聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問99-100「ていねいに語る」エレミヤ書4章1-2節

2017-11-26 20:39:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/26 ハ信仰問答99-100「ていねいに語る」エレミヤ書4章1-2節

 十誡の第三の戒めは

「主の御名をみだりに唱えてはならない」

です。神の御名をぞんざいに、ふさわしからぬ唱え方をしてはならない、というのです。私たちも自分の名前が丁寧に呼ばれるなら嬉しいですし、名前でからかわれたりしたらとても悲しいです。人の名前で遊んだり貶めたりすることは、決してしてはいけません。まして、神の御名を軽々しく口にすることは厳重に禁じられるのです。ハイデルベルグ信仰問答です。

問99 第三戒は何を求めていますか。

答 わたしたちが、呪いまたは偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない、ということ、要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いることをしない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と業とによって賛えられるためです。

問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、それをできるだけ阻止したり禁じたりしようとしない人々にも神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。

答 確かにそのとおりです。なぜなら、神の御名の冒涜ほどこの方が激しくお怒りになる罪はないからです。それゆえ、この方はそれを死をもって罰するようにもお命じになりました。

 神の御名を唱える代表的な場合が

「呪いや誓約」

です。つまり

「御名をみだりに唱える」

のよくあるケースが、「神に賭けて誓う」とか「神があなたを罰するだろう」などということ。自分の行為や考えの正しさを裏付けるために、神を持ってくることですね。神の御名を乱用して、自分の正しさを確信する。あるいは、自分の嘘を誤魔化そうとする。あるいは、神の御名を使われたら相手は怯みますから、そうやって自分の思い通りにしよう、相手を言いくるめて、コントロールしよう、ということもあるでしょう。■

 他にも、御名をみだりに使う場合として想定されるのは、軽々しく、馬鹿にするために神を語ることです。英語で「ジーザス」と言っているのが、「イエス様のことかな」と思ったら「しまった」とか「畜生」という使い方がよくされるのです。神さま、というのも、「あらら」とか「ひどい」という時だったりします。こういう言い方(スラング)は当然冒涜です。嫌なことがあった時、自分の名前を叫ばれて笑われるなんて、こんな失礼はありません。神を礼拝する者として、いつも神の御名は大事にしたいのです。

 しかし、そういう極端な分かりやすい場合だけではありません。キリスト者でない人、いわば第一戒からして知らない人が第三戒を守らないのは不思議でもないのです。第一戒と第二戒、神だけを礼拝し、正しい方法で神を礼拝している上で、その神の御名を本当に神に相応しく口にせずに、軽々しく口にしてしまうことがここで言われています。「本当の神だけを礼拝している、自分は聖書の方法で神を礼拝している」と自負する時こそ、その神を礼拝する口と、心における態度がちぐはぐになってしまいやすい自分を省みる必要があるのです。神を礼拝しながら、不平や不満で一杯になっている。神などいないかのように、また、神を小さくつまらなく考えてしまう。そういう心のまま、ただ口先で神を礼拝したり、美しい讃美歌を献げたり、立派そうな祈りを蕩々と唱えたりしても、それは神は喜ばれないのです。また、神が憐れみ深い方だと言いながら、自分の狭く堅苦しい偏った思いで人を裁いて、「そんなことは神様は喜ばれませんよ」などと言うなら、それは間違った熱心でしょう。なぜなら、人はそのような言い方を聞くうちに、神ご自身を誤解し、憎んだり、蔑んだりするのも当然だからです。

 神の御名は、神のすべてが込められた名前です。神のご人格、御性質、神の御業、イエス・キリストの受肉と十字架の死と復活。そのような神のすばらしい御業が詰まっている名前です。神の御名を口にするとき、私たちは、その神の素晴らしさ、偉大さ、正しさ、真実の前に、良い意味で襟を正させられるはずです。それは私たちの普段の言葉も、丁寧に語るように変えずには起きません。軽々しく神を考える反対に、神を味わうことによって、私たちの普段の言葉が、ゆっくり真実を語るように変わるのです。

エレミヤ書四1「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。

 主を知ることは、忌まわしいものを取り除き、真実と公正と義によって誓うこと、互いに祝福し合い、主を誇って生きる、晴れやかな生き方なのです。主は、決してご自身の名前そのものが大事だから、私たちに御名をみだりに唱えるな、と厳しく仰るのではありません。そうでなければ、御名をみだりに唱える人をたちまち滅ぼされたでしょう。しかしイエスはこう仰ったのです。

