聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

受難週夕拝説教「イエスの祈り」ルカ22章39-46節

2018-03-25 20:59:06 | ルカ

2018/3/25 受難週説教「イエスの祈り」ルカ22章39-46節 

 ハイデルベルグ信仰問答では先週から「祈り」について学び始めました。そこで受難週の今日は、十字架をイエスの祈りからお話しします。最初は十字架前夜の祈りです。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

 イエスは、十字架の前夜に「最後の晩餐」の後、郊外の「ゲッセマネの園」で祈られました。十字架は本当に残酷な処刑道具です。手足を釘で打たれ、裸で十字架にぶら下げられて放って置かれる刑です。人間の-私たちの-残酷さ、憎悪や暴力性が暴露されています。しかも、そこでイエスは、十字架にかかる誰もが味わう苦痛だけではない、神の子としての特別な痛み、私たちの贖いの生贄という大変さも味わうことをご存じでした。それは私たちには想像も説明も出来ない、何かとんでもない痛み、悲しみ、恐れです。イエスは決して痛みにも平気な超人ではありません。ヘラクレスやアキレスとは違い、私たちと同じ人間でした。痛み、苦しみ、悲しみを感じるお方でした。そしてイエスは、その思いをここでも正直に、率直に、父なる神に祈られたのです。

 私たちも率直に自分の思いを、天の父に打ち明けることが出来ます。今更のような願いさえそのまま祈って良いのです。叶って困る祈りは止めた方が自分のためですが、迷いや不安もそのまま祈ることを教えられます。それは不信仰ではなく、神への信頼故に可能なことです。だからこそ私たちも

「しかし、私の願いではなく、あなたの御心がなりますように」

とも祈るのです。正直に祈りつつ、神はもっと尊いご計画がおありだ。「御心がなりますように」と祈る時、私たちは自分の肩の重荷を下ろすのです。

 次に、イエスが十字架で祈られた祈りを三つ見ましょう。まず有名なこの祈りです。

ルカ二七34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

  十字架で痛くて苦しい時です。体がねじ曲がる激痛に加え、人々は嘲ったり、自分の服をくじ引きしたりしています。その時、イエスがどんな断罪や罵りを吐くことも出来たでしょう。何も綺麗事や格好付けなんて出来ない苦しみなのです。しかしイエスはこう祈られました。それはこれこそイエスの本心、本音だったからです。人間が何をしているか分かっていない。あらゆる暴力、人を嘲り傷つけ、罪人を罰するのが正義だと思っている、そういう暴力的な人間のただ中に、イエスは来られました。傷つけ合い、孤独で望みのない人たちと一つになってくださいました。人の間違いや上辺の生き方よりも、その底にある無意識の私たちの存在そのものを、赦して欲しい、父に受け入れて欲しい、それを本心から願っておられました。十字架の恐ろしい苦悶に、理性や建前が引っぺがされた所で、イエスは私たちの赦しを祈ってくださいました。

 この祈りの中に包まれて私たちは今ここにいます。自分が何をしているのか、何を祈っているのか、謙虚に省みながら、祈りたいと思います。また、私たちも他者を赦す祈りをし、執り成して祝福を祈るよう招かれています。

 三つ目のこれも有名な言葉です。

マタイ二七46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 これも不思議な言葉です。私は、先のゲッセマネの祈りを重ねて、このままに読んでいます。十字架の苦しみで、イエスは、救い主として私たちの代わりに神に見捨てられなさった。神に見捨てられる孤独が、どんなに恐ろしく、淋しく、堪らないものであるか、私には想像も出来ません。ただ、この時イエスがその叫びを短く叫ばれました。十字架の上で最初から最後までずっと祈ったり愚痴ったり恨めしがったりもしてはいませんでした。しかし、その中でも最後に、大声で

「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ばずにはおれない出来事があって、それをイエスは憚ることなく祈ったのです。そこに、私は限りない慰めを見出すのです。

 時に、神に見捨てられたような思いになることがあります。その時、私たちはどう祈れば良いのでしょう。イエスとともに

 「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」

と祈って良い。そんな祈りは不信仰だと神を怒らすんじゃないかとか、こんな祈りを他の人が聞いたら躓かせるんじゃないかとか、そんな考えをせずに、そのまま祈れば良いのです。イエスと一緒にそう祈れば良いのです。そして、イエスと一緒に祈る以上、私たちは決して神に見捨てられてはいないと気づくのです。なぜなら、本当にイエスは私たちの代わりに神に見捨てられてくださったのです。イエスが私の代わりに神に見捨てられた以上、私は決して神に見捨てられることはない。そう信じるのです。

