聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書20章45~47節「見栄を飾るために」

2015-02-11 09:05:49 | ルカ

2015/02/08 ルカの福音書20章45~47節「見栄を飾るために」

 

 イエス様が十字架に掛けられる数日前、最後になさったことの一つが、二〇章の、ユダヤの指導者たちとの論争でした。それを締め括るような今日の箇所で、イエス様は弟子たちに、

46「律法学者たちには気をつけなさい。…

と仰るのです。その理由として、律法学者たちの行為が五つほど挙げられています。要するに、彼らは見えを飾り、人からの尊敬を愛していたのですね。長い衣や、挨拶をされることが悪いわけではありません[1]。会堂の上席や宴会の上座だって、誰かが座らなければなりませんし、長い祈りが一切駄目なのでもありません。そうした本来それ自体で悪いわけではないものも、それを見せびらかしたり自慢したりするための手段にしてしまうなら、本末転倒ですね。人から一目置かれて、ちやほやされて、重要人物として影響力を感じさせてくれることを求めてしまっている。そして、上辺ばかりを求めていますから、隠れた所では、当時の社会的な弱者でありました、やもめ(未亡人)の財産を搾取したり、神様との恐れ多い対話である祈りにおいてすら、回りの人への見栄で長々と祈ったりするだけ、という生き方になっていたのです[2]

 今までイエス様は、律法学者や大祭司といった指導者たちからの論争に答えて来られました。その最後に、「気をつけなさい」と今日の警告があるのです。イエス様を素直に信じることが出来ない。何とかして揚げ足を取ってでも、自分たちを守ろう。そういうこの時の彼らの頑なさと、普段、彼らが見栄を飾り、人からの尊敬を集めたがり、神様との関係さえパフォーマンスでしかなくなっていたこととは、無縁ではありません。むしろイエス様は、普段から、人目を追いかけ、プライドで肥え太っていることにこそ、本当に大事な神様との関係が回復できるかどうかが掛かっていると、鋭く警告しておられるのではないでしょうか[3]

 言うまでもなく、イエス様は、律法学者を警戒するようにとだけ仰ったのではありません。私たちもまた、同じような間違いに陥る傾向があるのであって、よくよく自分の心に気をつけている必要があるのです。また、長い衣や広場での挨拶や上席を避けたり、祈りを短くしたりすればいい、ということでもありません。そういう形だけを避けても、人から気に入られたい、「すごいなぁエラいねぇ」と言われたいという思いは、いくらでも別の形で表れます。

 実際、キリスト教会の中にも、直ぐに同じ問題が入り込みました[4]。その典型的な例の一つが、「使徒の働き」五章のアナニヤとサッピラでしょう。自分の持ち物を売り、その代金を全部ささげたふりをしながら、持って来たのは一部だけで、残りはこっそり手元に残していたのです。彼らは、そうやって神を欺いたために、罰せられて息絶えました。やったことだけを見れば、寡婦や貧しい人々への配給の資金繰りを助けるために、一部とは言え、財産を捧げたのであって、「やもめの家を食いつぶす」のとは反対のようでした。でも、彼らの動機は、神への敬虔さを装いつつ、自分たちの名誉でしかなかったのです。彼らの心は神への感謝や恐れではなく、自分たちの世間体、教会の中での評判でした。他の信徒たちの惜しみない献金に、「自分たちも遅れを取るまい、格好をつけていたい」という態度でした。

 それは、何気ない、ありがちな思いだとも言えます。でも、イエス様は仰るのです。そういう生き方に気をつけなさい。人からの尊敬を求めて、隠れた生活が貪欲で、神との関係が空っぽになっているなら、それは、醜く、虚栄でしかないばかりではない、

46…こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

 なぜなら、彼らは神の律法に通じ、律法を教え、神を指し示す立場にありながら、その立場を利用して自己満足を追い求めていたからですね。知らずに犯した罪、というのではなく、教え示す立場にあったからこそ、それは一層重い責任を問われるのです。上に立つ者の罪、よく分かった上での罪は、より厳しく罰せられるのです。

