聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

2020-11-28 11:55:07 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

 教会の儀式「聖礼典」は二つあります。洗礼と聖餐式です。洗礼は一度だけ受けます。何度も受け直す必要はありません。一方、聖餐は繰り返して与ります。鳴門キリスト教会では、今はコロナ禍で控えていますが、毎月行ってきました。世界には毎週、聖餐をしている教会も沢山あります。年に一度の教会もあれば、受難週やクリスマスや特別な時に行う教会もあります。私はざっと計算して今まで590回ぐらい、聖餐式を経験してきたことになります。生涯私たちは、パンを裂いて分け合い、一つの杯から飲むのです。
 そうすると、聖餐に与らなければ救われないのか、信仰だけでは不十分で聖餐式があるのではないかと考える人もいるでしょう。あるいは、聖餐のパンやぶどう酒を飲めば、信仰がなくても天国に行けるに違いない、と考える人もいました。主イエス・キリストが救い主であることと、聖餐に与ることはどんな関係にあるのでしょうか?
第四十七問 聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのですか?
答 そうではありません。キリストはただ一度の死で御業を全うされました。聖餐はキリストの贖いの御業を祝う契約の食事であり、キリストを見つめる私たちの信仰を強め、将来の祝宴を前もって味わうものです。しかし、悔い改めない心で参加する者は、その飲み食いが自分に裁きをまねくことになります。
 ここにはハッキリと、「そうではありません」。聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのでは無い、キリストはただ一度の死で御業を全うされました、と言い切っていますね。キリストが私たちのために、十字架で死んで、三日目に復活された事は、私たちのための完全な贖いです。それは決定的な出来事でした。Ⅰペテロ3章18節で、
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは…あなたがたを神に導くためでした。
 この「一度」という言葉を覚えてください。これは、決定的にと完全に、という意味です。英語ではonce for allという表現で、「これっきり」「きっぱりと」「最終的に」「長い間続いていたものにけじめをつける」「とうとう」などとも言い換えられます。キリストが罪のために苦しみを受けられたのは、一度きりで十分な決定的なことでした。二度も必要のない、決定的なことでした。野球でも「決定打」と言うでしょう。いや、十字架の死と復活は、それ以上に、試合開始のサイレンでしょう。もう、新しいゲームが始まったのです。開始のサイレンを何度も鳴らす必要はありませんし、そんなことをしたら混乱してしまいます。主イエスは、ただ一度の死で御業を全うされました。そして、私たちにその救いを届けてくださり、私たちを神のこどもとして導いてくださるのです。聖餐はその決定的なキリストの贖いの御業を祝う契約の食事です。
 その決定的なキリストの贖いの御業を、私たちが祝う時、それはただのお祝いでは終わりません。私たちの信仰は強められます。キリストの過去の十字架の御業と、将来の祝宴が確かにあること、そして、今も私たちを主が導き、養い、強めてくださることを、聖餐を通して思い出すのです。
 主イエスは、聖餐を定めてくださいました。そして、私たちが聖餐を祝う度に、主イエスは聖霊によって私たちの心を養ってくださいます。パンと杯をともに戴く時、私たちは確かに主イエスが、私たちのために十字架にかかり、死んでくださったこと、私たちの罪が赦され、神の子どもとされたこと、主イエスが今も私たちを支え、取りなし、助けてくださること、将来、神の国で食卓に着くことを思い出させて戴くのです。
 聖餐は「記念」とも言います。記念、思い出すこと。それは、ただ昔を思い出すだけではなく、思い出すことによって力をもらう記憶です。思い出すことは恵みです。そうでないと、私たちは恵みを忘れてしまい、疑ってしまうからです。
 洗礼は、ただ一度の洗礼で、ただ一度の決定的なキリストの御業に与ったことを表す聖礼典です。しかしそれだけであれば、私たちは福音を忘れます。普段の生活で、神の言葉よりも人間の言葉をたくさん聞いています。創造主であり、無条件の恵みに満ちた神の言葉よりも、限界がある人間の、不安の言葉、条件付きの考えに染まっています。神や聖書、主イエスや福音も、人間と同じように、限界があり、変わりやすく、安心できないものとして考える癖がついています。主イエスの愛の契約を疑って、不安で生き、教会と普段を使い分けるダブルスタンダードで生きてしまいます。聖餐でさえ、思い出す記念の食事では無く、聖餐を行うことで、救いの足りなさを補うかのように、教会が教えてきた長い時代もあるのです。だからこそ、ここで、確認したいのです。
 聖餐は、キリストの御業が足りないから、信じるだけでは不十分だから、行う儀式ではありません。完全なキリストの御業を覚えるために行う食事なのです。キリストが私のために決定的な犠牲となってくださいました。パンと杯に託して、その事を思い出させてもらいます。赦された者として、愛されて、導かれている恵みに強められ、立ち上がることが出来ます。聖餐は、主イエスの福音を思い出して、私たちを養ってくれます。一方で、その恵みを踏みにじったまま、自分を省みることも、悔い改めることもないまま、聖餐を食べることは、主イエスに対する冒涜として禁じられているのです。