ルカ二七46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 最後にイエスの十字架で息を引き取られた時の祈りです。イエスの最後の言葉がこれでした。これをイエスは大声で叫ばれました。決して、穏やかにお淑(しと)やかにではありません、絶叫したのです。私たちの最後の時、穏やかに微笑みを浮かべて、神に「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と祈れたら、それはそれで良いでしょう。しかし、そんな平安はどこにやら、不安や死にたくない思いなど複雑な色々な思いに襲われるても、それでも私たちは

「父よ、私の霊を御手に委ねます」

と必死に祈るような、そんな祈りでも良いのです。どんなボロボロな時にも、その私たちの霊を受け取ってくださる方がいる。死の時だけではなく、今ここでの歩みでも、私の霊をその手に委ねることの出来るお方がいてくださいます。実際この祈りは初代教会最初の殉教者ステパノが、石打ちで殺される間際に真似て祈りました。そこからも、イエスの祈りは、私たちのための祈りだったと分かります。イエスの祈りを通して、私たちの祈りの筋道を知るのです。

 主イエスの四つの祈り。

 私たちも正直に心を打ち明け、「御心がなりますように」と祈りましょう。

 自分のしていること、願っていることを吟味しつつ、そして私たちも他者のために赦しを祈りましょう。

 神に見捨てられそうな思いもイエスが引き受けてくださったことを覚えましょう。

 私たちを受け取ってくださる方に委ねて祈りましょう。

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ルカの福音書22章39~53節「剣でなく癒やしを」棕櫚の主日

2018-03-25 20:53:09 | ルカ

2018/3/25 ルカの福音書22章39~53節「剣でなく癒やしを」棕櫚の主日

 もう14年前、イエスの最後の12時間をリアルに再現した映画「パッション」が公開されて話題になりました。リアルすぎたあの映画ですが、その冒頭は、このオリーブ山で祈るイエスのお姿からでした。今日の逮捕の場面から、主の十字架の死に直接結びつく道が始まります。

1.オリーブ山で

 ここでイエスを取り巻いて盛り上がっていた、威勢の良い弟子たちもサッと姿を消してしまい、イエスが一人残されて、敵対する勢力に取り囲まれていく、そういう大きな曲がり角です。

 このイエスが祈っていた場所の名前は、このルカの福音書には記されていませんが、マタイとマルコの福音書では

「ゲッセマネ」

と名前が伝えられています。他にもルカの福音書には省かれていることがたくさんあります。43節44節も括弧や星印がついて欄外にも

「初期の写本には43、44節を欠くものが多い」

とあるように、ルカの福音書には元々なかった。後から、「ここはもうちょっとイエスの苦しみを強調しなければ」と写字生が書き加えたようです。逆に言えば、ルカはそれぐらいイエスの祈りの苦しみではないものを強調したかった。地に伏して、苦しみもだえて祈ったとか、一時間ずつ、三度も祈った、という事は省略します。代わりに、イエスが凜として祈っている姿に、私たちの目を向けさせます。そして、祈った後、弟子たちの所に行くと、彼らは眠り込んでいましたが、それも

「悲しみの果てに」

ととても同情的です。眠っているのが怠惰だとか不信仰だとか失望したとは仰いません。悲しみの果てに眠り込んでしまったのですが、悲しみの果てにこそ誘惑に陥りやすいので、起きて祈っていなさいと言われます。それは、弟子たちを本心から思ってのお言葉です。イエスはこのゲッセマネでも弟子たちのことを深く心にかけておられます。イエスこそは実際、本当に担いきれないほどの苦しみ、悲しみ、恐れに向き合っておられますのに、イエスは終始、弟子たちを思いやり、憐れみ、大切に思われている。そういう姿が、ルカではとても印象づけられるのです。

 弟子たちのことだけではありません。そこにやってきた群衆、捕らえるために押しかけてきた人々に対してもイエスは、人と人として向き合うのです。ユダは十二弟子の一人でしたが、イエスを裏切って先頭に立ち、イエスに口づけしようとしてきました。でもイエスはユダに言われます。

