聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二三章50~56節「再び、飼葉桶へ」

2015-12-30 20:27:23 | ルカ

2015/12/27 ルカ二三章50~56節「再び、飼葉桶へ」

 

 アドベント、クリスマスを挟んで、お休みしていました、ルカの福音書の講解に戻ります。けれどもタイトルは「再び、飼葉桶」。クリスマスが続いているのか、何か間違えたのではないかとか心配された方もいるかもしれません。クリスマスに読まれますキリストの誕生は、

ルカ二7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

とあります。この飼葉桶とは、よく木で造られたおしゃれで、赤ちゃんを寝かせるのに打って付けの箱として描かれますが、少し前から民俗学が進んだ結果、当時の飼葉桶はもっと粗末に壁に掘った穴のようなものだ、と言われています。家畜用に餌を入れておけばいいのですから、石壁をくりぬいて飼葉を突っ込んでいたようです。産まれたばかりのイエスは、布に包(くる)まれて、冷たい石壁の横穴に置かれました。そう考えますと、今日の二三章、十字架の上で最後の息を吐き出されたイエスのからだを、アリマタヤのヨセフがピラトに許可を得て、

二三53それから、イエスを取り下ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。

とあるのが、重ならないでしょうか。産まれたばかりのイエスも、十字架で死んだイエスのからだも、ともに布に包まれて、岩に掘られた穴に横たえられました。

 教会の初期から、イエスの十字架の死を受け入れられない人々は多くいました。勿論、キリストを信じない人々はそうでした[1]。しかし教会の中にも、主イエスが普通に死なれたとは思いたくない人々が多くいました。極端なのは、26節で出て来た

「クレネ人シモン」

が実はイエスと入れ替わって、十字架に掛けられたのはシモンであって、イエスは十字架に苦しんだりせずに見えない所で人々を見て笑っていたのだ、という考えです。これは「グノーシス主義」と呼ばれる異端でしたが、しかし、この異端に魅力を感じて、流されたキリスト者が非常に多かったのです。初代教会最大の危機となるほど説得力があったのです。それは否定されたとしても、キリストの死の事実と復活の勝利を強調して、その間の死体となって葬られたキリストには、あまり目を向けたくない人は未だに多いでしょう。死んだけれどもよみがえった。それは事実です。でも、その間に、ここに書かれ、多くの画家たちが描いてきた通り、十字架に垂れ下がったキリストがおられました。手足はダランと垂れ下がり、顎はガクンと垂れて、瞳孔も肛門も弛緩して、本当に死なれたのです。アリマタヤのヨセフに取り下ろしてもらわなければならず、布に包まれて葬られ、日曜の朝まであった亡骸もキリストのお姿でした。布に包まれ、そのままでは臭くなるので、香料と香油をタップリと塗ってもらう必要のある、神々しさの欠片もない、普通の死体となったのです[2]

 しかし、人間はそういうふうには考えたがりません。映画の「ベンハー」は、十字架のキリストの血がベンハーの母と妹二人の重い病気を癒やした奇蹟をクライマックスにします。キリストの体には不思議な力があったというドラマの方が、私たちはホッとするのです。ヨセフがキリストの体を取り下ろしている時に病気が治ったとか、ヨセフの涙がキリストに零れた時に、キリストがよみがえったとか、何とかそこに劇的な力を見てとりたい。現代でも、「クリスマスの奇蹟」とか「愛の力が奇蹟を起こした」とか、そんな話が次々と産まれます。その裏には、私たち自身、死や無力になりたくない恐れがあります。信仰においても「祈りの力」「信仰の奇蹟」といった特別な物語に憧れています。でも自分の身の回りにはそういう奇蹟が見られないなら、幻滅や虚しさを抱えることになります。また、神がおられて、イエスが私を愛しておられても、自分の生活、この一年の歩み、周囲の状況などに、神が働いてくださらないのは、自分の信仰に問題があるからだと思い込んでいる方もいるかもしれません。

 イエスが来られるとはそのようなことではありませんでした。本当に人となり、マリヤの胎に宿って産まれ、神童ぶりなど発揮せずに、布に包まれて寝かされました。そして、その十字架の死にご自身を生け贄として差し出すという最大の御業に命を捧げられた後も、特別な余韻や奇蹟の花を咲かせることはなさらず、無力なまま、助けられて取り下ろしてもらって、布に包まれて、墓に納められたのです。そして、この金曜日の日没から、日曜の夜明けまで、キリストは本当に死なれたのでした[3]。そんな惨めで格好悪いのはイヤだなぁなどと言われず、それもまた人間の姿として、マリヤやヨセフの世話にご自身をすっかりお委ねになったのです。