マタイ十二31ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」

 第三戒を字義通りに延長すればこんな言葉は出て来ません。イエスに逆らう言葉、イエスを冒涜する言葉は極刑だと言われたでしょう。しかし、イエスは天の神への冒涜も、ご自身への冒涜も赦されると言われました。ただ、聖霊が私たちの心に働きかけて、神への信仰を持たせて下さる時、神の御名を知って、神の恵みや正しさを知らされて、自分の生き方も深く新たにされようとするときに、なお拒んで、神の御名に背く生き方をするならば、それは赦されることそのものを拒むことだと警告されました。それは私たちのための注意であって、決してご自身の怒りや脅しではないのです。

 そして事実イエスは、人から罵られ、その名を嘲られながら、黙って十字架に架かりました。イエスはそのような逞しく恵み深いお方でした。この方がおられることを思い起こさせるのが主の御名です。その御名を、噛みしめて唱えましょう。イエスは「主の祈り」で最初に「御名が聖とされますように」祈るよう教えられました。みだりに唱えぬよう、おっかなびっくり、いっそ黙る、ではありません。何よりも素晴らしい名にふさわしく、主がどんなお方で何をしてくださったかを噛みしめ味わい、御名を心から賛美する。です。

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ヨハネの黙示録 二章8-11節「貧しくても富んでいる」

2017-11-26 20:32:30 | 一書説教

2017/11/26 ヨハネの黙示録二章8-11節「貧しくても富んでいる」

1.おとぎ話のような黙示録

 「黙示録」というのは、新約聖書の書かれた紀元一世紀の前後にユダヤで用いられた「黙示文学」というジャンルを差しています。黙示文学の定義もありますが[1]、とても複雑です。今で言う「ダークファンタジー」のような話で、天使や霊的な存在が出て来て、戦ったり、読者を諭したりするのです。社会が不安な「世紀末」と言われる時代には、黙示録からこれから起こる出来事のヒントが黙示録から分かるかのような読み方がなされてきました[2]。まことしやかに「今は世の終わりだ、まもなく戦争や世界の審判が来るのだ」と繰り返されてきました。

 そういう黙示録だからこそ、あまり難しく考えず、変に何かを聞き取ろうなどと気負わず読んでよいのだと思います。それこそ「ダークファンタジー」のつもりで全体を通して読み、その物語全体から感じ取るメッセージを大事にしてほしいのです。黙示録は一世紀の末に書かれました。ヨハネがパトモス島に流刑にされ、皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害が本格的に厳しくなっていった時代です。そういう時代の教会に書き送るよう、主がヨハネに示して下さった不思議な幻が、この黙示録です。それは、一世紀の小さな教会がそれぞれの歩みを、もっと大きな神の物語の中で見るようにと招かれた、独特の幻です。一章で、力強い形で現れたキリストが、小アジアの七つの教会に書き送りなさいと幻を始められます。その後、二章三章では七つの教会それぞれに、その状況や教会内の問題に相応しい言葉が送られます。その後、四章から二二章まで、天上の礼拝や世界の混乱や戦いが行きつ戻りつ示されて、主イエスがもう一度おいでになって栄光の都を打ち立てられる終わりを迎えることが語られるのです。そうして

「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください」

と結ばれます。

 それから二千年近く。「直ぐに来る」と仰ったイエスはまだ来ていません。黙示録が世の終わりが近いとか最期にどんなことが起きるのか、というメッセージであれば、ヨハネや七つの教会は騙されたことになります。でもそうでないなら私たちも、終末の出来事やしるしを読もうとしないほうが良いでしょう。もっと言えば、今の時代が特別な時代だとか、世の終わりに生きている、というファンタジーに逃げ込むのではなく、今、ここにある私たちの歩みを神の大きな物語の中で大切に思うようになりたいのです。黙示録は、一世紀の七つの教会も、現代の私たちをも、神の大きな御支配の中にあることを気づかせる、特別な「おとぎ話」なのです。

2.貧しいスミルナ教会

 黙示録が宛てられた七つの教会で二番目がスミルナの教会です。これは最も短い手紙です。しかしひと言も非難されません[3]。またそこには

「行い」

と言われるような立派な行い(働き・業績)もなかったようです。貧しくて何も出来ず、罵られて、苦しみを前に恐れるような小さな教会でしかありませんでした[4]。ユダヤ人たちからの強い罵倒がありました。それでも彼らは今尚