「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」。

 口づけ、友情や愛の挨拶に見せて、それはイエスを売り渡し、群衆に逮捕させるための方法でした。その偽善、欺きをユダに投げかける。しかし、もっと厳しい非難や罰の言葉だって言えたでしょうに、ユダのあり方を深く問う、その心に気づきを求める、こういう言い方をなおイエスはなさるのです。

 私たちの発想はこうではありません。それはこの弟子たちの姿です。剣を取り、斬り掛かる。そしてそれがイエスにとっても当然だと思い込んでいます。しかし、イエスは

「やめなさい。そこまでにしなさい」

と言われて、その人の耳に手を伸ばして、その耳を癒やされました。

2.剣でなく癒やしを

 それは耳を斬られた本人にも、弟子たちにも全く意外な展開でした。決してイエスは「優しくて人のいい方」ではありません。非常にストレートです。52節からでは押しかけてきた指導者たちに

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。

53わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手を掛けませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

と仰います。恐れることなく、でも恨みがましい皮肉でもなく、ストレートに彼らの矛盾、恐れ、暗闇の深さを指摘されます。それと同時に、イエスは剣に剣で返したりせず、裏切りに罵倒を返したりせず、まっすぐな言葉で問いかけられました。手を伸ばして癒やしを与えられました。癒やしの力がある方には、この人々の健康や命を取り上げることも朝飯前でした。しかしイエスは彼らに真っ直ぐに向き合われます。剣よりももっと強力な武器、憐れみで暴力に抵抗なさるのです。

 ここでは、イエスの意志、ブレのない確固たる姿勢がとても強く感じられます。しかしそれは、強く頭ごなしの、「上から目線」の権威ではありません。人を愛され、だからこそウソや暴力や傷を放っておけない憐れみが、ぶれないのです。人の罪と戦うよりも、人の罪に真っ直ぐ踏み込んでこられて、そこで苦しむ私たちと一つとなるイエスです。それは簡単なことではありません。とてつもなく苦しく恐ろしい体験です。だからイエスは先に

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」

とも正直に祈っています。恐れもあり、緊張やプレッシャーに押し潰されそうな思いも隠されません。しかし、それとともにイエスは父の御心を最優先しておられます。それは、ご自分がこれから命を十字架に捧げ、ご自分の死という犠牲によって、神と人との間の和解、罪の赦し、新しい命を下さる御心です。父が私たちを愛されている御心。力や暴力や嘘の闇から悔い改めて、神に向き直り、本当の口づけや友情、本当の癒やし、本当にイエスと一緒にいる交わりを与えたい。それがイエスの強い願いでした。

3.「わたしの願い」と「みこころ」

 イエスはここで、裏切り者のユダや剣や棒を持つ群衆、本性を現した祭司長たちにさえ、真摯に語りかけています。それは真っ直ぐな非難です。この場での悔い改めとか回心も期待していません。いつか気づく日を願うような、一石を投じるような真摯な言葉でした。ユダの裏切りを知りつつ、ユダに「裏切り者」のレッテルを貼りません。群衆をも「敵」と見なさず、傷ついてもいい存在とは思われません。ご自分の逮捕や苦難、十字架の苦しみ、そして、死に至らせようとしている相手と分かっていながら、イエスはそれでも人を敵と見なしません。

 勿論、ユダの行為は裏切りです。群衆の行動は反逆です。私たちが神を神とせず、神ならぬものを崇める生き方は重大な冒涜や背信です。神の怒りに値する罪です。しかし神は人間に怒りの鉄槌を下されません。人間を「罪人」「敵」とレッテルを貼りません。それよりもそのレッテルを剥がすために、神は御子イエスを遣わして、十字架に至る道を歩ませました。神の側でとんでもない犠牲を払ってでも、私たちを回復することを選ばれるのです。問題を不問に伏すのでなく、神が全ての犠牲を払うことで、私たちとの問題を解決なさるのです。そのイエスの十字架によって、私たちには「イエスによる神の子ども」という立場が与えられたのです。

 眠りこけたり、悲しみに暮れたり、祈りを忘れて誘惑に陥る…その私たちを、イエスは見捨てるなんて思いもよらず、神との関係に立ち戻らせてくださいます。私たちを愛されて丸腰で近づいてくださり、それによって私たちが恐れて強張っている暴力を武装解除なさいます。そして自分にも他者にも「敵」「ダメな奴」とレッテル貼りを止めさせてくださいます。自分を守るために力や知恵は必要ですが、恐れから剣を振り回す暴力は解決より傷を生むだけです。