 しかし、そのアリマタヤのヨセフという人の行動は光っています。彼は、ユダヤの最高議会の議員で、立派な正しい人でした[4]。彼は

「神の国を待ち望んでいた」

人で、議会がイエスを逮捕し処刑しようとした動きには同意していませんでした[5]。同意はしていませんでしたが、反対したとも記録されていません。欠席して、棄権したのでしょう。彼のように、立派で正しいけれども社会的な地位のある人は、自分の地位を捨ててまで正しい選択をすることは難しく、何とか責任を回避したり、欠席したり、「同意はしなかったんだ」と言い訳するのが関の山となりがちです。イエスご自身が、ハッキリ仰ったのです。

十八24「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 しかし、この時ヨセフが立ち上がりました。男の弟子たちが誰もおらず、女性たちも遠くから見るだけの中、彼はピラトに下げ渡しを願い出ました。そして、召使いなどもいたでしょうに、自らが血と汗と排泄物で汚れたイエスの体を取り下ろし、布に包み、自分の墓に葬ったのです[6]。それは、彼がただイエスを愛して、敬ったからですね。復活を信じていたからでもないし、期待したからではありません。奇蹟や御利益を当て込んだからでもありません。むしろ、この行動で彼はすべてを棒に振ったかもしれないのです。それでも、彼は、損得とか、御利益とか賞賛とか、そんなことではなく、ただイエスを愛し敬うから、行動したのです。これは決して、ヨセフ個人の立派さや人徳のせいではありません。むしろ今まで黙っていたのに、この最悪のタイミングで行動を起こしたことは、説明がつきません。

十八27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 イエスの死は、腰の重かったヨセフを変えました。イエスご自身は完全に死んで、栄光の欠片も見られませんでしたが、そのイエスを丁重に葬ろうと行動したヨセフの姿に、神の御業があります。そのヨセフの姿も私たちへの光です。イエスが、飼葉桶から始まり墓に横たえられる生涯にまで、ご自身を捧げてくださった、それも私たちへの光です。人が弱く、惨めで、無意味に思える時があります。自分もそういう所を通ります。でも、そんな惨めな思いをせずに済ませるより、むしろ、その小さな存在が尊ばれ、大切にされ、喜ばれ、そのためには自分の見栄や地位も擲(なげう)つような思いへと、造り変えていくことに、神の力の醍醐味があるのです。

 

「主よ。あなたの愛、最善のご計画、何一つ無駄のない導き、失敗をも益へと用いて下さる御力に、縋って年の瀬を迎えています。様々なことで心が弱くなる時、何も出来ない時、そこでも自分を差し出すことが出来ますように。この年の歩みを振り返り、新しい年に踏み出す今、どうぞ主を信じる者の喜びと平安と勇気とを、力強く与えて、栄光の朝までお導きください」



[1]Ⅰコリント一23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」 使徒の働きでは、ユダヤ人が、「十字架につけられたキリスト」などは神への冒涜であるとしてつまずき、ギリシヤ人が「死者の復活」を聞くとあざ笑って帰って行ったことが記されています。

[2] ルカでは56節で用意された「香料と香油」は、二四1で女たちが持って墓には行くものの、その時にはすでにキリストは復活されていたので、塗ることはなかったという筋書きになっています。しかし、ヨハネ十九39では「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼ら[アリマタヤのヨセフとニコデモ]はイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」と伝えています。これは、相当な高貴な埋葬方法でした。

[3] 「イエスの墓の周りには、深い休息がありました。世界の創造を成し遂げた神は七日目に休息なさいました。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世2・3)とあります。/ イエスは人々の罪の贖いを成し遂げた週の七日目に、御父から託された業をすべて成就し、墓で休息なさいました。悲しみのあまり打ちひしがれた女たちも、イエスとともに休息しました。歴史上のあらゆる一日の中で、この聖なる土曜日-大きな石で墓をふさがれ、いえすの体が沈黙と暗闇の中に横たわった土曜日(マルコ15・46参照)-は、神が独り静まった日です。一言の言葉も発せず、何の宣言もなさらない日でした。すべてを創造した神の言が、地の暗闇の中に横たえられ、葬られました。この聖なる土曜日はあらゆる日の中で、最も静寂に包まれた日です。/ この静けさが、最初の契約と第二の契約とを、イスラエルの民といまだ知られざる世界とを、神殿と聖霊による新しい礼拝とを、血の生けにえとパンとぶどう酒の献げ物とを、律法と福音とを、結びつけます。この聖なる沈黙は、かつてこの世界が知ることのなかった、最も実り豊かな沈黙です。この沈黙の底から、再び言葉が発せられ、すべてが新しくなります。イエスが沈黙し、独りになって休息したことから、神について多くのことが学べます。それは、多忙ということのない、その徴候さえもない、何もしないという休息です。神の休息は、心の深い休息であって、たとえ死の勢力に取り囲まれようと、それを耐え抜くことができるほどの休息です。この休息は、隠された、ほとんど目に触れない私たちの内なるものが、いつ、どのようにかは定かでないにしても、豊かな実を結ぶという希望を与えてくれます。」『ナウエンと読む福音書』137-138ページ。

