聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

2022-03-19 13:08:30 | マタイの福音書講解
2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

 マタイの福音書を二年半かけて、読んできて最後の部分を読みました。この結びは途中でも何度も触れて、このゴールを見据えながらマタイの福音書が書かれていることを意識して来た結びです。この山の上で、復活のイエスが語られた言葉は、マタイ伝の「総括」とも言えます。

1. 天においても地においても、すべての権威が

 18節のイエスの言葉は「権威」の宣言から始まります。「権威」という言葉は悪い印象があります。「権威主義」「権威を笠に着る」など非常に不快なことです[1]。それはまさに当時の権威筋、神殿や議会を司る祭司長や長老たちの姿です。それが11~15節に描かれています。
 自分たちの権威を守るためにイエスを十字架につけた彼らは、そのイエスが復活したことを番兵たちから報告されても「多額の金を与えて」偽証をさせます。ローマの総督の耳に入っても上手く説得すれば何とかする、と政治的な駆け引きで収めて済ますつもりです。(でも実際、番兵たちがマズいことになっても、どこまで責任を持ってくれるかは分かりません。)事実よりも自分の立場を守る権威。お金の力、嘘や口封じ、取引。そうした策略で安泰を守る権力。

 主の復活記事に、わざわざ番兵や祭司長たちの記事が置かれます。この世の権威がどれほど虚仮威しにすぎないか。しかしそれが功を奏して、広まってもいる。そういう現実を見させた上で、イエスに目を移させます[2]。イエスの権威は、事実をねじ曲げる命令をしたり、金や何かで吊ったり、無理やり保たなければならないような人間の「権威」とは全然違うのです。

二〇25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。…28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。[3]

2. 王であるイエス

 16節以下、都やユダヤ人の間に、大祭司たちの思惑が広まっている時、北の辺境のガリラヤでは、弟子たちがイエスに再会している、山の上での光景が描かれます。議会が狭い会議室でコソコソ協議しているのとは対照的な、のびやかな景色です。そして、その十一弟子の中にさえ疑う者がいました。復活のイエスは栄光に輝いて圧倒する威厳あるお姿ではなかった。しかし、そのイエスが、疑う者もいる弟子たちに近づかれて言われるのです。

18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 イエスの権威は人々に仕え、その罪を赦し、悪霊の苦しみから解放する権威です[4]。マタイの福音書は最初から「王であるキリスト」を語っています。イエスが王として治める「天の御国」を例え話で語り、御業で見せてくださる。イエスがどんな王であるのかをよく現すのが、この「仕える権威」です。それが何よりも現されたのは、ご自分を引き渡された十字架の死でした。苦しみや屈辱、卑しい十字架は、権威とは真逆ですが、イエスは本当に権威あるお方だからこそ、人を罪から救うため、十字架の屈辱さえ厭わずに、ご自分を与えきってくださった。そして裏切った弟子、まだ疑っている弟子たちにさえ近づかれる。その謙った、柔和なあり方こそ、イエスの権威であり、イエスが教え、招かれたあり方でした[5]。ですからここでも、

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

 「弟子」とはイエスを師匠としてその教えや生き方に倣う人ですね。キリスト者は何よりもイエスの弟子なのです。勿論、完璧に師匠の通りに出来る弟子なんていません。この十一弟子も不肖の弟子たちで、この時も疑っています。そういう彼らにイエスは

「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」

と言われます。他国の人間を異邦人と呼んで蔑むのが当然だった時に、国境を越えて出て行って、言葉や肌の色の違う人々を、自分たちと同じ、イエスの弟子とする。自分たちと同じバプテスマ(洗礼)を授ける。そして自分たちがイエスに命じられたことを、その人たちにも伝える。イエスが以前、同じようにガリラヤの山の上で語られた「山上の説教」やマタイにこれまで教えられた神の国の生き方、神を愛し、隣人を自分のように愛すること、神の国の民として生きることを、あらゆる国の人に伝える。しかも自分たちがイエスにしてもらったように、仕えるしもべとなって教えなさい、です。支配するため、自分たちに仕えさせるためではなく、イエスを師と仰ぐ弟子となるよう、自分たちが仕えていく。そう弟子たちに言われて、この仕え合う弟子が世界に広がっていくことを願うのが主イエスなのです。

3. 毎日、あなたがたとともにいます

 ですから、弟子たちへの命令・使命でこの福音書は終わりません。イエスの最後の言葉は、

…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 「いつも」は「すべての日々に」が直訳で、私たちの毎日、一日と欠かさず、無条件にともにいます、との約束です。マタイの福音書の最初でイエス誕生に先立ち、言われていました。

一23…その名はインマヌエルと呼ばれる。…訳すと「神が私たちとともにおられる」…

 それがこの最後でハッキリとイエスが

「いつもあなたがたとともにいます」

と伝えられて、この言葉が結びとなるのです。イエスがいてくださる。裏切った弟子たちも、まだ疑ってしまう弟子たちも、イエスが「わたしは毎日あなたがたとともにいます」という言葉を下さいます。「自分は弟子になんか慣れない」と思ったり、仕えるなんてまどろっこしくて少々手荒なやり方や無理やり脅したりすかしたりして、却って信頼や神の国を現すどころではなくなってしまう、そんな私たちでも、イエスは「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言っておられます。
 そして、この方にこそすべての権威があります。私たちの無力さや足りなさ、諦めや思い込みを超えて、すべての権威を持つ主が働いておられる。十字架に死んで、三日目に復活されたイエスが、この世界に働いておられる。そして、私たちとともにいると言われている。そこに立って、私たちはこの方の言葉に聞き、主の命じた事に従い、人にもそれを守るよう教える、私たちも「ともにいる」ことを大事にしていくのです。

 この最後の言葉、復活の主の弟子たちへの言葉、マタイの福音書結びの言葉から三つを教えられましょう。
 1つ、イエスは天と地、世界のすべての権威の主です。それは人間が思い浮かべる、偉そうで支配したがる権威とは全く違う、仕える権威、謙る権威です。この福音書はそういうイエスを語ってきたのです。
 2つ、イエスの権威は、イエスを王とする「天の御国」のあり方です。この仕える権威、憐れみの支配を信じて、キリストの弟子となり、この方の教えに習っていくのがキリスト者です。イエスが守るよう教えておられた事は、是非、何度もマタイの福音書、聖書全体を読み返しながら、思い起こし、気づかされてください。
 3つ、マタイは「インマヌエル神われらとともにいます」で始まり、「いつもあなたがたとともにいます」で終わります。イエスがともにおられ、私たちを教え、治めてくださっています。人間の権威や企みを恐れることはありません。本当の権威者であるイエスが、私たちのうちに神の国を始め、これを完成させる世の終わりまで、毎日ともにおられるのです。教会はここに立つのです。