「忠実」

を保っていました。何も出来ることはなくても、イエスに忠実に、信仰に立って、礼拝を守っていました。そういう小さな教会に、主は目を留めてくださいました。

10あなたがたは十日の間、苦難に遭う」

とあります。これは「十日」なのか。「十年」のことなのか。「予言的」に読もうとすると、そういうことが大事になってしまいます。現実にはドミティアヌスの迫害は何年も続きましたし、ローマの迫害は温和な時代も挟みながら、四世紀のキリスト教公認まで続きました。スミルナの教会の人にとっては、100年も200年も大きな違いはなかったでしょう。ですからこの

「十日」

は厳密な日程とか予言というよりも、「まだしばらくの間」というぐらいの意味でしょう。苦しみが来る。直ぐには解放されないが、いつまでも、という苦しみではなく終わりが来る。また、あなたがたの苦しみや貧しさを、イエスは知っておられる。イエスご自身が苦しみ、貧しい御生涯を生きられたからです。そして、その貧しさもひどいものだったとしても、あなたがたは本当は富んでいるのだとイエスは言われます。何も持たないようでもイエスにあってすべてを持っている。なくてはならないものを持っている。お金では買えない喜び、苦しみや投獄によっても奪えない命、死に至るとしてもイエスがいのちの冠を授けてくださる。天地を作られた神が私の父となって、私に豊かな恵みを下さるのです。実際、その豊かさがこの教会を支えていたのです。こうして、スミルナ教会への直接の言葉は短く終わります。しかし、四章から二二章までもスミルナ教会への手紙です。そこに展開する戦いや、勝利や希望の約束は、まさに

「あなたは富んでいる…わたしはあなたにいのちの冠を与える」

と言うメッセージでした。そういう読み方が一番シックリくるのです。

 二千年前のスミルナ教会やその他の教会は、それぞれに苦難があり、内部にもそれぞれの問題を抱えていました。その教会を励ますため、主はこの黙示録という不思議な絵巻を示されました。ただ「忠実であれ」とか「いのちの冠を与える」だけでなく、また「十日の間苦しみを受ける」とかではなく、かなり不可解な、不思議な幻を通して、七つの教会を励ましてくださいました。そして主イエスご自身が死んでよみがえられた方、死を味わい、死に勝利された方、あなたがたの苦難と貧しさを熟知しておられることをも思い出させてくださいます。まだまだ勝利は遠く、十日やそれ以上待つように思えても、最後の勝利は来るのです。これは他の黙示文学にはない、力強く無条件の明るい特徴です。そして最後には壮大な都の幻が語られます。

3.途方もないエンディング

二一1また私は新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この新しい都は16節では何と二千二百キロ。エルサレムを一回り大きくどころかローマまで届きそうですし、沖縄から札幌ぐらいの超巨大都市です。そんな途方もない都が命の水や命の木があります。けれども、ここに

「いのちの冠」

は出て来ません。あの約束は口約束だったのでしょうか。いいえ、この終わりの日の壮大な新しいいのちの都そのものが、

「いのちの冠」

なのでしょう。小さな教会に約束された「いのちの冠」は、途方もなく大きな約束、いのちの水の川、いのちの木とその実や癒やしの葉っぱの豊かな生活として惜しげもなく示されます。聖書は私たちに途方もなく豊かで、具体的な将来像を物語ります。そして、神が人々の目から涙を拭い取って下さる[5]。スミルナ教会や私たちの労苦や涙に、主は「泣くな、嘆くな」とは言われません。最後の時、待ちかねていたかのように一人一人の所に来て、私たち一人一人の目から涙を拭ってくださいます。またその時「お前は死に至るまで忠実だったか」などとも問われません。私たちの穴だらけの精一杯を、

「忠実」

と受けとめてくださるのです。

 「すべてを新しくする」[6]

 それがいつかはイエスでさえ知らないと言われました。世界の最後が、今晩だろうと二千年後だろうと関係ないのです。神はこの大きな物語の中で今ここに私たちを生かしてくださっています。主が全てを支配して、私たちの貧しさも傷みも知っておられて、最後にはすべてを新しくなさる。その大きな流れの中で、今ここで先の分からない歩みにも意味を見出せます。今までの歩みをも、無駄ではないはずだと受け入れることが出来ます。その励ましを具体的に思い描くためにも、この不思議な黙示録に親しむ恵みがあるのです。