 とはいえ、今はコロナ禍で聖餐を行うことには世界の教会が慎重になっています。聖餐のパンやワインが特別に神聖な力があるのではないし、それを食べる人も特別な力が身につくわけではない。そのような力に私たちは憧れますが、主イエスは私たちに力を下さるより、私たちを助け合わせ、思いやりを持たせ、愛を与えてくださいました。そのために、ご自身が最も弱くなりました。不死身や無敵にならせる代わりに、ご自身が敵のために死に、そこから三日目によみがえってくださいました。

 コロナ禍で聖餐が出来ないことを通して、キリストを思い起こします。聖餐式以外の食事でも主を思いながら、聖餐の再開と、それ以上に主とともに神の国で世界中の人とともに喜び祝う時を待ち望みます。その時に向けての旅を、一日一日導かれて、神の恵みの子どもとして、みことばに養って戴きながら、歩んでいくのです。

「死に打ち勝ってくださった主よ、私たちは聖餐にあずかる度にあなたが完全に成し遂げてくださったその御業を崇めます。どうかこの飲み食いを通して、このような恵みを受けるに値しない私たちが、キリストの素晴らしさのうちに一つとされた信仰を告白することができますように。私たちは悔い改めの心をもって主の食卓に着き、高慢と誇りを捨て、あなたが与えてくださる無条件の愛を楽しむことができますように。アーメン」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/29 マタイ伝13章24~30節「早まらず、時を待つ」

2020-11-28 11:15:17 | マタイの福音書講解
2020/11/29 マタイ伝13章24~30節「早まらず、時を待つ」[1]

前  奏 
招  詞  ヨハネの福音書3章16節
祈  祷
賛  美  讃美歌94「久しく待ちにし」①②
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  イザヤ書11章(36)
 賛  美  讃美歌97「朝日は昇りて」①②
聖  書  マタイの福音書13章24~30節
説  教  「早まらず時を待つ」古川和男牧師
賛  美  讃美歌113「御空を馳せゆく」①④
献  金
感謝祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌542「世を挙りて」
*祝  祷
*後  奏

 今日のたとえは、36~43節で「畑の毒麦のたとえ」として解説されています。37節以下に、
…良い種を蒔く人は人の子です。38畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。39毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
 このように親切に、丁寧に解説してくれています。これで譬えの意味に迷う必要はなくなります。ただし、譬えに出てくるのに説明されていないものがあります。それは「しもべ」です。
 畑に良い種を主人が蒔いたのを知っているしもべ、主人と一緒に働いて、昼は畑も家も管理してきたしもべたち。畑に毒麦が現れた時、首をひねったり憤慨したりして、主人の所に行き、
27…『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
 こう訝(いぶか)って説明を求めるしもべたちが何を表しているかと言えば、イエスに説明を求めた弟子たちでしょう。主イエスの働きを一番近くで見てきた弟子たちです。その働きを見ながら、蒔いた覚えの無いドクムギが出始めている。41節で言えば
「つまずきと不法」
が起きてくる。
 勿論、主人やしもべが日中は畑を管理し世話していたように、主も弟子を教えたり窘(たしな)めたり、訓練して、躓きや不法を除こうとされていました。教会もその責任はあります[2]。それでも、なお教会にも問題が起きます。躓かせるような事はどうしても起きる[3]。
「良い種を蒔かれたなら、真面目に働いてきたなら、毒麦が生え、問題なんか起きないはずだ」
と言いたくても、「どうして?」という出来事は起こる。このしもべたちは弟子たちの姿であり、私たちも重なる姿です[4]。
 このしもべの疑問に、主人はしれっとこう答えます。
28…『敵がしたことだ。』…
 冷静で慌てません[5]。ちゃんと計算済みと余裕で、収穫への期待はちっとも揺らぎません。すると、
28…しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』29しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
 早まらず、収穫の時を待つよう言われるのです。
 「毒麦」は新約聖書でここだけに出てくる植物です。その名の通り、実には毒性がありますが、実をつけるまでは麦とよく似ていて間違いのだそうです。根も麦と絡んでいるので、毒麦を抜こうとしたら、麦も犠牲になってしまう[6]。畑の主人はそれを惜しみます。ここで「毒麦」は複数形ですが、「麦」は単数形で、多くの毒麦を抜こうとして良い麦を一本でも一緒に抜くことを惜しむ心が窺えます。それより、
30だから、収穫の時まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」
 収穫の時には、良い麦と毒麦の違いは一目瞭然なのです。実の形が違いますし、小麦はたわわに実るので重くなって穂がしな垂れるのです。真っ直ぐに穂を立てるものを見れば、毒麦だと分かるのです。ですから収穫の時に、まず真っ直ぐに立っている毒麦を刈り取って集めて焼き、麦の穂を拾い集めて、倉に納めればよい。