 世界は罪で深く病んでいます。信じて裏切られたり、宗教に騙されたり、結局最後は暴力でも仕方ないと思うのも無理はない出来事が多々あります。イエスはそういう人間の世界に来られ、裏切られ、敵意を向けられる歩みまで飲み干されました。絶対一口も飲みたくない苦いその杯を、イエスは飲み干され、人の心の奥深い苦しみをともに味わって、そこから癒やしを始められます。復讐とか不信感に閉じ籠もりそうな人の所に、イエスは来られ、ともにその痛みを味わわれます。人の罪や孤独、悲しみや恐れのどん底でもともにおられ、そこから癒やしを始められます。私たちにも、見せかけや敵対心を捨てて、正直になり、祈るように言われます。剣や言葉で傷つけるより、手を差し伸べ、人として向き合うあり方を示されました。それが十字架の道への踏み出しでした。イエスの十字架は、神の愛だけでなく、弟子や群衆や私たちの考えにも、本当に深く新しく尊い解決、癒やしを示す道だったことを味わいましょう。

「主の十字架への道は、弟子も敵対者も、驚くような決断でした。そしてそれが、あなたの人間への限りない愛と憐れみから来ていたことを今日端々に覚えました。その主の憐れみに気づかされて、あなたの御言葉に問われながら、あなたの御手に癒やされながら歩ませてください。私たちをあなたの平和の器として、心も唇も目も手も言葉も愛と知恵で強め、用いてください」

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問116「祈りが必要です」ルカ十一章1-13節

2018-03-18 21:09:43 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/18 ハ信仰問答116「祈りが必要です」ルカ十一章1-13節

 

 これはキリスト教会に残っている、最も古い、三世紀後半の壁画です。迫害や殉教の時代から、芸術を残す余裕も出来てきたのでしょうか。そのキリスト教美術の一番古いものに祈りの姿があります。それも、女性が両手を挙げて、目を天に向けて祈っているというとても自由な、明るい姿です。教会の信仰の特徴が、この祈りの伸び伸びとした姿勢によく現されているようです。今日から、祈りについて学んでいきましょう。

問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。

答 なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。

 ハイデルベルグ信仰問答も、他の信仰問答と同じように、最後に祈りについて触れ、主の祈りの解説で終わります。しかし、とても特徴的な事があります。それは、祈りとは何か、というよりも「なぜ祈りが必要なのですか」と言う言い方です。

 ハイデルベルグ信仰問答の当時、一六世紀、教会で「祈り」と言えば既に言葉が決まっていた「主の祈り」や「アヴェ・マリア」やラテン語「祈祷文」での祈りでした。今のように自由な言葉で祈る「自由祈祷」は主流ではありませんでした。そうすると多くの信徒は、あまり祈りに身が入らない。大事だと思えない、という事があったでしょう。私にも祈りが必要なの? と思ったとしても不思議ではありません。だから、そういう時代に「なぜ祈りが必要なのですか」と問いかけたのです。神が私たちの救いのために、もう完全なことをしてくださいました。ですから、私たちが生きるのは、神の恵みに付け加えるためではなく、感謝をもって生きるためだ。そうハイデルベルグ信仰問答は言ってきました。そして、

「祈りは、神が私たちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」

という言葉を生み出したのは、本当に素晴らしいことだと思います。

 祈りは

「感謝の最も重要な部分」

 しかもそれを神は求めておられます。私たちの良い行いや、献げ物にもまして、私たちが祈る事を神は求めておられる。それはとても驚くような言葉です。そして、実際に、分かる言葉で祈りを唱えるようにしたり、自由に祈ったり、祈る喜びを育てることが始まったのでしょう。だから今の時代に、キリスト者はこの時代よりももっと喜んで、祈るようになっています。

 祈りの大切さ、素晴らしさを見ることが出来ます。もしも祈りの必要性が分からなくなったり、「祈るのは面倒くさいなぁ」と思ったりしているとしたら、それはとても大きな損失です。たとえば、先の絵でも、この写真でも祈りの姿勢は本当に伸び伸びとしています。神様に向かう思いが、姿勢にも表れています。手を上げたり目を開けたり、肩を抱いたり、もたれかかったり、その人の心がそのまま姿勢になっています。以前私は「手を組むのがクリスチャンの祈りで、合掌は仏教だからダメだ」と言われたことがあります。そういう考えだと祈りは、途端に窮屈で、義務や余所余所しいものになるような気がします。