「世界を造り、終わりに至らせる主よ。人が考えるどんな物語よりも大きく深く慰めに満ちた約束をあなたは黙示録に託してくださいました。この世界の国々や歴史の渦に翻弄される人々を黙示録が励ましてきたように、私たちもここからあなた様を仰ぎます。あなたの確かな支配の御手を信じて、主のおいでを待ちわびつつ、今ここでの歩みに、誠実に向かわせてください」



[1] 「『黙示』とは物語の枠を持った啓示文学の一類型である。その中で、異界の存在者によって啓示が人間である受け手に取り次がれて、超越的な現実が明かされる。その現実は終末論的な救済をもくろんでいるという点では時間的なものであり、超自然的な別世界にかかわっているという点では空間的なものである」。J・コリンズの定義。渡辺睦夫「ジャンル別新聖書解釈入門 第84回 黙示文学① 新約の「黙示録」を読みましょう!」『舟の右側』(地引網出版)2016年1月号、53ページ。

[2] 中でも19章の「千年王国」を巡っての理解は大きく分かれています。

[3] 非難がない教会はスミルナとフィラデルフィアだけです。そしてスミルナはその二つでもまた短い手紙です。

[4] しかしこの手紙が短いのは主イエスも軽く見られたからではなく、主イエスが信頼したからこそ、だと思えるのです。信頼しているからこそ、短い言葉で大丈夫。多くを語らなくとも、これだけで通じる、と思われたからこそ、短い手紙なのだと思えてならないのです。

[5] ある教派は「世の終わりには大艱難期がある」と教えますが、黙示録を素直に読めば、そういう世の終わりがどうこうではなく、この時のスミルナや七つの教会のこと、そして、それ以来の全ての人の艱難や涙の事だと思えばいいようです。

[6] 二一章5節の「すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」」は、天の幻、御座に座っている方が初めて口を開いて語られる言葉です。

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問96「もっと良い見えない方法」マタイ24章1-2節

2017-11-19 16:29:01 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/19 ハ信仰問答96「もっと良い見えない方法」マタイ24章1-2節

 十戒の第二戒を見ます。

「偶像を作ってはならない」。

 第一戒でも偶像のことをお話ししました。偶像崇拝にはあらゆる形のものがあると先週確認しました。第二戒はどう違うのでしょうか。第一戒では、本当の神、天地を造られて、聖書を与えてくださった神の他に神を持ってはならない、でした。神ならぬものを神とする、という意味での偶像崇拝です。それは第一戒の禁止事項でした。この第二戒はそれを踏まえた上で、

問96 第二戒で神は何を望んでおられますか。

答 わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉の中でお命じになった以外の仕方で礼拝をしてはならない、ということです。

 つまり、天地の造り主、聖書の神を礼拝すると言いながら、そこに偶像を持ち込んでしまうことを戒めています。真の神への礼拝に、自分たちに都合のよい像や形、方法を持ち込み、結局は、神を礼拝するのではなく、自分に都合のよい礼拝をすること。それが禁じられているのです。そして、わざわざそう言われていることが示すように、私たちが実によくやらかしがちな、いいえ、やらかさずにおれない間違いです。

 特にこのハイデルベルグ信仰問答の背景である宗教改革の時期、当時の教会には、会堂の中にたくさんの像がありました。十字架にはイエスがついており、マリアとイエス、聖書の物語、神の像などがたくさん置かれていたのです。それは、聖書の物語をよくわかるためであって、決してこれを拝んだりお願いをしたりするためではない、とは言っていました。しかし、当然ながら実際には、民衆の中にはこうした像を崇める人、神格化する考えが蔓延していました。まだ文字も読めない人が多い時代、聖書も読めないし、教育もない人に分かりやすい絵や像は確かに親しみやすく、インパクトがありました。インパクトがありすぎて、そちらを崇めたて、イエス・キリストよりも像や形に縋りつくようになったのです。つまり、礼拝の方法に「わかりやすいもの」「目に見えるもの」を持ち込むと、礼拝や信仰そのものが大きく変質してしまうのです。ですから

問97 それならば、人はどのようなかたちをも作ってはならないのですか。

答 神は決して模写されえないし、またされるべきでもありません。被造物については、それが模写されうるとはいえ、人がそれを崇めたりまたはそれによってこの方を礼拝するためにそのかたちを作ったり所有したりすることを、神は禁じておられるのです。

問98 しかし、かたちは、一般信徒の教育手段として教会で許されてもよいのではありませんか。 答 いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。