「主イエス様。すべての権威はあなたのもの、国も力も慰めも命も、あなたのものです。謙り、私たちに仕えられた、あなたのものです。今日まで、マタイの福音書をともに読む恵みを私たちに下さり、感謝します。あなたが私たちとともにおられ、神の子ども、御国の民としてくださった幸いを、どうぞますます豊かに現してください。私たちもあなたの弟子です。疑いや欠けがある私たちをも、あなたの器として遣わし、あなたの不思議な権威を運ばせてください。」
[1] 『広辞苑』では、権威を「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義しています。どちらも、聖書にいう神の権威とは異なるものです。
[2] 11節の番兵たちの行動を語る文章の最初には、原文では「見よイドゥ」という言葉があります。20節の「見よ」と同じ、注目をうながす一文です。
[3] マタイ20章25~28節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」」
[4] 「権威エクスーシア」 マタイで9回使用。7:29(イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。)、8:9(と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」)、9:6(しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。)、10:1(イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。)、21:23(それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。)、21:27(そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。)
[5] それは、この祭司長や議会のように偉ぶる権威、自分たちを守る権威、そのために必要とあらば手段を選ばず、人々を丸め込む権威とは全く違います。
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2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

2022-03-12 13:02:36 | マタイの福音書講解
2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

1.キリストの復活、私たちの復活

 マタイの福音書の最後、28章に辿り着きました。主イエスのよみがえりが告げられます。十字架に架けられたイエス・キリストが三日目に甦った。マタイだけでなく新約聖書の福音書四巻が揃って、最後に伝えるのはキリストの十字架の死と復活です。本当にキリストが肉体を取って復活された驚きが福音です。ここでも女たちは、出会ったイエスの足を抱いて触っています。ルカの福音書でもヨハネでも「魚を食べた」と、二度も書かれています[1]。本当にイエスは、死んで三日目、週の初めの日に甦られた。そこで日曜を主の日と呼んで、礼拝のために集まり始めました。その結果、今ではこの日本でも日曜日がお休みの日となっているのです。

 ただし教会の告白は、イエスが本当に甦られたという以上のとんでもない告白です。イエスの復活は、私たちの復活の初穂です。イエスの復活は、私たちも死で終わりではなく、後の日に目覚めてからだを与えられることの始まりなのだと信じることです[2]。それは人間の理解や想像を超えたことですが、私たちは将来の自分たちの復活を信じる。だからこそ、今この体での私たちの営み、この世界のすべてが神の前に意味あるもの、無駄ではないことを信じて、大切に生きることが出来る。それこそ、キリストがこの世界に来られて、人となり、その死後ももう一度、からだをもってよみがえられたことが保証している奇蹟です。イエスの復活だけを信じるかどうか、ではないのです。神が私たちをも復活させると言われることを信じるのです。

2. ガリラヤに行く

 この朝、二人のマリアが墓を見に行きました。復活を期待してではありませんでしたが、大きな地震が起きます。主の使いが天から降りて来て、墓に封をしていた石を転がしたのです。その姿は輝いて、番兵たちは震え上がりました。そうして御使いが女たちに語りかけるのです。

5…「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。6ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。7そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」

 イエスは、ご自分の復活を前から言っておられましたが、そこにはこの「ガリラヤに行く」の予告もありました。弟子たちの故郷、最初にイエスと会った場所、エルサレムから見ると辺境、ド田舎の蔑まれた地でもありますが、そこに先に行くとも予告されていました。

二六32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 ここでその言葉を御使いは繰り返して、ガリラヤであなたがたと会うため待っているイエスを伝えるのです。イエスの復活は、神秘的で私たちには手の届かないことではなく、反対に、イエスはよみがえって弟子たちの先に待ち構えて、会ってくださる主です。その知らせに、

8彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

 ところが、ガリラヤで会うのを待ちきれないかのように、女たちの前にイエスが現れます。御使いの言葉にはなかった行動を、イエスがなさるのです。

9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。

 ここには「見る、会う、近寄る」と出会いの言葉が様々に出て来ますが、この「現れる」は「迎える」という、少し堅苦しい言葉です。イエスは女たちを待ち迎えてくださった。ここにも復活のイエスが、私たちにとって遠い存在ではなく、私たちと会いたい、私たちとの出会いを喜ばれ、そして私たちにもよみがえりを必ず与えて下さる方であることが豊かに現されています。ここでもイエスは御使いが伝えた伝言を繰り返されます。ガリラヤに行って、そこでわたしに会えます、と。イエスは「会いに来る神」です。そして「喜び」を下さるお方です。

3. 「喜びがあるように」

 9節の「おはよう」は欄外に「別訳「喜びがあるように」」とあります。彼女たちの目に焼き付いていたのは、十字架に架けられて無残に死に、亜麻布に包(くる)まれたイエスだったでしょう。再び出会ったイエスは、あの痛々しさなどはなく「喜び」を仰るのです。「おはよう、こんばんは、万歳」などとも訳せる挨拶の言葉ですが[3]、社交辞令や皮肉ではなく、イエスは本心から「喜びなさい」と仰ったでしょうし、イエスご自身、喜びに溢れていたからの言葉だったはずです。弟子たちの先にガリラヤで会おうと約束され、女たちに会うのが待ちきれずに現れて、そうして、弟子たちの無理解や頑なさを責めるより、喜びや再会を告げられるのです。

 1章で御使いは

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」

と言いました。イエスの十字架は、罪の赦しのためにイエスの血が流されたささげ物でした。そのイエスが十字架の死から復活して、弟子たちに近づいてくださいます。罪からの救いのため、ご自身の血を流された方として、既に罪の赦しのための犠牲を払ったお方として、私たちを迎えてくださる。その時の主の言葉、また主ご自身の思いは「喜び」なのだとは本当に深い恵みです。罪からの救い主がこんな近づき方をしてくださる。だから私たちは自分の罪を素直に認めて、主に立ち帰ることが出来るのではないでしょうか。
 罪の意識から赦しを求める、というのは人間的な順番です。キリストは逆です。人の罪の赦しのため、どんな犠牲も惜しまず払われる。それほど私たちを愛し喜んでくださる。だからこそその愛を、軽く安っぽく考える事が愚かだったと気づく。その愚かさに関わらず神が私を愛し、私たちとの関係を命がけで回復してくださる。その気づきが、自分の罪責感とか正義感とは全然違う、罪の意識を始めます。
 そして、主の赦しを受け取って、赦し以上の喜びを受け取らせていただく。赦しが分かって初めて、罪も分かる。それが、罪の力に勝利してよみがえられたイエスに導かれる中での幸いな気づきです[4]。復活の主が、私たちに先立って、私たちに会われ、私たちの救い主としてともに歩まれるのです。