[4] アリマタヤのヨセフについては、「有力な議員」(マルコ十五43)、「金持ちで…彼もイエスの弟子になっていた」(マタイ二七57)、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ十九38)とあります。また、この墓についてはヨセフが用意していた墓(「まだだれも葬られたことのない新しい墓」(ヨハネ十九41)であり、「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入り口には大きな石をころがしかけて帰った」(マタイ二七60))でした。

[5] 正しく、神を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフは、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」シメオンと通じます(二25)。シメオンも、幼子イエスを腕に抱いて、神を誉め称えました。両者とも、神を待ち望み、また、それとは相容れない小さく無力なキリストを自分の腕に抱いたのでした。二38も参照。

[6] この「だれも葬ったことのない」は、ロバの子が「まだだれも乗ったことのない」(ルカ十九30)との共通性があるでしょう。それはもちろん、「まだ男の人を知りませんのに」(ルカ一34)マリヤがイエスの母として選ばれたこととも通じています。それは、聖さ、聖別、このために取り分けられていた特別性を表します。

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問100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

2015-12-30 20:11:34 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/27 ウ小教理問答100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

 

 今日から「主の祈り」について学んで行きます。主の祈りについて学びながら、祈りについて学びます。祈りについて学ぶとは、私たちと神との関係を知る事ですし、神とはどんなお方か、私たちは今どういう者であり、何を願い、何を求めて生きるか、ということを知っていくことです。

 「主の祈り」は、主イエス・キリストが、弟子たちに教えられた祈りです。イエスの祈りを聞いていて、弟子たちは、イエスの神に対する祈りに、とても強い魅力を感じずにはおれなかったようです。弟子たちはイエスに、

「私たちにも祈りを教えて下さい」

と尋ねた、とルカの福音書11章に書かれています。そこで主イエスが教えられたのが、「主の祈り」でした。イエスが祈られた祈り、ではなくて、イエスが弟子たちに教えてくださったので「主の祈り」なのです。そしてこの「主の祈り」を通して、弟子たちが、また私たちが、イエスによって教えられなければ決して持てなかったような、新しい神との関係が育まれるのです。ですから、「主の祈り」を通して、私たちが全く新しく、深い視点を持って生きることを、今日からの学びに期待したいのです。今日はまず、主の祈りの最初の言葉(序文)について学びましょう。

問100 主の祈りの序文は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの序文、すなわち「天にいます私たちの父よ」は私たちに、私たちを助けることができ、また喜んでそうしてくださる神に、子どもが父親に対してするように、全く聖なる畏敬と信頼をもって近づくように、また私たちが、他の人々と共に、そして他の人々のために、祈るべきである、と教えています。

 「天にいます私たちの父よ」。こうイエスは祈るように教えられました。先ほど読んだローマ書8章では、パウロがこう言っていましたね。

ローマ八15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 イエスによる福音は、ただ神を「父」と呼ぶことを教えただけではありません。イエスは私たちに御霊を与えてくださいました。その御霊は、私たちを神の子どもとしてくださり、神を

「アバ、父」

と呼ばせてくださり、私たちが神の子どもであることを証言してくださる、というのです。「アバ」というのは、ヘブル人の子どもたちが舌足らずなうちから、お父さんを呼ぶ言い方です。日本語だと「パパ」、英語だと「ダディ」に近いでしょう。それは、本当に親しい言い方です。イエスは、神と私たちとを、そのように親しい絆で結びつけてくださいました。

 これは、当時のユダヤ教の考えでは、あり得ないことでした。神を「アバ」と呼ぶほど親しく馴れ馴れしくするだなんて、思い上がりも甚だしいと考えられたのです。実際、旧約聖書にはそのような呼び方は殆ど出て来ません。しかし、それにはそれで理由がありました。旧約聖書の時代、周囲の民族の宗教では、神を「父」と呼んでいたそうです。そこには馴れ馴れしさ-神を引き下げ、自分たちの思い通りに操ろうという自己中心の宗教理解-がありました。これに対して聖書は、神を、天地を造られた大いなる主として、恐れ、心から礼拝し、私たちこそ神の御心通りに従うべきことを強調します。その上で、イエスは、その「大いなる神」と私たちを、父と子という親しい関係で結び合わせてくださいました。そのために、神の子であるイエスご自身が私たちのようになってくださり、御霊を遣わして、その絆を与えてくださったのです。ですから、神を親しく「アバ、父」(お父さん)と呼べることが、決して軽々しいことではなく、神の子イエスの尊い御業によって与えられた特権であることを忘れてはなりません。

 神が神である故に、私たちは限りない恐れ、礼拝の念を忘れてはいけません。同時に、その神は本当に私たちの父となってくださったのですから、遠慮しすぎたり、畏まってカタくなったりする必要もありません。神は

天にいます私たちの父」

であり

「天にいます私たちの父

です。この両方をいつも忘れずにいましょう。逆説的なことを言えば、私たちが自分のお父さんを考えない方がいいのです。いいお父さんでも、完璧ではありません。そして、お父さんやお母さんとの関係が上手くいかなくなっている人も多くいます。そうした時、神が「天のお父さん」と言われても、困ってしまったり、その自分の両親との関係が限界になって、ぎこちなく考えてしまったりするのです。

 神は、人間の親とは違います。この方は、完全に私たちを知っておられます。また、私たちを愛しておられます。子どもの心をよく分かってあげられない人間ではありませんし、よかれと思って間違ったことをしてしまう親でもありません。また、自分自身に恐れや傷や自己中心があって、子どもを操作しようとすることも、神にはありません。ですから、ローマ書では、私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」と言っていました。この神との親子関係には、恐怖はありません。本当に恐れる事なく、神を「天のお父さん」と呼んで良いのです。しかも、そう祈ることから始めて良いのです。なぜなら、そう呼べるために必要なことは、すべて主イエスがもう果たしてくださったからです。私たちが、あれこれ準備したりしなくても、「天のお父さん」と呼んで良いのです。

 イエスが「主の祈り」を教えられたことを記す、もう一つのマタイ六章で祈る時は、会堂に出かけたり、みんなに見せるために通りに立ったりせず、家の奥の部屋で戸を閉めて祈りなさい、と言われています。なぜなら、天の父は隠れた所におられるからだ、と言われます。

マタイ六6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神との関係は、私たちの生活の隠れた、秘かな思いから始まるのです。装ったり、取り繕ったりしない、私たちの心の深い所まで、恐ろしいほどに知っておられる神が、私たちを愛し、私たちの祈りを全て聞き、私たちが願うよりももっと素晴らしく、深く、最善のご計画で応えてくださるのです。

 「天にいます私たちの父よ」。この言葉から、神への最大の畏敬と、最高の信頼をまず持たせて戴いて、祈りを始めましょう。自分のためだけでなく「私たち」と周りにも思いを馳せながら、天を仰いで、高い志をもって、祈りを捧げさせていただきましょう。

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ハイデルベルク信仰問答35-36「人となられた神」

2015-12-20 20:19:04 | クリスマス

2015/12/20 ハイデルベルク信仰問答35-36「人となられた神」

 

 今日はクリスマス礼拝と祝会をしました。夕拝でも、クリスマスのお話しをしましょう。いつものウェストミンスター小教理問答ではなく、もう一つの「ハイデルベルク信仰問答」を用いて、お話しします。この信仰問答は、礼拝でいつも読んでいる「使徒信条」を辿って解説をします。そこで、こう問います。

問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とはどういう意味ですか。

答 永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。それは、ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。

 ここには、三つのことを見て取れます。一つは主イエスが、

「永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、あり続けるお方」

である、ということです。神ですから、世界を作られた世界よりも偉大なお方であり、大いなるお方です。そのお方は、神であるのを止めることはありません。人間として生まれたら、神を止めてしまうとか、神として三流や身分が下がってしまう、ということもありません。でも、その神なるイエスが、処女マリヤの胎に宿ったのです。

 二つ目は主イエスが、マリヤの肉に宿り、血を受け継いで、

「まことの人間性」

を身にまとわれた-完全な人間となられた、ということです。ダビデの子孫という血筋を受け継いだ、正真正銘、ひとりの人間となられました。罪を別にして、あらゆる点で、兄弟たちと等しくなられました。イエスは神の子だから、生まれて直ぐにお喋りできたとか、歩いたり走ったり出来たとか、そんな尋常でないことはありませんでした。オムツもいらない、自分で下の世話ぐらい出来ます、なんてこともありませんでした。母マリヤはイエスを布でくるんで飼葉桶に寝かせた、とありますが、イエスはそうされるままになっていましたし、そうしてお世話をしてもらう、普通の赤ちゃんとしてお生まれになったのです。完全な神でありながら、完全な人間であられました。これは、私たちの理解を遥かに越えていますが、聖書はそう言っています。

 三つ目はそれが

「聖霊のお働きによった」

ということです。聖霊は、三位一体の神のおひとりですが、その聖霊によって、神であるお方が、処女マリヤの胎に宿りました。私たちの理解を超えていますが、聖霊なる神が、神の偉大な力によって、キリストをマリヤの胎に宿したのです。

 マリヤが処女である事にひっかかって、「まだ結婚も男女の関係もなかった処女が身籠もるだなんて信じられない」という方もいます。でも、面白いことに、ここではそこは強調しません。それよりも、神であるお方が、処女マリヤの胎に宿った、と言う方が遥かに大事ですし、信じがたい奇蹟だからです。処女が妊娠することは、医学が発展すれば再現できるかもしれませんが、神が人となることは絶対に説明も再現も出来ません。この出来事を受け入れるのであれば、処女マリヤがイエスを宿したことなど疑うに足りません。そして、この聖霊のお働きによったことが、イエスがただ人間となられただけでなくて、それが聖なる御霊の聖なる御業であり、キリストが罪なく聖なるお方としておうまれくださったことに繋がるのです。

 「罪を別にして」とあるのを読むと、「人間は罪を犯す者なのだから、罪を犯さないんじゃ、本当の人間ではないんじゃないか」と言う反論もあるでしょう。けれども、本来の人間は、神に造られた時に、罪は犯さないでよかったんです。人間性とは、罪なく、聖い心で神とともに歩み、神の栄光を現すことでした。でも、人間が神に背いた時に罪が入って、本来の人間らしさを損なってしまったのですね。イエスが人間となられた時、その本来の人間のあり方を完全に身にまとわれましたので、罪はなかったのです。イエスに罪がないのは、人間らしさを欠いていることではありません。むしろ、イエスこそ本当の人間らしくあられて、私たちの方が、罪によって、人間らしくない、間違った性質を持ってしまっているのですね。

 マリヤがイエスを宿した時、婚約者であったヨセフは、恐れて、マリヤと別れようとしました。自分など、そんな聖霊のお働きに相応しくないと思ったのでしょう。神に選ばれたマリヤがしようとしていることに、自分なんかは身を引くべきだと思って、秘かに離縁しようとしたのです。しかし、夢に現れた主の御使いは、

マタイ一20…「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 ヨセフはこの夢でマリヤと別れることを止めて、妻を迎え入れ、イエスの父としての務めを果たしました。それは本当に不思議な体験だったでしょう。自分が父親として、世話をし、教え、育てる男の子が、同時に、自分も含めた神の民をその罪から救ってくださるお方だ、とも信じると言うのですから。しかし、まさにそれこそは、ヨセフに現されたイエスのお姿です。

 神の子、救い主キリストが、私たちを救うためにこそ、本当に私たちと同じ人間となられて、この世界に来られました。人間の理解の遠く及ばない事ですが、完全な、人間として、胎に宿り、生まれ、お世話をされながら、歩まれ、最後は死なれました。だからこそ、私たちも、母の胎にあるときから死に至るまで、全ての罪をキリストが覆ってくださり、救ってくださると約束されています。

問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。

答 この方が私たちの仲保者であられ、ご自身の無罪性と完全なきよさとによって、母の胎にいる時からのわたしの罪を、神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。

 100%神で、100%人となられたキリストは、私たちを神と結びつけてくださる仲保者です。私たちが母の胎から死に至るまで、すべての時に、聖なる方、私たちの罪を覆う方として、ともにいてくださいます。私たちに、聖なる救いが届けられるために、イエスは本当に私たちの所まで来て下さったのです。キリストがお生まれになったクリスマスは、この出来事なのです。キリストをお迎えした人生を歩ませていただきましょう。

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マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」 クリスマス礼拝

2015-12-20 20:15:34 | クリスマス

2015/12/20 マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」

 

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りです。聖書には、イエス・キリストの誕生を巡る出来事が、主(おも)にマタイの福音書とルカの福音書に伝えられています。しかし、直接、イエス・キリストの誕生がどのようなものだったのかは、全く記録していません。

「男子の初子を産んだ」[1]

「子どもが生まれるまで」

「お生まれになったとき」[2]

と実にあっさり記しています。むしろ、その周りに集まっていた人の様子、その人たちにとって、キリストの誕生がどのような出来事だったのか、あるいはキリストの誕生にどのような応答をしたのか、ということから、クリスマスの意味を浮かび上がらせます。そして、そこで御使いが告げる言葉として四回繰り返されているのが、今日のマタイ一20にも出て来ました、

「恐れないで」(恐れるな)

という言葉です[3]。マタイは、この言葉をここ以外に八回、合わせて全部で九回繰り返します[4]。クリスマスから復活まで何度も「恐れてはならない」と言われるのです。

 では、一体、どんな恐れを言っているのでしょうか。今日は、このマタイ一章のヨセフの姿に注目してみましょう。ヨセフの恐れとは何だったのでしょうか。

 この時ヨセフは婚約者であったマリヤが、聖霊によって身籠もったために、彼女を離縁することを決心した所でした。当時の文化では、婚約は結婚と同じ重みがありました。もしこの時、女性が他の誰かと関係を持ったなら、それは不貞を働いたと見做されて、石打にされることになっていました。ですがヨセフはそうはせず、秘かに離縁しようとした、とあります[5]

 これは私の理解ですが、18節で

「聖霊によって身重になったことがわかった」

とあるのですから、ヨセフは、マリヤが身重になったのが聖霊によってだと、どうにかこうにか分かったのです。俄(にわか)には信じがたかったでしょうが、ヨセフも認めざるを得ず、受け入れたのです[6]。でも、それを何とか信じられたとして、それでも(というか、それならなおさら)ヨセフはそんな前代未聞の器として神が選ばれたマリヤとその奇跡の子どもの父親になるには自分は相応しくないと思った。だから離縁しようとしたのです。彼女たちを晒し者にしないよう、秘かに去らせる、それが自分の精一杯だと思ったのです。それが、彼としての精一杯の

「正しさ」

でした。そこに主の使いが夢に現れて、「恐れないで、妻を迎えよ」と言いました。御使いが見抜いていたのは、ヨセフの心の奥深くにあった本当の動機が「恐れ」だったことです。

 この後もマタイは、人の恐れを取り上げます。それは嵐の湖で乗っていた船が沈みそうになった時の恐れ[7]、幽霊を見たと思った時の恐れ、人から嘲られたり迫害されたりすることへの恐れ、神に滅ぼされるのではないかという恐れ、様々なことが原因です。でも、その根っこにあるのは、死とか禍とか人からの拒絶によって、自分が孤独になることへの「恐れ」ではないでしょうか。何が起きようとも、それでも自分を支えてくれる誰かがいると思えたら、痛みや反対だって我慢できます。でも、結局最後には、自分を支え、愛し、ともにいてくれる人なんて誰もいないんじゃないか、という孤独が私たちの中には根強くあるのです。

 『舟の右側』という雑誌に日本人牧師が夫婦関係についての連載を書いています。そこで、夫と妻の衝突の根っこにある事は

「関係が壊れていく恐れ」

と言えるのではないか、と書いておられました。これはとても鋭い洞察だと思っています[8]。関係が崩れ、独りになる、という「恐れ」です。旧約聖書に出て来るヨブも、神を恐れる正しい人でした。全財産も子どもたちも災害によって奪われ、自分の身も皮膚病に冒されてボロボロになっても、彼は神を呪うことはありませんでした。しかし、そのまま、神から何の答もないまま時間が過ぎた時、彼は、

三20なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。

と嘆きます。結局、無意味なまま生きていかなければならない、生きる事に喜びや意味などないのかもしれない、そういう予感をヨブは持っていた。それをヨブは、

三25私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

と言うのです。所詮、人生は孤独で無意味だ。自分なんてそんなものだ。そういう恐れがヨブにもあり、夫婦という最も人格的な関係でも暴露される。そして、ヨセフの行動にあったのも、自分などが聖霊によって身籠もったマリヤの夫になどなれない、という恐れでした。

 先週見たように、ヨセフに至る歴史は、神の祝福とは裏腹に、罪や反逆を重ねてきた歴史でした。人間の傲慢、暴力、身勝手さ、醜さ、悲しい限界の歴史でした。そして、ヨセフは自分自身の罪や心の闇にも十分気づいていたでしょうし、私たちも、たじろぐでしょう。神が処女マリヤの胎にイエスを宿すことが出来ると信じてはいても、その同じ神が、私たちのうちにもキリストを宿らせる程、私に良いご計画を持っておられ、私を愛され、私を変えて下さると信じるのはまた別、と思ってしまうのです。ヨセフも、そうたじろいで離縁を決めたのです。でもその判断にさえ、ヨセフは自信がなかったのです[9]。でもそのヨセフに、御使いは言いました。

20…「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 罪があるから相応しくない。それが人間の「正しさ」です。しかし、神の「聖」なる霊が始められたのは、マリヤの胎に産まれるイエスによって、神がご自分の民を罪から救ってくださる、という業でした。22、23節にはこの出来事の意味が、預言者イザヤに与えられた言葉の成就であったと言われています。そこに約束されていたのは、

「神は私たちとともにおられる」

と名乗って下さる方の誕生です。神は私たちとともにおられる。マリヤの胎に宿るほどに、本当に私たちとともにいてくださるのです。この神から離れた人間は、いつも深い孤独を抱えています。その穴を埋めるために、色々な努力をして誤魔化したがります[10]。でもどこかでそれがいつか終わるとも分かっています。孤独から目をそらしているのは、それが怖いからです。でも、神は私たちとともにいる方です。

 御子イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちとともにおられることのしるしでした。神が、私たちとともにいて、恐れを取り除いてくださるのです。何があっても、神が私たちの手をシッカリ握って離さないのです。何があろうと、永遠の先までも、飽きることなく、私たちと喜んで共におられて、私たちに愛を注いでくださるのです。その愛によって、私たちの心を満たし、深く潤してくださいます。神以外のものにしがみつき自分を満たそうとしたり、嘘やその場限りの虚しい物で自分を慰めたりするような生き方も止めさせてくださるのです。ヨセフにとってのマリヤの懐妊が青天の霹靂であったように、私たちの生活にも、思いがけないこと、計画を水の泡にする出来事、喪失や不幸があるとしても、その事を通して、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいる[11]」と語っておられるのです。このクリスマスにも、もう一度私たちもヨセフとともに主をお迎えしましょう[12]

 

「恐れるなとの御声を、今日ヨセフとともに聞き、あなた様の尊いご計画を心に迎え入れます。あなた様がともにいてくださることを、どうぞ心の奥深くで、魂が震える程の約束として受け入れさせてください。クリスマスのメッセージが、他ならぬ私たち一人一人のためであり、私たちを変え、新しい神の民を作り出すためであることを信じ、その実現を拝させてください」



[1] ルカ二7。

[2] マタイ二1。

[3] 他に、ルカの一13「こわがることはない」、30、二10「恐れることはありません。」

[4] 十26、28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」、31、十四27「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」、十七7「起きなさい。こわがることはない」、二八5、10。間接的にも、二20、十四30で弟子たちの恐れが取り上げられ、二一26、46、二五25などで敵対者たちの動機が「恐れ」として、描かれています。

[5] 多くの人は、この行動をこう説明します。「ヨセフはマリヤが身重になった事実にたじろいだ。聖霊によって身籠もったとは信じられなかったとしても、彼は正しい人だったので、マリヤを杓子定規に石打にしたり、怒りや不信感、裏切られたという思いでマリヤを責めたりもしなかった。彼は、自分ではない誰かの子を宿したマリヤを、秘かに去らせて、彼女を精一杯守ろうとした。なぜならヨセフは、本当の意味で正しい人だったから」。そういう読み方から教えられることは多くありますが、私は本文のような理解をしています。

[6] これを、20節以下の御使いの夢の啓示によって初めて信じられた、という理論もありますが、マリヤの言葉で信じられなかったのなら、夢で信じられるとは限らないでしょう。

[7] 八26「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」ここでは、デイロスという珍しい語が使われています。

[8] 『舟の右側』2015年11月号、41ページ。自分の親との長い関係での傷や、自分の両親の間にあった問題が、今の妻や夫との間にも重なる。すると、相手のありのままを受け止め合い、安心を与え合う関係が築けずに、力尽くでやろうとか、操作的に相手を変えようとして、却って、関係をますます拗らせてしまう。或いは、今まで理想的な関係で守られてきたとしても、新しい関係でそれが当てはまらない時に、それはそれで、このままではダメになるかも知れない、というネガティブな予想を持つようになります。

[9] ヨセフの精一杯の「正しさ」で、自分の身の程を弁えて、マリヤを去らせる決断をしてもなお、ヨセフの心は迷っていました。しかし、この事に、人間の精一杯の正しさが、猪突猛進の「正義」とは違う、慎みを伴ってこそ健全なものでありうることが見て取れます。マタイ五章~七章の「山上の説教」では、こうした人間的な「義」にまさる、「神の国の義」を持つようにと促されていきます。

[10] 神から離れた人間は、神の愛に代わって自分を支えてくれるものを求めています。名声、社会的な成功、金銭、家庭、健康、若さ、恋人や会社、大きな権力や、実に些細な抵抗で水を差すという満足感、セックスやドラッグやギャンブルでの興奮で、生きる実感を持とうとします。でも、それがいつかは無くなるかも知れないと、どこかで分かってはいます。所詮、いつか自分は独りになる。何もかも失って、後に残った、もう胡麻菓子のきかない自分をそれでもそのまま愛してくれる誰かなどいなくなる時が来る。そのとき人は、自分がしがみついていたモノを取り戻そうとするか、「やっぱり、人生はこんなものだ」と思うか、でしょう。神ご自身に立ち返るのは、ただ神ご自身からの恩寵によらなければできないことです。

[11] イザヤ四一10

[12] マタイだけでなく、ヨセフの言葉はひと言も記録されていません。そこからよく説教されるように、ヨセフの沈黙は、ヨセフの人となり、信仰の美しさ、でもあるかも知れません。しかし、それ以上に、私たちにも、ヨセフとともに、黙って、主の御使いの声そのものに聞くことを促すはずです。ヨセフへの言葉を私たち自身への言葉として聞くのです。聖書の意図は、ヨセフが寡黙だったことのメッセージではなく(男性の寡黙ぶりを美化したり正当化したりするためにヨセフを引き出し、乱用することは完全な勘違いですが)、ヨセフが何をしゃべったか以上に、御使いが何を語ったかであり、それに従ったヨセフにならって、私たちも神のメッセージを受け入れて従うことです。そこで、口を閉ざしているかどうか、は二の次です。

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問99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

2015-12-13 21:49:56 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/13 ウ小教理問答99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

 

 祈りは、私たちが神から恵みを頂く上で欠かせない、そして、素晴らしい手段です。私たちの願い事を、神にお献げすること。神とお話しする事。神との友情を育てる事。神との親しい関係の中に、生きる事。それが、祈りです。では、私たちはどのように祈ったらよいのでしょうか。それが、今日の問99です。

問99 神は、祈りについて私たちを導くため、どのような規範を与えておられますか。

答 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちますが、しかし、導きの特別な規範は、キリストがその弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です。

 この次から、「主の祈り」を丁寧に取り上げて行きますが、今日はまずこの前半の

 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちます…

という言葉に耳を傾けましょう。神は祈りについて私たちを導くための規範として、まずは、聖書全体が役に立つ、というのです。聖書は、直接祈りについて教えていないように見える箇所でも、私たちと神との関係について様々のことを教えてくれます。神がどのように私たちに関わっておられるか、私たちと神との関係が罪によってどのように壊れているのか。そうしたことを丁寧に掘り下げているのですね。それを、私たちが自分たちのあり方に当てはめて考えていくなら、私たちを祈る助けになる、というのです。

 このウェストミンスター小教理問答も、最後に「祈り」についての問答が10回あって終わりになります。これは、とても大事なことです。最後に祈りのことを教えるのは祈りが大事ではないからでしょうか。祈りのことも、おまけして、最後に話しておきましょう、ということでしょうか。いいえ、その逆です。今までの、神について、キリストについて、救いについてお話しして来たことは、私たちを祈りへと導くのです。神様との関係がどのようなものであるか、を気づくなら、それは私たちを祈りへと導かずにはおれません。

 もっと言えば、神ご自身が、私たちに祈ることを求められ、親しい交わりを持ちたいと願っておられる神です。天地万物をお造りになった神は、私たちの神という親しい契約を結ばれました。実の親子の血のつながりよりも強く、永遠の、神の子どもという親子関係に入れてくださいました。それなのに、私たちが祈らなくても気にしないとか、祈りはおまけだとか、そんなはずがあるでしょうか。神は、大いなるお方であると同時に限りなく親しいお方であり、私たちといつもともにおられるお方です。そして、私たちもその神との親しい交わり、つまり祈りを絶えず捧げつつ生きるようにと、私たちを助け、導き、聖書全体を通して、教えてくださっています。

 どうでしょうか。私たちには、神がそのように「私」に関わり、私が祈るならば、喜んで、深く耳を傾けてくださっているお方である、という確信があるでしょうか。「自分が祈ろうと祈るまいと、神は気になさらない」とか「神がそれほど私個人に関心を持っておられるとは思えない」と考えていないでしょうか。そのような思いで祈るなら、祈りそのものが、真剣味や期待を欠いてしまうのも仕方がありません。祈りに身が入らず、口先だけの祈りになってしまうでしょう。あるいは、神が私たちに祈りを求めておられる、という「義務」を果たしておかなければ神のご機嫌を損なうことになる、というような思いで、毎日祈りを欠かさないとしても、そこには「恵みの神」ではなく「真面目で面白みのない神」という、歪められたイメージしかない、ということもあります。ですが、聖書や教理の学びを通して、恵みの神に対する正しいイメージを持つことは、私たちを喜ばしく楽しい祈りへと導いてくれるのですね。しかし、何よりも、聖書そのものにおいて教えられている「祈り」の姿、祈りの言葉、そして、私たちが実際にそのような祈りに教えられていくこと自体が、私たちと神との関係を育んでくれます。

ローマ八26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神の御心に従って、聖徒のためにとりなしてくださるからです。

 これもまた、すばらしい言葉ですね。神の御霊は、弱い私たちを助けてくださいます。よく「自分は信仰が弱いから、祈ってもあんまり力がないけれど、信仰が強い人ほど、祈りに力があり、神もそういう人の祈りに応えてくださる」と言ったり考えたりすることがあります。でも、聖書は、私たちが強くなったら祈りにも応えてくださる、ではなく、弱い私たちだからこそ、御霊が助けてくださるのだ、と言います。そして、信仰が強くなると、祈りも力強くなる、とは言いません。パウロはここで、

…私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、…

と言っています。「どのように祈ったら良いか分からない時があるとしても」ではなくて

どのように祈ったらよいかわからないのですが、

です。パウロがこう言っています。信仰が成長するとは、自分がどのように祈ったら良いか分かるようになる、ではなくて、どのように祈ったら良いのか自分には分からないけれども、その私の願いを、神の御霊が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだ、と確信できるようになっていくことです。そうです、聖書全体が、人間の弱さ、罪によって歪んでしまった、心の闇の深さを描いています。神との関係が本当に偉大で、確かで、素晴らしいことを示しつつ、なお人間はその神を疑ったり罪を犯したりするのに如何に容易いかを、これでもかとばかりに示しています。でもそうやって、神様は、私たちの心の一番奥深くにある思いにまで届いてくださって、神の御霊ご自身が、人間には言い表すことも出来ないほどの呻きでもって、私たちのこのありのままを、天の神の前に届けてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。

 神は偉大で聖く、恵み深く、私たちの祈りを喜ばれる、天の父です。イエスは「主の祈り」を始め、その教えと生き方全体で、祈りの模範を示されました。御霊はこの私たちの祈りや願いをすべて受け止めて、天に届けて下さいます。だから私たちは祈れるのです。祈りこそ、私たちが最も自分らしく、安心していられる、欠かせない時なのです。

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