 収穫は、敵の邪魔や毒麦の混入が避けられないとしても、少しも損なわれることが無い。神の国は、そのような力に溢れたものなのです!
 その事を強調するのに、31節から
 「小さいからし種が大きな木となる」
譬え、33節で
「パン種が40kgの小麦粉を膨らませる」
譬えが続きます。神の国が持っている豊かな生命力を思い描かせてくださいます。その上で、36節から毒麦の譬えの説明がされる流れなのです[7]。

 この譬えの焦点は、主の刈り入れを信じて、今、毒麦が出たり躓きや問題に悩まされたりしても、それを抜き取ろうと早まらないこと。聖書の描く世界の理想ばかりに目を奪われると、その理想と違う現実に私たちは心が囚われてしまいます。この譬えの説明を聞いたら聞いたで、「あの人はきっと毒麦だ」とか「敵の仕業だ」と決めつけたくなります。そうして毒麦を抜こうとして、他の良い麦まで傷つけてしまう。周りの誰か一人を巻き添えにすることは、主の御心ではない。そうしもべたちの早合点を主人は引き留めた、という譬えでした。それよりも
 「両方とも育つままにしておきなさい」。
 よい種を育てなさい、それが毒麦まで育てるとしても、神の国の栄養でたっぷり育てなさい。みことばの糧を与えて、天の父のあわれみを味わわせなさい。やがて良い麦は良い実を豊かに結ぶ[8]。穂が撓(たわ)む程の実りになる。天の父への賛美と感謝が大きくなり、撓(しな)っていきます。謙るというのは「私は毒麦のような者です」と謙遜するよりも「すべては大いなる主の恵みです」と主を褒め称えることです[9]。それは人目には隠れても、確かに御国の実りになり、私たちを謙らせてくれ、やがて刈り取りの時には、
43そのとき、正しい人たち[神との関係をいただいている人たち]は彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 躓きに心が痛くて、収穫なんか無理じゃないか、神様の良いご計画が台無しではないか、いっそ強引に抜いた方がいいのではないか、と思いたくなる時、この譬えに立ち帰りましょう[10]。やがて、すべての躓きが取り除かれ、神の子らは太陽のように輝く。その中に、誰かが「毒麦に違いない」と思った人も主は含めているでしょうし、私たちも含めてくださるのです。

私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ご覧ください。
今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。(マリアの賛歌)[11]
 
「大いなる主よ、種を蒔き、刈り入れを備え、私たちに大きなことをしてくださる御業を感謝します。私たちの理想や疑いを、あなたの恵みによって塗り替えてください。いのちのみことばによって私たちを養い、恵みに気づかせ、感謝と賛美の実を結ばせてください。躓きや問題に悩む時、知恵と忍耐を与えてください。さばき合い、退け合い、傷つけてしまう愚かさから救い出してください。あなたの恵みの中で、私たちを育ててください」

脚注:

[1] 今回も、前回に続いて、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』第五章「毒麦とともに生きることを学ぶ」を大いに参照しています。

[2] しもべたちは畑を手入れし、ドクムギを意外・心外な出来事として憤慨している。教会戒規の不要では無く、戒規を行ってなお問題が起こる、という現実のこと。

[3] マタイ18章では「つまずきが起こることは避けられません(7節)」というテーマが論じられています。

[4] 教会が純粋であろうとしすぎて、教会は純粋であるはずだと思いすぎて、不純物を受け入れられない。そういう純粋な願いは、今もあるし、マタイの時代にもあった。初代教会は理想的だった、などという思い込みは聖書からも優しく反駁される。