 マタイの28章、イエスの復活から三つのことを覚えましょう。
 1つ、イエスは日曜日の朝、よみがえられました。それはイエスが以前から仰っていた通り、私たちのためであり、私たちも死の後、よみがえりの体を戴く保証です。そんな大それたことを、復活は保証してくれています。
 2つ、イエスは弟子たちと、彼らの故郷のガリラヤで会うことを約束され、女たちを迎えに現れました。復活のイエスは、私たちに近づき、私たちと会ってくださる主です。私たちに会うため、神はどんな犠牲も厭わないし、私たちのガリラヤ、生活のただ中に先におられるのです。
 3つ、復活のイエスの最初の挨拶は「喜びがあるように」と言う歓迎でした。罪からの救い主、十字架に殺された方がこんな真っ直ぐな言葉で迎えてくれるなんて、誰が思いつくでしょう。この方は私たちを私たちの罪から救ってくださる方です。この方の差し出す赦しと喜びによって、私たちは初めて罪を知り、罪よりも大きく強い主を知って生きていくのです。

「復活の主よ、あなたの不思議な大きないのちに包まれて、今も将来も体を与えられて生かされています。罪赦された者として、喜びを戴いて生きていける恵みを今日新たな思いで告白します。希望が打ち砕かれたように思う時、死の力や武装した兵士が圧倒的に思える時も、主よ、あなたが私たちに先立って進まれて、喜びを与えてください。罪を赦し、罪のもたらした破綻を癒やしてやまないあなたが、今も私たちを生かし、復活の希望に与らせてください」
[1] ルカの福音書24章36~43節「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。37彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」40こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」、ヨハネの福音書21章「9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」
[2] Ⅰコリント15章12以下。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。13もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。14そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、神はキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。16もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがは今もなお自分の罪の中にいます。18そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
[3] カイレ 26:49ではユダが裏切りの口づけをしながら「こんばんは」と言い、27:29では兵士たちがイエスをからかって「王さま、万歳」と言ったときも、同じ「カイレ」です。
[4] 「確かに人は、間違いを他者から追求されたとき、罪を告白する必要があるでしょう。しかし私は、罪を裁くだけではじゅうぶんではないと思うのです。裁かれると、言い訳をして逃れてしまう、自分の罪を罪として、向き合うことから逃げる。それが、私たち人間の一面ではないでしょうか。/しかし、裁かれるだけではなく、そこに赦しの可能性が存在するとき、人は罪というものが、それのみの単独の概念ではなく、赦しとの相関概念であると知らされるのです。たとえば皆さんが、漠然と悪いことかもしれないとは感じる、しかし罪と呼ぶほどではないと思えるようなことをしたとします。その行為が、人によって赦されました。そのとき、はじめて、その行為が罪だったと気づく。そういう経験をしたことはありませんか。私は、罪の意識というものは、犯した行為の深刻さによるものではなく、赦しへの見込みによるものであると感じることがあります。/もちろん、すでに話しましたように、キリスト教の贖罪思想が乱用されたり悪用されたりする危険はあります。しかし、この世に万能の思想は存在しません。だからこそ、いかなる思想も、長所だけではなく、その危険性も意識することは大切です。キリスト教の赦しという概念は、加害者に自分の罪を自覚させ、その罪を罪として向き合わせる働きがあることも忘れないでください。」、魯 恩碩『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』、(CCCメディアハウス、2021年)143-144頁。
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2022/3/6 マタイ伝27章57~66節「まだ暗いうちに」

2022-03-05 12:12:09 | マタイの福音書講解
2022/3/6 マタイ伝27章57~66節「まだ暗いうちに」

 イエス・キリストが十字架につけられて息を引き取った、その「夕方」のことです。イエスご自身は、ユダヤ当局の権力者たちの妬みによって十字架に架けられましたが、同時にそれはイエスが前から予告されていた死でした。ご自身を最後まで徹底的に差し出されて、私たちの罪を赦し、神の国の民としてくださるための、いのちのささげ物でした。十字架の想像を絶する苦しみの中でも、恨みや呪いを発せずに、神への真っ直ぐな祈りを叫んで、人として死なれたのです。その後、神殿の幕が裂けたり、百人隊長たちが
「本当に神の子であった」
と告白したりする出来事が続きました。それに続いて起きた出来事が、今日の箇所です。

1.金持ち、きれいな亜麻布、自分の新しい墓

 「アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た」。

 こんな弟子がいたとはここまで言及がありませんでしたが、昨日まで活躍してきた弟子たちは行方知れずです。誰もイエスの遺体を引き取りに来ない中、このヨセフが来たのです。当局から妬まれ、民衆からも罵詈雑言を浴びせられた死刑囚の亡骸を引き取る。どれほど危険でリスクを伴ったことか、想像してください。そのリスクよりも彼はイエスの下げ渡しを願い出、ピラトは許可をしました。
 十字架にぶら下がった体は、傷だらけで血塗れです。汗と排泄物もこびりついています。他の福音書はハッキリと、彼自らその体を取り下ろしたと伝えます[1]。自分も血と汗と排泄物に汚れます。自分の汗と涙も混ざったでしょう。その体を包む前に拭いて清めたにしても、包んだ亜麻布はたちまち汚れたはずです。だからわざわざ、

「きれいな亜麻布に包んだ」

と特筆するのです。

 マタイはヨセフを

「金持ち」

と紹介します。イエスは以前、

「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」

と仰っていました[2]。神は持つよりも与える方だからです。その方の国に入るのは、多くの物を持つほど、難しいのです。しかしイエスは続けて

「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

と言われました[3]。イエスの死の後、他の誰でもなく、金持ちであるヨセフが来て、イエスの体の下げ渡しを願い出ます。その汚れた体を受け取り、惜しみなく綺麗な亜麻布に包んでいる。そして自分の真新しい墓に入れます。彼もイエスの復活や十字架の意味などまだ知りません。計算や理由など無い、惜しみない勇気です[4]。誰もしなかったような行動をします。それはイエスが仰った通り、神だけが出来た奇蹟です。駱駝が針の穴を通るよりも難しいことを、神の子が十字架に死んだ時に始まった。それがこのヨセフです。

2. 備え日の翌日に

 62節からは

「備え日の翌日」

に祭司長とパリサイ人たちがピラトの元に行き、イエスの弟子たちが墓からイエスの体を盗み出して、「よみがえった」と言いふらさないよう、墓の番をさせるよう工作します[5]。イエスの抹殺を果たしたものの、まだ不安要素は尽きないのです。弟子たちはもう散り散りバラバラで逃げ隠れています。まして、墓に近づく気や、よみがえりを捏ち上げる発想なんてありません。それ以上に大事なのは、ここで「備え日の翌日」という珍しい言い方です。「備え日」とは安息日(土曜日)の備え日ですから、「備え日の翌日」は「安息日」と言えば良いのですね。こんないい方で注目させるのは、この祭司長、パリサイ人が安息日の決まりを破って、相談や仕事をしている、という事ですね。
 今までイエスが安息日に癒やしたとか、弟子たちが畑で麦を摘んで食べた、安息日違反だと怒っていたのは彼らです[6]。イエスを「人を惑わすあの男」と呼んでいるのも、安息日や神殿といった当時の律法システムの要を深く問い直して、彼らの権威をガタガタにされたからです。その彼らがここで、安息日にしてはならない筈の会合・異邦人訪問をし、しかも殺したはずのイエスの体が盗まれないようにだなんて、大っぴらには言えないような行動をしています。
 でも、この悪巧みでイエスの復活が食い止められることはありませんでした。それどころか、彼らが番兵を送ったからこそ、「弟子たちが勝手に盗むことは出来なかった」と反証できます。その番兵もイエスの復活を目撃するのですね。彼らの安息日違反も、妨害工作も、恐れるには足りず、帰って益となった。ここでも私たちは、全てを益としたもう主を崇めるのです。

3. 安息日の主

 祭司長たちが「人を惑わす者」と呼んだのは、イエスが安息日に命の業を行われたからです。イエスは「安息日の主」です。そのイエスがこの「備え日の翌日」(安息日)に何をされたでしょう。何もされていません。今日の箇所でイエスは何も語らず、ヨセフに体を降ろされ、亜麻布に巻かれ、葬られ、されるがままになっています。その後の安息日は墓に入れられたまま、何もされていません。
 安息日は、神が天地を造られた時、すべての創造の業を成し終えて、第七日を祝福して聖なる休みとされたことの記念日です[7]。また、その主の祝福を踏みにじって、人を奴隷扱いする罪の世界から、主が恵みをもって贖いだしてくださったことを祝う日です[8]。この時イエスはすべての業を終えられました。私たちを奴隷とする罪から解放する業を、この聖金曜日に成し遂げられました。その翌日の土曜日、神であるイエスは安息され、休んでおられます。イエスの一生、いえ神の御子、言葉である方の永遠において、ひと言も発せずに黙って一日を安らかに過ごされている、後にも先にも一度の日です[9]。その日を経て、イエスは次の朝に起きられ、安息日の主、私たちの救い主として現れてくださいます。今日この日曜日、私たちはイエスが復活されたことを覚えます。その前に一日を休まれました。それは無力や敗北の時ではなく、働きを完成された方の安息です。神は、休むことを受け入れ、私たちをも安息へと招かれる方です。その休みを、イエスは私たちに届けてくださるのです。

 一つ、アリマタヤのヨセフが行動を起こしたことは大変な勇気です。金持ちが御国に生きるより、駱駝が針の穴を通る方が易しいとイエスも言っていた、その金持ちのヨセフの登場です。それだけにこれは「神には人を変える事が出来る」ことの現れです。私たちも、イエスを、そして殺された人、助けたらこちらが汚れる人をも、無駄と思わず、尊んで、迎え入れるように、主は変えてくださるのです。
 二つ目、祭司長たちパリサイ人たちは安息日を破って、弟子たちの動きを封じようとしました。自分たちが主導権を握ろうとするなら、どこまでも不安は消えません。休みなく動かずにおれません。しかし、その企みを超えた主の業が起きました。そして、悪の企みもイエスの復活を目撃したのです。
 三つ目、その間、イエスは何もせず、休んでいました。この安息日こそ、イエスが贖いを果たされて休まれた七日目です。イエスは安息日の主です。そこからよみがえられたイエスが、私たちにも安息を下さいます。恐れてコソコソ生きる生き方を捨てさせて、委ねて休める生き方、新しいいのちを下さいます。

 ヨセフはイエスの汚れた体を愛おしみ、綺麗な亜麻布に包みました。イエスはあのように、私たちを惜しみなく包まれます。どんなに汚れ、恐れ、多くの心配や傷を抱えていても、イエスは私たちを引き受け、ご自身のいのちで洗い清めて、ご自身との交わりで、私たちを包んでくださるのです。

「安息日の主よ。贖いの業を成し遂げて休まれた、大きな節目の一日を褒め称えます。まだ暗いうちに、あなたの恵みは始まっていました。私たちも与らせてください。失うことを恐れて握りしめる手を、日曜毎に開いて御手に委ね、私たちのためにすべてを捨てられ死なれたあなたを受け止めさせてください。あなたが愛し、尊ぶ全ての人を敬わせてください。争いを終わらせてください。悪や敵意のただ中で休み、ここから復活の主とともに出て行かせてください」
[1][1] マルコの福音書15章46節「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。」、ルカの福音書23章53節「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。」、ヨハネの福音書19章38節「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」。十字架の死体を降ろすのだ大作業で、ヨセフひとりで降ろしたとは思えません。ヨハネの福音書19章39節によれば、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを33kgも塗り込んでいます。ヨセフとニコデモ、それに彼らのしもべもおそらくは手伝ったでしょう。しかし、主体はヨセフであって、しもべに命じてやらせたようには書いていないのです。
[2] マタイの福音書19章23~24節「そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。24もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
[3] マタイの福音書19章25節。
[4] 彼も、まだ復活は知らないし、弟子たち同様、復活や十字架の意味を理解もしていなかったはずです。「救われるため」や「イエスを救い主と信じる信仰」からの行為、などではなく、イエスへの愛、敬意からだ。それも、十字架につけられ、皆から罵られ、誰も引き取り手がいなかった「過去の人」への、真っ直ぐな思い。最も小さい者に対しての愛、とさえ言える。これは、イエスへの愛の行為です。
[5] これにピラトが答えた言葉が「番兵を出してやろう」なのか、欄外にあるように「おまえたちには番兵がいる。お前たちが承知しているように、行けば良い」なのかはどちらとも訳せます。
[6] マタイの福音書12章1節以下「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。2するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」…5また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。…8人の子は安息日の主です。」、10節以下「すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。11イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。12人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」など。
[7] 創世記2章1~3節「こうして天と地とその万象が完成した。2神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。3神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」、また十戒の第四戒は出エジプト記20章8~11節で「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」
[8] 申命記5章12~15節「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」
[9] 「地に訪れた沈黙 アリマタヤのヨセフは、イエスの体を引き受けました。そして、まだ誰も使ったことのない、岩に掘った墓に納めました。ガリラヤから来た婦人たちはヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている様子を見届けてから、家に帰り、香料と香油を準備しました。「婦人たちは安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23・56)と記されています。 イエスの墓の周りには、深い休息がありました。世界の創造を成しとげた神は七日目に、休息なさいました。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世2・3)とあります。 イエスは人々の罪の贖いを成しとげた週の七日目に、御父から託された業をすべて成就し、墓で休息なさいました。悲しみのあまり打ちひしがれた女たちも、イエスと共に休息しました。歴史上のあらゆる一日の中で、この聖なる土曜日――大きな石で墓をふさがれ、イエスの身体が沈黙と暗闇の中に横たわった土曜日(マルコ15・46参照)――は、神が独り静まった日です。一言の言葉も発せず、何の宣言もなさらない日でした。すべてを創造した神の言が、地の暗闇の中に横たえられ、葬られました。この聖なる土曜日はあらゆる日の中で、最も静寂に包まれた日です。 この静けさが、最初の契約と第二の契約とを、イスラエルの民といまだ知られざる世界とを、神殿と聖霊による新しい礼拝とを、血のいけにえとパンとぶどう酒の献げ物とを、律法と福音とを、結びつけます。この聖なる沈黙は、かつてこの世界が知ることのなかった、最も実り豊かな沈黙です。この沈黙の底から、再び言葉が発せられ、すべてが新しくなります。イエスが沈黙し、独りになって休息したことから、神について多くのことが学べます。それは、多忙ということのない、その徴候さえもない、何もしないという休息です。神の安息は、心の深い休息であって、たとえ死の勢力に取り囲まれようと、それを耐え抜くことができるほどの休息です。この休息は、隠された、ほとんど目に触れない私たちの内なるものが、いつ、どのようにかは定かでないしにしても、豊かな実を結ぶという希望を与えてくれます。 これは信仰による休息です。物事がなかなか好転しなくても、つらい状況が解決されなくても、革命闘争や戦争で、毎日の生活リズムが荒らされようとも、心は平安と喜びにあふれて生き続けさせる信仰から来る休息です。この天与の休息は、イエスの霊にあって生活している人であれば知っています。その生活の特徴は、おとなしく、受身的で、あきらめが早いことにあるのではありません。それどころか、正義と平和への創造的な活動で際だちます。そしてその活動は、心の中にある神の休息から押し出されたもので、それゆえ執着や強迫観念から自由にされた、自信と信頼にあふれたものです。 私たちが自分の人生で何をなそうがなすまいが、つねにつながり続けるべきものは、墓に埋葬され、すべてが新たにされるのを全創造物が待ち望んだ、あの聖なる土曜日のイエスの休息です。」『ナウエンと読む福音書』137-138頁
 
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2022/2/20 マタイ伝27章45~56節「言葉を失うほどの」

2022-02-17 17:32:55 | マタイの福音書講解
2022/2/20 マタイ伝27章45~56節「言葉を失うほどの」

 イエス・キリストが十字架にかけられた最後の3時間の出来事を読みました。直前では人々がイエスを嘲笑い、罵っていたのが、

45節 …十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

 嘲っていた人々も黙ったようです。この3時間、闇と沈黙が全地を覆っています。その後、イエスが大声で叫ばれます。
「エリヤ」
と聞き間違えた人たちが誤解してしゃべりますが、その期待を躱(かわ)すようにイエスは霊を渡される。その後の出来事に
「この方は本当に神の子であった」
の告白が響く流れです。騒然さから闇と沈黙になり、イエスの叫びと、短い勘違い発言、最後の告白。動から静へ、そこに響く肝心な言葉。そういう流れを、私たちも言葉を失う思いをもって聞きたいと願います。
  1. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

 全地を覆った闇は、神が罪への怒りをもって顕現されたしるしの闇です[1]。真っ暗な中過ごす不気味さ、不安に、笑っていた人々も黙らざるを得なかったでしょう。そして、

46 三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。[2]

 これと同じ言葉が、詩篇22篇1節にあります[3]。聖書の昔から、神に捨てられたと思わずにおれないような痛み、理不尽な力で悩まされる現実があります。それでも、本当に神に捨てられるとはどういう出来事なのでしょうか。怪我やトラウマや心が狂うことも、経験した本人でないと分からないように、もしすべてを支えている神に、本当に捨てられるとしたら、どれほど恐ろしく絶望的なのか。太陽も雨も惜しまない天の父の恵みがすべて取り上げられるのがどれほど悲しいことなのか。私たちには精一杯想像するしかありません。この

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

は詩篇の言葉そのものでなく、当時の日常語アラム語です。イエスにとっての本心からの叫び、問い、訴えです。堪え難いこと、人間となったイエスには予想できなかったほど心境でした。それでもイエスは「わが神」と求めています。神と神の御子であるイエスの繋がりは永遠です。でもその関係が「見捨てる」という言葉でしか表現できない、最大の痛みを負われました。それが私たちのために神がなさったこと、イエスのささげ物だったのです。

ヘブル九26…しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

2. すると見よ、神殿の幕が裂け

 人々が勝手に期待した、預言者エリヤの登場は起こらず、イエスは死なれました。しかし、

51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。53彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。

 一つ目の「神殿の幕」は、祭司だけが入れる聖所の幕か、その更に奥にある、年に一度大祭司しか入れない至聖所の入り口の幕か、どちらかでしょう。いずれにせよ、神殿の心臓部である聖所の幕が裂けた事は、神殿そのものの終わり、神殿を中心とするモーセの律法の時代が役割を終えて、新しい礼拝の時代が始まった事を示します。イエスはこれまでも

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」[4]

「ここに宮よりも大いなるものがあります。…人の子は安息日の主です。」[5]

と言われて、神殿も律法も全うすることを言っていました。イエスの死こそ、すべての生贄を終わらせて、すべての宗教を用済みとしたのです。

 そればかりでなく、多くの聖なる人々が生き返りました[6]。ここに書いてある以上の事は分からず好奇心をそそられますが[7]、大事なのはイエスの死が死者をよみがえらせた、ということです。イエスが生まれる前、御使いは

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

と告げていました[8]。それは罪の罰の免除に留まらず、私たちにいのちを与えたい、死よりも強い新しい命をもたらす救いです。神の子イエスが私たちのために死なれた。奇蹟や神々しいドラマを見せたりせず、徹底的に謙り、神に見捨てられて息絶えられるほど、人となられた。その死が、私たちを豊かに生かすのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 Ⅰヨハネ4章9-10節

3.「この方は本当に神の子であった」

 この出来事を見た百人隊長たちが

「この方は本当に神の子であった」

と言いました。神の民であるユダヤ人ではなく、異邦人である百人隊長と兵士たちです。しかも35、36節でイエスを十字架につけ、衣をくじ引きし、十字架の足元からイエスを

「見張っていた」

あの者たちが

「この方は本当に神の子であった」

と言ったのです。惨めな囚人だ、神の子なら自分を救え、と笑っていたこの人は、本当に神の子だ。

「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ぶ絶望に、神の子でなければ発せられない真実な絶望を、聖なる告白を感じ取った。いや、そう思わせたのも神の業としか言えません。イエスの死は、神殿の幕や聖徒たちの墓の岩を裂き、神の民ではない異邦人の心も開いて、異邦人とユダヤ人の隔ての壁も崩しました。
 更に55、56節には

「大勢の女たち」

が登場します。今まで登場しなかった無名の女性たち[9]。そもそも女性の立場は低くて、今まで女性の弟子がいたことさえ分からなかった。でも饒舌だった男の弟子たちもクモの子を散らすようにいなくて、イエスを嘲っていた人々も黙った中、この女性たちが遠くから見ているだけではあっても、そこにいて見ている。その彼女たちが、この後、埋葬と復活の目撃者になるのですね。その事も又、イエスの死において始まっている、新しい、驚くべきことです。誰も予期しなかった事が始まったのです。

エペソ二13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…

 まとめましょう。
 一つ、イエスの十字架で、全地が暗くなり「神に見捨てられた」のです。私たちの言葉を持ち合わせない、想像を絶する出来事です。詩篇に託された人間の叫びを、イエスは誰よりもご存じです。誰も体験したことがない真っ暗闇を味わわれました。人が「神から見捨てられた」と思う時も、その私とイエスがいてくださいます。私たちは決して神から見捨てられることがないと知るのです。
 二つ、イエスの死の後、神殿の幕が裂け、モーセの律法の時代は終わり、イエスによって神に近づける新しい礼拝の時代が始まりました。私たちも罪の罰を免れるだけでなく、死の後にもよみがえりを約束されています。新しいいのちが与えられたのです。
 三つ、異邦人やイエスの処刑の執行者、女たち、当時の神殿礼拝では、聖所に入ることも出来なかった人々が、ここでイエスを告白し、証言しています。私たちの誇りや壁を打ち砕く出来事が、すでに始まっています。

 自分の饒舌さを恥じて、十字架の福音の意外な力に言葉を失って驚きましょう。この私のために主が十字架と闇と絶望的な孤独を経られました。多くを語らずに、苦しまれ、深い叫びだけを発して死なれました。そしてその死が、まさかと思う人をも変えました。この事に、私たちの心に築いているプライドの壁も砕かれるのです。私たちの周りのすべてを包んでくださる主がおられることに、希望を見出すのです。

「私たちのために死なれた主よ。あなたの十字架の苦しみを、想えば想うほど、言葉を失います。それは私たちを罪から解き放ち、いのちを与えるためでした。あなたの愛の深さ、御心の豊かさはどんな言葉でも足りません。折々に静まって、主の恵みを想い、味わい、感謝と賛美を捧げさせてください。私たちの心の頑なさ、冷たさ、神にも人にも築いてきた幕を、恵みによって開いてください。主よ、私たちを愛してくださり、有り難うございます。」

脚注:

[1] 出エジプト記10章21節「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」22モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。」、アモス書8章9節「その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。10あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。」

[2] ルカやヨハネを見ると、十字架の上でイエスは七回の言葉を残していますが、マタイとマルコが記すのはこの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」だけです。

[3] 詩篇22篇1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。」

[4] マタイの福音書5章17節。

[5] 12章6節、8節。

[6] 「聖なる人々」ハギオス マタイで10回使われますが、他の九回は「聖霊、聖なる都」です。本節以外、聖徒と訳される場所はなく、どう訳したらいいのかさえ、定かではありません。

[7] この「聖なる人々」とは誰なのか、旧約の預言者たちであればなぜ名前がないのか、彼らはイエスの復活まで何をしていたのか、その後、どうなったのか、などなど好奇心は尽きません。

[8] 1章21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

[9] 「マグダラのマリア」は有名ですが、マタイではここで初。61節、28章1節と合わせて3回のみ。ガリラヤからついてきて、今まで無名だったが、イエスの十字架と、埋葬と、復活の証人となった、ということだけ。

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2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

2022-02-12 11:45:31 | マタイの福音書講解
2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

 説教題を「裸の王さま」としました。よく知られたお話は、「愚か者には見えない服」を着たフリをしてしまう笑い話です。今読みましたマタイ27章27~44節では何度もイエスが「王」と呼ばれます[1]。最初、総督の兵士たち全部隊(六百人)が服を脱がせたり着せたりして、イエスを

「ユダヤ人の王様、万歳」

とからかい、最後は裸にして十字架に磔ました[2]。十字架の多くの絵は気が引けてどうにか腰を覆いますが、実際は「裸の王様」とされたイエスでした。

  1. からかい、嘲り、罵る人々
28…緋色のマントを着せて、…茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。[3]

 兵士たちは、「ユダヤ人の王と自称している」と訴えられて十字架に決まったイエスを、王様ごっこで辱めます。鞭で打たれた後、服を脱がされ、またマントを着せる、棘の食い込む茨の冠、唾を掛け、葦の棒で頭を茨の冠の上から何度も叩いて、またマントを脱がせて、元の衣を着せ…。こうした拷問も決して見過ごしには出来ません。しかしそのイエスの苦しみ以上に、それを与える周りの人間たちの罵り、イエスの姿を嘲るほか無かった人間たちが伝えられます。

32兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。

 十字架の横木を背負わせて刑場まで行くのは十字架刑の常でしたが、イエスはその横木を運べないほど憔悴していたのでしょう。兵士たちから、十字架を担えないほど情けないと思われたイエス。そしてそれを背負わされたシモンは、北アフリカの町クレネの人、恐らく黒人と思われています[4]。黒人だから、兵士たちに目をつけられて、十字架を無理やり負わされたのかもしれません。逆に、イエスが十字架を負うことも出来ないほど弱って、黒人に助けられている情けない姿だ、とこれまた一層、イエスへの嘲り、からかいに拍車がかかったでしょう[5]。



 その先に到着したゴルゴタの丘での肝心な十字架も、ともすれば読み飛ばすぐらいサラッと、

35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。

と、兵士や通りすがりの人たちの行動をメインに伝えます。祭司長たち、両脇の強盗たち、周りの人々が罵り、「王だなんて」と笑った。しかしそのイエスこそ王だと伝えているのです。

2.イエスが王であるとは?

 マタイの福音書のテーマは「王であるイエス」です。ダビデ王の系図から始め、東方の博士たちが「ユダヤ人の王はどこにおられますか」とやって来た最初から、イエスを王としていました。その王がどういう王かというと、低くなり、疲れた人、重荷を負っている人に近づき、仕える王。最も謙って、そのために卑しめられる事も厭わない王。誰も王だとは思わず、からかわれ、嘲られた王。その局地が、この十字架につけられた「王」という今日の箇所です。使徒パウロはこの事を言います。

…私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24…召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。[6]

と言っています。これは
 「十字架につけられてしまった
あるいは
「十字架につけられたままのキリスト」
というニュアンスです[7]。確かにその日の内にイエスの亡骸は十字架から下ろされて、三日目に復活されて、今は神の右に座しておられます。でも、それは十字架につけられたキリストでもあるのです[8]。またこの箇所の「くじ引き」「神のお気に入り」などの欄外に詩篇22篇やイザヤ書53章が言及される通り、多数の旧約の言葉が下敷きにあります。これこそ神が旧約の昔から語っていた救いです[9]。その一つ、イザヤ書53章では、こう言います。

イザヤ書五三5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 イエスが人間社会の最も低い十字架に、傷つき、嘲られ、裸にされたこと。差別される黒人に助けられ、犯罪者の間に立たれたこと。それが、私たちの傷、罵り、冷酷さを癒やすのです。キリストが十字架につけられた。それは、イエスがどんな王か、私たちが宣べ伝えられ、宣べ伝えているのはどんな救い主なのかを現しています。それは私たちのために痛みを引き受け、罪のために悩み、この世界を背負って、苦しみも裸も厭われない王なのです。

3.十字架につけられたままの王

 十字架を見ていた人々は「こんな王などいない。もし神の子キリストなら自分を救ってみろ」と笑いました[10]。けれどももしイエスがここで神の力によって十字架から降りたとしたら、信じたのでしょうか。恐れおののいてひれ伏してイエスを認めたかもしれません。でもそれは、イエスが求める信仰ではありませんでした。力を見せつけたら信じる、そんな誘いをイエスは最初から誘惑として退けておられました[11]。イエスは罪に病んでいる世界のために心を引き裂かれて人となり、最悪の扱いをご自身の痛みとされました。十字架の激痛も、人間性を踏みにじる嘲りも、無防備に受け止められました。
 お話しの「裸の王様」はありもしない服を着ているふりをして笑われましたが、イエスはすべての栄光を人間のために惜しまず脱ぎ捨て、罪に病み、苦しむ世界で十字架にかけられてくださいました。
 「神の子の力があれば、こんな苦難から自分を救うのが当然」ではなく「誰であってもどんな人間でも、こんな扱いを受けていい人はいない」のです。神が作られた人間を、人間が貶め、嘲り、苦しめて笑ったり鬱憤を晴らしたつもりになる、そのあり方そのものが罪です。それは本当に私たちの心を痛めつけ、縛り付けている罪です。それを贖うのは、十字架につけられたイエスです。私たちは生涯掛けてこの十字架につけられたキリストを通して癒やされていくのです[12]。その姿に、私たちは罪を示されるとともに、ここまでして私たちとともに苦しんでくださる愛を示されないでしょうか[13]。

 キリスト教は、十字架につけられた(ままの)キリストの宣教です。
 一つ、聖書はイエスの苦しみにもまして、人間の冷たさ、残酷さを浮き彫りにします。それは神の赦しも憐れみも見えず、イエスや誰かを十字架にかけて笑う罪です。
 二つ、「イエスは王」というテーマの頂点がこの苦しみ罵られ、情けなくも助けて貰い、裸にされた姿です。しかしそれこそ、徹底的に低くなることを厭わない神の子の方法でした。
 三つ、この傷ついた主が私たちを癒やされます。私たちに必要なのは、罪人が罰せられることでも、誰かを罰して鬱憤を晴らすことでもありません。罪のもたらす悲惨さが十分に味わわれ、嘆かれて、傷が癒やされるために露わにされる以外ありません。そのために、キリストが来られました。私たちの苦しみを知り、私たちの罪に傷つけられる人々とともに傷つかれることによって、私たちを癒やし、罪のあり方から救い出されます。
 そのために今も主は苦しみを厭わず、私たちを運び続けてくださるのです。[14]

Ⅰペテロ二24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

「十字架につけられた主よ。あなたの力を十字架に見ることが出来るよう、私たちの目を開いてください。裸の王として笑われた主こそ本当の王です。私たちを罪から救い、神の子どもとし、神の国をもたらしてくださる主です。愚かな思い上がりから救って、目を開いてください。人を笑い、貶める思いを覆して、罪を嘆いて恵みへと救う御心を教えてください。十字架も私たちをも恥じず、喜んで負われたあなたの深い御心のままに、私たちを新しくしてください」

脚注:

[1] 29、37、42。他の多くの語が、ここだけなのに対して「王バシリュース」は、マタイに22回も繰り返されるキーワードです。(マルコ12,ルカ11、ヨハネ16)

[2] 35節で、兵士は「くじを引いてその衣を分けた」とあります。ヨハネの福音書でははっきりと「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。」と伝えます(19章23節)。つまり、十字架の主は裸でした。これは当時の十字架刑の通例で、肉体の激痛もさることながら、裸、さらしもの、放っておかれる精神的苦痛こそ、十字架刑の特徴とも言われます。イエスを描く十字架の多くの絵は気が引けて、イエスの腰はどうにか覆っていますが、実際は真っ裸だったのです。文字通り「裸の王さま」、あのお話し以上に本当に「裸の王さま」だったのです。

[3] マントは薄汚れたものでしょうし、太くて長い棘のある茨をわざわざ編んだ冠も、葦の棒も、虐めでしかありません。

[4] 「使徒の働き」13章1節に「ニゲルと呼ばれているシメオン」が、アンテオケ教会の主要メンバーの一人として登場します。この「シメオン」と、クレネ人シモンが同一人物ではないか、という読み方も可能です(断言は誰にも出来ません)。それはともかく、「ニゲル(ニグロ≒黒人)」と呼ばれるとある通り、肌の色が違うことは、当時からも大きな差別だったのでしょう。ここでも、黒人であったシモンを、兵士たちがイエスの十字架を担う役割に無理やりあてがったのは、人種への偏見・蔑視であったことは筋が通ります。

