聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/27 マタイ伝11章25~30節(22~30節)「わたしから学びなさい」

2020-09-26 12:33:49 | マタイの福音書講解
2020/9/27 マタイ伝11章25~30節(22~30節)「わたしから学びなさい」


招  詞  マタイ11章28~30節
祈  祷
賛  美  讃美歌84「神に頼り」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇23篇(1)
 賛  美  讃美歌517「我に来よと」①②
聖  書  マタイの福音書11章25~30節
説  教  「わたしから学びなさい」古川和男牧師
賛  美  讃美歌522「道に行き暮れし」①③
応答祈祷
報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌542
*祝  祷
*後  奏

 今日の礼拝の招詞でもあり、教会の看板に最もよく引用されている聖書箇所の一つが、今日のマタイ11章28~30節です。この言葉は、今読みましたように、主イエスご自身の祈り。
25…天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。26そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。27すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
 このような祈りが先にありました。知恵ある者や賢い者、自分では「俺は賢い。私は分かっている」と思っていても、神が知らせてくださらないなら、主イエスの奇蹟を見ても、その語ることも父なる神を知ることは出来ない。逆に
 「幼子」
と言われ、社会の底辺に置かれる人は、人の目には「何にも分かっちゃいない。馬鹿な生き方をしている」と蔑まれていても、神はその人に
「現して」
イエスとの出会いが、信仰に至るようにしてくださいました。子なるイエスは、幼子たちに
「父を現そうと心に定め」
てくださったので、イエスの父なる神を、天にいます私たちの父として知ることが出来る。それは、人間の知恵や常識や、その上に立った思い上がりをひっくり返す、神にふさわしいなさり方、
「みこころにかなったこと」
でした。
 その前の20~24節には、イエスがコラジン、ベツサイダ、カペナウム、ガリラヤ地方の大小の町々を責めています。そこの人々は、イエスの業を見ながら、悔い改めませんでした[1]。しかし25~27節は、それが神の不思議な遺棄の御心だと讃美するのです。カペナウムというかなりの大都市で「我々は神の民だ、神に近い、裁きとは無縁だ」と思い上がっていた。でも、イエスの御業を見ても、心を開かないなら、そんな自慢は何になるでしょう[2]。ツロとシドン、ソドム、旧約聖書に登場する甚だしい悪を裁かれた大都市よりも[3]、もっと頑なで鈍く思い上がっている[4]。その事を責めたイエスは、神の御心は人の常識とか誇りとか、上下関係を覆し、幼子を顧みる御心だと言われます。この流れで、28節以下の有名な招きが語られたのです。

28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。…
 
 「重荷を負っている」は「負わされている」で、周囲からの押しつけ、罪悪感、息苦しさなどの宗教的な圧力でしょう[5]。
 「神を喜ばせるためにはこうすべきだ、べからずだ」という義務感、
 罪を責めるだけで赦しには乏しいままの罪悪感、
 そうした負いきれない重荷を載せて、負担をかけて、それを助けようともしない[6]。しかし、本当の神であるイエスは言われるのです。
…わたしがあなたがたを休ませてあげます[7]。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。[8]
 あなたが疲れている原因、負わされている重荷を持ってきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。負わされていた負いきれない重荷の代わりに、わたしのくびきを負いなさい。
 軛(くびき)とは二頭の牛を繋いで荷物を引かせる道具です。「牛一軛」は牛二頭のことです。イエスが「わたしのくびきを負え」と仰有るのは、まずイエスが一緒に歩み、私たちの荷物を一緒に運んでくださる、ということ。一人で生きず、わたしとともに生きよ、ということです[9]。


 そして一緒に歩まれるイエスは、
柔和で謙って
います。人間の弱さをよく知り、優しく[10]、上から目線でなく謙虚に仕えてくださいます。「~すべき」とか罪悪感で責めず、勿論、罪で自分をわざわざ苦しめる生き方からも、忍耐をもって救い出してくださいます。そして、そのイエスは
「わたしから学びなさい」
 あなたも柔和で謙った生き方を学びなさい、わたしのように生きてご覧。そうすれば魂に安らぎを見いだせるよ[11]。イエスのように生きるなんて、難しそうに思えますが、それもまたイエスが一緒に歩んで、私たちと付き合ってくださるのです。
 この
「わたしから学びなさい」
から
「弟子」
という言葉が出ました[12]。弟子とはすべてのキリスト者を指す呼び方の一つです。イエスに学び、その柔和さ、謙虚さを教えられ、休みを見出した弟子がキリスト者なのです。柔和なのは「立派」なのでなく、自分も人も、柔和に見ていけたら楽です。謙遜も「高尚な美徳」というよりも、イエスに出会ったことで、もう高ぶったり背伸びしたりしなくていい、身軽にそのままになれることです。負いきれない重荷を手放し、罪の重荷や押し潰されそうな罪悪感も下ろし、自分の理解や手の届かない出来事を父なる神に委ねて手放せるのは恵みです。
 このイエスとの関係がもたらす幸い以外に勝る安らぎはありません。イエスとともに、イエスに学びながら、柔和と謙虚な者となる。それが天地を作られた神の御心です。その父からすべてのものを渡されたイエスの、私たちに対する約束です[13]。本当に私たちが味わえる、味わわなければもったいない恵みです。毎日、主の元に重荷を下ろして、主がともに私たちの歩みを負っておられることを覚えましょう。その主の柔和と謙虚さを味わい、戴きましょう。