[5] これは以前の訳では「敵のしわざです」となっていました。「しわざ」なんて言われたら、何かいかにも「やられた!」とか非難めいていて、悔しげで、憎たらしい感じがします。もっと淡々とした台詞ですので「敵がしたことだ」と改善したのでしょう。

[6] 「聖書で「毒麦」はマタイ13:25-40に9回出てくる。ドクムギは4000年前のエジプトの墓から発見されているが、旧約聖書には述べられていない。草丈70cmくらいの植物で、線形の歯は10~30cmある。5月頃15~25cmの穂を生じ、小穂は15~18cmで、花穂の軸の左右に互生する。雄しべは3本で、花柱は短く、実にテムレンtemulen という有毒アルカロイドを含む。これを食すると、頭痛、めまい、悪心、嘔吐などを起こし、重症の時には虚脱症状を起こして死亡することもある。また牧草に混入すると家畜が中毒する。一説によると、この毒は、ドクムギ自体ではなく、Emdoconidium temulentumという菌がドクムギについて毒化するといわれている。種子が発芽する時期も、実がつくときもコムギと同じなので、コムギと一緒に刈り取られ、コムギの品質を低下させることがある。イエスがガリラヤの麦畑を通られた時に、このドクムギもコムギと共に見られたことであろう。一緒に芽が出て、同じように育つが、実るとコムギと全く異なる。収穫の時にドクムギを先に集めてしまえば、良い麦を損なうこともない。パレスチナの農夫は雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようである。ドクムギの発芽能力は数年間保たれるようである。そこで、ドクムギの種が地に落ちても雨の少ない年には発芽率が少ない。しかし、発芽しなかったものも雨の多い年にまとめて発芽する。このように考えると雨の多い年にドクムギが多いことも納得できる。」廣部千恵子『新聖書植物図鑑』(教文館、1999年)92~93頁。他、Wikipediaも参照。

[7] ここでは、毒麦が集められるように世の終わりには「すべてのつまずきと不法を行う者たち」が御国から取り集められて、火の燃える炉に投げ込まれる事が詳しく述べられます。こちらを重視してしまうと、さばきに目が奪われますが、たとえこそが「世界の基が据えられたときから隠されていること」(35節)だったとすれば、そのバランスの中で、説明を読んだ方がよいでしょう。

[8] 実を結べ、ではなく、育てば実を結ぶ。実を結ぶことを「花を咲かせる」と思っていることもあるだろうが、目立つものこそ真っ先に抜かれるのかもしれない。花を咲かせるより、育つこと。その結果、実が結ばれる。そのようなあり方こそ、「太陽のように輝く」。この世界や人間的な「輝き」ではなく、神の恵みに生かされ、この世では評価されなかったとしても(証しになることが出来ない、と見なされるとしても)、神の収穫の時には確かに刈り入れられ、倉に収められる、ということがあるのだ。

[9] 背伸びすることよりも、養われること。みことばに養われ、自分として育てられる。誰かのように実を実らせられなくても、自分の実を結ぶことになるのです。

[10] 私たちは理想を願うあまり、問題を多少強引にでも、乱暴にでも解決しよう、少々の犠牲はやむを得ない、と思ってしまう。しかし、それこそ敵の思う壺ではないか。ドクムギを蒔いたのは、ドクムギを生やすためというより、しもべたちを苛立たせて、ドクムギごと本当の麦を抜かせようと企んだのでは無いか。

[11] 「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」(マリアの賛歌) 「「私の魂は主をあがめる」が直訳的には「私の心の中に主を大きくする」ことだと申しました。ですから、神様に近づくために自らへりくだる、あるいは謙遜になることを信仰的美徳とするとすれば、それは神様を大きくするよりも、むしろ、自分のあり方を主張することで心の中で神様を小さくしていることになるだろうと思います。それがルターの指摘した当時のフミリタス理解の誤りであります。そうではなくて、神様の前に見ばえのしないものであることが本当に自覚されるところで、逆に心の中で神様を大きくするということになる訳でしょうから、それこそが神様の目にとまる、あるいは神様のリスペクトを受けることを可能にするのだということではないかと思います。」 宮庄哲夫 見ばえのしないもの 同志社奨励