 神は私たちに祈りをお求めになります。神の救いとは、私たちを天国に入れるとか、幸せにしてくれることぐらいに考えるのは、とても勿体ない誤解です。私たちが神との関係を回復すること。私たちのすべてを祝福したもう神の恵みに感謝して、神との人格的な交わりを持つようになることが「救い」なのです。私たちが、神に祈ることもなく、ただ真面目に、清らかにしていればいいとか、それなりに幸せに楽しんでくれていればいい、とは思われません。そもそも、神が私たちのために救いを備えて、キリストの十字架というとんでもない犠牲まで払って下さったのはなぜでしょうか。私たちを愛されたから、私たちとの交わりを回復することを願い、求めてくださったからです。それこそが、神に作られた私たちの本来の生き方です。私たちは、神への感謝に生きるようにと造られたのです。祈りなくして、私たちは生きることは出来ません。私たちは祈りを必要とする存在なのです。神に祈り、感謝を献げ、恵みと聖霊とを請い求めることなくしては、糸の切れた凧のような生き方になってしまうのです。

 …また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。

 この部分を私たちはどう読むでしょうか。人間がこんなことを言うなら、ケチ臭くて、依怙贔屓だと非難されます。そんな心が狭くて意地悪なのが神だとしたら、確かにそんな神を信じるのもゴメンです。そういう事であって欲しくないのは分かります。

 先に読んだルカの18章は

「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」

語られたたとえ話です。そこでイエスは

「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」

を持ち出されました。そんな不正な裁判官でさえ、貧しい女性が困って訴え続けるなら、重い腰をやっと上げるだろう、

「まして神は」

と仰るのです。

 言うまでもなく、神はそんな怠惰で強欲な裁判官とは全く違います。神は私たちを深く深く愛し、全ての必要を私たちよりも知っておられます。私たちが願わなければ動かない神ではなく、私たちの心にある全ての思いも心配も、完璧に知っておられます。しかし、そんな神に祈る事を勧めるために、あえてイエスは、不正な裁判官と貧しい未亡人という譬えを持ち出されます。それは、私たちに祈って欲しいからです。

 イエスは私たちが、祈りを聞いてくださる神を見上げて祈るようになり、失望や諦めで生きて欲しくないと願われます。また、私たちが「どうせ自分なんかの祈りなんか聞いてもらえない」と勝手に思わず「神に心からの呻きを持って絶えず祈り、感謝する」なら神は必ず聴かれると励ましてくださいました。

 神は私たちが祈らなくても全てをご存じです。いや、私たちがいなくても困りません。でも私たちを作られ、私たちが祈り神に語り、神を信頼し、この関係を喜ぶようにと、私たちをお造りになりました。イエスはそのために、人となって私たちの中に住まれ、こんなユニークな譬えを語り、ご自分の命まで与えて、関係を回復してくださいました。ですから、このイエスにあって祈りましょう。心からの祈りは決して無駄ではありません。心を神に向けて、私たちの必要を全て知り、願いも思いもすべて既にご存じの神に、ゆっくり願いと感謝をささげましょう。

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ルカの福音書19章37~48節「神の涙」 四旬節説教

2018-03-18 21:03:06 | ルカ

2018/3/18 ルカの福音書19章37~48節「神の涙」四旬節

 今日から三回、「使徒の働き」から離れます。聖書の春の祭り「過越の祭り」は、キリストが十字架に架かる日となりました。その三日目にキリストはよみがえって、今に至るまで、過越祭を基準として、その週を受難週、次の日曜日を復活祭として教会は祝っています。来週がその受難週ですが、今日はその始まりに当たるキリストのエルサレム入城を見たいと思います。

1.王の凱旋

47祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていた。

 彼らは木曜の夜中にイエスを逮捕して、金曜に十字架刑を果たします。まだこの時点、日曜日は平和で、イエスがエルサレムに近づき、弟子たちは喜んで、今こそイエスがエルサレムで王となられると期待に溢れていました。そこで彼らは大声で神を賛美して、歌い続けました。