 このように仰ったイエス様は、私たちに、どのような生き方を示しておられるのでしょうか。それは、この時だけでなく、ルカの福音書でイエス様がずっと仰ってこられた、自分を低くする生き方です。自分を高くし、正当化し、誉められることを求める生き方に背を向けて、神の前に、謙った生き方こそ、いのちに至る道です。それこそが、イエス様の十字架が示した命の道です。イエス様の十字架の愛を本当に信じて、それを証ししようとするならば、私たちの生き方そのものが、見栄っ張りや虚栄を求めるのとは真逆に、深い謙り、偽りのない神礼拝に向いていくのです。いったいどうして人間は、人からの評価や賞賛を求めるのでしょうか。自分の価値や心地よい居場所を、人から求めて安心したい、ということではないでしょうか。実際には、心にあるのは、貪欲や狡さ、業突く張りなのに、敬虔で立派な人だと思われていたいなんて、本当に虚しく、おかしな願いです。でも、それだけ深い渇きを人間は抱えているのです。その渇きを満たして、私たちを潤すのは、人からの賞賛や拍手喝采や影響力がどれ程あっても出来ることではなくて、ただ主イエス・キリストの深い御愛をいただくことによるのです。そして、その主のいのちを得るためには、私たちが虚栄を捨てて、心から謙り、悔い改めて、一方的な主の憐れみによる救いをいただくよう、砕かれることが必要なのです。

 先日の研修で、「恵みのワルツ」という言葉を教えられました。キリスト者の信仰が、恵みに生かされるために、三拍子のワルツを踊るように、三つのことを繰り返していく、というのです。それは、悔い改め・信仰・戦い、という三拍子だと言われました。自分の罪を悔い改める、そこから主イエスを信じる(完全な赦しをいただき、主の私たちに対する愛、どんな状況をも益とされる最善のご計画、御言葉の約束の確かさを信じる)、そして、「戦い」と言い表されるような生活に出て行く。でも、そこでまた失敗をしたり、傲慢さに気づいたりする。だからまた、悔い改め、そして信仰に戻り、戦う。悔い改め、信仰し、戦う。その三拍子だ、というのですね。これが続くのです。それが恵みのうちに歩むこと。ナルホドと思いました。

 キリスト者として成熟すると、「悔い改めなくて良いぐらい成長する」のではないのです。むしろ、もっと素直に速やかに、悔い改めるのです。悔い改めとは、暗くて重々しい屈辱ではなく、かえって、確かな赦しを戴き、恵みの光の中で、喜びに溢れて躍るワルツの第一ステップなのです。謙ることを嫌がって、罪や欲を抱えたまま、本当は神様の前に罰せられるに価すると分かっているのに、自分は立派な人間だと思わせたいという方がよっぽど後ろ暗く、カサカサした、決して満たされない生き方です。悔い改めは、罪を認めて暗く終わることではありません。聖なる愛に満ちたもう神の前に、罪を告白する時、主からの完全な赦しと回復を戴いて、重荷を下ろして、軽やかにされるのです。主イエス様が、十字架に苦しみ、いのちを捨ててくださいました。その尊い赦しを戴き、その恵みの中に自分がある幸いに生かされるのです。人からの栄誉を求める生き方に気をつけなさい。そう仰りつつ、ご自身十字架に掛かられた主イエスは、私たちを謙虚にし、本当の意味で喜ばしく幸いな道を歩ませて下さるのです。

 

「毎日の生活で、虚栄に走るとき、主の十字架を恥じ、主の愛を踏みにじっていることに気づいて、悔い改めさせてください。教会の歩みさえ、人間的な思いや見栄で考えてしまうことがありますから、常にあなた様の御愛に立ち、砕かれた、謙虚な喜びをもって歩ませてください。虚しく醜い生き方から、本当に幸いな恵みの光の中で、いよいよ深く、成長させてください」



[1] 「長い衣」は、十五22では、放蕩息子に父親が着せています。

[2] 「長い祈り」は、マタイ6章で禁じられていました。それは「異邦人のよう」だから、という理由でした。ここで言えば、神に向かって祈るように装いながら、実は人に対する見栄のために祈ることをしてしまっている律法学者は、知らずして、異邦人と同じ神理解に堕してしまう、ということです。

[3] イエスの律法学者批判は、マタイ、マルコの平行記事と比べて、極端に短いことが特徴ですが、ルカはすでに十一章で批判を述べています。また、「上座」を選ぶことについては、十四7、8でも言及され、痛烈に批判されていました。

[4] 教会の中の実例としては、Ⅰテモテ一5-7「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません」、六3-5「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとⅡ同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」、Ⅱテモテ三5-6「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。…」、Ⅲヨハネ9-10「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。」など。また、ユダの手紙、ヨハネの黙示録二~三章などにも悪い教師の悪影響が見て取れます。

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