聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問28「キリストは高くなってくださった」ピリピ二章6~11節

2014-11-23 20:16:09 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/11/23 ウェストミンスター小教理問答28「キリストは高くなってくださった」

                                                                      ピリピ二章6~11節

 

 今日のピリピ書のみことばは、先週も開いた所です。キリストが低くなってくださったこと-ご自分を卑しくし、十字架の死にまで低くなられたこと-を言った後に、

 9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

とあったのです。神の栄光から、私たち人間と同じにまで謙ってくださったイエス様は、高く挙げられた(これを「高挙」と言います)、全ての名にまさる名前をお持ちになった、高いお方であるのです。

問 キリストの高挙は、どのような点にありますか。

答 キリストの高挙は、彼が三日目に死者の中からよみがえられたこと、天に昇られたこと、父なる神の右の座に着かれたこと、また、終わりの日に世を裁くために来られること、にあります。

 イエス様だけに与えられた特別な高さ、と言い換えてもいいでしょう。それがここに四つ書かれています。一つ目は、イエス様が、十字架で死なれた三日目に、墓の中からよみがえられたことです。時には、死んだ人が息を吹き返すこともあるようです。イエス様が、死んだ人をよみがえらせた奇蹟も、少なくとも三回はありました。でも、イエス様は、ご自分で最初から、死と三日目の復活を予告しておられました。また、他の人はよみがえってからまた、今度こそ本当に死んでしまいました。イエス様は、死に打ち勝って、栄光の体でよみがえられましたので、もう死ぬことはありません。今も生きておられます。たまたま死んで一回よみがえった、というのではなく、死に勝利されて、今も生きておられる。これは、私たちのために十字架に死んでくださったイエス様だけの、特別な「高さ」の第一です。

 そして、イエス様は、それから四十日して、天に昇られた、とルカの福音書の最後と使徒の働きの最初に書かれています。ヘブル書では、

ヘブル九24キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。…

とあるように、これはイエス様が、大祭司としての贖いの御業、私たちのための罪を取り除くため、捧げられたご自身を、天に携えに行ってくださった、ということです。

 そして、三つ目の「父なる神の右の座に着かれたこと」とあるのは、天に本当に宮殿やお城があって、神様の席(御座)があって、その右にイエス様のお席があるということではありません。神様の権威を行う立場、位を与えられた、ということですね。何度も引用していますが、マタイの福音書の最後にイエス様はこう仰いました。

マタイ二八18…わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 天で神の右の座に着いておられる、というのは、このイエス様の権威を表しています。それは、どんなものよりも高く大いなる権威です。

 しかし、イエス様は、弟子たちにこうも仰っていました。

ヨハネ十四2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

 3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 イエス様が、天高く遙かな所に挙げられたことは、私たちをそこに迎え入れて下さるためだ、とイエス様は仰います。高すぎて、見えなくて、偉くなり過ぎちゃって、余所余所しく感じてしまう、かも知れません。けれども、私たちがどう感じようと、イエス様は、死からよみがえり、天に昇り、神の右の座に着かれるほど、高く挙げられて、私たちのために場所を備え、私たちのために執り成しておられるのですね。天の高い所で、私たちの贖い主として、預言者・祭司・王の務めを果たしてくださっているのですね。そして、その天の高きにおられるお方が、私たちを守って、やがて天に引き上げてくださる。そのために、イエス様はもう一度この世界においでになって、すべてのものを裁かれて、天の御国を始めて下さる。そのことを見上げて、天の主を見上げながら、歩みなさい、と私たちは励まされているのです。

ピリピ三19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 イエス様はこの地上に来てくださいました。低く、卑しくなられて、人間の罪や苦しみや悲しみを、全部味わい知ってくださいました。そして、そのイエス様が私たちの思いを全部、天に届けてくださいました。そこから、私たちのために執り成し、王として治め、祭司として執り成し、預言者として語ってくださっています。ですから、私たちは地上のことを思うだけではありません。天を見上げるのです。高く挙げられたイエス様を想って、天を見上げるのです。そして、やがてそこからイエス様がおいでになる。世界を裁かれるために、でも、私たちのことも裁かれた上で、必ず天の住まいに入れてくださる。私たちを天の古里に迎え入れるために、天から来てくださる。そのことを思って、天を見上げましょう。

 神様はノアに、空の虹を示されました。また、アブラハムには、天を見上げて星を数えなさい、と言われました。抜けるような青空、満天の星々、雲海からの眺め、美しく広がる朝焼け。そんな空をじっと見上げていると、私たちの毎日は、大きく息をつくことが出来るようになります。天に上げられて、私たちを大きな手で守っておられるイエス様を想いましょう。イエス様から励ましと希望をいただいて、賛美していきましょう。

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徳島キリスト者平和の集い拡大準備会説教

2014-11-16 16:04:00 | 説教

徳島キリスト者平和の集い拡大準備会説教     2014年11月15日(土)

1.      エペソ書の「和解の務め」の全体的理解

 「キリスト者平和の集い」ということで、教会が依って立つ平和を励まされる御言葉には様々な聖書の箇所があります。その一つに、エペソ書二14節があるでしょう。

14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 「キリストこそ私たちの平和」。今日は、この言葉をもう少し探って、私たちの平和の集いの手がかりとさせていただけたらと思います。

 エペソ書で、平和という言葉を用いるのは二章のここが初めてですが、ここまでの話が平和について無関係であるということではなく、むしろ、エペソ書の大切なテーマの中で、「平和」を語っているのです。特に、パウロは一9で「御心の奥義」を語っています。

一8この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、

 9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 天にあるもの地にあるもの一切が、キリストにあって一つにされる。それが、神の永遠の御心による奥義だ、というのです。この神様の御心の宇宙的な奥義、終末を具体的に思い描かせるパウロの視点が、エペソ書のテーマです。