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

2020-11-21 12:59:08 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

 先週まで、洗礼の話をしてきました。洗礼を受けて、正式にキリスト者になると、もう一つの聖礼典、聖餐式に預かれるようになります。その聖餐式の話をしましょう。
第四十六問 聖餐とは何ですか? 答 キリストはすべてのクリスチャンに、感謝と共にキリストとその死を覚え、パンを食べ、杯から飲むことを命じられました。聖餐は神の臨在が私たちの只中にあることの祝いであり、神と、そしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養います。また、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。

 聖餐は、パンを食べ、杯から飲むことです。今読みました、Ⅰコリント11章では、その始まりの主イエスがなさった「最後の晩餐」での食事の場面を思い起こさせています。
Ⅰコリント11章23節私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 この、一つのパンを裂いてともに食べ、一つの杯から飲む。そのことを通して、主イエス・キリストとその死を覚える、記念の食事が聖餐式です。
 主イエスが、十字架にかかる前、当局の人々に売り渡される直前の夕食で、イエスはパンと杯に託して、ご自身を与えてくださいました。聖餐式は、その時の
「これを行いなさい(行い続けなさい)」
という命令に基づく食事です。そして、私たちが主の死を覚えて、パンと杯をいただくことが大事なのですし、聖餐式を行い続けることを通して、私たちは主イエス・キリストが私たちのためにご自分を与えてくださったこと、主イエスの尊い死を周りの人に告げ知らせていくのです。それが、パンと杯の聖餐式です。
 ニュー・シティ・カテキズムでは、ここに聖餐の意味を三つ並べています。
 第一にそれは、神の臨在が私たちのただ中にあることの祝いです。イエスは、杯を「新しい契約」と仰有いました。聖書には「契約」という言葉が繰り返されていますが、それは「神が私たちの神となり、私たちは神の民となる」という関係を柱としています。
見よ。その時代が来る-主のことば-。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。…これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 エレミヤ書31章33節

 神が、私たちの神となってくださり、私たちのただ中にいつまでもいてくださる。それが、この「新しい契約」でした。主イエスはそれをこの杯に託して、弟子たちに与え、教会に命じました。ですから、私たちは、パンと杯をいただくことを通して、主イエスが私たちのために十字架にかかったことで、神が私たちの神となり、私たちは神の民となったことを覚えるのです。イエスが十字架で私たちのために死なれたこと、それが十字架という想像を絶する痛ましい死であったことは厳粛な事実です。しかし、聖餐は沈鬱な、いかめしい儀式ではありません。そうまでして、主は私たちをご自分の民としてくださり、私たちを受け入れてくださったのです。ですから、聖餐は、厳粛であるとともに、喜び溢れるお祝いの食事、歓迎のレセプションでもあるのです。

 第二に、聖餐は、神とそしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養うものです。神との交わりだけでなく、お互いとの交わりもここにあります。一つのパンを集まったみんなで一緒にいただく。一つの杯をみんなでともに飲む。今日のⅠコリントの11章では、聖餐の教えのきっかけは、教会に分裂があったことでした。
Ⅰコリント11:20…あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
 これでは聖餐ではない、というのです。聖餐は、私たちもお互いに主によって一つ、神の民となったことの証しなのです。元々の主の晩餐は、主イエスが一つのパンを取って、みんなの前で裂いてそれを食べ、一つの杯をみんなで回して飲んだ食事です。私たちは衛生的な事情からしませんが、今でも回し飲みをしている教派も少なくありません。

 聖餐は、私たちがお互いにも交わりを親しく持っていることを証ししています。決して教会は愛や赦しや和解が溢れているばかりではなく、人間関係に悩んだり、ギクシャクしたりすることも多々あります。それでも、主が私たちを一つにし、愛の糧で養ってくださるのです。主イエスは、過去に十字架に死んで下さっただけでなく、今も、私たちに糧を与えて養い、支えて、ひとつのからだとして成長させてくださいます。

 最後に聖餐は、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。主イエスは、最後の晩餐の席でパンとぶどう酒の杯を制定された最後にこう言われました。
「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(マタイ26章29節)
 私たちは杯を戴きながら、主イエスご自身は、私たちとともに新しく飲む天の御国の食卓を用意して、待っていることを約束されています。この約束を聖餐の旅に確かめて、私たちは期待することが出来ます。将来を仰いで、希望を持つことが出来ます。聖餐のパンと杯は、かつての十字架と、現在の養いと、将来の御国の祝宴という豊かな主イエスの養いを、一緒に、味わって覚える恵みなのです。