「主よ。あなたは本当に柔和で謙虚なお方です。それと真逆の言葉や考えに疲れている私たちをあなたは招き、ともに軛を負い、休みを下さいます。私たちの疲れや呻きを深く憐れみ、それを軽くし、新しいことを始められるあなたに感謝します。どうか、私たちにあなたの柔和さと謙りを学ばせて、負いきれない重荷を下ろし、あなたの軛をともにさせてください。」

脚注

[1] 知っている民の罪の方が、異邦人の罪よりも重く問われるのです。いわば、キリスト者への非難の方が、異教徒へのさばきよりも重いのです。私たちは、自分の潔白を主張するのでは無く、自分の弁解の余地のなさを謙虚に認め、自分たちの正しさのゆえではなく、ただ主のあわれみと赦しによるに過ぎないと、誰よりも弁えている者に他なりません。

[2] 「よみにまで落とされる」は、死者がだれもがいく場所に行くことであって、地獄に突き落とされる、という意味ではありません。自分は高められるつもりでも、実は他の人と変わらず、地に落とされるに過ぎない、という皮肉です。また、創世記11章の「バベルの塔」のエピソードや、イザヤ14:13-15のもじりでもあります。23:12「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」。この神の国の法則がここで再確認される。

[3] 「ツロとシドン」エゼキエル28::2-24、アモス1:9-10が欄外に。イザヤ23章も。

[4] 最終的なさばきに、「軽重」があるのかは、人知を越えています。ひとつの可能性としては、さばきそのものの重さよりも、それを受け入れ、認めることが出来ず、往生際の悪さを晒す、ということでしょう。マタイ7:22、24:51など。自分の非を認めない「義人」は、非が明らかな「悪人」よりも、さばきを受け入れがたいでしょう。

[5] この時代、聖書を紐解きながら、宗教家たちは民の負担を増していました。23章4節「また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の方に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」

[6] これは、ここまでのマタイの福音書の随所で、イエスが取り上げてきた、パリサイ人や律法学者の「偽善」であり「罪の赦し」と相容れない教理です。

[7] 「休み」アナパウシス ここと12:25。「休ませてあげよう」26:45「まだ眠って休んでいるのですか」 加藤常昭牧師は、「新しい、新鮮ないのちを与える」と解説しています。

[8] Eugene H. Petersonの抄訳聖書The Messageでの本箇所の邦訳がいくつか紹介されています。「疲れていますか。くたくたですか。宗教で燃え尽きてしまいましたか…わたしとともに歩み働きなさい…強制されない恩寵のリズムを学びなさい」(「デイリーブレッド」による訳)。「あなたは疲れ、消耗していないだろうか?宗教に燃え尽きていないだろうか?わたしのもとに来なさい。わたしとともに脱出しなさい。それによってあなたは、自分の人生を回復できるのです。わたしはあなたに、どのようにしたら真の休みを得られるかを見せてあげよう。わたしとともに歩み、わたしとともに働きなさい。わたしがどうするかを見ていなさい。強制されることのない恵みのリズムを学びなさい。わたしはあなたに重すぎる重荷やあなたに合わない重荷を負わせはしない。わたしとの交わりのうちに歩みなさい。そうするとあなたは自由に楽に生きられることを学ぶことができます」マタイ11章16〜30節立川福音自由教会説教「人々の期待から自由に生きる」

[9] この「わたしのくびき」は、大工であったイエスが、それぞれの牛に合わせたくびきを作る必要を知る経験から、私たちにも一人一人の形に合わせたオーダーメイドのくびきを作ってくださる、という説明もありました。「わたしのくびきは負いやすく」とはそのような意味だ、というのです。心にしみる解釈です。藤尾正人 インターネット 聖書ばなし No.3-2イエスお手製・ぴったりの「くびき」

[10] 「柔和」は、マタイではここの他、5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」、21:5「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ロバの子である、子ロバに乗って。』」の二カ所。

[11] 「安らぎを得ます」(安らぎを見いだす) この言葉は、エレミヤ6:16を踏まえています。「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。」 主の道を歩めば、安らぎを見いだせる。しかし、民はそれを拒んだ、というのがエレミヤ書の言葉であり、マタイの文脈でも背景にある事実です。

[12] 「学びなさい」マセテ、弟子(マセーテース)の語源。弟子になる事が休み。

[13] この部分は、マタイ28章の終章とも重なることに気づくでしょう。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

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2020/9/20 ピリピ書4章6節「神は祈りに必ず応えます」ニューシティカテキズム39

2020-09-19 17:26:31 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/9/20 ピリピ書4章6節「神は祈りに必ず応えます」ニューシティカテキズム39