 二章で、パウロは、「罪」と恵みによる救いを説きます。その結果として、

13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

と続くのです。この部分を、新共同訳聖書では、「キリストにおいて一つとなる」と題しています。キリストにおいて、「異邦人」も「イスラエル」も一つとなる。それは、言うまでもなく、一章で「御心の奥義」と言われていたことの成就です。異邦人とユダヤ人、当時、お互いに忌み嫌い、一緒に食事をすることも珍しかった異人種同士がキリストにおいて一つとなったというのです。キリストの十字架は、そのような平和のためだというのです。

 三章でもパウロは、自分の務めが、この奥義に関わるものだとして繰り返します。

 6その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 そして、その福音を伝えるために、自分が選ばれたことを語ります。

 8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

 9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。

 このように、創造者なる神と、最も小さな私、という対比を繋ぐのが、御心の奥義だと言います。そうした壮大なスケールの奥義を語った上で、四章に入ります。

四1さて[新共同訳:そこで]、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。…

このように、召しのもたらした「一つ」、御霊の一致を保ち、その召しに相応しく歩みなさい、という勧めになる。御心の奥義に向かって、生きていく。そのために、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和の絆で結ばれなさい、という適用が四章以下で展開していくのです。キリストが果たしてくださった「平和・和解・一つ」というご計画を踏まえて、私たちの平和作りが始まるのです。

 当時も「ローマの平和」と呼ばれる、戦争のない時代でした。ローマ帝国が地中海世界を平定していました。しかし、その「平和」は強者が弱者を抑え、武力で押さえつけている安定でした。ユダヤなどの被占領国は圧政や重税に苦しみ、反乱や転覆を夢見ていましたし、異邦人との和解や一致など願い下げだったでしょう。そうした、取りあえずの「平和」とは違う、キリストの平和、神の奥義である完全な一致を教会は信じ、その始まりとなったのです。

 

2.      教会史における現実

 しかし、そのような福音を授けられた教会が、聖書が完成し、使徒たちの去った歴史において、平和の福音に立ち続けてきたか、「剣を取る者は剣で滅びる」との告白を貫いて、「絶対的平和主義」を守れたか、というと、そうではありませんでした。ご存じのように、アメリカの巨大軍事産業、共産圏との間に「核の傘」によって築いた冷戦時代、そしてイスラム圏を敵対視して湾岸戦争に踏み切って来た背景には、キリスト教会の強力なバックアップもありました。日本の教会も、太平洋戦争に対して大方は賛成し、礼拝の中で戦勝を祈りました。宗教改革の時代に遡っても、農民戦争やカトリック派とプロテスタント派の戦いがありました。もっと遡って、中世を見ますと、悪名高い「十字軍」に代表される、神の名の下に「聖戦」と自称して行われた軍事行動があることは言うまでもありません。

 中世の前はどうだったのでしょうか。よく、「教会は、初めは絶対的平和主義だったが、ローマ帝国に公認されると、教会は世俗化していき、富の誘惑に負けて、制度化されていき、信徒が兵役に就くことも認めるようになった」と言われます。ところが、初代教会の文書を丹念に調べると、決してそうは言い切れないようです。ローマ軍の残酷な軍事行動や流血行為を非難することには歯切れ良くても、信徒が兵役につくことがどうなのか、あるいは信徒でない兵士が洗礼を受けるためには兵士を辞めなければいけないのか、そうした実際的な問題についてはブレがあります[1]。殺人、あるいは皇帝崇拝が偶像であるという理由から、信徒が兵役に就くことは禁じた司教たちでさえ、ローマによる統治の恩恵に与っている面も認めていました。絶対的平和主義を唱えた司教ラクタンティウスも、公認後には軍務を否定せず、皇帝を祝福します。有名な教会史家エウセビオスも、皇帝コンスタンティヌスの信仰や祝福を伝え、「最も偉大な勝利者」と呼びました。そして、

「「キリスト教徒にとって、それが流血を招いたとしても、教会の迫害者に対するコンスタンティヌスの勝利を、非難の眼で見ることは難しかったであろう」。

 つまり、帝国が教会に対して、もっぱら迫害と緊張関係にあった3世紀には、

「キリスト教ローマ帝国」は全くのユートピアに過ぎなかったが、平和主義者ラクタンティウスはその実現を目前にしたとき、より現実的な対応をするようになったということであろう。」[2]

と言われています。少数派で、国家に物言う関係ではなかった時には、理想論を振りかざせたけれども、では皇帝や支配者がキリスト者となった場合、キリスト教的国家を現実的に考えるに当たっては、剣の問題をどのように考えていくべきか。ちゃんと整理が出来ていなかったのではないか、と思います。

 同じ事が言えるのが、宗教改革の時代の再洗礼派でした。急進的宗教改革と呼ばれるグループの一つで、ルターやカルヴァンの宗教改革は生温く不徹底であると批判した彼らは、新約聖書に現された初代教会の姿に帰り、理想的で純粋なキリスト教会を自称します。彼らの打ち出した信仰は、「シュライトハイム信仰告白」という文書に見ることが出来ます。そこで彼らは、宣誓や公職に就くことの否定などと同時に、「絶対的平和主義」を打ち出し、兵役を拒否します。国家が神の定めによるものであることを認めつつも、それはキリストの完全の外にある、という言い方をして否定してしまいます。

 果たして新約時代の教会が「理想的な」教会なのか、聖書自体が教会の格闘と模索とを伝えており、当時の時代的誓約を無視しては読めないのではないか、とか、この世の教会が純粋であり得ると聖書が教えているのか、などと言った問題はさておくとしても、やはり国家が戦争をし、武力で教会への攻撃を加えてくる時代に、国家によって守られている面を認めながらも、自分たちは「絶対的平和主義」に立つ、とは虫のいい話でした。ちょうどキリスト教公認後の教会が、新しい時代の妥協の産物として、信徒の結婚と兵役を認めつつ、聖職者と修道士は独身を貫いて兵役は免除される、という二重基準を設けた、実に中途半端な方向を選んだのに似ています[3]。地の塩、世の光として、積極的な働きかけを放棄して、自分たちの手は汚さない。そういう平和論が聖書の教える所なのでしょうか。渡辺信夫氏はこう言います。