「主よ、あなたはいのちのパンです。私たちは主を崇める忠実なしもべとして聖餐にあずかります。ふさわしくないままパンと杯を取ることのないよう、私たちは悔い改めと信仰をもってあなたの食卓に近づきます。私たちに罪を犯した者を赦すことができますように。特に、共にパンと葡萄酒を食す兄弟姉妹たちを赦す信仰を与えてください。この食卓にあずかることを通して、あなたの救いの死の御業と、それなしでは生きることすらできなかった私たちの弱さを証しすることができますように。アーメン」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/22 マタイ伝13章1~9節「種を蒔く人のたとえ」

2020-11-21 11:22:40 | マタイの福音書講解
2020/11/22 マタイ伝13章1~9節「種を蒔く人のたとえ」[1]



前奏 
招詞  マタイ11章28~30節
祈祷
賛美  讃美歌93「御神の恵みを」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇23篇(1)
 賛美  讃美歌234A「昔、主イエスの」①②
聖書  マタイの福音書13章1~9節
説教  「種を蒔く人のたとえ」古川和男牧師
賛美  讃美歌234 ③④
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌541「父、御子、御霊の」
*祝祷
*後奏




 このマタイの福音書13章には、七つの「例え話」が収録されています。その最初がこの「種を蒔く人の譬え」です。18節以下ではイエスご自身が弟子たちに解説を語っている、とても分かりやすい譬えです。その冒頭で「種を蒔く人の譬え」と言われます。焦点は、種を蒔く人です。種や土地も大事ですが、中心は「種を蒔く(蒔き続ける)人」です。また、
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
 そんな「幸い」をイエスは強く語っていました。その幸いを念頭にこの譬えを読みましょう。
3…「見よ。種を蒔く人が種まきに出かけた。
4蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
 勿体ない!と思いますが、当時の種まきは今の農業と違い、穴を空けた袋に種を詰め込んで、人や家畜に運ばせ、ポロポロと種を零(こぼ)れ落とす。その後で、土を耕す、という農法でした。当然その途中では、種があっちの道端に落ち、こっちの岩地に零れ、そっちの茨の上に飛んでしまうのです。そこで、種が鳥に食べられたり、芽を出しても枯れたり塞がれたりする。種を蒔く人はその事で文句を言いませんし、やり方を変えはしません[2]。無駄に見える種はあろうとも、
8また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
9耳のある者は聞きなさい」[3]
と閉じられます。この「種を蒔く人」の譬えを、惜しまず種を蒔き続けて、豊かな収穫を見る譬えを「聞きなさい」なのです。18節からの解説でもイエスは「聞きなさい」と言われます。
19だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
 「御国のことば」とあります。もう少し丁寧に訳すと「王国の言葉」というニュアンスで、主イエスが王であり、どのような支配をなさるのか、イエスが王である国とはどんな国なのか、それはイエスがここまでずっと語ってこられた教えですね。その王なる神の言葉を聞いても悟らない。「いい教えだ」と思うだけだったり、「自分には関係がない」と思ったりして、聞き流していれば、忘れたり慣れたり、何か悪い者が来て奪っても不思議ではありません。
20また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 すぐに喜んで受け入れるのは、底が浅いからで、困難や迫害への反応も早い。苦しみの中でも神の御支配を信じるより、まだ自分の人生の舵を自分で握っている、とも言えます。そして、
22茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 この「思い煩い」については6章25節以下
「心配してはなりません」
と丁寧に教えられていたように、私たちの心を占める、大きな悩みです。神が天にいます私たちの父として支配してくださる。支え、配慮してくださる。そう知らされていながら、必要以上に心配して神を見失うのです。あるいは、富の誘惑。豊かさとか楽しみとか確かさとか、それ自体は良いものだとしても、神以上に依存して、御言葉よりも世間の言葉やコマーシャルの台詞が頭を締めてしまう。御国のことばを聞いても、まだ自分で舵取りをしようと懲りないのです。それでも、
23良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
 種を蒔く人は、無駄な種を気にするより、種を蒔き続け、その種は必ず実を何十倍にも結ぶのです。それが「天の御国」です。御国の言葉は無駄にはならず、豊かな実を結びます。