[5] キリストの救いは完全だ。しかし同時に、クレネ人シモンにも助けられた十字架でもある。私たちの助けを必要とはされないが、私たちの働きもそこに関わり、私たちも巻き込まれて、キリストのわざは完成されるのだ。コロサイ書1章24節「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」という大胆ないい方さえ、パウロはしています。人の労苦は、キリストの苦しみにあずかり、確かな役を果たすことです。クレネ人シモンはそのような人の苦難の一面を思わせてくれます。そして、巻き込まれることによって、彼は恐らく、後にキリスト者となりました。だからこそ、名前が伝えられているのでしょう。

[6] Ⅰコリント1章23~24節。同様の表現は、ガラテヤ書3章1節「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」にあります。文語訳では「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」と明確です。

[7] 昨年召天された、日本長老教会の教師、故村瀬俊夫氏が、この言葉を最初に教えてくれた恩師です。立川福音自由教会のHPで、同氏と「十字架につけられたままのキリスト」のことが触れられていたので、以下、引用します。「村瀬俊夫先生は、ガラテヤ3章1節の文語訳の「愚かなるかな哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ」という表現を見て、キリスト理解が変わったと言っておられました。それは、既に復活されたキリストが、同時に今も、「十字架につけられたままである」という途方もない逆説です。私たちはあまりにも働きの成果のようなもの(栄誉)に目が向かって、弱さや苦しみ(十字架)の中にある恵みを忘れてしまいがちです。しかし、キリストの苦しみは今も続いており、それによって世界が平和の完成へと導かれているのです。ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられたままでいるべきなのです。それは、この世的には恥と敗北ですが、そこに真の神の力が働きます。パウロはキリストについて、「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱ13:4)という不思議なことを言っています。十字架につけられたままのキリストの「弱さ」こそが、弱肉強食の世界秩序を変える鍵なのです。私たちも自分の能力や力を誇るのではなく、私の中に生きておられるその方によって生きるのです。「全能の神を信じているのに、どうして、こんな目に会ってしまうの・・・」というのは人情としてはわかりますが、聖書の物語からしたら「愚問」です。私たちはキリストとも共に苦しむために召されたのだからです。」ゼパニア2章4節〜3章20節「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ……」

[8] 黙示録でもキリストは「ほふられたと見える小羊」として登場します。5章6節(また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。)、12(彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」)

[9] ここだけではありません。このマタイの記事には、旧約聖書の言葉が鏤められています。彼らがぶどう酒を飲ませたこと、衣をくじ引きしたこと、罪人と並べたこと、頭を振りながら嘲ったこと、「神のお気に入りだろう」とあざ笑ったこと…。これらは詩篇22篇(7 私を見る者はみな 私を嘲ります。 口をとがらせ 頭を振ります。8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。 主に救い出してもらえ。 彼のお気に入りなのだから。」、18 彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。など)や69篇(21 彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました。)、イザヤ書53章(3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。)など、旧約の昔から神が語っていた、冷たく残酷な人間社会の一面です。そうした人間の冷たく、壊れた現実を掬い取り、なめ尽くされるイエスこそ、王、キリストなのです。

[10] 40~43節の人々の言葉、「もし神の子なら、自分を救え」は、最初の四章でサタンが荒野の誘惑でイエスに再三呼びかけた誘惑と通じます。あの時もここでも、神の子ならその力を見せてみろ、もっと楽な道、自分を救う道を選ばないなんて愚かだ、と言う声が付きまといました。

[11] また、今ここでも、「イエスが十字架から降りようと思えば降りられたのだ。しかし、私たちのために十字架に留まってくださったのだ」と言ったところで、その「申し訳なさ」から私たちのうちに生じる思いも、イエスが私たちのうちに造ろうとする信仰とは全く別物です。イエスは、力・栄光によって威圧する神ではなく、無力・無防備さ・裸によって私たちに近づかれることで、初めて生まれる関係、すなわち、愛を求められるお方です。恩着せがましい神ではなく、本当に惜しみない神です。

[12] 英語で苦しみをpassionパッションと言いますが、その派生語が「ともにcon苦しむpassion」から来たコンパッション(思いやり、あわれみ)です。特にキリストの受難はthe Passionと言いますが、それはthe Compassionとも呼べる、私たちとともに苦しむ、あわれみの受難でした。正確には、ラテン語でcompatioの過去分詞から、英語になったもの、だそうです。

[13] その変化がここにも見られます。36節はなぜわざわざ書かれたのでしょう。一つは、これも詩篇22篇7節とダブらせるためでしょう。もう一つは、54節への伏線です。イエスを見張っていたこの兵士たちが、十字架にかけらたイエスとその後の出来事を見て「この方は本当に神の子であった」と言います。復活を見て、ではなく、十字架につけられたキリストを見て、「この方は神の子だった」という告白をしたのです。もう一人は、クレネ人シモンです。わざわざ名前が挙げられるのは、後に彼がキリスト者となり、あの十字架を担ったのは私ですと知られたからでしょう。彼は決してイエスの十字架の贖いを助けたわけではありません。しかし、シモンが十字架を運んだことは、その時は無理矢理な災難としか思えなくても、確かにそれはイエスとの出会いとなり、苦しみがイエスとともに苦しむ新しい意味を持つ始まりとなりました。

[14] このテーマに関して、今週いただいたのが、上沼昌雄氏の記事「ウイークリー瞑想「福音派はニーチェと無関係ではないのか?」2022年2月7日(月)」でした。お許しをいただいていないので、全文の転記は出来ませんが、「私たちが如何にだめなものであるのかを強調して、神の恵みを説くやり方です。私たちの罪意識を駆り立てて、キリストの十字架による救いを説くやり方です。その背後にはニーチェが指摘するように、どこかでどうにもならない自分の方がよいのだという思いが動いていると言えます。それゆえに神が負い目を取り除いてくれるといういやらしい思いです。それに対してニーチェは嫌悪感を持っています。しかし2千年の教会にとって当たり前のことになっています。 さらに信仰を持って一生懸命にやっているのに実際には惨めな思いに苛まれていて、どこかで神に対しての怒りを積み重ねていることがあります。表面的にはクリスチャンらしく寛容に振る舞っているのですが、思い通りに行かないで後悔と反感を内側に深く抱えているのです。ルサンチマンの感情です。そのようなクリスチャンの働き人の姿を結構身近に感じます。どこかで自分のことのように思わされます。ニーチェの批判するキリスト教が自分のうちに宿っているのです。」という指摘は、熟考する必要があります。

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