38こう言った。「祝福され、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 弟子たちはイエスを

「主の御名によって来られる方、王」

とハッキリ言っています。神が遣わしてくださると約束している王、メシヤ、平和を完成させてくださるお方だ、と歌っています。まだこの時点では彼らの理解は不十分でした。勘違いしていることもまだまだありました。けれども精一杯、幼稚なりに精一杯、イエスが王だと信じて、イエスに期待しています。ここに加わった人々は、金曜日にはイエスから逃げていきました。逮捕されて余りに惨めな姿を見て失望して、憎さ百倍に

「十字架につけよ」

と叫び続けた人もいたでしょう。十字架につけられたイエスを見て、嘲った人々もいたようです。教会でもこの時の

「祝福あれ」

と叫んだ人が金曜には

「十字架につけよ」

と罵声を浴びせた事実を取り上げて、自分たちの信仰や賛美はどうかと振り返ることを大事にしてきたように思います。それはそれで大事なことです。同時に、聖書はそうした冷めた見方ではなく、この不十分な歌を受け止め、大切なものとしています。

39パリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。

40イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

 この弟子たちの言葉を黙らせようという声にはとても強い言い方で撥ね付けるのです。この弟子たちの賛美をイエスは真実なものとして受け入れておられるのです。つまり、イエスは王であり、平和をかなえて、栄光がいと高き方(神)に捧げられるようにしてくださる方です。ただそのやり方は、パリサイ人や祭司長や、弟子たちや私たちにも思いも付かないものでした。

2.イエスは泣いて

 エルサレムに近づいただけでも興奮した弟子たちは、エルサレムを目にして、神殿の輝きも見えて、感極まったでしょう。しかし意外にもイエスは

「泣かれ」

ます。そして言われます。

42もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」

そして、やがてエルサレムに敵が攻めてきて、エルサレムを粉微塵に打ち壊して、その全ての石も、中にいる子どもたちも地に叩き付けられる日が来る。

「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」

 そう言われるのです。実際これは紀元70年にローマ軍に包囲されて、エルサレムが陥落して現実になりました[1]。その時、すべての石が崩されて、大きな音がしたでしょう。40節の

「石が叫びます」

はその事なのでしょう。平和の王であるイエスを受け入れず、その声を黙らせようとした結果、エルサレムは戦争に完敗して、石が崩落の叫びを響かせる日が来る。それをイエスは嘆かれて、泣かれたのです。

 イエスはこの将来を見据えて、涙を流されました。決して、彼らの不信仰へのさばきとか、のろいとして冷たく宣告されたのではありません。泣かれたのです。平和に背を向けている人間のために、涙をほとばしらせて、嘆かれる。それがイエスという王です。平和の王イエスは問題をたちまち解決して、敵を打ち倒したり戦争を力尽くで止めさせたりすることも出来るでしょうに、無力な人間のようにさめざめと泣いておられます。イエスは上辺に隠れた人間の思い、願い、頑なさ、プライドや自己中心、平和とは相容れない心を見て泣かれます。神は全知全能で、悲しみや悩みとは無縁の方と思いきや、恐れ多いことにイエスは涙される王です。人の不十分さを受け入れ、人の罪のもたらす悲惨のために慟哭されるのです。

 しかし、そこにこそ平和の鍵があります。神がこの世界のために心を裂かれている。私たち人間の問題のために悲しみ、嘆いておられる。だからこそ、イエスはこの世界に人となって来ることも厭われませんでした。そして人間の痛みの最も深い所にまで降りて来て、十字架の苦しみや恥や孤独、恐ろしさを味わい尽くされました。それは、イエスが私たちを本当に愛しておられるからです。私たちが平和の道でなく、滅びや争いに生きることを真剣に嘆き、本気で嘆いて下さっているのです。その憐れみこそ私たちの希望です。神の涙には力があります。

3.「わたしの家は祈りの家」

 イエスはこの後、宮に入って、神殿で商売をしていた人々を追い出し始めます。神殿では、献金のコインや生贄の動物が、高い値段で売られていました。それ以外のものは受け入れられなかったので、ボロ儲けでした。そしてその両替商や家畜商人たちの店が広く場所を取って、外国人や遠くからの巡礼者たちを塞いでいたのです。それに対してイエスは激しく怒られて、

46「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にした。

と非難されるのです。

「祈りの家」

 これは旧約聖書イザヤ書56章7節の言葉ですが[2]、そこでは外国人も宦官も、どんな人も主がその礼拝を受け入れ、ご自分の所に喜んで迎え入れて祝福してくださると言われています。

「わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる」。

 ここでの「祈りの家」は、そこで親しく神様と語らい、そこが自分の居場所、「我が家」としていつまでも住まう、という意味でしょう。誰からも邪魔者扱いされず、誰をも余所者扱いしないで、神が受け入れてくださった家族として過ごす。「ここは永遠にあなたの祈りの家であり、私の祈りの家。一緒にお祝いしましょう」そういうあり方です。それこそ

「平和」

の姿です。

 実際のエルサレム神殿でなされていたのはその逆で、商売であり搾取でした。祭司長やエリート、権力階級と結託した金儲けの構造でした。神が約束された平和は表向きだけになって、その町が歩んでいたのは、平和への道ではなく、自分たちの繁栄、権力構造の安定への危なっかしい道だったのですね。でもそれは最後には破滅になるだけです。それをイエスは知っておられたからこそ、遠慮なく商売人たちを追い出されたのです。そして、宮の中で人々に神の平和を教えられました。権力者には耳障りな話でしたが、民衆は熱心に耳を傾けました。それは人に「私の祈りの家」を与えて、私たちが互いに受け入れ合い、生かし合う、本当の平和を下さりたい方の言葉でした。

 イエスという王は、人のために嘆き、聖書の御言葉を与え、平和へと導いてくださる王です。私たちはイエスを王として告白します。理解は不十分で、まだ間違った期待もあるでしょう。今でも平和よりも繁栄を、苦しみより楽や自分の安全を求めるものです。神のなさることに戸惑い、反発するでしょうし、この世界の戦いで翻弄されることもあるかもしれません。その度に私たちは、キリストが御自身の命を捧げてくださった意味を再確認するのです。主が来て下さった。王として来られ、涙を流され、十字架の死をも引き受けて下さった。その方がよみがえって、今も生きておられ、私たちを治めておられます。私たちとともにおられ、平和の道へ導いてくださる。その約束を確認する受難週としたいのです。

「平和の王、私たちの主、力あり私たちのために涙も命も惜しまれない主よ。あなたが私たちの人生に来られた意味も、最初はよく分かりませんでしたが、あなたが平和の道を示し、ともに歩んでくださることを感謝します。どうぞ私たちの生活も心も整えて、永遠の家への道を、ともに生かし合い、ともに泣き、ともに喜びながら、平和の器とされて歩ませてください」



[1] その時にイスラエルの国家は終わって、ユダヤ民族は二千年近く放浪を続けたのです。その放浪の始まりとなったのがエルサレムの崩壊でした。

[2] イザヤ書五七章4~8節「4なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

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問115「目標「感謝が満ちあふれる」」Ⅱコリント4章14-18節

2018-03-11 17:22:56 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/11 ハ信仰問答115「目標「感謝が満ちあふれる」」Ⅱコリント4章14-18節

 夕拝のハイデルベルグ信仰問答も、十戒の解説は今日が最後です。前回は十戒を守ることはどんなキリスト者にも出来ない、それは神が与えてくださった始まりを歩み出したに過ぎないとお話ししました。私たちは十戒を守って神の子どもらしく生きることが出来るわけではありません。誰もそんなことを言える人はいないのです。その続き、

問115 この世においては、だれも十誡を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまでに厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。

 どうせ一生完璧に出来ないのなら、十戒なんて説教しなければいいんじゃないの? そんな声を汲み取っています。ここではそれに対して、二つの答を教えています。

答 第一に、私たちが全生涯の間、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心にキリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行くためです。

 第一は、律法を教えてもらうことで、私たちは自分の罪の性質が分かる。それも次第次第にもっと分かっていく、というのです。そうして私たちがますます熱心に、罪の赦しと義とを求めるようになっていくため、と言います。確かに私たちは、律法を教えてもらってそれを守れるようになるわけではありません。けれども、律法を教えてもらわなければ、それを守れない事にさえ気づかないでしょう。自分が間違っていることに気づかず、憎んだり盗んだりウソをついたりしてしまいます。それで、とても大切な人生をもっとひどくしてしまうでしょう。あるいは、自分が悪いのに、人を責めたり、自分は悪くないと言い張ったり、自分の事を棚に上げて文句ばかりいうかも知れません。そういう狡い所も、罪の特徴の一つです。けれども、律法をしっかり教わることで、私たちは問題が、誰かとか何かとかではなく、自分が持っている問題だとハッとさせてもらえます。人のことは言えない、自分にも同じ問題があると気づけます。