 ユダヤ人は旧約聖書の時代、神殿に偶像を持ち込んで、まさにこの第一戒と第二戒の違反を重ねました。その反省を込めて、それ以降、彼らは厳格に像を造らず、潔癖に生きていました。イエスの時代、ローマ帝国が芸術の文化を持ち込んだ時、たくさんの摩擦がありました。たとえばローマのコインには皇帝の像が刻まれていました。

 ユダヤがローマ帝国の属州になったとき、これを使うのは大変な抵抗があり、神殿への献金には認めず、ユダヤのお金への両替がなされました。そのように徹底した像の排除をしたのです。しかしそれでこの第二戒が守れたのでしょうか。いいえイエスと初代教会との間に確執となったのは、像を排除して神を礼拝した神殿そのものの偶像化でした。弟子たちが立派な神殿を見てイエスに興奮気味に

「この神殿をご覧ください」

と言ったとき、イエスは神殿も何もかも跡形もなく崩れる日が来るとおっしゃいました。神殿の大祭司たちは、教会から向けられた自分たちの見えない問題への指摘に耳を傾けるよりも、神殿を冒涜したけしからん奴らだと応酬しました。

 今の教会もそうです。イエス像やマリア像、聖像や聖画をなくしても、建物を誇ることもあります。会堂が立派だとか、賛美が美しい、音響機器が充実している、牧師が素晴らしい…なんにせよ、キリストが下さった福音や、この恵みの神への礼拝よりも、自分たちの手っ取り早く、居心地の良いものが礼拝の中心となるのです。神が定めたのではない、方法や形を持ち込むと、それは助けではなく、足を引っ張り、全く違う信仰にしてしまうのです。

 人間同士でさえ、互いに完璧に理解することは出来ません。「あの人はこんな人だよ」と決めつけた途端、そこには人格的な温かみある関係は持てなくなります。まして「神はこんな方だ、今起きた出来事はこんな意味があるに違いない、神がおられるならきっとこうしてくださるはずだ」と決めつけることはどうでしょう。神は無限で永遠のお方です。私たちは有限で時間の中を生きている、本当に小さな存在です。神が無限である、ということさえ自分の限りある理解の中で小さくしか想像できない、貧しい存在です。

 

 C・S・ルイスの『悪魔の手紙』という本で、悪魔がこんなことを言います。「もし人間が神に向かって、『私の考えているあなたではなく、あなたが知っておられるあなたの御心の通りにしてください』と祈るようになれば、我々には打つ手がなくなる」。私たちが知っているのは、どこまで行っても、永遠なる神のごく一部です。神の考えは、本当に大きく、広く、いつも驚かされます。神の恵みは、限りなく深く、豊かで、絶えず胸が熱くなります。その大きさをいつも弁えるからこそ、自分には思いがけないこと、理解できないことが起こっても、そこにも神が働かれ、益となさり、栄光を現わしてくださると信じるのです。神は私たちに、居心地の良い生活を保障されません。むしろ、私たちが閉じこもっている小さな世界、神を知らない奴隷のような生き方から、神の子どもとしての広やかな世界に連れ出してくださるお方です。それを私たちが引き下げて、神ご自身まで自分の見える形に引き下ろしてしまうとしたら、もったいないことです。

 イエスは見える世界に神の栄光を見せられました。空の鳥を、野の花を見なさい、困っている人を見なさい、パンを食べ杯を飲みなさい、と言われました。見えるものは大事ではない、ではなく、今目の前にあるもの、神が作られた見せる世界の一つ一つが神の栄光を豊かに現しています。それでは足りないからと何かを持ち込み拝むことは不要です。むしろ見える世界、今ある世界、自然や目の前の人の中に、神がどのようなお方が現わされている。私たちも、神の栄光を現わすために、命を与えられている。そう気づかされるとき、ますます神の偉大さ、恵み深さに賛美をするようになるのです。

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使徒の働き十二章1-19節「祈りよりも大きい神」

2017-11-19 16:06:12 | 使徒の働き

2017/11/19 使徒の働き十二章1-19節「祈りよりも大きい神」

 来週礼拝後にクリスマスの写真を撮って飾り付けをし12月のアドベントを迎えます。マタイのクリスマスの話ではヘロデ大王という悪役が出て来ます。ヘロデ大王はイエス家族がエジプトにいる間に死にますが、その孫が今日の「ヘロデ」でやっぱり悪役の役回りをしています。