「この世の中に教会と別次元のものだが、同じく主の立てておられるもう一つの秩序、また制度たる「国家」というものがあって、教会はそれとの関係を終始意識しなければならない。これは福音書の中に最も素朴な形で「神かカイザルか」という問題として提起されている。」(同)

 いずれにせよ、教会は「絶対的平和主義」に常に立っていたわけではありませんし、絶対的平和主義が聖書の教える倫理だと考えたのでもありません。確かに出エジプト記二〇章の十戒は「殺してはならない」と言いますが、その次の頁には、人を殺した者、誘拐する者、両親を呪う者は殺さなければならない、とも書いています。新約においてでさえ、戦いのモチーフはある。そして、現実の世界には暴力があり、国家の衝突があり、不正が行われている。そういう中で、私たちは、「キリスト者だから戦争はしません」という論理が当たり前ではなく、むしろ歴史的にも世界の中でも珍しいという事実も受け止めておくべきでしょう。教会の中にも多様な意見があり、置かれている戦いは複雑なのです。

 

3.      平和の器と変えられるために

 では、そのようなバラバラな教会を考えると、そもそもの「御心の奥義」はどうなったのか、という疑問が生じます。どの立場が正しいのか、という以前に、これだけ多様な価値観があって、それでも「ひとつ」と言えるのでしょうか。一切のものが一つとなる始まりとしての教会が、本当に「ひとつ」だと言えるのでしょうか。そうです。私たちは、このような多様さ、意見の違いを踏まえた上で、なお私たちは一つである、と告白するよう求められているのです。キリストに根ざし、聖書に導かれるとしても、みなが同じ結論を出すわけではありません。勿論、どんなことでも意見が違って良いわけではなく、許される範囲を超えた逸脱は異端と呼ばれます。しかし、その範囲はかなり広いものでもあって、その違いに立った上で、なお主にあって一つ、という告白が与えられているのです。

 エペソ書でパウロが述べていた奥義は、異邦人も神の民に入れられる、ということでした。ユダヤ人と異邦人の違いが無くなってしまうのではなく、ユダヤ人はユダヤ人でありつつ、異邦人は異邦人でありつつ、キリストにあって一つなのです。

四3…御霊の一致を熱心に保ちなさい。

です。パウロは、一致を勧めたり命じたりはしていません。既にキリストにあって一つである、という事実を保つのであって、人間的な一致を造り出すのではないのです。更に、7節で、一人一人にキリストの恵みの測りに従って違う賜物が与えられていることを言います。そこにも「違い」があります。人間関係についての具体的な勧めが四章後半から五章前半まで語られていくのも、そのような人間関係の問題を踏まえてのことです[4]

 五22以下に、有名な夫と妻への勧めがあり、六章では親子、奴隷と主人、という具体的な関係に踏み込んでいくのです。夫と妻、男と女、あるいは大人と子ども。それは大きな違いです。歩み寄ることは出来ても、同じになることは出来ません。しかし、違った上で、主にあって一つである。それが、キリストにあってもたらされた「平和」の奥義です。

 キリストの奥義を信じる私たちには、相手との違いを受け入れる、という態度が求められます。我慢、忍耐、寛容、柔軟性が求められます。ひと言で言えば、愛です。でもそれは、ただ優しい、温かい、教会の人はみんなニコニコしている、という温々(ぬくぬく)とした雰囲気ではありません。人種や国籍や文化の違う人がおり、受け入れがたい人がおり、意見の違いや個性のぶつかり合いがあった上で、なおキリストにあって互いを尊重し、神の家族として受け入れ合う「愛」です。賑やかな愛であり、バラエティに富んだ愛です。

 平和に逆らうのは、このような多様性を認めない力です。話し合いではなく、武力で自分の正しさを認めさせよう。あるいは、手続きを曲げてでも、反対意見を封じてしまおうという動きです。そのような相手に対して、私たちは、自分たちの正しさを主張して、相手を非難する「同じ穴の狢」であってはならないのです。それは、面倒くさいことです。厄介です。でも、その難しさから逃げないのが、地の塩としての務めだと思うのです。教会は平和のために祈らなければいけません。でも、祈ってさえいれば、平和が来る、ということでもありません。私たち自身が、他者を認め、問題の複雑さを受け止め、平和のために出来ることを地道に積み重ね続けること、そうやって、主によって取り扱われ、変えられ、成長させていただくことを求めたいのです。

 エペソ書五章後半の、夫と妻への勧めは、妻は夫に従い、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛しなさい、と命じます。ですが、妻は夫に暴力を振るわれても黙って従っていればいい、という適用は言語道断です。主イエスは、人間の罪の深みを見抜いておられ、その頑なさから人間を守ろうとされました。「祈りつつ堪え忍んで従っていれば、いつかは夫も変わるかも知れない。離婚は罪だから、もっと愛しなさい」とは言われませんでした。聖書は家庭を神聖視するわけではなく、家庭においてこそ罪や人間の本性が露わになり、またそれを隠そうとするものなのだと鋭く見抜いているのです。綺麗な空論に逃げて、聖書が語る堕落した世界の現実を見据えないではダメなのです。夫婦の暴力についての本に、このような結びの言葉を読み、とても本質を言い当てていると思いました。

「この問題に関する訓練をわずかしか、あるいはまったく受けていない人ほど、この極めて複雑な問題を非常に単純化し、また精神化した方法で解決しようとする傾向が強い。」[5]