 この図は、クリスチャンとしての成長を現した絵です。時間が経てば立つほど、聖書を通して、聖なる神についての知識が増えていきます。そうすると、同時に、自分自身の罪や小ささがもっと分かるようになって、ますます謙遜になります。でもそれは悲しいことや、いじけた事ではありません。小さな自分と大いなる神様とが、イエス・キリストの十字架によってつながっています。イエスの十字架の恵みがどれほど大きな、素晴らしいかが分かるから、自分の小ささも素直に受け入れるようになります。背伸びや背比べをせず、謙虚になります。だから、人との関係にも気負いがなくなるのです。

 それは全生涯かかる作業です。私はもうすぐ五〇才になりますが、小さい頃は、大学生ぐらいになったらもう人間として立派で落ち着いて、間違いなんかしなくなると思っていたんですが、その倍以上を生きても、心はまだ間違いや罪の思いが一杯あります。いま三重県にいらっしゃる尊敬する牧師も、そんなことを書いていました。若い頃は、もっとクリスチャンらしくなろうと頑張っていた。中年になってもそれが全然できない。ますます自分の罪が見えてくる。もう中年も終わる今は、あきらめて、力みが抜けて、こんな自分が神様に愛されていることを幸せだなぁ~と思う。そんなことを書いていました。罪を犯さない聖い人になったのではなくて、ますます神様に頼るようになって、毎日、赦しと行くべき正しい道を示していただいている。それを幸せと感謝している。私もそうなりたいなぁと思っています。

 先のパウロの言葉を思い出しましょう。

Ⅱコリント四15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

 神はやがて私たちをともに御前に立たせてくださいますが、今も私たちを訓練しておられます。色々な事を通して、私たちは誘惑もされますが、そういう中で律法があるからこそ、私たちはますます神に拠り頼み、恵みを戴きます。十戒を学ぶ歩みは、窮屈や無意味な事ではありません。恵みがますます及んで、感謝が満ちあふれて、神の栄光が現れるようになる。それが神によって今与えられた時間の目的なのです。

 第二はもっと積極的に

「完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行く」

とダイナミックな世界を語っています。確かにこの生涯では完成しません。私たちの中に始まった、神の子どもとしての心はほんの始まりに過ぎません。でも、やがて完成する素晴らしいゴールに向けて、今、一日一日励まされて、聖霊の恵みを請いながら歩むのです。「聖霊の恵みを請う」は、この次の問116からの「祈り」についてのお話しに続いていきます。ですから、簡単に言えば、十戒を教えられ、聖書で示されている生き方を学ぶ度に、私たちはますます祈るようになるのです。聖霊なる神が助けて下さるようにと縋るのです。私たちの成長は全て聖霊の力による恵みです。聖霊に頼らなくても良くなるのではなくて、ますます聖霊の恵みを請い求めます。神のかたちへと新しくされて、完成されることを待ち望んで、今励むのです。

 その事を書いたこんな図がありました。私たちは、キリストの心と人格を持つように変えられて行きます。そこには、計画的な訓練、学びや練習も大事です。そして、毎日の生活自体が、計画できない訓練となって、私たちを作っていきます。その頂点にあるのは聖霊のお働きです。そこには、コミュニティとアカウンタビリティと、両方での成長があります。こうした全人格的な成長であって、決して、ただ清らかに、人畜無害な聖人になっていく、というようなことではありません。こうした面があるのも参考になります。でももっとシンプルにこういうイメージをお持ち帰りください。

 私たちは種です。やがて大きな神の国という森の一本になる。そこに向けて今、芽を出したのです。とてもまだ大樹には似ても似つきません。しかし芽を出し、育ち始めたのです。十戒は、私たちがやがて完成に至る、麗しく強い神の国の姿を教えています。神以外のものに誘われたり、人間関係を壊したり怖がったりすることがなくなるのです。今はまだ信じがたい話です。そうでない世界にいます。しかしこの今の生活もまたそこに向けての訓練です。聖霊は全てを恵みとして永遠の栄光を下さいます。祈って、聖霊に拠り頼みつつ、御言葉に教えられ、励まされて、このゴールに向かって行きましょう。

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