1.ペテロの救出

 ペテロはヘロデ王に捕まって、見世物にされて殺される所でした。それが、処刑の前夜に、主の使いによって不思議に牢から連れ出されて助けられた、というのが大筋です。そして、ここもまたとてもユーモラスに喜劇のように書かれています。特に7節以下、御使いがペテロの脇腹を突いて起こし、

「急いで立ち上がりなさい」

と言われ、

「帯を締めて、履き物を履きなさい」

「上着を着て、私について来なさい」

と事細かに言われる辺りは、寝ぼけている子どもを朝起こしているようです。実際ペテロも現実とは思えないまま、最後に御使いが離れてから、

11そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」

と言う。遅いよと言いたくなります。そしてペテロが人々が集まっているはずの家に行って門を叩きますと、出て来たロデが

14ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。

という件も喜劇です。更に、祈っていた人々はロデの言葉を信じずに

「あなたは気が変になっている」

といい、最後は

「それはペテロの御使いだ」(守護天使のようなもの)

だと端から信じないのです。ペテロを見ても、喜ぶより非常に驚いただけで、慌てるぐらい喜んだロデの方がよほど素直だったと思いますね。こういう、とてもユーモラスな書き方をしていることが分かります。

 こうしてペテロは助け出されました。ヤコブの殉教にもドラマがあったはずです。教会の悲しみや喪失は大きかったでしょう。十二使徒の死は初めてですが、ステパノを始め、迫害で殉教した弟子は少なからずいました。教会は熱心に祈っていましたが、ペテロを助け出してくださいと信じるより、もう処刑を覚悟しての祈り会だったでしょう。ペテロ自身、自分が助け出されたことは最後まで現実だと分からず、御使いに脇腹を突かれなければ起きないぐらいぐっすり熟睡していました。季節はちょうど

「種なしパンの祭りの時期」

でした。ちょうど十数年前の同じ時期に、イエスが十字架に殺されたのです。自分もイエスの殺されたこの時期に務めを終えるのだと思ったのかも知れません。そういう中で、この奇蹟的な救出は起きたのです。

2.二人の王

 この個所の中心は11節の

「今、本当のことがわかった」

でしょう。10章34節でもペテロは同じように

「これで私ははっきり分かりました」

と言いました。ここでもペテロは、主が自分を救い出してくださった体験をして、改めて実感したのです。期待も予想もしていませんでしたが、主は自分を救い出してくださった。「ヤコブも死んだし自分もだ、過越の季節、十字架のタイミングだからきっと自分も死ぬんだ」。そう思い込んでいた自分を、主は救ってくださったのです。勿論、ヤコブは救わなかった、他の人は見捨てられた、ではありません。彼らはペテロ自身にとってもかけがえない存在で、失った悲しみは深かったでしょう。自分の処刑も覚悟していたのでしょう。そういうペテロに主は御使いを遣わして救い出してくださいました。「ペテロが救われたから素晴らしい」とも「ヤコブは救われなかったから可哀そう」とも、「そこにも主の御心があった」とも、安易には言えません。ただ、恐れ多い事実として、主は自分に御使いを遣わして救い出してくださった。人の経験や予想を超えて、主は私たち一人一人に特別に関わってくださる。この世の王はヘロデではなく主だ、という実証なのです。

 この個所はヘロデ王を大枠として書かれています。ヘロデの目論見から始まって、ヘロデが教会を苦しめ、ヤコブも殺した。しかし主はペテロを救い出されます。朝になってヘロデはペテロが見つからないため、番兵たちを代わりに処刑させるのです。彼は王としての権威をふるい、22節では

「神の声だ。人間の声ではない」

というシュプレヒコールも拒みません。でも、彼は神ではありません。人を脅かせても、結局自分の命さえもどうにも出来ません。それができるのは主なる神だけです。そして、主は恐怖で人を押さえつけ、人間に失敗の責任を押し付けて殺す暴君ではありません。この