 これは平和の問題にも当てはまります。戦争、政治、歴史、罪と悪、そして人間そのものについてよくも知ろうとしないまま、こちらが武器を捨てれば相手も押しかけては来ない、とか、祈り続けていれば奇蹟が起こるとか、伝道してみんながクリスチャンになれば平和は来る、そんな事を言う人もいます。「殺すより殺される方が良い」という論理は一見純粋なようでいて、愚かです。罪の問題の暴力性から目を背けています。戦いから逃げることで、もっと大きな悪を引き起こすことにならないのか。悪しき政府が子どもたちを教育した、ポル・ポトの再来でもいいのか。家庭においても世界においても、罪の解決を単純化し、精神化をせず、歴史を学び続け、他者に耳を傾け、手を繋ぎつづけていくことです。信仰は問題を単純に楽観的に考える口実ではなく、聖書の示すように、罪の痛み、苦しみをキリストとともに担いつつ、うめきつつ、贖いを待ち望むものであるはずです。

 また、パウロが、この奥義に仕える者として持っていた自己意識は、

三8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

 9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためでした。

というものでした。新共同訳では「最もつまらない者であるわたし」と訳していますが、私たちが自分の傲慢や正義感を砕かれて、謙らされることもまた、福音の奥義に生きるためには欠かせません。パウロはエペソ書で、「内なる人を強くされて」と勧めます(三16)。具体的に、情欲(四22)、偽り(四25)、怒り(四26)、などを自制する訓練も強調しています。それは、御心の奥義が、実現していくうえで、私たちが心の奥深くから変えられ、新しくされて、本当に一つとなるために欠かせないことだからです。

 

4.      段階的に。御心への信頼と望みを。

 「平和への道は陶酔せぬ心にある」という言葉を読んだことがあります。キリストが果たされた奥義は、完成のときに向かっています。既に果たされた「ひとつ」であると同時に、まだ完成されていない、やがての完成を待つ「ひとつ」という奥義です。それは、私たちが物事を単純化して考え、ウットリさせてくれるような現実を夢見る誘惑から救い出します。主がおいでになるまで、永遠の御国にともに目覚めるまでは、常に不完全なのです。国家は、靖国や新憲法などによって、私たちを陶酔させてくれるような未来を語ります。ナチス・ドイツに傾いていった民衆も、熱狂的な興奮に酔い痴れた人々でした。教会も、ビリー・グラハムだ、韓国のやり方だ、伝道映画だ、教会成長論だ、と様々な伝道手段に縋っては、爆発的な成長を夢見て、陶酔したがる醜態をさらしてきました。けれども、そこにこそ、真の平和とは程遠い、まがい物があるのです。

 パウロは、エペソ書最後の六章で、

六10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

11悪魔の策略に対抗して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言い、「神の武具」として真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えを挙げます。これは、四13~16で語られてきたことと繋がっています。キリストのからだを建て上げ、信仰と知識との一致に達し、完全に大人になり、キリストの身丈にまで達する、と言いながら、

14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

と言うのです。「霊的な戦い」とはただ、悪霊の存在や邪魔を意識するというだけではありません。悪魔の策略は、教会を、キリストにある一致、御心の奥義から引き離そうとすることにあります。真理や神の正義が曖昧だと、サタンの欺き、人間的な虚しい幻想に走ってしまいます。平和の福音にしっかりと立っている事が、悪魔の策略や国家の語る幻想から私たちの目を覚まさせるのです。

 今はまだ主の平和は完成してはいません。しかし、私たちはその途上にあります。この二千年の歴史、教会もまた模索と失敗とを繰り返し、世界も多くの戦争と挫折を繰り返してきました。この歴史は無駄ではありません。神は、太陽を上らせ雨を降らせて全ての人を憐れんでこられました。科学が進歩し、技術が発展し、思想も深まってきたのも神の一般恩恵です。多くの王制が廃止され、「民主主義」という手段が広がっていることもそうでしょう。世界が繋がり、国際感覚も成熟して、平和教育も浸透しています。ガンジーやマララさんの言葉には本当に胸を打たれます。武器も大量破壊兵器などに発達しましたが、平和論もまた発展しています。私は、日本の「憲法九条」という平和主義もまた、神が人間に与えてくださった、強靱な平和論だと信じる一人です。渡辺信夫氏も言います。

「第一次世界大戦の直前に、戦争勃発防止の企てがいろいろとなされ、その企ては成功に至らなかったけれども、戦後には国際連盟をはじめとして戦争を未然に防止する措置は飛躍的に進んだ。/それでも、第二次大戦を防止することができなかったので、戦後はさらに熟慮された防止策が続いている。その最たるものが日本国憲法第九条であって、「国家間の紛争解決の手段として戦争を考えることができない」とは、発展を遂げた公法思想の論理的帰結である。」[6]

 聖書から「絶対に戦争は行けない」とは言えません。四百年前にシュライトハイム信仰告白が唱えたのは、当時の政治状況を踏まえない理想論でした。しかし現代の日本が、被爆や敗戦を経て与えられた「憲法第九条」はノーベル平和賞にノミネートしてもらえるほど、現実的な平和政策です。逆に、九条を捨てて武器を取ろうとすることが、周囲の危機を煽り、不審を買っています。私たちは、平和を願う声を上げなければなりません。相手に通じる言葉を探しながら、陶酔せず、希望をもってです。箴言十七1に、

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

とあります。この「平和」は、実は、有名なシャロームではなく、シャルバーという言葉です。シャロームは「完全」をも現し、内面的な平和から繁栄、神の祝福なども示す言葉です。それに対して、シャルバーはもっと低次元の「安全」「無事」といったニュアンスです[7]。ですが、ここでは、ご馳走と争いがあるよりも、一切れの渇いたパンと取りあえずの無事があったほうが遥かに勝っている、と言います。シャロームではないからダメだ、ではなく、もっと平凡な争いのない状態です。しかし、それさえも、豊かさに勝ると言い切るだけのものを聖書は見据えています。私たちがそのような「平和」を、ケチをつけずに大切に育てていくこと、食卓における争いの解決から始めるようにと教えているのです。

 

「平和の神なる主。あなた様が、私たちを一つとしてくださるという奥義によって、望みを抱かせてください。大きな事は出来ません。世界を変えることも私たちの仕事ではありません。私たち自身が平和に相応しく変えられていくこと、私たちの家庭、教会、人間関係が新しくされていくこと、そして、ここで手を繋ぎ、この国の一人として学び、声を上げ、祈り続けさせてください。彼方の完成に励まされて、福音に立ち[8]、今ここにおける平和づくりを、小さくとも積み重ねさせてください。愛を与え、恐れを取り除いてください」



[1] 「研究を進めるうちに明らかになり、筆者が少なからず当惑したことは、キリスト教史の最初の3世紀間においても、厳格な平和主義の立場が明確に貫かれていたのではないことであった。」木寺廉太『古代キリスト教と平和主義 - 教父たちの戦争・軍隊・平和』(立教大学出版会、2004年)、246頁。

[2] 木寺、117頁。「」内はSWIFTの引用。

[3] 木寺、118頁。

[4]四21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はキリストにあるのですから。22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23またあなたがたが心の霊において新しくされ、24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に著るべきことでした。」とある「新しい人」とは、キリスト者一人一人が新しくされるという以上に、「新しい一人の人」、すなわち、キリストにあって一つとされた者となる、ということです。ですから、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と繋がるのです。

[5] アル・マイルズ『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』(関谷直人訳、日本キリスト教団出版局、2005年)240頁

[6] 『キリスト者の平和論・戦争論』(いのちのことばブックレット)72頁。

[7] 詩篇一二二7、「安心」(箴言一32)、「繁栄」(エレミヤ二二21)、「安逸」(エゼキエル十六49)など

[8]  この事を考えていく上で、もう一つ忘れてはならないのは、私たちの根ざすのが、キリストの御業であるということです。神の永遠の御心であり、キリストの贖いの御業において果たされ、やがて終末において完成される、万物が真の意味で一つにされる、という奥義です。この平和の福音を捨てては、私たちは足下をすくわれてしまいます。かつての日本帝国を始め、ローマ帝国や様々な国家が、ここを譲らせようとしてきました。キリスト告白を骨抜きにして、国家の方針に従うことを求め、それに従わなければ、迫害をしたり、経済的な恩恵を与えなかったり、圧力をかけることがあるでしょう。教会が宗教法人を持つとか、キリスト教主義の学校が政府の補助金を受けている時、こうした問題は深刻です。かつて、日本の教会やミッションスクールが国家神道に妥協した動機には、そうしなければ教会を守れない、という思いがあったと言います。しかし、神のみを神とし、十字架のキリストへの信仰に蓋をする妥協は、教会の建つ土台を捨てることであり、教会でさえなくすることに他なりません。私たちが教会を守るのではありません。主キリストが教会を建てられたのです。それゆえ、私たちは、迫害や反対が来て、教会がその時は困窮したり解散したりするとしても、恐れる事なく、希望を捨てることなく、信仰告白に立つ。そのような姿勢が求められるのです。

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問27「キリストは低くなってくださった」 ピリピ二章6~11節

2014-11-16 16:02:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/11/16 ウェストミンスター小教理問答27「キリストは低くなってくださった」   ピリピ二章6~11節

 

 クリスマスには、毎年お祝いをして、イエス様がお生まれになったことを感謝して礼拝をします。教会がいつもしていることです。でも、もう一度、今日、このことを素晴らしいこととして覚えましょう。イエス様は、神の子でありながら、私たちのために人となってくださり、母マリヤから赤ちゃんとなってお生まれになりました。私たちの側からは、「かわいいイエス様、おめでとう。ようこそ!」と言えばいいと思っているかも知れません。でも、神様の側からすれば、これは、本当に測り知れないことです。イエス様が、贖い主として、私たちの預言者・祭司・王としての職務を果たしてくださる、というお話しをしてきましたが、今日の所では、それを「謙卑」、謙(へりくだ)卑(いや)しくなって果たしてくださったのだ、と言っているのです。

問 キリストの謙卑は、どのような点にありましたか。

答 キリストの謙卑は、[第一に]彼が[人間として]お生まれになり、それも低い状態にであり、律法の下に置かれ、この世のさまざまな悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を味わわれたこと、[第二に]葬られ、しばらくの間、死の力の下にとどまられたこと、にあります。

 イエス様は人間になるのも、パッと人間に変わって、天からオトナの格好で降りて来て、スーパーヒーローのように教えたり救ったり奇蹟をして、悪い奴らを倒して、そして天に帰って行くことも出来たでしょう。でも、イエス様はそうはなさいませんでした。

…[人間として]お生まれになり、それも低い状態にであり、…

 人間として生まれるのだって大変です。お母さんのお腹に十月十日いるのだって大変ですし、生まれてくる時はお母さんも赤ちゃんもがんばって生まれてくるのです。それからも、オムツを替えてもらい、ハイハイから歩くまで、時間が掛かります。その上、イエス様がお生まれになった家庭は、貧しいマリヤとヨセフの家でした。お金があって、大きな御殿で育ったのとは違って、不便なこと、お腹が空くこともあったでしょう。でも、イエス様は、そういう低い低い所にまで降りて来て、一歩一歩成長されたのです。

 C・S・ルイスという人がこう言っています。神が人を救うために人間になってくださったということは、「羊飼いが、羊たちを救うために、自分自身が生け贄になるつもりで、一匹の羊となろうとするようなものです。」いくら可愛いペットのためにでも、あなたはその動物を救うために、人間のカラダを脱いで、動物の一匹になってあげようと思うでしょうか。このC・S・ルイスはもっとスゴいことも言っています。「もし神が人となるということがどのようなことかを知りたいとしたら、あなたがナメクジになったときのことを考えてみるとよい。」いいえ、神様と人間との違いは、人とナメクジどころではありません。宇宙をお造りになった神様が、ちっぽけな地球という惑星の、その上で蠢(うごめ)いている虫けらみたいな人間を、救おうと思われただけでも驚きです。けれども、その私たちを救うため、その動物の一匹になってあげようと思ったのですから、その驚きは言葉に尽くせません。それも、その動物の中でも、最も弱く、貧しく、苛められるような立場になることを選んでくださったのです。それだけではありません。

 …律法の下に置かれ、この世のさまざまな悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を味わわれたこと、葬られ、しばらくの間、死の力の下にとどまられた…

 イエス様は、神様ですから、人間に律法をお与えになったお方ですが、ご自身が人間となられましたので、律法の下にある者となって、律法にお従いくださいました。私たち人間が、本来、神様に対して果たすべき義務を、イエス様は完全な人として、代わりに完全に果たしてくださったのです。

 そして、人間が神様から離れた結果の「悲惨と神の怒りと呪われた死」をも味わってくださいました。イエス様は、私たちが体験する苦しみ、痛みを味わって、知っておられます。罪は決して犯されませんでしたが、罪の結果の呪いは、徹底的に体験してくださったのです。本当に、私たちの痛みを知っておられるお方なのです。

 一つ、誤解してはならないのは、イエス様は神である事を止めて人間になられたのではない、ということです。神でありつつ、人間となられました。先のピリピ書に、

二6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

 7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。…

とありました。けれども、神であることを止められたという意味ではないのです。イエス様は、神と呼ばれています。でも、人となるということは、神様の本来の栄光からすれば、異常なことです。そのような、不自然なことをイエス様はなされました。神の子でありつつ、人となられた、という神秘を私たちが完全に納得することは出来ません。でも、そうなさったのです。「彼は彼のままで、彼ならざるものになってくださった」と表現した人がいるそうです。まさしく、そういうことでした。そのようにして、イエス様は、私たちの所に降りて来られ、想像も出来ないほどの苦難と犠牲をも厭わずに味わわれて、私たちと一つになり、私たちを神の御国へと引き上げてくださるのです。

 今から二百年ほど前、24歳の若さで、ベルギーからハワイに行き、そこでハンセン病という重い皮膚病の患者のために仕えた、ダミアン神父という方がいます。49歳で亡くなるまで、この神父さんは病人たちのために、本当に献身的に仕えていたそうです。でも、患者たちがダミアン神父の話を本当に聞くようになったのは、44歳でダミアンもハンセン病になった時でした。それまで彼は「あなたがたハンセン病患者は」と言っていました。その言葉は患者たちの心には届きませんでした。でも、自分も病気になった時、彼は喜んだそうです。そして、それからは「私たちハンセン病患者は」と言うようになった。そうして、島の人たちは彼の言葉に耳を傾けるようになり、五年後に49歳で亡くなるまで、イエス様を証しし続けて、ハワイでの働きに人生を捧げたのです。

 イエス様は、私たちと同じ人となられて、私たちのためにご自分を捧げてくださいました。もう同じになってくださっています。その事に気付きたいと思います。イエス様の愛に心から感謝して、その深い御声を聴いて、従って行きたいと願っています。そうして、私たちも自分のあり方を捧げて、イエス様の愛に生かされていきたいと願います。

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ルカ19章45~48節「わたしの家は、祈りの家」

2014-11-16 15:59:11 | ルカ

2014/11/16 ルカ19章45~48節「わたしの家は、祈りの家」

 

 今日の箇所は、新約聖書の四つの福音書がすべて伝えている「宮清め」と言われる出来事です。イエス様が、エルサレムにおいでになったとき、真っ直ぐに神殿に向かわれて、そこにいた商売人たちを追い出されたのです。

 この商売とは、神殿に来た参拝者たちが、礼拝のための生け贄の動物や献金のコインを買うことが出来るような店でした。遠くから旅をして来る巡礼者には、地元で生け贄の動物を売って、礼拝の場所で必要なものと交換しなさい、という律法がありました[1]。また、捧げる献金も、色々な像が刻んであるローマで出回っていたコインではなく、律法の定めるシェケルの銀貨に交換したのです[2]。そういう商売自体は必要でした。けれども、イエス様はここで、

46こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

 「と書いてある」と言われていますが、ここでイエス様は旧約聖書に書いてある言葉を引用されたのです。それは、イザヤ書五七7と、エレミヤ書七11です。

イザヤ五六7わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。

エレミヤ七11わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。-主の御告げ-

 このどちらの御言葉も、旧約の時代に礼拝が形ばかりになり、口先だけで礼拝を語りながら、実際には心から主を恐れることがなくなっている状態を背景にしていました。そして、イザヤ書もエレミヤ書も語っているように、主がそのような形式的な礼拝を裁かれて、真実な礼拝の民を起こしてくださる、という約束に繋がっていくのです。

 イザヤ、エレミヤの預言はすでに歴史上、成就して、イスラエルの民はバビロン捕囚という裁きを受け、当時のエルサレム神殿は滅ぼされました。70年後に帰還した民は、偶像礼拝と戦い、ヘロデの手によって立派な神殿が建てられて、律法を守る民として歩もうとしていました。でも、イエス様は、ここで預言者たちの言葉を引いて、同じ指摘をするのです。

「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

 神殿が「祈りの家」である上で、必要な商売や儀式があるならよいのです。でも、商売人たちがしていたのは、その礼拝に群がって、儲ける事だけでした。両替や生け贄の動物は高値をふっかけていました。その場所は、「異邦人の庭」にありましたが、割礼を受けていない異邦人はここまでしか来られないのに、商売の店が広がって、異邦人は礼拝どころではなかったのです[3]。それは商売人たちだけではなく、彼らと結託して甘い蜜を吸っていた祭司長や当局の思惑でもあったのです。今までルカは、金銭や豊かさ、富の誘惑、貪欲への警戒の必要ということを大きく語ってきました。ここでも「商売人」への登場には、その流れが見落とされてはならないと思います[4]。神よりも富に仕えている者が救われることは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい、と言われたように、ここでも「祈りの家」が利得を貪るために使われるようになっていました。ですから、イエス様は、ここで激しく商売人たちを追い出されたのでした。

 しかし、そうやって追い出されただけではありませんでした。

47イエスは毎日、宮で教えておられた。…

 イエス様はこのまま、宮で教え続けられるのです。実は、ルカの福音書の最初、二章の41節以下に、12歳になったイエス様が両親と一緒にこの神殿に来られたエピソードが書かれています。巡礼を終わって両親が帰っても、イエス様は宮に居続けて、教師たちと話していたというのです。三日間、イエス様を捜し回った両親にイエス様は仰いました。

二49…「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

 イエス様は宮を、ご自分の父の家と仰り、そこに自分がいることが当然だと仰って、そこの教えを楽しんでおられました[5]。それから二十年ほどしたこの時、イエス様は神殿におられて、父の家を「強盗の巣」としている人々を追い出され、宮で教え続けられたのです[6]

…祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、

48どうしてよいかわからなかった。…

とあります。祭司長たちや指導者層にしたら、イエス様の言葉は邪魔で、自分たちの所場(ショバ)に踏み込んでくる邪魔だったでしょう。でも、イエス様は部外者としてこんなことを言われたのではありません。イエス様こそは、この神殿の主人、ここにいるのが当然のお方でした。そして、イエス様がおいでになって、教えを語られていることこそが、本当の「宮清め」なのです。

 祭司長たちはイエス様に苛立ち、殺そうとしたけれど、民衆が邪魔で叶いませんでした。

…民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。

 でも、ここにこそ、イエス様が本当の「祈りの家」を回復されている姿がありますね。「熱心に耳を傾けていた」という所には、「ぶら下がる」という面白い言葉が使われています[7]。イエス様の教えにぶら下がる、しがみつく、食らい付く。それこそが、イエス様がここにもう一度始められた「祈りの家」なのです[8]。お金儲けや貪欲、礼拝に対する邪念を持ち込んでしまうのが人間ですが、そんな私たちをイエス様は追い出されるのではありません。その私たちだからこそ、イエス様は私たちに教えてくださるのです。次の二〇章でも言われますね。

二〇1イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、…

 今まで語ってこられた、神の国の福音を、宮でも教えてくださっていました。神様の愛を見失い、この世の色々なものに自分を見失っている人々を、イエス様は探して取り戻すために来られました。神様にも御利益を期待するだけ、貪欲な心、強盗のような生き方をイエス様は、引っ繰り返してくださいます。そして、主の家で祈りをささげ、福音に熱心に耳を傾ける民としておられます[9]。妬んだり恐れたり思い煩ったりして、祈るにしてもそんなことばかり祈っていた心を、本当に私たちを愛し、養ってくださる主を信じ、祈る心に変えてくださるのです。

 礼拝と生活は切り離せません。御利益を求めて生きる心を礼拝にも持ち込み、教会を、商売繁盛と家内安全ばかりを願う「強盗の巣」とする流れは、いつも執拗にあります。でも、イエス様は、この礼拝に働かれ、教えられ、恵み深く聖なる神に拠り頼ませてくださいます。それは、ここが「祈りの家」となるばかりか、普段も「祈りの人」として歩むためです。私たちの礼拝と生活が、何に根ざして、どこを向いているかを気づかされ、教えられていたいものです。

 

「あなた様の家が、私たちの「祈りの家」とされ、そこに召され、永遠に住まわせて戴けるのです。本当に有難うございます。この尊い御言葉に、主イエス様の熱い言葉に、私たちもまた与らせて、きよくしていただけますように。強盗と呼ばれて、邪魔者を殺したいほど憎むような心ではなく、貧しくとも福音の御言葉によって喜び、希望を抱いて、出て行かせてください」



[1] 申命記十四24~26「もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、25あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。26あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものと換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

[2] 民数記三47、など。

[3] マルコは、「十一17…『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と「すべての民」即ち、異邦人も来て祈ることの出来る場であることを強調しています。しかし、ルカはこれを省いて、異邦人への広がりよりも、宮の本質的な性格そのものに集中します。

[4] 「商売人」は「売っている(人々)」です。「売る」は、十二6(五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう)、33(持ち物を売って施しをしなさい)、十七28(また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、飢えたり、建てたりしていたが、)、十八22(あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。)、二二36(しかし、今は、財布のない者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。)

[5] そして、ルカは「聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と伝えています。

[6] 「強盗」をルカは繰り返します。十30、36(良きサマリヤ人の喩え)、二二52(まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。) しかし、十字架の両脇の人は、「強盗」ではなく「犯罪人」とルカは呼んでいます。マタイとマルコは「強盗」ですが。二人を「貪欲」の延長に見させたくは無いのでしょう。

[7] ルカではここだけです。ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳)では、創世記四四30で「父[ヤコブ]のいのちは彼[ベニヤミン]のいのちにかかっているのですから、」(新共同訳「堅く結ばれていますから」)と訳されているのが、この言葉です。エククレンママイの語根である「クレンママイ」はルカ二三39で「十字架にかけられていた犯罪人のひとり」で使われています。

[8] 「祈り」はルカでは他に、六12(このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。)、十九46、二二45(ゲッセマネ)です。「祈る」(動詞)は18回。

[9] この姿は、二一37以下にも繰り返されます。「37さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。38民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。」

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問26「私たちの王であるキリスト」 イザヤ書三三章二二節