 この19~23節で
「蒔かれたもの
「このような人」
と言われています。私たちは、「蒔かれた場所」に自分を重ねて、道や石地や茨ではダメだ、良い地にならなければダメだ、と読むことが多いでしょう。それはそれで、私たちは経験に懲りて、学ぶに超したことはありません。しかし、読み方をここにある通りにグルっと変えて、道端に蒔かれたもの、種や蒔かれた状態を自分だと考えてみてはどうでしょう。
 私たちが御言葉を聞いても悟らなかったり、一時的に喜ぶだけで何かあれば躓いて、心配事やこの世の風潮や流行、世間の言葉に流されたりすることは絶えずあります。それでも尚、種を蒔く人は種を蒔き続けており、やがて豊かな実りが必ず来ます。主は、懲りもせずに尚も私たちにみことばを聞かせ続け、私たちを種としてこの地に蒔き続けます。そして、私たちの足りなさや、困難や誘惑よりも強い、神ご自身の支配を現されます。豊かな、希望に満ちた、惜しみない御国を現してくださいます。
 だから私たちは希望をもって悔い改め、そのたびにみことばから慰められ、励まされ、諭されて、主に自分の舵をお返しし、自分のなすべき分を果たしてゆくのです[4]。耳のある者は聞きなさい。



「種を蒔き続け、恵みを実現なさる主よ。あなたの御国を知る幸いを私たちにも与えてくださり感謝します。心の頑なさや二心ぶりは悔い改めるばかりですが、その事を通しても、私たちを治めるのは、他の何でも誰でも自分でもなく、ただあなただけだと仰ぎます。力強く、恵みに満ちた主よ。あなたの良き御支配を告白し、憐れみを待ち望みます。なお握りしめ支配したがる手を開いて、あなたにすべてをお委ねし、みことばを受け入れます。御国が来ますように」

脚注

[1] 参照、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』(平野克己訳、日本キリスト教団出版局、2014年)。これは、従来の「四つの種」の理解に対する偉大な挑戦です。

[2] 土地が問題なら、蒔いた農夫のやり方が間違っているだろう。違う蒔き方をしたらいいのであって、土地のせいではない。道や岩地や茨があろうと、そちらの損を取り上げるより、良い地に落ちて確実に実を結ぶことに、農夫は満足を見出している。

[3] この「耳のある者は聞きなさい」は「聞き続けなさい」のニュアンスの現在形です。一度きっぱりと聞きなさい、という「不定過去(アオリスト)」ではありません。ここからも、この「聞く」ことが決定的な事というより、継続的なことだと分かります。

[4] 神がすべてをしてくださるのだから、私たちが何をしても良い、というのではありません。私たちは、御国のことばに耳を傾けて聴く必要がある。それは、私たちが聴いていることが幸いだと、見ていることが神の業だと、積極的に受け止め、神の力を小さく考える生き方から変えられることです。自分の聴き方のまずさや頑なさ、誘惑への弱さによって、台無しにしてしまえるかのような弱い言葉ではなく、神の力は必ず実を結び、私たちはその幸いの中に入れられていることを教えられ続けること。神の支配を小さく考えて、自分の力・支配・操作を握りしめてしまう悟りのなさを捨てていくこと。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/11/15 ルカ伝3章16節「洗礼の水が示すもの」ニューシティカテキズム45

2020-11-14 11:35:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/15 ルカ伝3章16節「洗礼の水が示すもの」ニューシティカテキズム45