「種なしパンの祭り」

でイエスご自身が、人のために命を与えられました。それは人の思いを超えた憐れみでした。そしてそれを既に知っていたペテロも、この出来事でまた改めて

「今、本当のことが分かった」

と繰り返したように、私たちにも見えない形で、それぞれに特別な方法で、救いを重ねて体験させてくださるお方なのです。

 ペテロは主の救いを体験しましたが、それに甘えて無謀な行動はしませんでした。仲間のいる家に行きますし、17節では

「静かにするように手で制して」

説明をしてから、このことを(イエスの兄弟)ヤコブと兄弟たちに伝言するよう託して、他の場所へ隠れます。「主が守ってくださるからここにいれば大丈夫」とか「不信仰に逃げも隠れもしない」などと無茶はしません。主の守りは私たちの無茶や無責任とは別です。主からもう一度授かった命だからこそ、粗末にはせず、丁寧に生きるのです。ヤコブや兄弟たち多くが死んだのです。自分も処刑になっていないのが不思議なのです。だからその命を危険にさらすようなことはしないのです。

3.祈りの意味

 だからこそ、ここでペテロがこの家に来たことは不思議ではないでしょうか。すぐに他に行くのですから、隠れに来たのではありません。また「あなたがたの祈りのおかげで助かった」とお礼を言うためでもありません。言われても戸惑ったでしょう。熱心に祈ってはいましたが、神はその祈りに動かされたのではありません。教会の祈りよりも遥かに大きな恵みを主がしてくださいました。彼らは幻だと思ったり、取り合わなかったり、説明しようとしたり、驚くほかなかったのですが、それでも主はペテロを救い、教会を驚かせてくださいました。ヤコブの死で悲しみ、ヘロデの圧力に怯えつつ祈っている教会に、思いもかけない慰めと喜びを下さいました。イエスは言われました。「異邦人は熱心に長々と祈れば、神は聞かれると考える」[1]。まるで眠っている神を、人間が大声で起こして、動いてもらうのが祈りのようです。イエスは、私たちの天の父なる神はそうではない、私たちが祈るより先に私たちの必要をご存知なのだと諭されました。人の方が眠っているのを起こし、信じてもいなかった恵みを下さったのです。

 しかし「だから祈ることは無駄」ではありません。私たちの天の父がおられるからこそ、私たちは祈るのです。深い恵みの神を思い起こして、希望をもらうのです。教会がペテロの脱獄を祈ったから神が御使いを送られたのではありません。しかしそれでも彼らはペテロのために熱心に祈りました。ペテロはその自分のための祈りを思って、貴重な時間を割いてでもこの家に行きました。ロデが慌てふためいて家に戻ってしまっても見切りをつけずに叩き続けました。ペテロは教会の人たちを思い、その祈りを感謝していました。ヤコブが急にいなくなり、自分まで去った後、支えを失った思いをしないよう顔を見せて励まし、自分が受けた恵みを分かち合いました。ただ主に委ねるだけでなく、主が自分に下さった恵みを具体的に分かち合いました。それが、自分も(一時的にとはいえ)去る後の教会にとって、大きな励ましになると思ったからでしょう。祈っても無駄でもないし、祈ることによって神の脇腹を突いて起こすのでもない。祈ることで私たちは目を覚まして、祈りを超えて、思いを超えて私たちを救ってくださる神を仰ぐのです。悪や死が世界を支配しているように思えても、私たちの王は天にいます神、憐れみ深く、ユーモアに溢れ、死すべき命を恵みで飾ってくださる神だと思い起こすのです。

「すべての支配者なる主。暴力や悪意の方が強く、祈りなど無力に思える時もあります。そんな疑いや思い込み以上にあなた様が強く大きく深い御心をなさると今日またはっきりと教えてくださり、ありがとうございます。変わりゆく生活や環境の中、恐れや誘惑に流されず、あなたを仰がせてください。御前に真実にユーモアをもって、ともに歩む教会とならせてください」



[1] マタイ伝6章7-8節。

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問95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

2017-11-12 20:46:17 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/12 ハ信仰問答95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

 私たちが、毎日の生活をどう生きていけば善いのか、聖書には「十誡」というエッセンスで神の民の生き方が教えられています。「十の言葉」を一つずつ見ることにして、先週の続きの第一戒を今日もう一回お話しします。第一戒は

「あなたにはわたし以外に、他の神があってはならない」

という戒めでした。その他の神を拝むことの中には、迷信や魔術をしないことも含みますが、第一には

「偶像崇拝」

をしないことです。先回の問94では

「あらゆる偶像崇拝」

をしない、とありました。「偶像」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。

 こういう「いかにも」な「偶像」を思い浮かべるかも知れません。像というのですから、見える形や、礼拝のためにわざわざ作ったものを思うかも知れません。確かにこういうものは偶像です。そして、世界にはまだまだこういう像や宗教を作っては「神」だと呼んで拝んで止まない人がたくさんいるのです。人間が神を作ったり、自分の願いをかなえてくれる神を作れるとしたら、神なんていらないぐらい人間はスゴイことになりますが、そういうちぐはぐなことをしているのです。