2014-11-09 20:10:49 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/11/09 ウェストミンスター小教理問答26「私たちの王であるキリスト」

                                                                      イザヤ書三三章二二節

 

 キリストとは、預言者・祭司・王の三つのお働きをしてくださる方です。というお話しをしてきましたが、今日は、イエス様が私たちの王様であられる、という素晴らしい恵みを覚えましょう。イエス様が「ダビデの子」と何度も呼ばれました。今のイザヤ書の預言も、お生まれの直前にも、

ルカ一33「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

と預言されていたことも、イエス様が王である、と言っています。

問 キリストは、王の職務をどのようにして遂行されますか。

答 キリストは、私たちをご自身に従わせること、私たちを治め、守ること、また、彼と私たちのすべての敵を抑え、征服すること、によって王の職務を遂行されます。

 さて、これは素晴らしい告白なのですが、その前に、「王様」とはどんな人だと思っているでしょうか。子どものゲームで「王様は誰だ」というのがありますが、みんなが「王様」になった人の真似をしなければなりません。なんだか、偉そうな人、みんなが言うことを聞かなければならない人、と思ってしまいます。最近、マンガや映画になった「王様ゲーム」という小説がありますが、あれも「王様からの命令は絶対に従わなければならず、従わないと殺されてしまう」というお話しだそうです。こういうのを「暴君」とか「独裁者」とも言いますが、もしイエス様がそういう意味で、偉そうにしていて、好き放題に振る舞う王様だ、というならとんでもないことになってしまいます。決してイエス様は、そんな悪い意味で王様なのではありません。

 けれども、そういうひどい王様に現れるように、人間には、自分の好き勝手に振る舞って、人に命令をし、わがままになる、自己中心的な恐ろしいところがあるのだなぁ、とも思わずにはおれないのです。王様や神様や何様のつもりになって、自分のしたいように人を動かしたい、言うとおりになったらいいのになぁ、と思う気持ちはありませんか。王様のようになりたい、と考えていないでしょうか。

 もしも、イエス様が私たちの所に来られて、救いの知識や、神様の道について教えて下さっても、私たちの中のワガママが強くて、それを拒んだり、自分のほうが偉いような態度を取ったりしたら、私たちは、折角の救いをもらわなくなってしまうかもしれません。人間社会には「拒否権」というものがありますが、神様に対しても「私は嫌です」と断ることが出来たら、神様の救いは、私たち次第になってしまいます。そして、私たちは頑固ですから、本当に神様に従うことなど自分の力では出来ないのです。神様にすべてをお任せするとか、神様にすべてをお捧げる、という本来のあり方に戻らずに、なんとか自分の自由や権利を残しておきたいものです。

 でも、有り難いことに(本当に、有り難いことに!)イエス様は、私たちの預言者、祭司、だけでなく、王でもあられます。今日の信仰告白では、

私たちをご自身に従わせること、私たちを治め、守ること、また、彼と私たちのすべての敵を抑え、征服すること、によって王の職務を遂行されます。

と言われています。まず、私たちを、イエス様ご自身に従わせてくださいます。私たちの中に「従いたくない」「従わないほうが楽しいんじゃないか」という迷いや恐れがあっても、それで引き下がるような王だったら、王ではありません。私たちがイエス様に従うように導いてくださるのです。良い王様は、国の中に問題が起きても、ちゃんとそれらを解決します。でも、すぐに軍隊を送ったり、脅したりして、無理矢理やるのでは困ります。国民の安心や成長になって、平和に結びつくような、賢い方法を考えるのが、「よい王様」ですね。民の気持ちや思いを深くくみ取るのが、正しい政治です。同じようにイエス様は、よい王様ですから、私たちを無理矢理に「従わせる」「信じさせる」のではなくて、心の深い所に働いて、信じる心、従おうという決心へと導いてくださいます。そして、私たちが病気になったり、弱くなったり、間違ったりして、神様から離れそうになっても、そうなったら裁いて滅ぼす王ではなくて、「治め、守る」と約束されています。私たちを「治め、守ること」で、最後まで私たちを救いへと導いて下さる王様ですね。それを安心して信じて良いのは、イエス様が、預言者・祭司だけでなく、「私たちの王」という意味でも、贖い主キリストであられるからです。

 そして、もう一つ、イエス様は、イエス様ご自身と私たちのすべての敵を抑え、征服すること、というのも、イエス様の王様のお仕事です。王様は、国の中を守るだけではありません。外から来る敵がいれば、しっかり国を守り、敵を打ち負かしてくれるのも大切なお仕事です。イエス様に逆らう敵には、サタンがいますし、神様に最後まで逆らう人々もいます。そのどちらも、イエス様よりも強いことはありません。イエス様は、必ずその敵を打ち負かし、最後には征服して下さいます。

 けれども、忘れてはならないのは、イエス様が、やがて王となられて、すべてを治められるというだけでなく、今すでに王であると聖書は教えている、ということです。イエス様の力は、今、もう完全に全てを支配しておられます。

マタイ二八18わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言われました。「一切」ですから、学校、勉強、仕事、遊び、テレビや世界の全てのことにおいて、イエス様は王である、ということです。

 人間の側からすると、みんなはイエス様が王だとは思っていないし、自分が王様のようになろうとしているかもしれません。でもイエス様は、どんな所でも王であられて、人間の身勝手な振る舞いやサタンの悪巧みを、最後の滅びへと導いておられるのです。

 ですから、私たちは、いつも祈りましょう。イエス様、あなたが全ての王であられることを信じます。どうか悪を滅ぼして下さい。今はどんなことがあっても、イエス様はここにも働いておられて、私たちを守り、治め、ますます神様に従わせてくださいます。有難うございます。いつもこのことを信じて、告白して、イエス様を賛美しながら歩ませて下さい。イエス様以外の言葉や力を恐れることなく、正しく歩めますように、と!

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