 夕拝では「祈り」についてお話しています。神に祈ることは、イエス・キリストが与えてくださった救いの大事な一面です。聖霊がイエス・キリストの救いを私たちに届けてくださることは、私たちが天の父なる神に親しく祈る恵みが大きく含まれています。祈りは、主イエスが下さった、私たちへの特別な贈り物です。祈らないなんてもったいないのです! ですから、私たちの祈りに対する態度も、それに相応しいものです。
第三十九問 どのような態度で祈れば良いのですか?
答 愛、忍耐、感謝をもって、神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて、神のみこころに謙虚に従って祈ります。

 祈りに相応しい態度は、まず「愛、忍耐、感謝」です。これは、案外、私たちは考えない態度かもしれません。でも、天地を造られた大いなる神様に祈れる。それだけで、恐れ多いことですね。しかもここにあるように「神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて」祈るのですね。自分の祈りなんか聞かれているんだろうか、神は本当に聞いて下さるんだろうか、そんな風に考えるのではないのです。キリスト・イエスが私たちを救って下さったのだから、神は私たちの祈りを常に聞いて下さる。神は祈りを必ず聞いておられる。そう信じるのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ書4章6節
 感謝をもって献げる祈りと願いを、神は知って下さいます。私たちの祈りは、神に聞かれる。そう約束されています。これは、本当に不思議な事です。私たちも人の話を聞くことはとてもエネルギーを使います。一人の話を聞くのも、簡単なことではありません。二人がいっぺんに話したら聞くのは大変。まして、五月蠅いところや、少し離れたりしたら、もう話を聞くのは難しい。神は、この宇宙よりも大きい方で、この世界の本当に本当に本当に……小さな地球に住む、小さな小さな小さな……私たち人間です。そして、世界には今八十億人ぐらいの人がいます。その八十億の人が、みんな違う願いを持っていて、それを同時に祈っていても、私一人の祈りを聞いて下さるのでしょうか。そんなことを思い煩わないでいいのです。神は、私たち一人一人の祈りを、もらさず聞いていて下さいます。この世界を支えている神は、必ず私たちの祈りを聞いて下さるのです。私たちの祈りが舌足らずで、しどろもどろ、うまく言いたいことが言えなかったとしても、神は私たちの祈りを確り聞いています。私たちが嘘やごまかしや、言い訳を並べても、神は私たち以上に本当のことをすべてご存じです。言葉を聴いているだけでなく、私たちの願いや思いや事情も全部、神はごぞんじです。世界の何十億の人の心を、神はもらさず知っておられ、一人一人にぴったりと寄り添っておられます。

 神は私たちの祈りを聞いて下さいます。それは、私たちが願ったように必ずなる、ということではありません。神は私たちの祈りを聞かれますが、神は神の御心を成し遂げられます。私たちは、自分の願いがどうしてもかなってほしいと当然思いますが、でも、神は私たちとは違う、そして、私たちよりももっと大きく素晴らしい願いを持っているものです。ですから、私たちは祈りを、自分の願いを押し通すためではなく、「神の御心に謙虚に従って祈ります」。神様の御心がなりますように。神様のご計画がなりますように。祈りは、神と取引したり、神を操作しようとしたりすることではありません。世界よりも大きく、そして、その神の前に本当に小さな人間すべての願いも漏らさず聞いておられる、大いなる神を、自分と対等な関係だと引き下ろしたらおかしな話です。

 神が私たちの祈りを必ず聞いておられる確信。そして、神の御心への謙虚な従順。それが、祈りにおける相応しい態度です。それを言い表すのが、この三つです。愛と忍耐と感謝。神が私たちを愛してくださっているのですから、私たちも神を愛しましょう。愛を忘れず、祈りましょう。自分の願いにおいても、祈る内容に愛をもって、また、愛することが出来るよう求めて、祈りましょう。そして、忍耐をもって祈りましょう。
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
Ⅱペテロ3:8

祈りとは待つことです。待つことが出来ない者は祈ってはいけません。

 すぐに答えられないからといって、諦めたり腹を立てたりしてはもったいない。神のタイミングに期待して、忍耐をもって祈り続けましょう。神のご計画は、長いのです。
 そして、感謝をもって祈りましょう。祈る時、私たちは自分の願いのことしか考えられないかもしれません。その祈りがかなうかどうかで、祈ること自体、神との関係自体が変わるように考えてしまいます。でも、本当に大きな悩みを祈っていると、どう祈れば良いのか、どうなってほしいのか、どうなることが一番いいのか分からなくなります。病気で苦しんでいる人が死にそうな時、死ななければ病気で苦しいまま生きていれば幸せなのか、死んだ方が楽だけど周りの人は辛くなるのがいいのか、本当にどうなることが最善なのか、分からなくなることが良くあります。そうやって祈っていくうちに、結局、私たちは感謝することしか出来なくなります。その人が今生きていること、今日まで生かされてきたこと、私がその人と出会えたこと、他の人にとっても大切な人であること…そうしたハッキリした神様の御業を思って、感謝するようになります。それと似たようなことが、いろいろな祈りにおいて起きます。感謝こそ祈りの態度です。

 愛、忍耐、感謝、そして神がキリストのゆえに聞いて下さると信じ、神の御心に謙虚に従う。これは、私たちのあるべき態度というよりも、神がどんなお方かを知るなら、当然じわじわとでも私たちの中に湧き上がってくる態度です。「こうでなければ祈りに相応しくない」と力まないでください。むしろ、神がどれほど確かな関係を下さっているか、神が必ず聞いてくださっているから、何も思い煩わなくてよいのだ、と知れば、力むことがなくなって、神様の前に出て、手も心も開いて、神に祈りを捧げることが出来るのです。そうです、祈りは献げるものです。願いも私たちの心も献げる事なのです。



「愛なる父よ、愛されるひとり子の御名によって私たちはあなたに近づきます。どうか祈りの答えがすぐに得られないときも、私たちの祈りに忍耐を与えてください。あなたが良いものを与え、私たちを害するものを遠ざけてくださることを信じ、信頼することができますように。あなたの道は私たちの考えを超越していますから、私たちはあなたの権威ある愛に信頼しつつ、祈り願い求めます。アーメン」
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2020/9/20 マタイ伝11章7~15節(1~19節)「受け入れる心が大事」

2020-09-19 13:56:24 | マタイの福音書講解
2020/9/20 マタイ伝11章7~15節(1~19節)「受け入れる心が大事」

 マタイの11章を二回に分けてお話しします。ここで話のきっかけになっている「ヨハネ」(洗礼者ヨハネ)はマタイの3章で登場してイエスの登場の準備をした人です[1]。その後、捕らえられて[2]、今日の2節では
「牢獄でキリストのみわざについて聞いた」
とあります[3]。イエスはご自分の周りに集まっている人たちに、ユーモアを込めてこう切り出されます。
7…「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
 葦を見たければ荒野ではなく、沼地や川辺に行けば良い[4]。群衆は吹き出したでしょうか。
8そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
 ヨハネは革の衣を着ていました。王宮のフワフワとした暮らしとは無縁でした。
9そうでなければ何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
 ヨハネは今牢獄に囚われています。かつての勢いは失われ、まもなく斬首されるのです。風に揺れる葦か、柔らかな衣を剥ぎ取られた人だと思えば、惨めです。しかしヨハネは、神から遣わされた預言者です。それも一預言者という以上に、神が約束されていた「使い」でした。
10この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前に道を備える』と書かれているその人です。
 これは旧約聖書最後のマラキ書3章1節と[5]出エジプト記23章20節の言葉です[6]。主なる神が預言者たちを遣わして語らせたのは、「どう生きるべきか」という生き方、道徳だけでなく、
 「主ご自身が使いを遣わされる」
-民を助け、救い出してくださる-道を備えて、神が恵みと正義をもって支配される神の国を必ずもたらす。それが聖書の語る「物語」の全体像です。
 そのストーリーで洗礼者ヨハネは、キリストを直接先触れする「使い」という意味で、
「預言者よりもすぐれた者」
 11節では
「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。」
13節では
「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした」
と言われる節目となる存在でした。そしてヨハネの露払いによって、キリスト・イエスが登場しました。「天の御国」の王としておいでになり、罪の赦しを語り、神を「あなたがたの天の父」として私たちを結びつけてくださいました。神の恵みの御支配が始まりました。ですから、洗礼者ヨハネが直前の、最大の先触れとして抜きん出ているとしても、本体である主が来た時、
「11天の御国で一番小さい者でさえ、彼[ヨハネ]より偉大です」。
 イエスの恵みの御言葉に人々が押しかけています。乾いた地が水を吸い込むように
「12激しく攻めて…奪い取る」
熱心ささえ見られます[7]。これは、神の物語の待ちに待った飛躍でした[8]。
 しかし
14節「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです」
と回りくどく言われています。人間に「受け入れる心」[9]がなければ、神の物語もイエスの御業も拒みます。どんな説得も「馬の耳に念仏」になるのです。16、17節で、子どもたちが笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式ごっこをしたのに泣いてくれない、というように[10]
18ヨハネが食べもせず飲みもしないでいると「悪霊に憑かれている」と人々は言い、19人の子(イエス)が来て食べたり飲んだりしていると、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言うのです。…」
 ヨハネやイエスをさえ、批判して欠点を論(あげつら)う。その一番奥にあるのは、「受け入れる思いが」ないという問題です。いくら証拠を並べられたり、イエスが人を癒やし、多くの奇蹟を行われても、どんなに信じるべきだと言われても、本人の中に「受け入れたくない、何とかして受け入れずに済ませたい。イエスが王である天の御国より、自分が王様でいたい」と駄々をこねる子どものように思っている限り、ヨハネやイエスが誰かなんて、無意味になるのです。
…しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。
 捕まったヨハネも、馬鹿にされるイエスも、知恵が無かったのではない。イエスの知恵は、取税人や罪人の仲間となり、貧しい者たちに福音を伝えたことでした。「天の御国で一番小さい者でさえ、ヨハネより偉大です」と言われたその第一は、イエスが一緒に食べたり飲んだりしてくださった取税人や罪人たちですね。自分を握りしめ、イエスを王として受け入れずに済ませたい人が多い中、イエスが私を受け入れ仲間にしてくださった。一緒に祝い、喜んでいる。そういう嬉しい交わりが社会の鼻つまみ者の中で始まっていた。それが、主の知恵の正しさの十分な証明でした。それで馬鹿にされても、主イエスは貧しい者、蔑まれている人の仲間となる道、最後は十字架と復活に至る道を選んで、私たちを受け入れてくださったのです。
 今も教会は主の聖晩餐によって、この主の不思議な御国を祝い続けます[11]。「受け入れる心」を持たない人を何とかして変えようとするよりも、私たちが今ここで「受け入れる思い」を戴いて、礼拝に集まること自体、主の御業です。この主からの思いを大事にしましょう[12]。その事を証しして、聖餐の食卓を喜び囲むのが、私たち教会なのです[13]。

「主よ、あなたは御国の王として来られ、私たちをここに集めてくださいました。計り知れない恵みを戴きながら、私たちの目は鈍くなり、目移りをしかねませんが、主よ、どうか「受け入れる心」を支えてください。あなたの御言葉に聞き続けさせてください。分からないことは多くありますが、それでもあなたが私たちを招き、生かし、罪の赦しと新しい命に預からせてくださった幸いに、立ち続けさせてください。主の食卓を囲む教会として整えてください」

風にそよぐ葦

脚注:

[1] マタイ3章1~6節。洗礼者ヨハネも元には、イエス以上に多くの人が集まっていたようです。

[2] マタイ4:17。

[3] このヨハネについて教えながら、そのヨハネもイエスも受け入れない時代の罪を指摘して、最後にはあの有名な「28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉に収斂していくのがこの11章です。

[4] 「葦」についての諸説もありますが、いくつかご紹介しましょう。「ヨルダンの渓谷にはヘロデの要塞マケルスがありました。「風にそよぐ葦」ということがここに出てくる理由は、ヘロデ・アンティパスが自分の鋳造させた硬貨に、そのヨルダン渓谷にある葦を刻ませていたからです。ヘロデ・アンティパスを皮肉ってあの弱い葦と呼んでいるわけです。」(シスター今道瑤子の聖書講座 第23回 マタイ11章1~42節)、「パスカルの「人間は考える葦」であるは、ここから来ています」https://fem-for.ssl-lolipop.jp/roseaux/9/ 、「揺れる葦は、意見を変える人間の姿を現している」風に揺らぐ葦

[5] マラキ書3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。」4:4「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。5見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」マラキ書の予告も、メシアが来る、その前に預言者エリヤの再来がある、というだけでなく、それを迎える主の民を整える、という面が大きくある言葉です。

[6] 10節の言葉はマラキ書だけでなく、出エジプト記でも出てくる言葉です。そこでは主の戒めの真ん中にこの言葉が出て来ます。出エジプト23:20「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、彼はあなたがたの背きを赦さない。22しかし、もしあなたが確かにその声に聞き従い、わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となる。」この使いは、神の民を救う、という以上に、神が人に示してくださる律法に叶った生き方をするよう、私たちの心や生き方を整えてくれる「使い」なのです。

[7] この場合の「奪い取る」は天の御国を壊すというよりも、何とかして自分もそこに入る、という意味でしょう。

[8] ヨハネが獄中から動けず、働きを終えようとしていることは、実は、ヨハネが最後の預言者として、イエスにバトンタッチをし終わり、天の御国が始まったという前向きな証しに他ならなかったのです。

[9] 「受け入れる」デコマイ マタイに10回も使われているキーワードです。10:14、40*2、41*4、18:5*2。

[10] 16~17節「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。17『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』 「笛吹けど踊らず」とは通常、こちらが一生懸命やっているのに着いてきてくれない、という意味で使われるが、ここの本来の意味は、「笛を吹いても踊ってくれない」と身勝手な事で相手を振り回し断罪する態度への批判。

[11] 19節の「しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します」という言葉は、5節(イザヤ書35章5-6節、61章1節の引用)と共鳴しています。「5目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」この締めくくりは「福音が伝えられています」です。私たちが福音を聴いている。イエスが語っている御言葉の世界を受け取って、今この礼拝に参加している。死人が生き返る以上に、貧しい者が福音を聴くこと(イザヤ35:5)がメシアのしるしなのです。貧しい者が、自分たちを治める王メシアを仰ぐ。自分たちを支配しているのは貧しさではない、富裕者でもない、運命でも、偶然でも、死でもなく、キリスト・イエスだ、と知る。それこそが福音であり、聖書の約束してきた将来像です。

[12] 笛を吹いても踊ってくれない、祈っても応えてもらえない、願っても叶わない、色々なツッコミ所はあるにしても、それでも私たちが「受け入れる思い」をもってここに集まっている。それ自体が、イエスが本当に王である、約束されたメシアである、天の御国が始まったという偉大な証しなのです

[13] 私たちは自分を省みても、自分が王様になろう、御言葉を受け入れたくない思いがあることに気づいて、謙虚になる必要があります。主を主として、自分が王や支配者で操作したい思いを手放すことは、生涯続くプロセスでもあります。しかし、そのプロセスの中に入れられている恵み、私たちが既に御国の中に入れられている事実を過小評価してもならないでしょう。

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2020/9/13 マタイ伝10章37~42節(24~42節)「一羽の雀さえも」

2020-09-12 12:09:47 | マタイの福音書講解
2020/9/13 マタイ伝10章37~42節(24~42節)「一羽の雀さえも」

 「一羽の雀でさえ」とは29節にある言葉です。37~42節には出て来ませんが、今日は10章の後半全体を見ていきます。十二使徒を最初に派遣するに当たって語られた説教の後半です。その流れの中で、37~39節のような厳しい言葉を理解することを大事にしたいのです[1]。ここでイエスは、派遣する使徒たちに、ご自分との不思議な、強い結びつきを約束しています。
24弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上のものではありません。25弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
 ひどい呼び方をされても、反対されても殺されるとしても、主イエスはわたしも反対された、ひどい呼び方をされた。だから、あなたがたも同じ反対を受けるのだ、と仰有います。だから、
26ですから彼らを恐れてはいけません。…
という励ましです[2]。この
「恐れてはいけません」
が28節でも31節でも繰り返されています。これこそイエスがこの章で最も繰り返されている事です。この「恐れない」姿勢。その上、
28からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
と大胆なことが言われます[3]。人はせいぜい身体を殺すだけ、とはぎょっとします。でも人は死んでも、そんなことでその人の命は終わりにはならない、とは目から鱗の言葉でもあります[4]。しかも、「魂も身体も滅ぼすことが出来る方を恐れなさい」に続くのが雀の話なのですね。
29二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
 雀(小さな鳥)は二羽数百円で売られている[5]。一羽では値段もつけられない小さな命です。しかし、そんな鳥の一羽一羽も、天の父は慈しみを込めて生かしてくださっている。
30あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
 自分でも何万本あるか知らない、数えようもないその一本一本さえ天の父は数えています。
31ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
 嬉しくもないかもしれません。あまりに真剣で、必死すぎて、それこそ小さな鳥になど目を留めない人には、
 「多くの雀より」
なんて面白くもない譬えです。でも天の父は小さな雀一羽一羽にも慈しみを注いでやまない。まして天の父は、既にあなたがたをどれほど尊く思っておられるか。人は、自分が何も恐れない強さ、堅い意思を持てば、価値を認めてもらえる、と考えがちですが、神はもう私たちを価値あると見ておられる。罪を赦して、天の父となり、我が子として愛おしんでくださる[6]。それがイエスの始めた神の国です。だからそれを宣べ伝える弟子は、何よりも恐れないのです。深刻さから解放されるのです。小鳥の一羽、髪の毛一本も、神が一つ一つ覚えている証し、神は私たち小さな者を尊んで、水一杯も喜ばれるお方です。
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。…
42まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」
 この時の十二弟子はまだまだ未熟です。その小さな弟子たちでも、イエス様のお弟子だから、と冷たい水の一杯でも飲ませるなら、必ず報いがある。イエスご自身に、はたまた天の父ご自身に、水を差し上げたように報われる。それほどの事が言われている。私たちも自分は
「この小さい者たちの一人」
にも過ぎないと思うかもしれない。でも、その私への水一杯も、神はご自身への親切として報われるというのです[7]。人を滅ぼすことも出来る方が、滅ぼす所かこんなにまで私たちを愛し、恐れなくて良いと言ってくださっている。これがイエスの言葉です。

 こうした確かな約束を味わえば、この10章で散見される厳しい言葉も意外ではありません。人はせいぜい命を脅すことしか出来なくても、神は命を与え、祝福してくださっています。この神を捨ててでも家族や自分を大事にしようとするなんてあり得ない[8]。この告白が、波風を立たせることになるとしても、それでもイエスは私たちを天の父からの豊かな恵みの中に立つよう招かれます[9]。こんな爆弾発言も辞さない程の関係を主は既に与えてくださったのです[10]。

 一羽の小さな雀さえ愛おしまれる方は、まして私たち一人一人を尊ばれます。小さな私たちの恐れや心配以上に天の父は約束されます。
「恐れなくて良い、わたしがあなたとともにいる」
 この約束に支えられて、家族や自分以上に主を愛して、主についていくのです[11]。自分も家族も、鳥も、一杯の小さな水も、この神が慈しんでくださっている。私たち以上に慈しんでおられるからです。このいのちの言葉を携えた証し人として、ここから遣わされていくのです。

「天の父よ。あなたが私たちをどれほど愛し、値高き者と見ておられるか、まだまだ疑い、理解できず、値引きしてしまう私たちです。どうぞ、天地もゲヘナも御国も支配しているあなたに、愛され、生かされている恵みを確信させてください。それ故に、何をも恐れず、命の限りあなたを証しさせてください。そして、あなたをますます愛することにより、父や母、家族をますます愛することが出来ますように。そうして私たちをあなたの御業の証しとしてください」

脚注:

[1] ここだけを切り取って、キリスト教は父や母、家族を大事にしない教えだ、と言うことも出来るでしょう。しかし、使徒ペテロは「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです」(Ⅰテモテ5:8)という、これこそもっと驚くべき言葉を言っています。

[2] ここで主イエスは、派遣されていく弟子たちに、予想されるのが、反対や憎しみ、迫害であることを覚悟させました。裁判にかけられたり、家族からも捨てられたり、命を守るため別の町にためらわずに逃げることも予告されたのです。でもそれは、主イエスご自身のお姿でもありました。主イエスこそ、人々から迫害され、裁判にかけられ、殺された方です。しかし、その反対のただ中でこそ、キリストの真実、赦しと愛、復活と希望は力強く証しされたのです。

[3] ゲヘナとは、「ヒンノムの谷」の原意で、都エルサレムのゴミ捨て場でした。そこから転じて、将来、神に背いた人が捨てられて滅ぼされる場所、という意味に用いられるようになりました。

[4] ギリシャ語プシュケー。マタイで16回、「たましい」「いのち」「心」などと訳されて使われています。特に、新改訳2017では、22:37の「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」が、かつての「思いを尽くして」を「いのちを尽くして」と訳し変えた変更を指摘したいと思います。この他にも、マタイがプシュケーを「いのち」という意味で使っていることを考慮すると、「霊魂だけがかろうじて生き延びる」というよりも「あなたがたのいのちは、身体を殺されても決して滅ぼされることはない」という大胆で積極的な意味に理解したほうが筋が通りますマタイ2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」、6:25「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」、10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」、39「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」、11:29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」、12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」、16:25「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」、20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」、22:37「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」、26:38「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたし[直訳:わたしのいのち]は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

[5] 聖書の時代の「アサリオン」は、小さい方から三番目の通過。最小のレプタの八倍、次のコドラントの四倍です。一羽では売られないぐらい、雀の価値は小さかったのでしょうか。また、ここでは「二羽の雀が一アサリオン」なのが、ルカ12:6では「五羽の雀が二アサリオン」ですから、四羽買うと一羽オマケしてくれたのでしょうか。それぐらいの小さな価値の鳥も、父は目に留めてくださっています。聖書の貨幣については、こちらのサイトを参照。 http://www.nunochu.com/glossary/kahei.html

[6] 天の神は、人の身体も魂もゲヘナで滅ぼすことが出来る方ですが、その方が、私たちを滅ぼしたり、検査して裁いて、脅すとか、だからその方を恐怖しなければならないと言うかと思えば、その方が、この地の鳥や、私たちの頭の髪の毛も慈しみ、丁寧に扱っていることをイエスは語るのです。

[7] これは、25章31~46節の「羊と山羊のたとえ」でも言われるメッセージに通じます。

[8] 神の一方的な愛は、神を知らない世界では意外すぎて、目障りだったり疎まれたり、反対されます。神の愛への確信なんかねじ伏せよう、黙らせようと、四方八方から反対されるかもしれません。イエスが平和をポーンと投げ込んでくれるかと思ったら、むしろ厄介になる場合もあるのです。

[9] 34~36節「わたしが来たのは地上に平和をもたらす[欄外、直訳:投ずる]ためだと思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。35わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。36そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」 この言葉は、ミカ書7:6の引用です。ミカ書7章5~7節「あなたがたは友を信用するな。親しい友も信頼するな。あなたの懐に寝る者からも、あなたの口の戸を守れ。6子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。7しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。」 イエスが初めて仰有った言葉というよりも、ミカ書の預言していた言葉として、彼らは思い出したはずです。また、13節とどう関係するか?

[10] この言葉をはじめ、本章の厳しい言葉は、「命令文」ではなく、叙述文として書かれています。弟子たちに対する命令や、従う上での「条件」ではなく、主イエスご自身の宣言です。この誤解を整理するだけでも、楽になれる信徒は多いのではないでしょうか。

[11] 38節に「十字架を負って」とあります。マタイで初めて出て来た十字架です。当時の残酷極まりない処刑道具です。その十字架を負う、というのは強烈な言葉です。しかし、続けて「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」とある通りです。神が私たちの天の父となってくださった、それが私たちの土台だと知る時、私たちはもはや自分の誇りとかこれが自分の命だと思っていた者を担いで行く生き方とは真逆の生き方こそ、命だと気づきます。自分の救いのためにあくせく働き、神と取引をするような考えから、神の救いに信頼して、いわば自分の救いなどどうでも良くなります。主のおかげで、自分のいのちも握りしめなくなる。それこそが、主イエスご自身が見せて下さった歩みに似た、いのちを戴いた、救われた者の、何も恐れない、自由な姿なのです。それは私たちの力や努力によっては出来ません。37~39節は、命令というよりも「ふさわしくない」という教えなのです。

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2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

2020-09-05 12:25:42 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

 神は私たちを救うため、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエスは、十字架に命を捧げて、三日目に復活されて、天に帰られました。そして、私たちに聖霊なる神を遣わしてくださって、私たちは神からの救いをいただきます。その救いとは、何より神との関係の回復です。ですから、聖霊が私たちに下さる恵みの最大の二つは、私たちが祈ることが出来るようになること、そして、聖書の御言葉を理解できるようになること。この二つです。今日から、祈りについてお話しします。しかし、祈りについて私が話し、皆さんが聴く、という事だけで終わらず、皆さんの毎日の生活の中で、祈ってください。神に祈ることが出来る、祈ってよい! 私たちの祈りを聴いて下さり、待っていて下さる神がおられる。それは、皆さん一人一人が、祈ることで覚える恵みです。そのために、今日から「祈り」についてお話をします。

第三十八問 祈りとは何ですか? 
答 祈りとは私たちの心を、賛美、嘆願、罪の告白、そして感謝によって神に注ぎ出す事です。

 祈りって何だろう? 何を祈ればいいか分からないから祈れない。そう思う人は多いでしょう。ですからここに祈りの四つの要素が書かれています。賛美、嘆願、罪の告白、感謝です。これは、私たちが神に祈るときの四つの内容です。
 まず「賛美」。神の美しさ、素晴らしさ、偉大さ。神が世界を造られた御業や、造られた世界に現された知恵や不思議さ。また、神の真実や、御言葉の確かさ。私たちへの愛、主イエスの福音の尊さを褒め称えることです。たとえ、願いや引っかかっている疑問があっても、この世界そのものが、私たちの理解を超えた神の偉大さを現しています。私たちの存在や生きていること自体が、神の手の業による、奇蹟です。そして、この世界の苦しみの底にまで来て下さり、十字架の苦しみを引き受けられた、御子イエスの恵みがあります。イエスは復活して今も生きて、治めておられます。神を賛美するに相応しい方であると崇める思い。これは、私たちが神に祈るときに欠かせないことです。そして、神を賛美する理由は、決してつきることがありません。
 その次に「嘆願」。私たちの願いのため、必要のため、自分だけでなく、家族のため、地域のため、国家のため、世界のため、貧しい人、苦しむ人のために、神が助けてくださり、憐れんでくださるよう祈ります。心にある小さな願いや、大きな心配事。私たちの生活にも、この世界にも、願う必要のある問題はたくさんあります。心を痛めることがあれば、すぐに「神様、このことを助けてください。あの人を救ってください」。具体的に自分の思いを祈りましょう。願いを神に捧げましょう。
 三つ目は「罪の告白」です。自分の過ち、思い上がり、私たちの中には何かしら、後ろめたいことがあるものです。また、神を神としない、自分が神のようになってしまうこと、人を踏みにじったり妬んだりぞっとするような思いを抱くことは絶えません。その自分の非を、謙虚に告白しましょう。私たちの罪のために、主イエスは十字架に死んでくださいました。その事実をもう一度思い起こして、自分の罪を告白しましょう。
 最後は「感謝」。神の恵みが私たちに注がれていることに感謝します。願いが聞かれたことも感謝でしょう。願いが聞かれなくても、違う恵みに気づかされます。いつも神がともにいてくださる恵みがあります。自分を支えてくれる家族や友人も恵みです。今あること、ここまで十分にあった恵みに、心から感謝する。これも祈りに相応しい、大切な要素です。神を自分たちの願いのためだけの小さな神に引き下ろすことを止めて、既にある恵みを覚えるのです。感謝することが難しい時は、「感謝できる事に気づけますように」と祈ればいいのです。感謝のある心になることは、大きな恵みです。

 さて、この四つの要素は祈りの手がかりです。ただ、神に賛美と嘆願と罪の告白と感謝を捧げることが祈りなのではありません。最も大事なのは
「私たちの心を神に注ぎ出すこと」
です。心にもない賛美や願いをささげても、それは祈りではありません。心にもない罪の告白や感謝をどれほど立派な言葉で唱えても、それは神が求めている祈りではありません。神が求めているのは、流ちょうな祈りや、敬虔そうな褒め言葉や感謝ではありません。もし、神がそんなものを求めているのだとしたら、誰かの立派な祈りを録音して、ずっとプレーヤーから流し続けておけばいいかもしれません。でも、神は、そんなものなど求めません。神が聖霊を遣わしてまで、私たちに下さったのは、私たちが神を心から信頼して、自分の心を神に注ぎ出すことです。
詩篇62篇8節「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」

 でも、いきなり心にあることを神に祈る、というのは難しいものです。その時、先の四つの要素が助けになります。賛美、嘆願、罪の告白、感謝。この四つを、手がかりにしていくことで、私たちは自分の心にあるモヤモヤとした思いを神に祈る事が出来ます。人の書いた祈りの文章を通して、自分の言いたいことを言葉にすることが出来ます。どう祈ればよいか分からなかったことが、ああ、自分の心にあったのは、賛美だったんだ、感謝だったんだ、願いだったんだ、罪の告白がしたかったんだ、と気づかせてもらえるのです。
 嬉しい事だと思います。私たちの心にあるのは、神への賛美、嘆願、感謝なのだと気づけることは。また、この私たちの心にある思いをすべて、神に注ぎ出せば、神が受け取ってくださる、という事は。

 箴言16章1節にこうあります。
人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。
 私たちの心には色んな計画があります。将来のことも、今晩のことも、何かしら企んだり予測したりしているものです。それを、舌に上らせる、つまり言葉にして祈って見ると、その自分の計画、企みがどんなものか、祈る中で主が(聖霊が)導いて、教えてくださいます。心の中にあるものを、祈ることで私たちが知っていき、それを主にお委ねしていくことが出来るのです。正直に、そして、主への信頼をもって、祈りましょう。

「我が偉大なる避け所、私たちを祈りに招いてくださり感謝します。あなたは遠くにおられません。私の近くにいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださいます。どうか、絶えず、あなたの御前に私たちの心を注ぎ出すことができますように。偽らず、私たちの本当の姿であなたの恵みの御座に近づくことができますように。アーメン」
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