2018/3/25 受難週説教「イエスの祈り」ルカ22章39-46節
ハイデルベルグ信仰問答では先週から「祈り」について学び始めました。そこで受難週の今日は、十字架をイエスの祈りからお話しします。最初は十字架前夜の祈りです。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
イエスは、十字架の前夜に「最後の晩餐」の後、郊外の「ゲッセマネの園」で祈られました。十字架は本当に残酷な処刑道具です。手足を釘で打たれ、裸で十字架にぶら下げられて放って置かれる刑です。人間の-私たちの-残酷さ、憎悪や暴力性が暴露されています。しかも、そこでイエスは、十字架にかかる誰もが味わう苦痛だけではない、神の子としての特別な痛み、私たちの贖いの生贄という大変さも味わうことをご存じでした。それは私たちには想像も説明も出来ない、何かとんでもない痛み、悲しみ、恐れです。イエスは決して痛みにも平気な超人ではありません。ヘラクレスやアキレスとは違い、私たちと同じ人間でした。痛み、苦しみ、悲しみを感じるお方でした。そしてイエスは、その思いをここでも正直に、率直に、父なる神に祈られたのです。
私たちも率直に自分の思いを、天の父に打ち明けることが出来ます。今更のような願いさえそのまま祈って良いのです。叶って困る祈りは止めた方が自分のためですが、迷いや不安もそのまま祈ることを教えられます。それは不信仰ではなく、神への信頼故に可能なことです。だからこそ私たちも
「しかし、私の願いではなく、あなたの御心がなりますように」
とも祈るのです。正直に祈りつつ、神はもっと尊いご計画がおありだ。「御心がなりますように」と祈る時、私たちは自分の肩の重荷を下ろすのです。
次に、イエスが十字架で祈られた祈りを三つ見ましょう。まず有名なこの祈りです。
ルカ二七34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
十字架で痛くて苦しい時です。体がねじ曲がる激痛に加え、人々は嘲ったり、自分の服をくじ引きしたりしています。その時、イエスがどんな断罪や罵りを吐くことも出来たでしょう。何も綺麗事や格好付けなんて出来ない苦しみなのです。しかしイエスはこう祈られました。それはこれこそイエスの本心、本音だったからです。人間が何をしているか分かっていない。あらゆる暴力、人を嘲り傷つけ、罪人を罰するのが正義だと思っている、そういう暴力的な人間のただ中に、イエスは来られました。傷つけ合い、孤独で望みのない人たちと一つになってくださいました。人の間違いや上辺の生き方よりも、その底にある無意識の私たちの存在そのものを、赦して欲しい、父に受け入れて欲しい、それを本心から願っておられました。十字架の恐ろしい苦悶に、理性や建前が引っぺがされた所で、イエスは私たちの赦しを祈ってくださいました。
この祈りの中に包まれて私たちは今ここにいます。自分が何をしているのか、何を祈っているのか、謙虚に省みながら、祈りたいと思います。また、私たちも他者を赦す祈りをし、執り成して祝福を祈るよう招かれています。
三つ目のこれも有名な言葉です。
マタイ二七46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
これも不思議な言葉です。私は、先のゲッセマネの祈りを重ねて、このままに読んでいます。十字架の苦しみで、イエスは、救い主として私たちの代わりに神に見捨てられなさった。神に見捨てられる孤独が、どんなに恐ろしく、淋しく、堪らないものであるか、私には想像も出来ません。ただ、この時イエスがその叫びを短く叫ばれました。十字架の上で最初から最後までずっと祈ったり愚痴ったり恨めしがったりもしてはいませんでした。しかし、その中でも最後に、大声で
「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばずにはおれない出来事があって、それをイエスは憚ることなく祈ったのです。そこに、私は限りない慰めを見出すのです。
時に、神に見捨てられたような思いになることがあります。その時、私たちはどう祈れば良いのでしょう。イエスとともに
「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
と祈って良い。そんな祈りは不信仰だと神を怒らすんじゃないかとか、こんな祈りを他の人が聞いたら躓かせるんじゃないかとか、そんな考えをせずに、そのまま祈れば良いのです。イエスと一緒にそう祈れば良いのです。そして、イエスと一緒に祈る以上、私たちは決して神に見捨てられてはいないと気づくのです。なぜなら、本当にイエスは私たちの代わりに神に見捨てられてくださったのです。イエスが私の代わりに神に見捨てられた以上、私は決して神に見捨てられることはない。そう信じるのです。
ルカ二七46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
最後にイエスの十字架で息を引き取られた時の祈りです。イエスの最後の言葉がこれでした。これをイエスは大声で叫ばれました。決して、穏やかにお淑(しと)やかにではありません、絶叫したのです。私たちの最後の時、穏やかに微笑みを浮かべて、神に「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と祈れたら、それはそれで良いでしょう。しかし、そんな平安はどこにやら、不安や死にたくない思いなど複雑な色々な思いに襲われるても、それでも私たちは
「父よ、私の霊を御手に委ねます」
と必死に祈るような、そんな祈りでも良いのです。どんなボロボロな時にも、その私たちの霊を受け取ってくださる方がいる。死の時だけではなく、今ここでの歩みでも、私の霊をその手に委ねることの出来るお方がいてくださいます。実際この祈りは初代教会最初の殉教者ステパノが、石打ちで殺される間際に真似て祈りました。そこからも、イエスの祈りは、私たちのための祈りだったと分かります。イエスの祈りを通して、私たちの祈りの筋道を知るのです。
主イエスの四つの祈り。
私たちも正直に心を打ち明け、「御心がなりますように」と祈りましょう。
自分のしていること、願っていることを吟味しつつ、そして私たちも他者のために赦しを祈りましょう。
神に見捨てられそうな思いもイエスが引き受けてくださったことを覚えましょう。
私たちを受け取ってくださる方に委ねて祈りましょう。