 とはいえ、こういう分かりやすい像や人間の作品だけが「偶像」ではありません。

問95 偶像崇拝とは何ですか。

答 御言葉において御自身を啓示された、唯一まことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。

 聖書の御言葉において御自分を現されている本当の神と取り替えて、何かに信頼を置くことは、すべて第一戒が言う「主以外のものを神とする」ということなのですね。それは偶像や宗教ではないかもしれません。それでも、神である主の代わりにしているものは、自分では気づかなくても、第一戒で主が戒められた警告に該当するのですね。

 最近、こんな記事を読みました。イスラム圏で長く暮らしてきた方が日本の大学生に聖書の話を伝える時のことです。「彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。/日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。/そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。」

 「人は誰も「宗教(偶像)」を持っている」。

 これはとても大切で鋭い指摘です。神に作られて、神を礼拝する心を与えられた人間は、神から離れると代わりに何かを礼拝せずにはおれません。自分に安心や価値や幸せをくれる何かに縋ってしまうのです。

 皆さんは何に縋っているでしょうか。教会に来て、イエスを知り、他に神はいないと言いつつも、知らないうちに神のように、神以上に大事にしているものがないでしょうか。男性は仕事が偶像になりがちです。就職試験に落ちたら自分の価値がないように思ったり、出世や職場の評定を人生の絶対的なもののように考えてしまいやすいです。そのために健康や家族を犠牲にしたりします。私も、自分の「牧師」という仕事が自分の評価や全てにならないように気をつけたいと思っています。また、趣味も、行き過ぎて、自分のすべてになってしまうことがあります。「健康」や「若さ」「体」を鍛えることが偶像になる場合もあります。スポーツ選手もそうですし、老いることや死ぬことを恐れて、お金を惜しまない現代は、自分の身体を崇めんばかりに大事にする風潮があります。「アイドル」というのは分かりやすいですが、まさに「偶像」という意味です。色々なアイドルがあり、あらゆるもののオタクがいます。また、親からの評価や拒絶を恐れて、それが人生のすべての土台になることもあります。その結果、兄弟や自分の子どもや友人、団体との尊敬を得よう、見捨てられないためならひどいこともする。自分を犠牲にして、愛情を勝ち取ろうとしてしまったりします。そういう「人間関係での承認・尊敬」が偶像になっていることもあるのです。他にも、華やかなスターになれば幸せになれる、ステキな恋愛をすればバラ色な人生が待っているとか、国家や人類全般、イデオロギーとか色々なものを偶像にしてしまいます。

 人は誰もが何かしらの「宗教(偶像)」を持っています。そして、それを手に入れなければ幸せになれない、それさえ手に入ればきっと幸せになれる、というストーリーを思い描いています。でも、そういうものは実際には神ではありません。神に代わって私たちを幸せにすることは出来ません。私たちが信じてしまっている成功や幸せの物語はいつか終わるのです。

 神は世界の創造主であり、私たちの父、恵みの神となってくださるお方です。聖書はそのような神がご自身を啓示され、恵みによる物語を通して、私たちに語って下さった本です。神は人間が、神ではないものを神のようにして、追い求めたり、絶対視したり、そのために犠牲を払うようになってしまう空しい結果をご存じですから、人間に神ならぬものを神としないよう、とても強く命じて下さっています。そして、聖書を通して、神ご自身が人間を愛され、追い求められ、祝福してくださっている、という事実を語っています。お金や名声や出世や健康は大切ですが、うつろうものです。そこに私たちの価値や命を置くのは危険ですし、痛々しいのです。私たちは既に神に愛され、価値を認められています。力のない偶像に犠牲を払うのではなく、私たちのために既に犠牲を払い続け、イエス・キリストの十字架という犠牲をも惜しまなかった神にこそ、自分の命をかけたほうが現実的ですし、幸せが約束されています。

 そのために、イエスは来てくださいました。聖書は、神がイエスにおいて、人間に回復と救いを与えてくださる福音を啓示しています。だから私たちはこの神以外のものを神のようにしないのです。どんなに脅されたり、失うものが大きかろうとも、勇気をもって、私はこの世界を作られた、唯一真の神様だけを礼拝します、と喜んで言うのです。そう言わせて下さる神なのです。

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