 前回と今週は「洗礼」についてお話ししています。今日は、洗礼が示すものは何かを教えられて、その事を通して、主イエスの深い恵みを覚えましょう。
第四十五問 水による洗礼は罪そのものを洗い流すものですか?
問 いいえ、キリストの血と聖霊による刷新のみが私たちを罪から清めます。
 洗礼という儀式そのものが罪を洗い流すのではありません。こんなことをわざわざ言うのは、洗礼そのものが罪を洗い流すのだと思われることが、昔から今に至るまで多いからです。
 洗礼を受けたら、きっと心が生まれ変わって、すっかり聖い自分になるに違いない、と思っている人もいます。
 また、「洗礼という儀式を受けたら、もう教会に行ったりしなくても天国に行ける」と思って洗礼を受ける人もいます。だから、洗礼を受けたら礼拝に来ないつもりでいるのです。
 あるいは、洗礼に使う水に、特別な力があると思って「聖水」と呼んで、病気を治したり、悪霊を苦しめて追い出したりする力があると思われている時代もありました。
 また、聖書の舞台のヨルダン川で洗礼を受けると、特別な効能があると思われていることも少なくありません。
 でも、そうではないのです。
 今日の聖書の言葉では、主イエスがおいでになる前、洗礼者ヨハネがこう言いました。
ルカ3:16「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」
 ヨハネは水で多くの人に洗礼を授けていました。そして、やがておいでになるキリストの事をこう語ったのです。その方は、自分よりも遙かに力がある。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼を授ける。そう言いました。その言葉の通り、主イエスがおいでになり、弟子たちに洗礼を授けてくださり、教会はイエスの御名によって、洗礼を大事にしています。教会で行う洗礼は、水で行っていますが、それは、主イエスが授けてくださるバプテスマを象徴しています。ですから、洗礼そのものに力なんかないよ、洗礼の水に特別な力があるなんて迷信だよ、と笑って終わるのではなく、洗礼を通して示されている、主イエスのすばらしい力、私たちに対する御業をこそ覚えたいのです。
 また、この言葉のあと、ヨハネはイエスを見て、こう言いました。
ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。
イエスが、世の罪を取り除いてくださる。「子羊」はイスラエルの神殿儀式で、罪の贖いを果たすために屠られて、捧げられてきた動物です。ここでは、イエス・キリストこそ、神の子羊として十字架の上に自分を捧げてくださって、完全な罪の贖いを果たして下さるお方だ、と言われているのです。罪をきよめるのは、十字架に死んでくださった主イエスの死です。このことは、もう一人の別のヨハネがこう言っています。
Ⅰヨハネ1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
 御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。洗礼が水を使うのは、私たちが主イエスの血によってすべての罪をきよめられることを表しているのです。

 そして、ニューシティカテキズム45では、
「キリストの血と聖霊の刷新」
と言っていました。キリストの血によって私たちが罪をきよめられるようにしてくださるのは、聖霊なる神のお働きです。キリストはご自身の十字架の働きを、聖霊によって私たちに届けてくださいます。その意味で、洗礼の水は、聖霊なる神も表しています。
 洗礼者ヨハネは、キリストが
「聖霊と火によって」
洗礼を授けると言っていました。キリストのお働きは、十字架に死んで三日目によみがえっただけでなく、その働きを聖霊なる神に託して、私たちに届けてくださるのです。私たちの心に、確りと働くよう、聖霊を遣わしてくださったのです。その聖霊のお働きによって、私たちは、自分の罪を認め、嘆き、救いを願い、みことばに惹かれます。礼拝で讃美をし、平安や喜びを与えられ、希望や愛を与えられます。「聖霊と火」というのは、「火のような聖霊の働き」、つまり刷新のことだと言えるでしょう。火も水とは違う形で、ものを清めますね。火で消毒したり、不純物を取り除いたり、料理をして食べられるようにします。主イエスは、聖霊のお働きによって、私たちの心を新しくしてくださる。それは、水や火のイメージで語られるような、豊かな働きです。新しく、きよくしてくださるのです。
Ⅰコリント12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」
 洗礼は、聖霊によって私たちが新しくされていくことを示しています。主イエスが、私たちにいのちを下さり、罪を赦して、きよく新しい心を下さっていく。その事が水の洗礼に豊かに表されています。その途上にある私たちだとは、なんと嬉しいことでしょうか。そして、その途上にあるのですから、「洗礼を受けたのだから、これでいいや」などと投げ出さず、いつも、聖霊によって新しくされること、心をきよくしていただくことを求め続けましょう。きよめてもらう必要のある心を、素直に差し出しましょう。そのことを、水と火のイメージは、大いに助けてくれます。
 私たちの心は、渇いていないでしょうか。潤って、瑞々しくあるでしょうか。また、冷たく、燻っていないでしょうか。温かく、熱く燃えているでしょうか。

この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ヨハネ4:13-14
 洗礼は、主イエスが私たちのために血を流され、聖霊がそれを私たちに届け、私たちを新しくして下さる約束です。生涯かけて、この恵みに肖らせていただきましょう。



「神の小羊、主よ、私たちの受ける洗礼は、私たちを救ったのが自分自身の義ではなく、キリストの義によることのしるしです。どうか洗礼そのものが私たちの信仰の対象にならないよう助け、洗礼を通して美しく表現されているイエスのきよめの御業に目を向けることが出来ますように。アーメン」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする