを信じているのです。
 でもそれは「昔、キリストが十字架に死んで復活しました」と信じているという意味ではありません。キリストが復活して現れた弟子たちは、ただ復活の目撃証人となって、復活を裏づけただけではなく、復活の主に出会って、人生を新しくされました。弟子たちは、イエスの十字架の時に全員が逃げ、イエスを裏切ったりした失敗者ばかりです。復活の時にも、彼らは喜ぶどころか、笑ったのです。イエスが死んで、もうお先真っ暗と沈み込んでいた。そこにイエスが現れて、彼らは本当に驚いた。ひっくり返る思い、いや本当に弟子たちの人生はひっくり返ったのです。イエスの十字架と復活は、私たちの常識を覆します。イエスをよみがえらせた神の恵みは、私たちにも力強く働いています。それが、聖書に書いてあること-キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられ、弟子に現れた、最も大切なことなのです。
 特に、このコリント書を書いているパウロ自身、自分のことをしみじみと書いていますね。
8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
 神の教会を迫害していた自分、使徒と呼ばれるに値しない私に、キリストが現れてくださって、恵みによって、他の全ての使徒たちよりも多く働かせてもらった。私が、ではなく、神の恵みが私とともにあって働いた。そういう神の恵みを自分がいただいた、という告白になっています。
 この「無駄にはならず」は、15章に5度も繰り返される言葉です[2]。神の恵みは決して無駄にはならない。キリストの十字架の死という最悪な出来事と、その後の復活の恵みは、禍や死が襲いかかっても、決して無駄にはならないと希望を与えてくれる、不思議な灯です。
 次の12節以下を見ると、コリントの教会の中に
「死者の復活はない」
「死んだら人間お終いだ」と考える信者がいた事が分かります。十字架や復活は信じていたのでしょう。それでも「それはそれ、これはこれ」。32節では
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」
という言い草も出て来ます。だからパウロは、もしそうなら、キリストの復活もなかった、でもキリストは復活したのだ、と語るのです。この章の最後の結論はこうです。
58…私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
 イエス・キリストは私たちの罪のために死んで三日目に復活させられ、イエスを見捨てた弟子たちを新しく立ち上がらせ、教会の敵であったパウロを使徒にしてくれました。神の恵みは、死よりも強いのです。イエスが死なれたように、私たちも死にます。死ななくなるわけではなく、弱さを持ち、朽ちる身体で生きています。でも、それが全てではなく、復活の力をキリストは私たちのうちに働かせてくださる。
 今、これだけ世界が感染症に脅かされて、対策を取る必要に迫られています。「自分は大丈夫」などと思わず、朽ちる身体だと弁えて、十分慎重になりましょう。それでも、この朽ちる世界にも、主イエスが来られて、朽ちない恵みの力を働かせておられる。そうでなかったら、キリストは復活しなかったはず、信仰など無駄なのです。しかしキリストは、初穂としてよみがえられました。決して無駄にはならない労苦を私たちに与えてくださっている。それは私たちにとっての生きた希望です。

「主イエスがよみがえられたことの、実に不思議な知らせを思い、御名を崇めます。あなたは私たちの救いも、十字架の苦難も復活も、無駄とは思わず、御業を成し遂げてくださいました。その恵みの力に、私たちが今支えられて、あなたの命の働きを期待して歩めることを感謝します。どうか私たちもあなたの恵みの器として、今この時、それぞれの場でお用いください。あなたの慈しみを見させ、私たちの心も恐れを溶かし、愛と喜びに温かく満たしてください」
[1] イエスの復活は、実際にその目で見た目撃証人が大勢いる事実です。勿論、旧約聖書には、「ケファに現れ、十二弟子や500人以上の兄弟たちに現れる」とは書かれていませんが、その大勢に現れたことも聖書の約束、預言で、最も大切なことでした。
[2] Ⅰコリント15章2節「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」、10「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」、14「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」、58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
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2020/4/12 使徒の働き2章23~28「いのちの道を知らせる方」 ニューシティカテキズム23

2020-04-09 13:22:24 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/4/12 使徒2章22-28節「命の道を知らせる方」ニュー・シティ・カテキズム23

 今日はイースター、復活祭です。イエス・キリストが今から二千年ほど前、十字架にかかって死んだ後、足かけ三日後の日曜日の朝、墓からイエスはよみがえりました。その事を、今日の聖書箇所では、ハッキリと告げています。
使徒二23神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。24しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
 復活はイエスが贖い主キリストである証明です。私は小さい頃、イエス様が私たちのために身代わりとなり、十字架で死んでくださった、という事は繰り返して聴いていました。「私のために死んでくださったイエス様、ゴメンナサイ、有難う」、それが私のキリスト教理解でした。けれども、神学校に入り、牧師になっていく中で、改めて「復活は何のためだろう?」と考えました。そうして、イエス様の身代わりの十字架だけではないんだ、イエスが死んでよみがえって、今もともにおられる、それこそがキリスト教の福音なんだと分かったのです。イエスが死んだ事は測り知れない恵みです。しかしそれが福音の中心ではありません。イエスが可哀想に十字架に死んだ、申し訳ないことに身代わりの生贄になってくださった…そんな「義理と人情」の話ではないのです。十字架に死なれたその後に、イエスがよみがえったこと、イエスが死や罪や私たちの弱さよりも強いお方であることこそが、私たちに告げられている福音なのです。
 先の聖書の言葉の後、説教者のペテロはこう続けて語り、ダビデの詩篇を引用します。
使徒二25…『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
26それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
27あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
28あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
 イエスとは、この方だったのだ。詩篇で詠われていた、この主はイエスだ。私たちとともにおられ、喜びや望みを下さり、私の魂を陰府に捨て置かず、滅びをお見せにならないお方。いのちの道を知らせてくださるお方、そのお方がイエスだったのだ。そして、そのお方が、私たちのために人間となって、死んでくださったのだとしても、そのまま死に繫がれていることなどあり得なかった。私たちに命の道を知らせてくださる方が、自分では死んでしまってそのまま、のはずがない、というのですね。
 ここで
「主」
と言われます。聖書に出て来る、唯一の創造主、本当の神の別名です。その主がイエスだ、というのです。イエスは、主なる神です。イエスは、本当の人間であり、同時に本当の神、主でした。その復活は、イエスが主であることを力強く証しした出来事であったとも言えます。今日は、イエスが神であることを覚えましょう。
第二十三問 なぜ贖い主は、本当の神でなければならないのですか?
答 その方が本当の神であることによって、その方の従順と苦しみは、完全で、効果があるからです。そしてその方は罪に対する神の正しい怒りを受けて、死に打ち勝つ事ができるからです。
 イエスは、私たちを神に背いた罪の状態から、ご自身の命という代価によって、贖って(買い戻して)くださいました。しかし、その命がただの人の命であったとしたら、私たちの罪をすべて贖うことは出来ません。人の罪は、造り主であり、すべての主である神に対する背信ですから、無限の重みを持っています。人間が犯した罪を償えるのは人間で無ければなりませんし、神に対した罪を償えるのは神以外にいません。神は、ご自身に対する罪を他の誰かに追わせることはなさいませんでした。そんなことは重すぎますし、無理なことです。神は、ご自分が、人間の罪を贖う以外に、人間の罪を赦し、解決して、関係修復をする方法はないとご存じでした。だから、神の御子であるイエスを人間としてこの世にお遣わしくださいました。
 人間としてのイエスの従順と苦しみは、イエスが神であったからこそ、完全で、有効でした。そして、最後には十字架の上で、神の正しい怒りを全て引き受けてくださいましたし、その上で、死に打ち勝って、よみがえってくださったのです。イエスの復活は、偶然や奇跡では無く、イエスが神であった証拠です。そして、神であり人であるイエスは、今も私たちとともにいてくださり、私たちに喜びや望みを与え、いのちの道を知らせてくださるのです。
 これだけではありません。聖書にはイエスが神であることは、随所に書かれています。
ヨハネ1:1初めにことば[キリスト]があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
コロサイ2:9キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
ヨハネ黙示録5:13「御座に着いておられる方と子羊[キリスト]に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」
 イエスに賛美を捧げること、イエスを礼拝し、イエスに信仰を置くこと。それはイエスが神でなければ、神ならぬものを神とする偶像崇拝になります。イエスは「わたしではなく、神を礼拝しなさい」とは言わず、
「わたしを信じなさい」
と仰ったのです。イエスは、神でありながら、私たちと同じ人間になりました。人としての悩みも苦しみも、辛さも死も味わい知っておられる神です。そして、死んで、よみがえらせられました。



 今、新型コロナウィルスで、世界の教会もイースターの集まりが持てず、教会以外のイースターイベントも持てません。このような世界の脆さ、私たちの悲しみも無力さも、イエスは十分に味わい知り、ともにしておられます。イエスは十字架にかかったのです。復活まで丸一日、土曜日がありました。今、私たちはその土曜日を生きているようなものです。まだ世界の復活、いのちの勝利を見てはいません。悲しみがあり、疑いがあります。けれども必ず日曜日は来ます。復活のイエスが来てくださいます。だから私たちは、希望をもって今ここで、命を祝いながら、希望を持って歩ませていただいています。



「子なる神よ、罪に対する神の怒りを受けること、また死に打ち勝つことは、私たちには到底できません。ただあなただけ、聖いあなただけが、罪の義なる裁きを受け、死に打ち勝つことができました。私たちが神をとこしえに喜ぶために、神への道を備えてくださって、ありがとうございます。アーメン」
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2020/4/5 マタイ伝26章17~30節「これはわたしのからだです」

2020-04-04 17:19:04 | マタイの福音書講解
2020/4/5 マタイ伝26章17~30節「これはわたしのからだです」

礼拝式次第

*印は可能な方のみご起立ください。
*讃美歌は一番のみ歌います。

前  奏 
Ⅰ.神の民の集い
 招  詞      マタイ21章9節、ヨハネ12章15節
 祈  り
*賛  美      讃美歌130「喜べや」
*主の祈り
 罪の告白      招き(詩篇139:1-2、23-24)・沈黙
 赦しの確証    エペソ書2章8-10節
 平和のあいさつ
*賛 美  讃美歌495「イエスよこの身を」
Ⅱ.みことばの宣教
 聖  書      マタイ伝26章17~30節
 説  教      「これはわたしのからだです」
Ⅲ.主の聖晩餐(応答・献身)
*賛   美  讃美歌133「夜は更けわたりぬ」
 ささげもの
 報  告
 牧会祈祷
Ⅳ.派遣
*信仰告白
*賛  美     讃美歌545下「父の御神に」
*派遣・祝福

 この箇所は「最後の晩餐」を伝えています。受難週の木曜日の夜の出来事です。実は、去年から、「来年の受難週の受難日礼拝には「主の聖晩餐(聖餐式)」をしたい!」と楽しみにしてきました。それが新型コロナウイルスのことで、受難日礼拝どころか、先月からの聖餐式も慎重にならざるを得なくなり、集まる事自体を控えるべきか。この後、小会で話し合おうとしています。そんな中で「出来ない聖餐式」の聖書箇所を、今日は開いています。
 そんな目で読むと、新しい発見があります。なんといっても、この晩餐の前に、イエスは
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」
と言われて、弟子たちは騒然となりました。裏切り者がいる。みんな「まさか私ではないでしょう」といいますが、その中に「いや、あなただ」と言われる人がいる。それが主の聖晩餐の背景でした。後に使徒パウロはこう言います。
Ⅰコリント11:23…主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。…
 この「渡される」とは「裏切られる」と同じ言葉です。イエスを引き渡す弟子たちに対して、イエスは向き合われて、パンと杯を与えたのです。
 この食事は「種なしパン」の祭りの最初の日の食事でした。「種なしパン」、膨らませずに焼いた堅いパンと苦菜の食事でした。それは、かつて先祖が苦しい奴隷生活を送っていたこと、またそこから救い出されて、食事の準備をする暇もなく、種なしパンを焼いて出て来たことを思い出す食事でした。社会で人が人を奴隷として扱ったり、弟子たちも裏切ったり見捨てたりする、バラバラになっている状況の中に、イエスは来られて、主の聖晩餐を定められました。
26…イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 イエスはパンを裂いて弟子たちに与えました。最初、聖餐は「パン裂き」と言われています。パンを裂き分け合うことが、イエスの記念だったのです。裂いたパンを渡されて、イエスは「これがわたしのからだです」と仰るのです。それは、イエスが来たこの世界が、裂かれているから、そこにイエスが来て下さって、ご自分を裂いて与えてくださったことを思わせます。今日も実際に主の聖晩餐はしません。聖晩餐だけで無く、今までアタリマエのように続けて来た多くの事が出来なくなり、私たちは途方に暮れています。この今、聖餐だけを何とかして行おうとするよりも、思い描いて戴きたいのです。イエスが、パンを裂かれ、私たち一人一人に与えて、「これはわたしのからだです」と仰っていることを。奇麗に四角く切り揃えたのでなく裂かれたパンは一つ一つ、大きさも形も違います。不格好なかけらです。そのかけらを私たち一人一人に渡して、イエスは「これはわたしのからだです」と仰る。杯を取って、与え、
27「みな、この杯から飲みなさい。28これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
と仰るのです。この杯は一人一人別々に渡されたのではありません。一つの杯を皆で回したのです。パンも元は一つでした。一つのパン、一つの杯をともに戴く。それは、私たちが主にあって一つであることの象徴です。しかし同時に、そのパンが裂かれて渡されるのは、イエスが私たちのために十字架で肉を裂かれた証しです。杯の葡萄酒は、多くの人のため、罪の赦しのために流される、イエスの契約の血です。イエスが十字架で死に、血を流されたことで、私たちはバラバラだった在り方から、神の家族、神の民として一つに贖われたのです。そのために、イエスはご自分を与えてくださいました。その小さな、不格好なパンを一人一人に渡しながら、何のてらいもなく、「これはわたしのからだだよ」と言います。それを受ける弟子たちも私たちも、すぐに恐れ、分断や問題ばかりなのに、だからこそ、その彼らのところに一緒に来て、一緒に裂かれ、私たちを養い、また一つとするために、イエスは来られたのです。

 互いに距離を置かなければならない今、私たちがどれほどお互いを必要とし、お互いに一つであるか、かつてないほどに経験しています。近づけないことが、かえって私たちの絆を物語っています。聖餐のパンがない今日、今まで以上に、あの一切れのパンに託して、「これはわたしのからだです」と言われた主を覚えましょう。聖餐だけでなく、パンや肉を食べる時、何かが差し出される時、どんなものを通しても、そこに託されている恵みを受け取りましょう。また、イエスご自身も
「今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません」
と仰いました。イエスも断酒しています。それは
「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日」
を待ち望むからでした。今までのように聖餐や交わりは出来なくても、主の目はその回復以上に、やがてひとつ主の食卓を世界中のすべての神の民と囲む時に向かっています。その時に向けて、主が私たちの真ん中に立ち、ご自身を裂いてくださいました。その恵みに養われていきましょう。

「主よ、病気のため、人の罪のため、そして、私たち自身の冷たさで裂かれてしまっているこの世界を憐れんでください。御子イエスは、この裂かれた世界に来られて、ご自身が裂かれてくださいました。その記念の聖餐を出来ない中、今までに無い悲願として主の憐れみを願います。そして、私たちをも、主の命に養われたものとして、あなたの器としてお用い下さい」
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